次週主日礼拝 2024年9月15日
聖霊降臨節 第18主日
招き 前奏
招詞 詩編111編 1~2節
頌栄 539
主の祈り (交読文 表紙裏)
讃美歌 24
交読文 32 詩編121編
旧約聖書 エゼキエル書 28章24節 (P.1342)
新約聖書 コリントの信徒への手紙二 12章1節~10節(P.303)
祈祷
讃美歌 392
説教
「大いに喜びて我が弱きを誇らん」 小河信一牧師
祈祷
讃美歌 312
使徒信条
献金
報告
讃詠 546
祝祷
後奏
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2024年7月21日「永遠の命に至る食べ物のために」
列王記上17章8節~16節
ヨハネによる福音書6章22節~27節
※今回はレコーダーの不具合により説教音声はありません。申し訳ありません。
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〈説教の要約〉
2024年 9月8日
旧約聖書 イザヤ書 52章2節(P.1148)
新約聖書 マルコによる福音書 5章35節~43節(P.70)
説教の構成――
序
Ⅱ なぜ、あなたがたは泣き騒ぐのか ……マルコ5:37-39
Ⅲ 少女よ、さあ、起きなさい ……マルコ5:40-41
Ⅴ 少女はすぐに起き上がって、歩きだした ……マルコ5:42-43
序
主イエスは、今のイスラエル北部、ガリラヤ湖畔を巡り歩いて伝道しておられました。主イエスは安息日、礼拝をする時には、会堂に入って聖書朗読や説教をされました(マルコ1:21、3:1)。また主イエスは、人の家に招かれて、神の教えを説いたり、病人を癒やしたりされました(同上1:29-31、2:1-12)。時には、食事でもてなされることもありました。
その上、主イエスは路上でも多くの人々と出会われました。土地の人々はしばしば、町から村へ、山辺から海辺へ、忙しそうに歩いている主イエスの姿を見かけるようになりました。時には、大勢の群衆が主イエスに押し寄せて、遠巻きに眺めるしかないこともありました。
或る日、主イエスは湖のほとりで、会堂長ヤイロに呼び止められました。「幼い娘が死にそうです」(マルコ5:23)ということで、主イエスはヤイロと一緒に、彼の家に向かわれました。
ところが図らずも、その途上で、主イエスは重い病気の女性と出会われました。そこで、彼女の病気を癒やすと共に、信仰を授けられました。それは、神によって救われたと、一生涯信じ、平穏に暮らすということでありました。
確かに、大勢の群衆が主イエスの周りに押し寄せて来ている中で(マルコ5:24)、誰を最優先するのか、判断するのは困難です。ヤイロは、主イエスがその女性と会話されるのを、やきもきして見守っていたに違いありません。
中断はしばしば、わたしたちの人生の方向を変えることがあります。一方それが、良い休養となって、新しいアイデアが浮かんで来ることがあります。他方、突如中断されて、緊張の糸が切れ、あきらめや絶望に心が支配されることもあるでしょう。
ここで主イエスは、ヤイロが遅延にいらつき、希望を捨てないように、彼に寄り添っておられました。考えようによっては、主イエスにおいて、12年間の病のどん底から人間を立ち上がらせる神の力が実証されたのは、順番待ちの人々によっても幸いでした。というのも、忍耐強く、待ってみようという余裕が湧いて来るからです。
なおも、出血が止まり癒やされた女性との会話が続いている時に……
Ⅰ ただ信じなさい
マルコ福音書5:35-36――
35 イエスがまだ話しておられるときに、会堂長の家から人々が来て言った。「お嬢さんは亡くなりました。もう、先生を煩わすには及ばないでしょう。」 36 イエスはその話をそばで聞いて、「恐れることはない。ただ信じなさい」と会堂長に言われた。
「お嬢さんは亡くなりました」との訃報に接して、父親のヤイロは青ざめたことでしょう。そして、彼の家の者は追い打ちをかけるように、「もう、先生を煩わすには及ばないでしょう」と告げました。このひと言は、ヤイロを打ちのめしました。というのも、ヤイロは、「足もとにひれ伏して」懇願するほどに(マルコ5:22)、主イエスに依り頼んでいたからです。
ヤイロは、瀕死の娘(マルコ5:23)のいっさいを主イエスに託するという覚悟であったはずです。それが、「もうお世話にならなくていい」と人から言われてしまったのです。
「もう、先生を煩わすには及ばないでしょう」……主イエスにひれ伏す思いを持っている人と主イエスとの関係が切れそうになっています。娘の夭折によって、一時的にせよ、その関係が揺らいでしまうのは、誰しも非難できないことでしょう。
しかし、結論的に言えば、主イエスを大いに「煩わせて」善いのです。主イエスは、わたしたちが罪と病と死の淵から、助けを呼び求めるのを待っておられます。それが、忘れられない、神との出会いになるように、主イエスは導かれます。そうして、「わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです」(ローマ14:8)との信仰告白に至るのです。
イエスはその話をそばで聞いて、「恐れることはない。ただ信じなさい」と会堂長に言われた……即座に主イエスは、ヤイロが「その話」を真に受けないように、介入されました。「その話」が偽りだと言うのではなく、「その話」はまだ経過途中であるということです。
「恐れることはない。ただ信じなさい」……救い主なるイエスから、適確な勧めが動揺しているヤイロに投げかけられました。
ヤイロは、「お嬢さんは亡くなりました」とのひと言が頭から離れません。闇の世界に突き落とされました。もはや、ヤイロの視界からは、主イエスも、重い病が癒やされた女も消え去っていたことでしょう。
そんな中、「恐れることはない」との主イエスの言葉が耳に入って来ました。ヤイロは主イエスに、心配や不安をあずけることにしました。それに、息絶えて様変わりしたのかどうか、その娘の姿を見て確かめたわけではないのですから。
「ただ信じなさい」……主イエスはヤイロを、「生きるのも、また、死ぬのも、主のために」という信仰に招き入れようとしておられます。ヤイロに求められているのは、「イエスを見ると足もとにひれ伏して、しきりに願った」(マルコ5:22-23)という姿勢に立ち返ることです。主イエスに向き合う、その姿勢が崩されないように、自分の外から注がれる “ 霊 ” に助けを求めることです。
ヤイロの家へ急ぐ途上での〈病気の癒やしと救いの宣言〉は完了しました。主イエスは、つかの間の遅延を乗り越えて、幼い娘の死という難題に立ち向かわれます。
Ⅱ なぜ、あなたがたは泣き騒ぐのか
マルコ福音書5:37-39――
37 そして、ペトロ、ヤコブ、またヤコブの兄弟ヨハネのほかは、だれもついて来ることをお許しにならなかった。38 一行は会堂長の家に着いた。イエスは人々が大声で泣きわめいて騒いでいるのを見て、39 家の中に入り、人々に言われた。「なぜ、泣き騒ぐのか。子供は死んだのではない。眠っているのだ。」
主イエスは、弟子の中から「ペトロ、ヤコブ、ヨハネ」を選び出して、態勢を整えられました。神の “ 霊 ” 的な御業は見せ物ではありません。主イエスと言えども、集中力高め、祈りをもって取りかかられます。
「会堂長の家から」の使者が「お嬢さんは亡くなりました」、と言った通りでありました。そこには、ガリラヤ地方の葬祭儀礼が繰り広げられていました。「イエスは人々が大声で泣きわめいて騒いでいるのを見て」との一文から、主イエスが喪に服している人々の悲しみを受け止められたことが分かります。主イエスは大きな嘆きに包まれた家のただ中で、“ 霊 ” 的な御業を現されます。
「なぜ、あなたがたは泣き騒ぐのか。子供は死んだのではない。眠っているのだ」……「眠っている」だけだから、安心しなさいという趣旨ではありません。「わたしは、泣き騒いているあなたがたのもとにやって来た。わたしがどんなことを眠っている娘に行うか、しかと見届けなさい」ということです。
主イエスはこれから、あたかも少女が夜昼、「眠り、そして起きる」ように、死から生へと彼女を立ち上がらせます。「夜も昼も」(マルコ4:27、5:5)、神の恵みはわたしたちに与えられています。眠っている少女が呼び起こされます。わたしたちにとって大切なのは、極めて日常的な出来事の中で、十字架につけられて死に、三日後によみがえられた主イエス・キリストが、悲嘆のどん底にいる人々に関わっておられるということです。
マルコ福音書5:40-41――
40 人々はイエスをあざ笑った。しかし、イエスは皆を外に出し、子供の両親と三人の弟子だけを連れて、子供のいる所へ入って行かれた。41 そして、子供の手を取って、「タリタ、クム」と言われた。これは、「少女よ、わたしはあなたに言う。起きなさい」という意味である。
「人々はイエスをあざ笑った」との描写は、他所者への拒絶を現しています。人々は葬祭の鎧を付けて、主イエスを跳ね返そうとしています。何事も常識で振る舞おうとしている人間ならば、退却するしかありません。衆人から嘲笑を浴びている場面から、一刻も早く逃げ出したいことでしょう。
主イエスは、「子供は死んだのではない。眠っているのだ」との言葉尻をとらえる人間にかかずらってはおられません。「しかし、イエスは皆を外に出し、子供の両親と三人の弟子だけを連れて、子供のいる所へ入って行かれた」。
主イエスはあたかも「悪霊を追い出す」かのように(マルコ1:34,39)、「皆を追い出し」ました。というのも、「悪霊」ならびに「悪霊に取りつかれた人」(同上5:16)には、神の力の働く聖なる御業を妨害しようと習癖があるからです。
「子供の両親と三人の弟子だけを連れて」との一句には、主イエスの優しい気遣いが表されています。ペトロをはじめ「供の者たち」は、後々までの証言者として招き入れられています。
もはや、「もう、先生を煩わすには及ばないでしょう」との、慇懃な断絶宣言は、遙か向こうに飛び去りました。主イエスの介入は頂点に達します。
そして、子供の手を取って、「タリタ、クム」と言われた……「タリタ、クム」という言葉(アラム語)は、少女はじめその場にいる人々にとって、生涯忘れられない言葉となりました。毎朝、「○○よ、さあ、起きなさい」との御声と共に、彼らは活動しはじめます。
主イエスは「子供の手を取って」というように、幼い娘の介助をされました。その接触により、主イエスの「内から力が出て行って」(マルコ5:30)、娘の身体全体に行きわたりました。その背後には、父親の祈りがありました……「どうか、おいでになって手を置いてやってください」(同上5:23)。彼が「イエスの足もとにひれ伏して」、切に願ったことが実現されました。
「子供のいる所」に、その部屋中に、キリストの行いと言葉による御力が充満しました。その結果へと進む前に、旧約において、主なる神がどのように「捕らわれの娘シオン」に寄り添われたのか、見てみましょう。
イザヤ書52:2――
紀元前六世紀後半の頃のことです。ユダヤの民は目下、国家滅亡とバビロン捕囚からの回復をめざしているところです。
一方、捕囚の民は異国での生活が長引き、あきらめムードに浸っています。エルサレム神殿の再建の話を聞いても乗り気になれません。何しろ、暑い砂漠を通る帰還の旅には、命がけの困難が伴います。ならば、このままバビロンの流れのほとりに、定住し続けようか、となります。
他方、エルサレムに残留した人々にはまた、それなりの心労がありました。それは現実に、破壊され荒れ果てた都エルサレムを目の当たりにしているということです。希望よりも絶望がより多く生み出されていました。神の罰を受けて破壊されたものを直視せよ(エレミヤ書36:31)との厳しい声と共に、実際、再建を妨害する周辺住民もいます(エズラ書4:1-5)。
そのように、国の内外でにっちもさっちもいかない状況に陥っていました。神はそこに第二イザヤを遣わされました。聞く耳を持たない民の心を打ち開く言葉が語られます。それは、神の知恵に満ちた、美しい詩になっています。
「立ち上がって塵を払え」……この「塵」には深い意味が込められています。この「塵」に、ユダの民の挫折と絶望がまとわり付いています。というのは、「塵」はまさに、瓦礫となった「エルサレム」または「シオン」を象徴するものだからです。
神殿はじめエルサレムの人家は、外敵によって略奪され、指導者たちは異国へ連行されました。多くの人々が喪に服するかのように、「嘆きの声をあげ、衣を裂き、天に向かって塵を振りまき、頭にかぶり」ました(ヨブ記2:12、哀歌4:5)。残留した人々は死んだも同然の苦悩を味わっていました(エレミヤ書8:3、ヨハネ黙示録9:6)。
詩の第一声、「塵を打ち払いなさい」……この命令が、挫折と絶望のまみれた「塵」を掃き清める力の無い者に下されました。言い換えれば、それは、主なる神が「エルサレム」から「塵を打ち払う」のを約束されたということです。なぜなら、今「エルサレム」は「捕らわれ」の状態にあって動き出せないからです。
付け加えれば、「エルサレム」や「シオン」との呼称は、擬人法で、都の住民を指しています。この呼称にさらに、「娘」または「おとめ」(哀歌2:10)が添えられているところに、神の憐れみが表されています。
それから次に、「立ち上がりなさい」との命令が下されました。つまり、「頭に塵をかぶり、灰の中で転げ回る」(エゼキエル書27:30)ほどに、悲しんでいる人々に、「起き上がるように」との告知が向けられたということです。当然、主なる神は彼らの「手を取って」、立ち上がる力を彼らに注ぎ入れられます。
第二イザヤの預言は、主イエスによって受け止められました。なぜなら、「塵を打ち払いなさい」ならびに「立ち上がりなさい」との命令かつ約束が、ガリラヤ湖畔の喪中の家で、主イエスによって成し遂げられました。預言に託された神の企図は、中断で揉み消されることもなく、また、遅延で切り捨てられることもなく、幼い娘を救出する際に実行に移されました。
主なる神は、異邦人を含めて(イザヤ書51:5、55:4)、ユダヤの民が一つのなることを望んでおられます。「娘」や「おとめ」が成長して自立できるように、「首の縄目を解かれ」ます。
Ⅴ 少女はすぐに起き上がって、歩きだした
マルコ福音書5:42-43――
42 少女はすぐに起き上がって、歩きだした。もう十二歳になっていたからである。それを見るや、人々は驚きのあまり我を忘れた。43 イエスはこのことをだれにも知らせないようにと厳しく命じ、また、食べ物を少女に与えるようにと言われた。
「少女はすぐに起き上がって」……この「すぐに」は、出血の止まらなかった娘が癒やされた時の様子と合致しています……「すると、彼女はすぐ出血が全く止まって病気がいやされたことを体に感じた」(マルコ5:29)。ここに、神の御業が主イエスにより、「娘」二人に現されました。今か今かと救いを待ち望んでいる人も、この「すぐ」に期待を寄せることができます。
ここに、ガリラヤ湖畔を巡回する伝道が確立されました。主イエスは路上でも多くの人々と出会ってくださいます。それならば、大勢の群衆が主イエスに従い、押し迫っている中でも、自分の時を待つことができます。主イエスの目には、一人ひとりが「捕らわれの娘シオン」のように、「価高く、貴い」存在なのです(イザヤ書43:4)。
「彼女は歩きだした。もう十二歳になっていたからである」……幼い娘の将来に、幸多かれ、という祈りが湧いて来ます。少女は現実に罪や病に突き当たり、そこで集積されていく経験や思索を通して、自らの考えを深めていくことでしょう。聖書に明記されてはいませんが、彼女はその後、どうなっていくのでしょうか?
結
「主イエスがあなたの救い主です」……少女は「十二歳」の時に、主イエスによって「立ち上がらされた」体験を繰り返し思い起こすに違いありません。両親(マルコ5:40)は娘に、目撃したこと、また、自分たちの悲嘆や歓喜について語り聞かせたことでしょう。そして、差し出された「食べ物」を元気よく食べたことも……。主イエスに「ただ信じなさい」(マルコ5:36)と命じられた父が見守る中で、彼女は成長していきました。
さらに、もう一人の「娘」、12年間重い病に苦しんでいた女と巡り会って、主イエスの御業を共有したかも知れません。それに、「それを見るや、人々は驚きのあまり我を忘れた」という或る一人が、その日、同時に起こった、出血を癒やされた女の出来事を彼女に教えてくれるということもあり得たでしょう。
いずれにしても、「十二歳」の少女にとって、主イエス・キリストによる救いが人生の基盤になりました。彼女は一家の危機を乗り越えた父母と、会堂に集う人々に囲まれて育っていきます。そこは、カファルナウムを伝道拠点とされている主イエスにとって重要な会堂です。
カファルナウムは、神の裁きを告知されるような伝道困難な町でありました(マタイ11:23)。しかしそこの会堂で、「十二歳」の少女を生徒とする教会学校が始まったと想像することも許されるでしょう。「娘」二人の回復の証人、ペトロ、ヤコブ、ヨハネはその教会学校のスッタフならば最高です。それならば、弟子たちがヤイロたちと共に、主イエスによる「救い」を宣べ伝えることになります。
「タリタ・クム」、「少女よ、さあ、起きなさい」との主イエスの御声は、いつまでもガリラヤ湖畔にこだましています。主イエスは、カファルナウムの町の人々の悲しみと喜びをご存じです。その力強い御声によって、小さく弱い存在の少女を救ってくださいました。
十字架につけられて死に、三日後によみがえられた主イエス・キリストが、わたしたちの町に来られた、そして、少女を救われた……その喜びの知らせは、ガリラヤの小さな町から世界中に広がっていきました。その知らせが今、あなたのもとに届いています。
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〈説教の要約〉
2024年 9月1日
旧約聖書 ヨブ記 21章14節(P.802)
新約聖書 マルコによる福音書 5章11節~20節(P.69)
説教の構成――
序
Ⅰ 汚れた霊どもは出て、豚の中に入った ……マルコ5:11-13
Ⅱ その人が服を着、正気になって座っている ……マルコ5:14-15
Ⅲ 人々はイエスにここから出て行ってもらいたいと言いだした ……マルコ5:16-17
Ⅴ 主イエスはあなたを憐れんだ ……マルコ5:18-20
結
序
主イエスは今、ガリラヤ湖畔とその周辺で、大いなる救いの御業を現されています。マルコ福音書の大きな段落(マルコ4:35-5:43)の中に次々と、海上の奇跡、悪霊祓い、そして病気のいやしが出てきます。
そして主イエスは今、「墓場を住まいとしてしている」人と向き合っておられます(マルコ5:3)。ゲラサ地方の人々はその男を遠ざけながらも、その狂暴性のゆえに彼を監視していました。夜も昼も、墓場から聞こえて来る雄叫び(同上5:5)に恐れおののいていたに違いありません。
主イエスはその人に深い同情を寄せられます。むやみに相手を叱りつけることはありません。むしろ、その人が被らなければならない神の怒り(イザヤ書65:3,5)を、自ら背負っておられます。というのも、主イエスは罪人を滅ぼすためではなく、罪と病と死の縄目から人を解き放つために、この世に来られたからです。
墓場に押しやられた人への深い同情は、現れるべくして現されたものであります。というのも、福音の中心的な出来事として、主イエスは、三日間、墓に閉じ込められたからです。十字架刑により死を遂げた後、墓の中に横たわらされました。
ガリラヤ伝道のさなかにも、主イエスは、エルサレムでの十字架の死と葬りを見据えておられたはずです。主イエスの将来には、「されこうべの場所」(マルコ15:22)で殺され、「墓場を住まいとさせられる」という悲惨さが待ち構えていました。その観点からすると、「墓場で」悪霊に取りつかれ、そして「墓場から」救い出された、その人はまさに、「イエスの兄弟」と呼ぶにふさわしい者でありました(ヘブライ2:11-12)。
「湖の向こう岸」に行かれた主イエスは、人の目を驚かすような悪霊祓いの御業を成し遂げられます。わたしたちもまた、「いったい、この方はどなたなのだろう」(マルコ4:41)との問いを携えて、弟子たちと共に同行することにしましょう。
そこでまず今回は、悪霊祓いの後半ということで、直前の流れを確かめておきましょう。
主イエスは、悪霊に憑かれた人に出会うやいなや、「汚れた霊、この人から出て行け」(マルコ5:7)との命令を発せられました。しかし、悪霊からの「かまわないでくれ」との懇願や、主イエスからの「名は何というのか」との問いが入って(同上5:7,9)、ひととき、時間が経ちました。
マルコ福音書5:11-13――
11 ところで、その辺りの山で豚の大群がえさをあさっていた。12 汚れた霊どもはイエスに、「豚の中に送り込み、乗り移らせてくれ」と願った。13 イエスがお許しになったので、汚れた霊どもは出て、豚の中に入った。すると、二千匹ほどの豚の群れが崖を下って湖になだれ込み、湖の中で次々とおぼれ死んだ。
「汚れた霊、この人から出て行け」(マルコ5:7)との告知のうちに、悪霊祓いは終息に向かいます。地鳴りが辺り一面に起こり、その後に、静寂が到来しました。
ここで、「二千匹の豚」がおぼれ死んだのは、あまりにも残酷ではないか、との疑念を抱く方がおられるでしょうか? 一人の人間の命を助け出すためとは言え、神は、犠牲になった「二千匹の豚」に心を痛められないのか、ということです。古来より、被造物にもたらされる災いや悪について、義と愛なる神は沈黙しておられるのか、との疑問が出されて来ました。
確かに、神の創造された被造物を巻き込んで、主イエスの御業が成し遂げられました。それは、人間と被造物がこの地に共に生きていることの証しであります。
主イエスの語りには、ユダヤ人の間では律法上、豚肉を食べることが禁じられている(レビ記11:7)という背景があります。ガリラヤ湖畔のユダヤ人にとって、「豚」は禁忌になっている動物でありました。「汚れたものであり」、「死骸に触れてはならない」(申命記14:8)ものでありました。だからと言って、「二千匹の豚」の溺死を見過ごしてください、ということではありません。
そうではなく、「すると、二千匹ほどの豚の群れが崖を下って湖になだれ込み、湖の中で次々とおぼれ死んだ」との惨事を含む主イエスの語りの中心は、どこにあるのか、ということです。これは、「豚の群れ」にまつわる教訓ではなく、「悪霊に取りつかれたゲラサの人」の救済に関わる記事である、というのが肝心です。
「豚飼いたち」(マルコ5:14)が暮らしているゲラサの地で、生業の動物が突然消え去る中で、いつまでも残るのは何でしょうか? それは、主イエス・キリストの行いと言葉、そして、それにあずかった人の証し、すなわち、宣教(マルコ5:20)であります。それに合わせて、聖書による規範・生活指針が提示されていきます。そのようにして主イエスによって、異邦の世界に種蒔きのための鍬が入れられたのであります。混乱が一切起こらないというのではなく、まさに「雨降って地固まる」ということが大切なのではないでしょうか。
Ⅱ その人が服を着、正気になって座っている
マルコ福音書5:14-15――
14 豚飼いたちは逃げ出し、町や村にこのことを知らせた。人々は何が起こったのかと見に来た。15 彼らはイエスのところに来ると、レギオンに取りつかれていた人が服を着、正気になって座っているのを見て、恐ろしくなった。
「汚れた霊、この人から出て行け」との主イエスの命令から始まった出来事の反響が続きます。悲惨な目に遭った「豚飼いたち」が、主イエス・キリストの行いと言葉を「知らせる」一役を担います。
「豚飼いたち」の話を、聞き捨てならぬこととして、近隣の「町や村」から人々が、「イエスのところ」に来ました。「人々は何が起こったのかと見に来た」のも、実は神の御計画ではないでしょうか。そうして、「何かを起こした」、主イエス・キリストを見て、知って、信じさせるというのが、彼らに対する神の導きでありました。
ここで際立たされているのは、「レギオンに取りつかれていた人」の変貌ぶりです。その人は今や、「レギオン」(=大勢・軍団)の抑圧から解放されました。以前には、「石で自分を打ちたたいたりしていた」(マルコ5:5)というのですから、裸同然であったかも知れません。
しかし、その人が「服を着、正気になって」います。「町や村」から駆けつけた人々は唖然としたのではないでしょうか。叫び狂って、人を威圧するような面影はありません。何より印象深かったのは、主イエスの御前に、悪霊に憑かれていた人が「座っている」姿でありました。人を人とも思わぬ猛者が、彼らの知らない来訪者に「ひれ伏して」従っています(マルコ5:6)。
「町や村」からやって来た人々は、何を思ったかは、ひと言、「彼らは恐ろしくなった」と証言されています。これは、真実な報告でありましょう。この「恐れ」は、「主イエス・キリストを見て、知って、信じる」こととは、大きな隔たりがあります。
「町や村」の人々はまだ、悪霊祓いの「成り行き」が把握できていません。彼らが「恐れている」だけなのは、当然とも言えるでしょう。異邦人の漠然とした「恐れ」が、主イエス・キリストへの「畏れ」に変えられる日を待ち望みましょう。今しばらくは、主イエスも弟子たちも、異邦世界に広げられる「神の国」の福音を拒み、頑なになる人々の様子を見守らなければなりません。
Ⅲ 人々はイエスにここから出て行ってもらいたいと言いだした
マルコ福音書5:16-17――
16 成り行きを見ていた人たちは、悪霊に取りつかれた人の身に起こったことと豚のことを人々に語った。17 そこで、人々はイエスにその地方から出て行ってもらいたいと言いだした。
主イエスは、開始されたばかりのガリラヤ伝道において、カファルナウムの町という拠点を造られました。しかし、故郷のナザレの人々から憤りを受けて追い出されたり(ルカ4:20-30、マルコ3:20-34)、また、ゲラサ地方の人々から「出て行ってもらいたい」と言い出されたり、困難に遭いました。内憂外患、身内からも、周辺の異邦人からも、遠ざけられました。
ではなぜ、ゲラサ人は主イエスに、「出て行ってもらいたいと言いだした」のでしょうか? 初めは一部のゲラサ人の拒絶だったかも知れませんが、うわさが広まると、それはゲラサ地方全体からの「村八分」、排斥運動もなり得ます。
「成り行きを見ていた人たちは、悪霊に取りつかれた人の身に起こったことと豚のことを人々に語った」と証言されているように、ゲラサ人の目撃者は、「豚のこと」を気にしていました。
ゲラサ人の中に、「豚飼いたち」(マルコ5:14)がいました。その生業が尊ばれていたか、あるいは、蔑まれていたか、は安易に判断できません。しかし明白なのは、ユダヤ人と異なり、「豚」の肉を食べていたゲラサ地方では、それが「基幹産業」の一つであったということです。つまり、養豚とその食肉は、豊饒なる地の象徴でありました。それは、「乳と蜜の流れる土地」(出エジプト記3:8)、ユダヤ人の約束の土地とはひと味ことなる特色でありました。
ここまで言えば、もうお分かりでしょう。「二千匹ほどの豚の群れ」と「悪霊に取りつかれた人の身」とを天秤にかければ、ゲラサ人は当然、前者を取ります。だから、「悪霊に取りつかれた人の身」を案じるイエスという旅人にはお引き取りいただこう、となるのが常識です。自分たちの生活や慣習を守りたいというのが、彼らの本心でしょうし、現代に生きるわたしたちも、多かれ少なかれ、同じ思いを持っています。
ここに、人間の本性に伴う典型的な伝道の困難さが現れていると言えます。そこで主イエスは、神の知恵をもって忍耐強く、その壁を打開されます。いきなり、ゲラサ人の日常をひっくり返すというのではなく、福音を浸透させていくというやり方を採られます。その地方の「流れのほとりに植えられた木」が、御言葉を滋養とすれば、「ときが来れば実を結び、繁栄をもたらす」(詩編1:3)ことでしょう。
その「神の知恵」については、最後のⅤ.で説き明かします。その前に、「そっとしておいてもらいたい」という人間の本性について深掘りしておきましょう。
Ⅳ ほうっておいてください
ヨブ記21:14――
これは、ヨブがナアマ人ツォファルに答えている言葉の一節です。内容的には、「彼ら」、すなわち、「神に逆らう者」(ヨブ記21:7)の暴言が活写されています。
ヨブの主張によれば、「神に逆らう者」はこの世の幸せを第一として、「財産を手にし」、「生き永らえ」ています(ヨブ記21:7,16)。彼らは「あなた(神)に従う道など知りたくもない」と言って、神信仰をあざ笑っています。
彼らの考え方はヨブからは遠いものであります(ヨブ記21:16)。ヨブは、「あなた(神)に従う道を知る」ことを重んじる「無垢な正しい人」(ヨブ記1:8)です。
「神に逆らう者」がこの世の春を謳歌しているのとは裏腹に、ヨブは「わたしは幸いを望んだのに、災いが来た。光を待っていたのに、闇が来た」(ヨブ記30:26)と嘆いています。しかし、友人たちは、そのような不条理に悩み苦しんでいるヨブを慰めようとも寄り添おうともしません。
ただおひとり、主なる神がヨブを見守っておられます。深い悩みの淵から、ヨブが立ち上がり、「災いも、幸いも いと高き神の命令によるものではないか」(哀歌3:38、ヨブ記2:10)と、再び告白するのを待っておられます。
周りの人々が「神に向かって」、「ほうっておいてください」と言っているのが、ヨブの耳から離れませんでした。自分もそう宣言すれば、神の束縛から解放されると思ったかも知れません。自分勝手にやれば、すべてが自己責任で済むというように……。
しかしヨブ自身は、「ほうっておいてください」との宣言を自重することができました。それ故に、神の神たるゆえに信じるという「無垢な」信仰が全うされました。ヨブは感謝と謙遜をもって、この世の「災いも、幸いも」受け取る人であり続けました。
さて主イエスはどのように、「イエスにその地方から出て行ってもらいたいと言いだした」、すなわち、「ほうっておいてください」と言い放った人々に向き合われたのでしょうか? 神に「そっとしておいてもらいたい」とは口が裂けても言わなかった、「無垢な正しい人」ヨブの物語を語るのも一つの方法かも知れませんが……。いずれにしても、主イエスは神から授けられた知恵によって伝道を進められます。
Ⅴ 主イエスはあなたを憐れんだ
マルコ福音書5:18-20――
18 イエスが舟に乗られると、悪霊に取りつかれていた人が、一緒に行きたいと願った。19 イエスはそれを許さないで、こう言われた。「自分の家に帰りなさい。そして身内の人に、主があなたを憐れみ、あなたにしてくださったことをことごとく知らせなさい。」 20 その人は立ち去り、イエスが自分にしてくださったことをことごとくデカポリス地方に言い広め始めた。人々は皆驚いた。
「レギオンに取りつかれていた人」は今や、新しい人生を歩みだしました。「一緒に行きたい」というのは、直訳すると、「彼(その人)が彼(イエス)と共にいる」ことを願っている、となります。すなわち、その人は、「レギオン」(=大勢・軍団)の支配から、「インマヌエル」の呼ばれるお方の愛と正義のもとに移されました(マタイ1:23)。「神は我々と共におられる」という名のイエス・キリストが、「共にいたい」との願いをかなえてくださいます。
これによって、信仰上、その人の人生全体がひっくり返されたということが確約されました。なぜなら、主イエスはこれからずっとその人を見守り、その人のために祈っていてくださるからです。
イエスはそれを許さないで、こう言われた。「自分の家に帰りなさい」……「それを許さないで」というのは、「彼(その人)が彼(イエス)と共にいる」を拒絶されたのではありません。そうではなく、主イエスに同伴するのではなく、主イエスから派遣されるという別の道を、「インマヌエルの神なるイエスがあなたに勧める」ということです。
それ故に、悪霊に憑かれていた人が「自分の家に帰る」中で、主イエスの臨在、つまり、「神は我々と共におられる」ことが現されます。
ゲラサ地方で最も軽蔑されたいた者のひとりが、罪人や病人へ福音を「言い広め(宣べ伝え)」ます。それこそが、「イエスにその地方から出て行ってもらいたいと言いだした」と住民の厚い壁を打開する伝道のやり方でありました。
悪霊に憑かれていた人が「墓場から自分の家に帰る」というのは、尋常なことではありません。わたしたちは、さまざまな偏見・差別によって隔離された人々の悲しい人生を伝え聞いています。大勢の人々が「自分の家に帰れない」ままに、「身内の人」との和解さえできずに、最期を迎えられました。
幸いにも、主イエスが「自分の家に」遣わしたその人は、「身内の人」と話ができます。願わくは、互いに赦し合い、再会を喜ぶことができるようにと祈ります。しかし、最も重要だったのは、「主があなたを憐れみ、あなたにしてくださったこと」が、その「家」の中で「ことごとく知らせる」ということでありました。「人々は皆驚いた」というほどの反響はきっと、伝道への後押しとなるに違いありません。
結
一方、「その人は立ち去り」、他方、「イエスは舟に乗って再び向こう岸(カファルナウム)に渡られます」(マルコ5:21)。悪霊に憑かれていた人が帰った「自分の家」に、主イエスが訪ねて来られたのではありません。しかし、主イエスは、「主があなたを憐れみ、あなたにしてくださったことをことごとく知らせなさい」と厳しく命じられました。
「主があなたを憐れんでくださった」……舞台は「墓場から家へ」と移されました。腸痛めるほどの、主イエスの深い同情(マルコ6:34)は、香りのようにその「家」に満ちあふれたことでしょう。なぜなら、“ 霊 ” の力によって、主イエスがそこに臨在されているからです。そのようにして、「主の憐れみ」は一人ひとりに宣べ伝えられていきます。
三日の間、「墓場」に閉じ込められた主イエス・キリストは、そこから立ち上がりました。もはや死の支配する墓に戻ることはありませんでした。わたしたち・信仰者にとって墓地は、主イエスが十字架の死からよみがえられたことを記念する場所にほかなりません。それ故に、悪霊に憑かれていた人はもはや、「墓場」の狂気の生活に脅えさせられることはありません。
生きていながらも、「墓場」におびき寄せられそうになる人、挫折を重ねて絶望している人、そして、人間関係において疎外されている人、そうした人々のもとに、主イエスはやって来られます。そのひとりのために、海での難破も恐れずに旅をして、出会いの時を造られます。そして主イエスは、罪人らの敵対心や無関心をその身に浴びながら、憐れみの業と言葉を現されます。その点では、主によって救われているわたしたちは皆、悪霊に憑かれていた人と変わりがありません。教会で、家で、そして外で、「主があなたを憐れんでくださった」ことを知らせましょう。
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月報8月号
説教 『 その言葉には力があった 』
ルカによる福音書 4章31節~37節
小河信一 牧師
説教の構成――
序
Ⅱ ああ、ナザレのイエス、かまわないでくれ
……ルカ4:33-34
……エレミヤ書7:8
Ⅴ 権威と力のある言葉によって命じる ……ルカ4:36-37
序
一体、主イエス・キリストはどのようなお方であるのか、その答えが本日のテキストに物語られています。荒れ野の中からガリラヤ地方を巡って行かれた主イエスは、安息日、会堂にその御姿を現されます。それぞれの出来事とそのつながりに留意しながら読みましょう。
せっかくの機会ですから、「そこで、敬愛するテオフィロさま、わたしもすべての事を初めから詳しく調べていますので、順序正しく書いてあなたに献呈する」(ルカ1:3)という著者ルカのテクニックをご紹介します。
ここでは、ガリラヤ伝道の初期を取り扱った文章の構成に着目してみます。ガリラヤ伝道全体には、ルカ4:14-9:50が該当します。その初期の様子を、ルカ4:14-41によってたどってみましょう。出来事を「順序正しく書いて」といっても、無味乾燥にではなく、非常に劇的に物語られています。
準備 荒れ野の誘惑 ルカ4:1-13
① 導入のための要約――“霊”の力に満ちた宣教 ルカ4:14-15
② 安息日、ナザレの会堂にて ルカ4:16-30 〈スタートでつまずく〉
故郷の人々に受け入れられなかったため、ガリラヤ湖畔へ
③ 安息日、カファルナウムの会堂にて ルカ4:31-37 〈つまずいても、すぐに立ち上がる〉
④ 悪霊の追放と病気のいやし ルカ4:33-35,38-41
ストーリー展開が、これほどまでに精巧に組み立てられていたのか、と驚かれるでしょうか。さすがに、ルカ福音書(24章)―使徒言行録(28章)もの長編に挑むだけのことはあります。読み手をわくわくさせながら、信仰の世界に導き入れていきます。「御言葉によって罪の赦しを教える⇒悪霊を追い出し、病気をいやす」(参照:マルコ2:1-12)という信仰の基本線も踏襲されています。
それでは、わたしたちに向けて、〈つまずかされそうになっても、すぐに立ち上がりなさい〉とのメッセージが示されている箇所(③と④)を見てみましょう。
Ⅰ その言葉には権威があった
ルカ福音書4:31-32――
31 イエスはガリラヤの町カファルナウムに下って、安息日には人々を教えておられた。
32 人々はその教えに非常に驚いた。その言葉には権威があったからである。
主イエスは“霊”によって引き回されて、荒れ野の誘惑を受けられました。そして今、“霊”の力に満たされて、「ガリラヤの町カファルナウムに下って」行かれました。
主イエスは「はっきり言っておく。預言者は、自分の故郷(ナザレ)では歓迎されないものだ」(ルカ4:24)と告知されているように、その滑り出しから伝道の困難に出遭われました。ところが、この世の闇を象徴するような迫害が起こった直後に、「ガリラヤの町カファルナウム」という伝道の拠点が与えられました。
ただし、主イエスはナザレと同様に、「安息日に会堂に入られました」(ルカ4:16,31-33)。これこそが、主イエスが「主日に茅ヶ崎香川教会の礼拝堂に」臨在される(マタイ18:20)ということの根拠になっています。“霊”の力によって、主イエス・キリストの言葉とその恵みがそこに再現されています。主イエスによるガリラヤ湖畔の開拓伝道以来、それは世界の隅々に至るまで拡大されています(ルカ4:37)。
「イエスは人々を(言葉により)教えておられた」⇒「人々はその(言葉の)教えに非常に驚いた」というように、御言葉による宣教に重点が置かれていました。というのも、まずはガリラヤの民衆に、主イエスの「言葉」が、世の知恵や「むなしい言葉」(エレミヤ書7:8)とは全く異なるものであることを「教え」ねばならないからです。
その「教え」についてはすでに、ナザレにおいて「安息日に会堂で」説き明かされました(ルカ4:16-27)。要約すると、「わたしは貧しい人に福音を告げ知らせる」との主イエスの宣告のうちに、聖書朗読(イザヤ書61:1-2)と説教が行われました。それは、「わたしはあなたたちの罪を背負う。もう一度、やり直しなさい。今日、出発しよう」との招きでありました。残念ながら、「これを聞いた(ナザレの)会堂内の人々は皆憤慨し、総立ちになって、イエスを町の外へ追い出しました」(ルカ4:28-29)。このような「憤慨」や「いらだち」(使徒4:2)は、福音を拒む態度の根源にあるものです。
それに対し、カファルナウムの会堂に集っていた人々の反応は、「人々はその(言葉の)教えに非常に驚いた」ということであります。「驚いた」ことが、御言葉の理解から信仰の芽生えへとつながっていくのかは、不明です。しかし、悪霊の追放と病気のいやしを目撃するのに先んじて、「(言葉の)教えに非常に驚いた」(ルカ4:32,36)のは、神の御心に適うものでありました。
「その言葉には権威があった」という「権威」とは、一体何でありましょうか?
主イエスが「言葉」によって現された「権威」は、「すべての支配、権威、勢力、主権、あらゆる名の上に置かれる」(エフェソ1:21)ものでありました。それは「権威」の語源の通り、主イエス・キリストの「内から出てくる」ものであります。だからこそ、主イエスのやさしい言葉にもたとえ話にも、「権威」が宿っているのです。
要するに、「神は、この力をキリストに働かせて、キリストを死者の中から復活させ、天において御自分の右の座に着かせた」(エフェソ1:20)というのが、「権威」ある福音です。わたしたちは、「言葉」をもって告げ知らされた、この福音(ルカ4:18)を正しく聞かねばなりません。ひたすらに“霊”の導きによって聞くことです。
次に、③主イエスの「言葉」による宣教から④悪霊の追放へと移っていきます。それによって、会衆の目の前に、主イエスの「権威」が具体的に示されます。
Ⅱ ああ、ナザレのイエス、かまわないでくれ
ルカ福音書4:33-34――
33 ところが会堂に、汚れた悪霊に取りつかれた男がいて、大声で叫んだ。34「ああ、ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ。」
ここで、ハプニングが起こりました。「安息日に会堂で」、聖書朗読と説教の最中に起こったハプニングにほかなりません。主イエス・キリストの「内から出てくる」ものという「権威」が、主の「言葉」のみならず「行い」・御業によって現されます。
「ああ、ナザレのイエス、かまわないでくれ」……主イエスと敵対する勢力からの、「ああ」との嘆きであると同時に、証言です。これによって、主イエスと「汚れた悪霊」との関係が明確にされます。「汚れた悪霊」という闇によって、主イエスの「正体」が照らし出されるのです。まずは、悪霊の「正体」から捉えることにしましょう。
「かまわないでくれ」の直訳は、「わたしとあなたの間にどのような関係がありますか」となります。裏を返せば、「わたし」(悪霊)は「すべての支配、権威、勢力、主権」の面で、「あなた」よりも優位に立っている、という関係を壊さないでくれ、ということになります。まことに虫のいい、もったいぶった言い方です。しかしもちろん、自分の思いどおりにやらせてくれ、との発言は看過できません。
ところで、旧新約聖書には、この「当惑した悪霊の叫び声」に類似した言葉が、少なからず見出されます。二つ例を挙げましょう。
列王記上17:18――
彼女(サレプタの女)はエリヤに言った。「神の人よ、あなたはわたしにどんなかかわりがあるのでしょうか。あなたはわたしに罪を思い起こさせ、息子を死なせるために来られたのですか。」
マルコ福音書5:35――
イエスがまだ話しておられるときに、会堂長(ヤイロ)の家から人々が来て言った。「お嬢さんは亡くなりました。もう、先生を煩わすには及ばないでしょう。」
この二つの出来事では、「神の人」の前で、愛する息子または娘が死んだ状態になっています。もはや、その母親や家の人々には手の施しようがありません。
このように、「かまわないでください」、「あなたに関係ないことです」、そして、「もう、煩わさないでください」との慇懃な拒絶を並べてみると、人間の内面が見えてきます。すなわち、その拒絶に背後には、諦め・絶望があるということです。それ故に、本来、恵みを与えてくれる「神の人」との関係を断とうとするのです。
そうして、拒絶や絶望に取りつかれると、何でも周りのものを恐れてしまうことになります。その恐れが、「我々を滅ぼしに来たのか」との問いに証言されています。「正体は分かっている。神の聖者だ」と言うのですから、そのお方に救いを求めればよいのですが……。
そこで、主イエスの側から、憐れむべき一人の男を助け出されます。
Ⅲ 悪霊は何の傷も負わせずに出て行った
ルカ福音書4:35――
イエスが、「黙れ。この人から出て行け」とお叱りになると、悪霊はその男を人々の中に投げ倒し、何の傷も負わせずに出て行った。
主イエスは、言葉巧みな悪霊の抵抗を見抜いておられました。「黙れ」と命じて、「神の聖なる神殿」(Ⅰコリント3:17)なる会堂から「汚れた悪霊」を追放されます。
「悪霊はその男を人々の中に投げ倒し、出て行った」というのは、ただの奇跡ではありません。そうではなく、「言葉」の「権威」による主イエス・キリストの支配のもとに、悪霊の追放や病気のいやしが行われるということの一貫(序に提示した③⇒④のつながり)なのです。そのようにして、「神の国」がわたしたちの間に実現しようとしているのです。
そして、悪霊から解放された男に関して、「何の傷も負わせずに」と証言されています。これで思い出すのは、「燃え盛る炉に投げ込まれた三人」の物語です(ダニエル書3章)。この三人は、神から知識と才能を賜った、ユダ族の若者たちでありました。
ユダ族の若者たちをねたんだ、バビロニアの侍従長や貴族は、信仰深い人々を抹殺する罠を仕掛けました。 それで、バビロニアの偶像を拝まないとの咎により王に訴えられて、三人の若者は罰を受けることになりました。
ダニエル書3:21,27――
21 彼らは上着、下着、帽子、その他の衣服を着けたまま縛られ、燃え盛る炉に投げ込まれた。
その後、三人が炉の中から出てきて……
27 総督、執政官、地方長官、王の側近たちは集まって三人を調べたが、火はその体を損なわず、髪の毛も焦げてはおらず、上着も元のままで火のにおいすらなかった。
奇しくも、「何の傷も負わせずに」と「火はその体を損なわず」とは同じです。「いつもの七倍も熱く燃やされた」炉の炎(ダニエル書3:19)というのは、まるで悪霊の軍団(ルカ8:30)を象徴しているかのようです。しかし、主イエスが男から悪霊を引き離して、元に戻されたように、「神は御使いを送ってこの僕たちを救われました」(同上3:28)。
王宮にいた若者たちも、会堂にいた男も、「わたしの霊はなえ果て 心は胸の中で挫ける」(詩編143:4)というような試練に巻き込まれました。しかし、そのような人間の弱さの中に、神の恵みと救いが現されました。
Ⅳ お前たちはこのむなしい言葉に依り頼んでいる
しかし見よ、お前たちはこのむなしい言葉に依り頼んでいるが、それは救う力を持たない。
主イエスの「言葉」に「権威と力」が宿っていることを知る前に、諸国民の預言者として召し出されたエレミヤの「言葉」を読んでみましょう。
初めに思い起こしておきたいのは、エレミヤが召命を受けた時のエピソードです。
エレミヤが「ああ、わが主なる神よ わたしは語る言葉を知りません。わたしは若者にすぎませんから」と言うと、主なる神はエレミヤに、「若者にすぎないと言ってはならない。わたしがあなたを、だれのところへ 遣わそうとも、行って わたしが命じることをすべて語れ」と答えられました(エレミヤ書1:6-7)。
幸いにも、ユダの民のもとへ遣わされる前に、エレミヤは自分の言葉ではなく、ひたすらに「主の言葉」を語り続けるという決心をさせられました。これによって、自分は、聖書に通じた「祭司の子」(エレミヤ書1:1)であるという誇りを捨て去ったに違いありません。
そうして、モーセ(出エジプト記4:10)のように元来は「口が重く、舌の重い」エレミヤが、「主の神殿の門に立ちました」。「主を礼拝するために、神殿の門を入って行くユダの人々」に、「言葉をもって呼びかける」ためです(エレミヤ書7:1-2)。
それでは、何故に、神殿で礼拝を行おうとしている人々が「むなしい言葉に依り頼んでいる」のでしょうか? エレミヤはその理由を見抜いています……「なぜなら、お前たちは勝手に自分の言葉を託宣とし、生ける神である我らの神、万軍の主の言葉を曲げたからだ」(エレミヤ書23:36)。彼らは、「主の託宣(言葉)」を「自分の言葉」にすり替えていたのです。それに対し、主なる神は、「わたしはお前たちを投げ捨てる」、また、「わたしはその人とその家を罰する」と警告されていました(同上23:33-34)。
人間の性というものは、どの時代、どの場所においても、そんなに変わらないものなのでしょうか。およそ600年後、ギリシアのコリントでも同様の「すり替え」(ヒューマン・エラー)が起こっていました。
パウロはこれまた礼拝者である、コリント教会の一部の人々に、「だれも自分を欺いてはなりません」(Ⅰコリント3:18)、すなわち、「だれも思い違いしてはなりません」と戒めました。というのも、罪に陥っている人間が、「神の知恵」を「世の知恵」に替えるという「思い違い」を起こしていたからです。
ではなぜ、そのような「思い違い」・「すり替え」が生じるのしょうか。要約すると、パウロは以下のようにその理由を明らかにしています。
すなわち、彼らが「肉の人」で、「神の霊に属する事柄を受け入れない」(Ⅰコリント2:14、3:1)、その上、彼らは一見、豪華絢爛な「この世の支配者たちの知恵」(同上2:6)に毒されてしまっている、結局、彼らは神の前においてすら、自分を誇っている(同上1:29)ということです。
このような人々に対し、エレミヤはただ神の審判を告げるだけだったのでしょうか。そうではありません……「それ(むなしい言葉)は救う力を持たない」。
否定的な文脈の中にも、エレミヤは神の救済計画を物語っています。「主は我らの救い」と呼ばれる神(エレミヤ書23:6)に立ち帰るように、と繰り返し告げています(同上3:7、18:11、31:21)。
今、神殿に上って来た人々にとって大切なのは、「わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す」(エレミヤ書31:33)という神の「言葉」に耳を傾けることです。“霊”の導きにより、神の「言葉」の「力」にあずかることです。
そうすれば、神との正しい関係が回復されます。自己中心に陥れていた「思い違い」が消え去ります。エレミヤが孤立し嘲笑される状況下で、大胆に神殿の門で説教しているのは、そのためです。
ルカ福音書4:36-37――
36 人々は皆驚いて、互いに言った。「この言葉はいったい何だろう。権威と力とをもって汚れた霊に命じると、出て行くとは。」 37 こうして、イエスのうわさは、辺り一帯に広まった。
「人々は皆驚いて」という衝撃のうちに、「悪霊の追放」ではなく、「権威と力のある言葉」に、会衆の関心が向けられました。しかも、その「権威と力」というように、「力」が付け加えられています(他にユダの手紙1:25、ヨハネ黙示録12:10)。
なぜ、主イエスの「言葉」に「力」が必要なのか、二つの点から答えましょう。
一つは、「権威」と同様に、「力」は主イエス・キリストの「内から出てくる」ものです。ですから、「力のある言葉」はおのずから実を結びます。すなわち、「神は言われた。『光あれ。』」こうして、光があった」(創世記1:3)というように、それは、現実化されます。
主イエスの「言葉」によって、神の創造力が発揮されます。時には、その「力」が悪霊の追放や病気のいやしのために用いられます。そのようにして、救われた人はしばしば「賛美」(ルカ5:25、13:13)という「言葉」・歌をもって人々に福音を伝えます。
もう一つは、今述べた「力」の現実化と関連するのですが、主イエスが世の終わりに向けての戦いを見据えておられるからです(ルカ21:9)。その時、キリスト者の苦悩は深まります。そうした艱難や迫害が起こる時、主イエスの「言葉」はまさに「力」ある砦(サムエル記下22:33)として依り頼むことができます。
主なる神は、「あなたを憎むすべての者」や「あらゆる重い病気」から守ってくださいます(申命記7:15)。悪霊や偶像に惹かれてはなりません。わたしたちが御言葉の宣教に励むとき、わたしたちは主イエスと同様に、“霊”の「力」に満たされます。神は主イエス・キリストによって、耐え忍んでいる人々に、「幸いあれ」と言って祝福しておられます(ルカ6:22-23)。
「こうして、イエスのうわさは、辺り一帯に広まった」……主イエスは故郷ナザレから追い出されましたが、ガリラヤ湖畔に伝道の拠点が造られました。心を挫くようなつまずきがただちに、“霊”の導きによって乗り越えられました。
ナザレとカファルナウムとで主イエスは、神中心の伝道と生活に何も変更など加えておられません。主イエスは「安息日に会堂に入る」のを基軸に、その地方を巡る旅を続けられました。
そうして、おびただしい群衆の前に、③言葉には権威と力があることが教える⇒④悪霊の追放と病気のいやしを行う、という主イエス・キリストの御姿が現されました。主イエスは終わりの時に向けて、世界の隅々に届けられるよう、「権威と力のある言葉」をもって教え、そして祈られました。
主イエスの巡り行かれたガリラヤの湖畔、山や丘、家々などは、主を信じる者の原風景であります。礼拝の中で想起すべき、時代と場所に違いありません。ガリラヤの地に蒔かれたからし種は、世界の果てにまで枝を張って大きくなりました(マルコ4:30-32)。
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〈説教の要約〉
2024年 8月25日
旧約聖書 イザヤ書 65章3節~5節(P.1167)
新約聖書 マルコによる福音書 5章1節~10節(P.69)
説 教「いと高き神の子イエスよ」 小河信一牧師
説教の構成――
序
Ⅰ 汚れた霊に取りつかれた人が墓場からやって来た
Ⅱ その人は昼も夜も墓場や山で叫んでいた
……マルコ5:3-5
Ⅲ この民は墓場に座り、隠れた所で夜を過ごしている
……イザヤ書65:3-5
Ⅳ いと高き神の子イエス、かまわないでくれ
……マルコ5:6-8
Ⅴ イエスは「名は何というのか」とお尋ねになった
……マルコ5:9-10
序
マルコ福音書の説教で前回より、主イエスの大いなる救いの御業を読んでいます。その御業によって、「いったい、この方はどなたなのだろう」(マルコ4:41)との問いへの答えが、さまざまな角度から示されます。
大きなまとまり(マルコ4:35-5:43)の中に、海上の奇跡、悪霊祓い、そして病気のいやしが集められています。時の経過と共に、伝道の範囲が広がっていきます。主イエスはガリラヤ湖畔・カファルナウムを拠点としつつ、ガリラヤ周辺(マルコ5:1、6:1)を巡回されます。そうして、ユダヤ人のみならず各地の異邦人が群れをなして、主イエスにつき従うようになりました(同上3:7-8、5:7,20)。
本日は、主イエスがガリラヤ湖の向こう岸に渡られた時、何が起こったのか、見てみましょう。わたしたちの日常的思考の面から、出来事の細部の一つひとつには納得のいかないこともあるかも知れません。しかし、マルコ福音書の著者は “ 霊 ” によって、読み手をここに導くという明確な企図を持っています。主イエスにつき従っているペトロはじめ弟子たちと共に、ガリラヤ伝道の最高潮を、すなわち、主イエス・キリストの十字架と復活への信仰告白(マルコ8:27-30)を目指していきましょう。
Ⅰ 汚れた霊に取りつかれた人が墓場からやって来た
マルコ福音書5:1-2――
1 一行は、湖の向こう岸にあるゲラサ人の地方に着いた。2 イエスが舟から上がられるとすぐに、汚れた霊に取りつかれた人が墓場からやって来た。
主イエスは神の御心に従って、「湖の向こう岸」に行かれました。というのも、ガリラヤ地方ならびにその周辺で、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(マルコ1:15)、と宣べ伝えることが、主イエスの使命に中心に置かれていたからです。
使徒パウロもまた、福音を告げ知らせるために、アジア州からギリシアへと渡って行きました(第二回・伝道旅行 使徒16:6-12)。それは決して破天荒な試みではありませんでした。伝道者生活のどん底にあったパウロに、聖霊の守りと共に、天より幻が現されました。
パウロは直ちに、「神がわたしたちを召されているのだ」と確信するに至りました(使徒16:10)。そうして、神の御力によってパウロたち一行は、「地中海の向こう岸に着いた」のです。
確かに人生の中で、いつが「向こう岸に渡る」時なのか、迷うことでしょう。パウロの事例からは次の点を学ぶことができるでしょう。
それは、自分の準備が十分できていなかった時に、あるいは、良いタイミングだとは思えなかった時に、彼は神の御心によって、背中を押されるように出発したということです。すると、「向こう岸」で、神が思いがけない出会いを用意しておられました(使徒16:13-15)。パウロの不安な心は奮い立たされたに違いありません。「向こう岸」にたどり着いたあなたにもきっと、迎え入れてくれる人が待っていることでしょう。
わたしたちの先駆者パウロの前にすでに、主イエスが「向こう岸に渡って」いかれました。新しい伝道地に入って行かれました。そこで、一人のひとと出会われました。
「イエスが舟から上がられるとすぐに、汚れた霊に取りつかれた人が墓場からやって来た」との記述から、この出会いが神の御心に添って行われたことが分かります。すなわち、先行する形で、「イエスが舟から上がられ」、それに呼応して、「汚れた霊に取りつかれた人が墓場からやって来た」のであります。まるで、主イエスの御声に呼び寄せられるかのように、その人は「すぐに・墓場から」出て来ました。
「墓場」がその人の「住まい」でありますから(マルコ5:3)、通常はその人が来訪者と出会うのは、稀なことでありましょう。しかし確かに、彼は遠来の旅人イエスを迎え入れています。
以前、主イエスは山に上って、十二人の使徒を任命されました(マルコ3:13-19)。そこで、新しいスタートが切られました。その際、主イエスは使徒派遣の目的は、「宣教させ、悪霊を追い出す権能を持たせる」ことにあると明言されました(同上3:14-15)。そこで率先垂範、「悪霊を追い出す権能」を現すチャンスが主イエスに巡って来ました。この場面で、使徒たちは沈黙していますが、その光景をしっかり眼に焼き付けておくべきでありましょう。
「ベルゼブル(家の主)論争」の中で、主イエスは「悪霊」を「強い人」になぞらえました(マルコ3:17)。すなわち、「強い人」または「暴君」は人の家に住み込んで、家人を「とりこ」にします(イザヤ書49:24)。それによって、「悪霊」に占拠された人の生活は激変します。その悲惨な情態は、Ⅱ.で確認する通りです。
そうした中で、主イエスは、悪霊に憑かれた人々の前に、「より強い方」・「わたしよりも力のあるかた」として登場されました。「わたしが、あなたと争う者と争うであろう」(イザヤ書49:25)と告げて介入し、その家に平和をもたらされます。
後に主イエスは、罪深い人間の裏切りと無関心によって、十字架につけられました。そして、自ら息を引き取られました(ヨハネ19:30)。そこで一瞬、「悪霊」サイドの人々は、イエスに対する、「墓場を住まいとさせる」(マルコ5:3)陰謀が成功した、と思ったかも知れません。万一、人が遺体を引き取りたい、と願い出ても、「されこうべ」(マルコ15:22)の丘から暗黒の世界へ、終の棲家が「墓場」(新しい墓 マタイ27:60)に替わるだけだと……。
しかし、「強い人」の軍団と闘われた主イエス・キリストは、「人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」(フィリピ2:14-15)という謙卑によって、彼らを一掃されました。主イエスは、「力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」(Ⅱコリント12:9)ということを、最も大いなる救いの御業である十字架と復活によって現されました。
それでは、悪霊によってがんじがらめの情態になっている人の様子を見てみましょう。悲惨な墓場の生活から人を解き放つ主イエスによって、その男の姿が暴き出されます。
Ⅱ その人は昼も夜も墓場や山で叫んでいた
マルコ福音書5:3-5――
3 この人は墓場を住まいとしており、もはやだれも、鎖を用いてさえつなぎとめておくことはできなかった。4 これまでにも度々足枷や鎖で縛られたが、鎖は引きちぎり足枷は砕いてしまい、だれも彼を縛っておくことはできなかったのである。5 彼は昼も夜も(原文:夜も昼も)墓場や山で叫んだり、石で自分を打ちたたいたりしていた。
「この人は墓場を住まいとしており」ながらも、「だれも彼を縛っておくことはできなかった」と言います。それでは、いつ「山」から村里に降りて来るか分からないので、怖くなります。「鎖は引きちぎり足枷は砕いてしまう」という強力や闇夜をつんざく「叫び」は、その地方一帯の人々を震え上がらせていたことでしょう。
そう考えると、「ゲラサ人の地方」に多くの人が住んでいる中で、なぜ、主イエスが真っ先にこの人に出会われたのか、その理由が判ります。「石で自分を打ちたたいたりしていた」というのですから、一刻も早く、救出しなければなりません。それに応じるかのように、悪霊に憑かれた人は、主の前に進み出ました。
ところで、四福音書中で最初に書き上げられたと言われるマルコ福音書の、時の表示には注意を払わねばなりません。というのも、その用語法の内に、ユダヤの信仰ならびに日常の慣習を写し出す、ヘブライ的時間観念が保持されているからです。
マルコ福音書1:32――
① 夕方になって日が沈むと、人々は、病人や悪霊に取りつかれた者を皆、イエスのもとに連れて来た。
マルコ福音書4:35――
② その日の夕方になって、イエスは、「向こう岸に渡ろう」と弟子たちに言われた。
①の引用例からは、「夕方になって」と「日が沈むと」というように類句が反復されて、病気のいやしと悪霊祓い(マルコ1:34)の開始として、「夕方」が起点になっていることが分かります(創世記1:2)。とすると、一日が「夕方」から始まる時間観念に沿って、「夜も昼も」(マルコ4:27、5:5)との句を読み取らねばなりません。言い換えれば、それは、「夜も昼も」に込められた、憐れみ深い神の御心を知るということです。
① 夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。
マルコ福音書5:5――
② 彼は昼も夜も(原文:夜も昼も)墓場や山で叫んだり、石で自分を打ちたたいたりしていた。
そこで皆さんと共に、神の創造と支配のもとに、一日が「夕方」から始められている中で、「夜も昼も」という時が、すなわち、「夜」⇒「昼」の繰り返しが、どんな意味を持っているか、を捉えることにしましょう。
①の引用例は、成長する種のたとえの一節です。種を土に蒔いた人は、「夜」眠り、「昼」働いています。「神の国」に入れられるように願い、祈っています。その「夜昼」の反復によって明らかになったのは、種蒔いた人が、「種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、知らない」ということでありました。
「種は芽を出して成長する」ことについて、人間は無知なので、謙虚になれ、という道徳的な話なのでしょうか。そうではありません。それは、あなたの「知らない」こと、すなわち、「神の国の秘密が打ち明けられる」(受動態! マルコ4:11)のに注意しなさいということです。要するに、あなたに「打ち明けられて」、信仰的に「ドキッ」とさせられるか否か、に掛かっています。
あなたは今、「(種は)増し加えられ実を結ぶ、三十倍に、六十倍に、百倍に」(マルコ4:8 私訳)という神の気前の良さ、大いなる恵みを受け取りますか? それは、あなたの思いをはるかに超える贈り物にほかなりません。
今まで、そんなことがあるとは「知らなかった」し、これからも、「知る自信はない」、と言われるでしょうか。それなら、そのままでよいのです。大切なのは、「神の国の秘密が打ち明けられる」のを期待すること、つまり、 “ 霊 ” の導きによって教えられることです。その時、「知らなかった」あなたは、「知る人」・「信じている人」に変えられます。
遠回りになりましたが、あなたは、「夜」眠り、「昼」働いています。神が、あなたのそのような日常生活を見守っておられます。「土はひとりでに実を結ばせる」(マルコ4:28)ものなので、成長は神におゆだねしましょう。神はあなたが、日照りや茨の地で苦闘しているのをご覧になっています。労苦は決して無駄ではありません。
そうして、大いなる収穫がやって来た時、神はあなたを、「夜」から「昼」へ、すなわち、闇から光へと導き入れられます。そこに、一日が「夕方」から始まることの深い意味があるのです。
「墓場を住まいとしている」者が主イエスの前に立ちはだかっています。実はかつて、偶像崇拝に熱心なイスラエルの民が同じような情況に陥っていました。預言者イザヤが、どのように彼らの罪を告発したのか、耳を傾けてみましょう。
Ⅲ この民は墓場に座り、隠れた所で夜を過ごしている
イザヤ書65:3-5――
わたし(神)に逆らう。
わたし(偶像崇拝する者)に近づくな
わたし(偶像崇拝する者)はお前(敬虔な信仰者)にとってあまりに清い」と言う。
絶えることなく火を燃え上がらせる。
紀元前6世紀後半、未だに荒れ果てているエルサレムにおいて、神殿完成の再建(完成:前515年)が急がれている時代でありました。主なる神の支配のもとに、礼拝共同体が確立されること、そして、敬虔な信仰をもって神の栄光を現すことが、最重要なことでありました。
上のテキストは、そのような信仰の立て直しが必ずしも順調に進まなかったことを証言しています。大災難(国家の滅亡と捕囚)からおよそ70年あまり経っていましたが、イスラエルの民の信仰は尚も揺らいでいました。その結果、神に背いて頑なになり、偶像崇拝に走る人々が途絶えなかったということです。
主なる神は、反逆の民に向けてイザヤを派遣し、審判の預言を伝えさせました。
「この民は墓場に座り、隠れた所で夜を過ごし 豚の肉を食べている」というように描写されています。まさにゲラサ地方の悪霊に憑かれた人の有様を思い起こさせます。
もともと、彼らは神礼拝を守る人々から遠ざけられていました。祭司はじめ人々は「汚れた者に近寄らない」ようにしていました(レビ記13:45-46、哀歌4:15)。ところが、ここでは偶像崇拝者が、「遠ざかっているがよい、わたしに近づくな わたしはお前(敬虔な信仰者)にとってあまりに清い」と叫んでいます。立場を逆転させ、仕返しするかのように、自分たちの方が「清い」と言い放ちました。
イザヤは、偶像崇拝者が敬虔な信仰者に「近づくな」と言っていることを皮肉っています。同時に、あきれ果てています。自分たちが「清い」、神聖であると思い込んでいる限り、彼らには救いがありません。
ちなみに、「豚(またはいのしし)の肉を食べる」ことは、ユダヤ人には禁忌とされていました(レビ記11:7、申命記14:8)。「園」、「屋根の上」、「墓場」、そして「隠れた所」、あらゆる場所が、異教の神々を崇める温床になっていました。
イスラエルの民はようやく神殿を再建し、礼拝共同体を確立する時を迎えました。しかし、町や村のそこかしこに、偶像崇拝者たちがたむろしています。イザヤはそこに、「これらの者は、わたし(神)に怒りの煙を吐かせ 絶えることなく火を燃え上がらせる」という「怒る神」の臨在を見ました。
主なる神を信じている人々が誘惑されそうになっています。神の都・エルサレムに、偶像崇拝者や異邦人が押し寄せています。果たして神は、どのように救いの御手を差し伸べられるのでしょうか? 隠れた人の罪悪をも見過ごしにされない神は、「怒りの煙を吐いて」いるということですが(エレミヤ書7:18、11:17)……。
ガリラヤ湖畔で、「墓場を住まいとしている」者が主イエスの前に立ちはだかっています。主イエスは、神の国の福音を告げ知らせようと、自ら異邦人の領域、「ゲラサ人の地方」に足を踏み入れられました。主イエスもまた、その人に向かって「怒りの煙」を上げられるのでしょうか?
Ⅳ いと高き神の子イエス、かまわないでくれ
マルコ福音書5:6-8――
6 イエスを遠くから見ると、走り寄ってひれ伏し、7 大声で叫んだ。「いと高き神の子イエス、かまわないでくれ。後生だから、苦しめないでほしい。」 8 イエスが、「汚れた霊、この人から出て行け」と言われたからである。
神の御心に添って、「〈先行〉イエスが舟から上がられるとすぐに、〈後続〉汚れた霊に取りつかれた人が墓場からやって来た」(マルコ5:2)という出会いが起こりました。
「イエスを遠くから見ると、走り寄ってひれ伏し、大声で叫んだ」……イザヤの時代に、「遠ざかっているがよい、わたしに近づくな」(イザヤ書65:5)と叫んだ反逆の民とは異なります。悪霊に憑かれた人は、主イエスとの「遠さ」(距離)を、「走り寄って」縮めました。「鎖を引きちぎり足枷を砕く」ような荒々しさは影を潜めています。
それは、その人が主イエスの御前に、「ひれ伏す」ためでありました。「汚れた霊」の支配下にある者が、聖なるお方の前に進み出ました。
「ひれ伏す」というのは、礼拝において神の御前にひざまずいている姿勢です。その人の謙遜さのうちに、神に近づくという大胆さが現されています。大切なのは、そこにイエス・キリストが〈主〉、そして、自分が〈従〉という主従関係が結ばれたことです。突如、「死の陰の地に住む者に光が射し込みました」(イザヤ書9:1∥マタイ4:16)。「汚れた霊」との格闘にも、逃れの道が見えてきました。
それから、主イエスとその人は、言葉を交わしました。
↓ ↓
ひれ伏した人「いと高き神の子イエス、かまわないでくれ。後生だから、苦しめないでほしい」
直接表現されてはいないものの、「神の怒り」(イザヤ書65:3,5)のもとに、「出て行け」と命令が下されました。そして、その人は下から「いと高き神の子イエス」を見上げました。イエス・キリストが〈主〉、そして、自分が〈従〉という立ち位置から、「神の子」の御姿が現れました。
しばらく前、対岸のカファルナウムの会堂でも、悪霊に憑かれた人が主イエスに向かって、「神の聖者」と叫びました(マルコ1:24)。このような「汚れた霊ども」の言葉は、「信仰の告白ではなく、恐れの告白である」(L. ウィリアムソン)と考えられます。というのは、悪霊は、イエスの「正体」を、具体的には「我々を滅ぼしに来た」ことを見抜いているからです(同上1:24)。
悪霊は人間の口を借りながら、「後生だから、苦しめないでほしい」と憐れみを乞うています。しかし、聞き捨てならないのは、直前の「かまわないでくれ」との強気な発言です。
「かまわないでくれ」……原文を直訳すると、悪霊のしたたかさが見えています。皆さんは、〔直訳〕「わたしとあなたに何の関係がありますか」との言葉から、それが読み取れますか。考えるよりも唱えてみれば分かります。
すなわち、「わたしとあなたに何の関係がありますか」⇒「関係ないだろ!」⇒「ほっといてくれ。とっとと帰れ!」ということです。それは、決してイエスとは主従関係を結ばないという宣言です。このように相手との関係性を、自分でコントロールしようとする「強い人」(マルコ3:17、Ⅰコリント4:10)に、神の祝福はありません。
誇り高く「強い人」人は、「神の恵みと義の賜物とを豊かに受けている人」(ローマ5:17)の対極にあります。なぜなら、「力は弱さの中でこそ十分に発揮される」からです(Ⅱコリント12:9)。「汚れた霊」の策略を見通しておられる主イエスは、あくまでも関係性の観点から、相手を窮地に追い込みます。「名は体を表す」との普遍の真理を覚えつつ、次へと進みましょう。
Ⅴ イエスは「名は何というのか」とお尋ねになった
マルコ福音書5:9-10――
9 そこで、イエスが、「名は何というのか」とお尋ねになると、「名はレギオン。大勢だから」と言った。10 そして、自分たちをこの地方から追い出さないようにと、イエスにしきりに願った。
この場合、「レギオン」とは、悪霊の名というよりも、悪霊に憑かれている人の実体を表しています。「レギオン」という語は本来、ローマの「軍団」を指すもので、それは約六千人の兵士から編成されています。いずれにせよ、「レギオン」に支配されている人間は巨大な力により圧迫されています。
その人は「レギオン」の力によって衝き動かされていました。「鎖は引きちぎり足枷は砕いてしまい、だれも彼を縛っておくことはできなかった」(マルコ5:4)というのは、その爆発的現象にほかなりません。
主イエスが初めに発せられた命令、「汚れた霊、この人から出て行け」こそが重要です。なぜなら、この人は病んでいるというよりも、その身心が悪霊に乗っ取られているからです。
悪霊に憑かれた人は、主イエスの前に「ひれ伏した」時に、立ち直る道が示されました。なぜなら、主イエスは、何がこの人の問題なのか、ご存じだからです。安易な解決法はかえって、その人の身心を蝕みます。
いくら悪霊が、「わたしとあなたに何の関係があるのか」と抗弁したり、「自分たちをこの地方から追い出さないように」と懇願しても、その人は速やかに悪霊から解放されねばなりません。
結
Ⅰ.と Ⅳ.の終わりに、使徒パウロの、「力は弱さの中でこそ十分に発揮される」(Ⅱコリント12:9)との証しを引用しました。「証し」と言ったのは、この句がさまざまな試練を乗り越えた、彼の経験に基づくものだからです。今、ゲラサの地の「墓場」に住む人が、この御言葉の力にあずかろうとしています。
悪霊祓い自体(マルコ5:11-17)は、見るに堪えない、まことにおぞましい出来事です。しかし、自分の常識や善悪の判断をもって、ただ眺めるだけというのは止めましょう。なぜなら、その出来事の中に、神の御心が現されているからです。主イエス・キリストは、異邦人伝道の最初の御業において、わたしたちに救いと愛を示されました。
わたしたちが、見て、知って、信じるに価するのは、次のことです。
御前にひれ伏す人の弱さの中でこそ十分に発揮される」
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〈説教の要約〉
2024年 8月18日
説教の構成――
Ⅱ 兄弟と呼ばれる人で、みだらな者とは つき合うな ……Ⅰコリント5:11
Ⅲ 内部の人々をこそ、あなたがたは裁くべきではありませんか ……Ⅰコリント5:12
Ⅳ あなたがたの中から悪い者を除き去りなさい
……Ⅰコリント5:13 + 申命記13:6
序
前回から、コリントの信徒への手紙 一 の新しいまとまり(同上5:1-6:20)を読み始めています。そこでまず、コリント教会内の「みだらな行い」が取り上げられます(同上5:1)。これは、教会が置かれているコリントの町全体の問題でもありました。
教会は神の聖なる神殿である(Ⅰコリント3:17)と同時に、誰もが入って来られるよう、この世に向けて開かれています。コリントの町は、ギリシア人が多数を占めていました。そして、地中海世界の交易拠点として、イタリア、小アジア、アフリカのエジプトやリビア、そしてパレスチナから多数の異邦人が押し寄せてきていました。ユダヤ人もコリントに会堂を建て、信仰を守っていました(使徒18:7)。
そのような環境の中で、パウロが教会の土台を据え、アポロをはじめする人々が建てついでいきました。自ずから、歴代の指導者たちがどれほど、教会の聖さを保つために腐心していたかが、しのばれます。当時、偶像崇拝に熱心な異邦人の家で働いていたキリスト者もいたことでしょう。富裕なギリシア人に負債があり、言いなりにならざるを得ない教会員もいたかも知れません。いずれにせよ、信仰の揺らぎやすい彼らへの牧会は重要でありました。
パウロのコリント伝道を支えたのは、主なる神の御声でありました……「恐れるな。語り続けよ。…… あなたを襲って危害を加える者はない。この町には、わたしの民が大勢いるからだ」(使徒18:9-10)。
大胆に異教の世界に出て行くこと……そこから、コリントの伝道が始まります。その上で、外の世界との接触により疲れた魂がいやされるよう配慮しなければなりません。教会内に、間違った性的自由が忍び込んでいれば、原因を見極め、「神の慈愛と峻厳」(ローマ11:22 口語訳)をもって正さねばなりません。
ちなみに、今扱っている聖書箇所・「不道徳な人々との交際」(Ⅰコリント5:1-13)は二分割されますが、各段落はパウロによる勧告で締めくくられています。
〈連帯〉「純粋で真実のパンで過越祭を祝おうではありませんか。」Ⅰコリント5:8
〈除名〉「あなたがたの中から悪い者を除き去りなさい。」同上5:13
「みだらな行い」という微妙な問題に突きあたりながらも、パウロの論理は乱れていません。むしろ、“ 霊 ” の導きによって、二つの勧告が、「神の慈愛」〈連帯〉から「神の峻厳」〈除名〉へと行き巡っています。
パウロは初めに、キリストの体なるコリント教会に愛を語り、次に、「みだらな者」(Ⅰコリント5:9)に対し正義を告げています。そこには、神の知恵が豊かに宿っており、“ 霊 ” 的な説明が提示されています。パウロ自身は、「キリスト・イエスによって聖なる者とされた人」(同上1:2)ですが、教会内の「みだらな行い」に真剣に係わろうとしています。
それでは、本日のテキスト、「あなたがたの中から悪い者を除き去りなさい」が結びとなっている箇所を読むことにしましょう。
Ⅰ あなたがたは世の中から出て行かねばならないのか
コリントの信徒への手紙 一 5:9-10――
9 わたしは以前手紙で、みだらな者と交際してはいけないと書きましたが、10 その意味は、この世のみだらな者とか強欲な者、また、人の物を奪う者や偶像を礼拝する者たちと一切つきあってはならない、ということではありません。もし、そうだとしたら、あなたがたは世の中から出て行かねばならないでしょう。
パウロは、「みだらな行い」という微妙な問題を解決していくにあたり、「以前の手紙」によって生じている誤解を解こうとしています。互いの間に共通認識を築いてから、議論を進めるというやり方は言うまでもなく、賢明です。パウロの冷静さがうかがえます。
ところで、パウロがコリント教会宛に書き送ったと見られる「以前の手紙」は、詳細不明です。というのも、新約聖書・パウロ書簡内に、「以前の手紙」が見当たらないからです。しかしながら、「今の手紙」(コリントの信徒への手紙・本文)に照らせば、「以前の手紙」から、どのように誤解が生じたのか、推察できます。
「以前の手紙」の本文 …… みだらな者と交際してはいけない。
誤解の元 …… どのように「みだらな者」という言葉を認識したのか。
・パウロの真意
「あなたがたの間で、ある人が父の妻をわがものとしている」(Ⅰコリント5:1)との言説の通り、
「みだらな者」は、教会内の人物、すなわち、キリスト者を指している。
・コリント教会側の理解
すなわち、教会の内外にかかわらず、「みだらな者と一切つきあってはならない」という厳しすぎる命令だと受け止めた。
結果として、教会内から「みだらな者」または「みだらな行い」を取り除くことをしなかった。
「みだらな行い」という個別の問題としてではなく、パウロとコリント教会とのすれ違いを大局的に眺めてみましょう。
そこで見えてくるのは、パウロがキリスト教倫理を確立する、その途上にあったということです。パウロは十戒など旧約の律法に精通している人ですから、キリスト者としての「新しい生き方」、倫理・道徳をとりまとめていく適任者であります。
しかし、パウロが細目まで決めて、起草して終わりというものではありません。エルサレム教会のペトロたちの意見も聞かなければならないでしょう。それなら、皆が従えるような、キリスト教倫理を確立するには、時間がかかるでしょう。加えて、その倫理は、それぞれの教会が置かれた地域、文化、政治等にも関わりがあります。
そのような難題を抱えていますが、わたしの見るところ、パウロにおいて、キリスト教倫理が確立される途上でありました。
パウロや同労者アポロやテモテは、“ 霊 ” の導きのうちに、自分がどのような使命を持っており、また、どのような立場にあるか、真剣に考えていました。その中でキリスト者として、どのように、自分が振る舞うべきか、あるいは、隣人の困窮に応じ助けるか、が明確になってきました。
ただし、パウロが「以前の手紙」を書いた時点では、「(教会)内部の人々のみだらな行い」と「外部の人々のみだらな行い」との区別が曖昧でありました。その点では、誤解が生じたのも、止むを得ないことでありました。
もちろん、「みだらな行い」という罪過に、二通りの「評価・判断」があるわけではありません。しかし、教会員が「キリスト教倫理」を実践するときに、「内部の人々」と「外部の人々」との間で、交際の仕方に違いが出て来るのは当然です。「みだらな行い」は微妙な問題だからこそ、まずは教会内でその罪過への対応を定めるべきでありましょう。
この世の道徳はルーズだ(たるんでいる)とかこつ前に、例えば、「姦淫してはならない。隣人の妻、男女の奴隷、牛、ろばなど隣人のものを一切欲してはならない」(出エジプト記20:14,17)との戒めによって、神の御前に立つことです。この世の腐敗を嘆く前に、「みだらな行いを避けなさい」(Ⅰコリント6:18)との言葉を自分の心に刻まねばなりません。
「もし、そうだとしたら、あなたがたは世の中から出て行かねばならないでしょう」……パウロは皮肉を込めて、やんわりと問いかけています。にもかかわらず、「世の中」ある教会だからこそ、早いうちにキリスト教倫理を確立したいとのパウロの熱意が、一部の人にしか伝わっていないようです。
コリントの町には、「みだらな者、強欲な者、人の物を奪う者、偶像を礼拝する者」に溢れていました。そこでパウロは、教会で礼拝を守り、「世の中」で生活するキリスト者に簡潔な命令を送っています。
Ⅱ 兄弟と呼ばれる人で、みだらな者とは つき合うな
コリントの信徒への手紙 一 5:11――
わたしが書いたのは、兄弟と呼ばれる人で、みだらな者、強欲な者、偶像を礼拝する者、人を悪く言う者、酒におぼれる者、人の物を奪う者がいれば、つきあうな、そのような人とは一緒に食事もするな、ということだったのです。
パウロは、「わたしが書いたのは」と書き出して、「以前の手紙」で曲解された事柄について真意を伝えようとしています。Ⅰ.でも述べましたが、このような信仰者同士のやり取りを通じて、キリスト教倫理が確立されてきました。つかの間の誤解を解きほぐすことから、「兄弟と呼ばれる人」、すなわち、キリスト者の生活が秩序づけられていきます。
ここでは、「みだらな者、強欲な者、偶像を礼拝する者、人を悪く言う者、酒におぼれる者、人の物を奪う者」というように、六つの悪徳が数え上げられています。「兄弟と呼ばれる人で」と前置きされた上で、このような罪深い行いをする者とは「つきあうな」と、彼らとの交際が禁じられています。
そしてパウロは具体的に、「そのような人とは一緒に食事もするな」と指示を出しています。コリントの町では、キリスト者が異教徒と「食事をする」機会が頻繁にあったと思われます。異教徒は、隣の家にも、仕事場にも、さらには家庭の中にも存在していたはずです。
従って、いくらひもじい思いをしていても、「偶像を礼拝する」形での食事の催しには警戒しなければなりません。飲食によって羽目を外し、邪な教えに毒されるというのは、人間の性とも言える悪弊です。その罠にはまらないためにも、「そのような人とは、つきあうな」との教えを通じて境界線を引いておくことです。
ここで、「食事をする」というのは、教会内の愛餐会や家庭集会での飲食などに関わる問題ですので、少し補足します。
「そのような人とは一緒に食事もするな」とは逆の面で、果たして、キリスト者が律法主義的に「食事をする」ことに制限を付けるのは、如何なものかということです。パウロのここでの議論では「食事」を(聖礼典としての)「聖餐」に特定しているわけではありません。それで今お話ししているのは、ふだんキリスト者同士が、あるいは、キリスト教を求道する者が、「一緒に食事をする」際の指針について、になります。
それで思い起こすのは、主イエスの公生涯や初代教会の時代において、(誰とかは後で説明します)「一緒に食事をしてはならない」と禁じることで、宣教が妨げられることが、しばしばあったということです。
二つの事例を挙げましょう。
マルコ福音書2:16-17 レビを弟子にする――
16 ファリサイ派の律法学者は、イエスが罪人や徴税人と一緒に食事をされるのを見て、弟子たちに、「どうして彼は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言った。17 イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」
ガラテヤの信徒への手紙2:11-12 パウロ、ペトロを非難する――
11 さて、ケファ(=ペトロ)がアンティオキアに来たとき、非難すべきところがあったので、わたしは面と向かって反対しました。12 なぜなら、ケファは、ヤコブのもとからある人々が来るまでは、異邦人と一緒に食事をしていたのに、彼らがやって来ると、割礼を受けている者たちを恐れてしり込みし、身を引こうとしだしたからです。
これらの「食事」の事例から分かるのは、「イエス」、また、「ケファ」(同席しているパウロも)、すなわち、新約の時代を代表する人物が、「罪人」、「徴税人」、そして「異邦人」と「一緒に食事をしていた」という事実であります。
出自や人種の垣根を越えて「兄弟と呼ばれる人」(=キリスト者)とは会食をするのが、慣わしでありました。「割礼を受けている者」でキリスト教に改宗したユダヤ人も、「割礼を受けていない」異邦人のキリスト者も、等しく招かれました。その「食事」の席において、主イエスの御言葉が語られ、「兄弟姉妹」の交わりが深められました。
わたしたちは概ね、「兄弟と呼ばれる人とは一緒に食事をする」という基本姿勢を保持しています。そうした中で、「みだらな者とは一緒に食事をするな」との禁令が発せられたことに留意しなければなりません。
食生活というのは、キリスト者のみならず人間すべての基盤であります。どんな物を食べてよいとするのか、あるいは、どのような作法をもって食卓につくのか等、多少の違いがあります(レビ記11章、マルコ7:3-4、使徒10:9-16)。
今日でも、キリスト者が「一緒に食事をする」際には、「食べ物について兄弟が心を痛めるないように」配慮しなければなりません(ローマ14:15)。日和見主義の「ケファ」のように、会食のメンバーを見渡して、出欠を決めるのも慎まなければなりません。大切なのは、主イエスの臨在を祈り、愛をもって食卓を囲むということです。
パウロはコリントでもエフェソでも、日毎の食卓において、主イエス・キリストにより「神の慈愛と峻厳」(ローマ11:22 口語訳)が現されることを願っていました。その意味では、自分の宣教の困難を覚えつつ、「神の峻厳」により「みだらな者とは一緒に食事もするな」と勧告したのではないでしょうか。牧会上の試練に襲われる中でも、パウロは「キリストに仕える者であり忠実な管理者」(Ⅰコリント4:1-2)として、自分を抑制することを知っていました。
Ⅲ 内部の人々をこそ、あなたがたは裁くべきではありませんか
コリントの信徒への手紙 一 5:12――
外部の人々を裁くことは、わたしの務めでしょうか。内部の人々をこそ、あなたがたは裁くべきではありませんか。
パウロは「今の手紙」で、誤解を解きほぐすべき、明瞭な言葉遣いをしています。一方、「外部の人々」とは、教会の「外」の人々を指しています。他方、「内部の人々」は教会の兄弟姉妹を表しています。
初めに、キリスト者は①「外部の人々を裁くべきではない」こと、次に、キリスト者は②「内部の人々を裁くべきである」ことについて説き明かしましょう。
これは、「外部の人々」、この世の人々に関心を持ってはならないということではありません。そもそも、「世の中から出て行く」ならば、自ら伝道の芽を摘んでしまうことになります。信仰者は「いわば旅人であり、仮住まいの身」(Ⅰペトロ2:11)として、「この世」で力の限りに生活しています。主イエスは神の民に、「地の塩」であり「世の光」であるように、と使命を託されました(マタイ5:13-14)。
だからこそ信仰者は、「この世の悪い者」や「みだらな者」から「守ってくださる」ように、と主に願い祈っています(ヨハネ17:11)。このように、神に依り頼むことにおいて、「外部の人々を裁く」のを差し控えるのです。それによって、「ですから、主が来られるまでは、先走って何も裁いてはいけません」(Ⅰコリント4:5)との教えに従えるようになります。
②「内部の人々を裁くべきである」――
わたしたちは、「裁く」という言葉からすぐに裁判を想起します。がしかし、「裁く」との原意は「二つに分ける」で、善し悪しを「判断する」(評価したり批判したりする)ということです。ですから、教会内でお互いに「裁く」、すなわち、「判断する」のは日常的なことと言えます。
付け加えれば、「量る」という言葉も同列です。主イエスは弟子たちに、「何を聞いているかに注意しなさい。あなたがたは自分の量る秤で量り与えられ、更にたくさん与えられる」(マルコ4:24)とのたとえを語られました。ここには明確に、信仰者は「自分の量る秤」を持っていることが示されています。その「秤」をもって正しく、神と、自分と、兄弟姉妹とのことを「判断する」のです。その判断のもとに、愛の交わりが確立されるのでありましょう。
絵画的描写になりますが、「自分の量る秤」は、主イエス・キリストなる「ともし火」によって皓々と照らされています(マルコ4:21)。その上、「自分の量る秤」には元来、注意深く「聞く耳」が付いています(同上4:31)。
「あなたがたは自分の量る秤で量り与えられ、更にたくさん与えられる」というのですから、主イエスはこの「自分の量る秤」が活用されることを望んでおられます。台所の戸棚に隠しておいてはなりません。
Ⅰ.で、パウロはキリスト教倫理を確立する、その途上にあったと述べました。それは言い換えると、「自分の量る秤」で、信仰者のガイドブックとなる「善し悪しの判断」の集成が出来つつあったということになります。“ 霊 ” の息吹のかかった「秤」を重用したパウロは確かに、「持っている人は更に与えられるであろう」人(マルコ4:25)の先駆者でありました。
そのパウロの、「内部の人々をこそ、あなたがたは裁くべきではありませんか」との勧めに耳を傾けましょう。そうすれば、聖書の規範のもとに、教会内で、「人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をする」(Ⅱテモテ3:16)ことが実践されるでしょう。
Ⅳ あなたがたの中から悪い者を除き去りなさい
コリントの信徒への手紙 一 5:13――
外部の人々は神がお裁きになります。「あなたがたの中から悪い者を除き去りなさい。」
その預言者や夢占いをする者は処刑されねばならない。彼らは、あなたたちをエジプトの国から導き出し、奴隷の家から救い出してくださったあなたたちの神、主に背くように勧め、あなたの神、主が歩むようにと命じられる道から迷わせようとするからである。あなたはこうして、あなたの中から悪を取り除かねばならない。
段落の結びに旧約を引用する傾向のあるパウロは(Ⅰコリント1:31、2:16)、「不道徳な人々との交際」(同上5:1-13)のまとまりの最後に、申命記の勧告を置いています。そこに、「書かれているもの以上に出ない」(同上4:6)という彼の節度と賢明さが表されています。
引用元の申命記13:6について、短く補足します。これは、偽預言者たちがしるし、奇跡、そして夢占いなどを使って、主なる神を信じる者たちを誘惑しているという状況下に物語られたものです。主の言葉を取りつぐモーセは、「あなたたちをエジプトの国から導き出し、奴隷の家から救い出してくださった」という神の大いなる御業を思い起こすように、と告げています。憐れみと義なる神の権威によって、「あなたの中から悪を取り除け」と命じられています。
「あなたがたの中から悪い者を除き去りなさい」……ここでは、コリント宛の「以前の手紙」で誤解が生じたことを踏まえて、簡明に「みだらな者」に対する裁きを指示しています。「あなたがたの中から」との一句の内に、「あなたがた」に戒規上の手続きがゆだねられていることが分かります。
現実に、コリント教会は、「あなたがたの間にみだらな行いがあり、しかもそれは、異邦人の間にもないほどのみだらな行いで、ある人が父の妻をわがものとしている」(Ⅰコリント5:1)という由々しき事態に直面しています。
結
教会における裁きは、神の御前において、「自分たちの量る秤」によって「判断される」ものであります。従って、「判断する」側の人々が、主イエス・キリストなる「ともし火」に照らされて、十字架と復活の御言葉を「聞いている」かどうか問われています。慎重に祈りをもって進めねばなりません。
言い換えれば、それは、その兄弟が罪のどん底から、神のもとへ立ち帰るかどうか、慎重に待つということです。「あなたがたの間に」、「そういう人を柔和な心で正しい道に立ち帰らせる」(ガラテヤ6:1)よう執り成す人が現れるかも知れません。
何よりも、主イエス・キリストが「あなたがたの間に」立っておられます。主イエスはかつて、二、三人の証人の立てられた教会での裁きに関して、次のように述べられました。
マタイ福音書18:15――
「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい。言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる。」
「あなたはあなたの兄弟を得たことになる」の英訳は、‘ you have won your brother back ’(TEV)です。 ‘ win … back ’ という熟語が絶妙です! 単に人が奪還されて良かったという話ではありません。これをヒントにわたしは、次のように意訳してみました。
「あなたは“霊”に導かれて、いったん迷い出たあなたの兄弟を取り戻し、主の勝利を輝かすことになる。」
この度の「みだらな者」の裁きは、除名という結果に終わるのでしょうか。神の祝福が、コリント教会の信徒の「量る秤」の上に、正当な判断の上に、ありますように、とパウロは祈っていたことでしょう。
たといその兄弟を ‘ win … back ’ できなかったとしても、何事においても、神の栄光を映し出すことを第一とするコリント教会の働きを、神はいつも見守っておられます。神はわたしたちを祝福し、命の息を吹き入れるお方です。そのお方に結びつけられてこそ、わたしたちは「清さを保ち続ける」ことができます。
パウロに倣って、自分の清さに気を配るだけでなく、「みだらな者」が神の栄光のもとに奪い返されるよう、執り成し、祈りましょう。聖なる者とされた人には、キリストの体を造り上げてゆく使命が託されています(エフェソ4:12)。
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〈説教の要約〉
2024年 8月11日 旧約聖書 哀歌 2章14節
新約聖書 ルカによる福音書 22章31節~34節
説教の構成――
序
Ⅰ あなたがたを小麦のようにふるいにかける ……ルカ22:31
Ⅱ 兄弟たちを力づける ……ルカ22:32
Ⅲ 死んでもよいと覚悟する ……ルカ22:33
Ⅴ あなたを立ち直らせる ……哀歌2:14
結
序
主イエスは十字架につけられて、死を遂げ、三日後によみがえられました。それは、わたしたちの弱さと罪を担い、わたしたちを新しく生まれ変わらせるためでありました。それが、神のお遣わしになった主イエスによって救われるということでありました。
神は、わたしたちが救われて、希望をもって将来に向けて歩み出すことを心から願っておられます。というのも、元々人間は、「見よ、それは極めて良かった」(創世記1:31)との神の言葉のもとに創られたものだからです。神は創造主として、人間を見守っておられます。主イエスがこの世に遣わされたのも、神がわたしたちに寄り添っていることを示すためでありました。
そのような神の力と愛に応えるために、わたしたちが何をすればよいのでしょうか?
大きく分けると、二つあります。一つは、神を信じ、神にあらゆることをゆだねることです。それを実践するために、キリスト者は主の日に礼拝を守り、日々祈っています。
もう一つは、わたしたちが神への感謝を現すことです。神を礼拝し祈ることはじめ、自分で聖書を読むこと、隣人のために善い行いをすることなどがあります。
わたしたちが忍耐強くそれらを続けていくとき、わたしたちが神の国をめざし、希望をもって歩んでいることは大きな力となります。と同時に大切なのは、自分の個性や賜物などを、その弱さを含めてしっかりと見つめることです。
なぜなら、自分には思い悩みがあり、また、この世にはさまざまな誘惑や苦難があるからです。それ故に、隣人を助けるための自分の善い行いが本当に正しいことなのか、分からなくなることがあります。また、その善い行いを途中で放り出してしまうような挫折に遭うこともあります。だからと言って、自分の弱さや罪を包み隠してしまうことは、神の御心ではありません。
主イエスはたとえをもって、「あなたがたは自分の量る秤で量り与えられ、(あなたがたに)更にたくさん与えられる」(マルコ福音書4:24)、と人々に教えられました。主イエスの御言葉を「聞く耳」を持っている人は、「自分の量る秤」を使い得る人です。その人は、主イエスの「ともし火」によって、自分の信仰や善行が皓々と照らされます。ごまかすことも、なまけることもできません。
だから、その人は善い行いの是非を「量る」つまり「判断する」ことができます。挫折や困難に遭っても、正しく「評価する」・「批判する」・「考える」ことができます。ブレーズ・パスカルが「人間は考える葦である」と言ったのは、まさにこのことです。
少し前置きが長くなりましたが、主イエスが十字架刑直前の晩餐で、その最後の最後に語られたのは、今お話ししたことと深い関係があります。残念ながら、ペトロはじめ使徒たちは、自分の弱さや罪におぼろげにしか気づいていません。主イエスはどんなことを、そのようなペトロに告げておられるのでしょうか?
Ⅰ あなたがたを小麦のようにふるいにかける
ルカ福音書22:31 主イエスの言葉――
「シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。」
「シモン、シモン」との連呼には、切迫した雰囲気の内に、弟子・ペトロに対する主イエスの熱い思いが表れています。良くも悪くも、失敗があったとしても、ペトロは弟子たちのリーダーなのですから。
「サタンは……を神に願って聞き入れられた」との表現は微妙です。なぜなら、「あなたがたを、小麦のようにふるいにかけること」が、神の計画なのか、それとも、サタンの仕業なのか、曖昧になっているからです。しかし、根本的にはそこに神の御心が働いていたと見て、良いでしょう。次の出来事において、それが例証されています。
それは、主イエスが悪魔によって受けた、荒れ野の試みです(ルカ4:1-12)。「荒れ野の中を“霊”によって引き回された」、その出来事において、主イエスは苦難を背負いながらも、わたしたち・信仰者に重要なことを教えられました。すなわち、「わたしたちを誘惑に遭わせないでください」(ルカ11:4)と祈ることを教えられました。わたしたちは自分の人生で、どんな「誘惑」が襲って来るのか、分かりません。それ故に大切なのは、祈りの中で、弱い自分を認め、神に助けを願い求めることです。「誘惑」への勝利は、主イエスに任せばよいのです。
主イエスが「四十日間、悪魔から誘惑を受けられた」のは、何よりもガリラヤ伝道において、「誘惑」に打ち勝つ神の御子が登場するという備えであり幕開けでありました。と同時にそれは、「誘惑」の嵐の中でひたすら祈るよう信仰者を導くという教えでありました。
「サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかける」……「ふるいにかける」ことによって、本物と偽物とが分けられます。本物を装っていたとしても、この「ふるいわけ」によって、偽物は「ふるい」落とされます。
では、サタンによる最強クラスの「ふるいわけ」に耐えて残った「本物」とは、一体何を指しているのでしょうか。そこで、この試みの遂行が「神に願って聞き入れられた」との句がヒントになります。
主なる神は今、御子イエス・キリストを世に遣わして、罪人を助け出そうとされています。とりわけこれは、主イエスの十字架と復活の出来事の直前の、「サタン」と「神」とのやりとりです。
サタンの巻き起こす激しい「ふるいわけ」を用いてまでも、神が企図されたのは、御子の前に「本物」を残すということでありました。従って、「本物」とは、主イエス・キリストを信じ、主によって救われる人を指しています。主イエスの死と復活の予告(マルコ8:31)を聞いて、その救いの御業に自分もあずからせてください、と御子の前に進み出る人が、「本物」の信仰者なのです。
付け加えれば、すぐに吹き飛ばされる偽物と違って、最後まで残る「本物」は最強度の「ふるいわけ」を長時間こうむることになります。ペトロやパウロが迫害はじめ数々の試練に遭っているのは、そのためです。
繰り返しになりますが、主イエス・キリストの救いの御業に、自分があずかっているか、それを頼みの綱としているか、そうでないか、が分かれ目です。どんな試練の時にも、自分で克服するのではなく、そこから逃れられるように、主イエスに祈ることが第一に肝要です。
Ⅱ 兄弟たちを力づける
「しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」
「しかし」で、次の驚くべき展開が示されています。すなわち、神の監視下でのサタンの「ふるわけ」作業には必ず終わりの時が来ます。主イエスが「信仰」が守られるように、「あなたのために祈って」くださいます。「だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」というように、あなたの出番がやって来ます。
その時、主イエスの御言葉を「聞くあなたの耳」は研ぎ澄まされます。この世の善悪を見極める「あなたの量る秤」は重用されます。「あなたは立ち直った」という強みを持っています。「あなた」はつまずきそうな人の傍らに立つことができます。苦難を体験した「あなた」は、同じような苦しみをこうむっている人を「力づけ」られます。
主の晩餐の直後、大祭司の屋敷内で、ペトロは三度もイエスを否みます(ルカ22:54-62)。「だから、あなたは立ち直ったら」って、本当なのかしら、と思うことでしょう。
ルカ福音書23:34 十字架上で――
そのとき、イエスは言われた。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」
しかし、ペトロは立ち上がって墓へ走り、身をかがめて中をのぞくと、亜麻布しかなかったので、この出来事に驚きながら家に帰った。
ルカ福音書24:33-34――
33 そして、時を移さず(二人の弟子がエマオから)出発して、エルサレムに戻ってみると、十一人とその仲間が集まって、34 本当に主は復活して、シモンに現れたと言っていた。
十字架上で主イエスは、罪人たちを見渡しながら「父よ、彼らをお赦しください」と言われました。「信仰が無くならないように」、逃亡しているペトロを覚えて祈っておられました。
そのことは、復活の主イエス・キリストによって、ペトロの「信仰」が呼び覚まされたことから分かります。空の墓にまつわる婦人たちの言葉を聞いて、ペトロはすぐに墓に向かって駆け出しました。それから、その夕べには仲間たちの間で、ペトロは「本当に主は復活して、自分に現れた」と証ししました。
これぞまさに、わたしたちの思いをはるかに超えた出来事、人生の大逆転です。ペトロは、死から起き上がられた主イエスによって、「立ち直らされ」ました。
そうして、ペトロは、エマオから戻って来た二人の弟子はじめ、その仲間たちを「力づける」者となりました。ただし今や、「本物」の信仰者であるペトロは、「小麦のようにふるいにかける」ような試練によって打ちのめされた、弱く罪深く人間であることをも、大胆に証言したに違いありません。
聖霊降臨の後に、ペトロはエルサレム神殿の境内で、民衆にこう語りかけました……「だから、自分の罪が消し去られるように、悔い改めて立ち帰りなさい」(使徒3:19)。この言葉は、ペトロを取り巻く群衆のみならず自分自身に向けられたものなのではないでしょうか……三度もイエスを否んだ大罪が赦されるように、と。ペトロが演説している所から、ゴルゴタの丘はさほど遠くありません。そこに、大胆に御言葉を語るペトロの力の源がありました。
Ⅲ 死んでもよいと覚悟する
ルカ福音書22:33――
するとシモンは、「主よ、御一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております」と言った。
十字架刑の前夜に、話は戻ります。つまり、ペトロが「悔い改めて立ち帰る」以前のことです。
まるで天の邪鬼のように、ペトロは片意地を通しています。主イエスの「信仰が無くならないように」あるいは「だから、あなたは立ち直ったら」(ルカ22:32)という慈しみ深い語りかけは、ペトロには他人事です。魂への配慮である御言葉を受けつけていません。
「信仰が有る」から大丈夫、つまずかないから「立ち直る」必要はないと、ペトロは思い込んでいます。そうして、先を見通す主イエスに逆らっています。
一見、「牢に入っても死んでもよいと覚悟している」とのペトロの言葉には、非の打ち所がないように思われます。しかし、「主よ、御一緒になら」と言いつつも、慈しみ深い主の言葉を拒んでいるのは、どういう訳でしょうか。主イエスが傍らにおられると言うならば、主に対し、とことんへりくだるべきでありましょう。ここで、ペトロの盟友、パウロの事例を引きましょう。
第三回・伝道旅行の折、パウロはエフェソの長老たちに、次のように述べました。パウロは幾度も、「牢に入っても死んでもよい」というほどの苦境を経験した人でありました(使徒14:5、16:22-24)。
使徒言行録20:23――
「ただ、投獄と苦難とがわたしを待ち受けているということだけは、聖霊がどこの町でもはっきり告げてくださっています。」
「聖霊がはっきり告げる」が故に、自分は「わたしを待ち受けている投獄と苦難」に対し心構えができているということです。「待ち受けている」との言い方から、自分が勇んで体当たりし撃沈しようというのではない、と分かります。
自分の「覚悟」ではなく、「聖霊」の教えに従って、苦難の道を進んで行くと、パウロは証言しています。その点で、十字架の出来事以前の、片意地を張ったペトロとは大きく異なっています。ペトロは自ら危険を冒してヒーローになろうとしています。
ペトロは、うわべだけで「主よ、御一緒になら」と言っているに過ぎません。「聖霊」によって為すべきことを教えられるという霊性と熟慮が欠けています。そこで、主イエスがペトロを一喝されます。
Ⅳ 三度わたしを知らないと言う
イエスは言われた。「ペトロ、言っておくが、あなたは今日、鶏が鳴くまでに、三度わたしを知らないと言うだろう。」
「三度わたしを知らないと言う」……ペトロは冷や水を浴びせられたような気分になったでしょうか。「牢に入っても死んでもよい」というペトロの「覚悟」は打ち砕かれました。主イエスは、ペトロの行いではなく、御自身と一人の弟子との関係を問われました。「あなた」は「わたし」を信じているか、が中心テーマでありました。その信仰から、善い行いが生み出されます(Ⅱコリント8:7)。
「父よ、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください」(ルカ22:42)と祈られたお方の予告です。ですから、「三度わたしを知らないと言うだろう」というのは重い言葉です。この夕べの食事が終わってから、朝「鶏が鳴くまでに」、予告通りのことが起こります。
その夜、主イエスは祭司長や長老たちによって逮捕され、大祭司の家に連れて行かれます(ルカ22:54)。「主よ、御一緒になら、死んでもよい」と言っていたペトロは主を追って、その屋敷に忍び入りました(同上22:55)。そこで、主の晩餐の席(同上22:14-23)と異なり、ペトロは完全アウェーの状況に投げ込まれます。独りきりで、反イエスの人々がたむろしている、閉じられた空間に置かれました。そこでは、自分の知識や経験、また「覚悟」は役立ちません。
ペトロは、主イエスの注意喚起された「ふるいわけ」に遭遇することになります。「イエスを知っている」か、それとも、「イエスを知らない」かの二択です。そうして、本物と偽物とが見分けられます。
「サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかける」のですから、その「ふるいわけ」は容赦ありません。眼光鋭く、記憶力抜群の告発者がペトロを尋問します(ルカ22:54-62)。
結果は、火を見るよりも明らかです。「イエスを知らない」の三連発で、決死の「覚悟」のペトロは自滅しました。「そして外に出て、激しく泣いた」(ルカ22:62)……いとも鮮やかな撃沈です。ペトロの片意地も熱い思いも打ち砕かれました。
その時にこそ、「だから、あなたは立ち直ったら……」との主イエスの言葉を思い起こしたいものです。まだ半日も経っていないのですから、思い出すのは容易です。主イエスは「打ち砕かれ悔いる心」(詩編51:19)の人を見過ごしにされません。「川のように涙を流す、休むことなくその瞳から涙を流す」(哀歌2:18)の人の傍らに立っておられます。
ここで一応、本日のテキスト「ペトロの離反を予告する」についての説き明かしを終えることにします。ただし、補足の形になりますが、「だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」との慈しみ深い主イエスの言葉について、旧約聖書を通して掘り下げてみましょう。
Ⅴ あなたを立ち直らせる
哀歌2:14――
一度、罪をあばくべきなのに
むなしく、迷わすことを
あなたに向かって告げるばかりであった。
ユダ王国がこうむった大惨事(前587年)の際に、その情況を実況中継するかのごとく、哀歌2章が編まれました。ここで、「あなた」と呼ばれているのは、「娘エルサレム」(哀歌2:13)のことで、ユダの残りの民を表しています。詩人は、「娘エルサレム」に寄り添いつつ、その悲しみを歌い上げています。
一方、バビロニア軍の攻撃によって虐殺された人との別れがあり、他方、バビロンの地に連行されていく人との別れがあります。弔いと見送りの中で、主なる神への信仰を守り続けるのは、並大抵のことではありません。
この時、「娘エルサレム」は、「サタンがあなたがたを、小麦のようにふるいにかける」というような試みに遭っていたのでしょうか。確かに、王国、神殿、そして多くの宗教指導者が失われていく中で、選民・イスラエルの、信仰の真価が問われたことが、哀歌の内容からも伝わっています。
思いがけない「ふるいわけ」によって、偽物は飛び散りました。その正体が暴かれました。「むなしい、偽りの言葉ばかり」の「託宣」であった、と告発されています。
しかし、信仰においての本物、すなわち、「苦難の時の砦の塔」(詩編9:10)なる主に依り頼んでいた人々が数多く残っていたわけではありません。だからこそ、哀歌に中心テーマとして、「あなたを立ち直らせる」ことが取り上げられたのです。
ここで、「あなたを立ち直らせるには 一度、罪をあばくべきなのに」という詩人の言葉に沿って、「娘エルサレム」が神礼拝を再開し、善い行いをするようになる道筋を捉えましょう。
最初に、「だから、あなたは立ち直ったら」(ルカ22:32 ギリシア語)と「あなたを立ち直らせるには」(哀歌2:14 ヘブライ語)とを並べて考察しましょう。すると双方とも、「立ち直り」の原意は「立ち帰り」であり、それは、主なる神への「立ち帰り」を表している、と判明します。
次に、真に神に「立ち帰る」ために、自分の「罪をあばく」こと、すなわち、自分の「罪」を告白し、「悔い改める」ことが起こります。「鶏が鳴いたとき」にペトロが「激しく泣いた」(ルカ22:60-62)というのは、彼の悔いる心を示唆しています。
最後に、わたしたちが神に「立ち帰り」、「立ち直る」ならば、「兄弟たちを力づける」という愛の業が始められます。神の愛がわたしたちに注がれます。そして、わたしたちが通りよき管として用いられ、その愛が隣人に分かち与えられます。
結
突発的な「ふるいわけ」、あるいは、大災難という試みに遭った、使徒ペトロや「娘エルサレム」の人生から、次のことが分かります。
それは、最初から最後まで一貫しているのは、主イエス……その先駆者としての哀歌詩人……の祈りであるということです。父なる神への立ち帰り、罪人の悔い改め、そして隣人への愛という大きな輪の中心に、主イエス・キリストがおられます。「わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った」というのですから、危難が激しいほど、主イエスは信仰者のために、いよいよ切に祈ってくださいます。祈られる主イエスが、わたしたちと共に戦ってくださいます。
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〈説教の要約〉
2024年 8月4日 日本キリスト教団 茅ヶ崎香川教会
聖霊降臨節 第12主日
旧約聖書 詩編89編 10節(P.926)
新約聖書 マルコによる福音書 4章35節~41節(P.68)
説 教「風はやみ、すっかり凪になった」 小河信一牧師
説教の構成――
序
Ⅰ 向こう岸に渡ろう
……マルコ4:35-36
Ⅱ わたしたちがおぼれ死んでもいいのですか
……マルコ4:37-38
Ⅲ あなたは荒れ狂う海を静められる ……詩編89:10
Ⅳ すると、風はやみ、すっかり凪になった ……マルコ4:39
Ⅴ あなたがたにはいまだに信仰がないのか
……マルコ4:40-41
序
主イエスはこれまでに、病気のいやしや悪霊の追放などの奇跡(マルコ1:21-45、2:1-12、3:1-6,10-11,22-23)を行われました。次の大きなまとまり(同上4:35-5:43)には、より大きな奇跡が連続して出てきます。
それに伴って、伝道の範囲が徐々に広がっていきます。主イエスはガリラヤ湖畔・カファルナウムを拠点としつつ、ガリラヤ周辺(マルコ5:1、6:1)を巡回されます。そうして、ユダヤ人のみならず各地の異邦人が群れをなして、主イエスにつき従うようになりました(同上3:7-8、5:20)。
ここで、主イエスがガリラヤ湖畔やその周辺で宣教することに、どんな意味があるのでしょうか、という質問が出てくるかも知れません。一つひとつのたとえ話や奇跡物語からメッセージを汲み取るのが大切なのは分かりますが、一体何のために伝道が行われているのか、総括してくれませんか、ということです。
確かに、本の「あとがき」や「解説」から読む人は多いでしょうし、そこで著者や作者の意図や背景を知った方が本文の内容がより深く理解できることでしょう。そこで、どんなことを目指して、主イエス・キリストが ①〈初めに〉罪の赦しを教える⇒②〈次に〉病気をいやし奇跡を起こす という御業(マルコ2:1-12、3:28)が繰り返されているのか、端的にお教えしましょう。
マルコ福音書の著者はまさに “ 霊 ” によって、読み手をここに導くという企図を持っていました。それが、「ペトロ、信仰を言い表す」と「主イエス、死と復活を予告する」(マルコ8:27-30と8:31-9:1)という出来事になります。つまり、ペトロに代表される人間が、主イエス・キリストの十字架と復活を信じるということこそ、ガリラヤ伝道の最高潮なのです。ここに、「いったい、この方はどなたなのだろう」(マルコ4:41)との問いへの答えも示されています。
それでは、どこを目指しているか、明確にされたところで、一つの奇跡物語を読み味わいましょう。
Ⅰ 向こう岸に渡ろう
マルコ福音書4:35-36――
35 その日の夕方になって、イエスは、「向こう岸に渡ろう」と弟子たちに言われた。36 そこで、弟子たちは群衆を後に残し、イエスを舟に乗せたまま漕ぎ出した。ほかの舟も一緒であった。
「その日の夕方になって」と時間が表示されています。実は四つの福音書の中で最も古いと言われているマルコ福音書には、ヘブライ的時間観念が色濃く残存しています。すなわち、この福音書全体にわたり、一日が夕方から始まる時間観念(創世記1:5)が採用され、ストーリー展開の節目になっているということです(マルコ1:32、6:47、14:17など)。
重要なのは、「夕方になって」、一日が始まるとき、主イエスの新しい御業が現れ出るということです。そこでわたしたちは、突然、夜の闇の中に輝く神の救いの業に対峙させられます。そこで、わたしたちの不安や失望がぬぐい去られます。「夕方になって」起こされた奇跡は、これに続く三つのいやしの奇跡の幕開けともなっています(マルコ4:35-5:43)。
「夕方になって」、一日が始まり、その日の終わりまでに、主イエスの御前で、自分の罪と弱さを言い表し信仰告白する……それこそ、神がわたしたちのために創られる一日であり主の日であり、わたしたちの一生涯の日々なのです。
そのような夕暮れ時に、主イエスは弟子たちに、「向こう岸に渡ろう」と呼びかけられました。弟子たちは何の用意もしていなかったことでしょう。それで良いのです。主イエスにすべてゆだねることです。
ガリラヤ湖畔にこだました主イエスの御声は、威厳に満ちたものでありました。そこには、途中の障壁を乗り越えていくという勇敢さと忍耐が込められていました。そのように察せられるのは、その呼びかけが、神の民イスラエルの歴史において、父祖たちのかけた号令と響き合っているからです。
出エジプト記14:13,15-16 葦の海の岸辺で――
13 モーセは民に答えた。「恐れてはならない。落ち着いて、今日、あなたたちのために行われる主の救いを見なさい。」 …… 15 主はモーセに言われた。「なぜ、わたしに向かって叫ぶのか。イスラエルの人々に命じて出発させなさい。16 杖を高く上げ、手を海に向かって差し伸べて、海を二つに分けなさい。そうすれば、イスラエルの民は海の中の乾いた所を通ることができる。
ヨシュア記3:6 ヨルダン川を渡るとき――
ヨシュアが祭司たちに、「契約の箱を担ぎ、民の先に立って、川を渡れ」と命じると、彼らは契約の箱を担ぎ、民の先に立って進んだ。
神は闇雲に「向こう岸に渡ろう」と命じて、民に冒険させているわけではありません。そうではなく、神の約束の地へ旅立とう、不安を払拭して、神を信じ、行動を起こしなさい、との意図なのです。神の力があなたがたの弱さの中に発揮されること(Ⅱコリント12:9)を教えようとされています。
主イエスは単なる思いつきではなく、モーセやヨシュアの示した父なる神への従順を思い起こしながら、「向こう岸に渡ろう」と呼びかけられたのではないでしょうか。
「弟子たちがイエスを舟に乗せたまま漕ぎ出した」だけでなく、「ほかの舟も一緒であった」ということです。主イエスの御声を聞いて、弟子たちはじめ主に従う者たちが前進し始めました。この光景にこそ、約束の地、神の国をめざす信仰者の原型が現されています。「イエスを舟に乗せたまま行く」こと、言い換えれば、「神は我々と共におられる」(マタイ1:23)ことが頼みの綱です。自分は元漁師で、舟を操るプロであるという過信は即刻打ち砕かれます。
Ⅱ わたしたちがおぼれ死んでもいいのですか
マルコ福音書4:37-38――
37 激しい突風が起こり、舟は波をかぶって、水浸しになるほどであった。38 しかし、イエスは艫の方で枕をして眠っておられた。弟子たちはイエスを起こして、「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と言った。
「向こう岸」に漕いでいく途中で、障壁が立ちはだかりました。自分が実際、何を頼みの綱としているのか、が暴き出されます。
「激しい突風」をより原意に即して言うと、「巨大な嵐の突風」となります。この表現から、恐怖に取りつかれた人間(マルコ4:40)の心象風景が汲み取られることでしょう。「突風」、「波」、「水浸し」……自分たちの常識を超えたものの前に、心が押しつぶされそうになっています。不安が募るばかりです。これでは、弟子たち同士のチームワークも機能しません。このような時の一番の問題は、本当に見るべきものが見えなくなる、その平常心が失われる、ということではないでしょうか。
しかしその時、漆黒の世界に、「艫の方で枕をして眠っておられたイエス」の姿が浮かび上がりました。弟子たちはいまだに、主イエスを頼みの綱としてはいません。「神は我々と共におられる」というメッセージをもって、自分たちの間に臨在しておられる主イエス・キリストを信じてはいません。
幸いなことは、「眠っておられたイエス」の目の前で、自分たちの正体が露わにされたということです。主イエス・キリストが ①〈初めに〉罪の赦しを教える⇒②〈次に〉病気をいやし奇跡を起こす という御業(マルコ2:1-12、3:28)を繰り返されているにもかかわらず、弟子たちはいまだにイエスが救い主であると信じていません。
そのことが、「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」との弟子たちの言葉から分かります。ここで、「おぼれる」というのは、「滅びる」が原意で、「おぼれ死ぬ」と意訳できます。全文を訳し直すと、「先生、あなたはわたしたちのおぼれ死ぬことに気を留められないのですか」となります。
これは、主イエスに対し失礼極まりないというよりも、弟子たちの不信仰の告白と断じざるを得ません。自分の命が惜しいのは、切迫した状況からもよく分かります。しかしこれは、「わたしたち」が神の御子なる「あなた」に投げかける言葉ではありません。「先生」という言い方もかえって、しらじらしく聞こえます(マルコ5:35、14:45)。
では、添削すると、「主よ、あなたはいつも、わたしたちが滅びないように心にかけてくださっています。どうか、助けてください」となるでしょうか。元より、主イエス・キリストへの信仰を表すということなので、これが正解というわけではありません。
わたしたちが祈り求める以前から、主イエスは、罪と病と死の縄目から解放してくださるお方として、わたしたちに寄り添っておられます。「突風」、「波」、「水浸し」という悪循環の中でも、「イエスは艫の方で枕をして眠っておられた」という幸いと平安に依り頼みたいと願います。
ところで、旧約聖書には、自然界を支配されている神の権能が繰り返し描き出されています。「激しい突風が起こり、舟は波をかぶって、水浸しになるほど」の危難に遭った信仰者は、そのような神に救いを求めて祈りました。本日は、そのことを証しする旧約の一節を読んでみましょう。
Ⅲ あなたは荒れ狂う海を静められる
詩編89:10――
波が高く起これば、(あなたは)それを静められます。
「わたし」なる詩人が、神の慈愛や威光を讃美しています。そしてこの節では、「あなた」なる神が「おごり高ぶった海」と「大きくうねる波」とに対峙しています。悪霊のごとく「海」や「波」は猛威を振るい、被造世界を混沌に陥れようとしています。
詩人は身を潜めてその様子をうかがっています。その人は、神が「海」を創られたこと(創世記1:9-10)を知る信仰者です。そうして詩人は「あなたは誇り高い海を支配し 波が高く起これば、あなたはそれを静められます」と、口ずさみました。
詩人は単に神による自然奇跡を讃美したのではなく、「天はあなたのもの、地もあなたのもの。御自ら世界とそこに満ちるものの基を置かれた」(詩編89:12)というように、創造神への信仰を告白したのです。
この詩人と同じ信仰に立つ預言者エレミヤは次のように、主なる神の言葉を取りつぎました……「主は言われる。わたしは砂浜を海の境とした。これは永遠の定め それを越えることはできない。波が荒れ狂っても、それを侵しえず とどろいても、それを越えることはできない」(5:22)。
エレミヤは、悪霊が被造世界の中で荒れ狂い、人間に取りつき苦しめることがあっても、神の支配は侵しえないと信じています。なぜなら、神が信仰者と悪霊との間に、「越えることはできない境」を造ってくださるからです。大切なのは、危難の時にも、「わたし」が「あなた」なる神を信じ、安んじていることです。
Ⅳ すると、風はやみ、すっかり凪になった
マルコ福音書4:39――
イエスは起き上がって、風を叱り、湖に、「黙れ。静まれ」と言われた。すると、風はやみ、すっかり凪になった。
主なる神がこの世に遣わされた主イエスは、自然を創造し保持されている権能を持っておられます。「風」や「湖」と相対する前に、主イエスは眠りから目覚め、「起き上が」られました。これはまさに、死からのよみがえり(起き上がり)を予告する出来事です。
このようにして、主イエスはまことの神として自己啓示された後に、「風を叱り、湖に、『黙れ。静まれ』と言われ」ました。弟子たちもこの言葉を聞き届けたに違いありません。自然奇跡の中で、主イエスが言葉をもって神の力を現された出来事は、きっと彼らの信仰への導きとなることでしょう。
「巨大な嵐の突風」(マルコ4:37)が「巨大な凪」に変えられました。そうして、湖に静けさが回復されました。「神の国」に起こる救いの御業は、わたしたちの思いをはるかに超えています。
弟子たちは、「向こう岸に渡ろう」とされた主イエスの旅の中で、“ 霊 ” によって目覚めさせられる機会が与えられました。彼らにとって、主イエスはどのようなお方なのでしょうか。
Ⅴ あなたがたにはいまだに信仰がないのか
マルコ福音書4:40-41――
40 イエスは言われた。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」 41 弟子たちは非常に恐れて、「いったい、この方はどなたなのだろう。風や湖さえも従うではないか」と互いに言った。
主イエスは信仰を授けようと、その伝道の対象にしている弟子たちに向き合われます。
まず主イエスは、「突風」、「波」、「水浸し」によって恐怖に取りつかれた彼らに寄り添われます。「なぜあなたがたは怖がるのか」と語りかけられました。主イエスは人間の臆病と孤独とをご存じです。それから、この場面で最も重要な問いを出されました。
「まだ信じないのか」は原意を踏まえて、「あなたがたはいまだに信仰を持っていないのか」と訳しましょう。
「いまだに」を「すでに」と反転すれば、「すでに」信じられるように、あなたがたを導いたはずだが、との意味だと分かります。確かに弟子たちは、主イエス・キリストによって、 ①〈初めに〉罪の赦しを教える⇒②〈次に〉病気をいやし奇跡を起こす という御業が繰り返されたのを、見て・聞いて・知っていました。そのようにして、彼らには、神の国の秘密が打ち明けられました(マルコ4:11)。
弟子たちに一体何が足りない(あるいは無い)のでしょうか?
主イエスは問いかけの内に、足りないのは「信仰」だと明示されました。
主イエスに、弟子たちへのいらだちなど無かったことでしょう。というのも、主イエスははるかにガリラヤ伝道の最高潮を望み見て、ガリラヤ周辺を巡回しておられたからです。この度の湖上の事件が、「ペトロ、信仰を言い表す」と「主イエス、死と復活を予告する」(マルコ8:27-30と8:31-9:1)という奇しき出来事につながっているのをご存じありました。
いまだに信仰が育っていない弟子たちにとって大切なのは、「いったい、この方はどなたなのだろう」と問い続けることでありました。その点では、十二弟子は、おびただしい群衆にとっての模範でありました。そのために主イエスは、神の栄光を現すイエス・キリストにつき従おう、そして、イエス・キリストと共に、ユダヤ人と異邦人に伝道しようという姿勢を、弟子たちに培われました。
主イエスは弟子たちの前に座って、「ほかの種は良い土地に落ち、芽生え、育って実を結び、あるものは三十倍、あるものは六十倍、あるものは百倍にもなった」(マルコ4:8)と語られました。収穫の時が来るのを待っておられました。だからこそ、主は、弟子たちが、“ 霊 ” によってイエス・キリストを信じるよう導き、執り成し、祈っておられたのです。
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〈説教の要約〉
2024年 7月28日
聖霊降臨節 第11主日
新約聖書 コリントの信徒への手紙 一 5章1節~8節(P.304)
説 教「純粋で真実なパンで祭りを祝おう」 小河信一牧師
説教の構成――
序
Ⅰ あなたがたは高ぶっているのか
……Ⅰコリント5:3-5
Ⅲ 古いパン種をきれいに取り除きなさい
……出エジプト記13:3-7
Ⅴ 純粋で真実のパンで過越祭を祝おう
……Ⅰコリント5:7後半-8
序
この手紙の初めの大きなまとまり(Ⅰコリント1:10-4:21)が終わり、次の大きなまとまり(同上5:1-6:20)へと移ります。取り上げられる話題は、分派争いから、不品行、教会内の「裁判ざた」(同上6:7)、キリスト者の自由へと替わります。そのようにして、パウロは忍耐強く、コリント教会の人々との間に生じた誤解を解いていきます。
パウロは、主イエス・キリストの十字架と復活によって救われた者として語り続けています。その根底には、福音の正しい理解が据えられています。すなわち、神の聖なる神殿としての教会を建てる、そして、力を合わせ働く者が一つになって神の栄光を現すということです。
またこれまでに、キリスト教倫理の面から、パウロやアポロなどの使徒・指導者がどのような使命を持っており、また、どのような立場にあるかということが示されました。それを通して、コリント教会の人々に、キリスト者としての礼拝と日常生活の基本姿勢が教えられました。
パウロは今、小アジアのエフェソからギリシアのコリントへ、いわばリモート(遠隔)の形で伝道牧会しています。しかし、コリント教会には既にパウロに替わる指導者がおり、互いの間に疑念が生じやすい状況に置かれています。そうした中で、パウロは “ 霊 ” の導きにより、あたかもコリント人々が目の前にいるかのごとく、親しく語りかけました。
Ⅰ あなたがたは高ぶっているのか
コリントの信徒への手紙 一 5:1-2――
1 現に聞くところによると、あなたがたの間にみだらな行いがあり、しかもそれは、異邦人の間にもないほどのみだらな行いで、ある人が父の妻をわがものとしているとのことです。2 それにもかかわらず、あなたがたは高ぶっているのか。むしろ悲しんで、こんなことをする者を自分たちの間から除外すべきではなかったのですか。
やや低姿勢に、「現に聞くところによると」と、パウロは語り出しています。憂慮すべき事件について、熟慮の上でのパウロの見解が述べられます。
「あなたがたの間にみだらな行いがあり、しかもそれは、異邦人の間にもないほどのみだらな行いで、ある人が父の妻をわがものとしている」……パウロの落胆が伝わってきます。「みだらな行い」は許されないことだと、戒めるのが足りなかったのか、と。
「ある人が父の妻をわがものとしている」というのは、ある息子が父親の後妻、すなわち、息子から見て義母と「関係を持っている」ということです。これは、旧約聖書の、「父の妻を犯してはならない。父を辱めることだからである」(レビ記18:8)という倫理規定に違反しています。「ある人」はコリント教会の信徒、また、「父の妻」はその教会に属さない異教徒と見られます。
おそらく、設立されたばかりのコリント教会において、「いとうべき性関係」に関わる規則(レビ記18章)が浸透していなかったのでありましょう。というのも、ユダヤ人以外、ギリシア人などの異邦人が多数を占めていたと考えられるからです。
加えて、主キリストに救われて、生まれ変わったときに、どのように「この道」(=キリスト教 使徒24:14)を歩んでいけばよいのか、がよく分からなかったということがあります。この点を察知していたパウロはすぐ後で、キリスト者の自由(Ⅰコリント6:9-20)について説き明かしています。「律法」に基礎づけられた倫理規定を明示するよう急がねばならないと、自省したに違いありません。
自分の「体」をどのように用いるかは自分が決めるのではありません。「聖霊の住まいである体」(Ⅰコリント6:19)との観点から、自分も教会の一つの肢であるが故に、それにふさわしい清さを保たねばなりません。自分の「体」は、主イエス・キリストの復活の力にあずかって、よみがえらされる、尊いものなのです。
ここで、こうした新たに確立されつつあるキリスト教の倫理規定について学ぶということ以上に大切なことがあります。それは、「ある人」が違反を起こしたときに、どのように「あなたがた」が対処すべきか、教えているパウロの語り方とその内容です。「ある人」の性的不品行の罪を定め、処罰して、ハイ終わりというものではありません。むしろ、「あなたがたの間に」起こった事件を通して、一人ひとりが自らを省みる機会となるように、とパウロは願っています。
「それにもかかわらず、あなたがたは高ぶっているのか。むしろ(あなたがたは)悲しんで……」というように、パウロはしっかりとコリント教会の人々の内面を見つめています。ここに、「ある人」への怒りは言及されていません。というのもパウロは、怒りが教会中に蔓延する先に、コリント教会に明るい将来が来ないのを知っているからです。
「あなたがた」が悔い改めるべきは、「高ぶり」です。主を誇るよりも、自分自身を、自分の知恵や力を誇っているところに、パウロは罪の巣窟を見ています。
パウロは懇切にも、どのような心持ちで、「異邦人の間にもないほどのみだらな行い」に向き合えばよいかを教えています。それが、「(あなたがたは)悲しんで」ということです。ここに、嘆き悲しむ時を持つことが推奨されています。怒っただけでは、その「みだらな行い」はすぐに忘れられかねません。
そうではなく、「みだらな行い」という罪過を、他人事ではなく、自らのものとして受け止めるのです。そうして、「聖霊の住まいである体」、コリント教会全体が「悲しんで」、一人の兄弟が立ち直るのを待ちます。嘆き悲しみの中にこそ、罪を犯した、キリストにある兄弟に寄り添う想いが現されます。
最後にパウロは、「こんなことをする者を自分たちの間から除外すべきではなかったのですか」と問いかけています。「神の慈愛と峻厳とを見よ」(ローマ11:22)との命令のもとに、「あなたがた」はどのように「ある人」を「除外すべき」なのか、見ていくことにしましょう。
「高ぶる」ことを戒める文脈において、パウロは次のように語りました……「こんなことを書くのは、あなたがたに恥をかかせるためではなく、愛する自分の子供として諭すためなのです」(Ⅰコリント4:14)。この度「みだらな行い」を犯した人も、パウロにとって「愛する自分の子供」の一人です。だからこそ、「神の峻厳のみならず慈愛」がキリストの体全体に現されるよう、パウロは祈っています。
Ⅱ その肉が滅ぼされるようにサタンに引き渡した
コリントの信徒への手紙 一 5:3-5――
3 わたしは体では離れていても霊ではそこにいて、現に居合わせた者のように、そんなことをした者を既に裁いてしまっています。4 つまり、わたしたちの主イエスの名により、わたしたちの主イエスの力をもって、あなたがたとわたしの霊が集まり、5 このような者を、その肉が滅ぼされるようにサタンに引き渡したのです。それは主の日に彼の霊が救われるためです。
パウロは決して傍観者ではありません。「みだらな行い」を犯した兄弟に寄り添っています。
「現に聞くところによると」、と謙遜に抑制しつつも、「現に居合わせた者のように」、率直に発言しています。「そこ(コリント教会)にいて」というパウロの「霊」において文字通り、彼は「霊的なものによる霊的な説明」に依り頼んでいます(Ⅰコリント2:13)。
従って、「(わたしは)そんなことをした者を既に裁いてしまっています」との判断は、聖霊の導きに従って下されたものと言えます。そこに、一寸の曖昧さもありません。なおかつ、パウロはそのような裁きが、「主イエスの名」のもとに(リモートながら)集まった「あなたがたとわたしの霊」の判断であると宣言しています。そのようにしてパウロは、コリント教会の土台を据えたキリスト者としての責務を果たしています。
「主イエスの名」によって、密接に「あなたがたとわたしの霊」が結び合わされました。そのようにして召集された人々の内には、存分に「主イエスの力」が働いています。「こんなことをする者を自分たちの間から除外すべきではなかったのですか」(Ⅰコリント5:2)との難問に対する回答を、二つに分けて読んでみましょう。それによって、「そんなことをした者を既に裁いた」(同上5:3)というパウロの真意も明らかになります。①と②を対比して並べると……
このような者を、その肉が滅ぼされるようにサタンに引き渡したのです。
それは主の日に彼の霊が救われるためです。
①の〈裁き〉は、「サタンに引き渡した」というように、既に遂行されています。「わたしは体では離れていても」との表現と異なり、ここでは、「その肉」という用語が使われています。すなわち、「滅び」に瀕しているのは、人間の「体」や「霊」ではなく、「その肉」です。
罪に染まっている人間の状態を表すのが、「肉」という言葉です。それは、パウロによる「肉」の用法を見れば、すぐに確認できます……「肉と血は神の国を受け継ぐことはできず、朽ちるものが朽ちないものを受け継ぐことはできません」(Ⅰコリント15:50)、または、「つまり、罪を取り除くために御子を罪深い肉と同じ姿でこの世に送り、その肉において罪を罪として処断されたのです」(ローマ8:3)。
終わりの時に向けて、「サタン」は人間の「高ぶり」や欲望につけ入り、この世にねたみや争いを巻き起こそうとします。そのような「サタン」の誘惑に陥って、つまずいてしまった人は、罪に染まった「肉」を身にまとうことになります。
そこで、「異邦人の間にもないほどのみだらな行いで、ある人が父の妻をわがものとしている」という罪が確証された、その人に、「その肉が滅ぼされるようにサタンに引き渡した」という罰が執行されたのです。ということは、「自分たちの間から除外」した、すなわち、コリント教会から除名することが決議されたのです。
「はい、除外します」が問いへの回答でありますが、これにはその先がありました。
②〈裁き〉から〈救い〉へ――
ところが、「主イエスの名」によって「あなたがたとわたしの霊」が召集されたときに、「主の日に彼の霊が救われるであろう」との希望を一同共有した、と述べられています。皆さんは、「その肉が滅ぼされるようにサタンに引き渡した」というような人物に、立ち直るチャンスが与えられているのに、驚かれるでしょうか。だったら、除外・除名などわざわざしなくても、と戸惑われるでしょうか。
そこで、パウロが「それは主の日に彼の霊が救われるためです」と書き表した理由を、二つに絞って掲げましょう。
一つは、主イエス・キリストの十字架と復活による救いが、人の思いをはるかに超えているということです。十字架の血潮は、罪に染まっている人間を洗い清めます。主イエスは愛と正義をもって、罪を繰り返している者が帰って来るのを待っておられます。「サタン」の闇に呑み込まれる寸前、ようやく悔い改める者にも、罪の赦しを与えられます(ルカ24:47)。
もう一つは、最初のことの言い換えともなりますが、わたしたち一人ひとりのために準備されている「神の秘められた計画」(Ⅰコリント2:7)への畏れであります。この畏れによって、大罪を犯した人間の将来が「神の秘められた計画」の下にゆだねられたのです。この点において、先走って裁くことが差し控えられました(同上4:5)。現在のところの除外・除名が、「あなたがたとわたしの霊」が提示し得る、いわば境界線で、その先・その将来には踏み入らなかったのでしょう。
パウロの「神の慈愛と峻厳とを見よ」(ローマ11:22)との名言・誕生の内には、コリント教会の伝道牧会の体験がひそんでいるのではないでしょうか。真の喜びと悲しみを知る人が、神と出会い、その御姿を映しだしたのです。
付け加えれば、主イエス・キリストの救いと「主の日」への畏れとが、パウロの信仰の基盤になっているのは、これまでにも証言されていました。
コリントの信徒への手紙 一 3:13-15――
13 おのおのの仕事は明るみに出されます。かの日にそれは明らかにされるのです。…… 14 だれかがその土台の上に建てた仕事が残れば、その人は報いを受けますが、15 燃え尽きてしまえば、損害を受けます。ただ、その人は、火の中をくぐり抜けて来た者のように、救われます。
この箇所では、「かの日」と暗示されていますが、概ね、「主の日」、すなわち、キリストの再臨の日を指していると見られます。「火の中をくぐり抜けて来た者のように、救われます」という「その人」は、コリント教会の「未熟な建築家」(比較:Ⅰコリント3:10)のことです。コリント教会を建てつぐ「その人」が、「木、草、わら」(火の中で完全に燃えてしまう資材)を混ぜ込むのには、パウロもほとほと困ったことでしょう。「その人」は早く建て上げよう、と焦っていたのでしょうか。それでは、たとえ「土台」自体が頑丈であっても、風雨や洪水に遭い、「倒れて、その倒れ方がひどかった」という結末に至ります(マタイ7:24-27)。
しかし、パウロはこう言い切っています。「その人」は、「損害を受ける」、すなわち、神の裁きによって罰を受ける、がしかし、「火の中をくぐり抜けて来た者のように、救われるでしょう」。「その人」には「火の中」の試練を耐え抜く力が残されていました。これこそ、「神の慈愛」、主イエス・キリストによる赦しと言う以外にありません。
Ⅲ 古いパン種をきれいに取り除きなさい
コリントの信徒への手紙 一 5:6-7前半――
6 あなたがたが誇っているのは、よくない。わずかなパン種が練り粉全体を膨らませることを、知らないのですか。7 いつも新しい練り粉のままでいられるように、古いパン種をきれいに取り除きなさい。
パウロが、「みだらな行い」を犯した人の問題を、広い視野に立って論じてきました。コリント教会全体が見渡される中で、「あなたがた」の「高ぶり」が叱責され、「あなたがたとわたしの霊」との霊的集会の判断(除外・除籍)が提示されました。
このように、コリント教会全体の問題として、一個人の不品行を掌握することには、理由があります。それが、「わずかなパン種が練り粉全体を膨らませる」との諺に示されています。
パウロは、「みだらな行い」を犯した人の問題に関して、「サタンへのその肉の引き渡し」、ならびに、主が来られるという「主の日における救い」の御業を昭示しました。そこで残された課題は、コリント教会の牧会者として、どのように悲しみ嘆き、傷を負っている(実際には高ぶってのほほんとしているような)信徒たちを励まし導くか、ということでありました。
さて、パウロは全体を透視する観点から、「わずかなパン種が練り粉全体を膨らませる」との諺を引き合いに出しました。これは良い意味にも悪い意味にも取れそうですが、前後関係から、「わずかなパン種」は一人の「みだらな行い」を指していると同時に、取り除くべき「古いパン種」を意味している、と分かります。
つまり、ここでの意味合いから、同類の諺として、「一桃腐りて百桃損ず」または「腐ったリンゴは傍らのリンゴを腐らせる」が挙げられます(参照:ホセア書7:8前半)。「みだらな行い」はじめ、高ぶり・ねたみ・争いなどは、人から人へ、またたく間に伝染していきます。「あなたがたが高ぶっている」ならびに「あなたがたが誇っている」ことへの非難が「全体を膨らませる」との一句に込められています。
むしろ、キリスト者に望まれるのは、主イエス・キリストに倣って、へりくだることです。教会の指導者も信徒一人ひとりも、主に忠実に仕えることが、礼拝と日常生活の原点です。互いに助け合う人々の間に、「誇り」がはびこるはずはありません。
そこでパウロは、「いつも新しい練り粉のままでいられるように、古いパン種をきれいに取り除きなさい」と勧めています。「古い」と「新しい」との対句にご注意ください。
一方、「古い」というのは、罪に染まっている人間の状態を、他方、「新しい」というのは、主キリストの贖いによって潔められた状態を指しています。だから、「みだらな行い」はじめ、あらゆる罪過は「きれいに取り除かねば」なりません。
今パウロはコリント教会の人々にもなじみある、「わずかなパン種が練り粉全体を膨らませる」との諺を掲げました。そうしてパウロは、一個人の不品行からコリント教会全体〈新しい練り粉〉の集中すべきことへと主題を転じようとしています。その帰結が、「純粋で真実のパンで過越祭を祝おう」とのメッセージになります。そこでまず、「過越祭」とはどんなものか、旧約聖書をひもといてみましょう。
Ⅳ 七日の間、酵母を入れないパンを食べねばならない
出エジプト記13:3-7――
3 モーセは民に言った。「あなたたちは、奴隷の家、エジプトから出たこの日を記念しなさい。主が力強い御手をもって、あなたたちをそこから導き出されたからである。酵母入りのパンを食べてはならない。4 あなたたちはアビブの月のこの日に出発する。5 主が、あなたに与えると先祖に誓われた乳と蜜の流れる土地、カナン人、ヘト人、アモリ人、ヒビ人、エブス人の土地にあなたを導き入れられるとき、あなたはこの月にこの儀式を行わねばならない。6 七日の間、酵母を入れないパンを食べねばならない。七日目には主のための祭りをする。7 酵母を入れないパンを七日の間食べる。あなたのもとに酵母入りのパンがあってはならないし、あなたの領土のどこにも酵母があってはならない。
「七日の間、酵母を入れないパンを食べねばならない」
「過越祭」というのは、「七週祭」(出エジプト記34:22)、「仮庵祭」(レビ記23:34)と並んで、イスラエルの三大祭に数えられます。「アビブの月」(西暦の3月-4月)の「十四日の夕方からその月の二十一日の夕方まで」(同上12:18)が「過越祭」の期間となります。「過越祭」は「除酵祭」(同上12:17)とも呼ばれています。
一つは、「十四日の夕方」に、「イスラエルの共同体の会衆が傷のない一歳の雄の小羊を屠る」ことです。そして、「その血を取って、小羊を食べる家の入り口の二本の柱と鴨居に塗り」ます(出エジプト記12:6-7)。
もう一つは、「十四日の夕方から二十一日の夕方まで、酵母を入れないパンを食べる」(出エジプト記12:18)ことです。「酵母を入れないパンを七日の間食べる」のを徹底するために、「あなたのもとに酵母入りのパンがあってはならないし、あなたの領土のどこにも酵母があってはならない」と定められています。
現代のイスラエルにおいても、「古いパン種が」、すなわち、「酵母がきれいに取り除かれる」ように、「パン種除き」は慣習化されています。
「毎年、この祭日に先立ってペサハ(過越祭)用の特別な洗剤が売り出され、家の中ではスプーンから鍋まであらゆる食器が大釜の煮えたぎる湯の中に入れられて、煮沸消毒されます。日本の梅雨明けを思い浮かべるまでもなく、湿潤な冬を終えるにあたり、カビ臭くなった家中のものを洗い浄めるのは、まことに気候に順応した習慣といえるでしょう。」 小河信一著『聖書の時を生きる』、教文館、157頁
このようにして、人々は労苦して家の中から「パン種」を取り除きます。そして、七日の間、味気ない「酵母を入れないパン」を食べます。
一個人の不品行からコリント教会全体の問題へ、円滑に展開するために、祝い方において二つの特徴を持つ「過越祭」が援用されました。やや論理的な飛躍を感じられる向きもあるかも知れませんが、新しく正しい教会論を打ち建てるためにも、それは的確なことでありました。教会指導者の少なからずがスルーしたくなるような近親相姦事件から、このような帰結を導き出すパウロのしたたかさには感服させられます。というよりも、「異邦人の間にもないほどのみだらな行い」を現に聞かされて、「霊的なものによる霊的な説明」を施すと、こうなりますという実例なのでしょうか。
Ⅴ 純粋で真実のパンで過越祭を祝おう
コリントの信徒への手紙 一 5:7後半-8――
7 現に、あなたがたはパン種の入っていない者なのです。キリストが、わたしたちの過越の小羊として屠られたからです。8 だから、古いパン種や悪意と邪悪のパン種を用いないで、パン種の入っていない、純粋で真実のパンで過越祭を祝おうではありませんか。
さすがにパウロは旧約聖書に通じたユダヤ人です。「過越祭」の祝い方の大きな特徴二つを踏まえて論理展開しています。言わずもがなではありますが、旧約聖書に基づいているということは、“ 霊 ” 的に説得力が十分あるということです。
「現に、あなたがたはパン種の入っていない者なのです」……この一文をもって、一体キリスト者とは、どんな人物なのかが、規定されています。すなわち、その人の「霊」と「体」からは、「悪意と邪悪」を含有する「古いパン種」が取り除かれているということです。神の恵みによって、その人の罪の汚れは洗い清められました。
そしてパウロはその神の恵みについて、主イエス・キリストの十字架と復活の御業を示唆する形で、「キリストが、わたしたちの過越の小羊として屠られたからです」と述べました。すでに、神がわたしたち・罪人に先行して、無償で大いなる救いを成し遂げられました。
キリスト者が祝う新しい「過越祭」、すなわち、復活祭において、「パン種の入っていない、純粋で真実のパン」は、どのように用意されるのでしょうか?
ユダヤ教の「過越祭」においては、「酵母入りのパン」を片づけるのに手間はかかりますが、「酵母を入れないパン」を作るのは容易です。ここで、パウロのいう「パン種の入っていない、純粋で真実のパン」に関しては、復活祭はじめ主日礼拝で執り行う聖餐式の「パン」との類比で考えるのが適切です。
そこでまず、「現に、あなたがたはパン種の入っていない者なのです」という状態を維持するためには、どうすればいいか、考えてみましょう。キリスト者の「霊」と「体」が潔められるには、主イエス・キリストから「パン」を食べさせていただかねばなりません。主イエスがわたしたちに差し出してくださるのは、「純粋で真実のパン」に違いありません。その時、わたしたちは「古いパン種や悪意と邪悪のパン種を用いない」との決心を新たにします。
それで、主イエスが分かち与える、その「純粋で真実のパン」とは……。十字架上で血を流され、裂かれた主イエス・キリストの「体」であります。聖餐式で、司式者が「パン」を掲げて、「これは、あなたがたのための主イエス・キリストの体です」(Ⅰコリント11:24)と告知している通りです。それは、「信仰をもってこのパンを味わいなさい」(参照:詩編34:9)との招きの言葉でもあります。
従って、「パン種の入っていない、純粋で真実のパンで過越祭を祝おうではありませんか」とのパウロからコリント教会への勧めは、この祭りのために、その身を献げられた主イエス・キリストの呼びかけにほかなりません。
「キリストが過越の小羊として屠られた」というように、主イエス・キリストの十字架と復活の御業によって、新しい「過越祭」が設立されました。
自力で取り除くのではなく、神の愛と “ 霊 ” の力によって、「悪意と邪悪のパン種」が消え去ります。そうして、わたしたちはキリストを身にまとい、清くされます。「高ぶり」や「誇り」によって、教会「全体を膨らませて」、破滅させることはありません。
わたしたち・信仰者が為すべきは、この新しい「過越祭」、すなわち、復活祭をはじめとする主日礼拝を、キリストの支配される「祭り」として祝い続けることです。これこそ、子供たちに、次の世代に語り伝え、継承していかなければならない「祭り」です。 W
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月報7月号
『 御言葉を聞いて受け入れる人たち 』
マルコによる福音書 4章10節~20節 小河信一 牧師
説教の構成――
序
Ⅱ この民の心をかたくなにし 耳を鈍く、目を暗くせよ
……マルコ4:12 + イザヤ書6:9-10
Ⅲ 迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう
……マルコ4:13-19
序
主イエスは「舟に乗って腰を下ろし」、湖畔に集う群衆に向かって、一つのたとえ話を語られました(マルコ4:1)。その「種蒔き」の話は、人々が野外で耳を傾けるにふさわしい内容であり、また、広い観点からは、「神の国」のたとえ話に属するものでありました(マルコ1:15、4:11)。
さて、主イエスは、「種蒔き」の「たとえ」について解説されます(Ⅲ・Ⅳでは、それをマルコの教会の説教として取り扱います)。初めに、「たとえ」に関する総論が提示され、次に、「種蒔き」のたとえが説明されます。主イエスがたとえを物語られた(マルコ4:3-8)後に、説明を加えられるのは、稀なことです。他には、「毒麦のたとえ」が挙げられます(たとえ マタイ13:24-30 → 説明 13:36-43)。
「たとえ」の本文を聞いたとしも、分からないことや質問したいことも出てくることでしょう。その点で、主イエスご自身が解説してくださるのは、大いに助かります。「聞く耳のある者は聞きなさい」(マルコ4:9)との警告を胸に、「“霊”による霊的な説明」(Ⅰコリント2:13)に耳を傾けましょう。
Ⅰ あなたがたには神の国の秘密が打ち明けられている
マルコ福音書4:10-11――
1 イエスがひとりになられたとき、十二人と一緒にイエスの周りにいた人たちとがたとえにつ いて尋ねた。2 そこで、イエスは言われた。「あなたがたには神の国の秘密が打ち明けられているが、外の人々には、すべてがたとえで示される。」
さあ、注目の、主イエスによる「たとえの集中講義」が始まります。「十二人と一緒にイエスの周りにいた人たち」が招き入れられました。やがて、「おびただしい群衆」(マルコ4:1)にも、その要旨が伝えられることでしょう。
「十二人」弟子は今、任命されたばかりです(マルコ3:13-19)。主イエスのそばに置かれた途端に、騒動が起こりました。突然、主イエスの身内やエルサレムから下って来た律法学者たちに取り巻かれました。そこで、内輪もめ(同上3:26)を惹き起こすという陰謀が仕掛けられました(参照:ベルゼブル〔悪霊の頭〕問答 同上3:20-30)。それは、発足したばかりの弟子集団に向けられた、悪魔の誘惑でありました。弟子の中には、一瞬つまずきそうになった人もいたかも知れません。「自分の身内が自分を取り返しにやって来たら……」などと。
危うい道を行く弟子たちにとって、主イエスの「言葉」(マルコ4:14,20)こそが、彼らの「歩みを照らす灯」(詩編119:105)でありました。そこで、主イエスはまず、「たとえ」そのものについての問いに答えられます。
「あなたがたには神の国の秘密が打ち明けられているが、外の人々には、すべてがたとえで示される」……この文章の趣旨を言い換えましょう。すなわち、「たとえ」には「神の国の秘密」が隠されている、従って、「外の人々」は「神の国の秘密」の真意を汲み取らなければならない、ということです。
同時に、わたしたちが自らの事として問い尋ねたいのは、次のことです。すなわち、「あなたがたには神の国の秘密が打ち明けられている」と言われている弟子たちは、「神の国の秘密」を“霊”の導きによって理解しているのか、ということです。つまり、主イエスの言葉を先取りすれば、弟子たちが「御言葉を聞いて受け入れる人たち」(マルコ4:20)になっているかどうか、が問われています。もし、その答えが「いいえ」だとすれば、彼らもまた、「外の人々」、信仰の不十分な者ということになります。
その点を踏まえれば、たとえの「説明」は、「外の人々」のみならず、弟子たちにも向けられているのであります。その説明を聞く前に、「外の人々には、すべてがたとえで示される」ことにまつわる旧約からの引用を読み取りましょう。
イザヤ書6:9-10――
9 主は言われた。
「行け、この民に言うがよい
よく聞け、しかし理解するな
よく見よ、しかし悟るな、と。
10 この民の①心をかたくなにし
②耳を鈍く、③目を暗くせよ。
悔い改めていやされることのないために。」
それは、
『彼らが❸見るには見るが、認めず、
❷聞くには聞くが、理解できず、
ようになるためである。」
このような旧約から新約への引用によって、主イエスが何を言おうとしているのか、整理してみましょう。
まず、今の主題が、「神の国の秘密」であることを念頭に置きましょう。「人々を恐れてはならない。覆われているもので現されないものはなく」(マタイ10:13)との主イエスの警告は、この「神の国の秘密」にも適用されます。すなわち、その「秘密」はすでに「打ち明けられて」います。というのも、「時は満ち、神の国は近づいた」(マルコ1:15)と宣べ伝える主イエスご自身が、ガリラヤの群衆の間に臨在されているからです。
主イエスは御業と御言葉をもって、つき従う者たちに、「神の国の秘密を打ち明け」ます。とりわけ、「神の言葉」(マルコ4:14、フィリピ1:14)の宣教を重んじられています。「種蒔き」のたとえが最初に語られ、説明が加えられているのも、そのためです。
そこで、「神の国の秘密」との主題と共に確認すべき、必須の事柄があります。それが、たとえを「聞く」者の態度であります。そのためには、入念な吟味が欠かせません。預言者イザヤは、❶心で理解する、❷耳で聞く、❸目で見るとの告知をもって、当時の頑なな民に悔い改めを迫っています。
御言葉の宣教からすれば、「❷耳で聞く」だけでも良さそうですが、さすがにイザヤは、神に聖別された預言者です。「❶心」と「❸目」を合わせて、全身全霊を集中して「聞くのに早い」態勢(ヤコブ1:19)ができているか、を点検しています。
そうした、主題「神の国の秘密」と「聞く」者の態度を、前提として、「それは……ようになるためである」(マルコ4:12)の要点を押さえましょう。
主イエスは「たとえでいろいろと教えられ」ようとしておられます(マルコ4:2)。そこで、「❸目で見ることなく、❷耳で聞くことなく、その❶心で理解することなく」という民の頑なさが露わになります。
そのことはまさに、「種蒔き」のたとえ自体に暗示されています……「ある種は道端に落ち……、ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち……、ほかの種は茨の中に落ちた」(マルコ4:4-7)。原因はいろいろですが、実を結ばないのは結局、土地が良い状態に保たれていないからです。そこには、害鳥、日照り、雑草などに対処する力がありません。
「聞く耳のある者は聞きなさい」(マルコ4:1)という「聞く耳」が良い状態に保たれるというのも、それと同じことです。そのためにまず、自分が元来、心の頑なな者を認めることです。そして、「“霊”による霊的な説明」が受け入れられるように、主に「立ち帰って赦される」ことです。そうすれば、わたしたちの信仰は、「たとえでいろいろと教えられ」、「神の福音が宣べ伝えられて」(マルコ1:14)、驚くほどに成長していきます。
そうすれば、「秘密」として「覆われていたものが現される」ようになります。そのことがまさに、「神の富」(ローマ11:33)を宿している、「信仰に成熟した人」(Ⅰコリント2:6)の内に起こり続けているのでありましょう。
主イエスは人間の頑なさを直視して、「種蒔き」のたとえを説き明かされます。たとえ本文の「ある種は道端に落ち……、ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち……、ほかの種は茨の中に落ちた」(マルコ4:4-7)に相当する部分を読んでみましょう。
Ⅲ 迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう
マルコ福音書4:13-19――
13 また、イエスは言われた。「このたとえが分からないのか。では、どうしてほかのたとえが理解できるだろうか。14 種を蒔く人は、神の言葉を蒔くのである。15 道端のものとは、こういう人たちである。そこに御言葉が蒔かれ、それを聞いても、すぐにサタンが来て、彼らに蒔かれた御言葉を奪い去る。16 石だらけの所に蒔かれるものとは、こういう人たちである。御言葉を聞くとすぐ喜んで受け入れるが、17 自分には根がないので、しばらくは続いても、後で御言葉のために艱難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう。18 また、ほかの人たちは茨の中に蒔かれるものである。この人たちは御言葉を聞くが、19 この世の思い煩いや富の誘惑、その他いろいろな欲望が心に入り込み、御言葉を覆いふさいで実らない。」
この「説明」には、主イエスの死からおよそ40年後の時代状況が反映されていると言われます。すなわち、マルコがこの福音書を書いた時(紀元後60年代後半 場所はシリアか)、教会はどのように伝道していたか、あるいは、どのような迫害に遭っていたか、ということが暗に物語られています。
言い換えれば、マルコが、主イエスの語った「種蒔き」のたとえを、「説明」・説教していることになります。現代に生きるわたしたちの教会にとってもそうですが、主イエスの「言葉」(マルコ4:14)を、今の生活の中で説き明かすことは、とても重要です。たとえの本文と引き比べながら、「説明」の要点をつかみ取りましょう。本文が引き延ばされている箇所に注目すれば良いので、ご一緒にじっくり見ていきましょう。
まず、たとえの冒頭に着目しましょう。「種を蒔く人が種蒔きに出て行った」(マルコ4:3)が「種を蒔く人は、神の言葉を蒔くのである」に変わっています。これは見逃せない「説明」です。
「種を蒔く人」は固定されていますが、「種蒔き」が「神の言葉を蒔く」と言明されています。そこから、「蒔かれたもの」=「神の言葉」、そして、それが「蒔かれた土地」=「人間」という理解の仕方が見えてきます。そこからまた、わたしたちは、主イエスから「神の福音を宣べ伝え」られた群衆(マルコ1:14)が、「神の言葉」を聞き、それを実践する教会になっていったことを知らされます。
「神の言葉」を聞くとの観点に立って、「蒔かれた土地」=「人間」との設定を掘り下げると、こうなります。すなわち、「蒔かれた土地」が良い状態に保たれているのと並行して、「聞く耳」が良い状態に保たれているとは、どういうことかが、マルコの“霊”的な洞察によって示されるということです。
④に当たる「御言葉を聞いて受け入れる人たち」(マルコ4:20)の前に、①道端のもの⇒②石だらけの所に蒔かれるもの⇒③茨の中に蒔かれるもの……というように、「肉の人」・「ただの人」(普通の人間 アンスローポス Ⅰコリント3:3)の悪例が列挙されています。たとえの原典に即した、巧みな説教です!
初めに、たとえの本文が改変されている重要な点について、言及しましょう。
「蒔いている間に、ある種は道端に落ち……」(本文 マルコ4:4)
「種を蒔く人は、神の言葉を蒔くのである」(説明 マルコ4:14)
一方、たとえの本文では、「種は落ちた」(マルコ4:4,5,7,8)というように、「種を蒔く人」の意図とはかけ離れて、生育上好ましくない土地に、種が落下したように描かれています。他方、たとえの説明では、「種を蒔く人」が生育の願いを込めて慎重に「種を蒔いた」(マルコ4:15,16,18,20)ように描かれています。
「種を蒔く人は、神の言葉を蒔く」という仕方(言い換えれば伝道)は、①「道端」、②「石だらけの所」、③「茨の中」、④「良い土地」、どんな土地においても一貫しています。それによって、「種を蒔く人」の忍耐強さとスケールの大きさ(マルコ4:20,24-25)が昭示されています。
マルコの教会は、そのような「説明」の工夫を通して会衆に、「種を蒔く人」なる主イエス・キリストがどのようなお方であるのか、を伝達しようとしています。その会衆は、教会が設立されたばかりということもあって、苦難に遭っているという難題を抱えています。
それ故に、たとえの「説明」では、①「道端」に、②「石だらけの所」に、そして③「茨の中」に「蒔かれたもの」に対し、その苦難を受け止めつつ、いかに励ますか、ということが課題になります。そで、宣教が行き詰まっている、その根本原因に光が当てられます。
①「すぐにサタンが来て、彼らに蒔かれた御言葉を奪い去る」(マルコ4:15)
②「自分には根がないので、しばらくは続いても、後で御言葉のために艱難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう」(マルコ4:17)
③「この世の思い煩いや富の誘惑、その他いろいろな欲望が心に入り込み、御言葉を覆いふさいで実らない」(マルコ4:19)
明らかに視点が、種が落ちた土地から、神の言葉が蒔かれた人間へと、移行しています。わたしたち・キリスト者が置かれている状況がそうであるように、「神の言葉」なる種が芽生えなかったり、枯死したりするのは、人間の内面的な罪性とそれを取り巻く「艱難や迫害」、双方に起因しています。
「神の言葉」を蒔かれたもの、すなわち、求道者や信仰者は、「種を蒔く人」なる主イエス・キリストの支配のもとにありながらも、自分の「思い煩いや欲望」を省み、「艱難や迫害」を乗り越えてゆかねばなりません。そこで、「神の言葉」によって、④「良い土地に……」が説き明かされます。
Ⅳ 御言葉を聞いて受け入れる人たち
「良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて受け入れる人たちであり、ある者は三十倍、ある者は六十倍、ある者は百倍の実を結ぶのである。」
確かに、マルコの教会の人々は、「聞く耳のある者は聞きなさい」(マルコ4:9)との主イエスの勧めを心に納めていたことでしょう。しかし、マルコはじめ教会の伝道者は、「聞くには聞くが、理解できず」(同上4:12)との人間の頑なさに直面していました。それが、一筋縄では行かない課題であると知らされていました。ですから、たとえの「説明」では、細心の注意を払って、人間の内面性と外敵とが巡視されました。
「種を蒔く人は、神の言葉を蒔くのである」……主イエス・キリストなる「種を蒔く人」が、人間の心の包皮(頑なさの象徴)を取り払って(エレミヤ書4:4)、「神の言葉」を植え付けられます。主イエスが主体的に、愛と力をもって、わたしたちのために働いてくださいます。へりくだって、罪人や貧しい者に仕えてくださいます。これは、まさに、神の恵みの出来事です。
人間に求められているのは、ひらすらに「御言葉を聞いて受け入れる」ことです。良く「聞いて受け入れる」のは、わたしたちの実力ではなく、神からの賜物です。
結びの「ある者は三十倍、ある者は六十倍、ある者は百倍の実を結ぶのである」とは、一体どういうことなのでしょうか。それは、「御言葉を聞いて受け入れる人たちの内で、神の言葉が三十倍、六十倍、百倍と、増し加えられて実を結ぶ」ということだと考えられます。聖霊の導きによって、福音の核心〈主イエス・キリストの十字架と復活〉が押さえられつつ、それが、日頃の自分たちの言動の指針となっていくということです。
では、「神の言葉が増し加えられて、豊かに実を結んで」、一体、何のためになるというのでしょうか。それこそ、主イエス・キリストを信じる者によって、「神の栄光」が現されるということです。
「神の栄光」を現す信仰者は、御言葉を「更にたくさん与えられて」(マルコ4:24)、いよいよ深くキリストと隣人を愛するようになるでしょう。
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〈説教原稿〉
2024年 7月21日
聖書 新約・ヨハネによる福音書6:22~27、旧約・列王記上17:8~16
説教 「永遠の命に至る食べ物のために」田村博(茅ヶ崎教会)
説教要旨
1)イエスを捜し求めて
五千人以上もの人々がパンと魚を食べて満腹した(6:1~13)。すべての共観福音書もその事実をしっかりと伝えているが、ヨハネ福音書は、その事実に続けて、人々の反応、そして主イエスの御言葉をかなり詳しく伝えている(6:22~71)。そこで際立っているのが、人々が真剣に主イエスを追いかける様である。しかも主イエスの噂を聞き及んでであろうか、小舟に乗って到来した新たな人々までもが捜索の輪に加わろうとしている。わたしたちが暮らす現代社会でも、SNSを用いた宣伝によって、全くの無名であった人物が、短時間で何十万という「フォロワー」を生み出すという現象がある。主イエスは「人々が来て、自分を王にするために連れて行こうとしているのを知り、ひとりでまた山に退かれた。」(6:15) 主イエスには、一点のブレも一切の妥協もない。
2)しるしを見るとは
群衆の目は、五千人以上もの人々を満腹させた主イエスに注がれていた。主イエスが弟子たちと共に舟に乗らなかったことも見逃さなかったゆえ、どのようにして湖の向こう岸にたどりついたのか大いに不思議に思った。主イエスは、その彼らに対して、本当に見るべきところを見ていないと「はっきり言っておく」という言葉と共に指摘された。主イエスの「感謝」(6:11、23)は、主なる神としっかりと結びついていて離れることはない。五千人以上もの人々の満腹という出来事は、主なる神の御心と深く深く結びついている。すなわち「永遠の命」(6:27、40)である。ここからはずれているならば、どんなに目を皿のようにして主イエスを見つめ、追いかけていたとしても一切が無駄となってしまいかねない。
3)イエスが与える食べ物
主イエスが「あなたがたに与える食べ物」(6:27)がある。主イエスは、より具体的に、その「食べ物」について話された(6:28~59)。主イエスの「血」、主イエスの「肉」を食することは、イスラエルの民にとってありえないことだった(創9:4、レビ17:10~12)。主イエスは、律法を破るようにと勧めているわけではない。神の独り子の「死」というありえないことによって、そのままでは「朽ちる」ほかない「命」が、「永遠の命」とつながる。それは、父なる神によってはっきりと「認証」(6:27)された事実である(27節の塚本訳「神なる父上が、(これ〈=永遠の命〉を与える)全権を人の子に授かられたのだから。」)。わたしたちはここに目を注ぎ続ける。
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〈説教の要約〉
2024年 7月14日
聖霊降臨節 第9主日
旧約聖書 エレミヤ書 7章8節(P.1188)
新約聖書 ルカによる福音書 4章31節~37節(P.108)
説 教「その言葉には力があった」 小河信一牧師
説教の構成――
序
Ⅱ ああ、ナザレのイエス、かまわないでくれ
……ルカ4:33-34
……エレミヤ書7:8
序
一体、主イエス・キリストはどのようなお方であるのか、その答えが本日のテキストに物語られています。荒れ野の中からガリラヤ地方を巡って行かれた主イエスは、安息日、会堂にその御姿を現されます。それぞれの出来事とそのつながりに留意しながら読みましょう。
せっかくの機会ですから、「そこで、敬愛するテオフィロさま、わたしもすべての事を初めから詳しく調べていますので、順序正しく書いてあなたに献呈する」(ルカ1:3)という著者ルカのテクニックをご紹介します。
ここでは、ガリラヤ伝道の初期を取り扱った文章の構成に着目してみます。ガリラヤ伝道全体には、ルカ4:14-9:50が該当します。その初期の様子を、ルカ4:14-41によってたどってみましょう。出来事を「順序正しく書いて」といっても、無味乾燥にではなく、非常に劇的に物語られています。
準備 荒れ野の誘惑 ルカ4:1-13
① 導入のための要約――“霊”の力に満ちた宣教 ルカ4:14-15
② 安息日、ナザレの会堂にて ルカ4:16-30 〈スタートでつまずく〉
故郷の人々に受け入れられなかったため、ガリラヤ湖畔へ
③ 安息日、カファルナウムの会堂にて ルカ4:31-37 〈つまずいても、すぐに立ち上がる〉
④ 悪霊の追放と病気のいやし ルカ4:33-35,38-41
ストーリー展開が、これほどまでに精巧に組み立てられていたのか、と驚かれるでしょうか。さすがに、ルカ福音書(24章)―使徒言行録(28章)もの長編に挑むだけのことはあります。読み手をわくわくさせながら、信仰の世界に導き入れていきます。「御言葉によって罪の赦しを教える⇒悪霊を追い出し、病気をいやす」(参照:マルコ2:1-12)という信仰の基本線も踏襲されています。
それでは、わたしたちに向けて、〈つまずかされそうになっても、すぐに立ち上がりなさい〉とのメッセージが示されている箇所(③と④)を見てみましょう。
Ⅰ その言葉には権威があった
ルカ福音書4:31-32――
31 イエスはガリラヤの町カファルナウムに下って、安息日には人々を教えておられた。
32 人々はその教えに非常に驚いた。その言葉には権威があったからである。
主イエスは“霊”によって引き回されて、荒れ野の誘惑を受けられました。そして今、“霊”の力に満たされて、「ガリラヤの町カファルナウムに下って」行かれました。
主イエスは「はっきり言っておく。預言者は、自分の故郷(ナザレ)では歓迎されないものだ」(ルカ4:24)と告知されているように、その滑り出しから伝道の困難に出遭われました。ところが、この世の闇を象徴するような迫害が起こった直後に、「ガリラヤの町カファルナウム」という伝道の拠点が与えられました。
ただし、主イエスはナザレと同様に、「安息日に会堂に入られました」(ルカ4:16,31-33)。これこそが、主イエスが「主日に茅ヶ崎香川教会の礼拝堂に」臨在される(マタイ18:20)ということの根拠になっています。“霊”の力によって、主イエス・キリストの言葉とその恵みがそこに再現されています。主イエスによるガリラヤ湖畔の開拓伝道以来、それは世界の隅々に至るまで拡大されています(ルカ4:37)。
「イエスは人々を(言葉により)教えておられた」⇒「人々はその(言葉の)教えに非常に驚いた」というように、御言葉による宣教に重点が置かれていました。というのも、まずはガリラヤの民衆に、主イエスの「言葉」が、世の知恵や「むなしい言葉」(エレミヤ書7:8)とは全く異なるものであることを「教え」ねばならないからです。
その「教え」についてはすでに、ナザレにおいて「安息日に会堂で」説き明かされました(ルカ4:16-27)。要約すると、「わたしは貧しい人に福音を告げ知らせる」との主イエスの宣告のうちに、聖書朗読(イザヤ書61:1-2)と説教が行われました。それは、「わたしはあなたたちの罪を背負う。もう一度、やり直しなさい。今日、出発しよう」との招きでありました。残念ながら、「これを聞いた(ナザレの)会堂内の人々は皆憤慨し、総立ちになって、イエスを町の外へ追い出しました」(ルカ4:28-29)。このような「憤慨」や「いらだち」(使徒4:2)は、福音を拒む態度の根源にあるものです。
それに対し、カファルナウムの会堂に集っていた人々の反応は、「人々はその(言葉の)教えに非常に驚いた」ということであります。「驚いた」ことが、御言葉の理解から信仰の芽生えへとつながっていくのかは、不明です。しかし、悪霊の追放と病気のいやしを目撃するのに先んじて、「(言葉の)教えに非常に驚いた」(ルカ4:32,36)のは、神の御心に適うものでありました。
「その言葉には権威があった」という「権威」とは、一体何でありましょうか?
主イエスが「言葉」によって現された「権威」は、「すべての支配、権威、勢力、主権、あらゆる名の上に置かれる」(エフェソ1:21)ものでありました。それは「権威」の語源の通り、主イエス・キリストの「内から出てくる」ものであります。だからこそ、主イエスのやさしい言葉にもたとえ話にも、「権威」が宿っているのです。
要するに、「神は、この力をキリストに働かせて、キリストを死者の中から復活させ、天において御自分の右の座に着かせた」(エフェソ1:20)というのが、「権威」ある福音です。わたしたちは、「言葉」をもって告げ知らされた、この福音(ルカ4:18)を正しく聞かねばなりません。ひたすらに“霊”の導きによって聞くことです。
次に、③主イエスの「言葉」による宣教から④悪霊の追放へと移っていきます。それによって、会衆の目の前に、主イエスの「権威」が具体的に示されます。
Ⅱ ああ、ナザレのイエス、かまわないでくれ
ルカ福音書4:33-34――
33 ところが会堂に、汚れた悪霊に取りつかれた男がいて、大声で叫んだ。34「ああ、ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ。」
ここで、ハプニングが起こりました。「安息日に会堂で」、聖書朗読と説教の最中に起こったハプニングにほかなりません。主イエス・キリストの「内から出てくる」ものという「権威」が、主の「言葉」のみならず「行い」・御業によって現されます。
「ああ、ナザレのイエス、かまわないでくれ」……主イエスと敵対する勢力からの、「ああ」との嘆きであると同時に、証言です。これによって、主イエスと「汚れた悪霊」との関係が明確にされます。「汚れた悪霊」という闇によって、主イエスの「正体」が照らし出されるのです。まずは、悪霊の「正体」から捉えることにしましょう。
「かまわないでくれ」の直訳は、「わたしとあなたの間にどのような関係がありますか」となります。裏を返せば、「わたし」(悪霊)は「すべての支配、権威、勢力、主権」の面で、「あなた」よりも優位に立っている、という関係を壊さないでくれ、ということになります。まことに虫のいい、もったいぶった言い方です。しかしもちろん、自分の思いどおりにやらせてくれ、との発言は看過できません。
ところで、旧新約聖書には、この「当惑した悪霊の叫び声」に類似した言葉が、少なからず見出されます。二つ例を挙げましょう。
列王記上17:18――
彼女(サレプタの女)はエリヤに言った。「神の人よ、あなたはわたしにどんなかかわりがあるのでしょうか。あなたはわたしに罪を思い起こさせ、息子を死なせるために来られたのですか。」
マルコ福音書5:35――
イエスがまだ話しておられるときに、会堂長(ヤイロ)の家から人々が来て言った。「お嬢さんは亡くなりました。もう、先生を煩わすには及ばないでしょう。」
この二つの出来事では、「神の人」の前で、愛する息子または娘が死んだ状態になっています。もはや、その母親や家の人々には手の施しようがありません。
このように、「かまわないでください」、「あなたに関係ないことです」、そして、「もう、煩わさないでください」との慇懃な拒絶を並べてみると、人間の内面が見えてきます。すなわち、その拒絶に背後には、諦め・絶望があるということです。それ故に、本来、恵みを与えてくれる「神の人」との関係を断とうとするのです。
そうして、拒絶や絶望に取りつかれると、何でも周りのものを恐れてしまうことになります。その恐れが、「我々を滅ぼしに来たのか」との問いに証言されています。「正体は分かっている。神の聖者だ」と言うのですから、そのお方に救いを求めればよいのですが……。
そこで、主イエスの側から、憐れむべき一人の男を助け出されます。
Ⅲ 悪霊は何の傷も負わせずに出て行った
ルカ福音書4:35――
イエスが、「黙れ。この人から出て行け」とお叱りになると、悪霊はその男を人々の中に投げ倒し、何の傷も負わせずに出て行った。
主イエスは、言葉巧みな悪霊の抵抗を見抜いておられました。「黙れ」と命じて、「神の聖なる神殿」(Ⅰコリント3:17)なる会堂から「汚れた悪霊」を追放されます。
「悪霊はその男を人々の中に投げ倒し、出て行った」というのは、ただの奇跡ではありません。そうではなく、「言葉」の「権威」による主イエス・キリストの支配のもとに、悪霊の追放や病気のいやしが行われるということの一貫(序に提示した③⇒④のつながり)なのです。そのようにして、「神の国」がわたしたちの間に実現しようとしているのです。
そして、悪霊から解放された男に関して、「何の傷も負わせずに」と証言されています。これで思い出すのは、「燃え盛る炉に投げ込まれた三人」の物語です(ダニエル書3章)。この三人は、神から知識と才能を賜った、ユダ族の若者たちでありました。
ユダ族の若者たちをねたんだ、バビロニアの侍従長や貴族は、信仰深い人々を抹殺する罠を仕掛けました。 それで、バビロニアの偶像を拝まないとの咎により王に訴えられて、三人の若者は罰を受けることになりました。
ダニエル書3:21,27――
21 彼らは上着、下着、帽子、その他の衣服を着けたまま縛られ、燃え盛る炉に投げ込まれた。
その後、三人が炉の中から出てきて……
27 総督、執政官、地方長官、王の側近たちは集まって三人を調べたが、火はその体を損なわず、髪の毛も焦げてはおらず、上着も元のままで火のにおいすらなかった。
奇しくも、「何の傷も負わせずに」と「火はその体を損なわず」とは同じです。「いつもの七倍も熱く燃やされた」炉の炎(ダニエル書3:19)というのは、まるで悪霊の軍団(ルカ8:30)を象徴しているかのようです。しかし、主イエスが男から悪霊を引き離して、元に戻されたように、「神は御使いを送ってこの僕たちを救われました」(同上3:28)。
王宮にいた若者たちも、会堂にいた男も、「わたしの霊はなえ果て 心は胸の中で挫ける」(詩編143:4)というような試練に巻き込まれました。しかし、そのような人間の弱さの中に、神の恵みと救いが現されました。
Ⅳ お前たちはこのむなしい言葉に依り頼んでいる
しかし見よ、お前たちはこのむなしい言葉に依り頼んでいるが、それは救う力を持たない。
主イエスの「言葉」に「権威と力」が宿っていることを知る前に、諸国民の預言者として召し出されたエレミヤの「言葉」を読んでみましょう。
初めに思い起こしておきたいのは、エレミヤが召命を受けた時のエピソードです。
エレミヤが「ああ、わが主なる神よ わたしは語る言葉を知りません。わたしは若者にすぎませんから」と言うと、主なる神はエレミヤに、「若者にすぎないと言ってはならない。わたしがあなたを、だれのところへ 遣わそうとも、行って わたしが命じることをすべて語れ」と答えられました(エレミヤ書1:6-7)。
幸いにも、ユダの民のもとへ遣わされる前に、エレミヤは自分の言葉ではなく、ひたすらに「主の言葉」を語り続けるという決心をさせられました。これによって、自分は、聖書に通じた「祭司の子」(エレミヤ書1:1)であるという誇りを捨て去ったに違いありません。
そうして、モーセ(出エジプト記4:10)のように元来は「口が重く、舌の重い」エレミヤが、「主の神殿の門に立ちました」。「主を礼拝するために、神殿の門を入って行くユダの人々」に、「言葉をもって呼びかける」ためです(エレミヤ書7:1-2)。
それでは、何故に、神殿で礼拝を行おうとしている人々が「むなしい言葉に依り頼んでいる」のでしょうか? エレミヤはその理由を見抜いています……「なぜなら、お前たちは勝手に自分の言葉を託宣とし、生ける神である我らの神、万軍の主の言葉を曲げたからだ」(エレミヤ書23:36)。彼らは、「主の託宣(言葉)」を「自分の言葉」にすり替えていたのです。それに対し、主なる神は、「わたしはお前たちを投げ捨てる」、また、「わたしはその人とその家を罰する」と警告されていました(同上23:33-34)。
人間の性というものは、どの時代、どの場所においても、そんなに変わらないものなのでしょうか。およそ600年後、ギリシアのコリントでも同様の「すり替え」(ヒューマン・エラー)が起こっていました。
パウロはこれまた礼拝者である、コリント教会の一部の人々に、「だれも自分を欺いてはなりません」(Ⅰコリント3:18)、すなわち、「だれも思い違いしてはなりません」と戒めました。というのも、罪に陥っている人間が、「神の知恵」を「世の知恵」に替えるという「思い違い」を起こしていたからです。
ではなぜ、そのような「思い違い」・「すり替え」が生じるのしょうか。要約すると、パウロは以下のようにその理由を明らかにしています。
すなわち、彼らが「肉の人」で、「神の霊に属する事柄を受け入れない」(Ⅰコリント2:14、3:1)、その上、彼らは一見、豪華絢爛な「この世の支配者たちの知恵」(同上2:6)に毒されてしまっている、結局、彼らは神の前においてすら、自分を誇っている(同上1:29)ということです。
このような人々に対し、エレミヤはただ神の審判を告げるだけだったのでしょうか。そうではありません……「それ(むなしい言葉)は救う力を持たない」。
否定的な文脈の中にも、エレミヤは神の救済計画を物語っています。「主は我らの救い」と呼ばれる神(エレミヤ書23:6)に立ち帰るように、と繰り返し告げています(同上3:7、18:11、31:21)。
今、神殿に上って来た人々にとって大切なのは、「わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す」(エレミヤ書31:33)という神の「言葉」に耳を傾けることです。“霊”の導きにより、神の「言葉」の「力」にあずかることです。
そうすれば、神との正しい関係が回復されます。自己中心に陥れていた「思い違い」が消え去ります。エレミヤが孤立し嘲笑される状況下で、大胆に神殿の門で説教しているのは、そのためです。
ルカ福音書4:36-37――
36 人々は皆驚いて、互いに言った。「この言葉はいったい何だろう。権威と力とをもって汚れた霊に命じると、出て行くとは。」 37 こうして、イエスのうわさは、辺り一帯に広まった。
「人々は皆驚いて」という衝撃のうちに、「悪霊の追放」ではなく、「権威と力のある言葉」に、会衆の関心が向けられました。しかも、その「権威と力」というように、「力」が付け加えられています(他にユダの手紙1:25、ヨハネ黙示録12:10)。
なぜ、主イエスの「言葉」に「力」が必要なのか、二つの点から答えましょう。
一つは、「権威」と同様に、「力」は主イエス・キリストの「内から出てくる」ものです。ですから、「力のある言葉」はおのずから実を結びます。すなわち、「神は言われた。『光あれ。』」こうして、光があった」(創世記1:3)というように、それは、現実化されます。
主イエスの「言葉」によって、神の創造力が発揮されます。時には、その「力」が悪霊の追放や病気のいやしのために用いられます。そのようにして、救われた人はしばしば「賛美」(ルカ5:25、13:13)という「言葉」・歌をもって人々に福音を伝えます。
もう一つは、今述べた「力」の現実化と関連するのですが、主イエスが世の終わりに向けての戦いを見据えておられるからです(ルカ21:9)。その時、キリスト者の苦悩は深まります。そうした艱難や迫害が起こる時、主イエスの「言葉」はまさに「力」ある砦(サムエル記下22:33)として依り頼むことができます。
主なる神は、「あなたを憎むすべての者」や「あらゆる重い病気」から守ってくださいます(申命記7:15)。悪霊や偶像に惹かれてはなりません。わたしたちが御言葉の宣教に励むとき、わたしたちは主イエスと同様に、“霊”の「力」に満たされます。神は主イエス・キリストによって、耐え忍んでいる人々に、「幸いあれ」と言って祝福しておられます(ルカ6:22-23)。
「こうして、イエスのうわさは、辺り一帯に広まった」……主イエスは故郷ナザレから追い出されましたが、ガリラヤ湖畔に伝道の拠点が造られました。心を挫くようなつまずきがただちに、“霊”の導きによって乗り越えられました。
ナザレとカファルナウムとで主イエスは、神中心の伝道と生活に何も変更など加えておられません。主イエスは「安息日に会堂に入る」のを基軸に、その地方を巡る旅を続けられました。
そうして、おびただしい群衆の前に、③言葉には権威と力があることが教える⇒④悪霊の追放と病気のいやしを行う、という主イエス・キリストの御姿が現されました。主イエスは終わりの時に向けて、世界の隅々に届けられるよう、「権威と力のある言葉」をもって教え、そして祈られました。
主イエスの巡り行かれたガリラヤの湖畔、山や丘、家々などは、主を信じる者の原風景であります。礼拝の中で想起すべき、時代と場所に違いありません。ガリラヤの地に蒔かれたからし種は、世界の果てにまで枝を張って大きくなりました(マルコ4:30-32)。
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〈説教の要約〉
2024年 7月7日 日本キリスト教団 茅ヶ崎香川教会
聖霊降臨節 第8主日
旧約聖書 ダニエル書 4章7節~9節(P.1386)
新約聖書 マルコによる福音書 4章26節~34節(P.68)
説 教「葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど成長する」 小河信一牧師
説教の構成――
序
Ⅰ 土はひとりでに実を結ばせる
Ⅱ 弟子たちはできなかった
……ダニエル書4:7-9
Ⅲ 葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張る
……マルコ4:30-32
Ⅳ 弟子たちにはひそかにすべてを説明された
……マルコ4:33-34
序
主イエスはガリラヤの湖や丘を背景にして、おびただしい群衆に向かって語りかけておられます。その中には、主イエスのそばに呼び集められた、十二人の弟子もいます。
主イエスは「たとえでいろいろと教えられました」(マルコ4:2)。これほど集中的にたとえを語られたのは、これ以後にはありませんでした(比較参照:マルコ7:15、12:1-11)。きっとそれらのたとえは、主イエスの周りにいた人々の間で語り継がれたことでしょう。そして、たとえとその説明は地域や民族の垣根を越えて伝え広められたに違いありません。
そこで本日は、「たとえ話の集会」で語られた、最後のたとえ、二つを読んでみることにします。一方、たとえの題材は、ガリラヤの民衆の生活の中から採られています。他方、その主題は、自然や大地に根差しつつも、神の国を指し示しています。つまり、主イエスは、人々に寄り添いながら、神の愛と義の支配する中に生きる者として造り変えられるよう導いておられるのです。
見よ、あなたがたの目の前に、主イエス・キリストがおられます! その行いと言葉によって、神の国が来ています。あなたの目に、主イエスはどのようなお方として写りますか。
大切なのは、これまで自分に隠されていたものが、主イエス・キリストによって明らかにされるということです。ですからそれは、これまで罪と病と死の「闇に閉ざされた国」(詩編143:3)で悩み苦しんでいた人々への福音です。
その暗黒の世界から脱出するには、どうすればよいのか……そのこともまた、主イエスが人々を招いて、教えられます。たとえをたくさん聞いて、「聞く力」(マルコ4:33)を鍛えなさい! 今はこの一点に集中しましょう。それでは、「成長する種」のたとえ、そして、「からし種」のたとえを順に取り上げます。
Ⅰ 土はひとりでに実を結ばせる
26 また、イエスは言われた。「神の国は次のようなものである。人が土に種を蒔いて、27 夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。28 土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる。29 実が熟すと、早速、鎌を入れる。収穫の時が来たからである。」
初めに以下のことを確認します。
「成長する種」と「からし種」とのたとえは共に、「神の国」のたとえであると明記されています(マルコ4:26,30)。この二つのたとえは、「種が土(地)に蒔かれる」という状況設定は同じなのですが、メッセージの内容は異なります。
しかし、「成長する種」と「からし種」のたとえが並置されていることからも分かるように、それぞれのメッセージを合わせて汲み取ると、「神の国」がどのようなものか、より明瞭になります。ですから、メッセージの上で、「成長する種」と「からし種」のたとえ、それぞれどこに力点が置かれているのか、しっかりと見極めましょう。
では、「成長する種」のたとえを読み取りましょう。そこでまず気になるのが、「ともし火」と「秤」のたとえの前に語られていた「種を蒔く人」のたとえ(マルコ4:1-9)との関係です。
今、「種を蒔く人」のたとえの詳細は振り返りませんが、一点だけ、「成長する種」のたとえとの違いを確認しておきましょう。
一方、「種を蒔く人」のたとえでは、「種を蒔く人」は主イエス・キリストであると示唆されていました。なぜなら、「神の国の秘密が打ち明けられる」(受動態! マルコ4:11)というたとえの結びから、「種を蒔く人」は主イエス・キリストであると「教えられる」(同上4:2)のが自然だからです。挫折に屈しない様子(同上4:4-7)も、主イエスを写し出していると言えます。
他方、「成長する種」のたとえでは、「人が土に種を蒔いて、夜昼、寝起きしている」、また、「どうしてそうなるのか、その人は知らない」と描写されています。その「人」(アンスローポス 人間)の知らなさ・無理解が際立たされています。ということは、その「人」は主イエスではなく、普通の人間であると言えるでしょう。
このように、たとえごとに、「種を蒔く人」が誰を指すのか、切り替えていくところにも、神の知恵が現れています。わたしたちも、その知恵を存分に享受したいものです。
そうすると、人間なる「種を蒔く人」が「どうしてそうなる(成長する)のか、知らない」という設定によって、たとえの中心点を浮き彫りにしようとしているのが分かります。すなわち、「土はひとりでに実を結ばせる」というのが、ここで主イエスが告げようとしておられる「神の国」についての重要なメッセージだということです。
ここでわたしたちは、農業に関わるこの世の知恵を振り回そうとすると、意味不明になります。いや、種を育てる人間は大概、草取りや施肥をしているし、長年の経験により「芽を出して成長する」ことに無知とは言えない、と反論したいでしょうが……。
しかし、先にお話ししたように、主イエスは、一方、ガリラヤの民衆の生活に立脚しながらも、他方、その民衆が神の愛と義の支配下に置かれるよう御言葉を宣べ伝えておられます。主イエスがたとえの教えによって目指していることは明確です。
「どうしてそうなるのか、知らない」ままに民は、安穏と「夜昼、寝起きしています」。ここでわたしたちは、「夕べがあり、朝があった」(創世記1:5)との天地創造における神の御業に注目したいと思います。この聖書の記事は、現代のイスラエルにおいても、一日は「夕べ」から始まるいうほどに影響を及ぼしています。
つまり、「どうしてそうなるのか、知らず」に、「夜昼、寝起きしている」こと自体がすでに、神の平和を象徴しているということです。神の安息の中で、わたしたちは、「土はひとりでに実を結ばせる」ことの背後に、何があるのか、気づかねばなりません。それが、メッセージの中心点を理解することにつながります。
「ひとりでに」、すなわち、自動的という言うことか、「そりゃ、楽だわ」だけでは、主イエスによるたとえを「聞く」ことにはなりません。無味乾燥な報告文のように、「土はひとりでに実を結ばせる」との一句を聞いてはなりません。聖霊に導かれるならば、この「成長する種」のたとえに正しく耳を傾けられるのを実証した人がいます。それが、使徒パウロです。
コリントの信徒への手紙 一 3:7――
ですから、大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもなく、成長させてくださる神です。
パウロは自らのコリントでの開拓伝道に「当てはめて」、このような「霊的なものによって霊的なことを説明しました」(Ⅰコリント2:13、4:6)。それによって、「成長する種」のたとえの中心点が射貫かれました。
要するに、神がすべてをなされる、持続的に「種を蒔く人」や「水を注ぐ者」を見守っているのは、神しかおられないということです。人が眠っている間も、神が寝ずの番をしておられます(出エジプト記12:42)。預言者イザヤは、「美しいぶどう畑」について、「荒らされないように、主なるわたしが夜も昼も監視している」(イザヤ書27:3 私訳)と述べています。このように、主イエスによってその到来が告げられた「神の国」(マルコ1:15)は、ひとえに神の御力によって成長していくのであります。
それならば、「土はひとりでに実を結ばせる」ではなく、「神が実を結ばせる」とおっしゃれば、誤解も何もないでしょう、と言われますか。しかしそれでは、「たとえ話の集会」の一貫性が壊されてしまいます。それに、おびただしい群衆の中には、たとえを「聞く力」が養われつつあった人々が少なからずいたでしょうから。
最後に、想定される疑問に対する答えを付け加えます。
「土はひとりでに実を結ばせる」との一句が「神がすべてをなされる」とのメッセージであるのは分かったけれども、「植える者」(教会の土台を据える者)や「水を注ぐ者」(それを建つぐ者)の働き(Ⅰコリント3:10,12)も看過できないのでは、という疑問です。
ここでも、三つ前(故にその連関は明々白々です)の「種を蒔く人」のたとえ(マルコ4:3-9)を思い起こしましょう。その話の中では、「種を蒔く人」は主イエス・キリストであると示唆されていました。「種は芽生え、育って実を結び、あるものは三十倍、あるものは六十倍、あるものは百倍にもなった」(同上4:9)というのも、主イエスの豊かな恵みを現しています。それは、わたしたちの思いをはるかに超えるものです。
しかし、ある意味、それに対比される形で、「成長する種」のたとえには、人間なる「種を蒔く人」が登場しました。二つのたとえの対比によって示されたのは、「人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ」(マルコ10:27)ということです。これは、「それでは、だれが救われるのだろうか」(同上10:27)との弟子たちの問いに対する主イエスの回答です。
ご安心ください、「神の畑」には、すべての人が招かれています(Ⅰコリント3:9)。「植える者」、「水を注ぐ者」、そして安気に「夜昼、寝起きしている」人(霊的に目覚め、悔い改めるなら尚更)も大歓迎です。なぜなら、「わたしたちは神のために力を合わせて働く者である」からです(同上3:9)。
次の「からし種」のたとえに入る前に、たとえならぬ、人の夢を読み解いてみましょう。その夢の中に「大きな木」が出てくる点で、「からし種」のたとえを理解する、良き備えとなります。
Ⅱ 弟子たちはできなかった
ダニエル書4:7-9――
7 眠っていると、このような幻が頭に浮かんだのだ。
大地の真ん中に、一本の木が生えていた。
大きな木であった。
天に届くほどの高さになり
地の果てからも見えるまでになった。
9 葉は美しく茂り、実は豊かに実って
すべてを養うに足るほどであった。
その木陰に野の獣は宿り
その枝に空の鳥は巣を作り
生き物はみな、この木によって食べ物を得た。
賢者ダニエルの夢解きについて考える前に、まず、夢を見た人物や時代などに関して背景を説明しましょう。
この夢を見たのは、バビロニア帝国の王ネブカドネツァルです。彼は前587年、パレスチナに遠征し、南ユダ王国を滅ぼしました。そして、バビロンの地に、ユダヤの王はじめ指導者や民衆などを捕囚として連行しました(歴代誌下36:-20)。異教の地で、ユダヤの民は神礼拝をささげるのが、困難な状況に陥りました。
そうした中で、ユダ族出身の四人の少年たちが、神によって立てられました。神から知識と才能を恵まれた少年たちは、ネブカドネツァル王によって宮廷に召し出されました。
一夜、ネブカドネツァル王は眠りの中に恐ろしい光景を見て、悩まされました。大勢のバビロンの知者を召集しましたが、その夢を解釈することは、誰にもできませんでした。そこで最後に、王はダニエルを呼び出して、夢の話をし始めました。上に引用したのは、その夢の内容の一部になります。
ユダヤの民にとっては仇敵の王が、「わたしネブカドネツァルは……」(ダニエル書4:1)と言って、ダニエルに向かって話しています。ユダヤ人の最大の敵、異邦人の言葉が、「聖書」(の一文書であるダニエル書)になっています。ここら辺りが「聖書」の奥深さでありましょう。異邦の王は決して神への冒瀆をなしているのではありません。今、「わたし」として神の御前に立たされています。賢者ダニエルを通し、神の知恵にあずかろうと、へりくだっています。
王の夢のストーリーを追ってみましょう。
「その木は成長してたくましくなり 天に届くほどの高さになり 地の果てからも見えるまでになりました」。その後、「見張りの天使」の命令でその木は「切り倒されます」(ダニエル書4:10-11)。そして、「切り株と根が地中に残されます」。
王は、これを聞いて驚いている様子のダニエルに解釈するよう懇願します。やおらダニエルは「王様」と呼びかけて、その解釈を告げます。要点を引用すると……
「その木はあなた御自身です。あなたは成長してたくましくなり、あなたの威力は大きくなって天にも届くほどになり、あなたの支配は地の果てにまで及んでいます」。「天使はこう言いました。この木を切り倒して滅ぼせ。ただし、切り株と根を地中に残し、これに鉄と青銅の鎖をかけて野の草の中に置け」。「これはいと高き神の命令で、わたしの主君、王様に起こることです」(ダニエル書4:19-21)。
では、この夢の中心メッセージは、一体どんなことなのでしょうか?
それは端的に言えば、「わたしネブカドネツァル」に対し、主なる神こそが、その繁栄と没落の鍵を握っておられるということです。「神の秘められた計画」(Ⅰコリント2:1)は、異邦の世界にまで、神に敵対している権力者にまで及んでいることが、一夜の夢によって開示されました。
この場面でダニエルは、神が愛と義をもって全世界を支配していることを告げる宣教者として用いられました。人質に捕られている身のダニエルですが、臆するこくなく、バビロンの王にその末路を告げました。
ここに、「その木が成長して大きくなって豊かに実を結ぶ」(ダニエル書4:17-18)かどうかは、ひとえに主なる神の御心と御業に拠るものであるとの霊的な説明が示されました。これは確かに、主イエスによる「成長する種」と「からし種」のたとえにおいて、その底流に流れている見方です。
Ⅲ 葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張る
マルコ福音書4:30-32――
30 更に、イエスは言われた。「神の国を何にたとえようか。どのようなたとえで示そうか。
31 それは、からし種のようなものである。土に蒔くときには、地上のどんな種よりも小さいが、32 蒔くと、成長してどんな野菜よりも大きくなり、葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張る。」
ここには、「成長する種」のたとえに出てきたような「人」(アンスローポス 人間 マルコ4:26)は見当たりません。この点には注意が必要です。直訳すると、「土に(からし種が)蒔かれる(受動態)ときには」(マルコ4:31)という書き方になっています(これを神的受動態と取れば、蒔いたのは神となります 例:マルコ9:2、Ⅰコリント15:4)。次節 4:32の「蒔くと」も直訳は「蒔かれると」(受動態)です。
それでは、「からし種」のたとえで強調されているものは、一体何でしょうか? それは、「からし種」自体にほかなりません。そのことは用語を見れば分かります。
まず、「からし種」は「からし」(シナピ)+「種・粒」(コッコス)の組み合わせから成っています。次に、「どんな種よりも」には「種」(スペルマ)という別の語が使われています。マルコ福音書4章ではこの節で、満を持していたように、「種」(コッコス)と「種」(スペルマ)とが登場しました。これまでは「種を蒔く」(スペイロー 4:3,4他)という動詞、ならびに、その名詞形の「種」(スポロス 4:26,27)が活用されていました。また、マルコ福音書4章において、「からし」というように、「種」の種類が特定されているのは、この箇所のみになります。
以上、用語を注視すると、「からし種」のたとえにおいては、「からし」(シナピ)+「種・粒」(コッコス)に脚光が浴びせられていることが分かります。そのように、このたとえでは、この「種」を独特なものとして紹介した上で、「地上のどんな種よりも小さい」と明記しています。つまり、「からし種」の〈小ささ〉をよくよく脳裏に刻んでおきなさい、ということです。
そこで主イエスは、次のようにたとえを語り継がれました……「蒔く(蒔かれる)と、成長してどんな野菜よりも大きくなり、葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張る」。これを聞いたおびただしい群衆の中には、「その木は成長してたくましくなり 天に届くほどの高さになり……葉は美しく茂り、実は豊かに実って……その木陰に野の獣は宿り その枝に空の鳥は巣を作った」(ダニエル書4:8-9)というネブカドネツァルの夢を思い起こした人もいたかも知れません。このくだりを「聖書」からの再話・パロディーとして受け止められるのは、「聞く力」を持った人に違いありません(参照:讃美歌Ⅰ-234番)。
たとえに出てきた「からし」という植物の「種・粒」は、将来現れるような大きさを宿していることの比喩であります。「からし種」は取るに足りないように見えるが、その小ささの中に、「神の国」の大きさが隠されている、それがメッセージの中心点であります。まさにガリラヤで主イエス・キリストにおいて現し始められた「神の国」は、やがて世界の隅々にまで広がっていくことになります。
さて、Ⅰ.の冒頭で、並置されている「成長する種」と「からし種」のたとえからのメッセージを合わせ汲み取ると、「神の国」がどのようなものか、より明瞭になると述べました。そこで、この二つのたとえを見直してみましょう。
「成長する種」 土はひとりでに実を結ばせる 〈神の秘められた計画〉
↓
「からし種」 〈小ささ〉==============⇒〈大きさ〉
どんな種よりも小さい 大きな枝を張る
「からし種」のたとえには、人の思いをはるかに超えた、〈小ささ〉から〈大きさ〉へという成長が示されています。それは一見「ひとりでに」のように思われますが、実はその背後には、〈神の秘められた計画〉がありました。それが、「成長する種」と「からし種」とを重ね合わせると見えてくるメッセージです。
主なる神は、その計画を内示するたとえの語り手として、主イエス・キリストを用いられました。その神の御子が、「神の国」の到来を告げられました。そして主イエスは、すべての人を救い出す十字架と復活の御業によって、「神の国」の隅の親石になろうとされています(マルコ12:10)。
その観点から言うと、主イエスは命を賭けて、群衆に一つひとつたとえを宣べ伝えておられます。だからこそ、「聞く耳のある者は聞きなさい」(マルコ4:1)と勧告されるのです。
Ⅳ 弟子たちにはひそかにすべてを説明された
マルコ福音書4:33-34――
33 イエスは、人々の聞く力に応じて、このように多くのたとえで御言葉を語られた。34 たとえを用いずに語ることはなかったが、御自分の弟子たちにはひそかにすべてを説明された。
ガリラヤ湖畔、カファルナウム(マルコ1:21、2:1)近郊で催された「たとえ話の集会」は、これで終わります。これから、主イエスとその一行はカファルナウムを拠点としながら、対岸のゲラサ人の地方、ナザレ、ティルス地方などを行き巡られます(同上5:1、6:1、7:24)。
ここで、主イエスによる「たとえ話の集会」を振り返りが行われます。
「イエスは、人々の聞く力に応じて、このように多くのたとえで御言葉を語られた」……主イエスはおびただしい群衆に圧倒されることなく、一人ひとりをよくご覧になっておられました。
御言葉の飲み込みの早い人、じっくり考えて理解しようとする人、そして、日常生活の中で実践できるようにと思い巡らす人などがいたことでしょう。主イエスはそうした人々に寄り添いながら、彼らの心の内にある苦悩と疲労、世へと思い煩い、富への欲望など(マルコ4:17-19)を見逃すことはありませんでした。
だからこそ、主イエスは「人々の聞く力に応じて」、きめ細かく対応されました。いずれにしても、求めている人々に対し、「神の霊に属する事柄を受け入れる」(Ⅰコリント2:14)という信仰的な姿勢を培うことに腐心されました。というのも、“霊”に教えられてはじめて、たとえのメッセージの中心点が究められるからです。
「イエスは、御自分の弟子たちにはひそかにすべてを説明された」……これは、十二弟子と一緒に主イエスの周りにいた人々を区別するという趣旨を物語るものではありません。言い換えれば、主イエスにつき従う一部の人を特別視したということではありません。
そうではなく、「ひそかにすべてを説明する」ために、主イエスが十二弟子を呼び寄せた(マルコ9:35、10:32)ということが重要なのです。
マルコ福音書10:32-34――
32 イエスは再び十二人を呼び寄せて、自分の身に起ころうとしていることを話し始められた。
33 「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子は祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して異邦人に引き渡す。34 異邦人は人の子を侮辱し、唾をかけ、鞭打ったうえで殺す。そして、人の子は三日の後に復活する。」
主イエスは弟子たちに「ひそかに」、十字架と復活についての予告を三回されました(マルコ8:31、9:31、10:33-34)。このことが、説明すべき「すべて」のことの中で、「自分の身に起ころうとしていること」の中で、最も重要なことであるのは自明です(Ⅰコリント15:3-4)。
しかし、主イエスの呼び寄せられた弟子たちにとって、それは理解のむずかしいことでありました(マルコ9:32)。主イエスをわきへ連れ出して、いさめる弟子もいました(マルコ8:32)。要は、主イエスご自身が、「ひそかにすべてを説明しよう」と召し出された弟子たちの「聞く力」は、そんな程度であったということです。
それならば結局、弟子たちを召集したこと(マルコ3:13-19)、彼らに「ひそかにすべてを説明された」こと、とりわけ、十字架と復活について予告されたことは、無駄であったのでしょうか。人間の内面性や外敵・サタンの働きを見通すことにおいて、主イエスの側に何らかの落ち度があったのでしょうか。
結
その問題に対する正しい向き合い方は、すでに「種を蒔く人」のたとえ(マルコ4:3-9)に明らかにされています。そのたとえでは、「種を蒔く人」として主イエス・キリストが指し示されている!というのが、理解のヒントになります。
詳しく振り返ることはしませんが、あたかも天から降って来るような形で、「種」が四種類の地に「落ちました」(マルコ4:4,5,7,8)。そこで、「種を蒔く人」の①道端、②石地、③茨の中、④良い土地を巡る放浪の旅が始められます。
そのとき、「種を蒔く人」はその土地の人々の「思い煩いや欲望」や「艱難や迫害」に向き合います。①・②・③の地の人々を憐れみ励まされます。というのも、「種を蒔く人」なる主イエス・キリストは、すべての人が、神の平和のもと、④良い土地に暮らすことを願っているからです。彼らが神の豊かな恵みにあずかるようにと招いておられます。
主イエス・キリストは、弟子たちによる裏切りや否認などに屈することなく、神の大いなる救いを成し遂げられます。主イエスはその時が来るのを待ちながら、繰り返したとえを話して「説明され(原意:解き明かされ)ました」。
主イエスが弟子たちに予告された、十字架と復活の言葉は、根本的には、人に啓示されるものであります。それは、「隠されていた、神秘としての神の知恵であり」、「わたしたちには、神が“霊”によってそのことを明らかに示してくださいます」(Ⅰコリント2:7,10)。
それ故に、「人々の聞く力」は、ただただ“霊”の働きに掛かっています。わたしたちはその力を受け容れる器になっているでしょうか。
“霊”なる神、聖霊が「成長する種」と「からし種」のたとえを解き明かされます。主イエスの息遣いが伝えられます。忍耐強い神がくり返し語ってくださいます。わたしたちは今、教会でそれを「聞く」だけで良いのです。そうすれば、わたしたちは大きく成長し、「神の国」に向かって前進していくことができるでしょう。
W
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〈説教の要約〉
2024年 6月30日
聖霊降臨節 第7主日
旧約聖書 詩編143編 1節~12節(P.983)
新約聖書 ガラテヤの信徒への手紙 2章16節(P.344)
説 教「あなたの前に正しい者はいない」 小河信一牧師
説教の構成――
序
Ⅲ 行くべき道を教えてください
……詩編143:11-12
……ガラテヤ2:16
序
新約聖書には、主イエス・キリストの福音、十字架と復活の御業、その神学的な意味が、そのものズバリと書き表されている箇所があります。例えば、ヨハネ福音書3章16節やローマの信徒への手紙8章など。そこに書かれている御言葉によって、主イエス・キリストを信じる信仰が芽生えたり、強められたりします。しかし、福音の本質を説き明かされても、必ずしも信仰を持つようになるとは限りません。
福音に向き合わされているのですが、“霊”の働きが受け止められなかったり、あるいは、その人の心が頑なさや高ぶりに覆われていたりして、行き詰まることがあります。
では、福音に直接向き合ってない……それがズバリとは提示されていない……旧約聖書では更に行き詰まりやすいので、読む意味はないということになるのでしょうか?
わたしは必ずしもそうは言えないと思います。今、新約聖書の福音に密接につながっている詩編を読もうとしています。皆さんはこの礼拝の中で、詩編143編を主題とする説教を聞かれます。
従って、主イエス・キリストを信じる信仰が芽生えたり、強められたりするかどうかは、礼拝後(あるいはしばらくの後)に明白になります。説教者は重い使命を担わねばなりません。
それはともかくも、一般論として、福音そのものを提示していない旧約聖書を読む意義は、どんなことにあるのでしょうか?
それは古来より、キリスト教会が問い、答えてきた問題であります。今、詩編143編の説教の序.として、わたしは次のように答えます。旧約聖書を読む人の観点から……
そこでは、ある意味では新約以上に多彩な霊的な体験や黙想が引き起こされる。
②御言葉の力に自分が引きずり込まれる。
自分は聖別されているのか、罪に汚れているのか、あるいは、「わたしの魂」が健やかであるか、弱っているか(詩編143:8)、いずれにせよ、自分自身で御言葉を読み、自分で主イエス・キリストの福音とのつながりについて考える。
そうしないと、なかなか福音にたどり着けないという側面が、旧約聖書にはある。
ゆっくりと思い巡らしたい人や回り道をしたい人、大歓迎です。“霊”に導かれ、自分が造り変えられていく中で、自分で聖書を読むというのは、何と豊かな霊的体験なのでしょう。こういうタイプの、キリスト教の求道または伝道を望んでいる人も少なからずいることでしょう。
それではご一緒に、パウロが福音の土台とした聖句の含まれる詩編143編を読み味わいましょう。新約と合わせて旧約を読む意義をしっかりと捉えてください。
Ⅰ 御前に正しいと認められる者はいない
わたしに答えてください。
命あるものの中にはいません。
主なる神への祈りで始められています。自分の状況や願望については詳述されていません。それについては、詩編の後半(143:7-12)で具体的になります。しかし、鍵となる語句や表現が出ていますので、それらを基に、メッセージを読み解いてみましょう。
まず、ただひたすら「お聞きください」、「耳を傾けてください」と嘆願していることが注目されます。神が「わたしの祈り」や「わたしの嘆き祈る声」を聞かれているとの信仰をもって叫んでいます。
と言い得るのは、「主」なる神と「主よ」と呼びかけている「わたし」との関係が揺るぎないものだからです。さらに、「御前」(あなたの前)に、自分は「あなたの僕」(詩編143:2,12)であると告白しています。尊ぶべきは、この告白が新約の数少ない類例によって見出されるからです(使徒4:29、ローマ1:1)。
実はこの2節内には、詩人が神に仕える者として、へりくだっている以上に、深い自己洞察が暗示されています。以下に、その深い自己洞察について探究してみましょう。
次の二つの嘆願、「恵みの御業によって わたしに答えてください」と「あなたの僕を裁きにかけないでください」から、「わたし」が神の「義」に直面していることが分かります。前の文の「恵みの御業」は本来、「義」(ツェダカー)と訳すべき言葉です。また、後の文の「裁き」では、神が「義」をもって裁いてくださるのを願っています。
詩人の犯している罪咎は表面に出ていませんが、詩人は、「義」なる神が人間すべての善悪をご覧になっているのを確信しています。「愛」と共に「義」によって、神と詩人との堅い交わりがつくられています。だからこそ、わたしたちの手本となる祈りが湧き出てくるのでしょう。
そこから発せられたのが、「御前に正しいと認められる者は 命あるものの中にはいません」との詩人の信仰告白です。これは、新約の福音を射貫くような罪の表明です。主イエス・キリストの御前に、この言葉を携えて進み出なさい、と勧めるに価する言葉です。
この敬虔な詩人には、自分は「命あるものの中」の例外であるとの高ぶりは見られません。むしろ、自らが「罪人のかしら」(Ⅰテモテ1:15)であると認めたうえで、ユダヤの民と異邦人すべてが「罪の下にある」ことを告げています(参照:ローマ3:9)。
パウロがこのような霊的洞察と告白をもって、主イエスの御前に出たことについては、最終のⅤ.でじっくりと確かめましょう。
Ⅱ 敵はわたしの魂に追い迫る
あなたに向けます。
篤い祈りの基本が提示された詩編冒頭とは異なり、ここでは、詩人の心の揺れ動きが吐露されています。恐怖に取り憑かれた嘆息から過去の想起へ、そして、飢え渇きの中からの賛美へ、と転じていきます。詩人は「御前に正しいとは認められない」にもかかわらず、臆することなく、自分の姿や心情をさらけ出しています。内容的には支離滅裂とも……不信仰なのか信仰的なのか、どっちつかずとも……言えますが、それ故にこそ、詩人への近親感が呼び起こされます。
いずれにしても、泥沼状態からの嘆息や賛美こそ、自分が言葉に表したかったものではないでしょうか。“霊”に導かれて、自分の身心に染み込むほどに、詩人の言葉を噛みしめましょう。やがて、「渇いた大地」に下る夜露と共に、「朝」がやって来るでしょう(詩編143:8)。
詩編143:3――
②わたしの命を地に踏みにじり
③とこしえの死者と共に
闇に閉ざされた国に住まわせようとします。
恐怖に取り憑かれた嘆息が、3連続で吐き出されています。そうして、詩人は「死」と「闇」の底から神を呼び求めています。
詩人は「敵ども」(詩編143:3,12)や「苦しめる者ら」(同上143:12)に取り囲まれています。この「敵ども」は特定されていませんが、自分に襲い来る罪への誘惑や自分の犯す悪行とも見なされます。そこで、「義」なる神の御前で、自分が神に敵対していないか、自分が人を「苦しめて」いないか、省みたいものです。
その時、詩人は「わたしの霊はなえ果て (わたしの)心は(わたしの)胸の中で挫けます」と打ち明けています。「わたしの」率直な告白であり祈りです。人は誰しも、心の内に自分の弱さや貧しさを抱えています。独りでは背負えないほどの重荷に耐えています。
そうしたとき、神に依り頼むのか、それとも、この世の富や知恵にすがりつくのか、が問題になります。人生の土台として、「あなた」なる神と「わたし」との関係を選び取る人は幸いです。その「わたしの霊はなえ果てている」ときに、出来るのは「わたしはいにしえの日々を思い起こす」ということです。詩人はじっくりと自分の人生を振り返り、聖書に沿って神の大いなる救いの歴史を回想します。
すると、回復のきざしが「わたしの魂」に現れます。闇の中に、「あなたのなさったこと」や「御手の業」が走馬灯のように駆け巡ります。衰弱しながらも「わたし」は、親しく「あなた」に寄りかかっています。
そうすると、「あなたに向かって両手を広げ 渇いた大地のようなわたしの魂を あなたに向けます」。外からの力が「わたし」の内に溢れてきます。石清水のように、飢え渇きの中からの賛美が湧き上がります。息を吹き返した「わたしの霊」が、「あなたに向かって両手を広げる」という姿勢を造り出しました。ここに、驚くべき急転回、大逆転が見られます。
神の働き給う歴史の中では、「天にいます神に向かって 両手を上げ心も挙げて言おう」(哀歌3:41)ということが一再ならず起こります。そうした一人ひとりが呼び集められて、礼拝へと発展していきます。詩人にとって今、それは幻かも知れませんが……
Ⅲ 行くべき道を教えてください
詩編143:7-10――
あなたの慈しみについて。
あなたにわたしは依り頼みます。
あなたに、わたしの魂は憧れているのです。
詩人の心の揺れ動き、闇なる部分が完全に消え去ったわけではありませんが、神の“霊”の導きにより、祈りはますます強められていきます。
この詩の冒頭(143:1-2)と同様に、詩人は「主よ、早く答えてください」と嘆願しています。「早く」と言っても焦っているわけではありません。「朝にはどうか、聞かせてください」というように、「朝」が来るのを待っています。
「わたしの霊は絶え入りそうです」との訴えは、前出の「わたしの霊はなえ果て 心は胸の中で挫けます」(詩編143:4)と共に、信仰上の分岐点を示しています。というのも、「わたしの霊」が生気を失っている、すなわち、魂が打ち砕かれ弱くなっている時こそ、神に立ち帰るチャンスだからです。まさに、神の恵みの雨が「渇いた大地のようなわたしの魂」に降り注ぐのが待望されます。そうだとすれば、心の中が空にされたのも、ひと時「御顔をわたしに隠された」神のご計画であったと言えましょう。
人が「息絶えようとする」(なえ果ての別訳 参照:ヨナ書2:8、哀歌2:19)危難を体験したところで、詩人の前途が開かれました。「わたしはさながら墓穴に下る者です」と、主イエスさながらの謙卑をもって、詩人は自分を見つめました。そこで、「行くべき道を教えてください」というように、自らの道を主にゆだねます(詩編37:4,5)。
一つ前の詩編にも、衰弱した「わたしの霊」が、信仰上の分岐点に出合ったことが証しされています。
詩編142:4――
譬えて言うならば、詩人は労苦のうちに山頂に立ちました。霧が晴れました。そして、神がイスラエルの北の山々から南の荒れ野に至るまで、「洞穴」や「小道」すべて……一人ひとりの人生行路……をご存じなのだということを知りました。
だから、詩人は主に、「わたしが行くべき道」をまかせています。だから、心を開いて、「主よ、敵からわたしを助け出してください」、「御旨を行うすべを教えてください」、そして、「恵み深いあなたの霊によって 安らかな地に導いてください」と乞い願っています。
こうして、「あなたはわたしの神」という、「あなた」と「わたし」との交わりは、上からの力によって新たにされました。「安らかな地に導かれる」との確信をもって、現実に立ち向かいます。大切なのは、「わたしの霊」の弱さを受け入れることです。「御もとにわたしは隠れます」との信仰があれば、人の罪悪と誘惑とが吹き荒れるときにも、動揺しないでいることができます。
Ⅳ わたしはあなたの僕なのですから
詩編143:11-12――
11 主よ、御名のゆえに、わたしに命を得させ
恵みの御業によって
ことごとく滅ぼしてください。
「Ⅱ 敵はわたしの魂に追い迫る」(詩編143:3-6)でも確かめたとおり、「敵」は「わたしの魂を苦しめて」います。その攻撃は、「わたしの魂を災いから引き出してください」と切望するほど、激しくなっています。
ここで、「敵」や「苦しめる者」の実体を明らかにされていません。また、彼らへの憤りが高じて、自分自身を……「わたしの霊」や「わたしの魂」を……見失っているのでもありません。では、この詩編で明確になっているのは、何か、つまり、この詩編のすぐれた特徴は、一体何なのでしょうか?
こう答えるのは不親切かも知れませんが、最初の言葉「主よ、わたしの祈りをお聞きください」から、最後の言葉「わたしはあなたの僕なのですから」へ、がすべてであります。以下、説明しますので、ご安心ください。
この詩人は切々と、人生の遍歴を、その辛苦を物語っています。「闇に閉ざされた国」、「いにしえの日々」、「渇いた大地」、「墓穴」、「安らかな地」……これまで、「わたしが行くべき道」を問い尋ねながら歩んできました。
そこで、詩人が最重要であると知ったのが、「主よ」と祈ること、そして、「あなたの僕」としてへりくだることでありました。そのことが、詩編の最初と最後に歌われていました。
いみじくもその二つは、序.「旧約聖書を読む人の観点から」のポイント①と②に符合します。すなわち、①祈りの内に“霊”の執り成しを願う、そして②神の御前に自分が引きずり出される、ということです。それ故に、その観点からも、「主よ、わたしの祈りをお聞きください」との嘆願と、「わたしはあなたの僕なのですから」との告白の重みを読み取らねばなりません。
詩人はそのような言葉をもって、「あなた」なる神と「わたし」との堅いつながりを昭示しました。そして、霊性に満ちた詩人は、「御前に正しいと認められる者は 命あるものの中にはいません」(詩編143:2)と言い表しました。Ⅰ.で、これは「新約の福音を射貫くような罪の表明である」と、わたしは評しました。つまり、福音を信じるわたしたちの自己認識(アイデンティティー)にほかならないということです。
パウロの書簡を通して、どのようにこの洞察に満ちた告白が受け止められているか、読んでみることにしましょう。
Ⅴ イエス・キリストへの信仰によって義とされる
けれども、人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされると知って、わたしたちもキリスト・イエスを信じました。これは、律法の実行ではなく、キリストへの信仰によって義としていただくためでした。なぜなら、律法の実行によっては、だれ一人として義とされないからです。
では、どのように、「御前に正しいと認められる者は 命あるものの中にはいません」(詩編143:2)との言葉が、パウロの書簡……ガラテヤ2:16にローマ3:9,20を合わせて……に引用されているのか、吟味しましょう。
①「なぜなら、律法の実行によっては、だれ一人として義とされないからです。」ガラテヤ2:16
②「ユダヤ人もギリシア人も皆、罪の下にあるのです。」ローマ3:9
③「律法によっては、罪の自覚しか生じないのです」ローマ3:20
すぐに(①と③によって)気づくのは、「御前に正しいと認められる者は いません」との告知に抗うかのように、「義とされる」ために「律法の実行」が試みられたということです。その典型が、ファリサイ派の律法学者であります。律法の遵守をモットーとするファリサイ派でしたが、「律法の中で最も重要な正義、慈悲、誠実はないがしろにしている」(マタイ23:23)という有り様でした。
では、「律法を実行する」(ローマ3:20、ガラテヤ2:16)ことの、どこに問題があるのでしょうか? モーセの受け取った「律法」……例えば十戒(出エジプト記20:1-21)……には、神の御心が表されているのではないか、という反論も予想されますが……。
「人が律法の実行によっては義とされない」理由は、以下の通りです。
「神の恵みに対する信頼をもって行い、そして、神によって造られ生かされていることを喜んで行うというのではなく、いつの間にか、自分の力に対する確信をもって、自分の誇りをもって、行うということになってしまっている」からです(竹森満佐一)。要は、「律法を実行する」人が、神によって生かされていない、真に神によって救われていない、ということです。
その自分を頼りとする傲慢な姿は、「主よ、敵からわたしを助け出してください」(詩編143:9)と祈る謙遜な詩人とは対照的です。詩人は、神の「御手の業」(同上143:5)によって、罪咎を背負っている「あなたの僕」が助け出されるのを待っています。「打ち砕かれ悔いる心」(詩編51:19)をもって、嘆き祈り続けています。神が詩人を「御前に正しいと認められる」日は必ず訪れることでしょう。
時満ちて、キリストがわたしたちの間に宿られました(ヨハネ1:14)。そして実際に、「けれども、人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされると知って、わたしたちもキリスト・イエスを信じました」(ガラテヤ2:16)というキリストの群れが現れました。そのような信仰者によって、小アジアのガラテヤに、また、ローマに、教会が建てられました。
その人々は、詩編143:2の御言葉に沿って、自らを「御前に正しいと認められない罪人」と告白し悔い改めました。その人々の「信仰が義と認められて」(ローマ4:5)、救われたのは、ただただ神の恵みによるものです。
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月報 6月号
説教 『 芽生え、育って実を結ぶ種 』
マルコによる福音書 4章1節~9節 小河信一 牧師
説教の構成――
序
Ⅰ イエスはたとえでいろいろと教えた ……マルコ4:1-2
Ⅱ 種を蒔く人が種蒔きに出て行った ……マルコ4:3-7
Ⅲ 茨の中に種を蒔くな ……エレミヤ書4:3
Ⅳ 実を結び、三十倍、六十倍、百倍にもなった ……マルコ4:8
Ⅴ 聞く耳のある者は聞きなさい ……マルコ4:9
序
ガリラヤの湖や山を舞台に、主イエスの伝道が進められています。主イエスは家の中から湖のほとりに出て行かれました。これから、夕方に至るまで(マルコ4:35)、主イエスは群衆にいろいろなたとえを話されます。
わたしたちには通常、家の内と家の外との生活があります。その二つは車の両輪の関係にあります。家での平穏と外での活動、双方があってより人間らしく生きてゆくことができます。
この世の中で、不慣れな人間関係において心身がたくましくなり、自立の意識が芽生えることもあるでしょう。あるいは、屋外で動植物や自然などの被造物に親しく接する中で、知恵や愛情が育まれることもあるでしょう。
さあ、主イエスは(舟に乗って)湖の中、群衆はそのほとりという状況での、「たとえ話の集会」に参加してみることにしましょう。主イエスはその一番目として、野外で語るにふさわしいたとえを取り上げられました。これは、広い観点から「神の国」のたとえ話に属します(マルコ1:15、4:11)。ですから、パレスチナや日本の農業のやり方から観て、非常識であるとの現世的思考にこだわり過ぎないようにしましょう。湖の上という異空間におられる主イエスをしっかりと見つめましょう。言うまでもなく、神を拝む礼拝は、天空の見わたせる野外でも可能です。
中心点はここでも、主イエス・キリストがどのようなお方であるのか、ということです。そして、あなたが御言葉を聞き入れて、救われるかどうか、が問われています。
Ⅰ イエスはたとえでいろいろと教えた
マルコ福音書4:1-2――
1 イエスは、再び湖のほとりで教え始められた。おびただしい群衆が、そばに集まって来た。そこで、イエスは舟に乗って腰を下ろし、湖の上におられたが、群衆は皆、湖畔にいた。2 イエスはたとえでいろいろと教えられ、その中で次のように言われた。
ここで主イエスは、わたしたちの手本となる伝道の基本を実践されています。
「イエスは、再び湖のほとりに出て行かれた。
群衆が皆そばに集まって来たので、イエスは教えられた。」(マルコ2:13)
↓ ↓
「イエスは、再び湖のほとりで教え始められた。
繰り返し出かけて行く、繰り返し語る、そうしてイエス・キリストの御姿を人々の心に焼き付けるということです。それは、都のように家が密集しておらず、視界をさえぎる山もない、ガリラヤ湖畔では格好のやり方でありました。
主イエスの巡回によって、カファルナウムからベトサイダやコラジンへ(マルコ1:21、6:45、マタイ11:21)、点から線へ、線から面へと伝道が展開されていきます。それは、「群衆」が「おびただしい群衆」に膨らんでいることからも分かります(マルコ3:7、4:1)。ユダヤ民族の垣根を飛び越えて、「イドマヤ(エドム)、ティルスやシドンの辺り」(同上3:8)など、異邦人世界からも、人々が集まって来ました。
さて、「イエスはたとえでいろいろと教えられた」ということを説き明かしましょう。
まず、「いろいろと教えられた」との句には、ずっと継続して忍耐強く教えたとのニュアンスが含まれています。先取りして言えば、主イエスは挫折に屈せず、「種を蒔く人」(マルコ4:3)として御言葉を蒔き続けられます。その点については、Ⅳ.で詳しく述べます。
そして、なぜ「たとえ」を用いて話すのか、との疑問にお答えましょう。すでにお話しした通り、「たとえ」は大概、日常生活から題材……種蒔きの他、ともし火、秤など(マルコ4:21-25)……が採られています。しかしながら、主イエスの「たとえ」は明確に「神の国」を指し示しています。「神の国」は、わたしたちの生きている「命あるものの地」(詩編142:6)とつながりつつも、そこは神の栄光と恵みが満ち満ちているところです。
従って、わたしたちの日常生活の知恵や経験をもってすれば、主イエスの「たとえ」がすぐに分かるというのではありません。むしろ、「神の国の秘密が打ち明けられる」(受動態! マルコ4:11)のを、受け止める、受容することが重要になります。「神の国の秘密」というのは、「神の秘められた計画」(Ⅰコリント2:1)と言い換えられます。
だからこそ、「たとえでいろいろと教えられ」、その「計画」の全体像を捉えねばなりません。主イエスにつき従う者が「打ち明けられ、教えられる」コツとして、主イエスは「聞く耳のある者は聞きなさい」(マルコ4:9)と勧告されています。これも、あと(Ⅴ.)で吟味することにします。それでは、「聞くに早く」(ヤコブ1:19)との教えに従って、さっそく「たとえ」の本文に耳を傾けましょう。
Ⅱ 種を蒔く人が種蒔きに出て行った
マルコ福音書4:3-7――
3 「よく聞きなさい。種を蒔く人が種蒔きに出て行った。4 蒔いている間に、①ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。5 ②ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。6 しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。
7 ③ほかの種は茨の中に落ちた。すると茨が伸びて覆いふさいだので、実を結ばなかった。」
整理すれば、①「ある種」は「道端に」、②「ほかの種」は「石だらけで土の少ない所に」、そして③「ほかの種」は「茨の中に」、それぞれ「落ちた」ということです。①「ある種」、②「ほかの種」、そして③「ほかの種」、すべて一粒ずつです。
あまり実際の農業に結びつけないように、と言った理由がもうお分かりでしょう。いくら実証しようとしても、このような「種蒔き」の仕方は普通ではありません。ここで付け加えますが、「種を蒔く人のたとえ」は、主イエスにさかのぼる真正なものだと言われています。裏を返せば、このたとえには、主イエスによって独特のアレンジが施されているということになります。
では、①~③の例示によって、主イエスは何を言わんとしているのでしょうか。
①「道端に」
……御言葉を聞いても悟らずに、それを捨ててしまう人 マタイ13:19
②「石だらけで土の少ない所に」
……しばらくは続いても、困難や迫害に遭うとつまずいてしまう人 マルコ4:17
……この世の思い煩いや誘惑によって実を結ぶに至らない人 マルコ4:19
これは冷静に考えると、種の蒔かれた土地の問題であると同時に、その後の種・芽・葉・実など育成・育て方の問題であると言えましょう。つまり、御言葉を植え付けられた人自身の問題であると同時に、いかに御言葉と格闘(学び・反復・助言・説き明かし〔使徒8:34-35〕など)するかという問題であります。
次の点に注意しましょう。④の「良い土地に」と合わせて、「あなたは①~④のどれに当てはまりますか」と問われて内省すること自体は良いことです。①から③には、途中で放棄してしまうことなど、それなりのリアリティがあります。しかし、そこで終わるならば、このたとえは、四種類の「人間論」を物語っているというだけの話になります。
大切なことは、「たとえ」の中の①~④の細目によって自らを省みつつ、「神の国の秘密が打ち明けられる」(受動態! マルコ4:11)に至るということです。そこに、「種を蒔く人のたとえ」の核心があります。
これと並行する形で、「放蕩息子のたとえ」(ルカ15:11-32)がわたしたちを正しい信仰へと導きます。すなわち、弟・息子は「高い勉強代」を払って、ついに、「ここをたち、父のところに行って言おう。『「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました』」(同上15:18)というように決心しました。
言い換えれば、「神の秘められた計画」のもとに、ひとりの人間が我が身の程を知ったということです。これは、①・②・③の「種の蒔かれた土地」を巡った放浪の旅でありました。
しかし、放蕩息子の内省以上に大切なことは、父のもとへの帰還でありました……「ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した」(ルカ15:20)。
この父親との出会いによって、息子の内省は真の悔い改めになったのではないでしょうか。父なる神との出会い、神への信仰、これがまさに、「取り消されることのない救いに通じる悔い改めを生じさせた」(Ⅰコリント7:10)のであります。
さて、主イエス・キリストなる「種を蒔く人のたとえ」の結びを読む前に、旧約をひもといてみましょう。エレミヤは、神が聖別し立てた「諸国民の預言者」です(エレミヤ書1:5)。神はエレミヤに「わたしの言葉を授け」られました(同上1:9)。従って、彼は「種を蒔く人」のプロフェッショナル(職業専門家)です。エレミヤの信仰が凝縮された名言を紹介しましょう。
Ⅲ 茨の中に種を蒔くな
エレミヤ書4:3――
向かって、こう言われる。
Ⅱ.で種の蒔き方の例③として「ほかの種は茨の中に落ちた」と述べられていました。そしてそれは、「この世の思い煩いや誘惑によって実を結ぶに至らない人」(マルコ4:19)を指し示しているとのことでした。
ではエレミヤは、「茨の中に種を蒔くな」との勧告によって何を言おうとしているのでしょうか。「落ちる」前に、上のような無残な結果に至る前に、「蒔くな」と禁止している理由は、なぜなのでしょう。無残な結果を見越しているから……それはそうなのですが……
エレミヤ独自の理由は、すぐ見つけられます。すなわち、「あなたたちの耕作地を開拓せよ」、これを第一の勧告とするということです。しっかりと耕された所を造り、そこに種を蒔くのです。だから、決して「茨の中に種を蒔いて」はなりません。
ここで問題は、これは「ユダの人、エルサレムの人に向かって」語られた「たとえ」であるということです。この「たとえ」を用いた勧告の真意を「説明する」必要があります(マルコ4:34)。
こういう場合には、直近のエレミヤ自身の言葉をよく把握して、「説明する」のが正当です。そこで、すぐ後の節を掲げましょう。
エレミヤ書4:4――
割礼を受けて主のものとなり
さもなければ、あなたたちの悪行のゆえに
わたしの怒りは火のように発して燃え広がり
消す者はないであろう。」
内容的に、エレミヤ書4章の3節 勧告から4節 警告(特に さもなければ 以下)へという流れになっています(C.ヴェスターマン)。この二節は、前後の章句を総括しています。
そこで気づかされるのは、「あなたたちの耕作地を開拓せよ」は、「あなたたちの心の包皮を取り去れ」という言葉への比喩・たとえであったということです。
すなわち、「あなたたちの耕作地を開拓せよ」とは、或る農業公社のスローガンなどではなく、信仰的に刷新されよ、との励ましなのであります。従って、「茨の中に種を蒔くな」とは、律法上の「割礼」(すなわち男子の包皮を取ること 創世記17:10-12)に固執するな、神信仰をないがしろにするな、と命じているものなのです。
「あなたたちの心の包皮を取り去れ」もまた、「種を蒔く人」エレミヤの名言でありました。使徒パウロはそれを下敷きにして、「内面がユダヤ人である者こそユダヤ人であり、文字ではなく“霊”によって心に施された割礼こそ割礼なのです。その誉れは人からではなく、神から来るのです」(ローマ2:29)と述べています。
エレミヤは、民衆に広くアピールする力を持つ「あなたたちの耕作地を開拓せよ」との勧告によって、一人ひとりを真の悔い改めによる“霊”的な新生へと導きました。そのようなエレミヤは確かに神から「言葉を授けられた」人(エレミヤ書1:9)に違いありません。
「茨の中に種を蒔くな」(主イエスのたとえの例③)、そうではなく、「あなたたちが開拓した耕作地に種を蒔け」(主イエスのたとえの例④)ということです。エレミヤの勧告はおよそ600年の時を経て、主イエスによって引き継がれました。
Ⅳ 実を結び、三十倍、六十倍、百倍にもなった
マルコ福音書4:8――
「また、ほかの種は良い土地に落ち、芽生え、育って実を結び、あるものは三十倍、あるものは六十倍、あるものは百倍にもなった。」
種の蒔き方の例④として、「ほかの種は良い土地に落ちた」が出てきました。
①・②・③が「闇」で、④に「光」が出てくるような語りは、「民話風」です。少年サムエルへの神のよびかけ(サムエル記上3:1-10)や三度否んだ後の弟子ペトロと主イエスとの出会い(ヨハネ18:15-27、21:15-19)などは、「民話風」の語りとも相俟って、わたしたちの脳裏から離れません。
また、①「ある種」、②「ほかの種」、そして③「ほかの種」、すべて一粒ずつ(単数形)でしたが、「ほかの種は良い土地に落ちた」という④「ほかの種」は複数形(英語 some seeds)になっています。たとえのクライマックスで、その言葉遣いからも「豊作」が内示されています。
さらに、「育って実を結び……あるものは百倍にもなった」の文を直訳すると、「(ほかの種は)増し加えられ実を結ぶ、三十倍に、六十倍に、百倍に」となります。つまり、複数の「ほかの種」がさらに増加して実を結ぶという「豊作」が継続していくと述べられています。
なぜ、最後にこんなどんでん返しが起こるのでしょうか? わたしたちは、①・②・③の現実的な不毛と過酷の果てに、④で一挙に「神の国」が到来したような結末に驚かされます。そこで、わたしたち・教会員が④の「ほかの種」になり、教会を「良い土地」にしようと、焦ってはなりません。それでは、始めに「種を蒔く人」(マルコ4:3)が登場し、終わりに「神の国」の到来が恵み豊かに描かれている、「たとえ」を理解し損ねることになります。
理解の鍵は、「神の国の秘密が打ち明けられる」(受動態! マルコ4:11)ということにあります。それは、わたしたちが、「たとえ」の中の「種を蒔く人」(同上4:3)が主イエス・キリストであると、「教えられる」(同上4:2)ことです。そのように信じることです。重箱の隅をつつくように、「たとえ」中の不合理な点(種の蒔き方など)にツッコミを入れるは止めましょう。
ガリラヤ湖畔での伝道において、主イエスはさまざまな無駄と失敗などの困難を乗り越えられました。「おびただしい群衆」、一人ひとりと向き合って、信仰を授けられました。主イエスは、「たとえ」中の①・②・③に例示されているような、不毛な土地をも行き巡られました。それは決して無駄なことではなかったのです。
Ⅴ 聞く耳のある者は聞きなさい
マルコ福音書4:9――
そして(イエスは)、「聞く耳のある者は聞きなさい」と言われた。
この「たとえ」は、わたしたちの心に思い浮かびもしなかった「豊作」で結ばれています。複数の「ほかの種」がさらに増加して実を結び、それが継続していくということです。従って、「聞く耳のある者」は「聞くこと」を持続していかなければなりません。そうしないと、神の恵みの豊かさ、神の寛大さを十分に汲み取ることができなくなります。
人生の中で、①「道端に」、②「石だらけで土の少ない所に」、③「茨の中に」遭遇することもあるでしょう。孤独を泣き悲しんだり、都会「砂漠」の中でもがき苦しんだりしているとき、誘惑の声に誘われそうになります。その声を断ち切っても断ち切っても、心に虚しさが押し寄せてきます。
そのような時にこそ、「種を蒔く人のたとえ」の①・②・③の箇所を謙虚に黙想しましょう。荒れ地を行き巡られる主イエスがあなたのそばにおられます。「そういう人ならば、イエスの十字架やその復活に直面しても、茫然自失してこれに対することはないであろう」(E. シュヴァイツァー)との指摘は、言い得て妙であります。
「聞く耳のある者は聞きなさい」……聖霊なる神が、この「たとえ」のすべてを、その中心を教えてくださるのを静かに待ちましょう。
W
〈説教の要約〉
2024年 6月23日 日本キリスト教団 茅ヶ崎香川教会
聖霊降臨節 第6主日
旧約聖書 エレミヤ書 13章15節~17節(P.1201)
新約聖書 コリントの信徒への手紙 一 4章14節~21節(P.304)
説 教「わたしに倣う者になりなさい」 小河信一牧師
説教の構成――
序
Ⅰ 愛する自分の子供として諭す
Ⅱ わたしに倣う者になりなさい
……Ⅰコリント4:16
Ⅲ キリスト・イエスに結ばれたわたしの生き方
Ⅳ わたしの魂は隠れた所でその傲慢に泣く
……エレミヤ書13:15-17
Ⅴ 神の国は言葉ではなく力にある
……Ⅰコリント4:19-21
結
序
パウロは、この手紙の初めの大きなまとまり(Ⅰコリント1:10-4:21)において、コリント教会内の分争を取り上げました。これは言うまでもなく、緊急事態でありますから、パウロは手紙を書き送ろうとしたのです(この時パウロは小アジア・エフェソに滞在していたと思われます)。即時対応したパウロの牧会力の高さが光ります。
さらに、ローマの信徒への手紙にも、「あなたがたの学んだ教えに反して、不和やつまずきをもたらす人々を警戒しなさい」(16:17)との勧告が見出されます。こうした点からも、新約聖書の半分近くが書簡で占められている訳が推し測られます。たびたび勧告や指示を出さねばならない事情もあって、地中海圏の諸教会において、パウロの書簡を回覧するというのが、慣例となりました。
いわばリモート(遠隔)の形での、伝道牧会となります。巡回伝道者による手紙・配達の時差もあり、双方の間に行き違いも起こったことでしょう。実際、コリントの信徒への手紙には、相互の不信を解こうとする文面が残されています(Ⅰ 5:9、Ⅱ 2:4)。手紙の著者パウロの姿勢は、「墨ではなく生ける神の霊によって書く」ということで一貫していましたが(Ⅱコリント3:3)、それ相当の忍耐と祈りを要したことでありましょう。
そうした中で、パウロが手紙をつづるとき、繰り返し現れてくる神からの知恵がありました。それはまさしく「神の霊に属する事柄」でありました(Ⅰコリント2:14)。それが二つに凝縮されて、本日のテキストに表されています。
①パウロやアポロなどの使徒・指導者がどのような使命を持っており、また、どのような立場にあるかということ。
②そのような「霊の人」・「信仰に成熟した人たち」(Ⅰコリント2:6,15)が信じている福音を説き明かすこと。
コリント教会の一部の人たちは、どうしてそのような基本的なことに反発したり非難したりするのか、と思われるかも知れません。その理由は以下の通りです。すなわち、パウロの言葉を借りて言えば、彼らは「人間を誇り」(Ⅰコリント3:21)、神の力である十字架の言葉を軽んじているからです(同上1:18)。
人の知恵に頼り、「高ぶっている」かぎり(Ⅰコリント4:18)、パウロの言葉に耳を傾けることができません。なぜなら、「神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになった」(同上1:21)ということが分からないからです。「神の秘められた計画が明るみに出そう」(同上4:1,5)とされているにもかかわらず、彼らの高慢さと頑なさが厚い壁を造っています。
それでは、コリント教会の一部の人たちとは正反対の、謙虚なパウロの言葉を読んでみましょう。この箇所は、コリント教会内の分争を取り上げた大段落の最終部分に当たります。そこで、上記の手紙の要点、①と②がどのように言い表されているか、をしっかりつかみ取ってください。
Ⅰ 愛する自分の子供として諭す
コリントの信徒への手紙 一 4:14-15――
14 こんなことを書くのは、あなたがたに恥をかかせるためではなく、愛する自分の子供として諭すためなのです。15 キリストに導く養育係があなたがたに一万人いたとしても、父親が大勢いるわけではない。福音を通し、キリスト・イエスにおいてわたしがあなたがたをもうけたのです。
これは、要点①に該当することですが、まず、使徒の使命と立場について言及されています。「あなたがたがわたしたちの例から学ぶ」(Ⅰコリント4:6)という教え方が押し進められています。
冒頭の「こんなことを書くのは、あなたがたに恥をかかせるためではなく」には、パウロの、魂への配慮がにじみ出ています。あなたがたが自らの高ぶりに気づいて、赤面し暗黒に突き落とされることを、もくろむものではない、ということです。最後通牒のような厳しい言葉が語られる前に、パウロの懐の大きさが示されています。パウロは主にあって、「きっと彼らは立ち直る。悲しんで悔い改める」(参照:Ⅱコリント7:9)と期待しています。
ここに、驚くべきパウロの信仰的理解が提示されています。前段では、「わたしたち」と「あなたがた」とが、「死刑囚」・「見せ物」と「大金持ち」・「王様」というように対比されていました(Ⅰコリント4:8-9)。ところが今度は、「わたし」は「父親」、それに対し、「あなたがた」は「愛する自分の子供」という関係が表明されています。
確かに、パウロはコリント教会を開拓伝道して建てた人でありました。そのパウロを引き継ぎ、教会を建てついだ、アポロのような指導者もいました。しかしここでは、コリント教会の多数の人たちにとって、自分ひとりが「父親」である……父親が大勢いるわけではない……と言い切っています。
付け加えれば、この表現は、パウロの独断・専横などではありません。パウロらしく「書かれているもの」(旧約聖書 Ⅰコリント4:6)の「我らの父(アヴ)アブラハム」(ミカ書7:20)という呼び方に基づいています。ここにも、信仰の「父」(パーテル ローマ4:11-12)として生きたアブラハムの霊的な賜物を受け継ごうとする、パウロの懐の大きさが表れています。
「父親」―「子供」という呼称は、堅い絆を表しており、「子供」の高ぶりを抑制するものであります。言うまでもなく、これは血肉の上の父子関係を指すものではありません。「父親」なるパウロが「愛する自分の子供として諭す」という父子関係は、一体どのようにして生まれたのでしょうか?
パウロは今がチャンスとばかりに、その問いへの答えを掲げています……「福音を通し、キリスト・イエスにおいてわたしがあなたがたをもうけたのです」。パウロは決して権威を振りかざしてはいません。「キリストに仕える者(下役)」(Ⅰコリント4:1)として語っています。
パウロが「父親」として「あなたがたをもうけた(生んだ)」ことの内には、「産みの苦しみ」が含意されています(ガラテヤ4:19)。パウロはそれほどまで親身になって労苦し、一人ひとりを信仰へと導いたのです。単にその子を教えたというのではなく、時に叱り、時に鍛え、「諭した」のです。
さて、「父親」なるパウロの「産みの苦しみ」以上に注目すべきは、「福音を通し、キリスト・イエスにおいて……あなたがたをもうけた」ということです。
「父親」と「子供」との堅い絆を支えているのは、「キリスト・イエス」をこの世に遣わした神の愛です。この神の愛によって、「キリスト・イエス」のもとに罪人や病人など多くの人が呼び集められました。そこで、「キリスト・イエス」は「愛する自分の子供たち」(Ⅰコリント4:14)に「福音」を語られました。
しかし、「彼らが見るには見るが、認めず、聞くには聞くが、理解できず」(マルコ4:12)という人の頑なさが「福音」を受け入れる障壁になりました。
そこで、神の憐れみのもとに、コリント教会に「キリストに導く養育係たち」と共に、「父親」なるパウロが立てられました。ここで、当時設立されたばかりのコリント教会の中で唯一無二とも言えるパウロの霊性と熱情が発揮されることになります。
わたしの子供たち、キリストがあなたがたの内に形づくられるまで、わたしは、もう一度あなたがたを産もうと苦しんでいます。
「キリストがあなたがたの内に形づくられるまで」、霊的な洞察と忍耐をもって、「あなたがた」を見守り育てていくことが、「父親」なるパウロの務めでありました。そのために、パウロは「愛する自分の子供たち」に、礼拝と実生活について助言し続けたのであります。
次に、パウロの助言中の助言が出てきます。「父親」なるパウロが目立っているように感じるかも知れませんが、「キリストが信仰者の内に形づくられる」のが基本中の基本であることを忘れてはなりません。
Ⅱ わたしに倣う者になりなさい
コリントの信徒への手紙 一 4:16――
熟慮のもとに、ある意味では大胆な「わたしに倣う者になりなさい」との勧めがなされました。ここで思い出したいのが、「兄弟たち、あなたがたのためを思い、わたし自身とアポロとに当てはめて、このように述べてきました」(Ⅰコリント4:6)との一文です。
注解の達人、ジャン・カルヴァンは、「パウロが言いたいのは、『わたしたちが、鏡としてもらうために、自分を例にとってあなたがたに示したことによって学びなさい』ということである」と説き明かしています。ということは、「わたし自身とアポロとに当てはめて」で伏線を張っていたということになります。
唐突に「わたしに倣う者になりなさい」に言い出しているのではありません。確かにすでに、「愛する自分の子供たち」が倣うべきもろもろのことが、「父親」なるパウロによって示されています。直前の勧め、「ですから、主が来られるまでは、先走って何も裁いてはいけません」(Ⅰコリント4:5)、また、「侮辱されては祝福し、迫害されては耐え忍び、ののしられては優しい言葉を返しています」(同上4:12-13)などはその一例です。
そこで、皆さんも問い尋ねたいと思われているのは、「キリストが信仰者の内に形づくられる」のが基本中の基本ならば、なぜ「あなたがたのためを思い、パウロに当てはめ」なければならないのか、ということでありましょう。
つまり、なぜ、「キリスト・イエス」と「愛する自分の子供たち」との間に、パウロが立ちはだかるのか、という問題です。「キリスト・イエスに倣いなさい」(参照:ローマ15:5、Ⅰコリント11:1)という方が単刀直入だと思われますが……。
ここで再び、「わたしの子供たち、キリストがあなたがたの内に形づくられるまで、わたしは、もう一度あなたがたを産もうと苦しんでいます」(ガラテヤ4:19)との一文を思い起こしましょう。パウロの嘆息が聞こえてきそうです。同時に、この「父親」としての務めにおいて、パウロの霊性と熱情が存分に発揮されることになります。
少なくとも当時のコリント教会においては、パウロ以外に、このような魂への配慮ができる人物はいなかったのでありましょう。コリント教会の礼拝においても実生活においても、「パウロに倣う」ことが最善だったのです。
Ⅲ キリスト・イエスに結ばれたわたしの生き方
コリントの信徒への手紙 一 4:17-18――
17 テモテをそちらに遣わしたのは、このことのためです。彼は、わたしの愛する子で、主において忠実な者であり、至るところのすべての教会でわたしが教えているとおりに、キリスト・イエスに結ばれたわたしの生き方を、あなたがたに思い起こさせることでしょう。18 わたしがもう一度あなたがたのところへ行くようなことはないと見て、高ぶっている者がいるそうです。
「テモテをそちらに遣わしたのは、このことのためです」……手紙の発送準備をしながらも、先にコリントへ信頼する弟子(使徒16:1)の「テモテを遣わした」ということです。コリント教会内の分争を憂慮するパウロの牧会力の高さがうかがわれます。
テモテは、祖母ロイスと母エウニケの信仰を受け継いでいる(Ⅱテモテ1:5)、「確かな人物」(原意:試験ずみの フィリピ2:22)でありました。そして、「息子が父に仕えるように、彼(テモテ)はわたし(パウロ)と共に福音に仕えました」(フィリピ2:22)という愛の交わりを持っていました。まさに、パウロは「父親」、そして、テモテは「愛する自分の子供」でありました。
なぜ、「テモテをそちらに遣わした」のか、というと、「このことのため」でありました。そこで、前後の文脈を踏まえて「このこと」を要約(①と②)しましょう。
①「息子が父に仕えるように」、コリント教会の人たちとパウロとの関係を修復する。
その際、テモテを通じ「わたしたちの例」として(Ⅰコリント4:6)、信仰上の父子関係が示される。
②テモテによって、「キリスト・イエスに結ばれたわたしの生き方」を学ぶ。
神の恵みが礼拝から実生活へと循環しているかどうか、自分自身の「生き方」を確かめる。
その際、神の“霊”を受けて、「キリストがあなたがたの内に形づくられている」どうか、判別する。
このような目的のために、テモテはコリントへ派遣されます。牧会力の高いパウロはそれと共に、コリント教会宛の発送に向けて、手紙をしたためます。
この段落を締めくくる直前に置かれた文を読んでみましょう。
「わたしがもう一度あなたがたのところへ行くようなことはないと見て、高ぶっている者がいるそうです」……「高ぶっている者たち」は、パウロの巡回伝道を「支配する者」のように振る舞っています。わたしたち・コリント教会は大丈夫だから、「パウロさん、よそへ行きなさい」とでも言うのでしょうか。
実は、この「高ぶっている者」(原意:ふくれあがる)に関しても、前の章に伏線が張られています。微妙に用語を変えているのも、神の知恵に拠るパウロの賢さなのでしょう。(推理小説を読み解くごとく捜してください)思い当たりましたか?
それは、「ですから、だれも人間を誇ってはなりません」(Ⅰコリント3:21 他に同上1:29,31)と言って、パウロが釘を刺した一文です。パウロは忍耐強く、「愛する自分の子供たち」を高ぶりからへりくだりへと導こうとしています。
「高ぶってはならない」、または、「誇ってはならない」、理由は以下の通りです。
「(この世的な)知恵のある者」は、本来重んじるべき「神の知恵」に対し「この世の知恵」をもって取り替えています。それは、全くの本末転倒です。その思い違いがひっくり返せない要因は何かと言えば、「人間を誇る」ことにほかなりません。悪賢い指導者は、人々に「誇り」を植え付けて、思うがままに誘導します。そうして、人々は目に見える、分かりやすい「この世の知恵」の罠にはまってしまいます(参照:Ⅰコリント3:18-21)。
預言者エレミヤは、パウロと同様に、「聞け、耳を傾けよ、高ぶってはならない」と命じています。その命令が、どのような情況で発せられたのか、見てみましょう。
Ⅳ わたしの魂は隠れた所でその傲慢に泣く
エレミヤ書13:15-17――
主が語られる。
16 あなたたちの神、主に栄光を帰せよ
闇が襲わぬうちに
つまずかぬうちに。
暗黒に変えられる。
わたしの魂は隠れた所でその傲慢に泣く。
涙が溢れ、わたしの目は涙を流す。
日常生活の中での事ですが、わたしたちは、これぐらいの闇の濃さならば、なんとか目的地まで到達できると思って歩み出して、失敗することがあります。案外、家の中の暗がりで、つまずくこともあります。足元がよく見えず確認不足だと、転んでしまいます。
エレミヤは単に、ユダの民の人間関係の不具合を見て、「高ぶってはならない」と言っているのではありません。もちろん、自分が高慢になって、神信仰を軽視し、そこから、隣人をさげすむようになるのは、許されることではなりません。
ただここでは、エレミヤはもっと大きな視点から、ユダの民の破局を見通しています。国の内外の情勢が「夕闇」に襲われようとしているときに、「聞け、耳を傾けよ、高ぶってはならない。主が語られる」と告げています。すなわち、「死の陰とし暗黒に変えられる」前に、破局に至る前に、神の御前に、備えをなせ、ということです。
言い換えれば、「洞穴」に迷い込んだような苦境にあってこそ(詩編142:1)、神の言葉を待て、ささやきかける御言葉に耳を傾けよ(列王記上19:12)、ということなのです。
エレミヤのすぐれている点は、最後まで「高ぶっている者たち」の悲惨さに寄り添おうとしていることです……「あなたたちが聞かなければ わたしの魂は隠れた所でその傲慢に泣く。涙が溢れ、わたしの目は涙を流す」。
エレミヤはユダの民に、美しい詩の言葉をもって、悲しみ方、「涙の流し」方を教えました。それは、艱難を忍耐し、そこから抜け出るために必須なことでありました。
エレミヤは、「主の群れが捕らえられて行く」というバビロン捕囚(前597年 第一次捕囚 / 前587年 第二次捕囚)の歴史的惨禍を預言しつつ、一人ひとりに襲って来る悲しみを描き出しています。このように、エレミヤには破局の先を読む力がありました。そこで、何が起こるのか、を思い浮かべることができました。
「あなたたちが聞かなければ わたしの魂は隠れた所でその傲慢に泣く」……だからこそ、「高ぶってはならない」と、エレミヤは声を大にして叫んでいるのです。「むしろ、誇る者は、この事を誇るがよい 目覚めてわたしを知ることを。わたしこそ主」(エレミヤ書9:23)……主を知ることに心を傾けなさい、そして、主を誇りなさい……およそ600年の時を超えて、このメッセージはパウロによってコリント教会に架け渡されました。
Ⅴ 神の国は言葉ではなく力にある
19 しかし、主の御心であれば、すぐにでもあなたがたのところに行こう。そして、高ぶっている人たちの、言葉ではなく力を見せてもらおう。20 神の国は言葉ではなく力にあるのですから。21 あなたがたが望むのはどちらですか。わたしがあなたがたのところへ鞭を持って行くことですか、それとも、愛と柔和な心で行くことですか。
掉尾を飾る、力強い名文です。福音のエッセンスが表されています。「わたしがあなたがたのところへ……行くことですか」という切迫した事情からして、ここで一旦文章を結んで、手紙を発送しようとしていたのかも知れません。
さすがにコリント教会内の分争を取り上げた段落(Ⅰコリント1:10-4:21)の総括なので、ここに張り巡らされた糸が集結しています。前の文章に伏線が張られていることに留意しつつ、読み取らねばなりません。それにつけても、推理小説家はだしの練達・聡明さと、実直・素朴さとを併せ持つパウロの人格は、何と魅力的なことでしょう。「恵みの上に、更に恵みを受けて」(ヨハネ1:16)、霊の賜物が全開すると、このようになるという手本であるに違いありません。
まずパウロは、「主の御心であれば、すぐにでもあなたがたのところに行こう。そして、高ぶっている人たちの、言葉ではなく力を見せてもらおう」と切り出しました。あなたがたも「主の御心」を祈り求めて、わたしの訪問を受け入れるか否か、選びなさいということです。コリント教会の人びとに問われているのは、自分たちの都合ではなく、「キリスト・イエスに結ばれたわたしたちの生き方」に基づいて、今後どのようにパウロやテトスとの交わりを深めていくか、ということです。
「わたしがあなたがたのところへ鞭を持って行く」というのは、新約のパウロ書簡中、最強度の憤りを示しているように思われますが、霊の人は伏線が敷かれていたのを思い起こさねばなりません……「(父親としてわたしが)こんなことを書くのは、愛する自分の子供として諭すためなのです」。
当時のユダヤ社会において、「鞭を持って」、子どもを叱ったり鍛えたりするのは、家庭内教育の一環でありました(箴言13:24、サムエル記下7:14)。子どもが過ちを犯したときには、懲らしめ、そして、「愛と柔和な心で」子どもの成長を見守るというのが、伝統でありました。その際、存分に活用されるのが、打ち砕かれた霊を持つ人(詩編51:19)に授けられる「神の知恵」なのです。
それでは、「言葉ではなく力を見せてもらおう」という露払いを受けた後に、真打ち登場した「神の国は言葉ではなく力にあるのですから」との言葉に入りましょう。
パウロが「わたしに倣う者になりなさい」(Ⅰコリント4:16)と言明している以上、彼自身、「神の国は言葉ではなく力にある」ことを信じ、その「力」を知り体現しているということになります。また、「神の国は力にあるのですから」、人間の分派によるねたみや争いは即刻停止せよ、という観点から、的確な結びになっています。
すぐに浮かんで来る疑問は、パウロは「神の言葉」の宣教者ではないのですか、ということでありましょう。それを説き明かすために、文章をさかのぼり、関連する聖句を探し出しましょう。
コリントの信徒への手紙 一 1:18――
十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。
そうだったのかと、膝を打つ人は幸いです。パウロは、「滅んでいく者にとって」神の言葉が「愚かなもの」になっていると認識した上で、「十字架の言葉」こそ、「救われる者には神の力」だと告知しています。つまり、本来、「神の言葉」と「神の力」とは分離し得ないものなのです。
付け加えれば、コリント教会の一部の人々は、「復活の言葉」のみを熱狂的に信じて、主イエス・キリストの謙卑をないがしろにしていたということです。そのような彼らの歪んだ信仰が、「誇り」や「高ぶり」の温床になっていたのです。
ではなぜ、パウロはここで、「神の国は言葉ではなく力にある」と言ったのか、にお答えしましょう。
この答えの要は、神の力による支配とそれを写し出す信仰者の生活にあります。言い換えれば、「あなたは、神の力を現実に明らかにし、それを証しするような生活ができていますか」ということです。
そのためにこそ、自分が主イエス・キリストの十字架と復活によって救われていることです。日々にその神の大いなる救いを讃美し感謝していることです。そうすれば、「現状をそのままにするのではなく、ひっくり返す創造的エネルギーが生み出されます」(R.B. ヘイズ)。
パウロの論敵は、人間の知恵に頼り、人間を誇っていました(Ⅰコリント2:5、3:21)。「所有と勝利」の欲求に駆られて(同上4:8)、先走って世の人を裁いていました(同上4:5)。その論敵は、神の立てられた「宣教という愚かな手段」(同上1:21)を片隅に追いやりました。
それに対し、苦悩のうちにコリント教会を伝道牧会したパウロは、その実生活の中で「神の力」を証しし続けました。それはまさに、世の常識をくつがえすものでありました。
コリントの信徒への手紙 二 12:9――
すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。
結
小アジアのエフェソからギリシアのコリントへ手紙、いわばリモート(遠隔)の形での、伝道牧会でありました。しかし、パウロは身を挺するようにして、あたかもコリント人々が目の前にいるかのごとく、語りかけました。
そしてそれは、パウロが自らの使命と立場を証しする良い機会となりました。信仰に成熟した人、霊の人、建築家、キリストに仕える者、父親など、パウロの霊的な説明は、聖霊の息吹に乗って繰り広げられました。
「キリスト・イエスに結ばれたわたしの生き方」(Ⅰコリント4:17)は、「侮辱されては祝福し、迫害されては耐え忍び、ののしられては優しい言葉を返している」(同上4:12-13)ことに映し出されています。まさに、「神の力」がパウロの実生活を支配しています。
神の聖なる神殿、茅ヶ崎香川教会において、肉の人、キリストにある幼子、そして愛する自分の子供たちの信仰が、十字架の言葉と神の力によって新たにされ、悔い改めへと導かれるよう祈りましょう。
W
〈説教の要約〉
2024年 6月16日 日本キリスト教団 茅ヶ崎香川教会
聖霊降臨節 第5主日
旧約聖書 箴言 30章6節(P.1030)
新約聖書 コリントの信徒への手紙 一 4章6節~13節(P.303)
説教の構成――
序
Ⅰ あなたがたがわたしたちの例から学ぶために
Ⅱ あなたがたはわたしたちを抜きにして、勝手に王様になっている ……Ⅰコリント4:8-9
Ⅲ わたしたちは弱いが、あなたがたは強い
……Ⅰコリント4:10-12前半
Ⅳ わたしたちは侮辱されても祝福している
……Ⅰコリント4:12後半-13
序
この段落は、「議論は決定的瞬間に達した」(R.B. ヘイズ)との注解に象徴されているように、歯に衣着せないパウロの批判が書き連ねられています。激しくコリント教会の一部の人々を告発しています。実際、自分に向けられている言葉だとすれば、心穏やかに聞けるものではありません。「正論を述べている」パウロに、憤りをもって言い返したくなります。
しかしもちろん、パウロは冷静です。聖霊の導きによって、熱情を込めてコリントの人々に語りかけています。確かに、ここではあからさまな物言いをしていますが、パウロは遠回しに伝える弁論術を会得している人です(Ⅰコリント1:26、2:6)。大切なのは、相手を論破することではなく、相手を励まし立ち直らせることだと、彼はわきまえています。
パウロは、大きなまとまりであるⅠコリント1:10-4:21(コリント教会内の分争)において、先を読みながら論理展開しています。相手の反応を予測しながら、言葉を選んでいます。パウロはその分争をいたずらに掻き立てるようなことはしていません。
1章-4章にわたる手紙の議論に、そろそろ区切りをつけねばならない所に着ています。「お互いの間にねたみや争い」(Ⅰコリント3:3)を煽り立てているコリントの一部の人が悔い改めて、指導者の言葉に耳を傾けてほしいものです。ここで、パウロは自分自身の語りの技法について打ち明けています。そこには、手紙の内容が受け入れられやすいものとなるように、とのパウロの切なる願いがあります。
コリント教会の一部の人々は、“霊”に導かれておらず、信仰において成熟していません。その上、教会内に分派を作り、主イエスと教会の指導者に不忠実であります。そうした人々に対し、何を為し何を言えばよいのか、誰しも糸口が見出し難いことでしょう。
そこで、パウロが取った方法は、以下の通りです。すなわち、忍耐強く、神から自分に授けられた務めや立場を説明するということです。それによって、キリスト者のあるべき姿や、神と隣人との関係について教えようとしています。パウロは、「わたしたち」と「あなたがた」とを対照させ、時に名指しせんばかりに「あなた」と呼びかけて、「あなたがた」に回心を迫っています。
Ⅰ あなたがたがわたしたちの例から学ぶために
コリントの信徒への手紙 一 4:6-7――
6 兄弟たち、あなたがたのためを思い、わたし自身とアポロとに当てはめて、このように述べてきました。それは、あなたがたがわたしたちの例から、「書かれているもの以上に出ない」ことを学ぶためであり、だれも、一人を持ち上げてほかの一人をないがしろにし、高ぶることがないようにするためです。7 ①あなたをほかの者たちよりも、優れた者としたのは、だれです。②いったいあなたの持っているもので、いただかなかったものがあるでしょうか。③もしいただいたのなら、なぜいただかなかったような顔をして高ぶるのですか。
「(わたしはあなたがたのために)わたし自身とアポロとに当てはめて、このように述べてきました。」……パウロは自分自身の語りの技法について打ち明けています。「当てはめて」の意味が汲み取りにくいのですが、後続の文を読むと明瞭になります。
すなわち、「わたしたちの例から……学ぶため」と書いてあります。要するに、「あなたがた」が学ぶべきことを、「わたしたち」、パウロとアポロ……分派は許されません!……の信仰や使命をもって示したということです。まさに「学びは真似び」であります(Ⅰコリント4:15)。
パウロとアポロの関係は、コリント教会の土台を据えた者とそれを建てついだ者ということになります(Ⅰコリント3:10)。パウロの出した「例」が、「わたしたちの例」であることが肝でありましょう。なぜなら、「だれも、一人を持ち上げてほかの一人をないがしろにし、高ぶることがないようにするため」だからです。
コリント教会にとって、パウロとアポロの関係・連係が宝であります。同様に、茅ヶ崎香川教会にとって、兄弟と姉妹の交わり、子どもと大人のつながりが宝なのです。そこには、「高ぶらず」、へりくだっているという恵みがあります。教会の中で子どもたちが真ん中に置かれている(マルコ9:36)のは、その謙虚さの証しにほかなりません。
ここで、パウロはその謙虚さを測る基準として、「書かれているもの以上に出ない」ことを挙げています。この語句の中では、「超えない」(=以上に出ない)というところに力点があります。そのためには、信仰上で、聖霊によって「書かれているもの」を判断し理解することが大切です。
そうすれば、後で教え諭されるように、自分は「金持ちだ」、「王様だ」(Ⅰコリント4:8)と言うことにはなりません。主の御前にあって、自分を「超えない」のが、「キリストに仕える者(下役)」(同上4:1)ではないでしょうか。
そう、まだ「書かれているもの」が何か、説明していませんでした。一般的には、「旧約聖書」を指しますが、今日教会が持っている、旧新約聖書はじめ、キリスト教のすべての聖なる文書と言ってよいと思います。霊的に自分を「超えない」よう心がけるためにも、しっかりと「書かれているもの」を読むことです。実際、パウロが述べようとしていることが、旧約聖書に記されています。
御言葉に付け加えようとするな。
責められて
偽る者と断罪されることのないように。
このように、自分の分限を「超えない」ように、とのパウロの霊的な説明は文字どおり、「書かれているもの」に基づいています。「御言葉に付け加えてはならない」のは、神が清い言葉を語られ、それが、わたしたちの身を寄せるべき盾となるからです(箴言30:5)。
「議論は決定的瞬間に達した」という切迫した状況にあっても、パウロは人の罪咎を「裁く」のを自制しています(Ⅰコリント4:3-5)。先走って断定しません。パウロは忍耐強く問いかけ、相手の応答を待っています。
①あなたをほかの者たちよりも、優れた者としたのは、だれです。
②いったいあなたの持っているもので、(あなたが)いただかなかったものがあるでしょうか。
なぜいただかなかったような顔をして(あなたは)高ぶるのですか。
前節の「あなたがた」から「あなた」へと、呼びかけ方が変わっています。「あなた」は「蛇ににらまれた蛙」のように逃げ場がありません。しかしここで、「あなた」が激高して怒りを爆発させては、元も子もありません。パウロの皮肉っぽい言い方をなじったりせずに、内容を捉えましょう。
なかなか出来ないことかも知れませんが、まずは相手(パウロ)の問いかけに耳を傾けることです。パウロはどんな時にも「神の愛」を拠り所として語っています(Ⅰコリント2:9、4:14)。
冷静に把握するならば、①・②・③は次のように要約されます。
・「あなたの持っているもの」はすべて神から「いただいた」ものである。
・それ故に、「あなたは高ぶって」はならない。
これが、「あなた」の立ち直りに向けての、「霊の人」パウロの判断であり、助言です(Ⅰコリント2:15)。
Ⅱ あなたがたはわたしたちを抜きにして、勝手に王様になっている
コリントの信徒への手紙 一 4:8-9――
8 あなたがたは既に満足し、既に大金持ちになっており、わたしたちを抜きにして、勝手に王様になっています。いや実際、王様になっていてくれたらと思います。そうしたら、わたしたちも、あなたがたと一緒に王様になれたはずですから。9 考えてみると、神はわたしたち使徒を、まるで死刑囚のように最後に引き出される者となさいました。わたしたちは世界中に、天使にも人にも、見せ物となったからです。
いよいよ、「(わたしはあなたがたのために)わたし自身とアポロとに当てはめて……」という語りの技法が真価を発揮してきます。「あなたがた」は、最善の手本である「わたしたち」・「パウロとアポロ」から目が離せなくなります。どぎついほどの皮肉をもって、「あなたがた」と「わたしたち」とが対比させられます。そこで、双方の実像がえぐり出されます。
・「わたしたち」……神は(パウロやアポロを)「死刑囚」、「見せ物」になさった。
「死刑囚」、「見せ物」というのは、パウロの実体験ですので(使徒16:19-23、25:11、28:18)、迫力満点です。
「わたしたち」の惨めな姿が、「あなたがた」の前に提示されています。それは、「へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」(フィリピ2:8)という主イエス・キリストの御姿をありありと思い起こさせるものでありました。これではさすがに、「あなたがた」もパウロに反論できないことでしょう。
なぜ、「あなたがた」が「大金持ち」や「王様」になろうとしたのでしょうか?
それは、この世の欲望を、「所有と勝利」の二語で表してみれば、すぐに了解できるでしょう。パウロの霊的洞察は鋭く、「あなたがた」が「大金持ち」や「王様」になりたがったのは、「所有と勝利」の欲求に駆られたのだ、と見抜いています。
「わたしたちを抜きにして、勝手に」との違反への警告は、「書かれているもの以上に出ない」(Ⅰコリント4:6)ということに相通じています。すなわち、パウロはじめ指導者は、旧約聖書に基づいて福音を語っている以上、その人々を「抜き」にしたり「超え」たりすることはできません。
魂の飢え渇きは、わたしたちの命の源である福音によってはじめて、癒やされます。「あなたがた」の腹が「満腹している(既に満足した)」ところに、神の恵みが入る余地はありません(竹森満佐一)。
パウロは、先ほど、欲望にまみれた人々を警告する中で、「そうしたら、わたしたちも、あなたがたと一緒に王様になれたはずですから」と述べていました。この一文には、主イエス・キリストを信じれば、「わたしたちも、あなたがたと一緒に王になるであろう」との意味が含まれています。
これは、ローマの教会に向けてのことですが、パウロは真に「王」になる道を教えています。
一人の罪によって、その一人を通して死が支配するようになったとすれば、なおさら、神の恵みと義の賜物とを豊かに受けている人は、一人のイエス・キリストを通して生き、支配するようになるのです。
順序立てて、説明しましょう。
まずは、「一人の罪によって、その一人を通して……一人のイエス・キリストを通して……」と焦点が結ばれている「イエス・キリスト」に注目しましょう。そこで、「イエス・キリスト」を受け入れ、そのお方を信じるのです。
そうして、わたしたち・信仰者は「イエス・キリスト」に、「王」として、自分たちの「罪」も「死」も支配していただくのです。「イエス・キリスト」は「罪」と「死」からわたしたちを助け出してくださいます。わたしたちはひたすら「僕」として「イエス・キリスト」に仕えます(ローマ1:1)。そこで、この世の敵対勢力によって、「死刑囚」や「見せ物」と見なされることを恐れてはなりません。
そのように、「イエス・キリスト」を信じている人は、「神の恵みと義の賜物とを豊かに受ける」ことになります。これを踏まえて、パウロはコリント教会に向かって、「いったいあなたの持っているもので、いただかなかったものがあるでしょうか」(Ⅰコリント4:7)との問いを発したのです。
その結果、信仰者は「一人のイエス・キリストを通して生き、支配するようになる」との大きな恵みにあずかります。この箇所で「支配する」というのは、「王として治める」との意味です。
この世で、神の栄光を現して生きる者は、御国に「王」として凱旋することが約束されています。それにもかかわらず、「イエス・キリスト」から離れて、「勝手に王様になっている」のは、罪深いことです。
Ⅲ わたしたちは弱いが、あなたがたは強い
コリントの信徒への手紙 一 4:10-12前半――
10 ①わたしたちはキリストのために愚か者となっているが、あなたがたはキリストを信じて賢い者となっています。②わたしたちは弱いが、あなたがたは強い。③あなたがたは尊敬されているが、わたしたちは侮辱されています。11 今の今までわたしたちは、飢え、渇き、着る物がなく、虐待され、身を寄せる所もなく、12 苦労して自分の手で稼いでいます。
小気味よく、「わたしたち」と「あなたがた」との対比が連発されています。まるで、「わたしたちの嘆きの歌」のようです。旧約聖書の「嘆きの歌」(例えば詩編80編)がそうであるように、パウロはコリントの人々に面と向かい合っていながらも、その嘆きは神に訴えかけられ、祈りとしてささげられています。
その「わたしたち」の嘆きと労苦を聞かされて、「あなたがた」が目覚めさせられるかどうかがポイントです。神のとりなしを乞い願う(Ⅰコリント4:4-5、16:22)ほどの、パウロの真剣さと信仰が「あなたがた」に伝わるでしょうか。
③あなたがたは尊敬されているが、わたしたちは侮辱されている。
パウロは忍耐強く語り続けています。基本的に、片や「わたしたち」は「死刑囚」、片や「あなたがた」は「王様」という路線が踏襲されています。そのように、「わたしたち」が「ないがしろに」されているのは、「あなたがた」が「高ぶっている」からです(Ⅰコリント4:6)。
パウロはある意味では、コリント教会の一部の人々にあきれ果てています。その「高ぶり」や頑なさに圧倒されています。しかし、パウロは「神の秘められた計画をゆだねられた忠実な管理者」(Ⅰコリント4:1-2)としての立場があります。従って、そこではすべてのことが、「イエス・キリスト」の関係において捉えられています。それで、同種の福音的メッセージが繰り返されることがあります。その典型が――
①わたしたちはキリストのために愚か。 Ⅰコリント4:10
②わたしたちは弱い(ときにこそ強い)。 Ⅱコリント12:10
福音的メッセージ①と②について、略述しましょう。
神の前に「愚かな者になりなさい」(Ⅰコリント3:18)とは、言い換えれば、聖霊によって、わたしたちが「神の知恵」を授かるということです。キリスト論的には、「イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決める」(同上2:2)ということです。そうすれば、信仰者は「宣教という愚かな手段」(同上1:21)の恩恵を受けることができます。それでも、あなたがたは「賢い者となる」ことにこだわるのか、ということです。
②わたしたちは弱いときにこそ強い――
先に引用したローマの信徒への手紙5:17に、「神の恵みと義の賜物とを豊かに受けている人」との言葉がありました。それと、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」(Ⅱコリント12:9)とのメッセージは響き合っています。ヘブライ人としてのパウロには誇ってよいところがあるのですが(同上11:22)、パウロはキリストのゆえに苦しんでいます。「侮辱され」、嘲られています。しかし、弱く貧しくされたパウロは、「キリストのために満足しています」(同上12:10)。「弱い人に対しては、弱い人のようになりました。…… すべての人に対してすべてのものになりました」(Ⅰコリント9:22)とのパウロの生き方は、まことにしなやかであり、主にあって「強い」と言えるでしょう。
③の対比のあとに、「今の今までわたしたちは、飢え、渇き、着る物がなく、虐待され、身を寄せる所もなく、苦労して自分の手で稼いでいます」と、自らの人生を回想しています。最後の一節には、今もコリントで語り継がれているであろう、コリントでのパウロの暮らしぶりが写し出されています。
それは、第二回目の伝道旅行の時のことでありました。コリントでパウロは「アキラというユダヤ人とその妻プリスキラ」に出会いました。それで、「職業が同じであったので、彼らの家に住み込んで、一緒に仕事をした。その職業はテント造りであった」ということでした(使徒18:2-3)。これは、神が備えてくださった出会いだったに違いありません。
Ⅳ わたしたちは侮辱されても祝福している
コリントの信徒への手紙 一 4:12後半-13――
12 ①侮辱されては(わたしたちは)祝福し、②迫害されては(わたしたちは)耐え忍び、
13 ③ののしられては(わたしたちは)優しい言葉を返しています。今に至るまで、わたしたちは世の屑、すべてのものの滓とされています。
「あなたがたのためを思い、わたし自身とアポロとに当てはめて」(Ⅰコリント4:6)ということが、段落の最後まで貫かれています。それは要するに、文面に表れているように、「キリストに従う者の受ける苦難」を指し示すということであります。
主イエス・キリストの御姿に「当てはめて」、自分たちの「侮辱されて、迫害されて、ののしられて」という状況を理解しようとしています。さらに言えば、それは、「彼は軽蔑され、人々に見捨てられ 多くの痛みを負い」(イザヤ書53:3)という苦難の僕にさかのぼるものでありました。
「わたしたち」の忍従の源泉は、「書かれているもの以上に出ない」(Ⅰコリント4:7)、「超えない」というまことの謙卑、へりくだりにありました。そのことを忘れないように、「わたしたち」を呼び集めた主イエス・キリストがいつも「わたしたち」の傍らにおられるのです。
①・②・③の中から、①「侮辱されては(わたしたちは)祝福しています」を取り上げましょう。ここには、「キリストに仕える者(下役)」(Ⅰコリント4:1)の生き方が如実に現れています。
まず押さえておかなければならないのは、これは単なる忍従ではなく、愛敵の行為であるということです。すなわち、パウロは「愛する者たち」(Ⅰコリント2:9)を、その罪と死から救い出すために、耐え忍んでいるのです。謂れない艱難に立ち向かえたのは、「侮辱され、迫害され、ののしられた」という主イエス・キリストの御姿が目の前にあったからです(ガラテヤ3:1)。その時、パウロやアポロは、「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです」(同上2:20)という霊的に祝福された状態にありました。
主イエスは、「愛する者たち」を救うために、「悪に悪を返さず、すべての人の前で善を行う」という御業を成し遂げられました。そうして、憎しみ・ねたみ・争いに囲まれながら、全く「罪を犯されなかった」お方(ヘブライ4:15)が、十字架と復活の御業をもって「善としての愛」(U.ヴィルケンス)を現されました。
興味深いのは、ローマ教会宛の手紙の中でのことですが、「愛する者たち」に「自分で復讐するな」と述べた、その言下に、「(しかし・かえって)あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ」(ローマ12:20)と勧めていることです。
②迫害されては⇒スイッチ切り替え⇒(わたしたちは)耐え忍び、
③ののしられては⇒スイッチ切り替え⇒(わたしたちは)優しい言葉を返しています。
切り替え、早っ!!! ふつう、引きずるでしょ?! パウロが忘れっぽいのではありません。神に、「侮辱」・「迫害」・「ののしり」の一切をゆだねているからです。だから、「仕える者」として、敵に飲食を給仕するのです。
「神の怒りに任せなさい」(ローマ12:19)……わたしたちのもろもろの悪感情には置き場所があります。「神の怒りにところを与えなさい」(同上・直訳)……そのところに、自分が引きずりそうになっているものを捨てましょう。
聖霊の導きとはいえ、この段落で、パウロは激しくコリント教会の一部の人々を告発しました。歯に衣着せない批判を書き連ねました。パウロも人の子ですから、いい気分ではないかも知れません。しかし、今後どうなるかは、神の御手にゆだね、スイッチを切り替えて、手紙の筆を先に進めていきました。
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〈説教の要約〉
2024年 6月9日 日本キリスト教団 茅ヶ崎香川教会
聖霊降臨節 第4主日
旧約聖書 レビ記 24章1節~4節(P.201)
新約聖書 マルコによる福音書 4章21節~25節(P.67)
説 教「ともし火を持って来て燭台の上に置く」 小河信一牧師
説教の構成――
序
Ⅰ ともし火を持って来て燭台の上に置く
……マルコ4:21
Ⅱ 主の御前に、夕暮れから朝まで絶やすことなく火をともす ……レビ記24:1-5
Ⅲ 隠れているもので、あらわにならないものはない ……マルコ4:22
Ⅳ 何を聞いているかに注意しなさい ……マルコ4:23-24前半
結
序
主イエスは今、「たとえ話の集会」を催されています。「種を蒔く人」から「ともし火」へ、そして「秤」へと、たとえが展開されていきます。十二人の弟子と周りに一緒にいた人たちが耳を傾けています。
さて、その「ともし火」のたとえに「升」が出てきます。それが、「秤」のたとえにつながっています。そこで、わたしたち、殊に日本人には、或る種のイメージが喚起されます。
「升」は木の容器であり、また、ものの体積を量るとき、「升」という尺貫法の単位が使われます。それに対して、「秤」は、ものの重さを量る道具です。よって、主イエスはここで、計量する器具を引き合いに出して、たとえを語り伝えておられるのだ、と分かります。
計量用のスプーンやカップにせよ、デジタル体重計にせよ、わたしたちは最新式の「升」や「秤」に取り囲まれています。言うまでもなく、古くからある、その「升」や「秤」というのは、日々の暮らしの中で欠かせないものでありました。
そこで考えてみたいのは、主イエスがなぜ、そのような生活道具の「升」と「秤」を、たとえの中に持ち込んだのか、ということです。そこには、「升」を含む「ともし火」と「秤」のたとえを並べた主イエスの「計算」、もくろみがありました。「聞く耳のある者」(マルコ4:9,23)は、その主イエスの、まさに隠された意図を汲み取らねばなりません。
ひと言でいえば、「升」や「秤」などの道具を使い回す日常の中で、あなたがたは生活に追われ、疲れ果てていないか、そして、あなたがたはスケールの大きな神の恵み(マルコ4:20,24-25)に依り頼んでいるか、ということです。「神の国」(マルコ4:11,26)の福音を聞いて実践する中で、「ともし火」、「升」、そして「秤」に象徴される日常の暮らしもまた、新しくされるのです。主イエスはガリラヤ湖畔の人々の生活基盤に立ってうえで、「時は満ち、神の国は近づいた」(マルコ1:15)と宣べ伝えられたのです。
それでは、平易な題材によるたとえを通じて、隠されていた「神の国の秘密」(マルコ4:11)があらわにされるということを読み取りましょう。
マルコ福音書4:21――
また、イエスは言われた。「ともし火を持って来るのは、升の下や寝台の下に置くためだろうか。燭台の上に置くためではないか。」
主イエスは弟子たちはじめ周りの人たちに尋ねました……「ともし火を持って来るのは、升の下や寝台の下に置くためだろうか」。それは、極めて単純な問いでありました。「升の下に」と「寝台の下に」と、2回リズムよく刻まれています。その「下に」は、何事も秘密裡に、という閉鎖主義を内示しているのかも知れません。
実際、イエスの身内の人たちやエルサレムから下って来た律法学者たち(マルコ3:21-22)は徒党を組んで、公の場からイエスを退けようとしました。それも、「あの男は気が変になっている」(マルコ3:21)との陰のうわさを言い広めて……。
そのため、主イエスは真っ向から彼らと対決されました。それが、たとえの中の「ともし火が来る、燭台の上に置くために」〔直訳〕との言葉になります。ここでは、「ともし火」とは何を指すのか、また、「燭台の上に」誰が置くのか、少し曖昧になっています。あくまでも、たとえで指し示そうとの趣旨なので、すべてが明瞭である必要はないのですが……。
ただし、どこに、たとえの強調点があるか、は覆い隠されていません。すなわち、「ともし火を持って来て燭台の上に置く」ということです。「上に」が肝心なのは、前置された2回の「下に」との対比から分かります。
丁寧に言うと、直訳から分かるように、「ともし火が来ている(到来している)」〔現在形〕ので、その「ともし火」を「燭台の上に置く」ように、となります。別言すれば、「ともし火は、燭台の上に置かれんがために、来ている」となります。
もう察知された方も多いことでしょう。つまり、「ともし火」とは、主イエス・キリストを指しています。そして、「燭台の上に置く」のは、主イエス、ならびに、“霊”に満たされた信仰者が行うことと理解されます。主イエスは、世の「ともし火」なる到来者であると同時に、世を照らす「ともし火」の設置者であります。そのようにして伝道される主イエスと共に、わたしたちは「升の下や寝台の下に置く」人々の妨害を取り除くよう努めます。
主イエスは、「まことの光で、世に来てすべての人を照らし」ます(ヨハネ1:9)。その主につき従う者は、「世の光」として遣わされます。なぜなら、「山の上にある町は、隠れることができない」(マタイ5:14)ように、「まことの光」なる「ともし火」を「上に」置かなければならないからです。
ではなぜ、初めに「まことの光」・「ともし火」が隠されている必要があるのか、と問い尋ねる方がきっとおられることでしょう。それは間違いなく、問うに価するものです。なぜなら、それによって、「神の国の秘密」(マルコ4:11)が解き明かされることになるからです。
それは、救い主は「来る(到来する)」という形で、民の救済、民への伝道が本格的に始められるからです。いわば「キリストの時」によって、それまで隠されていたものがあらわにされたのです。「キリストがやって来られた」が故に、「時は満ち(=満ちた)、神の国は近づいた」(マルコ1:15)との告知がなされたのであります。
言い換えれば、キリストが受肉される以前には、「ともし火を升の下や寝台の下に置く」人たちの抵抗が激しかったということです。神によって遣わされた預言者たちが背く人々によって殺される(マタイ23:37)という受難の時代が長く続きました。裏を返せば、それほどまでに神は忍耐強く、人々が悔い改めるのを待たれたのであります(ローマ2:4、Ⅱペトロ3:9)。
さて、「ともし火を持って来て燭台の上に置く」に関する説明に耳を傾ける前に、ユダヤの宗教的生活における「ともし火」について考察してみましょう。
Ⅱ 主の御前に、夕暮れから朝まで絶やすことなく火をともす
レビ記24:1-5――
2 イスラエルの人々に命じて、オリーブを砕いて取った純粋の油をともし火に用いるために持って来させ、常夜灯にともさせ、3 臨在の幕屋にある掟の箱を隔てる垂れ幕の手前に備え付けさせなさい。アロンは主の御前に、夕暮れから朝まで絶やすことなく火をともしておく。これは代々にわたってあなたたちの守るべき不変の定めである。4 アロンは主の御前に絶やすことなく火をともすために、純金の燭台の上にともし火皿を備え付ける。
これは、出エジプト記27:20-21(祭司資料)にも記されている「不変の定め」です。「主はモーセに仰せになった」ということに根拠が置かれています。実際、聖所に務めている祭司は、「夕暮れから朝まで絶やすことなく火をともしておく」ことを実践しました。
聖所シロの物語から、「常夜灯」(レビ記24:2)の果たした役割を見てみましょう。
サムエル記上3:3――
まだ神のともし火は消えておらず、サムエルは神の箱が安置された主の神殿に寝ていた。
母ハンナがひとり息子のサムエルを、神にささげるべく、祭司エリに託しました。そして、「常夜灯がともっている」夜に不思議なことが起こりました。幼い少年は寝床で、「サムエルよ」との呼びかけを聞きました。
一方で、四度、主の呼び声を聞くうちに、祭司エリの助言もあり、サムエルは御言葉を聞く姿勢を整えました。その背後には、「わたしは、この子を主にゆだねます」(サムエル記上1:28)との母ハンナの祈りがありました。
他方、「そのころ、主の言葉が臨むことは少なく、幻が示されることもまれであった。…… エリは目がかすんできて、見えなくなっていた」(サムエル記上3:1-2)というように、聖所の霊的な空気は沈滞していました。さらに、「エリの息子はならず者で、主を知ろうとしなかった」(サムエル記上2:12)という有り様で、聖所シロならびにイスラエルの将来は、風前のともし火でありました。
そうした事情を総合すると、「まだ神のともし火は消えておらず、サムエルは……」との真意は明白です。まるで、映画のワンシーンのような光景を思い浮かべてみましょう。
イスラエルの将来を一身に担うサムエルを、「神のともし火」が皓々と照らしています。「光は暗闇の中で輝いて」いました(ヨハネ1:5)。そこに、苦難から立ち上がる力がありました。すやすやと眠っている……なおかつ御言葉を聞く用意のできた……幼子こそが、希望の源でありました。そうして主なる神は、サムエルの「聞く耳」を通して御言葉を伝え、彼に特別な使命を託しました(サムエル記上3:12,21)。
旧約の「常夜灯」または「ともし火」(ヘブライ語 ネル は同一)にまつわる律法と逸話とは、主イエスのたとえを解釈するうえで、とても参考になります。待望された「神のともし火」が、わたしたち自身の暗さを写し出します。「夕暮れから朝まで」、すなわち、暗闇に住む民(マタイ4:16)が夜明けを迎えるまで、神はその民を見守っておられます。
そこで、「ともし火が来る、燭台の上に置くために」(マルコ4:21 直訳)への説明を読んでみましょう。
Ⅲ 隠れているもので、あらわにならないものはない
マルコ福音書4:22――
(というのは)隠れているもので、あらわにならないものはなく、秘められたもので、公にならないものはない。
「というのは」という接続詞によって、前節につながっていることが分かります。では前後の文脈で、一体どんなことを訴えようとしているのでしょうか?
たとえを聞いていた人たちが思い浮かべたのは、「ともし火」・あかりをつけるということです。油やろうそくが高価な時代にあって、それは厳かな行為であり、喜びや安らぎをもたらすものでありました。それこそ、現代人のわたしたちにとって、希薄になっている思いであるかも知れません。実際、映画やテレビの、行燈やガス灯がともされる場面は、わたしたちを懐かしい気分に浸らせることでしょう。
聞いている人にとって、「ともし火」がつけられて、「〈以前には〉隠れていたが、〈今〉あらわになる」のは、自然の道理です。毎晩繰り返されていることです。しかしそれだけに、「隠れていたが、あらわになる」ことの驚きから遠ざかっていないでしょうか。いずれにしても、主イエスは的確なたとえをもって、人間の原初的体験とも言える、「暗がりから何かが現れ出る」ことに聴衆の関心を引き寄せられました。
主イエスは、「〈以前には〉秘められたもので、〈今〉公にならないものはない」と宣言されました。それは日常生活上の通達ではなく、「神の国」についての告知でありました。これまでに、神の遣わした預言者たちが殺害された暗黒の時代は過ぎ去りました。「神のともし火」なる「キリストがやって来られた」からです。
さて、イスラエルに王朝が建てられる〈以前(紀元前11世紀末)には〉、「まだ神のともし火は消えておらず」という危うい状況でありました。しかし主なる神は、幼子サムエルを召し出し、御言葉を「聞く」ことの大切さを教えられました。主イエスもまた、「ともし火」のたとえに沿って、「聞く耳」に焦点を合わせられました。
Ⅳ 何を聞いているかに注意しなさい
マルコ4:23-24前半 主イエスの言葉――
23「聞く耳のある者は聞きなさい。」24 また、彼らに言われた。「何を聞いているかに注意しなさい。
現在、ガリラヤ湖畔にて、「たとえ話の集会」が絶賛開講中です。主イエスは、「種を蒔く人」のたとえを話し終えると、「聞く耳のある者は聞きなさい」と勧められました(マルコ4:6)。そして次に、「ともし火」のたとえを話し終えると、再び「聞く耳のある者は聞きなさい」と勧められました。
ただ漠然と聞くのではなく、「何を」聞くのか、心を定めなさいと言明されています。更に言えば、「神の国の秘密」(マルコ4:11)が「〈以前には〉隠れていたが、〈今〉あらわになる」というヒントまで示されています。わたしたちの代表者である、主イエスの弟子と周りに一緒にいた人たちは、それほどまでに懇ろな計らいにあずかっています。
パウロはコリントの人々に、「わたしたちには、神が“霊”によってそのことを明らかに示してくださいました。“霊”は一切のことを、神の深みさえも究めます」(Ⅰコリント2:10)と言いました。「“霊”によって聞く」ことによってはじめて、「霊的な説明」(同上2:13)が理解できるようになります。
Ⅴ あなたたちはもっと増し加えられることになる
マルコ福音書4:24後半-25――
24「あなたがたは自分の量る秤で量り与えられ、(あなたがたに)更にたくさん与えられる。25 持っている人は更に与えられ、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。」
前のたとえでは、計量する器具「升」が脇役で登場しました。このたとえでは、「秤」が主役になっています。
ここで、「自分の量る秤で量り……たくさん与えられる」の文句から、聖書中の「不正な商人」の手口を思い起こした人はおられるでしょうか。
アモス書8:5――
お前たちは言う。「新月祭はいつ終わるのか、穀物を売りたいものだ。安息日はいつ終わるのか、麦を売り尽くしたいものだ。エファ升は小さくし、分銅は重くし、偽りの天秤を使ってごまかそう。」
善人ぶって、「弱い者」や「貧しい者」(アモス書5:6)の持ってきた物を買い叩くとは! 一体何のための「新月祭」・「安息日」なのでしょうか。主の御前に出て、「自分の量る秤」で罪を犯しているのを悔い改める時なのに……。
「不正な商人」の手口に心が惹かれそうになった人は、「“霊”によって聞く」ように、仕切り直しをしなければなりません。主イエスは「秤」を引き合いに出しながら、「神の国の秘密」を公にしておられます。
まず注意したいのは、これまでの「たとえ」に出てこなかった「あなたがたは」あるいは「あなたがたに」との言葉です。今さら何を、「たとえ」は弟子たち他「あなたがた」に向けられていたのは分かっています、というのは愚かです!
「秤のたとえ」における「あなたがた」の特別な重みを見逃してはなりません。つまり、「あなたがた」は「秤を持っている」、そしてそれによって、「あなたがた」は「量り・与えられる」ということです。
ここで、「量る」と「与えられる」との二つに分けられるのも、「あなたがた」がこの「たとえ」を理解するヒントになります。ちなみに、「量る」は「判断する」とも言い換えられます。おぼろげにでも、「神の国の秘密」が見えてきたでしょうか。聖霊による「霊的な説明」を祈り求めつつ先に進みましょう。
「あなたがた」を巻き込んでいる「秤のたとえ」で強調されているのは、次の点です。それは、24節の終わりと25節の初めとの並行表現をもって示されています。以下、原意が分かるように、言葉を補いました。
「あなたがたに更にたくさん与えられるでしょう。」(マルコ4:24)
「持っている人は更に与えられるでしょう。」(同上4:25)
このような増し加えられ方は、明らかに「種を蒔く人のたとえ」の最後と響き合っています。
「良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて受け入れる人たちであり、ある者は三十倍、ある者は六十倍、ある者は百倍の実を結ぶのである。」
肝心要は、「あなたがたの持っている秤」にあります。確かに、あなたがたはその「秤」によって「量り」・「判断し」ています。そうであるならば、あなたがたはそれを正しく用いなければなりません。
言い換えれば、「あなたがたの持っている秤」というのは、「神の国」の福音や主イエスのたとえを聞くときの「あなたがたの姿勢」にほかなりません。神はそれを、「神のかたち」(創世記1:26-27、9:6)である「あなたがた」にゆだねられています。
そこで、これまでの三つのたとえから、神が求められている「あなたがたの姿勢」とは、「御言葉を聞いて受け入れる」ことだと分かります。それは、神の御前で行われることですから、「聞くには聞くが、理解できず」(マルコ4:12)との人の頑なさも暴き出されます。それに対し神は、「持っていない人は持っているものまでも取り上げられる」と警告されています。
結
「ともし火が来る、燭台の上に置くために」(マルコ4:21 直訳)……ガリラヤの人々は、主イエスが湖畔を歩いている足音を聞きました(参照:創世記3:8)。彼らは神の御子が臨在しておられるのを認めつつあります。
主イエスは、「燭台の上に」、「山の上に」(マタイ5:14)、そして「あなたがたの量る秤に」、御言葉を置かれます。そこで、御言葉を語られます。
「御言葉があなたがたに更にたくさん与えられるでしょう」(参照:マルコ4:24)。そうしてそれは、聖霊の導きにより、福音の核心〈主イエス・キリストの十字架と復活〉となって、あなたがたの内に実を結びます。
その時、あなたがたの「ともし火」や「量る秤」は、神の栄光を映し出し、この世を明るく公正にするように用いられることでしょう。
その時、あなたがたは、あなたがたの尺度をはるかに超えた神の恵みによって支えられ慰められています。
W
〈説教の要約〉
2024年 6月2日 日本キリスト教団 茅ヶ崎香川教会
聖霊降臨節 第3主日
旧約聖書 イザヤ書 6章9節~10節(P.1070)
新約聖書 マルコによる福音書 4章10節~20節(P.67)
説 教「御言葉を聞いて受け入れる人たち」 小河信一牧師
説教の構成――
序
Ⅱ この民の心をかたくなにし 耳を鈍く、目を暗くせよ
……マルコ4:12 + イザヤ書6:9-10
Ⅲ 迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう
……マルコ4:13-19
Ⅳ 御言葉を聞いて受け入れる人たち
序
主イエスは「舟に乗って腰を下ろし」、湖畔に集う群衆に向かって、一つのたとえ話を語られました(マルコ4:1)。その「種蒔き」の話は、人々が野外で耳を傾けるにふさわしい内容であり、また、広い観点からは、「神の国」のたとえ話に属するものでありました(マルコ1:15、4:11)。
さて、主イエスは、「種蒔き」の「たとえ」について解説されます(Ⅲ・Ⅳでは、それをマルコの教会の説教として取り扱います)。初めに、「たとえ」に関する総論が提示され、次に、「種蒔き」のたとえが説明されます。主イエスがたとえを物語られた(マルコ4:3-8)後に、説明を加えられるのは、稀なことです。他には、「毒麦のたとえ」が挙げられます(たとえ マタイ13:24-30 → 説明 13:36-43)。
「たとえ」の本文を聞いたとしも、分からないことや質問したいことも出てくることでしょう。その点で、主イエスご自身が解説してくださるのは、大いに助かります。「聞く耳のある者は聞きなさい」(マルコ4:9)との警告を胸に、「“霊”による霊的な説明」(Ⅰコリント2:13)に耳を傾けましょう。
Ⅰ あなたがたには神の国の秘密が打ち明けられている
マルコ福音書4:10-11――
1 イエスがひとりになられたとき、十二人と一緒にイエスの周りにいた人たちとがたとえにつ いて尋ねた。2 そこで、イエスは言われた。「あなたがたには神の国の秘密が打ち明けられているが、外の人々には、すべてがたとえで示される。」
さあ、注目の、主イエスによる「たとえの集中講義」が始まります。「十二人と一緒にイエスの周りにいた人たち」が招き入れられました。やがて、「おびただしい群衆」(マルコ4:1)にも、その要旨が伝えられることでしょう。
「十二人」弟子は今、任命されたばかりです(マルコ3:13-19)。主イエスのそばに置かれた途端に、騒動が起こりました。突然、主イエスの身内やエルサレムから下って来た律法学者たちに取り巻かれました。そこで、内輪もめ(同上3:26)を惹き起こすという陰謀が仕掛けられました(参照:ベルゼブル〔悪霊の頭〕問答 同上3:20-30)。それは、発足したばかりの弟子集団に向けられた、悪魔の誘惑でありました。弟子の中には、一瞬つまずきそうになった人もいたかも知れません。「自分の身内が自分を取り返しにやって来たら……」などと。
危うい道を行く弟子たちにとって、主イエスの「言葉」(マルコ4:14,20)こそが、彼らの「歩みを照らす灯」(詩編119:105)でありました。そこで、主イエスはまず、「たとえ」そのものについての問いに答えられます。
「あなたがたには神の国の秘密が打ち明けられているが、外の人々には、すべてがたとえで示される」……この文章の趣旨を言い換えましょう。すなわち、「たとえ」には「神の国の秘密」が隠されている、従って、「外の人々」は「神の国の秘密」の真意を汲み取らなければならない、ということです。
同時に、わたしたちが自らの事として問い尋ねたいのは、次のことです。すなわち、「あなたがたには神の国の秘密が打ち明けられている」と言われている弟子たちは、「神の国の秘密」を“霊”の導きによって理解しているのか、ということです。つまり、主イエスの言葉を先取りすれば、弟子たちが「御言葉を聞いて受け入れる人たち」(マルコ4:20)になっているかどうか、が問われています。もし、その答えが「いいえ」だとすれば、彼らもまた、「外の人々」、信仰の不十分な者ということになります。
その点を踏まえれば、たとえの「説明」は、「外の人々」のみならず、弟子たちにも向けられているのであります。その説明を聞く前に、「外の人々には、すべてがたとえで示される」ことにまつわる旧約からの引用を読み取りましょう。
イザヤ書6:9-10――
9 主は言われた。
「行け、この民に言うがよい
よく聞け、しかし理解するな
よく見よ、しかし悟るな、と。
10 この民の①心をかたくなにし
②耳を鈍く、③目を暗くせよ。
悔い改めていやされることのないために。」
それは、
『彼らが❸見るには見るが、認めず、
❷聞くには聞くが、理解できず、
ようになるためである。」
このような旧約から新約への引用によって、主イエスが何を言おうとしているのか、整理してみましょう。
まず、今の主題が、「神の国の秘密」であることを念頭に置きましょう。「人々を恐れてはならない。覆われているもので現されないものはなく」(マタイ10:13)との主イエスの警告は、この「神の国の秘密」にも適用されます。すなわち、その「秘密」はすでに「打ち明けられて」います。というのも、「時は満ち、神の国は近づいた」(マルコ1:15)と宣べ伝える主イエスご自身が、ガリラヤの群衆の間に臨在されているからです。
主イエスは御業と御言葉をもって、つき従う者たちに、「神の国の秘密を打ち明け」ます。とりわけ、「神の言葉」(マルコ4:14、フィリピ1:14)の宣教を重んじられています。「種蒔き」のたとえが最初に語られ、説明が加えられているのも、そのためです。
そこで、「神の国の秘密」との主題と共に確認すべき、必須の事柄があります。それが、たとえを「聞く」者の態度であります。そのためには、入念な吟味が欠かせません。預言者イザヤは、❶心で理解する、❷耳で聞く、❸目で見るとの告知をもって、当時の頑なな民に悔い改めを迫っています。
御言葉の宣教からすれば、「❷耳で聞く」だけでも良さそうですが、さすがにイザヤは、神に聖別された預言者です。「❶心」と「❸目」を合わせて、全身全霊を集中して「聞くのに早い」態勢(ヤコブ1:19)ができているか、を点検しています。
そうした、主題「神の国の秘密」と「聞く」者の態度を、前提として、「それは……ようになるためである」(マルコ4:12)の要点を押さえましょう。
主イエスは「たとえでいろいろと教えられ」ようとしておられます(マルコ4:2)。そこで、「❸目で見ることなく、❷耳で聞くことなく、その❶心で理解することなく」という民の頑なさが露わになります。
そのことはまさに、「種蒔き」のたとえ自体に暗示されています……「ある種は道端に落ち……、ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち……、ほかの種は茨の中に落ちた」(マルコ4:4-7)。原因はいろいろですが、実を結ばないのは結局、土地が良い状態に保たれていないからです。そこには、害鳥、日照り、雑草などに対処する力がありません。
「聞く耳のある者は聞きなさい」(マルコ4:1)という「聞く耳」が良い状態に保たれるというのも、それと同じことです。そのためにまず、自分が元来、心の頑なな者を認めることです。そして、「“霊”による霊的な説明」が受け入れられるように、主に「立ち帰って赦される」ことです。そうすれば、わたしたちの信仰は、「たとえでいろいろと教えられ」、「神の福音が宣べ伝えられて」(マルコ1:14)、驚くほどに成長していきます。
そうすれば、「秘密」として「覆われていたものが現される」ようになります。そのことがまさに、「神の富」(ローマ11:33)を宿している、「信仰に成熟した人」(Ⅰコリント2:6)の内に起こり続けているのでありましょう。
主イエスは人間の頑なさを直視して、「種蒔き」のたとえを説き明かされます。たとえ本文の「ある種は道端に落ち……、ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち……、ほかの種は茨の中に落ちた」(マルコ4:4-7)に相当する部分を読んでみましょう。
Ⅲ 迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう
マルコ福音書4:13-19――
13 また、イエスは言われた。「このたとえが分からないのか。では、どうしてほかのたとえが理解できるだろうか。14 種を蒔く人は、神の言葉を蒔くのである。15 道端のものとは、こういう人たちである。そこに御言葉が蒔かれ、それを聞いても、すぐにサタンが来て、彼らに蒔かれた御言葉を奪い去る。16 石だらけの所に蒔かれるものとは、こういう人たちである。御言葉を聞くとすぐ喜んで受け入れるが、17 自分には根がないので、しばらくは続いても、後で御言葉のために艱難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう。18 また、ほかの人たちは茨の中に蒔かれるものである。この人たちは御言葉を聞くが、19 この世の思い煩いや富の誘惑、その他いろいろな欲望が心に入り込み、御言葉を覆いふさいで実らない。」
この「説明」には、主イエスの死からおよそ40年後の時代状況が反映されていると言われます。すなわち、マルコがこの福音書を書いた時(紀元後60年代後半 場所はシリアか)、教会はどのように伝道していたか、あるいは、どのような迫害に遭っていたか、ということが暗に物語られています。
言い換えれば、マルコが、主イエスの語った「種蒔き」のたとえを、「説明」・説教していることになります。現代に生きるわたしたちの教会にとってもそうですが、主イエスの「言葉」(マルコ4:14)を、今の生活の中で説き明かすことは、とても重要です。たとえの本文と引き比べながら、「説明」の要点をつかみ取りましょう。本文が引き延ばされている箇所に注目すれば良いので、ご一緒にじっくり見ていきましょう。
まず、たとえの冒頭に着目しましょう。「種を蒔く人が種蒔きに出て行った」(マルコ4:3)が「種を蒔く人は、神の言葉を蒔くのである」に変わっています。これは見逃せない「説明」です。
「種を蒔く人」は固定されていますが、「種蒔き」が「神の言葉を蒔く」と言明されています。そこから、「蒔かれたもの」=「神の言葉」、そして、それが「蒔かれた土地」=「人間」という理解の仕方が見えてきます。そこからまた、わたしたちは、主イエスから「神の福音を宣べ伝え」られた群衆(マルコ1:14)が、「神の言葉」を聞き、それを実践する教会になっていったことを知らされます。
「神の言葉」を聞くとの観点に立って、「蒔かれた土地」=「人間」との設定を掘り下げると、こうなります。すなわち、「蒔かれた土地」が良い状態に保たれているのと並行して、「聞く耳」が良い状態に保たれているとは、どういうことかが、マルコの“霊”的な洞察によって示されるということです。
④に当たる「御言葉を聞いて受け入れる人たち」(マルコ4:20)の前に、①道端のもの⇒②石だらけの所に蒔かれるもの⇒③茨の中に蒔かれるもの……というように、「肉の人」・「ただの人」(普通の人間 アンスローポス Ⅰコリント3:3)の悪例が列挙されています。たとえの原典に即した、巧みな説教です!
初めに、たとえの本文が改変されている重要な点について、言及しましょう。
「蒔いている間に、ある種は道端に落ち……」(本文 マルコ4:4)
「種を蒔く人は、神の言葉を蒔くのである」(説明 マルコ4:14)
一方、たとえの本文では、「種は落ちた」(マルコ4:4,5,7,8)というように、「種を蒔く人」の意図とはかけ離れて、生育上好ましくない土地に、種が落下したように描かれています。他方、たとえの説明では、「種を蒔く人」が生育の願いを込めて慎重に「種を蒔いた」(マルコ4:15,16,18,20)ように描かれています。
「種を蒔く人は、神の言葉を蒔く」という仕方(言い換えれば伝道)は、①「道端」、②「石だらけの所」、③「茨の中」、④「良い土地」、どんな土地においても一貫しています。それによって、「種を蒔く人」の忍耐強さとスケールの大きさ(マルコ4:20,24-25)が昭示されています。
マルコの教会は、そのような「説明」の工夫を通して会衆に、「種を蒔く人」なる主イエス・キリストがどのようなお方であるのか、を伝達しようとしています。その会衆は、教会が設立されたばかりということもあって、苦難に遭っているという難題を抱えています。
それ故に、たとえの「説明」では、①「道端」に、②「石だらけの所」に、そして③「茨の中」に「蒔かれたもの」に対し、その苦難を受け止めつつ、いかに励ますか、ということが課題になります。そで、宣教が行き詰まっている、その根本原因に光が当てられます。
①「すぐにサタンが来て、彼らに蒔かれた御言葉を奪い去る」(マルコ4:15)
②「自分には根がないので、しばらくは続いても、後で御言葉のために艱難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう」(マルコ4:17)
③「この世の思い煩いや富の誘惑、その他いろいろな欲望が心に入り込み、御言葉を覆いふさいで実らない」(マルコ4:19)
明らかに視点が、種が落ちた土地から、神の言葉が蒔かれた人間へと、移行しています。わたしたち・キリスト者が置かれている状況がそうであるように、「神の言葉」なる種が芽生えなかったり、枯死したりするのは、人間の内面的な罪性とそれを取り巻く「艱難や迫害」、双方に起因しています。
「神の言葉」を蒔かれたもの、すなわち、求道者や信仰者は、「種を蒔く人」なる主イエス・キリストの支配のもとにありながらも、自分の「思い煩いや欲望」を省み、「艱難や迫害」を乗り越えてゆかねばなりません。そこで、「神の言葉」によって、④「良い土地に……」が説き明かされます。
Ⅳ 御言葉を聞いて受け入れる人たち
「良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて受け入れる人たちであり、ある者は三十倍、ある者は六十倍、ある者は百倍の実を結ぶのである。」
確かに、マルコの教会の人々は、「聞く耳のある者は聞きなさい」(マルコ4:9)との主イエスの勧めを心に納めていたことでしょう。しかし、マルコはじめ教会の伝道者は、「聞くには聞くが、理解できず」(同上4:12)との人間の頑なさに直面していました。それが、一筋縄では行かない課題であると知らされていました。ですから、たとえの「説明」では、細心の注意を払って、人間の内面性と外敵とが巡視されました。
「種を蒔く人は、神の言葉を蒔くのである」……主イエス・キリストなる「種を蒔く人」が、人間の心の包皮(頑なさの象徴)を取り払って(エレミヤ書4:4)、「神の言葉」を植え付けられます。主イエスが主体的に、愛と力をもって、わたしたちのために働いてくださいます。へりくだって、罪人や貧しい者に仕えてくださいます。これは、まさに、神の恵みの出来事です。
人間に求められているのは、ひらすらに「御言葉を聞いて受け入れる」ことです。良く「聞いて受け入れる」のは、わたしたちの実力ではなく、神からの賜物です。
結びの「ある者は三十倍、ある者は六十倍、ある者は百倍の実を結ぶのである」とは、一体どういうことなのでしょうか。それは、「御言葉を聞いて受け入れる人たちの内で、神の言葉が三十倍、六十倍、百倍と、増し加えられて実を結ぶ」ということだと考えられます。聖霊の導きによって、福音の核心〈主イエス・キリストの十字架と復活〉が押さえられつつ、それが、日頃の自分たちの言動の指針となっていくということです。
では、「神の言葉が増し加えられて、豊かに実を結んで」、一体、何のためになるというのでしょうか。それこそ、主イエス・キリストを信じる者によって、「神の栄光」が現されるということです。
「神の栄光」を現す信仰者は、御言葉を「更にたくさん与えられて」(マルコ4:24)、いよいよ深くキリストと隣人を愛するようになるでしょう。
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〈説教の要約〉
2024年 5月26日 日本キリスト教団 茅ヶ崎香川教会
聖霊降臨節 第2主日
旧約聖書 詩編143編 2節(P.983)
新約聖書 コリントの信徒への手紙 一 4章1節~5節(P.303)
説 教「先走って、裁いてはならない」 小河信一牧師
説教の構成――
Ⅰ わたしたちは仕える者であり、また管理者です ……Ⅰコリント4:1-2
Ⅲ 御前に正しいと認められる者はいません ……詩編143:2
結
序
今、パウロは神から自分に授けられた務めや立場を説明しようとしています。それによって、わたしたちはキリスト者のあるべき姿や、神と隣人との関係について教えられます。ただしそれは、いわば白紙状態からの議論ではありません。
というのも、一部ながらもコリントの人の心には、パウロへの誤解や非難がぎっしり詰め込まれているからです。そのことを踏まえて、神の知恵を通して、一体、使徒パウロとは何者なのか、明るみに出されます。それが正しく受け止められるために、古い人の固定観念は打ち砕かれなければなりません。
パウロは説き明かしの鍵語として「裁く」または「裁かれる」(Ⅰコリント4:3,3,4,5)を活用しています。“霊”に導かれながら、舌鋒鋭く論じていることが分かります。パウロはこの箇所でも確かめられるように、婉曲な語り方(例:Ⅰコリント2:6)も、厳しく率直な言い回しもわきまえています。
このような巧みさや賢さは、「わたしたちがこれについて語るのも、人の知恵に教えられた言葉によるのではなく、“霊”に教えられた言葉によっています」(同上2:13)との事に由来しているのでありましょう。その意味で、パウロは自己抑制のできた人です。教会の指導者として、それにふさわしい賜物を持っています。
Ⅰ わたしたちは仕える者であり、また管理者です
コリントの信徒への手紙 一 4:1-2――
1 こういうわけですから、人はわたしたちをキリストに仕える者、神の秘められた計画をゆだねられた管理者と考えるべきです。2 この場合、管理者に要求されるのは忠実であることです。
「こういうわけですから、人は……と考えるべきです」……理路整然として第三者的(一般論的)な言い方が採られています。まるで学校の教壇に立って生徒たちに、教会の指導者の「定義」を教えているかのようです。この「考えるべきです」には、「正しい教えとしてきっぱり決める」という意味合いがあります(C.ワルケンホースト)。
ここで、やや婉曲な語り方で始めているパウロの本音は、「わたしはキリストに仕える者、神の秘められた計画をゆだねられた管理者である」ということです。もう彼の巧みさにお気づきでしょう。もし、そんなあけすけな物言いをすれば、「わたし」に向かって、ただの肉の人(Ⅰコリント3:1,3)からブーイング(野次)が浴びせられるかも知れません。「わたしが管理者だと、あんたなんかに、管理される筋合いはない」と……。
そのような頑なな人間の反抗は脇に置き、「信仰に成熟した人」として文意を読み取りましょう。
まず、どのように、教会の指導者または信徒を「定義」するにせよ、大前提として、キリスト者は神に選び、召されていることを認めねばなりません。そのことに、わたしたちは畏れを抱かなければなりません。神の計画に従って、「罪人の頭」(Ⅰテモテ1:15)である「わたし」のような者が召し出されたということです。
預言者イザヤは天の御使いによって、「見よ、これ(炭火)があなたの唇に触れたので あなたの咎は取り去られ、罪は赦された」(イザヤ書6:7)と宣告されました。それは、イザヤの召命の時のことでありました。こうしてイザヤは聖別され、この世に遣わされました(同上6:8)。パウロもまた、神の力に押し出されて、教会を建てたり、建てつぐ務めにつきました。
そこで、「わたしはキリストに仕える者、神の秘められた計画をゆだねられた管理者である」とのパウロの告白に立ち戻りましょう。この一文は、パウロが“霊”に導かれ、神の知恵が凝縮される形でつづられています。
〈下〉「仕える者」から〈上〉「管理者」へという順こそが、パウロの真骨頂です。わたしたちが見倣うべき点です。〈下〉が先に置かれているのが、肝要です。「仕える者」の原意は、〈下〉の「漕ぎ手」です。元来、船の下層部に座って漕いでいる奴隷を指す言葉です。
パウロはその「仕える者」との言葉をもって、自分が〈下〉にぬかずくように、へりくだっていることを表明しました。それが重大な信仰告白であることは、パウロ自身の手による、有名なキリスト賛歌を読めば分かります。
フィリピの信徒への手紙2:6-8――
6 キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、
7 かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、8 へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。
要するにパウロは、主イエス・キリストの「従順」に照らして、自分の務めと立場を「考えるべき」と言っています。それがまず先に、〈下〉を象徴する「仕える者」との用語に表れています。
そして次に、「わたしは神の秘められた計画をゆだねられた管理者である」と述べています。「管理者」の原意は、「家を管理する」ということです。言い換えれば、「家」、すなわち、神の聖なる神殿(Ⅰコリント3:16-17)としての「教会」のことを取り仕切っている人物を指しています。
「キリストに仕える者」と「管理者」との兼ね合いで言えば、キリスト教の指導者には、〈下〉から〈上〉まで、全体を注視している、バランス感覚が大切だと分かります(マタイ20:26)。
さて、「管理者に要求されるのは忠実であること」について、主イエスご自身の「管理者」論に立ち返って捉えることにしましょう。主イエスは「目を覚ましている僕」のたとえの中で、「管理者」(オイコノモス 家を管理する者)という同一の用語を使っておられます。
ルカ福音書12:42――
主は言われた。「主人が召し使いたちの上に立てて、時間どおりに食べ物を分配させることにした忠実で賢い管理人は、いったいだれであろうか。」
「忠実で」(ピストス)もパウロの用語と同じです。では、〈上〉に立つ「管理者」とは、どんな人物なのか、主イエスのたとえを踏まえて掘り下げてみましょう。
一体、〈上〉に立って見張る「管理者」とは、どんな人物なのでしょうか?
神または主イエスなる「主人」によって、「召し使いたち」の中から「管理者」が選ばれました。「管理者」は神の愛と正義をもって「召し使いたち」を見守り指導します。
その「管理者」が、この世の「管理者」と異なる点は、何なのでしょう。パウロは明解に、彼らには「神の秘められた計画をゆだねられている」と答えています。先に「見張る」と言ったのは、このことです。「忠実な管理人」は、「召し使いたち」を見守る以上に、「神の秘められた計画」を注視しています。
では、「忠実に神の秘められた計画」を見張っているためには、何が必要でしょうか?
それは、「忠実な」(ピストス)という用語が指し示しているように、「信仰」(ピスティス)にほかなりません。だから、「忠実な管理人」は、聖霊によって、主イエスをメシア・「主人」だと「信じて」います。
これも先に強調して行ったことですが、「管理者」は〈上〉に立って見張っています。城壁に立つ見張り人が全地の新たな動きに機敏なように(イザヤ書21:11-12)、「管理者」は「神の秘められた計画」のしるし・予兆に素早く対応します。ただちに彼は、それを「召し使いたち」、すなわち、教会員に伝達します。
「管理者」は〈上〉に立って、〈先〉を見ています。「管理者」なるパウロがそのことを実証しています……「そのとき、おのおのは神からおほめにあずかります」と(Ⅰコリント4:5)。このように、「神の秘められた計画」に立脚して、〈先〉なるもの、真の希望を明示することは、「この世の滅びゆく支配者たち」(同上2:6)にはできません。
これで、「わたしはキリストに仕える者、神の秘められた計画をゆだねられた管理者である」とのパウロの告白の重さをご理解していただけたでしょうか。「罪人の頭」なるパウロを、教会の指導者に任じた神の知恵は、まことに測り知れないものであります。もちろん、「人はわたしたちを……と考えるべきです」と遠回しながら述べているように、パウロの周りには「キリストに仕える管理者たち」がいます。パウロは、アポロやペトロの消息を伝え聞いたこともありました(Ⅰコリント1:12、9:5)。ですから、パウロは決して孤立していたわけではありません。
Ⅱ わたしは、自分で自分を裁くことすらしません
コリントの信徒への手紙 一 4:3――
わたしにとっては、あなたがたから裁かれようと、人間の法廷で裁かれようと、少しも問題ではありません。わたしは、自分で自分を裁くことすらしません。
今パウロは、自分の開拓伝道したコリント教会との関わりの中で、その務めや立場を説明しようとしています。
①「裁かれようと、少しも問題ではありません」と②「わたしは、自分で自分を裁くことすらしません」との二つの文に分けて説き明かしましょう。これらは、皆さんの日頃の悩みや思い煩いに答える内容になっています。
教会の指導者は、大勢の兄弟姉妹の評価や判断のもとに置かれています。時に、めいめい、「わたしはパウロにつく」「わたしはアポロに」「わたしはケファに」……裏を返せばあなたにはついていない……などと言い合う(Ⅰコリント1:12、3:4,21)ことが起こり得ます。実際、パウロはこのような問題を背景にしながら語っています。「気に病み始めるとつらい」ので、「少しも問題ではありません」と言い切っている節があります。
ここで「裁かれる」というのは、「評価・判断される」との意味です。「良い評価」ですら、自分に意外なものであれば、うれしいとは限らず怖くなることもあります。まして、「悪い評価」、非難や誤解であれば……。
それほどまでに、わたしたちは回りの目によってがんじがらめになっています。パソコンや携帯で「エゴサーチ(エゴサ)」(自分自身や自分に関わりのあるものが、どのように思われているのか検索すること)するのも、その一端でありましょう。
ここで留意すべきは、「少しも問題ではない」と言っているのであって、「全く問題ではない」というのとは異なっている点です。すなわち、「少しも」の原意は「最も小さい」ですから、「あなたがた」や「人間の法廷」での「裁き」や「評価・判断」は一考に値するかも知れません。
しかし結局、「あなたがた」・「人間」から「裁かれる」ことは、些細な・「最も小さい」ことと見なされます(R.B. ヘイズ)。
ここでは反対言葉として、自責の念、あるいは、自己責任という言葉が想起されます。「自分で自分を裁け」、人間は傲慢になりやすいのだから、というのは一見正しい勧めのように思われます。
しかし、「わたしはキリストに仕える者、神の秘められた計画をゆだねられた管理者である」(Ⅰコリント4:1)との信仰的な立場によって、「自分で自分を裁くこと」を熟考してみましょう。
そこで思い当たるのは、「自分で自分を裁くこと」には限界があるということです。わたしたちは「自分」を知り尽くしているわけではありません。その上、うぬぼれや卑下・謙遜というものが、「正しい自己評価」に混じってきます。
むしろ、「自分で自分を裁くこと」から解放され、自分の内に平安が保たれているというのが、パウロの教えるところでないでしょうか。すでにパウロは、「霊的なものによって霊的なことを説明する」(Ⅰコリント2:13)との真理に立ち帰ることを提唱しました。神につき、隣人につき、そして自分自身について、「“霊”によって明らかに示される」(同上2:10)ことにゆだねましょう。
そのことに関して、旧約の詩人はわたしたちの先達でありました。
Ⅲ 御前に正しいと認められる者はいません
詩編143:2――
命あるものの中にはいません。
これは、「悔い改めの七つの詩編」中の一節ですから、ある意味では、信仰上の「裁き」に係わりがあります。三つのことを読み取りましょう。
③「御前に正しいと認められる」かどうかが分岐点〈祈りの課題〉
①「あなたの僕」としての願い求め――
詩人は主なる神によって造られ、支え、保たれている「僕」です。自分は「召し使い」であり、神が「忠実な管理者」として立てられるのに備えています。この「僕」は、「あなたがた」や「人間の法廷」での「裁き」に動じることはありません。なぜなら、そのような「裁き」や「評価・判断」は「僕」の人生において「最も小さい」ことだからです。
ここで詩人は、「裁き」主なる神を認めています。詩人は、「わたしを裁くのは主なのです」(Ⅰコリント4:4)というパウロの信仰を先取りしています。
ただ今は、「裁かれる」神に赦しを乞うています。同時に、「わたしの霊がなえ果てている」(詩編143:4)ために、神の求めておられる「行くべき道」(同上143:8)から外れてしまっています。それほどまでに、弱く貧しい者が救われるかどうか(同上143:9)が課題なのです。
③「御前に正しいと認められる」かどうかが分岐点〈祈りの課題〉――
詩人は、「裁きにかけないでください」と、神に「裁き」の留保を願いました。しかし結局のところ、神がすべての人、その罪咎を「裁く」お方であると信じています。「願わくは、御前に立てるように、“霊”によって清めてください」と祈っていることでしょう。
わたしたちにとって大切なのは、神の御手が届き、罪咎を背負っている詩人が助け出されるのを待っているということです。神が詩人を「御前に正しいと認められる」日は必ず訪れることでしょう。というのも、「打ち砕かれ悔いる心」(詩編51:19)をもって、嘆き祈り続けているのですから(同上143:1)。
神はその詩人の祈りを聞かれました。神の一方的な恵みの業によって、不信心な者が「義とされ」ました(ローマ4:3,5)。パウロの説き明かしに耳を傾けましょう。
Ⅳ わたしを裁くのは主なのです
コリントの信徒への手紙 一 4:4――
自分には何もやましいところはないが、それでわたしが義とされているわけではありません。(しかし)わたしを裁くのは主なのです。
「自分には何もやましいところはない」とは、「神の御前に自分には罪悪がない」という意味ではなりません。そうではなく、「自分の良心に照らし、やましいところは見出せない」という意味です。つまり、「自分の良心」の限界を語っています。
次に、「それでわたしが義とされているわけではありません」と順接でつながり、最後に、「しかし、わたしは……」と逆転されています。〈Not〉人間の良心ではなく、〈But〉「裁き」主なる神に、自分が「やましい」かどうかをゆだねるということです。
「自分には何もやましいところはない」……世間では、この文句がまことしやかな言い訳として用いられる風潮があります。〈But〉、キリスト者はこの文句のうさんくささ(疑わしいこと)を見抜くべきであります。わたしたちは、「裁き」主なる神の御前において、「義とされている」かどうかが問題なのです。
「自分には何もやましいところはない」との自己弁護は、即刻捨て去りましょう。うぬぼれは、つまずきの元です。
Ⅴ 先走って何も裁いてはいけません
コリントの信徒への手紙 一 4:5――
ですから、主が来られるまでは、先走って何も裁いてはいけません。主は闇の中に隠されている秘密を明るみに出し、人の心の企てをも明らかにされます。そのとき、おのおのは神からおほめにあずかります。
この最後の警告で注目したいのは、「主(イエス・キリスト)が来られるまで」と「神からおほめにあずかります」との二つの句であります。Ⅰ.で述べたように、教会の指導者を「定義」する場合、キリスト者は神に選び、召されているということが大前提になります。従って、神と御子イエス・キリストによって、パウルの務めや立場は定められます。この警告に表れているように、パウロはいつも自分が、神と御子イエス・キリストにつながっていることを重んじています。
「先走って何も裁いてはいけません」……鍵語・「裁く」または「裁かれる」(Ⅰコリント4:3,3,4,5)は、4回中、3回が否定的な文脈で出てきました(新共同訳の4:3に3回「裁く」がありますが、原文では2回です)。こうして、肯定文の「しかし、わたしを裁くのは主なのです」(同上4:4)との信仰告白が光を放っています。
「忠実な(ピストス)管理人」は「信仰(ピスティス)」によって召され立たされています。その「信仰」の核心は、「ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされる」(ローマ3:24)ということです。「忠実な管理人」の罪咎は、主イエスの十字架に血によって洗い清められました。
地上の命の終わりまで、再臨の主との出会いまで、「義とされた」、すなわち、「神の御前に正しいと認められる」状態が保持できるのか、と心配になるでしょうか。そのために、パウロは「先走って何も裁いてはいけません」と、釘を刺しました。あわてることはありません。「自分には何もやましいところはない」と、自己弁護するのも空しいことです。
「主は闇の中に隠されている秘密を明るみに出し、人の心の企てをも明らかにされます」……ここにも、「先走って何も裁いてはいけない」との理由が記されています。その「隠されている秘密」が、災いなのか幸いなのか、あるいは、罪咎なのか善行なのか、わたしたちの知る由もありません。
いずれにせよ、わたしたちは、「主は……明るみに出し……明らかにされます」という主の御前に出ることになります。わたしたちが聖なる神と出会ったときに、自分の過ちや醜さが暴き出されます。その中には、それまで自分が気づいていなかった、悪しき「心の企て」もあり得るでしょう。
大切なのは、そこで神の御前にひれ伏し、悔い改めることです。その時、わたしたちは、ただ肉の人なる「あなたがた」や「人間の法廷」による「裁き」から解放されます。そして、「何もやましいところはないが……」との不安も消え去ります。
さて、神から自分に授けられた務めや立場についてのパウロの弁明は初めに帰ります。すなわち、「わたしはキリストに仕える者、神の秘められた計画をゆだねられた管理者である」とのアイデンティティに基づいて語っています。一部のコリント教会の人々の非難や不信感は、最後の段になって払拭されるのでしょうか。
「そのとき、おのおのは神からおほめにあずかります」……〈上〉に立つ「忠実な管理人」は、見張り人のように〈先〉を望み見ています。
この「おほめ」(賞賛)というのは、父・子・御霊による洗礼を授けられ、主イエス・キリストを信じるようになった者が、最後の審判の日に与えられるものです。その「おほめ」は、価のつけられない尊いものです。それは、「目標を目指してひたすら走った」人が獲得する「賞」であります(フィリピ3:14)。
忘れてはならないのは、次のことです。もし、「そのとき、おのおのは神からおほめにあずかる」との〈先〉にある期待によって、コリントの人たちの間に、慢心や思い上がりが呼び起こされるとしたら、それはパウロの意図ではありません。
なぜなら、主イエス・キリストを信じて「義とされた」、その時から、神の力を受ける者となったということだからです。それによって、わたしたちの「行くべき道」(詩編143:8)は、聖霊の導きにより神の正義と愛が支配するものとなりました。そこには、困難を乗り越える道や逃れる道も備えられています(出エジプト記14:29、Ⅰコリント10:13)。
結
パウロは、澄んだ目をもって、〈下〉から〈上〉まで見渡している、「キリストに仕える者」かつ「管理者」でありました。「神の秘められた計画」によって広大な地中海世界の伝道を展開しました。しかし、「意に介することはない」(少しも問題ではない Ⅰコリント4:3)とは言え、さまざまな非難や中傷を浴びてきました。わたしには到底堪えられない、と多くの人が思うのではないでしょうか。
本日のテキストの最後のところで、「そのとき、おのおのは神からおほめにあずかる」ということが打ち明けられました。それは、霊の人なるパウロが「明るみに出した、神の秘められた計画」(Ⅰコリント4:1,5)であり、その「計画」のすばらしい将来・最高潮であります。
使徒言行録28:30-31――
30 パウロは、自費で借りた家に丸二年間住んで、訪問する者はだれかれとなく歓迎し、31 全く自由に何の妨げもなく、神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストについて教え続けた。
これが、パウロの、地上の生涯の終わりを告げるものです。これは、パウロ本人の筆によるものではなく、新約聖書の一人の著者によるものです。しかし、この報告は間違いなく、パウロの信仰と生涯を代弁しています。
というのも、「そのとき、おのおのは神からおほめにあずかる」との将来への見通しが、彼の生涯の終わりを支えるものとなっているからです。だからこそ、パウロはローマで平安な暮らしを送ることができたのです。
このような広い観点から、パウロの神から授けられた務めや立場、その人生行路を理解すべきでありましょう。わたしたちが“霊”に導かれるならば、新約の代表的人物から、尽きることのない井戸から汲み出すように、神の恵みと人生の指針を受け取ることができるでしょう。 W
〈説教の要約〉
2024年 5月19日 日本キリスト教団 茅ヶ崎香川教会
聖霊降臨日(ペンテコステ) 聖霊降臨節 第1主日
旧約聖書 詩編2編 1節~2節(P.835)
新約聖書 使徒言行録 4章23節~31節(P.220)
説 教「皆、聖霊に満たされて、神の言葉を語りだした」 小河信一牧師
説教の構成――
序
Ⅱ あなたは聖霊によってお告げになった ……使徒4:25-26 + 詩編2:1-2
Ⅲ 御手と御心によってあらかじめ定められていた ……使徒4:27-28
Ⅳ 大胆に御言葉を語ることができるように ……使徒4:29-30
Ⅴ 皆、聖霊に満たされて、神の言葉を語りだした ……使徒4:31
序
本日、「聖霊降臨日」(ペンテコステ)に取り上げたテキストは、「五旬祭」(使徒2:1、Ⅰコリント16:8)の恵みは繰り返されることを証ししています。「恵みを超えて恵みを」(私訳 ヨハネ1:16)というのは、このような出来事を指すのでありましょう。
「五旬祭」(マカバイ記 二 12:32)は元来、ユダヤ教の三大祭の一つであります。その名称の通りに、「過越祭」から50日を数えた日に催されます。「七週祭」(出エジプト記34:22)あるいは「刈り入れの祭り」(同上23:16)とも呼ばれます。当地で小麦の初穂が収穫される頃、5-6月に祝われます。
初めて「聖霊降臨日」として「五旬祭」を迎えた直後に、エルサレムの教会は大きな苦難に出遭いました。こんなにも早く迫害を受けるのか、と愕然とします。
十二弟子のうちのペトロとヨハネが、エルサレム神殿の門のところで、足の不自由な男をいやしました(使徒3:1-10)。なお、二人が民衆と話をしていると、「祭司たち、神殿守衛長、サドカイ派の人々が近づいて来て」、「二人を捕らえて牢に入れ」ました(同上4:1-3)。というのも彼らは、ペトロとヨハネが「死者の中からの復活」を宣べ伝えているのを聞き、「いらだった」からです(同上4:2)。興奮していらいらしている人々の存在は、初代教会にとっての脅威です。いわば制御不能の状態だからです。
エルサレムの礼拝共同体はまだ教会として建てられたばかりです。イエス・キリストという土台が据えられ、一同が一つになり、聖霊に満たされました。しかし、教会がその土台の上にどのように建てつがれていくのか、あるいは、神によって成長されられてゆくのかは、まだこれからのことです(Ⅰコリント3:6-13)。
パウロは、「わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを」(ローマ5:3-4)と述べています。これは、フィリピやコリントで教会を建てた経験を持つ人の言葉です。「苦難」は、個人的のみならず、教会の上に襲いかかってきます。しかし、キリスト者は「苦難」を「忍耐」することにより、「るつぼで精錬される」ようにして、「練達」させられました。エルサレムの初代教会が、どのように苦難を乗り越えていったのか、読んでみましょう。
Ⅰ 心を一つにし、声をあげた
使徒言行録4:23-24――
23 さて二人(弟子のペトロとヨハネ)は、釈放されると仲間のところへ行き、祭司長たちや長老たちの言ったことを残らず話した。24 これを聞いた人たちは心を一つにし、神に向かって声をあげて言った。「主よ、あなたは天と地と海と、そして、そこにあるすべてのものを造られた方です。」
ペトロとヨハネは「仲間のところへ」直行しました。「仲間」の原意は「自分たちのもの・彼らのもの」ということで、「すべての物を共有し分け合っていた」兄弟姉妹の交わり(使徒2:44-45)が背景にあります。
そうしてペトロとヨハネは、自分たちにふりかかった逮捕・投獄の一件を報告しました。迫害された者たちの痛みが、皆で共有されました。そのことが、「これを聞いた人たちは心を一つにし」との一句のうちに表れています。一時孤立していたペトロとヨハネは「仲間」のうちに迎え入れられました。
実はこれ以前にも、「聖霊降臨日」の前後に、信者の兄弟姉妹が「心を一つにして」いたことが証言されています。
使徒言行録1:14 マティアが選出される時に――
彼らは皆、婦人たちやイエスの母マリア、またイエスの兄弟たちと心を合わせて熱心に祈っていた。
使徒言行録2:46 ペトロが説教した後に――
そして、毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし、(神を賛美していた)。
なぜ、「天下のあらゆる国から帰って来た」人々(使徒2:5)が、さまざまな違いを越えて一致することができたのでしょうか?
1 民は皆、水の門の前にある広場に集まって一人の人のようになった。彼らは書記官エズラに主がイスラエルに授けられたモーセの律法の書を持って来るように求めた。2 祭司エズラは律法を会衆の前に持って来た。そこには、男も女も、聞いて理解することのできる年齢に達した者は皆いた。第七の月の一日のことであった。
初代教会の時代からさかのぼること、およそ500年前に、エルサレムの「水の門の前にある広場」で礼拝が執り行われました。「居並ぶ男女、理解することのできる年齢に達した者たちが一人の人のようになった」ということです(ネヘミヤ記8:3)。水を打ったように静まるとは、まさにこのことです。
これは、都の城壁修築(ネヘミヤ記7:1)を記念する、新年(第七の月の一日)の礼拝でありました。さらに、その月の15日には、秋の収穫を祝う仮庵の祭りが始まります(同上8:17)。その光景を、総督ネヘミヤと書記官エズラが、祭司、レビ人、門衛、詠唱者、神殿の使用人などと共に見守っていました(同上7:72、8:9)。
帰還した捕囚の民と都にとどまっていた人々とが、「集まって一人の人のようになった」ということです。それは、「神の律法の書を朗読し」、「主を喜び祝う」礼拝(ネヘミヤ記8:8,10)がささげられたからです。
「今日は聖なる日だ」(ネヘミヤ記8:11)という礼拝の力と恵みが、500年の隔たりを超えて、誕生したばかりのエルサレム教会に伝えられました。それは確かに“霊”の働きによるものでした。だから、聖霊が降って来た日を中心に、信徒が「心を一つにして」集まることが繰り返されたのでしょう。そのようにして、主イエス・キリストを信じる群れは、週の初めの日に礼拝するようになりました。
実のところ、そのキリスト教徒の一致こそが、「団結し」・「一緒になる」敵対者(使徒4:26,27)への堅固な砦となりました。というのも、神に逆らう者たちの迫害が、キリスト教の芽生えを叩きつぶすというほどに怖ろしいものだったからです。それは、それまで敵だったものが味方同士になって、結託するという異様なものでありました。
「主よ、あなたは天と地と海と、そして、そこにあるすべてのものを造られた方です」……そうした中、ペトロとヨハネから報告を聞いた人たちは、「力を捨て、神をあがめる」(詩編46:11)ことに傾注していました。
このように、初代教会の人々は「天地の造り主」なる神への信仰(創世記1:1-2:4)を重んじました。創造神をあがめることは、聖霊によって主イエス・キリストの行いと言葉を思い起こすという観点からも大切です。
なぜなら、わたしたちは神に造られたものであり、しかも、神が前もって準備してくださった善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られたからです。わたしたちは、その善い業を行って歩むのです。
この一節を説き明かしましょう。元々「わたしたちは神に造られたもの」ですが、「以前は肉の欲望の赴くままに生活し、肉や心の欲するままに行動していた」(エフェソ2:3)という罪深い状態に陥りました。その結果、神に喜ばれる「善い業を行って歩む」ことができなくなりました。
そのために、わたしたちは「キリスト・イエスにおいて造られ」ました。正確に言うと、わたしたちは「造り直され」ました。それを記念して、キリストを信じる者は、洗礼という父・御子・御霊なる神の御業にあずかっています。
ペトロとヨハネの帰還を受けて、「仲間たち」(彼らの者たち)はまず、「天地の造り主」なる神への信仰を言い表しました。なぜなら、「キリスト・イエスにおいて造り直された」という信仰によって歩む者となったからです。「善い業を行う」ことこそが、敵対者の陰謀や結託を打ち破る力の源泉になります。
Ⅱ あなたは聖霊によってお告げになった
25 あなたの僕であり、また、わたしたちの父であるダビデの口を通し、あなたは聖霊によってこうお告げになりました。
諸国の民はむなしいことを企てるのか。
*使徒言行録4:25-26(ギリシア語)は元の詩編2:1-2(ヘブライ語)を忠実に訳しています。
今、キリスト者の兄弟姉妹が聖霊の臨在のもとに、「心を一つにして」います。教会の中に、堅い砦のように、一致があります。すると、神に逆らう者たちが「団結し」・「一緒になって」いる(使徒4:26,27)様子が見えてきました。それは、神がキリスト者を、全力を尽くして、「善い業を行う」ように導くためです。
ただし、いざ善行に励もうとする前に、エルサレムの初代教会が受けた、神の御言葉に耳を傾けましょう。人間的には知恵がなく、弱く貧しい者にとっても、「あなたの御言葉は、わたしの歩みを照らす灯」(詩編119:105)となります。
そこで、〈旧約の時〉⇒〈キリストの時〉⇒〈教会の時〉という三つの時の流れに即して捉えましょう。というのも、エルサレムの信仰者たちは、自分たちの〈教会の時〉というものを神の大いなる救いの歴史に従って見ていたからです。特に、自分たちの〈教会の時〉を〈キリストの時〉と重ね合わせて、現在の苦難を乗り越えようとしていたのです。それこそ、「“霊”に教えられた言葉によって」、まっすぐに歩んで行く「神の知恵」でありました(Ⅰコリント2:4,13)。何もわたしが賢ぶることはありません。
1 なにゆえ、国々は騒ぎ立ち
初代教会の人たちは謙虚に、〈旧約の時〉の御言葉に耳を傾けました。それは、打ちのめされて帰って来たペトロとヤコブと仲間たちが再会する場面です。「天地の造り主」なる神(使徒4:24)から、「主の油注がれた方」を取り巻いて反抗している「地上の王」へと焦点が移りました。それは、天を見上げたのちに、現実を直視するということです。
エルサレムの議員、長老、律法学者、祭司(使徒4:5-6)が「結束して」、ペトロとヨハネを投獄し尋問したばかりです。今読み直すにふさわしい御言葉と言えましょう。
詩編2:1-2の引用の前に、「あなたの僕であり、また、わたしたちの父であるダビデの口を通し、あなたは聖霊によってこうお告げになりました」と記されています。「あなた(神)は聖霊によって」と言うところに、「五旬祭」の恵みにあずかっているのがにじみ出ています。
〈旧約の時〉にも、厳しい迫害があったということで、〈教会の時〉を生きるペトロやヨハネは、冷静に事態を受け止めることができました。さらに重要なことは、先に述べた通り、主イエスの弟子たちはじめ初代のキリスト者が〈キリストの時〉に照らしつつ、自分たちの〈教会の時〉を把握しようとしたことです。
彼らは、主イエス・キリストは十字架につけられ、三日目によみがえられたことを信仰の中心に据えていました。それと同時に、「主イエスがわたしたちと共に生活されていた間」(使徒1:21)のすべてのことを信仰と生活とを規範として、教会を建てようとしていたのです。
そのように、信仰者はキリストに倣い、その生活において「善い業を行って歩もう」(エフェソ2:10)としていたとき、まさにその時に、彼らは聖霊に満たされました。
「地上の王」や「支配者」(使徒4:26)が彼らを脅したり誘惑しようとしても、忍耐して災いが過ぎ去るのを待ちました。なぜなら、初代のキリスト者は、「メシア」預言(詩編2:2 / 使徒4:26)が「油を注がれた聖なる僕イエス」(使徒4:27)によって成就したことを確信していたからです。主によって救われた彼らには、嵐の中でも平安がありました。
Ⅲ 御手と御心によってあらかじめ定められていた
使徒言行録4:27-28 ペトロとヨハネの報告を聞いた人たちの言葉――
27 「事実、この都でヘロデとポンティオ・ピラトは、異邦人やイスラエルの民と一緒になって、あなたが油を注がれた聖なる僕イエスに逆らいました。28 そして、実現するようにと御手と御心によってあらかじめ定められていたことを、すべて行ったのです。」
「天地の造り主」なる神(使徒4:24)から、旧約の時代から反抗し続けている「地上の王」へと焦点が移り、そして最後に「あなた(神)が油を注がれた聖なる僕イエス」が登場しました。
まず、迫害の観点から、〈旧約の時〉と〈キリストの時〉とが重ね合わされているのを確認しましょう。ルカ福音書・使徒言行録の著者は、「すべての事を初めから詳しく調べて、順序正しく書いている」(ルカ1:3)ので、彼が総括している歴史は信頼できます。
「地上の王」(詩編2:1)には「ガリラヤとペレアのヘロデ・アンティパス」が、また、「支配者」(詩編2:2)には「ローマ総督のポンティオ・ピラト」が例示されています。さらに、「ヘロデとポンティオ・ピラトは一緒になって」という点については、次の聖書の言葉がその事実を裏づけています。
ルカ福音書23:12――
この日(イエスを尋問した日)、ヘロデとピラトは仲がよくなった。それまでは互いに敵対していたのである。
災いが自分にふりかかって来るとき、その災いが思いがけない形で増大することがあります。ここでは、その最悪の事態が、主イエスに反逆する、敵と敵との結託によって生じたことが分かります。“霊”的な支えが無ければ、心が折れてしまうほどのことです。
エルサレムの初代教会の人たちは、礼拝で旧約聖書を読み、「主の復活の証人」(使徒1:22)から御言葉を聞きました。それは要するに、「実現するようにと(神の)御手と御心によってあらかじめ定められていたこと」でありました。それによって、「メシア」預言とその成就について教えられ、信仰が深められました。
そうして、彼らは、〈旧約の時〉⇒〈キリストの時〉⇒〈教会の時〉という神の大いなる救いの歴史を把握するようになりました。それは、「人の知恵」には測り知り得ない真理ですが、聖霊が「神の知恵」をもって説き明かしました(Ⅰコリント2:7,13)。
Ⅳ 大胆に御言葉を語ることができるように
使徒言行録4:29-30 ペトロとヨハネの報告を聞いた人たちの言葉――
29 「主よ、今こそ彼らの脅しに目を留め、あなたの僕たちが、思い切って大胆に御言葉を語ることができるようにしてください。30 どうか、御手を伸ばし聖なる僕イエスの名によって、病気がいやされ、しるしと不思議な業が行われるようにしてください。」
いよいよ、〈教会の時〉に突入して来ました。教会を堅固な砦として、「団結し」・「一緒になって」(使徒4:26,27)襲いかかって来る敵対者に立ち向かうことになりました。教会が「心を一つに」する(同上4:24)というのが、頼みの綱です。
最後の文章はいみじくも、「主よ、①……ようにしてください。どうか、②……ようにしてください」との「祈り」(使徒4:31)になっています。「主よ」の語彙は別ですが、迫害の報告を聞いた人たちが最初に叫んだ言葉(同上4:24)の繰り返しになります。
すなわち、それは「主よ、あなたこそがわたしたちを守ってくださるお方です」との信仰告白にほかなりません。祈る人は、「あなたの僕たち」と言って、御前にへりくだっています。聖霊なる神は、そのように祈りを大切にする信仰を支え見守っておられます。
「祈り」の内容を確認しておきましょう。
「主よ、①……ようにしてください」――「思い切って大胆に御言葉を語る」
「どうか、②……ようにしてください」――「病気がいやされ、しるしと不思議な業が行われる」
初代教会のキリスト者は、「主よ」と呼びかけて、①御言葉の宣教と②いやしなどの業とが行えるようにと願い求めました。
使徒言行録4:29-30の「祈り」はとっさのうちにささげられたものです。しかしこれは、「①罪の赦しを教える⇒②病気を癒す」(マルコ2:1-12、ルカ5:17)という主イエスの伝道と軌を一にしています。まさに、聖霊の息吹のうちに、〈キリストの時〉から〈教会の時〉へと行き巡っています。
こうして、初代のキリスト教会の伝道が進められました。「しかし、このことがこれ以上民衆の間に広まらないように、今後あの名によってだれにも話すなと(ペトロとヨハネを)脅しておこう」(使徒使徒4:17)との妨害に屈することはありませんでした。
なぜなら、キリスト者は、「思い切って大胆に御言葉を語った」からです。彼らは、「五旬祭」の恵みを繰り返し証ししました。彼ら自身が「恵みを超えて恵みを」という出来事に驚かされながら、堂々と自分たちの信仰を告げ知らせました。
Ⅴ 皆、聖霊に満たされて、神の言葉を語りだした
使徒言行録4:31――
祈りが終わると、一同の集まっていた場所が揺れ動き、皆、聖霊に満たされて、大胆に神の言葉を語りだした。
自然現象を包み込んで異変が起こりました。これはまさしく、主の復活祭から数えて50日目の「聖霊降臨日」の出来事(使徒2:1-4)を想起させます。その日と同様に、兄弟姉妹は聖霊に満たされました。
その上、「主よ、…… 思い切って大胆に御言葉を語ることができるようにしてください」との祈りが聞かれて、「皆、聖霊に満たされて、大胆に神の言葉を語りだし」ました。このこともまた、「祈り」のための証しになるに違いありません。
このようにして、ユダヤ民族が伝統的に遵守してきた「五旬祭」は、キリスト教の信者によって受け継がれていきました。その日に「一同、聖霊に満たされた」のですから、「聖霊降臨日」という呼称は的確です。そうして、「聖霊」の導きのもとに、「説教」(使徒2:14-36)が語られる礼拝共同体、最初の教会が誕生しました。
願わくは、茅ヶ崎香川教会において、「聖霊降臨日」の恵みが再現されますように!
W
〈説教の要約〉
2024年 5月12日 日本キリスト教団 茅ヶ崎香川教会
復活節 第7主日
旧約聖書 詩編91編 11節~12節(P.930)
新約聖書 ルカによる福音書 4章1節~13節(P.107)
説 教「あなたはしっかり守られている」 小河信一牧師
説教の構成――
序
Ⅱ この石にパンになるように命じたらどうだ ……ルカ4:3-4
Ⅲ この国々の一切の権力と繁栄とを与えよう ……ルカ4:5-8
……ルカ4:9-12 + 詩編91:11-12
Ⅴ 悪魔は、時が来るまでイエスを離れた ……ルカ4:13
序
来週、ペンテコステ・聖霊降臨日を迎えます。そこで本日は、主イエスが“霊”の導きのもとに、悪魔の誘惑に打ち勝たれた出来事を読みましょう。そこでは、神の道から離れさせようとする試みに対して、どのように対応するのか、が明瞭に描き出されています。ガリラヤ伝道の始まりにあたって、誘惑に負けなかった主イエスを通し、弟子たちはじめ人間に歩むべき道が示されました。
わたしたちにとって大切なのは、そのように誘惑をことごとく退けられた主イエス・キリストによって救われているということです。有名なヨハネ福音書3:17を借りて言えば、「神が御子を世に遣わされたのは、わたしたちを誘惑に遭わせないためではなく……誘惑への不手際な対応がいちいち裁かれることなく……、御子によってわたしたちが救われるためである」ということなのです。
そのため、わたしたちは誘惑の嵐の吹きすさぶこの世の中にあっても、救い主を遣わしてくださった父なる神を礼拝し続けます。なぜなら、わたしたちはイエス・キリストを信じることによって、罪と死から解放され、永遠の命を得ることができるからです。
悪魔からの誘惑に勝利された主イエス・キリストの出来事を想起して、思い煩うことなく、日々過ごしていきましょう。「四十日間」の荒れ野の誘惑に証しされているように、聖霊なる神は、わたしたちに知恵と忍耐を与えて助けてくださいます。自分の力に頼ってはなりません。救われていることを尊ぶ信仰者は、自分で誘惑を退けようとはしません。
Ⅰ 四十日間、イエスは悪魔から誘惑を受けられた
ルカ福音書4:1-2――
1 さて、イエスは聖霊に満ちて、ヨルダン川からお帰りになった。そして、荒れ野の中を“霊”によって引き回され、2 四十日間、悪魔から誘惑を受けられた。その間、何も食べず、その期間が終わると空腹を覚えられた。
序.で、主イエスの出来事における聖霊の導きについて触れました。ここで、ルカ福音書における、荒れ野の誘惑の前後関係を調べてみましょう。
イエス、洗礼を受ける ルカ3:21-22 ⇒ イエスの系図 3:23-38 ⇒ 荒れ野の誘惑 4:1-13
⇒ ガリラヤでの伝道 4:16-9:15
このような展開を見渡すならば、主イエスの受洗の際に、「聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た」(ルカ3:22)ことが大きな意味を持っているのが分かります。その「聖霊が」イエスを荒れ野の誘惑へと導き入れたのであります。そこで、「聖霊に満ちて」おられる主イエスと悪魔とが対峙します。
三つの誘惑、その一つ一つの戦いにおいて、“霊”が主イエスを包み込んでいます。わたしたちが、その“霊”の働きを認めなければ、主イエスが試みられる物語を読んだことにはなりません。それでは、自分も主イエスのように、数々の誘惑を退け勝利できると、勘違いすることになります。
死と隣り合わせの「荒れ野」……そこで、“霊”が「神の御心に適った者」(ルカ3:22)に充満していました。「四十日間、何も食べず」という極限状態の中で、主イエスは「悪魔から誘惑を受けられ」ました。そこで、十字架の丘での終わりに向けて、第一歩を刻まれました。実際、第三の誘惑においては、エルサレムの神殿が出てきます(同上4:9)。全地の「王」(同上19:12,27、23:38)なる御子の旅の始まりです。
主イエスが三度も誘惑に遭うというのは、神の栄光を奪い去ろうとする悪魔の企みです。主イエスの側に落ち度があるわけではありません。高潔さや義しさというものは、それらを煙たがるこの世にあって、しばしば標的にされます。
一例を挙げましょう。父祖アブラハムは神から、独り子イサクを献げるよう試みを受けました。アブラハムは神の愛を信じ、従順にこの試みに立ち向かいました。その結果、アブラハムはこの試練によって神からの祝福を与えられました。神への全き信頼が、彼を救い出しました。そうしてアブラハムは、主イエス・キリストを通して「彼の信仰に従う者」にとっての信仰の「父」となりました(ローマ4:16)。
悪魔は、アブラハムのように愛の豊かな人を、うそ偽りや裏切りをもって挫折させようとします。悪魔は、そういう人々がつまずけば、世の中全体が退廃してゆくことを見抜いています。
確かに、アブラハムはイサク奉献という最大の試みをくぐり抜けました。しかし、飢饉のためエジプトに下った時、アブラハムは自分の妻サラのことを「わたしの妹です」と嘘をつき、エジプト人をだましました(創世記12:10-20)。その結果、ファラオからエジプトから立ち去るよう命じられました。ささいな誘惑をあなどるな、それが、信仰の「父」からの教訓ではないでしょうか。
人間誰しも、試練によって鍛えられ、“霊”的に成長していくものです。自分は誘惑の罠に落ちないという自信など、やがて打ち砕かれるに違いありません。
それでは、主イエスがどのように巧みな誘惑に対処されたのか、見てみることにしましょう。
Ⅱ この石にパンになるように命じたらどうだ
ルカ福音書4:3-4――
3 そこで、悪魔はイエスに言った。「神の子なら、この石にパンになるように命じたらどうだ。」4 イエスは、「『人はパンだけで生きるものではない』と書いてある」とお答えになった。
第一の誘惑が襲って来たのは、「(イエスが)その間、何も食べず、その期間が終わると空腹を覚えられた」(ルカ4:2)という時でありました。敬虔な人であっても、タイミングさえ合えば、ささいな誘惑でつまずいてしまうというのは、その通りです。そんな時、「魔がさす」のを、悪魔はねらっています。人の子イエスの弱みにつけいる策略です。
ところで、よく聖書を読んでいる人で、こんな疑問を抱く方はいないでしょうか?
主イエスは、「五つのパンと二匹の魚」(ルカ9:16)を増加させて、五千人を満腹させる(同上9:17)という御業を行われるお方です。だからここで、「この石にパンになるように命じたら」と言うのは、意味がないのでは、との疑問です。つまり、悪魔は、主イエスが石をパンに変える御力を持っているのを、知らないのですか、ということです。そんな悪魔のことなんか、放っておきましょう……。
しかし、ここで一体何が、問題となっているのかが捉えられれば、その疑問は解消されます。要するに、ここでは、人の子イエスが「空腹を覚える」時に……まさにそれがしばしば人間世界で起こる……、“霊”に導かれている主イエスがどのように振る舞うか、が中心なのです。
その上で、主イエスの示される行いと言葉によって、わたしたちが救われるということに、わたしたちは全神経を集中しなければなりません。主イエスはすべての人に、神の大いなる救いをあずからせようと伝道を始められます。今はまだ、目撃者のいない「荒れ野の中」ではありますが……。
主イエスは、信仰者が神の国をめざす中で、「五つのパンと二匹の魚」の増加の奇跡を起こし得るお方です。しかし、人が神を信じるように“霊”をもって導くお方、イエス・キリストが示されたのは、以下の聖句でありました。
申命記8:3――
主はあなた(イスラエルの民)を苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった。
主イエスは上の文から「人はパンだけで生きるものではない」と引用して、悪魔に答えられました。主イエスは神の御心が開示されている聖書の言葉を返されたのです。その後の「人は主の口から出るすべての言葉によって生きる」との文中の「主の口から出る」との一句、換言すれば、「神の豊かさを信じて受ける」ということこそが肝要なのでありました。
神はわたしたちと「命」(申命記8:1)ある交わりを結ばれるために、わたしたちに神の「言葉」を与えてくださいます。神の備えられる「すべての言葉によって」、わたしたちは神を信じるよう導かれます。主イエスはそのようなわたしたちのために……パンやマナの現物支給の形ではなく……、「わたしたちに必要な糧を毎日与えてください」(ルカ11:3)と祈ることを教えてくださいました。
Ⅲ この国々の一切の権力と繁栄とを与えよう
ルカ福音書4:5-8――
5 更に、悪魔はイエスを高く引き上げ、一瞬のうちに世界のすべての国々を見せた。6 そして悪魔は言った。「(わたしはあなたに)この国々の一切の権力と繁栄とを与えよう。それはわたしに任されていて、これと思う人に与えることができるからだ。7 だから、もし(あなたが)わたしを拝むなら、みんなあなたのものになる。」 8 イエスはお答えになった。
ただ主に仕えよ』
と書いてある。」
物質的欲求から精神的欲望へ……悪魔は手を替え品を替え、誘惑に陥れようとします。そして第一の失敗を省みて、〈わたし〉は〈あなた〉ににじり寄ってきます。
悪魔は相手を幻惑させる思惑で、「高く引き上げ、一瞬のうちに世界のすべての国々を見せ」ます。その高い所から「国々の一切の権力と繁栄」が一望できます。これは、他の人よりも「高く引き上げられている」、つまり、「マウントをとる」(人を見下し自分の優位を誇示する)という欲望をかき立てるものです。
その欲望に付け入ろうとする悪魔は、「だから、もし(あなたが)わたしを拝むなら」との交換条件を出しています。これは第二の誘惑が、自分〈わたし〉と相手〈あなた〉との関係の問題であることを表しています。
日頃わたしたちは、対人関係に悩ませられることがあります。ここで、「わたしを拝むなら」を、「わたしの一つの願いを聞いてくれるなら」または「わたしの顔を立てくれるなら」と言い換えてみましょう。すると、ちょっとした誘いかけを断れないで、失敗した経験を思い起こすのではないでしょうか。
主イエスが、自分〈わたし〉と相手〈あなた〉との関係の問題に、どのように対応されたかは、悪魔への答えに明解です。引用元の旧約聖書を掲げましょう。
13 あなたの神、主を畏れ、主にのみ仕え、その御名によって誓いなさい。14 他の神々、周辺諸国民の神々の後に従ってはならない。
ここに、自分〈わたし〉が〈あなた〉なる神を畏れて拝むという関係性の基本が提示されています。まず、〈あなた〉なる神を愛することが初めで、それに、〈あなたたち〉なる隣人を愛することが続きます(マタイ22:34-40)。〈わたし〉はこれを最も重要な掟としなければなりません。主イエス・キリストは御自身の命をかけて、これを成し遂げられました。
第二の誘惑の際に、「最も重要な掟」が明るみに出されました。このこともまた、荒れ野での出来事が、主イエスと共なる“霊”によって支配されていたことを物語っています。
Ⅳ 神の子なら、ここから飛び降りたらどうだ
ルカ福音書4:9-12――
9 そこで、悪魔はイエスをエルサレムに連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて言った。「神の子なら、ここから飛び降りたらどうだ。10 というのは、こう書いてあるからだ。
『神はあなたのために天使たちに命じて、
あなたをしっかり守らせる。』
『あなたの足が石に打ち当たることのないように、
天使たちは手であなたを支える。』」
12 イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』と言われている」とお答えになった。
第三の誘惑は、「悪魔がイエスをエルサレムに連れて行った」ということで、場面が主イエスの十字架と復活の地に移り変わりました。ガリラヤ伝道の直前のことですが、悪魔は主イエスの公生涯の終わりに光を当ててくれています。
しかも、悪魔からの要求は、「神の子なら、ここ(神殿の屋根の端)から飛び降りたらどうだ」ということで、要するに、「奇跡を起こして自分を示せ」、「一体あなたは何者なのか?」というものでありました。一見「ここから飛び降りたらどうだ」は無茶な要求と思われますが、結局、福音書の読者に、「イエス・キリストがどのようなお方であるのか」を考えさせる糸口になっています。
ところで、ここで悪魔の誘惑の鍵になっているのは、「神の子なら」とのセリフで、第一の誘惑の時(ルカ4:3)に続いて用いられています。これは単に、相手にお世辞を言っているのではありません。そうではなく、大局的に荒れ野の誘惑を見たときに、主イエスが「神の子」かどうか、また、どのような「神の子」なのか、が主題だからです。
次の言葉からも、それは証言されます。「祭司長たちも律法学者たちや長老たち(まさに悪魔の手先
!)と一緒に」口をそろえて、「今すぐ十字架から降りるがいい。……『わたしは神の子だ』と言っていたのだから」と叫びました(マタイ27:41-43)。主イエスが十字架に上げられている場面でのことです。この「降りるがいい」は、荒れ野の試みの「飛び降りたらどうだ」と符合しています。
「今すぐ十字架から降りるがいい」との言葉の真意は、「死の苦難から逃れる力があるか見せてみよ」ということです。祭司長たちは、主イエスが行動を起こして、「十字架から降りて」、(自分に対しての!)救いを実証してみせよ(マタイ27:42,43)、と迫っています。
主イエスはそのような奇跡をもって、自分が「神の子」であるのを立証しようとはなさいませんでした。そうではなく、「神の子」、イエス・キリストが十字架と復活の御業によって、罪と死からわたしたちを助け出すことを、主イエスは伝道の初期から見据えておられたのであります。だからこの度も、主イエスは「飛び降りる」ことなどなさいません。
今回悪魔は執拗にも、旧約聖書を使って食い下がりました。
詩編91:11-12――
11 主はあなたのために、御使いに命じて
12 彼らはあなたをその手にのせて運び
足が石に当たらないように守る。
それは、聖書の或る一節を抜き出して、或る場面に適用するという企みでありました。それは、“霊”の導きをもとに、御言葉が与えられ、自分の生活の指針にするというのと、正反対のものでした。要は、祈りをもって、聖書全体によって、神の御心を問い尋ねるという忍耐強さと謙虚さが皆無でありました。
「あなたの神である主を試してはならない」……主イエスは、「神の秘められた計画」全体(Ⅰコリント2:1)を熟慮されたうえで、悪魔の誘惑を退けられました。
あなたたちがマサにいたときにしたように、あなたたちの神、主を試してはならない。
ここで、主イエスは、失敗など犯さない方であるにもかかわらず、荒れ野放浪中の、イスラエルの民の失態を思い起こされました。それはまさに、イスラエルの民が飢え渇いていた時のことでありました。
1 主の命令により、イスラエルの人々の共同体全体は、シンの荒れ野を出発し、旅程に従って進み、レフィディムに宿営したが、そこには民の飲み水がなかった。2 民がモーセと争い、「我々に飲み水を与えよ」と言うと、モーセは言った。「なぜ、わたしと争うのか。なぜ、主を試すのか。」
荒れ野での、舌の焼け付くような渇きについては同情したいところですが、根本の問題は、「果たして、主は我々の間におられるのかどうか」(出エジプト記17:7)というように、確信を持てない、民の不信仰にありました。
片や、イスラエルの民は臨在する神を信じきれなかった(民数記20:12)ことが、マサ(試し)という場所の命名と共に、その歴史の中に刻まれたのであります。片や、主イエスは「荒れ野の中」で、聖書全体から、「あなたの神である主を試してはならない」との教えを導き出されました。御子イエスは忍従しつつ、「あなたの神」なる父の栄光を現す(ヨハネ17:4)ことに全身全霊を注ぎ込まれました。
なお、悪魔が部分引用した詩編91編には、試練の時にも、「神を慕い、神の名を知る」者と「共にいて、助けて」くださる神が描き出されています(91:14-15)。「羽をもってあなたを覆い 翼の下にかばってくださる」神(91:4)は、死の淵からわたしたちの魂を引き上げてくださいます。自ら「飛び降りる」危険をつくり出すことは、神の御心に添うものではありません。
Ⅴ 悪魔は、時が来るまでイエスを離れた
ルカ福音書4:13――
イスカリオテのユダに「サタンが入った」時(ルカ22:3)、そして「闇が力を振るう」時(同上22:53)まで「悪魔は離れ」ました。そうして、「イエスは“霊”の力に満ちてガリラヤに帰られた」(ルカ4:14)ように、ガリラヤ伝道への準備がなされました。何よりも、三つの誘惑への対応を通じて、「イエス・キリストがどのようなお方であるのか」が指し示されました。
主イエスは弟子に、「わたしたちを誘惑に遭わせないでください」(ルカ11:4)と祈ることを教えられました。わたしたちは自分の人生で、どんな「誘惑」が襲って来るのか、分かりません。それ故に大切なのは、祈りの中で、弱い自分を認め、神に助けを願い求めることです。
わたしは、「誘惑」に打ち勝たれた主イエス・キリストを心から信じます。
「どうか、わたしを誘惑に遭わせないでください」。
イエス・キリストを遣わし、そして聖霊を遣わしてくださる主なる神によって、わたしはしっかり守られています。
神こそが「わたしの避けどころ、砦」(詩編91:2)ですから。
W
〈説教の要約〉
2024年 5月5日 日本キリスト教団 茅ヶ崎香川教会
復活節 第6主日
旧約聖書 エレミヤ書 4章3節(P.1181)
新約聖書 マルコによる福音書 4章1節~9節(P.66)
説 教「芽生え、育って実を結ぶ種」 小河信一牧師
説教の構成――
序
Ⅰ イエスはたとえでいろいろと教えた ……マルコ4:1-2
Ⅱ 種を蒔く人が種蒔きに出て行った ……マルコ4:3-7
Ⅲ 茨の中に種を蒔くな ……エレミヤ書4:3
Ⅳ 実を結び、三十倍、六十倍、百倍にもなった ……マルコ4:8
Ⅴ 聞く耳のある者は聞きなさい ……マルコ4:9
序
ガリラヤの湖や山を舞台に、主イエスの伝道が進められています。主イエスは家の中から湖のほとりに出て行かれました。これから、夕方に至るまで(マルコ4:35)、主イエスは群衆にいろいろなたとえを話されます。
わたしたちには通常、家の内と家の外との生活があります。その二つは車の両輪の関係にあります。家での平穏と外での活動、双方があってより人間らしく生きてゆくことができます。
この世の中で、不慣れな人間関係において心身がたくましくなり、自立の意識が芽生えることもあるでしょう。あるいは、屋外で動植物や自然などの被造物に親しく接する中で、知恵や愛情が育まれることもあるでしょう。
さあ、主イエスは(舟に乗って)湖の中、群衆はそのほとりという状況での、「たとえ話の集会」に参加してみることにしましょう。主イエスはその一番目として、野外で語るにふさわしいたとえを取り上げられました。これは、広い観点から「神の国」のたとえ話に属します(マルコ1:15、4:11)。ですから、パレスチナや日本の農業のやり方から観て、非常識であるとの現世的思考にこだわり過ぎないようにしましょう。湖の上という異空間におられる主イエスをしっかりと見つめましょう。言うまでもなく、神を拝む礼拝は、天空の見わたせる野外でも可能です。
中心点はここでも、主イエス・キリストがどのようなお方であるのか、ということです。そして、あなたが御言葉を聞き入れて、救われるかどうか、が問われています。
Ⅰ イエスはたとえでいろいろと教えた
マルコ福音書4:1-2――
1 イエスは、再び湖のほとりで教え始められた。おびただしい群衆が、そばに集まって来た。そこで、イエスは舟に乗って腰を下ろし、湖の上におられたが、群衆は皆、湖畔にいた。2 イエスはたとえでいろいろと教えられ、その中で次のように言われた。
ここで主イエスは、わたしたちの手本となる伝道の基本を実践されています。
「イエスは、再び湖のほとりに出て行かれた。
群衆が皆そばに集まって来たので、イエスは教えられた。」(マルコ2:13)
↓ ↓
「イエスは、再び湖のほとりで教え始められた。
繰り返し出かけて行く、繰り返し語る、そうしてイエス・キリストの御姿を人々の心に焼き付けるということです。それは、都のように家が密集しておらず、視界をさえぎる山もない、ガリラヤ湖畔では格好のやり方でありました。
主イエスの巡回によって、カファルナウムからベトサイダやコラジンへ(マルコ1:21、6:45、マタイ11:21)、点から線へ、線から面へと伝道が展開されていきます。それは、「群衆」が「おびただしい群衆」に膨らんでいることからも分かります(マルコ3:7、4:1)。ユダヤ民族の垣根を飛び越えて、「イドマヤ(エドム)、ティルスやシドンの辺り」(同上3:8)など、異邦人世界からも、人々が集まって来ました。
さて、「イエスはたとえでいろいろと教えられた」ということを説き明かしましょう。
まず、「いろいろと教えられた」との句には、ずっと継続して忍耐強く教えたとのニュアンスが含まれています。先取りして言えば、主イエスは挫折に屈せず、「種を蒔く人」(マルコ4:3)として御言葉を蒔き続けられます。その点については、Ⅳ.で詳しく述べます。
そして、なぜ「たとえ」を用いて話すのか、との疑問にお答えましょう。すでにお話しした通り、「たとえ」は大概、日常生活から題材……種蒔きの他、ともし火、秤など(マルコ4:21-25)……が採られています。しかしながら、主イエスの「たとえ」は明確に「神の国」を指し示しています。「神の国」は、わたしたちの生きている「命あるものの地」(詩編142:6)とつながりつつも、そこは神の栄光と恵みが満ち満ちているところです。
従って、わたしたちの日常生活の知恵や経験をもってすれば、主イエスの「たとえ」がすぐに分かるというのではありません。むしろ、「神の国の秘密が打ち明けられる」(受動態! マルコ4:11)のを、受け止める、受容することが重要になります。「神の国の秘密」というのは、「神の秘められた計画」(Ⅰコリント2:1)と言い換えられます。
だからこそ、「たとえでいろいろと教えられ」、その「計画」の全体像を捉えねばなりません。主イエスにつき従う者が「打ち明けられ、教えられる」コツとして、主イエスは「聞く耳のある者は聞きなさい」(マルコ4:9)と勧告されています。これも、あと(Ⅴ.)で吟味することにします。それでは、「聞くに早く」(ヤコブ1:19)との教えに従って、さっそく「たとえ」の本文に耳を傾けましょう。
Ⅱ 種を蒔く人が種蒔きに出て行った
マルコ福音書4:3-7――
3 「よく聞きなさい。種を蒔く人が種蒔きに出て行った。4 蒔いている間に、①ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。5 ②ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。6 しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。
7 ③ほかの種は茨の中に落ちた。すると茨が伸びて覆いふさいだので、実を結ばなかった。」
整理すれば、①「ある種」は「道端に」、②「ほかの種」は「石だらけで土の少ない所に」、そして③「ほかの種」は「茨の中に」、それぞれ「落ちた」ということです。①「ある種」、②「ほかの種」、そして③「ほかの種」、すべて一粒ずつです。
あまり実際の農業に結びつけないように、と言った理由がもうお分かりでしょう。いくら実証しようとしても、このような「種蒔き」の仕方は普通ではありません。ここで付け加えますが、「種を蒔く人のたとえ」は、主イエスにさかのぼる真正なものだと言われています。裏を返せば、このたとえには、主イエスによって独特のアレンジが施されているということになります。
では、①~③の例示によって、主イエスは何を言わんとしているのでしょうか。
①「道端に」
……御言葉を聞いても悟らずに、それを捨ててしまう人 マタイ13:19
②「石だらけで土の少ない所に」
……しばらくは続いても、困難や迫害に遭うとつまずいてしまう人 マルコ4:17
……この世の思い煩いや誘惑によって実を結ぶに至らない人 マルコ4:19
これは冷静に考えると、種の蒔かれた土地の問題であると同時に、その後の種・芽・葉・実など育成・育て方の問題であると言えましょう。つまり、御言葉を植え付けられた人自身の問題であると同時に、いかに御言葉と格闘(学び・反復・助言・説き明かし〔使徒8:34-35〕など)するかという問題であります。
次の点に注意しましょう。④の「良い土地に」と合わせて、「あなたは①~④のどれに当てはまりますか」と問われて内省すること自体は良いことです。①から③には、途中で放棄してしまうことなど、それなりのリアリティがあります。しかし、そこで終わるならば、このたとえは、四種類の「人間論」を物語っているというだけの話になります。
大切なことは、「たとえ」の中の①~④の細目によって自らを省みつつ、「神の国の秘密が打ち明けられる」(受動態! マルコ4:11)に至るということです。そこに、「種を蒔く人のたとえ」の核心があります。
これと並行する形で、「放蕩息子のたとえ」(ルカ15:11-32)がわたしたちを正しい信仰へと導きます。すなわち、弟・息子は「高い勉強代」を払って、ついに、「ここをたち、父のところに行って言おう。『「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました』」(同上15:18)というように決心しました。
言い換えれば、「神の秘められた計画」のもとに、ひとりの人間が我が身の程を知ったということです。これは、①・②・③の「種の蒔かれた土地」を巡った放浪の旅でありました。
しかし、放蕩息子の内省以上に大切なことは、父のもとへの帰還でありました……「ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した」(ルカ15:20)。
この父親との出会いによって、息子の内省は真の悔い改めになったのではないでしょうか。父なる神との出会い、神への信仰、これがまさに、「取り消されることのない救いに通じる悔い改めを生じさせた」(Ⅰコリント7:10)のであります。
さて、主イエス・キリストなる「種を蒔く人のたとえ」の結びを読む前に、旧約をひもといてみましょう。エレミヤは、神が聖別し立てた「諸国民の預言者」です(エレミヤ書1:5)。神はエレミヤに「わたしの言葉を授け」られました(同上1:9)。従って、彼は「種を蒔く人」のプロフェッショナル(職業専門家)です。エレミヤの信仰が凝縮された名言を紹介しましょう。
Ⅲ 茨の中に種を蒔くな
エレミヤ書4:3――
向かって、こう言われる。
Ⅱ.で種の蒔き方の例③として「ほかの種は茨の中に落ちた」と述べられていました。そしてそれは、「この世の思い煩いや誘惑によって実を結ぶに至らない人」(マルコ4:19)を指し示しているとのことでした。
ではエレミヤは、「茨の中に種を蒔くな」との勧告によって何を言おうとしているのでしょうか。「落ちる」前に、上のような無残な結果に至る前に、「蒔くな」と禁止している理由は、なぜなのでしょう。無残な結果を見越しているから……それはそうなのですが……
エレミヤ独自の理由は、すぐ見つけられます。すなわち、「あなたたちの耕作地を開拓せよ」、これを第一の勧告とするということです。しっかりと耕された所を造り、そこに種を蒔くのです。だから、決して「茨の中に種を蒔いて」はなりません。
ここで問題は、これは「ユダの人、エルサレムの人に向かって」語られた「たとえ」であるということです。この「たとえ」を用いた勧告の真意を「説明する」必要があります(マルコ4:34)。
こういう場合には、直近のエレミヤ自身の言葉をよく把握して、「説明する」のが正当です。そこで、すぐ後の節を掲げましょう。
エレミヤ書4:4――
割礼を受けて主のものとなり
さもなければ、あなたたちの悪行のゆえに
わたしの怒りは火のように発して燃え広がり
消す者はないであろう。」
内容的に、エレミヤ書4章の3節 勧告から4節 警告(特に さもなければ 以下)へという流れになっています(C.ヴェスターマン)。この二節は、前後の章句を総括しています。
そこで気づかされるのは、「あなたたちの耕作地を開拓せよ」は、「あなたたちの心の包皮を取り去れ」という言葉への比喩・たとえであったということです。
すなわち、「あなたたちの耕作地を開拓せよ」とは、或る農業公社のスローガンなどではなく、信仰的に刷新されよ、との励ましなのであります。従って、「茨の中に種を蒔くな」とは、律法上の「割礼」(すなわち男子の包皮を取ること 創世記17:10-12)に固執するな、神信仰をないがしろにするな、と命じているものなのです。
「あなたたちの心の包皮を取り去れ」もまた、「種を蒔く人」エレミヤの名言でありました。使徒パウロはそれを下敷きにして、「内面がユダヤ人である者こそユダヤ人であり、文字ではなく“霊”によって心に施された割礼こそ割礼なのです。その誉れは人からではなく、神から来るのです」(ローマ2:29)と述べています。
エレミヤは、民衆に広くアピールする力を持つ「あなたたちの耕作地を開拓せよ」との勧告によって、一人ひとりを真の悔い改めによる“霊”的な新生へと導きました。そのようなエレミヤは確かに神から「言葉を授けられた」人(エレミヤ書1:9)に違いありません。
「茨の中に種を蒔くな」(主イエスのたとえの例③)、そうではなく、「あなたたちが開拓した耕作地に種を蒔け」(主イエスのたとえの例④)ということです。エレミヤの勧告はおよそ600年の時を経て、主イエスによって引き継がれました。
Ⅳ 実を結び、三十倍、六十倍、百倍にもなった
マルコ福音書4:8――
「また、ほかの種は良い土地に落ち、芽生え、育って実を結び、あるものは三十倍、あるものは六十倍、あるものは百倍にもなった。」
種の蒔き方の例④として、「ほかの種は良い土地に落ちた」が出てきました。
①・②・③が「闇」で、④に「光」が出てくるような語りは、「民話風」です。少年サムエルへの神のよびかけ(サムエル記上3:1-10)や三度否んだ後の弟子ペトロと主イエスとの出会い(ヨハネ18:15-27、21:15-19)などは、「民話風」の語りとも相俟って、わたしたちの脳裏から離れません。
また、①「ある種」、②「ほかの種」、そして③「ほかの種」、すべて一粒ずつ(単数形)でしたが、「ほかの種は良い土地に落ちた」という④「ほかの種」は複数形(英語 some seeds)になっています。たとえのクライマックスで、その言葉遣いからも「豊作」が内示されています。
さらに、「育って実を結び……あるものは百倍にもなった」の文を直訳すると、「(ほかの種は)増し加えられ実を結ぶ、三十倍に、六十倍に、百倍に」となります。つまり、複数の「ほかの種」がさらに増加して実を結ぶという「豊作」が継続していくと述べられています。
なぜ、最後にこんなどんでん返しが起こるのでしょうか? わたしたちは、①・②・③の現実的な不毛と過酷の果てに、④で一挙に「神の国」が到来したような結末に驚かされます。そこで、わたしたち・教会員が④の「ほかの種」になり、教会を「良い土地」にしようと、焦ってはなりません。それでは、始めに「種を蒔く人」(マルコ4:3)が登場し、終わりに「神の国」の到来が恵み豊かに描かれている、「たとえ」を理解し損ねることになります。
理解の鍵は、「神の国の秘密が打ち明けられる」(受動態! マルコ4:11)ということにあります。それは、わたしたちが、「たとえ」の中の「種を蒔く人」(同上4:3)が主イエス・キリストであると、「教えられる」(同上4:2)ことです。そのように信じることです。重箱の隅をつつくように、「たとえ」中の不合理な点(種の蒔き方など)にツッコミを入れるは止めましょう。
ガリラヤ湖畔での伝道において、主イエスはさまざまな無駄と失敗などの困難を乗り越えられました。「おびただしい群衆」、一人ひとりと向き合って、信仰を授けられました。主イエスは、「たとえ」中の①・②・③に例示されているような、不毛な土地をも行き巡られました。それは決して無駄なことではなかったのです。
Ⅴ 聞く耳のある者は聞きなさい
マルコ福音書4:9――
そして(イエスは)、「聞く耳のある者は聞きなさい」と言われた。
この「たとえ」は、わたしたちの心に思い浮かびもしなかった「豊作」で結ばれています。複数の「ほかの種」がさらに増加して実を結び、それが継続していくということです。従って、「聞く耳のある者」は「聞くこと」を持続していかなければなりません。そうしないと、神の恵みの豊かさ、神の寛大さを十分に汲み取ることができなくなります。
人生の中で、①「道端に」、②「石だらけで土の少ない所に」、③「茨の中に」遭遇することもあるでしょう。孤独を泣き悲しんだり、都会「砂漠」の中でもがき苦しんだりしているとき、誘惑の声に誘われそうになります。その声を断ち切っても断ち切っても、心に虚しさが押し寄せてきます。
そのような時にこそ、「種を蒔く人のたとえ」の①・②・③の箇所を謙虚に黙想しましょう。荒れ地を行き巡られる主イエスがあなたのそばにおられます。「そういう人ならば、イエスの十字架やその復活に直面しても、茫然自失してこれに対することはないであろう」(E. シュヴァイツァー)との指摘は、言い得て妙であります。
「聞く耳のある者は聞きなさい」……聖霊なる神が、この「たとえ」のすべてを、その中心を教えてくださるのを静かに待ちましょう。
W
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〈説教の要約〉
2024年 4月28日
復活節 第5主日
旧約聖書 詩編142編 1節~8節(P.982)
新約聖書 ヘブライ人への手紙 5章7節(P.406)
説 教「わたしは主に向かって声をあげる」 小河信一牧師
説教の構成――
序
Ⅲ あなたはわたしの避けどころ ……詩編142:6
Ⅳ 主に従う人々がわたしを冠としますように ……詩編142:7-8
Ⅴ 激しい叫び声をあげ、涙を流しながら ……ヘブライ5:7
序
本日は旧約から、ダビデ(詩編142:1 表題と関連箇所)、エリヤ(列王記上19章)、そして詩編詩人(詩編142:2-8 本文)の「洞穴」体験と祈りを取り上げます。最後に新約から、主イエスの祈りを読みます。
まず、詩編142編の特徴を要約してみましょう。
ひたすら自分の悩みや苦しみを神に訴えています。しかし、敵対者や迫害者へ恨みつらみをまくし立てているのではありません。「罪」という言葉は出てきませんが、自分自身またはその境遇を内省しています。深い嘆きの淵にありながらも、神による救出を待ち望んでいます。
独特な人生経験を背景とする個性的な詩であると言えましょう。わたしたちには思いも寄らない祈りである、それだからこそ、この詩編の言葉は新鮮なものとして心に染み込んでくるのではないでしょうか。
Ⅰ 声をあげ、主に向かって叫べ
詩編142:1-3――
「ダビデが洞穴にいたとき」との表題には興味がそそられます。というのも、多くの人は心理的に、「洞穴」に投げ込まれたり、「洞穴」から抜け出せなくっているような経験を持っているからです。夢で「穴」への落下体験をした人もいることでしょう。実際には現代社会においては、危険な「洞穴」は大概封鎖されています。しかし、「昭和の少年」なら、今はもう時効の、防空壕の冒険話を聞かせてくれるかも知れません。
いやむしろ、聖書の「洞窟」体験が衝撃的過ぎて、頭から離れないという方もおられるのではないでしょうか。この表題の通り、サウルのもとから逃亡している時、ダビデは「アドラム」(サムエル記上22:1)や「エン・ゲディ」(死海沿岸 サムエル記上24:3-4)で「洞窟」に隠れました。西はペリシテ地方から東は死海沿岸まで、ダビデは荒れ野をさ迷っていました。殺意をもった人間の目をくらますため、「洞窟」の暗闇に入るのは恐怖以外の何ものでもなかったことでしょう。
さらに聖書中、極めつけの「穴」落下と言えば、ヤコブの子ヨセフの物語が挙げられるに違いありません(創世記37:12-36)。それが悲惨なのは、血を分けた兄弟たちが、「穴」に投げ込んだということです。
或る日、父ヤコブは、息子たちや羊の群れの安否を知るために、ヨセフを送り出しました。それからヨセフは、「ドタン」(創世記37:17)で兄たちの一行を見つけました。その途端、兄たちは何を血迷ったか、日頃のねたみに駆られて、弟ヨセフを「穴」の中に放り入れました。
それは、ヨセフの人生を大転換させる出来事でした。幸いにも、ヨセフはミディアン人の商人によって「穴」から引き上げられました(創世記37:28)。ヨセフは父や兄たちと生き別れになりました。しかし、神の御手が働いて、ヨセフはエジプトの役人の家に召し入れられることになりました(創世記39:1)。
わたしたちは聖書によって、いろいろな人の「洞穴」体験を振り返ることができます。そこで、「声をあげ、主に向かって叫べ」との命令に耳を傾けると、その重みが存分に味わえるでしょう。
「声をあげ」は原文に即せば、「わたしの声で」となります。逃亡している人は孤独です。寄り頼めるのは、「わたしの声」しかありません。だから、「わたしの声」が2回繰り返されています。「洞穴」の奥から、「穴」の底から、気持ちが折れそうになりながらも、詩人は「わたしの声で」叫び続けました。
もはやもがいても誰も助けに来ない、とわたしたちは思います。しかし、詩人は「主に向かって」(これも2回)声をあげています。これこそ、祈りです。神が聞き届けてくださる、あるいは、神がそばにいてくださる、と信じて祈っています。
その信仰の姿勢には確固たるものがあります。というのも、「御前にわたしの悩みを注ぎ出し 御前にわたしの苦しみを訴えよう」と、神の御前にあることが言明されているからです。
実は、神の人エリヤ(列王記上17:18)もまた、命からがら、「洞穴」に逃げ込んだ経験がありました。エリヤの場合、思いがけない所にあった「洞穴」(同上19:9)に、神の御手の働きがありました。
北イスラエル王国で預言者活動していたエリヤは、王妃イゼベルに「命をとる」と恫喝されて、ベエル・シェバの南方に逃走しました(列王記上19:1-8)。
列王記上19:8-9――
8 エリヤは起きて(主の天使が用意したパン菓子と水を)食べ、飲んだ。その食べ物に力づけられた彼は、四十日四十夜歩き続け、ついに神の山ホレブに着いた。9 エリヤはそこにあった洞穴に入り、夜を過ごした。見よ、そのとき、主の言葉があった。「エリヤよ、ここで何をしているのか。」
エリヤはあてどなく、荒れ野をさ迷っていました。「ついに神の山ホレブに着いた」のも、「主の天使」の励ましによるものでした。モーセのように「神の山」へ登る気力(出エジプト記24:13-15)はなく、エリヤは「そこにあった洞穴に入り」、倒れ伏しました。
ではでは、「洞穴」のエリヤさん、エリヤさん、「声をあげ、主に向かって叫び」ましょう。その応えは、「見よ、そのとき、主の言葉があった」でありました。旅の疲れで昏睡状態であったためでしょうか、聖書本文には、エリヤが「声をあげ」祈ったとは書かれていません。しかし、「洞穴」にいたエリヤが、神の「御前に」あったことは真実でありました。なぜなら、エリヤの逃亡劇において、神が「神の山ホレブ」に来るように、シナリオを作っていたからです。
「わたしの悩みを注ぎ出し 御前にわたしの苦しみを訴えよう」との詩編詩人の呼びかけに応じるかのように、エリヤはその「洞穴」の中から、死の恐れや職務(預言活動)上の疲れなどを、神に告白しました(列王記上19:10)。主なる神は、「洞穴」にひそんでいる人間の「訴え」を聞き届けられました。そして実際、「主に向かって憐れみを求めよう」との叫びは聞かれ、エリヤに、道を引き返して困難に立ち向かう力が与えられました(同上19:15-17)。
Ⅱ わたしの霊がなえ果てているとき
詩編142:4-5――
そこには罠が仕掛けられています。
5 目を注いで御覧ください。
「洞穴」の奥底体験、つまり、行き詰まった状態の中で、詩人の祈りが続いています。一見、まとまりのない段落のように思われますが、4節の初行に重心を置いて読むと分かりやすいでしょう。「声をあげ、主に向かって叫ぶ」との神への全き信頼によって、闇の中に座している人は神の光に包まれています。
4節の初行前半は、「洞穴」の奥深くに隠れ、「わたしの霊がなえ果てているとき」ということです。闇に封じ込められて、「わたしの霊」が生気を失っている状態です。また、この聖句は、「わたしが息絶えようとするとき」とも訳されます(参照:ヨナ書2:8)。
このままでは、命そのものが衰え果ててしまいそうですが、このような窮地において、信仰告白がなされます……「あなたは わたしがどのような道に行こうとするか ご存じです」(4節の初行後半)。このような真実な信仰に至らしめるために、神は試練のうちに人を「洞穴」に追い込んだのかも知れません。
「あなた(主なる神)はわたしの小道を知っている」というのは、まことに驚くべきことであり感謝なことであります。これは、詩人の実体験と祈りに基づくものでありましょう。神はイスラエルの北の山々から南の荒れ野に至るまで、「洞穴」や「小道」すべてをご存じなのです。
そのような神への信頼に支えられて、詩人は「御前にわたしの悩みを注ぎ出し」ています。神に打ち明けること、また、そのような時を持つことが重要なのだ、と教えられます。思いの丈、泣いていいし、不安になっている自分をさらけ出していいのです。
「そこには罠が仕掛けられています……右に立ってくれる友もなく 逃れ場は失われ 命を助けようとしてくれる人もありません」……これは、「罠」に陥り、死線をさ迷っている人の挽歌になっています。悲しい調べが奏でられています。ただ今、「挽歌」と評したように、神への祈りの品位(美しいヘブライ語の詩!)は保たれています。
「命を助けようとしてくれる人」とは、「わたしの魂に配慮してくれる人」との意味で、牧会的なケアをする人とも言い換えられます。その人は、わたしが苦しんでいる時に「右に立ってくれる友」です。その右側の人は神の祝福をわたしに分かち与えてくれます(詩編109:31、マタイ25:34)。
「洞穴」の奥底にいる詩人に、「わたしの魂に配慮してくださる」神が立ち現れました。わたしたちの救いは、その一点にあります。
Ⅲ あなたはわたしの避けどころ
主よ、あなたに向かって叫び、申します
「個人の嘆きの歌」(A.B.ローズ他)と称されることの多い詩編142編ですが、4節と共に6節は、なだらかな双子山の頂上を成しています。つまり、神への信頼の告白のもとに、「わたしの悩み」や「わたしの苦しみ」は置かれています。神の栄光に満ちた、この山頂から、「命あるものの地」が、ダビデやエリヤが隠れていた小さな「洞穴」までもが見渡せます。
「わたしの霊がなえ果てているとき」、神より「命」の回復が指し示されました。「あなたはわたしの避けどころ」……そうして、ダビデやエリヤは、自分のそばに臨在しておられる主なる神が、「避けどころ」であると知りました。神のささやく声を聞き、エリヤは「出て来て、洞穴の入り口に立ちました」(列王記上19:12-13)。
詩人は、「あなたはわたしの分」であると告白しています。「わたしの分」は、神御自身です。言い換えれば、信仰によって神に結びついているかぎり、「わたしの分」は朽ちることなく(詩編73:26)、増し加えられていきます。
聖書的な意味では、「分」は、一部分の「分」ではありません。そうではなく、神から与えられた「分け前」です。十二分な「分」です!
それは、その人が「命あるものの地で」生きていくための、豊かな「分け前」であり、恵みであります。それ故に、自分の授かった「分け前」はその名称の通り、隣人に分け与えるべきものです。
主なる神を「わたしの分」とする詩人と隣人たちとのつながりは、最終段落に美しく描き出されています。
Ⅳ 主に従う人々がわたしを冠としますように
詩編142:7-8――
彼らはわたしよりも強いのです。
あなたの御名に感謝することができますように。
あなたがわたしに報いてくださいますように。
この詩編の冒頭と同様に、詩人は「わたしの叫びに耳を傾けてください」と、神に祈り求めています。「わたしの声」(詩編142:2)が「わたしの叫び」となって強められています。そして何よりも際立たされているのは、救い主なる神です。この父なる神こそが、わたしたちを死と罪の縄目から解放するために、御子イエス・キリストをこの世に遣わされました。
またこの詩編では、「あなたはわたしの避けどころ」ならびに「あなたはわたしの分」であるとの告白文が表されました(詩編142:4,6)。ところが、ここでは躍動する神が叙述されています。すなわち、そのお方は、「迫害する者から助け出す」神であり、「わたしの魂を枷から引き出す」神であります。
救い主なる神に祈り求める「わたしは甚だしく卑しめられています」とあります。この句は、「わたしは甚だしく弱められている」と意訳できます。そうだとすれば、詩人は「わたし(主)の恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」(Ⅱコリント12:9)というキリストの恵みと力を注がれるのに、ふさわしい人ということになります。
さらに言えば、この人の側で、十字架のへりくだりによって、わたしたちの兄弟となり、わたしたちを死と罪から助け出してくださった主イエス・キリストを信じる用意がなされていると言えましょう。「洞穴」で、自分の弱さや貧しさに直面させられたことは、無駄ではなかったのです。
「主に従う人々がわたしを冠としますように」……表現・内容共に美しい詩です。情景を思い描いてみましょう。神への信頼に満ちた、なだらかな山を下って来た人が、地の平和にたどり着くという情景です。かぐわしい油が、ヘルモンにおく露のように、「命あるものの地」に滴り落ちます(参照:詩編133:2-3)。
「主に従う人々がわたしを冠としますように」……救い主なる神の御業にあずかるとき、「わたし」なる詩人は、「主に従う人々」に囲まれます。「わたし」を花飾りの「冠」として戴くように、「主に従う人々」が集まります。別言すれば、帰って来た「わたし」なる放蕩息子のために、家族や近所の人々が盛大な祝宴を開いている様子(ルカ15:11-32)になぞらえられるでしょう。
「わたし」もまた「主に従う人」の一人として、周りの人々と、愛と喜びをもって交わります。これこそまさに、「声をあげ、主に向かって憐れみを求める」詩人、孤独なさすらい人が待ち望んでいる将来です。
Ⅴ 激しい叫び声をあげ、涙を流しながら
キリストは、肉において生きておられたとき、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげ、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました。
最初に、ヘブライ人への手紙の著者が述べている「キリスト」の「祈り」の特徴を捉えることにしましょう。
すぐに目に入るのは、「激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方に」というくだりです。すなわち、キリストはまっすぐに父なる神に祈りをささげられたということです。詩編の祈りに沿って、「声をあげ、主に向かって叫ばれ」ました。
キリストはゲツセマネで、「汗が血の滴るように」流れ落ちる、苦しみの中で祈られました(ルカ22:44)。その時、「御心に適うことが行われますように」と言われて(マルコ14:36)、全能者なる神に寄り頼まれました。そのことは、「わが神、わが神」(マタイ27:46)と、「激しい叫び声をあげた」、十字架の究極の苦難においても、全くぶれることはありませんでした。
そして、キリストは、「肉において生きておられた」との句に示されているように、わたしたち人間の弱さや貧しさを背負っておられました。キリストはそれらを、「わたしの悩み」または「わたしの苦しみ」と受け止められました。そうしてキリストは人間に代わって、父なる神に「祈りと願いとをささげ」られました。
キリストは信じる者を「死から救う」……父なる神は御子、イエス・キリストをこの世に遣わすことによって、その救いの御業を成し遂げられました。そうして、死と罪から助け出された者は、御霊を注がれて、「命あるものの地」で生きはじめました。
時に信仰者は、この世でダビデやエリヤのように、「洞穴」に追い込まれたり隠れたりすることがあります。しかし、霊はなえ果てているときにも、主なる神はわたしたち一人ひとりの「小道」を知っておられます。神は暗闇の「洞穴」の中での、祈りと讃美に耳を傾けておられます。
「さあ、立って出ておいで」(雅歌2:10,13)……「洞穴」から出て、神の整えられた道を進んでいきましょう。そうして、わたしたち皆で、天の御国を目指して歩んで行きましょう。 W
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月報4月号
説教 『 わたしに従いなさい 』
マルコによる福音書 2章13節~17節 小河信一 牧師
説教の構成――
序
Ⅰ イエスは、再び湖のほとりに出て行かれた ……マルコ2:13
Ⅲ イエスは罪人や徴税人と一緒に食事をされた ……マルコ2:15-16
Ⅳ わたしが来たのは、罪人を招くためである ……マルコ2:17
結 ……詩編79:9
序
主イエスによって、ガリラヤ湖畔での伝道が行われています。それは、ただ順調に進んでいったというわけではありません。
具体的には、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(マルコ1:15)との主イエスの呼びかけに耳を傾けた人もあり、そうでなかった人もいたことでしょう。また、病気の癒やしや悪霊祓い(同上1:34)に熱狂した人も、その効力に疑惑の目を向けた人もいたことでしょう。
こういう状況において、人間的な知恵では、反響の大きいところや皆の受けの良いところを狙っていこうとなりがちです。しかし、主イエスはひたすら父なる神に御心に添って、困難に向き合って伝道されました。目先の成果に思い悩むことはありませんでした。時に、おびただしい群衆から離れ去って、湖畔や山辺で祈られることもありました(マルコ1:35、3:7、6:46)。
では、人を分け隔てしない、伝道という観点から、次のような人に、主イエスはどのように接せられたのでしょう?
自分の仕事場を持っていて、金持ちそうな人(ルカ19:2)、しかも今、どっしりと自分の椅子に座って仕事に励み、なおかつ、人の出入りを警戒している人……このような人に対して、わたしたちは「語りかけにくいな。出直して来よう」と思ったりしないでしょうか。
アーメン、主イエスは人を分け隔てなさらないお方でした(ローマ2:11)。徴税人のレビやザアカイをしっかりと見つめて、ご自身の方から声をかけられました。その上、彼らの家を訪ねられました(マルコ2:14-15、ルカ19:5)。その姿勢は、ガリラヤ湖のほとりでも、エリコの町でも一貫していました。主イエスは歩きながら、ごく自然に伝道されました。
主イエスご自身が、「御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい」(Ⅱテモテ4:2)との勧めを実践されました。初期のガリラヤ伝道から、その一幕を垣間見てみましょう。
Ⅰ イエスは、再び湖のほとりに出て行かれた
マルコ福音書2:13――
イエスは、再び湖のほとりに出て行かれた。群衆が皆そばに集まって来たので、イエスは教えられた。
主イエスはガリラヤ湖畔を歩いておられます。遠くの山々まで見渡せる、円い湖の一端で、主イエスは何を考えておられたのでしょう。湖水のさざ波のように、「神の国」の福音が広がってゆくことを願っておられたのでしょうか。
「湖のほとり」の場面がわたしたちの心に印象づけられています。その光景とは――
「イエスは、再び湖のほとりに出て行かれた」⇒「群衆が皆そばに集まって来た」⇒「イエスは教えられた」……ここには、主イエスと群衆との間に、平和な循環があることは見て取れます。福音を宣べ伝えておられる主イエスと、それを聞くために集まっている群衆との光景が、「再び」という繰り返しの中に映し出されています。
一方、主イエスは恵みと平和を祈りつつ、幾度も湖畔を巡っておられたことでしょう。他方、群衆は、見慣れつつある主イエスの御姿と反復される御言葉を通して、「主イエスがどのようなお方であるか」(マルコ8:27,29)を知るようになったことでしょう。もちろん、その人々の受け止め・理解は、御言葉の力が一人ひとりの心身に注がれることに拠るものです。その人が心を開いて、聖霊の宿った御言葉を聞くかどうかに掛かっています。
その実例が、「アルファイの子レビ」によって示されます。
Ⅱ レビは立ち上がってイエスに従った
そして通りがかりに、アルファイの子レビが収税所に座っているのを見かけて、「わたしに従いなさい」と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。
ここに、いわゆる取っつきにくい人がいました。彼は仕事熱心な金持ちで、町の人々からは嫌われていました。
レビは自分の町またはその領内で、物品や通貨の流通を監視する立場にありました。当時、ガリラヤ地方もローマ帝国の支配下に置かれていましたから、ユダヤ人レビの態度には微妙なものがありました。すなわち、ローマ人にはこびへつらいながら、自分の職を守るのを第一に、税を納める地元民には、飴と鞭を使い分けるということです。
そうすると、その日の気分や隠れてもらう賄賂などによって、収税人としての「正しさ」がゆがめられてしまいます。当時、親の代からその職業を受け継いだとしたならば、自分のゆがみや悪い習癖にすら気がついていないこともあり得ましょう。憐れむべき人であるに違いありません。
「そして通りがかりに」、なんの躊躇もなく自然に、主イエスは路傍の人に語りかけられました……「わたしに従いなさい」。それは、漁師のペトロやアンデレに呼びかけたのと、同様のものでありました(マルコ1:17)。それは、狭まりがちだったレビの心を解き放つものでありました。
普通に考えるならば、レビは「収税所に座って」仕事をしていました。税務など「計算をしている最中」の人に声かけするのは憚られます。しかし、主イエスは、「湖で網を打っている」ペトロたち(マルコ1:16)に呼びかけられたように、最善の時にレビを召し出されました。
「わたしに従いなさい」との御声は、人間にとっさの決断を迫ります。人間が用意できているかどうかは問題ではありません。レビは自分の仕事をうっちゃって、新たな使命に転じました。そのことを証しするかのように、「彼は立ち上がってイエスに従いました」。
レビは主イエスの御声の力によって目覚めさせられました。「徴税人」レビは良くも悪くも、町で影響力を持つ人でありました。彼がイエスに従ったとのうわさも、ガリラヤ湖畔を駆け巡ったことでありましょう。レビを取り巻いた福音の波は、すぐ後に起こる出来事にも及んでいきました。
Ⅲ イエスは罪人や徴税人と一緒に食事をされた
マルコ福音書2:15-16――
15 イエスがレビの家で食事の席に着いておられたときのことである。多くの徴税人や罪人もイエスや弟子たちと同席していた。実に大勢の人がいて、イエスに従っていたのである。16 ファリサイ派の律法学者は、イエスが罪人や徴税人と一緒に食事をされるのを見て、弟子たちに、「どうして彼は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言った。
主イエスは「レビの家」を訪ねられました。この時、レビは自分の「家」と「食事の席」を提供し、背後に退きました。おそらく、客人の足を洗って迎え入れ、「仕える人」(Ⅰコリント3:5)に徹したということでありましょう。
徴税人「レビの家」は主イエス・キリストの行いと言葉によって清められました。それは、これからいつも、主イエスが聖霊を通して、「レビの家」に宿っておられるということです。主イエスというお方が「レビの家」の「隅の親石」になられました(マルコ12:10)。実際、この家の「食事の席」で、主イエスの宣教の原点となるような御言葉が披露されました。
「多くの徴税人や罪人もイエスや弟子たちと同席していた」……主イエスによる「徴税人」レビの召命が効果的に波及しています。一人の「徴税人」から「多くの徴税人」へ、神が計画を立てておられるとは、まさにこういうことなのでしょう。
本文には叙述されていませんが、主イエスが中心に座っておられる「食事の席」の場面について、次のように想像されます。すなわち、主イエスは「パンと魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて、レビはじめ仕える者たちに渡しては配らせ、魚も皆に分配された」(参照:マルコ6:41)ということです。「天を仰いで賛美の祈りを唱える」、つまり、神が聖別された「命のパン」(ヨハネ6:35)が祝福のうちに分け与えられたということが、何より重要です。
そしてこのような「食事の席」に、「多くの徴税人や罪人」が招かれていました。「貧しい人々は、幸いである、神の国はあなたがたのものである。今飢えている人々は、幸いである、あなたがたは満たされる」との平地での説教(ルカ6:17,20-21)通りのことが今、起こっています。主イエスは「レビの家」の中で、その御言葉を実現させました。
わたしたちもまた、聖餐式により、神の祝福に満ちた聖なる食事にあずかっています。そこに座っているのは、単なる「罪人」ではありません。そうではなく、主イエスが招き入れられた「罪人」、主イエスの御言葉を聞き入れた「罪人」です。
そのような「徴税人や罪人」について、「実に大勢の人がいて、イエスに従っていた」と述べられています。「大勢の人」が自分の人生をうっちゃって、主イエスと共に生きる者に変えられました。彼らは主イエスと出会い、主イエスを信じるようになりました。
そこに、「ファリサイ派の律法学者(たち)」が現れます。彼らは、信仰によって大いなる逆転を遂げた「罪人」たちを受け入れることができませんでした。なぜなのでしょうか?
一つは、「主イエスがどのようなお方であるか」が分かっていなかったから。
イエス・キリストを救いの御子、あるいは、罪を贖うお方であると信じていなかったということです。
もう一つは、「徴税人や罪人」を祭儀的に「汚れた者」として捉えていたから。
「ファリサイ派」や「サドカイ派」(マルコ12:18)の人々によれば、自分たちのふさわしいと考える時と場所において、「罪人」は、清められなければなりませんでした(レビ記11章-17章)。自分たちは権威をもって律法を厳守し、清めの手続きを執り行うと考えていました。
付け加えれば、「ファリサイ派」や「サドカイ派」の人々は根本的には、罪人を清め、病人を癒やすのは、主なる神の御業であると信じていました(出エジプト記15:26、エゼキエル書36:33)。そこで、律法に沿って、清めや癒やしの儀式をつかさどり、清められたことや癒やされたことを宣言するというのが祭司の務めでありました(参照:2023年9月24日の説教 マルコ1:40-45)。
ともかくも、清めと癒やしの御業をなす主なる神と、主イエス・キリストとが、「ファリサイ派」や「サドカイ派」にとっては結び付かなかったのであります。というのも彼らは、主イエスの「父なる神がわたしを遣わしたのだ」(ルカ4:18)との言葉に耳を塞いでいたからです。その上、彼らは律法の権威者としての立場、あるいは、儀式の献げ物・受け取り機会が失われるのを危惧していたのかも知れません。
一方、ファリサイ派の律法学者は、弟子たちに向かって不平をつぶやきました。この敵対者は自分の本心を隠していました(マルコ3:6)。他方、主イエスは敵対者を含め「食事の席」の一同に答えられました。
Ⅳ わたしが来たのは、罪人を招くためである
マルコ福音書2:17――
イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」
主イエスが愛と知恵に満ちた言葉を発せられました。わたしたちは聖霊に導かれるように祈り、これに耳を傾けなければなりません。
主イエスの発言には、諺ふうの二つの句が用いられています。次のように書き改めれば、二つの句の並行性は一目瞭然でしょう。
「医者なるわたしが来たのは、丈夫な人を診るためではなく、病人を診るためである。」
⇑ 常識 《メッセージ上の落差》 ⇓ 人の心に思い浮かびもしなかったこと
*《落差》をつくり出して、はっと!させる論法
「メシアなるわたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」
問題は、この二つの句のつながりと、それぞれの内容です。ポイントは二つに絞られます。
・一つ目の常識的な内容を持つ句を前置することにより、驚きの内容を持つ二番目の句へと滑らかに導入する。
・そうして、聞き手を、世の中の常識から福音の世界へとジャンプさせる。
主イエスの巧みな説教こそが、「罪人」をジャンプさせる原動力になっています。それは、聖書的に言えば、わたしたちは聖霊の導きによって、「罪人を招く」イエス・キリストを信じるということです。
ここには、徴税人レビの事例の通り、この人は「悔い改め」そうな善い人だから、「招こう」というような予見は一切ありません(比較:ルカ5:24)。このテキストが語る出来事において、どこに比重が掛かっているか、もうお分かりでしょう。
主イエスによって食事の場〈聖餐〉が設けられ、「大勢の人」が招き入れられた、そこで、人々が主イエスに出会った、そして、主イエスの御言葉〈説教〉を聞いて、「多くの徴税人や罪人」が主イエスを信じたということです。不足も余分もありません。これが、主イエスの伝道であり礼拝です。
主イエスはガリラヤ湖畔の伝道においてすでに、将来の教会設立を見通しておられたということも分かります。主イエスはガリラヤ湖の南方を、山々の向こうのエルサレムを望み見ておられたのではないでしょうか。「神の神殿」(歴代誌上29:2)の立つ都で、主イエスは十字架につけられて死を遂げ、三日後によみがえられます。そうして、50日後、天下のあらゆる国からの帰還者が見ている中で、「神の教会」(使徒20:23)が建てられます(同上2:1,5)。
そこに、大勢の「ガリラヤの人」も集っていました(使徒2:7)。彼らは、聖霊の降臨を通して、死んでよみがえられたイエス・キリストに出会いました。彼らの中には、ガリラヤで主イエスが弟子たちに告げられた御言葉を伝え聞いていた人もいることでしょう……「人の子は、人々の手に引き渡され、殺される。殺されて三日の後に復活する」(マルコ9:31)。突然、激しい風が吹いて来るように、聖霊が降った日に、「主イエスがどのようなお方であるか」が明らかにされました。
結
ある意味では、主イエスとレビの出会い、ならびに、レビの家での食事は、ガリラヤ伝道の一コマに過ぎません。しかし、主イエスがどこでも、いつでも、大切に心に留めていることがあります。
それが、ご自身の十字架と復活の御業によって、父なる神の栄光を現す(マルコ8:38、使徒3:13)ということでありました。永遠の昔から、御父と御子は、預言者や詩編詩人の口を通して、「あなたの御名」をあがめ(詩編79:9)、その「栄光」をほめ歌うよう(同上66:2)、民を導いてこられました。それに続くわたしたちの讃美は、世の終わりまで、御国に入れられるまで続けられるものであります(ヨハネ黙示録11:13、19:7)。苦しい時にも、主イエスがわたしたちと共におられます(Ⅱヨハネ1:3)ので、御国をめざすわたしたちには慰めと希望があります。
御父と御子は、神の「御名」をあがめ、神の「栄光」をほめ歌うわたしたちに、「罪を赦す」と宣言してくださいました。「わたしが来たのは、罪人を招くためである」との主イエスの御言葉が聞こえたと同時に、「わたしたちの罪」は赦されました。
わたしたちには、無償の恵みにほかならない、赦しによって、神とわたしたちとの交わりが築かれています。いつでも、立ち上がって、主イエスに従えるように、詩編詩人と共に祈りましょう。
わたしたちの救いの神よ、わたしたちを助けて
御名のために、わたしたちを救い出し
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
〈説教の要約〉
2024年 4月21日
復活節 第4主日
旧約聖書 エレミヤ書 22章18節(P.1217)
新約聖書 マルコによる福音書 3章31~35節(P.66)
説 教「わたしの兄弟、姉妹」 小河信一牧師
説教の構成――
序
Ⅰ ああ、わたしの兄弟、ああ、わたしの姉妹
……エレミヤ書22:18
Ⅲ 見よ、わたしの兄弟が ……マルコ3:33-34
Ⅳ 神の御心を行う人 ……マルコ3:35
結
序
ガリラヤの湖や山を舞台に、主イエスの伝道が進められています。
大きな流れを整理しましょう。主イエスは或る家に入られました。すると、そこに、身内の人たちはイエスのことを聞いて取り押さえに来ました(マルコ3:21)。それから今度は、律法学者たちがエルサレムから下って来ました。そして今回の場面になりますが、イエスの母や兄弟姉妹がその家を訪ねてきました。
そうです(あなたの感じ取られたように)、マルコ福音書記者は、「なんだか、うるさい人々がまとわりついているなぁ」という状況を映し出そうとしています。主イエスを中心に、内側と外側、二つの円を思い描いてみましょう。
その外側の円周上を巡っているのが、身内の人たち、律法学者たち、イエスの母や兄弟姉妹です。彼らは彼らなりの言い分をもって、主イエスから距離をとっています。だから、家の中で伝道しておられる主イエスに近づこうとしません。
マルコ福音書記者が、主イエスの「回り」を描き出すのに長けていることは、本文で説明します。その巧緻な筆遣いをもって、「神の家族」という主題を展開しています。「見よ、兄弟が共に座っている。なんという恵み、なんという喜び」(詩編133:1)……古くて新しい、その主題が、主イエス・キリストを中心に据えることによって捉え直されています。
Ⅰ ああ、わたしの兄弟、ああ、わたしの姉妹
エレミヤ書22:18――
主はこう言われる。
ああ、わたしの姉妹」と言って彼の死を悼み
これは、ユダ王国の終わりから三番目の王、ヨヤキム(在位:前608-598年)が死んで葬られる時についての預言です。バビロンの王ネブカドレツァルからの圧迫が強まる中、ヨヤキムは衰退していく国の舵取りをしなければなりませんでした。
預言者エレミヤは、神礼拝をおろそかにしているヨヤキムに鋭い批判を向けました。ヨヤキムの不信仰は民衆への横暴に及んでいました……「あなたの目も心も不当な利益を追い求め 無実の人の血を流し、虐げと圧制を行っている」(エレミヤ書22:17)。
ヨヤキムは父王ヨシヤの信仰深さも、質素な生活も受け継ぐことがありませんでした(エレミヤ書22:15)。その上、エジプトのファラオから威圧され、ヨヤキムは国に重税を課し、民から厳しく税を取り立てました(列王記下23:35)。
神に背き、民から嫌われました。自業自得とは言え、ヨヤキムは哀れな最期を迎えます。
「ああ、わたしの兄弟 ああ、わたしの姉妹」というのは、愛していた者が死んだ際の嘆きです。魂からの慟哭です。しかし、ヨヤキムの葬儀では、そのような嘆きの声は聞かれません。
ユダ王国の歴代の王の中で、ヨヤキムは最も評価が低いと言えます。エレミヤはその王の葬儀を例示して何を訴えているのでしょうか?
それは、ヨヤキムが神の御心に適わなかった、反逆者であったと共に、人々との交わりにおいて思いやりの全く無い人であったということです。「無実の人の血を流した」、その罪を悔い改めなかったのです。要するに、神の光のもとで、人々と「互いに交わりを持つ」(Ⅰヨハネ1:7)のと、ほど遠い人生を送ることになりました。
その結果、「ああ、主(=ご主人様)よ、ああ陛下よ」と敬われることも、「ああ、わたしの兄弟」と親しまれることもなかったのであります。それが、その人物の最期だったのです。悲惨なことであります。
しかし、これは単に、主の目に悪とされることを行った、冷酷な人物の例外的な逸話ではありません。隣人から、その時、「ああ、わたしの兄弟 ああ、わたしの姉妹」と嘆かれるかどうか、大概は確証など持てません。いや、人生の今を生きることに精一杯なのだから、と言われることでしょう。
エレミヤのヨヤキムへの預言を通して、次のことが明らかにされました。すなわち、礼拝共同体の中で、神の愛に基づいて、「互いに交わりを持つ」ことが大切だということです。
不幸にも、ヨヤキム王は、より権力のある人間(ネブカドレツァルやエジプトのファラオ)に支配され、また、経済的な混乱(民への重税や国家財宝の収奪 歴代誌下36:7)に陥りました。しかし、ヨヤキム王の生きた紀元前七世紀末のみならず、そのような災いは、今日でもわたしたちを見舞うことがあります。
主イエス・キリストは、わたしたちがこの世で生きる困難をご覧になっておられます。主イエスは「世の光」(ヨハネ8:12)として、罪の誘惑の恐ろしさを照らし出してくださいます。それに加えて、主イエスは、兄弟姉妹が「互いに交わりを持つ」家なる教会を建てるようにと導かれました。そこに、血縁を越えた形で、「神の家族」が作られるよう、聖霊による励ましと慰めが注ぎ込まれています。
それでは、「神の家族」という主題について、主イエスがその行いと言葉をもって教えておられる場面を読んでみましょう。
Ⅱ イエスを捜す母と兄弟姉妹
マルコ福音書3:31-32――
31 イエスの母と兄弟たちが来て外に立ち、人をやってイエスを呼ばせた。32 大勢の人が、イエスの周りに座っていた。「御覧なさい。母上と兄弟姉妹がたが外であなたを捜しておられます」と知らされると、
〈外〉(:31,32 2回)と〈イエスの周り〉という二重の円をもって、当時の状況が表されています。反感を抱いている〈外〉側が無理やり、内側に押し迫っています。「外に立っている」人々が、御言葉に耳を傾けている平和な場所、食事をしている可能性のある(マルコ2:15,16)なごやかな家を打ち壊そうとしていました。
イエスの母や兄弟姉妹(例えばイエスの兄弟ヤコブ マタイ13:55)は同じように、〈外〉周上にいた身内の人たちや律法学者たちに感化されていました。すなわち、「あの男は気が変になっている」(マルコ3:21)とのうわさや「あの男はベルゼブルに取りつかれている」(同上3:22)との独断を鵜呑みにしてしまいました。だから、気が変でない自分たちの方が正しいという、負のスパイラル(螺旋)から抜け出せなくなりました。
「人をやってイエスを呼ばせた」……それが当然あるかのように、母や兄弟姉妹はイエスを〈外〉へ引きずり出そうしました。この尊大さは、神の人エリシャ(列王記下5:8)に対する、アラムの軍司令官ナアマンの態度を思い起こさせます。
列王記下5:11――
ナアマンは怒ってそこを去り、こう言った。「彼(エリシャ)が自ら出て来て、わたしの前に立ち、彼の神、主の名を呼び、患部の上で手を動かし、皮膚病をいやしてくれるものと思っていた。」
儀礼的・慣習的には、エリシャは戸を開いて、外に出て、ナアマンを迎えるべきだったかも知れません。しかしその時、問題になっていたのは、どのように神の癒やしの御手にあずかるか、ということでありました。救いを求めているとき、常識にこだわっている人には、神の大いなる御業が見えません。
「外であなた(イエス)を捜しておられます」との言葉には、〈外〉のわたしたちがあなたを正しい位置に据え直すとの意図が隠されています。それはある意味、「捜し」出して、懲らしめるということでありました。〈外〉のわたしたちがあなたの性根を入れかえさせてやる、との意気込みです。
端で、イエスの母や兄弟姉妹の形相を見ていた人は怖かったに違いありません。彼らのことはすぐに主イエスに伝達されました。
Ⅲ 見よ、わたしの兄弟が
マルコ福音書3:33-34――
33 イエスは、「わたしの母、わたしの兄弟とはだれか」と答え、34 周りに座っている人々を見回して言われた。「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。」
神の人エリシャと同様に、主イエスは家の中におられて、〈外〉に出て行くことはありませんでした。ここでは、マルコの巧緻な筆遣いによって、主イエスの「回り」が描き出されています。それによって、主イエスがたとえを用いて語られ、そして食事をされる家の中のたたずまいが伝わって来ます。
「わたしの母、わたしの兄弟とはだれか」……主イエスは「周りに座っている人々」に問いを出されました(他にマルコ2:9、3:4)。それによって、「周り」の人々とのより親しい関係が築かれます。
傍らにいる人々への主イエスの気配りは、「周りに座っている人々を見回して」との動作からも分かります。「彼の〈回りに〉〈まるくなって〉座っている人々を見〈回して〉」というように、「回り」の類語が3回強調されています。さらに、次の32節に「大勢の人が、イエスの〈周り〉に座っていた」と記述されています。もはや、「わたしの母、わたしの兄弟とはだれか」との問いの答えが出されているではありませんか。
主イエス・キリストを中心に、〈まるくなって〉座っている「兄弟姉妹」、その姿にこそ、「わたしの兄弟」と「わたしの姉妹」の出発点があるということです。この光景こそ、主イエスが「見なさい」、心に刻みつけなさい、と言われているものです。
お気づきのように、この主イエスの言葉は、「見よ、兄弟が共に座っている」との詩編(133:1)にさかのぼります。この一節を会堂の礼拝や家での食事の際にユダヤの民は歌ってきました。それによって、苦難をくぐり抜け、血縁を乗り越えて、異邦人を含め、「兄弟姉妹」の集う礼拝共同体を作り上げました。
ユダヤの民は自分たちの王(ヨヤキム)を葬るとき、「ああ、わたしの兄弟 ああ、わたしの姉妹」と言って嘆きえないような辛苦を味わいました。「神と隣人を愛せよ」(申命記6:5、レビ記19:18)との最も重要な教えが揺らがされるような出来事もありました。
罪の闇を引き込まれそうなとき、神は「見よ / 見なさい」(ヘブライ語 ヒネー / ギリシア語 イデ)とわたしたちに呼びかけてくださいます。主イエスと周りに座っている人々……「愛」の形が、「見よ」、ここにあります! 神はこの世の闇が押し迫る中で、御子、イエス・キリストを遣わされました。御子はわたしたちの間に、「見よ、ここに」との言葉をもって愛の交わりを作ってくださいます。
Ⅳ 神の御心を行う人
マルコ福音書3:35 主イエスの言葉――
「神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ。」
最後に主イエスは、「わたしの母、わたしの兄弟とはだれか」との問いに自ら答えられます。その答えの力点は、「だれか」ということよりも、むしろ、「わたしの母、わたしの兄弟」はどのようなことを「行う」のか、という点に置かれています。
「神の御心を行う人」は「だれでも」、「わたしの兄弟」となり得るということです。ここで間違えてはならないのは、「神の御心を行う」ことが、主イエスに「わたしの兄弟」として認められる条件では決してない、ということです。
今まさに主イエスは、車座になっている一同に向かって、「見よ、兄弟が共に座っている」と告げておられます。すでに述べた通り、「見よ」は単に「見てください」という意味ではありません。神の愛の力において、個性や生活の相異なる兄弟姉妹が一つになっているのを、「見よ」と言っているのです。
言い換えれば、通常わたしたちの見いだし難い神の臨在が、一つの家の場で現出しているのを「見よ」と命じているのです。主イエスが真ん中に座って、神の国について語っておられます。謙遜な家人の供する食事の席で、主イエスはパンを裂き、杯を祝しておられます。その出来事を通して、神の「愛」が現れているということです。
「神の御心を行う」というのは、「わたしの兄弟」となる条件ではなく、神からの招きです。主イエスは、「神の御心を行う」ことに怠慢になる人間の「弱さ」を見抜いておられます。同時に、「自分の計画を成し遂げる」人間の「強さ」をご存じです。
主イエスは今、或る家の〈内〉から、内外に向けて、「神の御心を行う人こそ……」と呼びかけておられます。すべての人間が、その「弱さ」と「強さ」をかなぐり捨てて、家の〈内〉に入って来るよう招いておられます……「だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」(マタイ11:28)。
主イエス・キリストは、「神の御心を行う」はじめのひとでありました。実はマルコ福音書において、「神の御心を行う」との表現は、もう一回しか出てきません。
マルコ福音書14:36――
(イエスは)こう言われた。「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」
これが、ゲツセマネの祈りです。「(神の)御心に適うことが行われますように」と、もだえ苦しみながら祈られました。マルコ福音書は、「神の御心を行う人」すべてが、十字架につけられる直前の、この祈りに立ち返らねばならないことを指し示しています。
そのためにまず、「わたしが願うこと」を捨て去らねばなりません。そのために、「この二人(ヤコブとヨハネ)も父ゼベダイを雇い人たちと一緒に舟に残して、イエスの後について行った」(マルコ1:20)と告知されているように、ひとたび肉の思いを断ち切ることです。
そうして一人ひとりが、神の国をめざし、励まし合う「わたしの兄弟、わたしの姉妹」につながれます。そこに、血縁を越えて、「互いに交わりを持つ」家なる教会が建てられます。
まず第一に「神の御心を行う人」に問われているのは、「(神の)御心に適うことが行われますように」と祈られた主イエス・キリストに、すべてゆだねますか、服従しますか、ということです。「自分の計画」や肉親とのつながりを、神にあずけるのです。
主イエス・キリストは「神の御心」に添って、十字架の苦難を耐え忍ばれ、死んで葬られて、よみがえらされました。そこに、「神の御心を行った」はじめのひとの御姿があります。そのお方につき従ってゆくのが、「神の御心を行う人」であります。
結
十二使徒の召集(マルコ3:13-19)に続いて、主イエスのもとに、「わたしの兄弟、わたしの姉妹」が招き入れられました。そこに、神の広い愛があらわされています。コリント教会においても、まず土台を据える人やそれを建てつぐ人などの指導者が立てられ、ついで、神の賜物を生かすよう多くの人々が呼び出されました(Ⅰコリント3:9-10、12:28)。
主イエスは祈りをもって、「(神の)御心に適うことが行われるように」、と立ち向かわれました。それが、「汗が血の滴るように流れ落ちる」切なる祈りでありました(ルカ22:44)。その時、「わたしの兄弟」たるべき、ペトロ、ヤコブ、ヨハネの弟子たちは眠っていました。主イエスの祈りに心を合わせることができなかったのです。十字架につけられる直前に、主イエスはひとり取り残される悲しみを経験されました。
しかし、主イエスは父なる神の「御心に適うこと」を成し遂げられました。十字架上で流された贖いの血によって、「わたしの兄弟、わたしの姉妹」の罪を清められました。主イエスは十字架上から、母マリアの行く末を案じて、彼女に呼びかけられました。そのマリアは、キリストの愛によって「わたしの兄弟」として立ち直った、一人の弟子に引き取られました(ヨハネ19:25-27)。
はじめのひと、主イエス・キリストによって、「神の家族」が基礎づけられました。「神の家族」の集う教会は将来に向かって成長していきます。だから、将来を託すべき子どもたちが、真ん中に立たされるよう招き入れられています(マタイ18:2)。
W
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〈説教の要約〉
2024年 4月14日
旧約聖書 イザヤ書 49章24節~25節(P.1144)
新約聖書 マルコによる福音書 3章13節~30節(P.65)
説 教「イエスと使徒たちの宣教が始まる」 小河信一牧師
説教の構成――
序
Ⅳ 聖霊を冒瀆する罪 ……マルコ3:28-30
序
ガリラヤの湖や山、その美しい風景の中で、主イエスの伝道が進められています。何十年もの間、大事件の起こらなかったような静かな村里に今、霊的な波風が立ちはじめました。充足しているにせよ不満があるにせよ、日々の生活に慣れきってきた群衆は、その霊的な動きに気がついたでしょうか。
主イエスの育ったナザレは、ガリラヤ湖の南西、約20㎞のところにあります。丘の上にあるナザレから海面下のガリラヤ湖畔まで、標高差650mを下って行くことになります。天気のよい日、途中の崖や坂道から眺めると、湖面は鏡のように輝いています。
主イエスは、その多くが平凡な暮らしを送っている民の中に分け入っていかれます。時に家の中で、時に水辺や丘で、まれには湖上から(マルコ4:1-2)と、アクセントをつけながら群衆に語りかけておられます。さらに主イエスは、伝道に節目をつけるかのように、退いて祈りの時を持たれています(同上1:35、3:7)。
そのような巡回伝道の特徴がよく表れている聖書箇所を読んでみましょう。大きなテーマは、主イエス・キリストがどのようなお方であるのか、ということです。主イエスはこのたびも、罪の赦しについて説き明かされました(マルコ1:4、2:5-10、3:28-29)。
Ⅰ 主イエスと十二人の任命
マルコ福音書3:13-19――
13 イエスが山に登って、これと思う人々を呼び寄せられると、彼らはそばに集まって来た。14 そこで、十二人を任命し、使徒と名付けられた。彼らを自分のそばに置くため、また、派遣して宣教させ、15 悪霊を追い出す権能を持たせるためであった。16 こうして十二人を任命された。シモンにはペトロという名を付けられた。17 ゼベダイの子ヤコブとヤコブの兄弟ヨハネ、この二人にはボアネルゲス、すなわち、「雷の子ら」という名を付けられた。18 アンデレ、フィリポ、バルトロマイ、マタイ、トマス、アルファイの子ヤコブ、タダイ、熱心党のシモン、19 それに、イスカリオテのユダ。このユダがイエスを裏切ったのである。
主イエスは「山に登って、これと思う人々を呼び寄せられ」ました。「山に登った」というのは、父なる神との親しい交わりにおいて、聖なる時を持たれたということでありましょう(出エジプト記19:3、申命記34:1)。そこで、「これと思う人々」・十二名を聖別し、「使徒」、すなわち、神に遣わされた者として立たせたのです。
十二の「使徒」の任命によって、新たなスタートが切られました。すでに、漁師のペトロ、アンデレ、ヤコブ、ヨハネ、そして徴税人のレビが、主イエスにつき従う者になっていました。
これによって、態勢が整えられました。そうして、主につき従う人々と共に歩まれるというイエス・キリストの伝道活動がより活発になります。ただ、十二人の中には、「イスカリオテのユダ」が含まれています。彼はやがて、主イエスを「裏切って」、祭司長や律法学者に引き渡します(マルコ14:43-45)。これでは、十二人の「使徒」の結束ばかりではく、行く末が思いやられます。
しかし、主イエスは「使徒」やわたしたちの心配を見越しておられました。
イエスは(弟子たち)一同に言われた。「はっきり言っておく。新しい世界になり、人の子が栄光の座に座るとき、あなたがたも、わたしに従って来たのだから、十二の座に座ってイスラエルの十二部族を治めることになる。」
「人の子が栄光の座に座る」というのは、主イエスは十字架につけられて死を遂げ、よみがえさせられて、天に戻られる時を指しています。何よりも、御子、イエス・キリストの使命はこの世の深い闇の中で、父なる神の栄光を現すことでありました(ヨハネ17:1,4)。だから、十字架の道行きにおいて、「このユダがイエスを裏切る」ことは、父と御子の御計画の確かさを証ししているのです。
このように主イエスは、将来を見据えながら、神に仕えるよう召された人間を用いられました。神が「使徒」一人ひとりに与えられた賜物を、主イエスは最大限に引き出されました。その伝道の中心は、彼ら一同に、「宣教させ、悪霊を追い出す権能を持たせる」ということに置かれました。
「悪霊」は、「あなたは神の子だ」と叫び、善なる者であるかのごとく偽装する、したたかな敵です(マルコ3:11)。「使徒」たちは、その敵を「追い出し」ながら、自らの信仰告白の真偽を省みることになります。苦難を越えて、最後まで、「神の子」に従う僕となれるよう、日々に祈らなければなりません。
さまざまな難に遭ったパウロの事例(Ⅱコリント11:23-28)を持ち出すまでもなく、「使徒」には苦労がつきものです。しかし、彼らが主に召され立たされた原点には、主イエスが「使徒と名付けられた。彼らを自分のそばに置くため」であったという恵みの事実が在りました。
「使徒という名付け」は、主イエス・キリストが彼らの全存在を造り、支え、守ることを表しています。そして、彼らが派遣され孤独を感じるときにも、「使徒」を「自分のそばに置く」と宣言された主イエスが支えておられます。
Ⅱ 主イエスと身内の人たち
マルコ福音書3:20-21――
20 イエスが家に帰られると、群衆がまた集まって来て、一同は食事をする暇もないほどであった。21 身内の人たちはイエスのことを聞いて取り押さえに来た。「あの男は気が変になっている」と言われていたからである。
ガリラヤ伝道の霊的な動きは、時に穏やかに、また時に荒々しく巡ってゆきます。
主イエスは「集まって来る」群衆(マルコ3:8,20)の真ん中にあって、休む暇もありません。そうした状況にありながらも、「おびただしい群衆」の中から一人でも多くの「従う人」(マルコ3:7)がつくり出されるよう努めておられます。民衆と共に座って、「食事をする」機会を持つことができるようにと企図されています。
そうした最中に、水を差すようなことが起こりました。「身内の人たちはイエスのことを聞いて取り押さえに来た」という出来事がそれです。彼らが「身内」の評判を気にしたのか、あるいは、放浪する長男イエスに業を煮やしたのか、正確なところは分かりません。
いずれにせよ、ここに、「神の家族」という主題が浮かび上がって来ました。すなわち、主イエスは徴税人レビなどの「家」での伝道に励んでおられます(マルコ1:29、2:15)。「身内の人たち」の乱入直前に、主イエスが「自分のそばに置くため」(マルコ3:14)に、使徒の一団をつくったのも、真の「神の家族」を提示するためだったのでしょう。
本来ならば、主イエスが「食事をする暇もない」とき、「身内の人たち」がお弁当を差し出して労をねぎらうところであります。しかし、彼らは「あの男は気が変になっている」とのうわさに洗脳されていました。
郷里のナザレとガリラヤ湖とは、約20㎞ 離れています。まずは、そのうわさが正しいかどうか、慎重に見極めるべきでありました。過干渉や先入観などによって行き違いが日常的に起こりやすい、それが「身内」同士の関係ではないでしょうか。
次に、「身内の人たち」のこじれにつけいる人々が現れます。窮地に追いやられた主イエスは、どのように対抗されるのでしょうか。また、主イエスは福音の本筋から逸れてしまいそうなところで、どのように巻き返しを計られるのでしょうか。
わたしたちはまっすぐに福音を語ろうとしているとき、うまく相手から話を逸らされてしまうことがないでしょうか。例えば、主イエスが「①罪の赦しを教える⇒②病気を癒す」(マルコ2:1-12、ルカ5:17)お方であることの全体像を伝えきれないということです。まだその人への宣教の半ばなのに、聖霊からの力の受領不足で、あるいは、相手の無理解に逆ギレして……。神の知恵に満ち、忍耐強い主イエスの様子を見てみましょう。
Ⅲ 主イエスと悪霊の頭
マルコ福音書3:22-27――
22 エルサレムから下って来た律法学者たちも、「あの男はベルゼブルに取りつかれている」と言い、また、「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と言っていた。23 そこで、イエスは彼らを呼び寄せて、たとえを用いて語られた。「どうして、サタンがサタンを追い出せよう。24 国が内輪で争えば、その国は成り立たない。25 家が内輪で争えば、その家は成り立たない。26 同じように、サタンが内輪もめして争えば、立ち行かず、滅びてしまう。27 また、まず強い人を縛り上げなければ、だれも、その人の家に押し入って、家財道具を奪い取ることはできない。まず縛ってから、その家を略奪するものだ。」
「あの男は気が変になっている」(マルコ3:21)との身内のうわさに、律法学者たちは輪をかけるかのように、「あの男はベルゼブルに取りつかれている」と言い放ちました。うわさがうわさを呼ぶとは、まさにこのことです。「ベルゼブル」とは、「悪霊の頭」の名称で、「家の主」という意味です。
律法学者たちはまず、主イエスが気の触れた者であると断定しました。そして、「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と述べました。これが、福音の本筋から遠ざけさせる元となる言葉です。
確かに、十二使徒の使命においては、まず宣教ですが、その次に悪霊追放が来ます。悪霊の働きには留意しなければなりません。しかしここでは、「悪霊の頭」と「悪霊」が、言い換えれば、「サタン」と「サタン」が戦って、「内輪もめして争っている」というだけの話です。根本的な解決において、悪しき者なる「サタン」すべてが追放されるのを待たねばなりません。何より、「内輪もめ」に巻き込まれることに警戒すべきです。
「内輪もめ」と言えば、「めいめい、『わたしはパウロにつく』『わたしはアポロに』『わたしはケファに』『わたしはキリストにつく』などと言い合っている」(Ⅰコリント1:12)のが、その典型です。教会内でも、ねたみや争い(同上3:3)に乗じた「サタン」の介入があれば、「立ち行かず、滅びてしまう」ことが起こり得ます。
ここで主イエスは、教会という神の神殿が、「家の主」なる「ベルゼブル」によって壊されるやも知れないという話を元に戻されます。すなわち、「まず強い人を縛り上げなければ……」と言って、「強い人」を支配している「より強い方」に目を向けさせます。
そのことは、バプテスマのヨハネの、「わたしよりも力のあるかたが、あとからおいでになる」(口語訳 マルコ1:7)との言葉にも表されています。主イエスはしばしば、「内輪もめ」で混乱している「家」に入って来られます(ルカ10:38-42、マルコ1:29-31)。そして主イエスは、「あなたがたに平和があるように」(ヨハネ20:19)と挨拶して、その「家」の中に、「平和」をつくり出されます。
「強い人」の侵入や略奪に対する「より強い方」の勝利はすでに、旧約聖書に預言されています。主なる神はわたしたちを、「瞳のように愛しておられるもの」(詩編17:8、哀歌2:4)として守ってくださいます。
イザヤ書49:24-25――
時代背景が分かると、メッセージの内容がよく理解されます。
ユダヤの民は、バビロニアによる、エルサレムの破壊とユダ王国の滅亡(前587年)という大惨事を経験しました。その後、国の指導者だった人々を中心に、バビロンに連れて行かれました(列王記下25:7)。しかし、諸国が権力闘争を繰り広げる中で、ユダヤの民に郷里への帰還が見えてきました。その上、主なる神への信仰をもって民がつくり直される願う人々の心に、神殿再建の夢がふくらんできました。
要するに、挫折と希望が渦巻いているような状況でありました。まだ泣いている人もいれば、すでに将来に向けて歩み出した人もいます。どちらが正しいとは言えません。賢明な人々は、今しばらく混沌としていると、受けとめていたことでしょう(エレミヤ書4:23)。
そのようなユダヤの民を動き出させたのが、第二イザヤの告げる御言葉でありました。娘シオンの嘆きが神の救いの言葉によって逆転されています。まさに、おとめマリアの聞いた「神にできないことは何一つない」(ルカ1:37)との御言葉の通りでありました。
〈民の問い〉
❶「勇士からとりこを取り返せるであろうか。」
この二つの、疑い深い問いが主なる神に投げかけられました。娘シオンがバビロニア軍の脅威にさらされ、不安になっているのが、よく伝わってきます。
〈神の答え〉
②「とりこが暴君から救い出される。」
主なる神は、娘シオンの嘆きを汲み取って、救いを告知されています。主イエスが「まず強い人を縛り上げなければ」(マルコ3:27)とおっしゃられた背景には、この第二イザヤの預言がありました。すなわち、主イエスは神の預言を受けて、ご自分が「勇士」や「暴君」、すなわち、悪霊やサタンと闘うのだ、と宣言されたのであります。
そうは言っても、悪霊の誘惑や罪のつまずきは、終わりの時に向けて、わたしたちが向き合わなければならない大問題です(マタイ13:39)。他人から批判や嘲笑を浴びて、動揺することもあります(詩編74:22)。
だからこそ、「わたしが、あなたと争う者と争う(であろう)」と、第二イザヤは告げているのです。原文に即して言えば、「あなた(女性形)の争い」を「わたし」なる神が「争う」と、固い約束がなされています。神が立ち上がって、勝利を手にするまで、「争って」くださいます。
ユダヤの民は、エルサレムに帰還し、神殿の再建に取りかかりました。それが、霊的な復興の第一歩だったからです。わたしたちもまた、「内輪もめ」への誘惑を退けて、神の教会を建てつぐよう、主にあって励まし合いましょう。
主イエスは、常に、「①罪の赦しを教える⇒②病気を癒す」との神の福音の原点に立ち返って、人々を導かれます。
Ⅳ 聖霊を冒瀆する罪
マルコ福音書3:28-30――
28 (アーメン)はっきり言っておく。人の子らが犯す罪やどんな冒瀆の言葉も、すべて赦される。29 しかし、聖霊を冒瀆する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う。」 30 イエスがこう言われたのは、「彼は汚れた霊に取りつかれている」と人々が言っていたからである。
十二使徒の派遣、身内の人々や律法学者との対立、そして悪魔の誘惑など、主の栄光を現すための試練は今始まったばかりです。すべてがこれから、という状態です。
「はっきり言っておく。人の子らが犯す罪やどんな冒瀆の言葉も、すべて赦される」……主イエスは「アーメン」との確信をもって、人々に語りかけられました。
わたしたちは、主イエス・キリストの十字架の贖いによって、罪を赦されました。そして、そこで賜った恵みをもって、人の罪を赦します。何度でも赦します……「七回どころか七の七十倍までも赦しなさい」(マタイ18:22)。
わたしたちはその赦しを基盤として、神と人を愛し、「神と人とに愛される」(ルカ2:52)ことを願い求めます。そこに、「神の家族」が形成されます。
一つ重大な忠告が記されています。「聖霊を冒瀆する」ことのないように! なぜなら、「聖霊」は、わたしたちに主イエス・キリストの行いと言葉すべてを教えてくださるお方だからです(ヨハネ14:26)。
キリスト者とは、聖霊が降って来るという洗礼を受けた者です。洗礼によって、その人はつくり変えられました。いまだに古い殻を脱ぎ捨てていないかのように、自分は「聖霊」を知らないと言ってはなりません。
主イエスが「汚れた霊」を追放されます。「聖霊」の豊かな実にあずかりましょう(ガラテヤ5:22-23)。
ガラテヤの信徒への手紙5:25――
わたしたちは、霊の導きに従って生きているなら、霊の導きに従ってまた前進しましょう。
W
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〈説教の要約〉
2024年 4月7日 日本キリスト教団 茅ヶ崎香川教会
復活節第2主日
旧約聖書 ヨブ記 5章13節(P.780)
新約聖書 コリントの信徒への手紙 一 3章18節~23節(P.302)
説 教「あなたがたはキリストのものなのです」 小河信一牧師
説教の構成――
序
Ⅱ この世の知恵は、神の前では愚かなものです
……Ⅰコリント3:19 + ヨブ記5:13
Ⅳ だれも人間を誇ってはなりません ……Ⅰコリント3:21-22
Ⅴ あなたがたはキリストのものなのです ……Ⅰコリント3:23
序
パウロは今、神の“霊”を受けて、見事な教会論を繰り広げています。「あなたがたは神の畑である」⇒「あなたがたは神の建物である」⇒「あなたがたは神の神殿である」との巧緻な展開(Ⅰコリント3:6-17)は、だれも思いつかないことでしょう。聖なる旧約聖書も、身近な日常生活も、ふんだんに織り込んで、聴衆が聞き飽きないよう心を配っています。
そこには、開拓伝道を行って教会を建てた者、また、教会を建てついで成長させた者としての、経験と労苦が結集されています。
最近よく聞く言葉に、「ヒューマン・エラー」というものがあります。これは、人間が原因となって発生するミスや事故を指しています。結果的に、人間の行動が原因と言っても、さまざまなケースがあります。例えば、先入観や固定観念による「誤認」、肉体的もしくは精神的な疲労による「不注意」、そして、作業慣れやいい加減な行動による「手抜き」です。他に、誰か一人はまじめに作業しているはずという「無責任」も挙げられるでしょう。
その点で、「霊の人」(Ⅰコリント2:15)なるパウロは、信仰上の「ヒューマン・エラー」を見抜く達人でありました。人間が罪悪に惹かれて、どのような過ちを犯すのか、を把握していました。どんなにコリント教会の「建設プラン」が立派なものであっても、人間の犯すもろもろの過ちが看過されているのでは、意味がありません。
教会の「工事中」にも、イエス・キリストの血の贖いによって、人間の罪科が清められなければなりません。そうして初めて、「建設プラン」が血の通ったものとなります。その成長を押し止める「つまずきの石、妨げの岩」(ローマ9:33)は早急に取り除かれるべきです。
では、パウロが信仰上、見出した「ヒューマン・エラー」とは一体、何でしょうか? パウロは人間の内面に食い込むようにして、そのおどろおどろしい姿を暴き出します。
Ⅰ だれも自分を欺いてはなりません
コリントの信徒への手紙 一 3:18
だれも自分を欺いてはなりません。もし、あなたがたのだれかが、自分はこの世で知恵のある者だと考えているなら、本当に知恵のある者となるために愚かな者になりなさい。
コリント教会の建てつぎ(Ⅰコリント3:10,12)を遠く(トルコ半島のエフェソ)から見守る、パウロの的確な勧めです。まずパウロは、「自分を欺いてならない」と、信仰上の「ヒューマン・エラー」を洞察しています。
ここで、「自分を欺く」とは、どんなことを指しているのでしょう。「自分をまどわす・だます」と、辞書的に解釈しても、よく分かりません。前からの文脈に沿って言い換えましょう。
そこで、「だれも思い違いしてはなりません」(参照:Ⅰコリント15:33)と訳し直しましょう。すなわち、罪に陥っている人間は、「神の知恵」(Ⅰコリント1:21、2:7)と「世の知恵」(Ⅰコリント1:20、3:19)とを取り違えるという「思い違い」を起こしているのです。
どうして、そんな大それた「思い違い」を起こすのか、それは、彼らが「肉の人」で、「神の霊に属する事柄を受け入れない」からです(Ⅰコリント2:14、3:1)。彼らは一見、豪華絢爛な「この世の支配者たちの知恵」(同上2:6)に毒されてしまっています。結局、彼らは神の前においてすら、自分を誇っているのです(同上1:29)。
「もし、あなたがたのだれかが、自分はこの世で知恵のある者だと考えているなら」とのパウロの婉曲な語りかけをしっかり受け止めて、自分が「世の知恵」に染まっていないか、省みましょう。
「お互いの間にねたみや争いが絶えない」(Ⅰコリント3:3)という時に、「神の知恵」によって介入し助言できているでしょうか。忍耐強く祈っているでしょうか。いやむしろ、火に油を注ぐように、「ねたみや争い」を炎上するに任せているでしょうか。
コリント教会の指導者パウロは、「だれも思い違いしてはなりません」と厳命した後に、信仰上の「ヒューマン・エラー」に対する処方箋を示しています。どうやら、一種類の「薬」を服用すれば良いようです。
「本当に知恵のある者となるために愚かな者になりなさい」……神の前で「愚かになる」ことに集中せよ、ということです。ただちに皆さんから、神の前で「愚かになる」とは、どういうことですか、との質問が上がることでしょう。
パウロはこの文脈で、キリスト論に立ち入っていません。手紙の読者には、「キリストにある乳飲み子」(Ⅰコリント3:1)もいるということで、複雑な論述を避けているのかも知れません。
そういう訳ながら、パウロに代わって補足しましょう。つまり、父なる神は、わたしたちが神の前で「愚かになる」ことを知るように、御子、イエス・キリストを遣わされました。
フィリピの信徒への手紙2:7-8――
7 かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、8 へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。
「宣教という愚かな手段」(Ⅰコリント1:21)とは、まさにことのことです。わたしたちは十字架につけられたキリストによって救われました。これが、信じる者を救おうとされた「神の知恵」であります。
神の前に「愚かな者になりなさい」とは、言い換えれば、聖霊によって、わたしたちが「神の知恵」を授かるということです。キリスト論的には、「イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決める」(Ⅰコリント2:2)ということです。
これは、補足的な説明です。きっと尋ねたいと思っておられる方がいるはずです。それは、「世の知恵」は全く無駄なものなのか、ということです。「神の知恵」と「世の知恵」とを取り違えるな、ということが大前提ですが、ジャン・カルヴァンは次のように述べています。
「とはいえ、パウロは、わたしたちに生まれながらに与えられている賢さ、あるいは、長い間の習慣によって得られた賢さまでも、全部捨て去るように、とは要求していないのであって、ただ、賢さを神の御用のために服従させるように、と言っているのである。」
わたしたちは信仰上の「ヒューマン・エラー」を犯しやすいことを認めるべきです。そして、聖霊によって、自分の得た「知恵」が神の御心に適ったものかどうかを教えられるという謙虚さを持つことです。
さてパウロは今、「神の知恵」と「世の知恵」とを取り違えてはならない、「自分が欺かれた」ままであってはならない、と警告しています。教会は、「神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいる」(Ⅰコリント3:16)ところであります。従って、意図的か否かを問わず、人間がそこに、「世の知恵」を持ち込むのは、「神の神殿を壊す」ことにつながりかねません。パウロの警告が続きます。
Ⅱ この世の知恵は、神の前では愚かなものです
コリントの信徒への手紙 一 3:19――
と書いてあり、
パウロはこの節と次の節で旧約聖書を引用しています。それによって、キリスト教の福音的理解が徹底化されてゆきます。当時まだ歴史の浅かった教会は、「人間の愚かしさ」(ヒューマン・エラー)についての深い知見を旧約聖書から存分に得ることができました。考えてみれば、それはキリスト者にとって、幸いなことでありました。
従来、旧新約聖書の関係が、「預言―成就」や「審判―救済」の側面から論議されてきました。しかし今、わたしたちが目を向けようとしているのは、旧約の言葉によって、「世の知恵」が打ち砕かれて、「神の知恵」に導き入れられるということです。「(この世的に)知恵のある者」の「悪賢さ」と「論議」が俎上に載せられています。それらへの批判を通して、わたしたちは正しく、十字架につけられたキリストを信じ、宣べ伝えることができるようになりました。
教会を建てついでいく時に重要だからと、パウロが引用した旧約の言葉は、新しい警告として異彩を放っています。この節(Ⅰコリント3:19)の引用元の聖句を掲げましょう
よこしまな者はたくらんでも熟さない。
注目したいのは、「捕らえられる」の原典が「罠にかかる」となっている点です。つまり、神はまるで狩人でもあるかのように、「知恵ある者」の「悪賢さ」や「さかしさ」を略奪するということです。「罠」を用いてでも、「知恵ある者」を征圧するとの決意がみなぎっているでしょう。例えば、あなたの「つの間の繁栄」が神による巧みな「罠」だとしたら……おぞましいことです。しかし、神を恨むよりは、あなたの「悪賢さ」を反省すべきでありましょう。
次節においても、旧約の言葉によって新しい警告が語られます。
Ⅲ 知恵のある者たちの論議はむなしいものです
コリントの信徒への手紙 一 3:20――
また、
「主は知っておられる、
とも書いてあります。
パウロは、「悪賢さ」に続いて、「(この世的に)知恵のある者」の「論議」を取り上げています。これも原典と合わせて、わたしたちの理解を深めましょう。
詩編94:11――
詩編94編の前後の文脈では、人間に知識を与え、律法を教え、そして国々を諭すお方こそが、主なる神である(94:10,12)と述べられています。自分ではそのような神を信じていても、逆らう者や勝ち誇る者の振る舞いによって動揺させられると、率直に物語っています。
しかし、神は、「悪賢さ」による「人間の計らい」を放置されません。「主は、地上に人の悪が増し、常に悪いことばかりを心に思い計っているのを御覧になった」(創世記6:5)というように、神は洪水をもって地上から「人の悪」を一掃されました。
神は詩人に、この世の知恵に染まった人間の「論議」や「人間の計らい」が「いかに空しいか」を教えました。この「空しい」(ヘブライ語:へヴェル)というのは、「なんという空しさ なんという空しさ、すべては空しい」と、コヘレトの言葉の冒頭(1:2)に出てくるものです。「論議」は人間の「息」(へヴェルの別意)のようにはかなく、たちまち消え失せてしまいます。
神は、「この世の知恵」に寄りかかっている人間が「論議」に走りがちなことを見抜いておられました。議論の熱気に冒されている彼らは、「空しい」結果になることを知りません。
ここでパウロは、旧約の言葉に基づき、「世の知恵」を打破し、「神の知恵」へと導入するという勧めを転換します。すなわち、「(この世的な)知恵のある者」から「人間を誇る者」(次のⅣ.)へと話題を移します。いずれにしても、神との正しい関係が問い直されています。
Ⅳ だれも人間を誇ってはなりません
コリントの信徒への手紙 一 3:21-22――
21 ですから、だれも人間を誇ってはなりません。すべては、あなたがたのものです。22 パウロもアポロもケファも、世界も生も死も、今起こっていることも将来起こることも。一切はあなたがたのもの(なのです)。
「ですから、だれも人間を誇ってはなりません」……これは、教会論の総括に入る前の決め言葉です。過った方向へ行かないように、釘を刺しています。その理由は以下の通りです。
「(この世的な)知恵のある者」は、本来重んじるべき「神の知恵」に対し「この世の知恵」をもって取り替えています。それは、全くの本末転倒です。その思い違いがひっくり返せない要因は何かと言えば、「人間を誇る」ことにほかなりません。
片や、「神の知恵」は時に隠されており、神秘的であります(Ⅰコリント2:7)。片や、「この世の知恵」は時に誇大宣伝され、人心の扇動に悪用されることがあります。
その悪賢い指導者は、人々に「誇り」を植え付けて、思うがままに誘導します。そうして、人々は目に見える、分かりやすい「この世の知恵」の罠にはまってしまいます。だからこそ、狩人なる神が、より強固な罠で「知恵のある者」を「捕らえられ」ます。「その悪賢さによって罠にかかる」(Ⅰコリント3:19 私訳)とは、まさにこのことです。
「この世の滅びゆく支配者たち」(Ⅰコリント2:6)に期待を寄せる人々は、彼らが何でもしてくれると思い込みます。それが、「自分を欺く」(思い違いをする 同上3:18)ということなのです。
それ故に、教会論の総括は、すべてを支配しておられる「神」を念頭に置いて進められます。もはや、「この世の滅びゆく支配者たち」の享楽的世界に舞い戻ることがないように、ということです。
「この世の支配者」や「この世の知恵」に頼れずとも、不安になることはありません。弱さや貧しさを引っくるめて「あなたが何者なのか」は、「神」がその真価を定めてくださいます。「『誇る者は主を誇れ』と書いてあるとおり」(Ⅰコリント1:31)、わたしたちの「神」を誇りましょう。「神」の目に「あなたは価高く、貴い」ものなのですから(イザヤ書43:4)。
このような信仰に基づけば、「すべては、あなたがたのものです」とのメッセージ(Ⅰコリント3:21,22 節の末尾に2回)も正しく受け止められることでしょう。この句を見て、傲慢になる人はいないことでしょう。この短い句に込められた意味を説き明かしましょう。
「あなたがた」とは、「コリントにある神の教会」(Ⅰコリント1:2)を指しています。そこには、「あなたがた」はこの「神の教会」において、神の国へ入れるように備えるのだ、という重大な意味も込められています。正しく、「将来起こることも。一切はあなたがたのもの」との宣言の通りです。
そして何よりもここには、文脈に沿ったアイロニー(皮肉)が打ち出されています。すなわち、「わたしはパウロに」「わたしはアポロに」「わたしはケファに」(Ⅰコリント1:12)との分派主義が、見事にひっくり返されて、粉砕させられます(A. シュラッター)。もはや、「我らが尊師パウロは偉大なり。アポロやケファはその下僕なり」との自分の指導者推しは姿を消しました。
すなわち、「パウロもアポロもケファも、あなたがたのもの」、彼らは一つの「コリントにある神の教会」に属するものなのです。そこでは、「神の愛」によって「ねたみや争い」が乗り越えられるので、「教会」の一致は揺るぎません。
ローマの信徒への手紙8:38-39――
38 わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、39 高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。
「ローマにある神の教会」においても、「すべては、あなたがたのものです」との言葉が普遍の真理であると分かります。
Ⅴ あなたがたはキリストのものなのです
コリントの信徒への手紙 一 3:23――
この節はパウロが、「誇る者は主を誇れ」との呼びかけのもとに、讃美をうたっているかのようです。また、これこそが聖霊の導きによって、わたしたちが受け取るべき「神の知恵」であると言えましょう。
最後に、「キリスト」と「神」とが登場しました。教会論が「あなたがた」を創造し支配している「神」によって結ばれています。
「キリスト」は、十字架の死を遂げ、三日後によみがえさせられました。その御業により、わたしたちに永遠の命を与えるとの約束をもって、わたしたちの「死も、命も」引き受けてくださいました。
「キリスト」と「神」との関係については、次の聖句が思い起こされます。
ローマの信徒への手紙11:36――
すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです。栄光が神に永遠にありますように、アーメン。
これは、「神」讃美の頌栄です。そして、これは、「ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか」(ローマ11:33)との神への賛嘆から生まれたものです。「神の知恵」の結晶、ここにあり、と言えましょう。
「神から出て、神によって保たれ、神に向かっている」のは、「すべてのもの」ですが、これは、御子、イエス・キリストに最もよく当てはまります。
ギリシア語原文は、「神から・神により・神へ」との三つの前置詞(英語では out of・through・into)を通して、神へのほめたたえが流れるように奏でられています。同時に、「神から・神により・神へ」との句は、主イエス・キリストの「派遣から・公生涯(受肉 十字架 復活)により・昇天へ」と響き合っています。
「神から出て、神によって保たれ、神に向かっている」という力強い神の働きは、「すべてのもの」の中でも集中的に、主イエス・キリストの御業のために発揮されました。だから、教会の「かなめ石はキリスト・イエス御自身」なのです(エフェソ2:20)。
父と子によって遣わされた聖霊がわたしたちに注がれています。そして、「かなめ石はキリスト・イエス御自身」であると宣告しています。そこに、思い違いや誇り(高慢さ)などの信仰上の「ヒューマン・エラー」が割り込む余地はありません。
なぜなら、「あなたがたはキリストのもの、キリストは神のものなのです」から。
W
〈説教の要約〉
2024年 3月31日 日本キリスト教団 茅ヶ崎香川教会
復活節第1主日 復活日(イースター)
旧約聖書 ダニエル書 7章9節~10節(P.1392)
新約聖書 マタイによる福音書 28章1節~10節(P.59)
説 教「白い衣を着た天使の御告げ」 小河信一牧師
説教の構成――
Ⅱ「日の老いたる者」がそこに座した ……ダニエル書7:9-10
Ⅲ あの方は、ここにはおられない ……マタイ28:5-6前半
Ⅳ さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい
……マタイ28:6後半-7
Ⅴ 婦人たちは恐れと大きな喜びをもって立ち去った
……マタイ28:8-10
序
復活の朝、初めに起こった出来事として注目させられるのは、「主の天使」の降臨です。初めに、墓を見に行った「婦人たち」が、そして次に、主イエスの遺体の納められた墓を見張っていた「番兵たち」が、天から降って来た「主の天使」と出会いました(マタイ28:1-4)。
ついでに言えば、空の墓の場面において、マタイ(28:2)では「主の天使 一人」、マルコ(16:5)では「一人の若者」、ルカ(24:4)では「二人の人」、そしてヨハネ(20:12)では「二人の天使」が、婦人たちに現れたことになっています。四福音書における微妙な食い違いは、ショッキング(衝撃的)な出来事を受容しようとした痕跡とも言えるでしょう。それはともかくも、主イエスの墓に駆けつけた婦人たちと天的な存在とが出会ったという点で、四つの報告は合致しています。今回は、その冒頭に「主の天使」の降臨が昭示されているマタイ福音書に沿って、週の初めの日の朝、どんなことが起こったのか、読んでいくことにしましょう。
特に、「主の天使」の行動と言葉に着目しましょう。注視するために、「何か準備は必要ですか?」……良い質問ですね!
いろいろな回答があるでしょうが、一つ挙げるならば、「聖なるもの」がすっと心に入って来るように、聖霊によって自分の身を清めていただきましょう(ローマ15:16、エフェソ5:26)。
いずれにしても、復活の記事はよく知っているという思い上がりは捨て去りましょう。ただひたすらに聖霊の導きのもとで、婦人たちのように「突然」、空の墓の事件に遭遇することにしましょう。
Ⅰ 主の天使が天から降って来て、石の上に座った
マタイ福音書28:1-4――
1 さて、安息日が終わって、週の初めの日の明け方に、マグダラのマリアともう一人のマリアが、墓を見に行った。2 すると、大きな地震が起こった。主の天使が天から降って近寄り、石をわきへ転がし、その上に座ったのである。3 その姿は稲妻のように輝き、衣は雪のように白かった。4 番兵たちは、恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった。
「マグダラのマリアともう一人のマリア」は主イエス・キリストがすでに死んでしまったと思っていました。その証拠に、彼女たちは「安息日が終わると、イエスに油を塗りに行くために香料を買いました」(マルコ16:1)。だから、夜が明けるとすぐに「墓を見に行った」のです。
そこで、死に取り巻かれた「マグダラのマリア」に代表される人間にとって、想定外のことが起こります。人間の計画は頓挫しました……「主の天使が天から降って近寄り、石をわきへ転がし、その上に座ったのである」。この地上への「主の天使」の到来に先駆けて、「大きな地震が起こりました」。
エルサレムの大地を揺り動かした「地震」の余波が及んできたかのように、「天使が石をわきへ転がしました」。
ここで、映像が止まります……「主の天使がその石の上に座った」。「その姿は……」以下は、石の上に座している「主の天使」についての描写です。この姿の持つ象徴的な意味に関しては、Ⅱ.のダニエル書においてさらに掘り下げてみることにします。
「石」というのは、いわば主イエスの死の世界に封じ込めていた重しです。その「石をわきへ転がし」取り去ったというのは、死からの解放を意味しています。従って、「主の天使がその石の上に座った」というのは、死に対する生の勝利宣言にほかなりません。それに対し、「番兵たちは、恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった」というのは、主イエスに背いた者たちの敗北宣言です。
墓は、死者を葬る(恒久的に葬り続ける)場所であるとの常識が覆されました。言い換えれば、主イエスの遺体の納められた現場に、将来への希望があったということです。
「主の天使」の臨在している場所は、主イエスが死んでよみがえられたところです。「稲妻のように輝き、衣は雪のように白かった」姿をした神の御使いがわたしたちに、死からの復活の信仰を告げています。そこに、わたしたちの信仰の源泉があります。わたしたちが「キリストに対する真心と純潔とからそれてしまう」ことのないように(Ⅱコリント11:3)、「主の天使」が見守っています。
Ⅱ「日の老いたる者」がそこに座した
その車輪は燃える火
流れ出ていた。
幾万人が御前に立った。
巻物が繰り広げられた。
新バビロニア帝国の王・ネブカドネツァル(在位:前604-562年)によって、ユダヤ人が捕囚となって連行され、苦難の時代が始まりました。その子、ベルシャツァルの治世(ダニエル書5:11-13)にも、捕囚民との間に軋轢がありました。
異邦の地に住んでいるユダヤの民の中で、ダニエルは希望の星でありました。というのも、バビロニアの王宮に召しかかえられながらも、ダニエルはじめ四人の若者(ダニエル書1:17,19)が、主なる神への信仰を守り抜いたからです。偶像崇拝のはびこる敵地において、次々と襲い来る陰謀と危難に対し、ダニエルは神の知恵に満ちた賢さと敬虔さをもって立ち向かいました。
上の引用文は、「バビロンの王ベルシャツァルの治世元年のことである。ダニエルは、眠っているとき頭に幻が浮かび、一つの夢を見た。彼はその夢を記録することにし、次のように書き起こした」(ダニエル書7:1)という「記録」の一節です。ダニエルの聡明さを証しするかのように、「記録」の原文は、当時の国際公用語・アラム語になっています。
ダニエル書7章全体は約言すれば、片や、尊大な「第四の獣」(7:7)なる帝国は滅び、片や、ユダヤ人の国はとこしえに続くと預言されています(7:26-27)。そこで、「夢」で見た「幻」を説き明かしましょう。
この「幻」の光景の中心に、「日の老いたる者が王座に座して」おられます。「日の老いたる者」とは、主なる神の別称で、その御姿は権威と支配の力に満ちています。敗北と挫折のうちにある捕囚の民に、神による救いと勝利が告げられています。
ここで思い起こしたいのが、「主の天使がその石の上に座った」(マタイ28:2)という場景です。そこには、天の「王座に座しておられる」父なる神の威光が反映されています。というのも、御父が遣わされた御子、イエス・キリストが死から復活を成し遂げられたからです。死が打ち破られたのを証しする「石の上に」、「主の天使が座して」います。今や、天の「王座」の平安と栄光が、墓を塞いでいた「石」を包み込んでいます。
「日の老いたる者」以外にも、ダニエル書7:9-10には、打ちひしがれた民への慰めの言葉があります。①と②、二つに絞って説明します。
①神の「王座」に関連して、「その車輪は燃える火」と記載されています。この「幻」を解釈してみましょう。
すなわち、主なる神は「車輪」付きの動く「王座」に乗って、地を行き巡っておられます。そうして神は、異教の地でささげられるユダヤの民の礼拝に臨在されています(参照:エゼキエル書1:9-21)。その礼拝のうちに、「雨の日の雲に現れる虹のように」、「主の栄光の姿」があったということです(同上1:28)。
主なる神が「車輪」付きの動く「王座」に乗っているということは、民が都エルサレムに帰還する際、主なる神が寄り添われることを暗示しています。まさに、「あなたたちの先を進むのは主であり しんがりを守るのもイスラエルの神だから」(イザヤ書52:12)との御言葉の通りです。
②「日の老いたる者」に関連して、「その衣は雪のように白く その白髪は清らかな羊の毛のようであった」と描き出されています。すでに言及したように、元来「日の老いたる者」は、天に住んでおられる神を指しています。ここでは、新約の復活の出来事とのつながりが注目されます。
週の初めの日の明け方、突如「主の天使」が主イエスの墓に現れました。「その姿は稲妻のように輝き、衣は雪のように白かった」との描写は、天の王座に座している「日の老いたる者」の姿と調和しています。つまり、「主の天使」は天的な存在であり、天からの御使いとして主イエスの墓に遣わされたということです。そして、この「主の天使」の特異なることは、主イエス・キリストの死からの復活によって、主なる神の権威と支配の力を伝えているということです。
わたしたちは、心を開いて、この「聖なるもの」の姿と言葉を受け止めねばなりません。
Ⅲ あの方は、ここにはおられない
マタイ福音書28:5-6前半――
5 天使は婦人たちに言った。「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、6 あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。」
婦人たちの見たこともない、聖なる「主の天使」が目の前に現れ、驚くべきことを語ります。その点で、「恐れることはない」との語りかけは的確です。このひと言によって、人知をはるかに超えた救いの出来事を受け容れる態勢が整えられます。
「(あなたがたは)十字架につけられたイエスを捜しているのだろう」……主の天使の介入は、御言葉をもって、それも問いかけをもって、行われました。婦人たちが考えを改めるよう導いています。
つまり、婦人たちは今、「十字架につけられたイエス」は「死者の中に」属していると見ています(ルカ24:5)。しかし、天からの御使いは、「生きておられる方」なる主イエス・キリストを「死者の中に捜す」のは誤りだと、彼女たちに気づかせようとしています。
「あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ」……言い換えれば、あの方は、確かに死んでよみがえられた、「空になった墓」はその一つの証拠である、ということです。
「かねて言われていたとおり」……これは、婦人たちへの大きな助言です。というのも、主イエスは、ガリラヤ湖畔やエルサレムへの旅の途次で、〈受難―死―復活〉の予告を繰り返されていたからです(マタイ16:21、17:22-23、20:18-19)。ガリラヤから従って来た婦人の多くが、この予告の重要性を感じ取ったことでしょう。今や、この予告は実現されました。主イエスの御言葉を思い出すことを通して、格段と「恐れ」が軽減されたに違いありません。
Ⅳ さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい
マタイ福音書28:6後半-7 天使→婦人たち――
6 「さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。7 それから、急いで行って弟子たちにこう告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。』 確かに、あなたがたに伝えました。」
「さあ、見なさい。…… それから、こう告げなさい」……婦人たちは今、遺体に香油を塗る女としてではなく、主イエスの墓に起こったことを証言する人として立たされています。
「さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい」……その命令に対する応答は、「何もありません」ということです。女は、用意した高価な「香油」(マルコ16:1)をそこに置いたまま、弟子たちのもとへ駆けてゆくことでしょう(参照:ヨハネ4:28)。
そうして、「空になった墓」が見いだされたとして、それだけで、主イエス・キリストがどのようになったのか、を教えてはいません。死体が盗み出された可能性もあります(マタイ27:64)。
それ故に、十字架の丘と新しい墓で起こった「この出来事」全体とつなげられた時に、婦人たちの体験と証言とは初めて、意味あるものとなります。すなわち、「死者の中から復活された」主イエス・キリストを信じることによってはじめて、「空になった墓」は神による出来事の真実を告げるものとなります。
「(あの方は)あなたがた(弟子たち)より先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる」……主イエス・キリストと出会うことが強調されています。主イエスを見捨てて逃げた「弟子たち」に向かって、必ず「お目にかかれる」(お会いできる)と告げられています。
主イエスは人間よりも、ずっと先回りをしておられます。すなわち、ペトロたち・弟子が自分の故郷に帰り、さらには漁師に戻ろうとする(ヨハネ21:1-3)ことを見抜いておられます。しかし、ペトロたちはガリラヤ湖はじめ懐かしい町や村の景色を前にして、途方に暮れます。一匹の魚も獲れていない網を見て、空しさが増すことでしょう。
そこに、「先にガリラヤに行かれた」主イエスが現れました。主イエスの方から弟子たちに声をかけられました(ヨハネ21:4-5)。
彼らに求められているのは、空しさのどん底で、罪の苦しさの極みで、主イエスの招きに応答することです。今、人生の瀬戸際で、主の方へ方向転換するチャンスです。
ここで、一歩踏み出すのは、弟子たちの決断です。暗い夜が明けて、朝の光が射し込んで来ました。愛する婦人たちの告げてくれた「週の初めの日の明け方」の出来事を、自分たちの人生の基とするチャンスが巡って来ました。わたしたちは、そのことを覚えて、復活の朝につながる主の日の朝に礼拝を守っています。
やり直すのに遅いということはありません。主イエスはあなたの貧しさやつまずきを見越して、先回りされるお方です。最もふさわしい時と場所に、突然、主イエスは現れます。そのような主イエスの執り成しが行われるように(ローマ8:34)、聖霊なる神がいつも、わたしたちの傍らにおられます。
マタイ福音書28:8-10――
8 婦人たちは、恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った。9 すると、イエスが行く手に立っていて、「おはよう」と言われたので、婦人たちは近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した。10 イエスは言われた。「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる。」
主イエスが十字架の死を遂げられた夕べ、「婦人たち」は、「遺体を納めた場所を見つめて」いました。その場に座り込んでいました(マタイ27:61、マルコ15:47)。三日の後、彼女たちは、主イエスのよみがえりを目撃した人となりました。そしてこれから、証言する人として歩んで行くこととなりました。
聖書は、そのような新たな使命を負った「婦人たち」の姿を捉えています。彼女たちは、「キリストと共に葬られ、その死にあずかる」(ローマ6:4)とは、どういうことなのか、を体現しています。彼女たちは神の召しを受けて立ち上がりました。天的な存在との出会いと力ある御言葉に支えられて、この地上での働きを全うします。
「婦人たちは、恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り」……「恐れと大きな喜びをもって」というのは、どういうことでしょうか?
主の天使が婦人たちに出会ったとき、初めに「恐れることはない」と語りかけました(マタイ28:5)。それならば、この人たちはその命令に従いきれていないのでしょうか。いや、そうではなく、よみがえりの命に対する喜びが、死に対する恐れを打ち払いつつある、ということでしょう。これが、ゴルゴタの丘から園の墓へ移動しつつ、事態を見守っている人の現実であります。
そして、主イエスが婦人たちの「行く手に立っていて、言われた」という「おはよう」との言葉こそが、彼女たちの直面している現実にふさわしいものでありました。
そこには、復活の朝の出来事を「おはよう」のと挨拶を交わすごとに思い起こしなさい、とのメッセージがあります。また、「おはよう」との原意は「あなたがたは喜びなさい」ですから、必ず恐れは喜びに変えられる、とのメッセージも込められています。
婦人たちは、その証人として、神の召しを受けて立ち上がりました。彼女たちは「そこ(ガリラヤ)でわたしに会う(であろう)」という主イエスと共に、打ちひしがれている「わたしの兄弟たち」と再会することになります。
そのようにして、福音が世界中に宣べ伝えられる先駆けとして、「異邦人のガリラヤ、暗闇に住む民」(マタイ4:15-16)に光が射し込みます。
W
〈説教の要約〉
2024年 3月24日 日本キリスト教団 茅ヶ崎香川教会
復活前第1主日(受難節第6主日) 棕櫚の主日
旧約聖書 エレミヤ書 18章16節(P.1211)
新約聖書 マタイによる福音書 27章32節~44節(P.57)
説 教「通りかかった人々から嘲られるイエス」 小河信一牧師
説教の構成――
序
Ⅰ シモンがイエスの十字架を担がされた ……マタイ27:32-34
Ⅱ 兵士たちはイエスを十字架につけた ……マタイ27:35-38
Ⅲ 通りかかる者は皆、おののき、頭を振る ……エレミヤ書18:16
Ⅳ 人々は頭を振りながらイエスをののしった…マタイ27:39-40
Ⅴ 今すぐ十字架から降りるがいい ……マタイ27:41-44
序
主イエスはゴルゴタの刑場に引かれて行く前に、ピラトの総督官邸で侮辱を受けました。
衣服がはぎ取られ、鞭打たれた痛々しい体(マタイ27:26)が露わになりました。それから、赤い外套が着せられ、茨の冠が頭に載せられました。ローマ人たちは、「ユダヤ人の王、万歳」と言って、侮辱しました(同上27:27-29)。
総督の官邸は、神殿の北側にありました。神殿では、過越祭が始められようとしていました(マタイ26:2)。イスラエル民族の苦難からの脱出を記念する祭りのすぐ隣りで、人間の企みによって、救い主なるキリストが辱められていたのであります。
十字架に上げられる時(午前九時 マルコ15:25)が刻々と迫っていました。主イエスが「されこうべの場所」に着かれる途上とその到着直後に、人間の罪科の極みとも言える出来事がありました。
その中のいくつかの悪行や戯事は旧約聖書に預言されているものです。従ってそれは、神の御心に添って、主イエス・キリストが全人類と全歴史における罪科を背負われたということを意味しています。
Ⅰ シモンがイエスの十字架を担がされた
マタイ福音書27:32-34――
32 兵士たちは出て行くと、シモンという名前のキレネ人に出会ったので、イエスの十字架を無理に担がせた。33 そして、ゴルゴタという所、すなわち「されこうべの場所」に着くと、34 苦いものを混ぜたぶどう酒を飲ませようとしたが、イエスはなめただけで、飲もうとされなかった。
総督官邸からゴルゴタ到着までの道行きが描かれています。エルサレム神殿の喧噪をよそに、兵士たちの一行は、城外のゴルゴタの丘に向かって出発しました。主イエスは疲労困憊されていました。体の痛みや寝不足で足元がおぼつかなかったでありましょう。主イエスには、十字架の横木が負わされていました(縦木は刑場に据え付けられています)。①・②・③に分けて、十字架の道行きを追っていきましょう。
①「シモンという名前のキレネ人に出会ったので、イエスの十字架を無理に担がせた」……兵士たちの戯れ気分からでしょうか、その場で「出会った」、適当な人を引きずり出しました。そして、「イエスの十字架を無理に担がせました」。兵士たちは、主イエスを憐れんだのではなく、むしろ、処刑場までの自分たちの仕事を早くやり終えたかったのでありましょう。
はた目には、「キレネ人シモン」は罪人にしか見えません。群衆から、新たな喚声が上がったことでしょう。シモンはさらし者にされました。「無理に担がせられた十字架」に、シモンは困惑したに違いありません。イエスという「犯罪人」がどういう経緯で十字架刑になるのかも知りませんでした。
しかし、シモンは「アレクサンドロとルフォスとの父」(マルコ15:21)であり、驚くべきことに、これをきっかけに家族ともどもキリスト者になったと推察されます。というものも、パウロがローマ教会の信徒に挨拶を送っている中で、「主に結ばれている選ばれた者ルフォス、およびその母によろしく。彼女はわたしにとっても母なのです」(ローマ16:13)と述べているからです。「その母」は、シモンの妻だと考えられます。
シモンは十字架の重みを知っている人です。その場では、「無理」やり、事件に巻き込まれてしまった、さらし者になるとは運が悪かった、というふうに思ったかも知れません。しかし、横を歩まれる主イエスの姿を心に納めたことでしょう。そしてやがて、あの十字架は、すべての人の罪を贖うための苦難のしりしであったと受け止めるようになったことでしょう。
その後、その母や子「ルフォス」が聖霊の導きによって、父「シモン」が巻き込まれた事件を思い起こすうちに、十字架と復活の主、イエス・キリストへの信仰が芽生えたのではないでしょうか。
②「ゴルゴタという所、すなわち『されこうべの場所』に着く」……そこは、頭蓋骨が雨ざらしになっているような不気味な所でありました。
ユダヤ教においては、「贖罪の献げ物」の儀式の後、不要になった残りの動物の体は、宿営の外に運び出され、焼き捨てられました(レビ記4:12)。主イエスの十字架刑が、神の御計画の通りであったことを証しするかのように、「イエスもまた、御自分の血で民を聖なる者とするために、門の外で苦難に遭われました」(ヘブライ13:12;讃美歌Ⅰ-261番)。
主イエスの苦難は城外にまで続きました。そうして、エルサレムの郊外に追いやられながらも、主イエスは「御自分の血で民を聖なる者とする」との目的を達成されました。主イエスは、この世の片隅で生きる人々に寄り添うお方であります。
③「苦いものを混ぜたぶどう酒を飲ませようとしたが、イエスはなめただけで、飲もうとされなかった」……この場面でも旧約聖書の預言の成就が際立っています。
「苦いものを混ぜたぶどう酒」には、苦しみを緩和する鎮痛作用があったと言われています。しかし、父なる神がご覧のもとで、主イエスは苦難の極みを真正面から受け止められました。ぶどう酒を「なめただけで、飲もうとされなかった」ということです。これによって、「人はわたしに苦いものを食べさせようとし 渇くわたしに酢を飲ませようとします」(詩編69:22)との預言が成し遂げられました。酸い液を「なめただけ」でも、渇いた喉に激痛が走ったことでしょう。
主イエスは顔を背けることなく、「渇くわたしに酢を飲ませようとします」という屈辱をこうむられたのです。こうして、午前九時、主イエスは十字架に上げられました。
Ⅱ 兵士たちはイエスを十字架につけた
マタイ福音書27:35-38――
35 彼らはイエスを十字架につけると、くじを引いてその服を分け合い、36 そこに座って見張りをしていた。37 イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王イエスである」と書いた罪状書きを掲げた。38 折から、イエスと一緒に二人の強盗が、一人は右にもう一人は左に、十字架につけられていた。
そこで、「彼らはイエスを十字架につける」という残忍さと裏切りの罪とがすくい取られています。誰もその〈究極の行為〉が無かったとすることはできません。「イエスを十字架につけた」のは、今のわたし自身の罪でもあります。わたしが、釘で十字架に打ちつけた、その苦痛を主イエスに与えたのであります。そうして、苦しみの中で主イエスが死なれたように、わたしたちもまた、「主のために死ぬ」のであります(ローマ14:8)。
わたしたちは、主イエス・キリストの血によって贖われました。そうだとすれば、その信仰をもって、「彼らはイエスを十字架につける」との事実を、いつも脳裏に刻んでおかねばなりません。
「くじを引いてその服を分け合い」……ローマの兵士の職務中の、罪深い戯事とは、このことです。これが、「見張りをしていた」という人間の実体です。とても、十字架の下で起こったこととは思えません。無関心が装われています。罪人の苦しみの極みをよそに、賭事に興じています。十字架の主は、このような人間の本性を浮かび上がらせています。
しかし、このこともまた、旧約聖書の預言の通りでありました。「わたしの着物を分け 衣を取ろうとしてくじを引く」(詩編22:19)との預言が成就しました。この「わたし」は神の御子、イエス・キリストにほかなりませんでした。主イエスは愚弄されている人間の悔しさや怒りをも引き受けてくださいました。
そして、十字架につけられた主イエスは更なる苦難に向き合わせられました。というのも、「これはユダヤ人の王イエスである」のと「罪状書き」によって、この時この場で、十字架の苦難が周知されたからです。「ヘブライ語、ラテン語、ギリシア語」の三つの言語をもって(ヨハネ19:19-20)、刑罰を受ける者に関わる情報が布告されました。その「罪状書き」を読んだ人々は、主イエスに同情を寄せるどころか、嘲りやののしりを浴びせました。
ここで、通りがかりの人から嘲笑されるという苦難について、旧約聖書を紐解いてみましょう。
Ⅲ 通りかかる者は皆、おののき、頭を振る
エレミヤ書18:16――
原文・ヘブライ語が挽歌調(3+2の韻律)になっているのに従って、行分けしました。涙がこぼれ出すほどに、悲惨な情景になっています。元来、挽歌とは死者を哀悼するものです。前後の文脈に即して、この悲しい詩文を説き明かしましょう。
「わたし」は、主なる神を、また、「彼ら」はユダヤの民を指しています。「彼ら」は、「わたし」なる神と「通りかかる者は皆」によって嘲笑されます。
その原因は、「わたしの民はわたしを忘れ むなしいものに香をたいた」(エレミヤ書18:15)ということにあります。つまり、預言者エレミヤは、神に背いて、偶像を崇めている民を叱責し、悪の道から立ち帰る(同上18:11)よう命じているのです。
「通りかかる者」から、「嘲られ」、「頭を振られる」のは、ユダヤの民にとって心の引き裂かれる苦しみです。たまたま「通りかかる者」ですから、その中には、親しく愛している者(哀歌1:2,16)や友人・知人もいることでしょう。以前には慰め励ましてくれていた人が、自分が苦しんでいるのを見て、冷笑し足早に通り去っていきます。
自分が痛みをこうむり、絶えゆこうしている時に、周りの人は笑っている(哀歌1:7,12)というのは、真実です。なぜなら、それはエレミヤ書や哀歌……しかも整えられた形式の詩文……に預言され、主イエスの十字架において成就したことだからです。
Ⅳ 人々は頭を振りながらイエスをののしった
マタイ福音書27:39-40――
39 そこを通りかかった人々は、頭を振りながらイエスをののしって、40 言った。「神殿を打ち倒し、三日で建てる者、神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い。」
今、エルサレムの城外、ゴルゴタの丘に、三本の十字架が立っています。その真ん中の十字架には、「罪状書き」が掲げられています。
エレミヤ書18:16によれば、「通りかかった人々」から嘲笑されるのは、神に背いた人間でありました。それは、神に離反し、自分の欲望に駆られた、人間の成れの果てが、そのようなどん底に下るということです。聖書は、その罪人が最後、公にさらされてしまうという出来事を告知しています。その人は、誰も慰め励ましてくれる者は無いという絶望を味わわせられます。愛した人が態度を豹変させるのは、見るに忍びないものであります。
その出来事が、十字架につけられた主イエスにおいて起こりました。「そこを通りかかった人々は、頭を振りながらイエスをののしった」ということです。それは、人間の罪科に対する神の怒りが、十字架上の御子、イエス・キリストに下ったことを現しています。それによって、バビロン捕囚の時に、ユダヤの民のこうむった最大の悲惨を、主イエスが一身に受けられました。
十字架の主イエスの前を「通りかかった人々」は、人々の罪を贖う神の御業に向き合うどころか、それを嘲笑しました。神の遣わされたお方の前に、ひれ伏す謙遜さが見られません。わたしたち自身も、救い主、イエス・キリストを信じるという信仰が無ければ、「そこを通りかかった人々」と同罪となります。
それではなぜ、これほどまで主イエス・キリストは人々から卑しめられたのでしょうか? そのことは、ただ神からの霊を受け、聖書を読むことによって知らされます。
打とうとする者には背中をまかせ
ひげを抜こうとする者には頬をまかせた。
顔を隠さずに、
*この詩行も原文は挽歌調になっています。後世に伝えんとして、内容と形式が整えられたということです。
イザヤ書53:5――
彼が刺し貫かれたのは
彼が打ち砕かれたのは
わたしたちの咎のためであった。
*この詩行もまた挽歌調になっています。
エレミヤやイザヤの挽歌は、まさに「ナルドの香油」(ヨハネ12:3)のように、
主イエスの受難と死に対してささげられています。
主イエスの葬りにふさわしく、格調高い美しい詩文になっています。
これは、「苦難の僕」についての描写です。神がこの世に遣わした「苦難の僕」こそ、主イエス・キリストでありました。なぜなら、このイザヤ書の預言の通りに、主イエスは十字架によって「わたしたちの背き」や「わたしたちの咎」を背負われたからです。
キレネ人シモンが「イエスの十字架を無理に担がせられた」との挿話(マタイ27:32)は、十字架がわたしたち・人間と密接な関係があることを物語っています。すなわち、主イエスが「嘲られ」、「頭を振られ」、そして「唾を受けられた」(同上27:30)のは、「背いている者たちを執り成す」(イザヤ書53:12)ためでありました。「多くの民を驚かせる」(同上52:15)ような、主イエスの御業によって、罪人が救い出されました。
その意味では、キレネ人シモンはたまたまその場に出くわしたように見えますが、実は、「愛のきずな」(ホセア書11:3)によって、十字架という軛を通して、主イエスにつながれていたのであります。そこに、一人の巡礼者とその家族をその罪から清めるという神の計画と決断があったのです。
「神殿を打ち倒し、三日で建てる者、神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い」……公生涯の始まりにおいて、主イエスは荒野で悪魔の試みを受けられました(マタイ4:1-11)。そして今、「通りかかった人々」、そしてさらには、「祭司長たちも律法学者たちや長老たち」から主イエスの力を試そうとする罠が仕掛けられました。主イエスを信じることなく、ただ単に、奇跡を見せてみろ、と命じている点で、悪魔も十字架の周りの人々も同列です。
初めに、気まぐれな通行人から、次に、権威ぶった宗教者から、「自分を救ってみろ」や「十字架から降りて来い」との嘲りが連呼されています。彼らは誰ひとり、主イエス・キリストが「背いた者のために執り成しをする」(イザヤ書53:12、ヘブライ7:25)お方として、十字架の死を遂げようとされていることに目を向けていません。
彼らはただ、自分たちの意図に沿って、主イエスに発言させ行動させようとしているに過ぎません。それによって、彼らは聖霊の導きにより、「多くの人をおののかせる」神の大いなる救いの御業に直面する機会を失いました。そのことは、自分の日常や考え方を壊されたくないと固執するわたしたちにも起こり得ます。
Ⅴ 今すぐ十字架から降りるがいい
マタイ福音書27:41-44――
41 同じように、祭司長たちも律法学者たちや長老たちと一緒に、イエスを侮辱して言った。
42 「他人は救ったのに、自分は救えない。イスラエルの王だ。今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう。43 神に頼っているが、神の御心ならば、今すぐ救ってもらえ。『わたしは神の子だ』と言っていたのだから。」 44 一緒に十字架につけられた強盗たちも、同じようにイエスをののしった。
それでは、主イエスを愚弄する、「自分を救ってみろ」(他人は救ったのに、自分は救えない)、また、「十字架から降りて来い」との叫びについて、どこに間違いがあるのか、を捉えましょう。
「自分を救ってみろ」と「十字架から降りて来い」の内容は基本的に同じです。すなわち、死の苦難から逃れる力があるか見せてみよ、という点で重なります。人々は、主イエスが行動して「十字架から降りて」、(自分に対しての!)救いを実証してみせよ、と迫っています。
彼らの愚かさは歴然としています。神と自分との関係を考えていません。主イエス・キリストはわたしたちの罪を贖うために、わたしたちを救うために、十字架につけられているのです。
父なる神と御子、イエス・キリストは永遠の昔に、十字架と復活の御業によってわたしたちを救い出すという御計画を立てられました。そのことを知らせるために、人々の間に、神の油注がれた者や預言者を遣わされました。そうして、主イエス・キリストを迎え入れる準備がなされました。
しかし、ゴルゴタの丘で、主イエスに最も近い所にいた人々が、侮辱の言葉を投げつけました。それ故に、旧約聖書が預言として次々の成し遂げられていったにもかかわらず、神の御心を顧みることがありませんでした。
「今すぐ十字架から降りるがいい」との言葉ほど、神の御心に背くものはありません。そうではなく、わたし自身が十字架につけられるほどに、主イエスの苦難を味わい知ることです。神の霊が告げています……「人の心に思い浮かびもしなかったこと」(Ⅰコリント2:9)を、主イエス・キリストが十字架上で成し遂げてくださったということを!
「もし、わたしたちがキリストと一体になってその死の姿にあやかるならば、その復活の姿にもあやかれるでしょう」(ローマ6:5)。わたしたちが、十字架の死を霊的に繰り返し経験することが、わたしたちの生活の基となるということです。
わたしたちがこの世で、「見捨てられ」、「嘲られている」(マタイ27:46、イザヤ書51:7)と思うとき、人生のどん底を歩んでいるとき、インマヌエルの神、イエス・キリストはわたしたちの傍らに立っておられます。
W
〈説教の要約〉
2024年 3月17日 日本キリスト教団 茅ヶ崎香川教会
復活前第2主日(受難節第5主日)
旧約聖書 詩編79編 9節(P.917)
新約聖書 マルコによる福音書 2章13節~17節(P.64)
説 教「わたしに従いなさい」 小河信一牧師
説教の構成――
序
Ⅰ イエスは、再び湖のほとりに出て行かれた ……マルコ2:13
Ⅲ イエスは罪人や徴税人と一緒に食事をされた…マルコ2:15-16
Ⅳ わたしが来たのは、罪人を招くためである ……マルコ2:17
結 ……詩編79:9
序
主イエスによって、ガリラヤ湖畔での伝道が行われています。それは、ただ順調に進んでいったというわけではありません。
具体的には、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(マルコ1:15)との主イエスの呼びかけに耳を傾けた人もあり、そうでなかった人もいたことでしょう。また、病気の癒やしや悪霊祓い(同上1:34)に熱狂した人も、その効力に疑惑の目を向けた人もいたことでしょう。
こういう状況において、人間的な知恵では、反響の大きいところや皆の受けの良いところを狙っていこうとなりがちです。しかし、主イエスはひたすら父なる神に御心に添って、困難に向き合って伝道されました。目先の成果に思い悩むことはありませんでした。時に、おびただしい群衆から離れ去って、湖畔や山辺で祈られることもありました(マルコ1:35、3:7、6:46)。
では、人を分け隔てしない、伝道という観点から、次のような人に、主イエスはどのように接せられたのでしょう?
自分の仕事場を持っていて、金持ちそうな人(ルカ19:2)、しかも今、どっしりと自分の椅子に座って仕事に励み、なおかつ、人の出入りを警戒している人……このような人に対して、わたしたちは「語りかけにくいな。出直して来よう」と思ったりしないでしょうか。
アーメン、主イエスは人を分け隔てなさらないお方でした(ローマ2:11)。徴税人のレビやザアカイをしっかりと見つめて、ご自身の方から声をかけられました。その上、彼らの家を訪ねられました(マルコ2:14-15、ルカ19:5)。その姿勢は、ガリラヤ湖のほとりでも、エリコの町でも一貫していました。主イエスは歩きながら、ごく自然に伝道されました。
主イエスご自身が、「御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい」(Ⅱテモテ4:2)との勧めを実践されました。初期のガリラヤ伝道から、その一幕を垣間見てみましょう。
Ⅰ イエスは、再び湖のほとりに出て行かれた
マルコ福音書2:13――
イエスは、再び湖のほとりに出て行かれた。群衆が皆そばに集まって来たので、イエスは教えられた。
主イエスはガリラヤ湖畔を歩いておられます。遠くの山々まで見渡せる、円い湖の一端で、主イエスは何を考えておられたのでしょう。湖水のさざ波のように、「神の国」の福音が広がってゆくことを願っておられたのでしょうか。
「湖のほとり」の場面がわたしたちの心に印象づけられています。その光景とは――
「イエスは、再び湖のほとりに出て行かれた」⇒「群衆が皆そばに集まって来た」⇒「イエスは教えられた」……ここには、主イエスと群衆との間に、平和な循環があることは見て取れます。福音を宣べ伝えておられる主イエスと、それを聞くために集まっている群衆との光景が、「再び」という繰り返しの中に映し出されています。
一方、主イエスは恵みと平和を祈りつつ、幾度も湖畔を巡っておられたことでしょう。他方、群衆は、見慣れつつある主イエスの御姿と反復される御言葉を通して、「主イエスがどのようなお方であるか」(マルコ8:27,29)を知るようになったことでしょう。もちろん、その人々の受け止め・理解は、御言葉の力が一人ひとりの心身に注がれることに拠るものです。その人が心を開いて、聖霊の宿った御言葉を聞くかどうかに掛かっています。
その実例が、「アルファイの子レビ」によって示されます。
Ⅱ レビは立ち上がってイエスに従った
そして通りがかりに、アルファイの子レビが収税所に座っているのを見かけて、「わたしに従いなさい」と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。
ここに、いわゆる取っつきにくい人がいました。彼は仕事熱心な金持ちで、町の人々からは嫌われていました。
レビは自分の町またはその領内で、物品や通貨の流通を監視する立場にありました。当時、ガリラヤ地方もローマ帝国の支配下に置かれていましたから、ユダヤ人レビの態度には微妙なものがありました。すなわち、ローマ人にはこびへつらいながら、自分の職を守るのを第一に、税を納める地元民には、飴と鞭を使い分けるということです。
そうすると、その日の気分や隠れてもらう賄賂などによって、収税人としての「正しさ」がゆがめられてしまいます。当時、親の代からその職業を受け継いだとしたならば、自分のゆがみや悪い習癖にすら気がついていないこともあり得ましょう。憐れむべき人であるに違いありません。
「そして通りがかりに」、なんの躊躇もなく自然に、主イエスは路傍の人に語りかけられました……「わたしに従いなさい」。それは、漁師のペトロやアンデレに呼びかけたのと、同様のものでありました(マルコ1:17)。それは、狭まりがちだったレビの心を解き放つものでありました。
普通に考えるならば、レビは「収税所に座って」仕事をしていました。税務など「計算をしている最中」の人に声かけするのは憚られます。しかし、主イエスは、「湖で網を打っている」ペトロたち(マルコ1:16)に呼びかけられたように、最善の時にレビを召し出されました。
「わたしに従いなさい」との御声は、人間にとっさの決断を迫ります。人間が用意できているかどうかは問題ではありません。レビは自分の仕事をうっちゃって、新たな使命に転じました。そのことを証しするかのように、「彼は立ち上がってイエスに従いました」。
レビは主イエスの御声の力によって目覚めさせられました。「徴税人」レビは良くも悪くも、町で影響力を持つ人でありました。彼がイエスに従ったとのうわさも、ガリラヤ湖畔を駆け巡ったことでありましょう。レビを取り巻いた福音の波は、すぐ後に起こる出来事にも及んでいきました。
Ⅲ イエスは罪人や徴税人と一緒に食事をされた
マルコ福音書2:15-16――
15 イエスがレビの家で食事の席に着いておられたときのことである。多くの徴税人や罪人もイエスや弟子たちと同席していた。実に大勢の人がいて、イエスに従っていたのである。16 ファリサイ派の律法学者は、イエスが罪人や徴税人と一緒に食事をされるのを見て、弟子たちに、「どうして彼は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言った。
主イエスは「レビの家」を訪ねられました。この時、レビは自分の「家」と「食事の席」を提供し、背後に退きました。おそらく、客人の足を洗って迎え入れ、「仕える人」(Ⅰコリント3:5)に徹したということでありましょう。
徴税人「レビの家」は主イエス・キリストの行いと言葉によって清められました。それは、これからいつも、主イエスが聖霊を通して、「レビの家」に宿っておられるということです。主イエスというお方が「レビの家」の「隅の親石」になられました(マルコ12:10)。実際、この家の「食事の席」で、主イエスの宣教の原点となるような御言葉が披露されました。
「多くの徴税人や罪人もイエスや弟子たちと同席していた」……主イエスによる「徴税人」レビの召命が効果的に波及しています。一人の「徴税人」から「多くの徴税人」へ、神が計画を立てておられるとは、まさにこういうことなのでしょう。
本文には叙述されていませんが、主イエスが中心に座っておられる「食事の席」の場面について、次のように想像されます。すなわち、主イエスは「パンと魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて、レビはじめ仕える者たちに渡しては配らせ、魚も皆に分配された」(参照:マルコ6:41)ということです。「天を仰いで賛美の祈りを唱える」、つまり、神が聖別された「命のパン」(ヨハネ6:35)が祝福のうちに分け与えられたということが、何より重要です。
そしてこのような「食事の席」に、「多くの徴税人や罪人」が招かれていました。「貧しい人々は、幸いである、神の国はあなたがたのものである。今飢えている人々は、幸いである、あなたがたは満たされる」との平地での説教(ルカ6:17,20-21)通りのことが今、起こっています。主イエスは「レビの家」の中で、その御言葉を実現させました。
わたしたちもまた、聖餐式により、神の祝福に満ちた聖なる食事にあずかっています。そこに座っているのは、単なる「罪人」ではありません。そうではなく、主イエスが招き入れられた「罪人」、主イエスの御言葉を聞き入れた「罪人」です。
そのような「徴税人や罪人」について、「実に大勢の人がいて、イエスに従っていた」と述べられています。「大勢の人」が自分の人生をうっちゃって、主イエスと共に生きる者に変えられました。彼らは主イエスと出会い、主イエスを信じるようになりました。
そこに、「ファリサイ派の律法学者(たち)」が現れます。彼らは、信仰によって大いなる逆転を遂げた「罪人」たちを受け入れることができませんでした。なぜなのでしょうか?
一つは、「主イエスがどのようなお方であるか」が分かっていなかったから。
イエス・キリストを救いの御子、あるいは、罪を贖うお方であると信じていなかったということです。
もう一つは、「徴税人や罪人」を祭儀的に「汚れた者」として捉えていたから。
「ファリサイ派」や「サドカイ派」(マルコ12:18)の人々によれば、自分たちのふさわしいと考える時と場所において、「罪人」は、清められなければなりませんでした(レビ記11章-17章)。自分たちは権威をもって律法を厳守し、清めの手続きを執り行うと考えていました。
付け加えれば、「ファリサイ派」や「サドカイ派」の人々は根本的には、罪人を清め、病人を癒やすのは、主なる神の御業であると信じていました(出エジプト記15:26、エゼキエル書36:33)。そこで、律法に沿って、清めや癒やしの儀式をつかさどり、清められたことや癒やされたことを宣言するというのが祭司の務めでありました(参照:2023年9月24日の説教 マルコ1:40-45)。
ともかくも、清めと癒やしの御業をなす主なる神と、主イエス・キリストとが、「ファリサイ派」や「サドカイ派」にとっては結び付かなかったのであります。というのも彼らは、主イエスの「父なる神がわたしを遣わしたのだ」(ルカ4:18)との言葉に耳を塞いでいたからです。その上、彼らは律法の権威者としての立場、あるいは、儀式の献げ物・受け取り機会が失われるのを危惧していたのかも知れません。
一方、ファリサイ派の律法学者は、弟子たちに向かって不平をつぶやきました。この敵対者は自分の本心を隠していました(マルコ3:6)。他方、主イエスは敵対者を含め「食事の席」の一同に答えられました。
Ⅳ わたしが来たのは、罪人を招くためである
マルコ福音書2:17――
イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」
主イエスが愛と知恵に満ちた言葉を発せられました。わたしたちは聖霊に導かれるように祈り、これに耳を傾けなければなりません。
主イエスの発言には、諺ふうの二つの句が用いられています。次のように書き改めれば、二つの句の並行性は一目瞭然でしょう。
「医者なるわたしが来たのは、丈夫な人を診るためではなく、病人を診るためである。」
⇑ 常識 《メッセージ上の落差》 ⇓ 人の心に思い浮
かびもしなかったこと
*《落差》をつくり出して、はっと!させる論法
「メシアなるわたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」
問題は、この二つの句のつながりと、それぞれの内容です。ポイントは二つに絞られます。
・一つ目の常識的な内容を持つ句を前置することにより、驚きの内容を持つ二番目の句へと滑らかに導入する。
・そうして、聞き手を、世の中の常識から福音の世界へとジャンプさせる。
主イエスの巧みな説教こそが、「罪人」をジャンプさせる原動力になっています。それは、聖書的に言えば、わたしたちは聖霊の導きによって、「罪人を招く」イエス・キリストを信じるということです。
ここには、徴税人レビの事例の通り、この人は「悔い改め」そうな善い人だから、「招こう」というような予見は一切ありません(比較:ルカ5:24)。このテキストが語る出来事において、どこに比重が掛かっているか、もうお分かりでしょう。
主イエスによって食事の場〈聖餐〉が設けられ、「大勢の人」が招き入れられた、そこで、人々が主イエスに出会った、そして、主イエスの御言葉〈説教〉を聞いて、「多くの徴税人や罪人」が主イエスを信じたということです。不足も余分もありません。これが、主イエスの伝道であり礼拝です。
主イエスはガリラヤ湖畔の伝道においてすでに、将来の教会設立を見通しておられたということも分かります。主イエスはガリラヤ湖の南方を、山々の向こうのエルサレムを望み見ておられたのではないでしょうか。「神の神殿」(歴代誌上29:2)の立つ都で、主イエスは十字架につけられて死を遂げ、三日後によみがえられます。そうして、50日後、天下のあらゆる国からの帰還者が見ている中で、「神の教会」(使徒20:23)が建てられます(同上2:1,5)。
そこに、大勢の「ガリラヤの人」も集っていました(使徒2:7)。彼らは、聖霊の降臨を通して、死んでよみがえられたイエス・キリストに出会いました。彼らの中には、ガリラヤで主イエスが弟子たちに告げられた御言葉を伝え聞いていた人もいることでしょう……「人の子は、人々の手に引き渡され、殺される。殺されて三日の後に復活する」(マルコ9:31)。突然、激しい風が吹いて来るように、聖霊が降った日に、「主イエスがどのようなお方であるか」が明らかにされました。
結
ある意味では、主イエスとレビの出会い、ならびに、レビの家での食事は、ガリラヤ伝道の一コマに過ぎません。しかし、主イエスがどこでも、いつでも、大切に心に留めていることがあります。
それが、ご自身の十字架と復活の御業によって、父なる神の栄光を現す(マルコ8:38、使徒3:13)ということでありました。永遠の昔から、御父と御子は、預言者や詩編詩人の口を通して、「あなたの御名」をあがめ(詩編79:9)、その「栄光」をほめ歌うよう(同上66:2)、民を導いてこられました。それに続くわたしたちの讃美は、世の終わりまで、御国に入れられるまで続けられるものであります(ヨハネ黙示録11:13、19:7)。苦しい時にも、主イエスがわたしたちと共におられます(Ⅱヨハネ1:3)ので、御国をめざすわたしたちには慰めと希望があります。
御父と御子は、神の「御名」をあがめ、神の「栄光」をほめ歌うわたしたちに、「罪を赦す」と宣言してくださいました。「わたしが来たのは、罪人を招くためである」との主イエスの御言葉が聞こえたと同時に、「わたしたちの罪」は赦されました。
わたしたちには、無償の恵みにほかならない、赦しによって、神とわたしたちとの交わりが築かれています。いつでも、立ち上がって、主イエスに従えるように、詩編詩人と共に祈りましょう。
わたしたちの救いの神よ、わたしたちを助けて
御名のために、わたしたちを救い出し
2024年 3月10日 日本キリスト教団 茅ヶ崎香川教会
復活前第3主日(受難節第4主日) 大人と子どもの合同礼拝
新約聖書 ルカによる福音書 2章25節~38節(P.103)
説 教「赤ちゃんイエスが神にささげられる」 小河信一牧師
説教の構成――
序
Ⅰ “霊”に導かれて神殿の境内に入って来た ……ルカ2:25-27
Ⅱ わたしはこの目であなたの救いを見た ……ルカ2:28-32
Ⅲ 多くの人を倒したり立ち上がらせたりする ……ルカ2:33-35
Ⅳ 救いを待ち望んでいる人々皆に ……ルカ2:36-38
結
序
ヨセフとマリアが生まれたばかりの子を抱いて、神殿に入って来ました。その子の人生の幸いを願って、神の祝福を受けるためです。
さあ、わたしたちも、ベツレヘムの町で主イエスが誕生されたのをお祝いしたように、エルサレムの都で主イエスが神にささげられるのをお祝いしましょう。ベツレヘムでは、羊飼いたちや占星術の学者たちとの出会いがありましたが、エルサレムではどんな出会いが待っているのでしょうか。神はベツレヘムに駆けつけられなかった人々にも、すばらしい巡り会いを用意しておられます。
主イエスが生まれる前、主の天使が父ヨセフに現れて、「マリアは男の子を産む。この子は自分の民を罪から救う」(マタイ1:21)と告げました。その告知に従って、主イエスの宮参りの時に、救いを待ち続ける多くの人々の中から、二人の人物が神に選ばれて登場します。その出来事を詳しく伝える聖書を読んでみましょう。
Ⅰ “霊”に導かれて神殿の境内に入って来た
ルカ福音書2:25-27――
25 そのとき(原文 そして見よ)、エルサレムにシメオンという人がいた。この人は正しい人で信仰があつく、イスラエルの慰められるのを待ち望み、聖霊が彼にとどまっていた。26 そして、主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない、とのお告げを聖霊から受けていた。
27 シメオンが“霊”に導かれて神殿の境内に入って来たとき、両親は、幼子のために律法の規定どおりにいけにえを献げようとして、イエスを連れて来た。
神殿の境内にふさわしい、清らかな空気に満ち満ちています。理由はシンプルです。シメオンに関し、「聖霊が彼にとどまっていた」、「お告げを聖霊から受けていた」、そして「“霊”に導かれて入って来た」と述べられています。このように、「聖霊」によってシメオンはこの日のために、聖別されていたのです。神の恵みによって彼に、「潔白な手と清い心」(詩編24:4)が授けられていたに違いありません。
「“霊”に導かれた」シメオンならば、「主が遣わすメシア」が見分けられるはずです。この世の知恵を誇る人は常識的に、大人の中から「メシア」を探し出そうとしたかも知れません。ところが、シメオンの目に留まったのは、或る「両親と幼子」の姿でありました。
人生の中で幾度も見てきた宮参りのういういしい光景であったことでしょう。しかしこの時、シメオンに、電光石火のごとく、「聖霊」からの知恵が与えられました。すなわち、「(メシアと会うとの)お告げを聖霊から受けていた」、そのメシアはこの赤ちゃんにほかならない、と。
シメオンは祭司から、「すべての初子を聖別してわたし(神)にささげよ」(出エジプト記13:2)との教えを授けられていたことでしょう。というのも、これは主なる神がモーセに示された、ユダヤの民にとって伝統的な律法だからです。神に「初子をささげる」ことを通して、神とのつながりが確かめられ、より強固なものとされるのです。
ユダヤの民は、「初子をささげる」という献身のしるしとして、犠牲(山鳩一つがいか家鳩の雛二羽 ルカ2:24)を差し出しました。大切なのは、この慣習を行うことにより、苦難から解放された主エジプトの出来事を思い起こすことでありました(出エジプト記13:15)。今も働いて、大いなる「救い」を与えてくださる神を拝むというのが、幼子とその家族の慣習の中心にあることでした。
その主なる神は、「見よ、エルサレムにシメオンという人がいた」という今日の出来事を通じて、人が思いもしなかった「救い」を示されました。それが、今日一度限りの、両親と主イエスの宮参りでありました。そして神は、エルサレムの神殿から全世界に向けて、「メシア」の誕生を告知する人物として、シメオンを召し出されました。それが、「見よ」との一句に込められた深意なのです。
その時、どのように振る舞うべきか、何を語るべきかが、「聖霊」によってシメオンに示されました(マタイ10:19-20)。
Ⅱ わたしはこの目であなたの救いを見た
ルカ福音書2:28-32――
28 シメオンは幼子を腕に抱き、神をたたえて言った。
29 「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり
あなたの民イスラエルの誉れです。」
年老いた者が、生命力の満ちた赤ちゃんを、その腕にしっかり抱きました。何と微笑ましい情景なのでしょう。母マリアが「布にくるんで飼い葉桶に寝かせた」(ルカ2:7)ということから見ても、血縁でない者が赤ちゃんを抱きかかえるのは、特別なことでありました。ここでシメオンは、ささげられる幼子を迎え入れ、祝福する祭司の役割を果たしています。
シメオンが、祭司以上の祭司であると見なされるのは、彼が律法や慣習の知識や経験において豊かであるとの意味ではありません。そうではなく、メシアの到来を信じ、「“霊”に導かれて」、真剣に「生きて死のう」としていた点において、人後に落ちないとの意味です。そのことは、主なる神の御計画と執り成しによって「この僕を安らかに去らせてくださいます」との言葉が雄弁に物語っています。「主が遣わすメシアに会う」ことが、今日成し遂げられました。
まだ赤ちゃんでありながら主イエスは、「死の陰の谷を行く」(詩編23:4)、一人の老人に平安と希望を与えました。
「わたしはこの目であなたの救いを見たからです」……言い換えれば、赤ちゃんイエスが神にささげられるのを見た、自分はその現場に立ち会ったということになります。シメオンにとって、その子が自分の死を担ってくれたというほどに、歓喜したのであります。それによって、労苦に満ちた人生全体が慰めにあふれるものに変えられました。
その子が神にささげげられる(ルカ2:22,27)ということは、生涯、神に仕える者となることを意味しています。その通り、主イエスは神から遣わされ(同上2:26)、公生涯を通して、神の栄光を現されました(ヨハネ14:4,40)。そうして、ご自身が神に仕える者、神の僕であることを示されました。シメオンはそのようなメシアを目撃し、腕に抱いた最初の人でありました。
シメオンは生涯をかけて待ち続けた、忍耐の人でありました。また、シメオンは聖霊の助けによってこそ、「正しい人で信仰があつく」あり得ることを証ししました。わたしたちもまた、「わたしはこの目であなたの救いを見た」という信仰者の証言を受け入れ、シメオンの後に続きましょう。
シメオンは典型的なイスラエル人でありましたが、赤ちゃんイエスの内に、「異邦人を照らす啓示の光」を見出していました。シメオンは高齢のため、もはや旅し得ないような、異邦の国々にも、福音が届けられるようにと祈る者に変えられました。
Ⅲ 多くの人を倒したり立ち上がらせたりする
ルカ福音書2:33-35――
33 父と母は、幼子についてこのように言われたことに驚いていた。34 シメオンは彼らを祝福し、母親のマリアに言った。「御覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。
35 ――あなた自身も剣で心を刺し貫かれます――多くの人の心にある思いがあらわにされるためです。」
シメオンの言葉には、神殿の祭司をはるかに越えるように、聖霊が宿っています。神へのほめたたえと自らの証言から、「母親のマリア」に対する、すなわち、世の人々に対する預言へと転じています。そこには、子どもを神にささげに来た家族への「祝福」が表されています。殊更に、「母親のマリアに言った」というのは、マリアが主イエスの公生涯の間、主に寄り添い、その労苦を共にする代表者だからでありましょう。
シメオンの預言から、二つの文(①と②)を取り上げます。
①「この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりする」……主イエスが「多くの人を倒したり」することによって、或る人はつまずき、また或る人は反撃を試みます。主イエスへのねたみや争い(Ⅰコリント3:3)が積み上げられ、最後には主イエスを裁いて十字架につけます。
元より、「主によって倒される」という自分の経験は貴重なはずです。そこで、敗北感や挫折感にこだわり続けるなら、信仰の道に帰ることはありません。しかし、「主によって倒される」ことを「神の御心に適った悲しみ」(Ⅱコリント7:10)をもって受け止めるなら、悔い改めて、正しい道に立ち帰るでしょう。
そのような人には、「この子は多くの人を立ち上がらせたりする」という恵みが増し加えられます。というのも、「立ち上がること」には「復活」との意味があるからです(ルカ20:27,36)。主イエスの十字架の苦難が復活に通じているように、主につき従う人は、世にあって打ち倒されることもありますが、終わりの時に復活させられます。
「わたしは、キリストと共に十字架につけられています。生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです」(ガラテヤ2:19-20)とは、まさにこのことです。このように、マリアに向けてのシメオンの預言は、彼が「安らかに(この世を)去った」後、使徒パウロによって受け止められ、宣教の言葉として用いられました。
②「あなた自身も剣で心を刺し貫かれます」……若い母マリアへの重い言葉です。少し文意が汲み取りにくい面がありますので、旧約聖書に照らしながら説き明かしましょう。
まず、「あなた自身も」との言葉遣いに含蓄があります。明白にすべきなのは、誰か他の人も、「剣で心を刺し貫かれる(であろう)」ということです。そこで、旧約聖書を引用しましょう。
わたし(神)はダビデの家とエルサレムの住民に、憐れみと祈りの霊を注ぐ。彼らは、彼ら自らが刺し貫いた者であるわたしを見つめ、独り子を失ったように嘆き、初子の死を悲しむように悲しむ。
これは、「エルサレムの救いと浄化」についての主なる神の託宣です。神が終わりの時に、エルサレムの上に注ぐ「憐れみと祈りの霊」の約束がなされています。同時に、これは、主イエス・キリストの最期、すなわち、十字架上の死に対する預言になっています。
ここで「わたし」というのは、明らかに「神」を昭示しています。驚くべきことに、「ダビデの家とエルサレムの住民」によって、「わたし」なる神が「刺し貫かれ」ます。この預言は、主イエス・キリストが十字架に上げられ、死を遂げられる中で成就しました。
ヨハネ福音書19:34,37――
34 しかし、兵士の一人が槍でイエスのわき腹を刺した。すると、すぐ血と水とが流れ出た。……これらのことが起こったのは、聖書の言葉が実現するためであった…… 37 また、聖書の別の所に、「彼らは、自分たちの突き刺した者を見る」(ゼカリヤ書12:10)とも書いてある。
そこで、十字架のそばにいたマリア(ヨハネ19:25)に、「あなた自身も剣で心を刺し貫かれます」ということが起こったのです。十字架上の主イエスを見つめながら、マリアは「初子の死」を深く悲しんだのであります。マリアは、十字架から降ろされた御子を抱いたと言われています。この伝承に基づいて、イタリアの芸術家・ミケランジェロ(1475年-1564年)は、彫刻で「ピエタ」(Pietà 慈悲の意)を制作しました。
「あなた自身も剣で心を刺し貫かれます」……それが、赤ちゃんイエスを神にささげるために、エルサレムの神殿に上って来たマリアへの言葉でありました。シメオンがマリアに贈った言葉でありました。
「槍でわき腹を刺された」主イエスと、「剣で心を刺し貫かれた」マリアとによって、「多くの人の心にある思いがあらわにされ」ます。主イエスへの裏切り・驕り・無関心などの罪性が暴き出されます。わたしたちは、「自分たちの突き刺した者〈イエス・キリスト〉を見る」ことによって、自らの罪科を悔い改めたいと願います。
Ⅳ 救いを待ち望んでいる人々皆に
ルカ福音書2:36-38――
36 また、アシェル族のファヌエルの娘で、アンナという女預言者がいた。非常に年をとっていて、若いとき嫁いでから七年間夫と共に暮らしたが、37 夫に死に別れ、八十四歳になっていた。彼女は神殿を離れず、断食したり祈ったりして、夜も昼も神に仕えていたが、38 そのとき、近づいて来て神を賛美し、エルサレムの救いを待ち望んでいる人々皆に幼子のことを話した。
シメオンに続いて、二人目の証人(申命記19:15)が登場します。アンナはシメオンとは異なる働きをしました。イエス、ヨセフとマリア、シメオンとアンナ、計5人によって、赤ちゃんが神にささげられるという儀式が祝われました。それは、聖霊の息吹に満ちた、神聖なものでありました。
アンナが「神殿を離れず、断食したり祈ったりして、夜も昼も神に仕えていた」との叙述から、アンナ(ギリシア語)と同名のハンナ(ヘブライ語)……意味は「恵み」……のことが思い起こされます。
ハンナの夫はエルカナと言い、彼女は子どもが誕生するのを待ち望んでいました。主の神殿のあるシロ(エルサレムの北32㎞にある町)に上る時はじめ、ハンナは常日頃から、主に祈っていました(サムエル記上1:10、2:1)。そうして、主なる神にハンナの祈りが聞かれ、初子の男子が与えられました(同上1:20)。その子サムエルは乳離れした後に、シロの祭司エリのもとにあずけられました(同上1:28)。ハンナは主に願って得た独り子を、主にささげたのであります。前途の暗澹たる時代に、神にささげられた、その独り子・サムエルは神の御心を告げる預言者となりました。
このように、ハンナは、子どもが神にささげられるということの重さをよく知る女性でありました。彼女がシロの聖所にあずけた独り子は、存分に神の恵みと祝福を受け、人生を全うしました。そして、そのハンナの思いを受け継ぐかのように、アンナがエルサレムの神殿に出現しました。
「女預言者」であり「非常に年をとって」いたアンナが、「そのとき、近づいて来て」、主イエスに出会いました。
そして、「神を賛美し」ながら、アンナは彼女の長い人生において、初めてのことに取りかかりました。それが、「エルサレムの救いを待ち望んでいる人々皆に幼子のことを話した」ということでありました。ここに、主イエス・キリストを宣べ伝える伝道が始められました。この「幼子」によって、「主の教えはシオンから 御言葉はエルサレムから出る」(イザヤ2:3)との預言が、今日、宮参りにおいて成就しました。
それは、多くの人と「神からいただいた恵み」(ルカ1:30)を分かち合うということでありました。それこそが今日、「恵み」の女、アンナに託された、神の僕としての使命でありました。
結
主イエスの時代からさかのぼること、およそ一千年前のことです。一人の女がシロにある主の神殿に上り、初めて産んだ男の子を神にささげました。そうして、この子は生涯、主にゆだねられた者となりました。祭司エリ、ハンナとその幼子、そして犠牲を捧げるのを手伝った人々は、礼拝をしました(サムエル記上1:24-28)。幼子の行く末と共に、神の信じる人々の内に、まことの希望があるようにと祈ったことでしょう。
それから、国が建てられ、そして国は滅び、ちょうど一千年の時が満ちました。今日再び、祈りをもって神に独り子をささげる、祝いの儀式が執り行われました。神殿の立つ都エルサレムで、若い世代の家族が高齢の男女に迎えられました。神がほめたたえられ、幼子とその両親が祝福を受けました(ルカ2:28,34,38)。
主イエス・キリストがこの世のただ中に遣わされました。そうして、わたしたちを救う(ルカ2:30)との神の御心が示されました。
だから、今日は、「恵みの時、救いの日」(Ⅱコリント6:2)なのです。
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月報2月号
説教 『 安息日は人のためにある 』
マルコによる福音書 2章23節~28節 小河信一 牧師
説教の構成――
序
Ⅱ 祭司は聖別されたパンをダビデに与えた ……サムエル記上21:1-7
Ⅲ ダビデも供の者たちも空腹だった ……マルコ2:25-26
Ⅳ 安息日は、人のために定められた ……マルコ2:27
Ⅴ だから、人の子は安息日の主でもある ……マルコ2:28
序
新しい年を迎えた今朝、わたしたちは主の日の礼拝に招かれました。今年もまた、わたしたちは礼拝から礼拝へと、日曜日・52回、永遠なる神の国をめざして歩んで行きます。
マルコ福音書2章の終わりと3章の初めに、「安息日」の出来事または論争が出てきます。福音書記者はわたしたちに、「安息日」に主イエスがどんなことを語り、どのように振る舞われたのか、を伝えようとしています。
端的に言えば、主イエス・キリストのよみがえりにおいて、「安息日」(土曜日)は、主の日・日曜日と密接につなげられました。なぜなら、「安息日」にいやしを行い、戒律の束縛を解き放ち、人々に安らぎを与えられた主イエスが、わたしたちへの祝福をもって、日曜日の朝に復活されたからです。従って、わたしたちは四つの福音書に記されている「安息日」の主イエスの行いと言葉を思い起こす必要があります。それこそが、主日の礼拝への善き備えとなります。
すでに主イエスは数々の御業をもって、人の罪を赦し、人を癒されました。そのような主イエスが週の初めの日に、「新しく創造する」力をもって(Ⅱコリント5:17)、わたしたちを迎え入れて、身と心を清めてくださいます。挫折していた人が立ち直らされます。
「安息日」とは、一体どんな日であるのか、主イエスの教えに耳を傾けましょう。恵み豊かな「安息日」が、主イエス・キリストの執り成しによって、主日の礼拝において回復されますように!
Ⅰ 安息日に麦の穂を摘む
マルコ福音書2:23-24――
23 ある安息日に、イエスが麦畑を通って行かれると、弟子たちは歩きながら麦の穂を摘み始めた。24 ファリサイ派の人々がイエスに、「御覧なさい。なぜ、彼らは安息日にしてはならないことをするのか」と言った。
ファリサイ派の人々が主イエスに厳しい問いを投げかけました。すでに述べた通り、マルコ福音書2:1-3:6では、律法学者、そして、ファリサイ派やヘロデ派の人々が次々に現れ、彼らは主イエスと論争します。そのやりとりの中で、主イエスへの反論や批判が提示されます。群衆(マルコ2:4,13、3:9,20,32)は固唾を呑んで見守っています。
論争のテーマはいろいろですが、イエス・キリストがどのようなお方であるのかを巡って深められていきます。今回のテキストでは殊に、「安息日に」、つまり、主日に、イエス・キリストはどのようなお方としてわたしたちの間に臨在されるのか、が明示されています。御自身と人に関する重大な宣言をもって、よみがえりの日に向けて、主の日(日曜礼拝)が確立されます。
以前、律法学者は、主イエスが中風の人に「あなたの罪は赦される」と言われたのを聞き、心の中であれこれ考えました(マルコ2:6)。見て見ぬ振りをするかのように、つぶやくだけでした。
ところが、ここでは、「ファリサイ派の人々がイエスに」、面と向かって問いただしました。今後ファリサイ派の人々は、ローマ帝国の権力者やユダヤの民衆を巻き込んで、主イエスに刃向かいます(マタイ27:6、ヨハネ18:3)。
ここでは、「弟子たちは歩きながら麦の穂を摘み始めた」という行為が、攻撃の的とされました。ファリサイ派の人々は、「あなたは六日の間働き、七日目には仕事をやめねばならない。耕作の時にも、収穫の時にも、仕事をやめねばならない」(出エジプト記34:21)との安息日の規定を念頭に置いているようです。つまり、「麦の穂を摘む」ことが、刈り入れ行為であり、掟破りだと言うのです。ここには、安息日を厳守しようとするあまり、その規定を過度に煩雑にする傾向がうかがわれます。
実際には、申命記23:26に、「隣人の麦畑に入るときは、手で穂を摘んでもよいが、その麦畑で鎌を使ってはならない」との規定があります。安息日に、「手で穂を摘む」ことを禁じてはいません。聖書に照らせば、ファリサイ派の詰問は言いがかりに他なりません。出エジプト記34:21はあくまでも、農作業としての「収穫」、鎌を入れる「仕事」を差し止めているのでしょう。
主イエスはファリサイ派の人々への反論として、ダビデの故事を引用しています。それは、聖書を熟知しているファリサイ派に真正面から向けられたものです。同時に、ここでの安息日論争を、聖書に照らして、すなわち、父なる神の御心を問いながら進めようとする、主イエスの姿勢がうかがわれます。そこで、主イエスが聖書の権威に基づいて反問されようとしている、そのダビデの故事の原典を読んでみましょう。
Ⅱ 祭司は聖別されたパンをダビデに与えた
1 ダビデは立ち去り、ヨナタンは町に戻った。2 ダビデは、ノブの祭司アヒメレクのところに行った。ダビデを不安げに迎えたアヒメレクは、彼に尋ねた。「なぜ、一人なのですか、供はいないのですか。」 3 ダビデは祭司アヒメレクに言った。「王はわたしに一つの事を命じて、『お前を遣わす目的、お前に命じる事を、だれにも気づかれるな』と言われたのです。従者たちには、ある場所で落ち合うよう言いつけてあります。4 それよりも、何か、パン五個でも手もとにありませんか。ほかに何かあるなら、いただけますか。」 5 祭司はダビデに答えた。「手もとに普通のパンはありません。聖別されたパンならあります。従者が女を遠ざけているなら差し上げます。」 6 ダビデは祭司に答えて言った。「いつものことですが、わたしが出陣するときには女を遠ざけています。従者たちは身を清めています。常の遠征でもそうですから、まして今日は、身を清めています。」 7 普通のパンがなかったので、祭司は聖別されたパンをダビデに与えた。パンを供え替える日で、焼きたてのパンに替えて主の御前から取り下げた、供えのパンしかなかった。
最初に、この時ダビデを取り巻いていた状況を説明しましょう。それによって、一見取るに足りない挿話に思われる、この出来事に、主イエスが着目された訳が分かります。
ダビデがヘブロンで油を注がれて王になる(サムエル記下3:1)、それよりずっと以前のことでした。当時の王サウルは、ペリシテ人に向かって出陣し、連戦連勝するダビデを恐れ、ねたみを抱いていました(サムエル記上18:9,12)。
難を避けて、ダビデは逃亡しました(サムエル記上19:18)。ダビデは従者たち(同上21:3,5,6)と共に、ユダヤとペリシテの周辺をさ迷っていました。サウルの遣わした追っ手の目をくらまそうと、洞窟に隠れたり、要害に立てこもったりしました(同上22:1,4)。それでも、「彼の兄弟や父の家の者」、また、「困窮している者、負債のある者、不満を持つ者」がダビデのもとに集まって来ました(同上22:1-2)。誰しも思うのは、ダビデは王になる前に、こんなにも苦労していたのか、しかも、理不尽な理由で、ということでしょうか。
このようにして、人々はイエス・キリストの予型でもあるダビデに関心を寄せたのであります。困窮の中で、「きょう日用のパンが与えられた」こと(マタイ6:11)、「従者たち」とそれを分かち合ったことは、キリストにある信仰者の先駆けとなる、恵みの出来事でありました。主なる神は祭司の手によって、みじめで罪深いダビデ(サムエル記上21:3の祭司に対する言い訳は虚偽 他に同上21:14)に「聖別されたパン」を差し出されました。
「ダビデは、ノブの祭司アヒメレクのところに行った」時というのは、「パンを供え替える日」で、それは「安息日」を指し示しています。というのは、金曜日に焼いた「焼きたてのパン」が「供え替え」られるのは、「安息日」の間、供えておくためだからです。そういう経緯で、ダビデと従者たちが「普通のパン」でない「聖別されたパン」を食べました。
ダビデたちは改めて、神への感謝と祈り(サムエル記上23:2)を呼び覚まされてのではないでしょうか。祭司しか食べてはならない「聖別されたパン」(レビ記24:9)を一般人に与えるのは、けしからんと言う人は、神の御心の大きさに心開かれるべきでありましょう。ダビデの故事を援用された、主イエスの言葉を読んでみましょう。
Ⅲ ダビデも供の者たちも空腹だった
マルコ福音書2:25-26――
25 イエスは言われた。「ダビデが、自分も供の者たちも、食べ物がなくて空腹だったときに何をしたか、一度も読んだことがないのか。26 アビアタルが大祭司であったとき、ダビデは神の家に入り、祭司のほかにはだれも食べてはならない供えのパンを食べ、一緒にいた者たちにも与えたではないか。」
ダビデの故事の原典(サムエル記上21:1-7)との違いに気づかれたでしょうか?
もし原典に書かれていなかったことが、主イエスの説き明かしの中にあるとすれば、それは強調点に他なりません。
「祭司のほかにはだれも食べてはならない供えのパン」との記述はサムエル記上にはありませんが、レビ記24:5-9「十二個のパン」の規定に書かれています。それ以外では、「食べ物がなくて空腹だったときに」と「ダビデは神の家に入り」との記述が注目されます。
「ダビデは神の家に入り」は原典では、「ノブの祭司アヒメレクのところに行った」となっています。「イエスの言われる神殿とは、御自分の体のことだったのである」(ヨハネ2:21)とのメッセージのもとに、主イエスは御自身の伝道において、「神の家(神殿)に入る」ことを重視されています。そして、わたしたちもまた、「神の家」・「キリストの体」なる教会に入って、主イエス・キリストを拝むということを重んじています。
さて、主イエスの「従者」・「供の者」なる「弟子たち」に関わる言表として、「食べ物がなくて空腹だったときに」を取り上げましょう。元の文には、ダビデや従者が飢えていたと報じられてはいません。
「人の子」イエスは、人間の飢え渇きをよく知るお方でありました。その宣教の原点として、「四十日間、昼も夜も断食した後、空腹を覚えられた」(マタイ4:2)との荒れ野での経験を持っておられます。そしてまた、ガリラヤ湖畔では、「群衆がかわいそうだ。もう三日もわたしと一緒にいるのに、食べ物がない。空腹のままで解散させたくはない。途中で疲れきってしまうかもしれない」(同上15:32)と言って、群衆にパンと魚を分かち与えられました。
群衆にパンを配った弟子たち(マタイ15:36)の中には、主イエスの語ったダビデの故事を想起した者もいたかも知れません。すなわち、祭司が空腹のダビデを憐れんで、「供えのパン」を差し出したという主イエスの語りを……。
要するに、主イエスは、「安息日に、麦の穂を摘んではならない」とのファリサイ派独自の禁則を退けて、「一緒にいる、空腹の者たちにパンを与える」ことこそが、神の教えだと指し示されたのです。実際に、主イエス・キリストは、新しい「安息日」なる主の日に、「聖別されたパン」を、悔い改めて、主と「一緒にいる者たち」に分かち与えることをお許しになりました。そのために、主イエス・キリストは十字架につけられ、三日後によみがえらされました。その方が今も、「永遠の命に至る食べ物」(ヨハネ6:27)を与えてくださいます。
Ⅳ 安息日は、人のために定められた
マルコ福音書2:27――
そして更に(イエスは)言われた。「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。」
安息日論争は、主イエス・キリストの愛と権威が提示される形で結ばれています。ここでは、警句(真理を鋭く表現した句)が二つ並んでいます。
「安息日は、人のために定められた」……「ユダヤ人がシャヴットを守ってきたのではなく、シャヴットこそユダヤ人を守ってきたのである」というユダヤ民衆の伝承された諺があります。「人のために」、具体的に言うと、弱く貧しい民、罪深いユダヤ人を守り導くために、七日ごとの安息日が定められました。
それをいたずらに煩雑にして、人を苦しめるのは、本末転倒です。ファリサイ派の人々のように、「ユダヤ人がシャヴットを守ってきた」ことを鼻にかけるならば、安息日本来の意味が失われます。
安息日は「人のために」あるということで、人は不要な束縛や抑圧から解放されました。主の平和に包まれた主日の礼拝においても、わたしたちはまことの安らぎと自由を与えられています。
しかし同時に、神が安息日を「定められた」ことを忘れてはなりません。安息日こそ、わたしたちは聖なる神の支配のもとに置かれています。日常生活を中断して、「神の家」なる教会に入り、御言葉と「聖別されたパン」にあずかります。
創世記2:2-3――
2 第七の日に、神は御自分の仕事を完成され、第七の日に、神は御自分の仕事を離れ、安息なさった(シャヴァット)。3 この日に神はすべての創造の仕事を離れ、安息なさった(シャヴァット)ので、第七の日を神は祝福し、聖別された。
ここに、神の「定められた」安息日の本来に意味が明示されています。天地創造の七日目、「神は安息なさった」と二度書かれています。それは、「人のために」なることです。なぜなら、その日、人は神の「安息」の中へ招き入れられるからです。
「神は安息なさった」ことに基づいて、この日、人は仕事を中断し、神に感謝し神を讃美するのです。主イエス・キリストの愛と権威をもって、その「安息」が回復されました。わたしたちはそのことを記念して、主のよみがえりの日、日曜日に礼拝を守っています。
Ⅴ だから、人の子は安息日の主でもある
マルコ福音書2:28 主イエスの言葉――
「だから、人の子は安息日の主でもある。」
最後に、主イエスは弟子たちとファリサイ派の人々の関心を、主御自身に引き寄せられます。主イエスに詰問したファリサイ派の人々は祭司たちと共に、群衆を扇動して、主イエスを十字架刑に追い込みました(マタイ27:62、ヨハネ18:3)。ここでファリサイ派との闘いの第一段が始まったばかりなのです。
すべてにおいて、先を見通される主イエス・キリストは御自身が「人の子」であることを現されました。その「人の子」、主イエス・キリストが十字架と復活によって、新しい主の日を確立されます。従って、安息日論争の真実なる回答は、まさに主のよみがえりの朝、主に従ってきた女たちや弟子たちに差し出されます。
「その日、すなわち週の初めの日の夕方」(ヨハネ20:19)のことでありました。復活された主イエスは、「神は安息なさった」ことを、弟子たちに呼び起こさせるために、彼らの前に現れました。心身の衰え果てた弟子たちに「息を吹きかけ」られました(同上20:22)。これこそが、わたしたちの「安息」の源です。「その日」が終わりかけている、その寸前に、主イエスは「人のために」行動されました。
「その日」のうちに、「安息」が提供されたのは、主イエス・キリストのおかげです。それは、永遠の命の主であるお方が、わたしたちと共におられるという「安息」です。そのような意味が、「だから、人の子は安息日の主でもある」との警句に込められています。
主イエス・キリストが再び来られる日まで、永遠の「安息」が与えられるその日まで、わたしたちを主の日の「安息」を招き入れてくださいます。さあ、聖なる息を吹き入れられて、「安息」し、新しい一週を始めましょう。挫折して何かを「止めた」(シャヴァットの原意)人も、その時にリズムを立て直し、再出発できます。
Ω
2024年 3月3日 日本キリスト教団 茅ヶ崎香川教会
復活前第4主日(受難節第3主日)
旧約聖書 詩編24編 1節~10節(P.855)
新約聖書 ルカによる福音書 19章37節~40節(P.147)
説 教「栄光の王が入って来られる」 小河信一牧師
説教の構成――
序
Ⅱ 誰が、主の山に上り 聖所に立つのか ……詩編24:3-6
Ⅲ 栄光に輝く王が来られる ……詩編24:7-10
Ⅳ 弟子の群れはこぞって 神を賛美し始めた ……ルカ19:37-40
序
2月14日、「灰の水曜日」に受難節・レントに入りました。そして、今月31日には、復活祭・イースターを迎えます。
都エルサレムをぐるりと囲むように、城壁と城門がそびえ立っています。全世界から、祭りを祝うために、都に上って来ます。城門をくぐられる主イエスを待ち受けようと、巡礼者は道を急ぎます。
大きな祭りの中で、主イエスが何をなされるのか、目撃しようとして、都の内からも近隣からも、人々が集まって来ます。なつめやしの枝を持っている人もいます(ヨハネ12:13)。そして、群衆の中には、子どもたちの姿も見えます(マタイ21:15-16)。
十字架につけられるのに先立って、主イエスは、都の門をくぐって入城されました。そして、神殿の境内に入場されました(マタイ21:12、ルカ20:1)。ところで、なぜ、主イエスの「入城」または「入場」が、わたしたち・信仰者にとって大切なことなのでしょうか? 付け加えて言えば、主イエスは幼子の時にも(ルカ2:22,27-28)、また、少年の時にも(同上2:42,46)、エルサレムの神殿の境内に入場されています。そこで、大勢の人と出会われました(参照:弟子または使徒の神殿入場の事例:使徒3:1-3、21:26-27)。
この疑問に関する、説き明かしの要点として着目すべきは、以下の点です。
・到来されるお方は、どういうお方なのか、が示される。
・入場者の資格……日頃の真実応答(K.バルト)……が問われる。
・到来される神と信仰者との出会いが起こる。
旧約の入場(入祭 イントロイト)の際の礼拝式文と、主イエスのエルサレム入城とを重ね合わせて、上記の疑問について考えてみましょう。詩編24編の式文に即して、主イエスの出来事を捉え直すことで、「入場」または「入城」に関わる疑問が解かれてゆくことでしょう。
さあ、「棕梠の主日」(3月24日)に間に合うように準備を始めましょう。わたしたちも、子ろばに乗って入城される主イエスを迎える群衆の輪に加わることにしましょう。
極めて印象的な言葉から始まっています。その冒頭に置かれているのは、「主のもの」、すなわち、「主に属するもの」という句です。「主に」帰属しているもの、「世界とそこに住むもの」、すべてに呼びかけられています。
初めに、神は「その地」(原文:ハアレツ)を創造されました(創世記1:1)。「地」は混沌と闇に覆われていましたが、神は御言葉によって、「その地」に秩序と光を備えられました。元は「地」が混沌としていたという徴は、この詩編の「大海の上に」と「潮の流れの上に」との並行句にも見出されます。
しかし、「その地」は「主のもの」ですから、「主は(「主こそが」と強調されている)、大海の上に地の基を置き 潮の流れの上に世界を築かれた」のであります。ここに、どんなに「世界」が揺さぶられようとも、また、どんなに全地が災いに襲われようとも、創造主として「世界」を支え保つという決意が昭示されています。
「わたしは神、初めでありまた終わりであるもの」(イザヤ書48:12)……ユダヤの民がバビロン捕囚という暗闇の中で聞いた御言葉です。主なる神は、最後までわたしたちを守り導かれます。
わたしたちは「主に属するもの」と言われます。ではそこで、何が求められているのでしょうか?
ジュネーヴ教会信仰問答 カルヴァン著 問一と答――
「人生の主な目的は何ですか。」「神を知ることであります。」
わたしたちの造り主について「知る」ことが、礼拝においても大前提になります。「知られざる神」を拝む人はそのために祭壇を築きます(使徒17:23)。しかし、それは、自分で造ったものに対する偶像崇拝にほかなりません。「自分のもの」ではなく、「主のもの」から始めるべきです。
そのために、わたしたちは聖霊に導かれて、「隠されていた、神秘としての神の知恵」(Ⅰコリント2:7)にあずからねばなりません。そのようにして、わたしたちが畏れをもって、神を知ろうとするならば、「神の深みさえも究められます」(同上2:10)。
詩編24:1-2が礼拝者にとって、初めに耳を傾けるべき御言葉であることが明らかになりました。この原稿の結で、Ⅰ~Ⅳをまとめる際に、振り返りましょう。
Ⅱ 誰が、主の山に上り 聖所に立つのか
詩編24:3-6 ①――
礼拝式の上で、まだ神と人とは出会っていません。その前に、わたしたちの告白が求められています。前段の詩編24:1-2では、創造主なる神について告知されました。だから、今度はわたしたちの番です。
恐れることはありません。ここに集っている者たちは、聖霊を通して「神の知恵」を受け、神を知り信じています。そこには、自ずから神をほめたたえるという姿勢が整えられています。讃美するように、主に向かって告白すればよいのです。
神が人を招き入れるかのように、「どのような人が、主の山に上り 聖所に立つことができるのか」と問いかけています。都エルサレムへの道が「上り」であるのは、人生の悩み苦しみを表しているかも知れません。そうした時に、巡礼の群れは互いに励まし合うように、歌をうたいます。谷間から都へと讃美がこだまする中で、「聖所に立つ」自分を思い描くことでしょう。
欺くものによって誓うことをしない人。
ヤコブの神よ、御顔を尋ね求める人。
ここには、聖なる神、聖なる神の家(聖所)、そして聖なる神の信仰者という「聖なるかな」の三重奏が見られます。
思い起こせば、モーセがシナイ山に登って十戒を授けられた時、民は山に登ることが許されませんでした(出エジプト記19:20-25、34:1-4)。どうして、山の頂に立ったのが、モーセひとりだったのでしょう。それは、神と人とが出会う場所が、聖とされなければならなかったからです。モーセは神に召された時に、すでに「聖なる土地」(同上3:6)に立つという経験をしました。彼は神を畏れ敬う人でありました。
そして今、主なる神は巡礼者たちを、「聖なる土地」である「主の山」に導き入れようとしています。モーセに導かれた荒れ野放浪の時代と異なり、民の中には神殿・「聖所」での礼拝を体験したことのある大勢の人々がいました。というのも、ダビデ王の治世(前1004年-965年)に、楽器の演奏によって讃美をささげる礼拝が始められていたからです(歴代誌上15:16、同下7:6)。その礼拝の扉が開かれるに値する巡礼者たちとは……
「それは、潔白な手と清い心をもつ人」……言い換えれば、「あなたは聖なる神を拝むにふさわしく、聖別されているか」、を吟味しなさいということです。
考えてみれば、「潔白な手」は礼拝において多用されています。聖餐・配餐、奏楽、献金、祈祷、祝祷など、優美で闊達な「手」の動きには神の霊が宿っていると言えましょう。そのためにも、内奥から「清い心をもって」、神に仕えねばなりません。しかし、あまり自分の「手」や「心」のありように過敏になることはありません。問われているのは、「主のもの」としてのわたし全体です。
「それは主を求める人 ヤコブの神よ、御顔を尋ね求める人」……ひと言でいえば、どういう人か、が総括されているような句が提示されています。「わたしは主に属するものである」と信じていることが原点です。ならば、すべてに先立って、全身全霊をもって「主を求める」はずです。
苦難に遭って、主が「御顔」が隠された思うようなときにも「むなしいものに魂を奪われて」はなりません。忍耐強く「御顔を尋ね求める」ことです。主なる神は、わたしたちがこの世の旅路において、格闘している(Ⅰコリント3:8)のをご覧になっています。
確実に「主の山に上り 聖所に立つことができる」入場チケットがあるわけではありません。ただ、主なる神を信じていることを告白するだけです。それ故に、ひたすら「主を求める」こと、神を知ることが大切なのです。主なる神が聖霊を通して、あなたにその憐れみ深さを教えてくださいます。
詩編24:3-6 ③――
5 主はそのような人を祝福し
わたしたちが、「どのような人」かの一番の決め手は、わたしたちと主との関係にあります。主との交わりを感謝して、自分のことを言う前に、主について告白するということを、この詩編詩人は知っています。
主なる神と出会い、礼拝する大きな目的は、御力によって「祝福」と「恵み」を回復していただくことです。なぜなら、神の愛と義を追い求めようとするわたしたち(Ⅱテモテ2:22)を、「むなしいもの」や「欺くもの」が妨害しているからです。
わたしたちの努力がむなしく感じられるとき、「救いの神」が見えなくなります。だからこそ、最善の形を伴った霊的な礼拝、すなわち、わたしたちはじめ被造物が「主のもの」であると宣言される礼拝が重要になるのです。
詩編24:1-6において、主なる神とは一体どのようなお方なのか(Ⅰ)、そして、「主の山に上り 聖所に立つことができる」のはどのような人なのか(Ⅱ)、が説き明かされました。これらは準備でありました。しかしそれは、いよいよ主が「入場」されることのために、不可欠な準備でありました。待っている時間を、そのために捧げるならば、退屈し堕落することなどありません。
Ⅲ 栄光に輝く王が来られる
詩編24:7-10の内容と構成を踏まえて、「交読文」風に書き表してみましょう。会衆がこの「交読文」を唱えながら、礼拝堂に「入場」している、と想像してみてください。
A 独唱で司式者が歌い、そして問いかけます。 B 合唱で会衆が答えます。
とこしえの門よ、身を起こせ。
9 〈告知〉
とこしえの門よ、身を起こせ。
A 栄光に輝く王とは誰か。
司式者の先唱に誘導されて、ぞくぞくと巡礼者たちが主の家に帰って来ます。皆さん、無事、「主の山」を上りきり、神の神殿に入って来ることができたでしょうか。
〈告知〉の文頭に置かれた動詞・命令形が際立っています(4回:前の24:1-6には0回)。そのため、堰を切ったように「交読文」が躍動し、呼び交わすような声がこだましています。後続の巡礼者もその声に励まされて、無事たどり着くことでしょう。
また、〈告知〉と〈問答〉とが2回繰り返される巧緻な形式は、まさに礼拝式文を思わせます。ユダヤの民はこのような詩編に慣れ親しんでいたのであります(詩編24に類するもの:詩編15:1-5、100:1-4、118:19-21)。そうだとすれば、主イエスがエルサレムの城門をくぐって神殿の丘に上られたという出来事は、まさしく礼拝的な儀式でありました。その上、まことの「王」が「子ろばに乗っておいでになる」(マタイ21:5)という新しさがもたらされました。
それでは、詩編24:7-10の礼拝式文の要点を押さえておきましょう。
〈告知〉「栄光に輝く王が来られる」……2回、宣言されています。「角笛が鳴り響く」(詩編47:6)と共に、主が入って来られます。その時がまさに、クライマックスなのです。主はわたしたちの傍らにいますために来られます。
主なる神が入場されます。そうして、到来される神と信仰者との出会いが起こります。「主なる神が入場される」と言っても、わたしたちの理解が難しいのは、十分承知しています。神が見えない……だから、この神の顕現は、「神秘としての神の知恵」(Ⅰコリント2:7)をもって信ずべき出来事なのであります。
最後の場面で、〈問答〉「栄光に輝く王とは誰か」について、2回応じることが要求されています。「正解」を言おうと急いではなりません。まず、答えるあなた自身を省みてください。
「あなたは潔白な手と清い心をもつ人ですか」、また、「あなたは主を求める人ですか」、礼拝堂に足を踏み入れる前に、熟慮するよう促しています。「だから、あなたが祭壇に供え物を献げようとし、兄弟が自分に反感を持っているのをそこで思い出したなら……まず行って兄弟と仲直りをしなさい」(マタイ5:23-24)ということです。
そうして、「強く雄々しい主、雄々しく戦われる主」、または、「万軍の主、主こそ栄光に輝く王」と答えましょう。約言すれば、わたしたちの造り主なる神は、自らの「栄光」が現されるよう、「万軍」と共に戦って勝利をもたらされるということです。
そうして、晴れて入場が許されます。讃美をもって、口で信仰を公に言い表しながら、席に着きます。
それにしても、「城門よ、頭を上げよ」とはどういう意味なのでしょうか。「城門の頭」……なんだかファンタジー映画を見ている気分になります。しかし大切なのは、次のことでしょう。すなわち、閉じている「城門」が開かれるのは、人力ではなく、目に見えない神の権威(ルカ20:1-2)と御力による、ということです。
Ⅳ 弟子の群れはこぞって 神を賛美し始めた
ルカ福音書19:37-40――
37 イエスがオリーブ山の下り坂にさしかかられたとき、弟子の群れはこぞって、自分の見たあらゆる奇跡のことで喜び、声高らかに神を賛美し始めた。
いと高きところには栄光。」
39 すると、ファリサイ派のある人々が、群衆の中からイエスに向かって、「先生、お弟子たちを叱ってください」と言った。40 イエスはお答えになった。「言っておくが、もしこの人たちが黙れば、石が叫びだす。」
「栄光に輝く王が来られる(であろう)」との預言(詩編24:7,9)が今、「主の名によって来られる方」によって成就しました。その時、群衆は歓呼と罵声によって二分されました。それは対照的な、「主に属するもの」・「弟子の群れ」の讃美と、そうでないもの・「ファリサイ派のある人々」の反論です。主イエスは、その真ん中を通って行かれました。
それが、主イエスのエルサレム入城でありました。ということは、主イエスの現臨によって、聖なるものと俗なるものの実体が露わにされたということです。そこで、俗なるものに属する、人間の偽善や罪科が「ファリサイ派のある人々」を通じて、その勢いを増してきました。
それに対し、「主のもの」なる弟子たち・女の人たち・子どもたちは、イエス・キリストの御姿により、「主こそ栄光に輝く王」との確信を抱いていました。「入場」の儀礼が礼拝式に無いにせよ、わたしたちは聖霊の助けにより、主イエス・キリストを迎え、主にお会いすることで、礼拝を始めています。主の十字架を仰ぎ、砕かれた魂をもってひれ伏している方は多いことでしょう。そのように聖霊の助けによって、主イエス・キリストを思い起こし記念する(ヨハネ14:26)のが、礼拝の中心です。
「これら特別の時に、馬小屋にお生まれになった赤子こそ『栄光に輝く王』であると、また、ただ退けられ、処刑されるためにのみ聖なる都に入城した男こそが隠された『栄光に輝く王』であると、開示されるのである」(J.L.メイズ)。
この「栄光に輝く王」なるイエス・キリストは、その週の内に十字架につけられて死を遂げ、よみがえられました。そして、初め(受肉以前)におられた父なる神のみもとに戻って行かれました。そうして、「天には平和、いと高きところには栄光」ということが実現しました。父なる神は御子イエスによって「栄光」を受けられました(ヨハネ14:13)。そしてこの地上では、「弟子の群れはこぞって、自分の見たあらゆる奇跡のことで喜び、声高らかに神を賛美し始めた」という「喜び」と「賛美」とが、神から「祝福され」(詩編24:5)、永遠に続くものとなりました。
結
さあ、初めに予告した通り、Ⅰ~Ⅳを振り返りながら、なぜ、主イエスの「入城」または「入場」が、わたしたち・信仰者にとって大切なことなのでしょうか?という問いに答えることにしましょう。
まず、確認しておきたい点は、主イエスのエルサレム「入城」を基として、礼拝の「入場」を捉えるというのが、キリスト教独特なことです。だから、あるスポーツ大会の「入場」式が盛り上がりを見せ、感銘深いものだとしても、それと、礼拝の「入場」は全く別なものなのです。
わたしたちが、「主の門に進み 主の庭に入れ」(詩編100:4、イザヤ26:2)との招きの声を聞くときに、わたしたちはどこに立っているのでしょうか。そこは、「聖所」のある「聖なる土地」です。実際にそうしないにしても、「足から履物を脱ぐ」(出エジプト記3:5)との意識を持たねばなりません。
わたしたち・信仰者にとっての「入場」とは、そのような「聖なる土地」であるスタート地点に立つということです。週毎に、わたしたちの人生行路をそこから再出発します。
なぜなら、それが「城門の頭が上げられる」ような奇しき出来事であると共に、わたしたちの決断が問われているからです。そのスタート地点が、創造主なる神をほめたたえ、自分が「主のもの」であると告白するのか、それとも、「ファリサイ派のある人々」のように自分の都合ばかり考えて罪の闇に落ちていくのか、の分岐点になっています。偽善をもって中へ入っても、後で本性が暴かれることは、「入城」したペトロはじめ大勢の群衆の顛末を見れば、自明です(ルカ22:54-62、23:18,35)。また、主イエス自ら、「祈りの家」を「強盗の巣」にした人々を追い出されました(ルカ19:45-48)。
そして、主イエスのエルサレム「入城」を基として、わたしたちが「入場」のスタート地点に立つとき、新たな地平が見えてきます。すなわち、まっすぐな道、主イエスの十字架の道行きが眺めわたせます。もう迷子の羊になることはありません。それは、「主はわたしたちに道を示される。わたしたちはその道を歩もう」(イザヤ2:3)との預言が、イエス・キリストにおいて成し遂げられるからです。
確かに、それは茨の道であります。苦しみや悩みが着いて来ます。突如、十字架を背負わされたキレネ人シモンのように……(マタイ27:32)。しかし、それは、主イエス・キリストが現臨されている道行きです。わたしたちの傍らに主がおられます。「入場」の地点から、わたしたちは新しく創造され、神の御力を受けています(Ⅱコリント5:17)。主イエス・キリストはわたしたちに行く先を指さし、しんがりに立ち、落伍しかかっている者を守ってくださいます(イザヤ52:12)。
「入場」・「入城」のとき、教会は一つにされます。「主のもの 地とそこに満ちるもの 世界とそこに住むものは」と讃美することによって、皆一つになります。神がわたしたちを聖別し、わたしたちを礼拝に招き入れてくださいます。
Ω
2024年 2月25日 日本キリスト教団 茅ヶ崎香川教会
復活前第5主日(受難節第2主日)
旧約聖書 アモス書 5章16節~27節(P.1435)
新約聖書 使徒言行録 7章42節~43節(P.226)
説教の構成――
序
Ⅱ 災いだ、主の日を待ち望む者は ……アモス書5:18-20
Ⅲ わたしはお前たちの祭りを憎み、退ける
……アモス書5:25-27
Ⅴ 神は顔を背け、彼らが天の星を拝むままにしておかれた
……使徒言行録7:42-43
Ⅵ 恵みの業を川のように流れさせよ ……アモス書5:24
序
アモスは紀元前8世紀の半ばに彗星のごとく現れました。アモスは南ユダ王国のテコアの出身です。テコアはエルサレムの東南、およそ17kmにある町でした(サムエル記下14:2,4)。
注目すべきは、アモスが祭司でもなく、いわゆる職業預言者でもなかったということです。彼は一介の「牧者」でありました。羊ならびに牛を飼っていました(アモス1:1、7:14)。また、「いちじく桑を栽培する者」でもありました(同上7:14)。
これは一つの推察ですが。「牧者」・アモスは地主階級に属する、賢い人であったと思われます。というのも、アモス書の内容が知恵に満ちた、格調高いものだからです。
アモスは突如として故郷、ユダのテコアを旅立ち、北イスラエル王国に入りました。当時、北王国は、ヤロブアム二世(在位:前787-747年)の統治下にありました。ヤロブアム王については、「主の目に悪とされることを行い……(先代からの)罪を全く離れなかった」と告げられています(列王記下14:24)。そのような王に支配されていたにもかかわらず、北イスラエル王国は繁栄と平和を謳歌していました(アモス3:15)。南ユダ王国との関係も良好でありました。
しかし、その時には、外からの危険がまだ見えていなかったのであります。国内は、経済的格差によって民の間に対立や不満が増していました(アモス8:4)。礼拝は形式的になっており、御利益宗教の特徴を帯びていました(アモス4:5)。
以上のような時代状況において、ユダのテコア出身の「牧者」・アモスが、北イスラエル王国のただ中に派遣されました。アモスは特に、聖所のあるベテルで活動しました(アモス3:14、7:13)。神ご自身、遣わされる人にとって「完全アウェー」であるのをご存じだったことでしょう。この時代とこの人物を選び、旧約最初の記述預言書〈アモス書〉を書き表す、それが、逆風にも動じない神の御業でありました。
自ずからアモスの活動期間は短かったと思われます。その口を封じられ排撃されて、南ユダ王国に即刻、強制送還されたかも知れません。命からがら逃げ帰れれば、幸いというところでしょう。このことは、方角が北から南へで逆ですが、ガリラヤからエルサレムへ上られた、主イエス・キリストの苦難を偲ばせます。
アモスが一介の「牧者」であったと同様に、イエスもまた「大工の息子」でありました(マタイ13:55)。父なる神は、「羊飼い」・ダビデ(サムエル記上17:40)の子孫、イエス・キリストに神の霊を降らさせました。アモスもまた、神の霊を受け、人生をひっくり返されて、預言活動に励んだのであります。
Ⅰ どの通りにも泣き声があがる
アモス書5:16-17――
どの通りにも泣き声があがる。
主は言われる。
あなたが今、イスラエルのベテルの街角に立っている、と想像してみてください。一人の男が「それゆえ、万軍の神なる主はこう言われる」と叫んでいます。道行く人々は気にかけることもなく、通り過ぎていきます。「どの広場にも嘆きが起こり どの通りにも泣き声があがる」……男はさらに声を上げて言います。あなたは耳を澄ましますが、「嘆き」や「泣き声」は聞こえません。辺りから聞こえてくるのは、物売り、商人、両替商などの威勢のいい呼び声ばかりです。
イスラエルの人々は、少し鈍感なのでしょうか。日銭を儲けるのに、忙しいのでしょうか。アモスは町の四つ辻で、受け取り手の誰もいない「新聞の号外」を配ろうとしているようなものです。安逸をむさぼっている人々(アモス6:1)は全くの無関心です。ところで、その「新聞の号外」なるアモス書の冒頭には、次のように記されています。
アモス書1:1――
テコアの牧者の一人であったアモスの言葉。それは、ユダの王ウジヤとイスラエルの王ヨアシュの子ヤロブアムの時代、あの地震の二年前に、イスラエルについて示されたものである。
「あの地震の二年前」、言い換えれば、二年後、紀元前760年に、大地震が実際に起こったと考えられています。アモスが「あの地震」を預言したのではありません。アモス書の序文は後からの付加です。アモス自身、「地震」のもとに「どの広場にも嘆きが起こる」とは、夢想だにしなかったでありましょう。
そうではなく、アモスが預言したのは、イスラエルの町々、「どの広場にも嘆きが起こり どの通りにも泣き声があがる」ということです。そして、村落もまた、「どのぶどう畑にも嘆きが起こる」という災いに見舞われます。「ぶどう」などの果物が収穫される秋の仮庵祭の折、「ぶどう畑」は祝いの会場となります。子どもの大人も、踊ったり歌ったりして過ごします(士師記21:20)。アモスは人々を恐れることなく、そこが「嘆き」の場になるのだ、と告げています。
そうして、イスラエル全土が喪に服すことになります。
「悲しむために農夫が 嘆くために泣き男が呼ばれる」……これは、本来の職業的な「泣き女」(エレミヤ書9:16)では事足りなくなるとの謂いです。「嘆きの声をあげて、哀歌をうたい お前のために挽歌をうたう」(エゼキエル書27:32)ような「泣き女」はもういないということです。ここでは、「死」という言葉を使わずに(アモス5:3)、「家の中から死体が運び出される」様(同上6:9)を描き出しています。葬儀のための人手が、もはや足りないのです。
アモスはここで、何故にこのような大惨事が生じるのか、説き明かしています。
「わたしがお前たちの中を通るからだと 主は言われる」……この文言でも、「死」を直接指し示すことが避けられています。しかし、なんとなく伝わって来る、この不気味さは隠しようがありません。なぜなら、この「通る」・「通り過ぎる」(ヘブライ語:アーヴァル)との句が、出エジプトならびに過越祭のキーワードだからです。イスラエル人なら誰しも、「通り過ぎる」神によってエジプトの災いから救い出されたことを知っています。
出エジプト記12:12 主→モーセとアロン――
「その夜、わたしはエジプトの国を巡り(通り=アーヴァル)、人であれ、家畜であれ、エジプトの国のすべての初子を撃つ。また、エジプトのすべての神々に裁きを行う。わたしは主である。」
従って、先のアモスの預言は、「すべての神々(とその信奉者)に裁きを行うために、わたしがお前たちの中を通るからだ」と理解されます。悲痛な叫びがエジプトで上がったように(出エジプト記12:30)、イスラエルの国中に「嘆きが起こり 泣き声があがり」ます。御利益宗教の元になっている、イスラエルの偶像に対し「裁きが行われ」ます。主なる神を信じて救い出されたユダヤの民は、これを「過越祭」として記念するようになりました(同上12:43)。
イスラエルの人々は、自分たちが造り出したものに期待を寄せています。自分たちの欲望や賢さにおいて、偶像崇拝や御利益宗教が造り出されました。アモスは深い悲しみをもって、一つのキーワードにより、彼らの思考をひっくり返しにかかります。
Ⅱ 災いだ、主の日を待ち望む者は
アモス書5:18-20――
家にたどりついても
その手を蛇にかまれるようなものだ。
暗闇であって、輝きではない。
「災いだ」(ああ ヘブライ語:ホイ アモス書5:18、6:1)というのは、主の託宣中の、アモス自身の肉声です。言い換えれば、神の霊を注がれて、アモスは完全に神に仕える僕になっているということです。ですから、アモスは神の御前に自分の弱さも臆病もさらけ出して、神の力にあずかろうと切望しています。それによって、神に背いている傲慢な者たちに立ち向かおうとしています。アモスは、「主の日を待ち望む者」が孕んでいる偽善にメスを入れます。
「主の日はお前たちにとって何か」……アモスは冷静にイスラエルの人々に問いかけています。そして、彼らが答えるよりも先に、「それは闇であって、光ではない」(2回 アモス書5:18,20)と断じています。イスラエルの人々はこの宣告に驚いたに違いありません。なぜなら、彼らの理解とは正反対であったからです。安穏として生活を送っている人々には、自分たちの考え方を覆すような、アモスのメッセージは受け入れ難かったのであります。
当時のイスラエルの人々は通常、「主の日」を祭儀的な意味で捉えていました。すなわち、「主の日」、会衆が礼拝を守っているところに、主が顕現され、主の救いを知らせるということです。それに応じて、会衆はいけにえをささげ、罪の告白をします。
ところが、このような普通の意味での「主の日」が、神の言葉によってひっくり返されました。「主の日は闇であって、光ではない」ということです。それは、救いの日ではなく、災いの日なのであります。
それは確かに、思いがけないことでありましょう。アモスは次のように、イスラエルの人々の驚嘆を表しています……「人が獅子の前から逃れても熊に会い 家にたどりついても 壁に手で寄りかかると その手を蛇にかまれるようなものだ」。その日、人々がどんなに慌てふためいても、自分たちが掘った穴に落ちる(詩編57:7)のは、目に見えています。その日の窮乏に備えることも、祈ることもしなかったイスラエルの人々を、主は懲らしめられます(マタイ24:20、25:11-12)。
終わりの時、「主の日」の到来に備えて、わたしたちは日々に、聖書を読み、祈り、主の執り成し(ローマ8:34)を乞い願います。それが、主イエス・キリストにあって選ばれた民、「主の日を待ち望む者」にふさわしいことなのです。
次にアモスは、イスラエルの人々が「主の日」を誤解する元となった、当時の宗教的祭儀を取り上げます。これについて彼らと議論するのは、彼らを正しい礼拝へと導くためなのです。
Ⅲ わたしはお前たちの祭りを憎み、退ける
アモス書5:21-23――
わたしは受け入れず
竪琴の音もわたしは聞かない。
では、そもそも、当時の宗教的祭儀とは、一体どのようなものだったのでしょうか? そのことを踏まえた上で、なぜアモスがそれを問題として告発しているのか、捉えることにしましょう。
当時盛んであった宗教的祭儀は、「お前たちの祭り」です。過越祭、七週祭、仮庵祭の三大祭、そして、燔祭、素祭、酬恩祭、また、新月祭、安息日などがあります。それらの祭りの中で、「焼き尽くす献げ物」、「穀物の献げ物」、「肥えた動物の献げ物」などがささげられました(レビ記1章-7章)。
では、その多種多様の祭儀において、何が問題であったのか……序で端的に、礼拝は形式的になっており、御利益宗教の特徴があったということを指摘しました。これに関して、K.バルトは「この神礼拝(お前たちの祭り)とそれによって礼拝されるべき方には、深淵が口を開けている。神はそれを侮蔑するほかない」と述べています。イスラエルの人々は、彼らの考える正しく清い祭りとその「献げ物」によって、まるで神が操れるかのように思い込んでいたのです。
それに対し、「礼拝されるべき方」、主なる神は断固として彼らの宗教的祭儀を拒絶されました。
挙行されていた、あらゆる事柄に対し、主の反発が宣言されていいます――
①・②「わたしはお前たちの祭りを①憎み、②退ける」アモス書5:21
③「わたしは祭りの献げ物の香りも喜ばない(においをかがない)」同上5:21
わたしは肥えた動物の献げ物も⑤顧みない」同上5:22
⑥「竪琴の音もわたしは聞かない」同上5:23
*③・④・⑤・⑥は、否定詞(~ない)を伴っています。
*⑤と⑥の間に、「お前たちの騒がしい歌をわたしから遠ざけよ」(同上5:23)があります。
多様な表現を用いて、主なる「わたし」が全面的に「お前たちの祭りを憎み、退ける」と述べられています。このように、神の言葉による痛烈な告発の後に、イスラエルの民への罰が下されます。
Ⅳ ダマスコのかなたの地に連れ去らせる
アモス書5:25-27――
25 イスラエルの家よ
いけにえや献げ物をささげただろうか。
それはお前たちが勝手に造ったものだ。
主は言われる。
その御名は万軍の神。
「お前たちはわたしに いけにえや献げ物をささげただろうか」……ここでは、「かつて四十年の間、荒れ野にいたとき」の宗教的祭儀の律法について問い尋ねているのではありません。モーセ五書には、「いけにえ」や「献げ物」などの規定が記されています(出エジプト記23:18、レビ記7:1)。しかし、ここで問題になっているのは、預言者的な立場から見て、「そこに真実な礼拝があったのか」ということです。
従って、その答えは、「献げ物」を伴う真実な礼拝を「ささげなかった」となります。荒れ野時代の、民がアロンを誘導して行った「金の雄牛の偶像崇拝」は偽善と罪に満ちたもので、論外です(出エジプト記32章)。その時、人間から、「焼き尽くす献げ物」や「和解の献げ物」が供えられました(同上32:6)が、神はそれらを「受け入れず、顧みもされなかった」のであります(アモス5:22)。
神を崇める真実な礼拝においては、「わたし(主なる神)の声に聞き従う」(エレミヤ書7:23)ことが第一となります。そこに、わたしたちの応答として、感謝と讃美が生まれます。神との親しい交わりの中で、日々歩む人は幸いです。神は貧しい人が「レプトン銅貨二枚、すなわち一クァドランス」(およそ100円)をささげる(マルコ12:41-44)のを喜ばれます。
「今、お前たちは王として仰ぐ偶像の御輿や 神として仰ぐ星、偶像ケワンを担ぎ回っている」という人々に回心のきざしは見えません。「お前たちが勝手に」という自分勝手な状態に凝り固まっています。
Ⅴ 神は顔を背け、彼らが天の星を拝むままにしておかれた
使徒言行録7:42-43――
42 「そこで神は顔を背け、彼らが天の星を拝むままにしておかれました。それは預言者の書にこう書いてあるとおりです。
『イスラエルの家よ、
お前たちは荒れ野にいた四十年の間、
わたしにいけにえと供え物を
献げたことがあったか。
43 お前たちは拝むために造った偶像、
モレクの御輿やお前たちの神ライファンの星を
担ぎ回ったのだ。
バビロンのかなたへ移住させる。』」
これは、ステファノが殉教する直前に、エルサレムで行った説教の一部です。ステファノは大祭司を前に、旧約聖書の歴史を説き明かしています。その中で、アモス書5:25-27を引用しています。
その説教において、アロンと民がモーセに反逆して、「若い雄牛の像を造った」ことが想起された(使徒7:39-40)後に、ステファノ独自の言葉として、次のように述べられています。
「そこで神は顔を背け、彼らが天の星を拝むままにしておかれました」を、
神の能動性に着目して訳し直すと、
「そこで神は(祭ではしゃいでいる)彼らを突っぱねて、彼らが天の星を拝むままに放置された」
要するに、人間は「雄牛の像から天の星へと拝むままに」、やりたい放題のように見えるが、実はそこに、その人間を「突っぱね、放置された」神の主導権があったということです。
さらに言えば、主なる神は、罪に対する裁きを受けて、自らの情欲と退廃との洪水に押し流されていく人間をご覧になっています。神はひとたび、人を「無価値な思いに渡され」ました(ローマ1:28)が、その罪人たちが立ち帰るのを待っておられるのではないでしょうか。
「だから、わたしはお前たちを バビロンのかなたへ移住させる」……アモス書5:27の「ダマスコのかなたの地に」が「バビロンのかなたへ」に代えられています。アッシリアによる北イスラエル王国の捕囚が前732年 / 722年で、そして、バビロニアによる南ユダ王国の捕囚が 前597年 / 587年 です。だから、情報を新しい方にアップデートしたのです。バビロン捕囚というより壊滅的な大惨事が、神を神としない偶像崇拝者たちの上に襲って来た、とステファノは言いたいのでありましょう。
ここでも、さらに言えば、主なる神は国家滅亡とバビロン捕囚の一部始終をご覧になっていました。というのも、神が選びの民を、「突っぱね、放置された」からです。憐れみの神、「あなたと共にいます」神(ルカ1:28)は、御子をこの世に遣わすほどに、罪人に寄り添っておられます。
一時は「無価値な思い」に染まっていたユダヤの民が都エルサレム、神の神殿に帰還してきた道すじについては、イザヤ書(第二イザヤ)やエレミヤ書に克明に描かれています。
Ⅵ 恵みの業を川のように流れさせよ
尽きることなく流れさせよ。
旧約聖書中、特筆に値する聖句です。愛唱聖句にされている方もおられることでしょう。預言者の深い嘆きと神の厳しい裁きの間に、このクライマックスとなるメッセージが置かれています。それによって、イスラエルの民に迫っている暗闇に、希望の光が射し込んで来ます。
Ⅲ(アモス書5:21-23)で確認した通り、この節の直前には、「お前たちの祭りを憎み、退ける」という神の拒絶が示されました。その神の「受け入れない」こと(同上5:22)から、一転してここに、何が御心に適ったことなのか、がズバリと告げられています。裁きを通じて救いをもたらす神に、わたしたちがどのように応答するのか、の格好の手引きになっています。
ということは、「正義」と「恵みの業」とは、わたしたちが実践すべき課題なのです。多くの人々が安逸をむさぼっている中にあって、主を礼拝する者たちがへりくだって、隣人を愛し助けるということです(ミカ書6:8)。
ここで、自己中心なる受け身の姿勢や怠惰が頭をもたげてくるでしょうか。これを愛唱聖句にしている方はすでに気づかれているかも知れませんが、神はそのような人を後押ししながら導いておられます。
「正義を洪水のように 恵みの業を大河のように 尽きることなく流れさせよ」……「正義」と「恵みの業」が奔流となって、急速に流れ下る様が描かれています。
これも有名な聖句、「あなたの道を主にまかせよ」(詩編37:5)にも、「石などをゴロゴロと転がす」(ヘブライ語:ガーラル)との同一の動詞が使われています。つまり、神の愛を受け、救われた者として、「正義」と「恵みの業」を「ゴロゴロと転がしなさい」ということです。罪の力によって抵抗しない限り、神と人との喜ばれる、善い「業」が行き巡っていきます。
神でないものに身をまかせてはなりません。神が「彼ら(背く者たち)を恥ずべき情欲にまかせられる」(ローマ1:26)のは、ひと時のことです。「主に自らをゆだねよ」(詩編37:4)と命じられる神がわたしたちを悩みの淵から助け出してくださいます。
「主の日は光であって、闇ではない」(アモス5:18,20の逆転・ひっくり返し)という「主の日」が終わりの時に到来します。わたしたちはそこで、アモス書5:24の預言の成就を見ることになるでしょう。
ヨハネの黙示録22:1――
天使はまた、神と小羊の玉座から流れ出て、水晶のように輝く命の水の川をわたしに見せた。
神の御力によって、信仰者の「正義」と「恵みの業」がゴロゴロと転がされていた、その「川」は確かに「尽きることない、とこしえの流れ」でありました。
Ω
2024年 2月18日 日本キリスト教団 茅ヶ崎香川教会
復活前第6主日(受難節第1主日)
旧約聖書 ゼカリヤ書 14章20節~21節(P.1495)
新約聖書 コリントの信徒への手紙 一 3章16~17節(P.302)
説 教「あなたがたはその神殿なのです」 小河信一牧師
説教の構成――
序
Ⅱ 神の霊が自分たちの内に住んでいる……Ⅰコリント3:16後半
……ゼカリヤ書14:20-21
序
今、パウロは「霊的なものによって霊的なことを説明する」(Ⅰコリント2:13)ことに集中しています。「“霊”(=聖霊)に教えられた言葉によって」いるので、その論理展開は滑らかで、説得力があります。わたしたちは、神からの知恵とその聡明さに基づく、奥深い議論にしっかりと耳を傾けることにしましょう。
パウロは議論を展開するにあたって、「知恵のある者」と「世の無学な者」、また、「キリストにある幼子」と「信仰に成熟した人」(Ⅰコリント1:26-28、2:6、3:1)、すべての人に呼びかけています。土台を据える人もそれを建てつぐ人も、そこに加わるように求められています。なぜなら、一人ひとりが神の召しを受け、「神のために力を合わせて働く者たち」(同上3:9)として働いているからです。
今回のわずか二節のテキストにおいて、パウロは聖霊の導きを受けて、教会論を展開しています。圧倒的な瞬発力で、「集中講座」、絶賛開講中です。わたしたちの周りには、「うまい言葉やへつらいの言葉」(ローマ16:18)が満ち満ちています。まずはそれらをはね除けましょう。
パウロは、「あなたがたは神の畑である」(Ⅰコリント3:6-9)⇒「あなたがたは神の建物である」(同上3:9-15)⇒「あなたがたは神の神殿である」(同上3:16-17)というように、日常的な比喩から真実な宣言へと教会論を積み上げています。
「コリントにある神の教会」において、「おのおのの仕事」や「賜物」(Ⅰコリント1:2,7、3:13)が組み合わされ、万事が益となる(ローマ8:28)という道すじが示されています。そこでは、先を見越して論理展開できるパウロの強みが発揮されています。また、皆が向き合って関与すべき問題も、臆することなく明らかにされています。
コリントの信徒への手紙 一 3:16前半――
①あなたがたは、自分が神の神殿であり、②神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか。 * の部分を前半として取り扱います。
パウロは、「あなたがたは~を知らないのですか」と問いかけています。「はい、わたしたちは既に〈“霊”(=聖霊)に教えられて〉知っています」との答えが期待されています。しかし、全員が「はい」と答えられないのを見越して、順序立てて説明しています。
すなわち、この節の①が主題となる宣言で、②がその論拠になっています。ここでは、①について、パウロが一体何を言いたいのか、捉えましょう。次節17節では、その宣言への補足ならびに警告が記されています。
ここでの「あなたがた」は、コリント教会のすべての兄弟姉妹を指しています。その「あなたがた」が全体として「神の神殿」なのです。わたしたちは、「神の」、すなわち、「神のもの」であります(詩編24:1冒頭)。だから、わたしたちは神に造られたものとして、神の栄光をほめたたえます(同上102:19)。「神のもの」を汚したり壊したりしないように、と警告されています。
パウロの言う「神の神殿」は、教会にほかなりません。では、「あなかがたは神の教会である」とは、どういうことなのでしょうか? 実際、パウロはコリントの信徒への手紙 一 の冒頭から「神の教会」との用語(Ⅰコリント1:2、10:32)を使っているのですが……。
パウロは今、旧約聖書を背景とする「神の神殿」に根ざしながら、「神の教会」についての教会論を打ち立てようとしています。とすれば、「神の神殿」とはひと言でいえば、何であったのでしょう。余談ですが、コリント滞在中のパウロについて、「天幕造りがその職業であった」(使徒18:3)と書かれています。生活の糧を得るときにも、「神の神殿」のことを考えていたのでしょうか。
それは、主なる神の「います所」(詩編74:2)であります。そこにおいて、人が「神に出会う」(申命記4:29)ことが許されました。人が「神に出会う」ために、「神の神殿」に至聖所が設けられ(列王記上6:16)、祭司職が整えられました。そして、民衆もまた、「神の神殿」で「神に出会う」ために、三大祭(過越祭・七週祭・仮庵祭)の時、巡礼するのが慣わしとなりました(申命記16:16)。
さらに、パウロはコリントの信徒への手紙 二 においても、「わたしたちは生ける神の神殿なのです」(6:11)と述べています。「わたしは彼らの間に住み、巡り歩く」(Ⅱコリント6:16)という神に、今わたしたちは、教会でお会いすることができるのです。そこで、わたしたちは臨在してくださる神の御前で礼拝をささげます。それによって、「あなたがたは神の神殿である」ことが、信仰者の告白と感謝と讃美をもって言い表されます。
ここでパウロは、「神の神殿」が神のものとして十分に尊ばれていないことを見抜いています。教会教育の賜物を持ち、謙遜に「キリストにある幼子ら」を導いているパウロは、適確な説明を加えています。
Ⅱ 神の霊が自分たちの内に住んでいる
コリントの信徒への手紙 一 3:16後半――
①あなたがたは、自分が神の神殿であり、②神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか。 * の部分を後半として取り扱います。
既にこの節について、①が主題となる宣言で、②がその論拠である、と述べました。言い換えれば、「あなたがたは神の神殿である」との告知を、どのようにすれば信じられるのか、また、それによってどんな益があるのか、が②で説き明かされているということです。
とは言っても、パウロはここで新しいことを提示しているわけではありません。この手紙の冒頭で提示されている、「十字架の言葉は、わたしたち救われる者には神の力です」(Ⅰコリント1:18)というキリスト教の基本を、「神の霊」なる聖霊がわたしたちに教えているということです。つまり、そのために、「自分たちの内に住んでいる」というように、聖霊なる神がわたしたちの内に常駐しているのです。
「“霊”(=聖霊)は一切のことを、神の深みさえも究めます」(Ⅰコリント2:10)という聖霊が自分に寄り添っています。聖霊はわたしたちを、「キリストにある幼子」から「信仰に成熟した人」へと成長させてくださいます。そうして、成熟させられた一人ひとりが、「神のために力を合わせて働く者」(同上3:9)として、「神の建物」を建てついでいきます。その時、コリント教会は「あなたがたは神の神殿である」との宣言にふさわしい教会であるということになります。
聖霊がわたしたちの内に住みつくことによって、教会が「生ける神の神殿」となります。聖霊の力が充満して、人間の誇りや頑なさは打ち砕かれます。このようにして、パウロは教会論の基本を簡潔に指し示しました。
次の節の前半でパウロは、「あなたがたは神の神殿である」ことが危機にさらされる場合について言及しています。まさに「熟練した建築家」(Ⅰコリント3:9)のごとく、パウロには抜かりがありません。
Ⅲ 神の神殿を壊す者
コリントの信徒への手紙 一 3:17前半――
ある人が神の神殿を「壊す」ならば、神はその人を「滅ぼされる」ということです。二つの動詞はギリシア語「フセイロー」という同一語です。つまり、「破壊する」者は自ら「破壊される」のだという同害報復が宣告されています。同害報復とは、被害に相応した報復を行うことで、「目には目を、歯には歯を」(レビ記24:20)との言葉がよく知られています。
まことに厳しい警告ですが、一体、コリント教会の誰に向けられたものなのか、明らかにされていません。また、どのようなやり方で、「神の神殿を壊す」のか、も書かれていません。
しかし大切なことですから、パウロの手紙全体を読んで推論してみましょう。
まず、「神の神殿を壊す者」とは、誰か、どんな人物なのか、について――
パウロの手紙には、「偶像を崇拝する者」(Ⅰコリント5:11)や「娼婦と交わる者」(同上6:16)のことが出てきます。そのような人々は、主イエス・キリストにあって聖とされた教会に属しながらも、いまだこの世の中、「肉」の中に生きています(同上5:5)。彼らはサタンの支配下に引き渡されています。
パウロは、「神の神殿」のメンバーについて、次のように描き出しています……「なぜなら、わたしはあなたがたを純潔な処女として一人の夫と婚約させた、つまりキリストに献げたからです」(Ⅱコリント11:2)。自分は神から愛され救われた、その熱い思いをもって、コリント教会の一人ひとりを「純潔な処女」として尊んでいるということです。そのような人が汚れてしまい、罪に巻き込まれていくのは、パウロにとって耐え難いことだったでしょう。
次に、何をもって、どのようなやり方で、「神の神殿を壊す」のか、について――
外からの圧力によるものか、それとも、内部崩壊によるものか。ここで指弾されているのは、「神殿を壊す者」ですから、「木、草、わら」(Ⅰコリント3:12)などの脆い資材をもって建てつぐ人とは別になります。というのも、建てつぐ人の安直な仕事は明るみに出されますが、彼らは救われるからです。「木、草、わら」が燃え尽きてしまえば、彼らは「損害を受けます」(同上3:15)が、それによって、神の愛による主イエス・キリストの救いが取り消されるわけではありません。
さて、「神の神殿を壊す」ことが、内と外、どこから起こるのか、言明できませんが、わたしたちの警戒すべき「破壊力」というものがあります。
それは、「肉の人」、信仰の成熟していない人の間に絶えないという「ねたみや争い」です(Ⅰコリント3:3)。エゼキエル書35:11には、イスラエル(弟ヤコブの末裔)とエドム(兄エサウの末裔)との本来親密であるはずの関係の中で、憎しみ⇒怒り⇒ねたみという連鎖によって争いが激化することが指摘されています。それは、教会の兄弟姉妹という交わりの中でも、起こり得るという警鐘でありましょう。
そして、既にパウロが取り上げていることですが、「ねたみや争い」にも関連する問題として、「分派づくり」があります。「あなたがたはめいめい、『わたしはパウロにつく』『わたしはアポロに』『わたしはケファに』『わたしはキリストに』などと言い合っているとのことです」(Ⅰコリント1:12、3:4)というように、当時のコリント教会における、一致と協調との欠如を、パウロは認識していました。
これは、「神の神殿」における内部崩壊の事例になります。ただし、冷静に手紙により当時の状況を分析するならば、内的な原因に加えて、外から「自然の人」の考え方、すなわち、「この世の滅びゆく支配者たちの知恵」(Ⅰコリント2:6,14)が教会内に流入していたと言えるでしょう。
「分派づくり」は、教会に幾つもの亀裂を生じさせます。それはやがて、「神の神殿を壊す」ことへと至る恐れがあります。悔い改めて、「神の霊が自分たちの内に住んでいる」とのパウロの教えを受け止めねばなりません。
そこで、旧約聖書から、「あなたがたは神の神殿である」との宣言に即した出来事を読んでみましょう。
Ⅳ すべて万軍の主に聖別されたものとなる
ゼカリヤ書14:20-21――
20 その日には、馬の鈴にも、「主に聖別されたもの」と銘が打たれ、主の神殿の鍋も祭壇の前の鉢のようになる。21 エルサレムとユダの鍋もすべて万軍の主に聖別されたものとなり、いけにえをささげようとする者は皆やって来て、それを取り、それで肉を煮る。その日には、万軍の主の神殿にもはや商人はいなくなる。
ゼカリヤは紀元前6世紀後半に活動した預言者です。ゼデキヤは神殿の再建作業に関して、エルサレムの住民に霊的な指導を行いました(参照:ゼデキヤ書2:5-17 若者〔2:8〕の育成)。ゼデキヤ書の最終・14章では、終わりの日を見据えて、諸国民の巡礼と都での礼拝が描き出されています。
それはまさに、再建されたエルサレム神殿と都に上って来た巡礼者によって、「あなたがたは神の神殿である」ことが成就するということでありました。その祝祭の中心に、「わたしはあなたのただ中に住まう」(ゼカリヤ書2:9,14,15)と宣言される主なる神がおられました。
折しもそれは、三大祭の一つ「仮庵祭」(ゼカリヤ書14:16,18,19)を祝うために、主の民が「神の神殿」に押し寄せて来る時でありました。
さて、終わりの日に、「主の神殿」では、一体何が起こるのでありましょうか?
「その日には、馬の鈴も、鍋も、鉢も……すべて万軍の主に聖別されたものとなる(であろう)」……不思議なことですが、祭事に関わる物までもが「聖別される」と預言されています。あまりにも大勢の人がやって来るので、聖なる物が品不足になっているかのようです。それもこれも、待望の仮庵祭が神と人とに喜ばれるものとなるように、ということです。すべてのものが、礼拝を献げるために、「聖別され」、神に属するものに変えられます。
「その日には、万軍の主の神殿にもはや商人はいなくなる」……主イエスによる宮潔めが思い起こされます。ちょうど、「ダビデの子にホサナ」との群衆の歓呼(マタイ21:9)に応えて、主イエスがエルサレムに入城された時のことでありました。過越祭が迫っていました(同上26:2)、
マタイ福音書21:12――
それから、イエスは神殿の境内に入り、そこで売り買いをしていた人々を皆追い出し、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けを倒された。
主イエスは商人たちを追い出されました。憤りをもって厳しく対処されました。日常、神殿の回りで、「いけにえをささげる」ために、動物を「売り買い」することがありました。また、諸国の人々が御賽銭をするために、「両替」が必要でありました。
しかし、「その日」には、「この世の知恵」(Ⅰコリント2:6)と霊的な教えとは相容れないものでありました。過越祭や仮庵祭を祝うために、「すべて万軍の主に聖別されたものとなる」のが大事なのであります。
ところで、預言者ゼデキヤは、「主に聖別されたもの」という神からの恵みがどのようにして、「神の神殿」にゆき巡ると考えているのでしょうか。言い換えれば、諸国の民がことごとく集められた礼拝(ゼカリヤ書14:2)において、どのようにして、「あなたがたは神の神殿である」との宣言が聞かれるのでしょうか。
ゼカリヤ書4:6 第五の幻――
「これがゼルバベル(神殿再建の指導者)に向けられた主の言葉である。
武力によらず、権力によらず
ゼデキヤは、「わが霊」なる神の力によって、この地から汚れた霊が追い出されると語っています(ゼデキヤ書13:2)。また、万軍の主は、嘆き悲しみに襲われるときにも、「ダビデの家とエルサレムの住民に、憐れみと祈りの霊を注ぐ」と述べています(同上12:10)。
そうして、その日には「わが霊」なる神の力によって「あなたがたは神の神殿である」ことが実現します。神の霊の働きに寄り頼んだゼデキヤは、「神の霊が自分たちの内に住んでいる」と宣言したパウロの先駆けとなりました。
Ⅴ 神の神殿は聖なるものである
コリントの信徒への手紙 一 3:17後半――
神の神殿は聖なるものだからです。あなたがたはその神殿なのです。
「神の神殿は聖なるものだからです」……この点については、既にゼカリヤが「その日」の奇しき出来事として預言していました。巡礼者のみならず、日用から借りてきたような祭具に至るまで、「主に聖別されたもの」となるということです。
そうして、諸国の民は、「神のもの」・「神に属する会衆」として神殿に入ります。そこで、人々は主なる神の「わが霊」を注がれます。そこで、諸国の民は神への信仰において、一つとされます(ネヘミヤ記8:1)。「あなたがた」は「神の神殿」を構成する肢々となって、祭りを祝い、それぞれの日常へ帰って行きます。わたしたちにとってまるで、聖霊降臨日の祝祭(ユダヤの暦では七週祭にあたる)を見ているかのようです(使徒2:1-6)。
パウロは、初めに提示した主題、「あなたがたはその神殿なのです」を繰り返しています。極めて簡潔な宣言ですが、「あなたがたは〈主イエス・キリストの十字架の復活の御業によって〉その神殿なのです」と補足すれば、一つの信仰告白となり得ます。ただし、この文脈において、キリスト論への寄り道は避けているようです。おそらく、一つ一つ、要点を押さえながら、「キリストにある幼子」の前で語っているからでありましょう。
結
「あなたがたは神の畑である」⇒「あなたがたは神の建物である」⇒「あなたがたは神の神殿である」……日常的な親しみやすい比喩から始まり、最後、「聖なる」宣言で締め括られました。聖霊の導きのもとに、パウロの教会論は築き上げられました。
「あなたがたは神の神殿である」との確信において、皆が「成長させてくださる神」(Ⅰコリント3:6)のもとに召し集められることでしょう。浅はかな人間的な知恵ではなく、「神の深み」なる知恵によって(同上3:10)、互いの間の「ねたみや争い」も根絶させられることでしょう。
Ω
2024年 2月11日 日本キリスト教団 茅ヶ崎香川教会
降誕節 第7主日
旧約聖書 詩編66編 10節~12節(P.898)
新約聖書 コリントの信徒への手紙 一 3章10節~15節(P.302)
説 教「イエス・キリストという土台」 小河信一牧師
説教の構成――
序
Ⅰ 土台を据える者とその上に建てつぐ者 ……Ⅰコリント3:10
Ⅲ かの日がおのおのの仕事を明らかにする
Ⅳ 神よ、あなたは我らを試みられた ……詩編66:10-12
Ⅴ 火の中をくぐり抜けて来た者のように救われる
……Ⅰコリント3:14-15
序
コリント教会には、「ユダヤ人」・「ギリシア人」・「奴隷」・「自由な身分の者」など、さまざまな人が集っています(Ⅰコリント12:13)。また、「知恵のある者」や「能力のある者や、家柄のよい者」の少数派と、そうでない「世の無学な者」や「身分の卑しい者」の多数派との間に、対立がありました(Ⅰコリント1:26-28)。
パウロは将来に向けて、キリストの体なるコリント教会が大きく成長し、豊かに実を結ぶよう、励ましの手紙を書いています。彼はその最適任者でありました。というのも、第2回伝道旅行(49-52年頃)の際、パウロはおよそ一年半コリントに滞在し、教会を建てたからです。「わたしは植えた」(Ⅰコリント3:6)というように、コリント教会にとって、パウロは開拓伝道者だったのです。
およそ2年の歳月を経て、パウロはエフェソ(小アジア・トルコ半島)からコリント(ギリシア)へ手紙を書き送りました。それは、コリント教会の問題を見つめ直すのに、ふさわしい時空間の隔たりだったと言えましょう。
パウロはキリストの福音に照らしつつ、コリント教会の複雑な状況を分析し整理しています。そして第一に、信徒一人ひとりが、「キリストにある幼子」から「信仰に成熟した人」へ(Ⅰコリント2:6、3:1)と変えられていくという道すじを示しました。そのように、洗礼を受けた者が造り変えられる奥義として、神からの霊を受けなさい、と勧めました(同上2:12)。教会が「神から恵みとして与えられたもの」(同上2:12)に満ち溢れていることを知るとき、お互いの間に、ねたみや争いは起こり得ません。そこには、いつも神の知恵にあふれた讃美と感謝が行き巡っていることでしょう。
今回のテキスト箇所では、「あなたがたは神の建物なのです」(Ⅰコリント3:9)との観点から、いわゆる教会論が展開されます。それは、キリストの体なるコリント教会という全体像を昭示するということです。そうすれば、「知恵のある者」と「世の無学な者」、また、「キリストにある幼子」と「信仰に成熟した人」、それぞれの違いも、一致の中にある多様性として受け止められることでしょう。
パウロは、異なる賜物を持った「仕える人」(ディアコノス)が一つの群れとなって、「神のために力を合わせて働く者」(シュネルゴス)となるという方向性を明示しています(Ⅰコリント3:5,9)。
では、ご一緒に「神の建物」のルームツアーのひと時を過ごしましょう。「熟練した建築家」パウロが案内してくれます!
コリントの信徒への手紙 一 3:10――
わたしは、神からいただいた恵みによって、熟練した建築家のように土台を据えました。そして、他の人がその上に家を建てています。ただ、おのおの、どのように建てるかに注意すべきです。
まず、「神の建物」の建築について、役割分担が明らかにされています。すなわち、「土台を据えた」人と「その上に家を建てている」他の人がいるということです。これは、「神の畑」において、「わたしは植え、アポロは水を注いだ」(Ⅰコリント3:6,9)ということと響き合っています。
すでに述べたように、コリント教会にとってパウロは開拓伝道者ですから、「わたしは熟練した建築家のように土台を据えました」との点については、皆同意したことでしょう。「熟練した」(ソフォス)とは「知恵の」という原意で、本来、「隠されていた、神秘としての神の知恵」に由来するものです(Ⅰコリント2:7)。パウロは神の御心に添うようにと祈り、土地を選定しました。そこに、それまでに幾つかの教会を建ててきた、パウロの「熟練」、すなわち、「賢さ」がありました。
さて、土台を据える者からその上に建てつぐ者へと、バトンが渡されるとき、そのリレーが首尾よく行くようにと、誰しも思います。コリント教会の「建てつぐ者」の代表として、アポロが挙げられます。彼については、「アレクサンドリア生まれのユダヤ人で、聖書に詳しいアポロという雄弁家」(使徒18:24)との情報があります。パウロとは旧知の仲でもあり、コリント教会の牧会者として最善の後継者でありました。アポロは神からの召しを受けて、「土台の上に家を建てる」ことに従事しました。
「ただ、おのおの、どのように建てるかに注意すべきです」……「おのおの」は、教会の一人ひとりとの意味で、牧師や伝道者のみならず信徒をも指しています。一人ひとりがさまざまな賜物を与えられ、それぞれの務めに就いています(Ⅰコリント12:4-5)。大切なのは、キリストの体の隅々にまで、聖霊の働きが現れるように、ということです(同上12:7)。
その時々の教会の実際問題をめぐっては、「どのように建てるか」の正解が見出しがたいかも知れません。しかし、あなたの憎しみ⇒あなたの怒り⇒あなたのねたみという連鎖によって争いを起こしてはなりません(エゼキエル書35:11、Ⅰコリント3:3)。教会を疲弊させてはなりません。「わたしたちは神のために力を合わせて働く者である」(Ⅰコリント3:9)との初心に立ち返ることです。
土台を据える者とその上に建てつぐ者との連係や「どのように建てるか」問題を見越して、パウロは「神から(わたしに)いただいた恵みによって」との句を、この文章の冒頭に置いています。
パウロ自身について言えば、この句は大きく二つのことを言い表しています。
一つは、キリスト教を迫害していた自分、「罪人の中で最たる者」(Ⅰテモテ1:15)が神の恵みによって、イエス・キリストの救いにあずかったということです。
もう一つは、使徒として立てられ、各地の開拓伝道において「熟練した建築家」の働きが神の恵みによって、与えられ支えられたということです。
次の節では、「わたしは、神からいただいた恵みによって、熟練した建築家のように土台を据えました」と語ったパウロが、その「土台」について説明しています。そこで、教会を建てる際、中心となるお方が登場します。
Ⅱ イエス・キリストという土台
コリントの信徒への手紙 一 3:11――
イエス・キリストという既に据えられている土台を無視して、だれもほかの土台を据えることはできません。
土台を据えた者も、その上に建てつぐ者も「無視」できないのが、「イエス・キリストという既に据えられている土台」です。つまり、教会を建てる際に、伝道者や信徒が「土台」を設計して造り出す必要はないということです。パウロのように、既にある「土台」を据えればよいのです。とすれば、パウロが据えた「土台」とは、一体何なのでしょう。
「イエス・キリストは、きのうも今日も、また永遠に変わることのない方です」(ヘブライ13:8)……このお方御自身が「土台」になってくださいます。信仰により祈りをもって建てられる教会の「土台」は、「イエス・キリスト」以外にあり得ません。コリント教会へのパウロの信頼は、「イエス・キリスト」が土台として「既に据えられている」ことに依っています。神の用いられる道具として、パウロは慎重に「熟練した」手をもって据えたのです。
従って、わたしたちの礼拝や伝道の確かさは、すべて「既に据えられている土台」なる「イエス・キリスト」に掛かっています。「イエス・キリスト」が「土台」であり、その神の住まいに霊の働きに満ちるとき(エフェソ2:20-22)、わたしたちが信仰において成熟するように、また、ねたみや争いをくぐり抜けて和解するように、導かれます。
終わりに、「この土台はイエス キリストである 1990年7月定礎」……茅ヶ崎香川教会の「隅の親石」(詩編118:22)に刻まれている文……に関して一つ、類句を掲げましょう。
ペトロの手紙 一 2:4――
この主のもとに来なさい。主は、人々からは見捨てられたのですが、神にとっては選ばれた、尊い、生きた石なのです。
「イエス・キリストという土台」がここでは「尊い、生きた石」と言い換えられています。「生きた」とは単に「永遠の」という意味ではありません。それは、「十字架につけられて死んだ後に、よみがえった」石ということです。この「生きた石」は人々から踏みにじられ、放り捨てられました。しかし、神から「選ばれた」、その石は、神の力によって復活されられました。その意味で、教会には困難を乗り越える力が備わっているはずです。
わたしたちは今、神の建物の「土台」なる「生きた石」(単数形)の恩恵にあずかっています。パウロは次のように証言しています。
ガラテヤの信徒への手紙2:20――
生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。
さて、次の段では、「土台」なる主イエス・キリスト、その「土台」を「熟練した建築家」のように据えたパウロに続いていよいよ、建てつぐ人々、すなわち、現在のコリント教会員へのメッセージが記されています。
Ⅲ かの日がおのおのの仕事を明らかにする
コリントの信徒への手紙 一 3:12-13――
12 この土台の上に、だれかが金、銀、宝石、木、草、わらで家を建てる場合、13 おのおのの仕事は明るみに出されます。かの日にそれは明らかにされるのです。なぜなら、かの日が火と共に現れ、その火はおのおのの仕事がどんなものであるかを吟味するからです。
注目すべきは、建てつぐ人々の課題と共に、「神の建物」に関わる将来が見渡されていることです。「建物」というのは一般的に、そこに長い間住むものですから、これは必須の説き明かしでありましょう。わたしたちが安心して、そこで生活するための、基本情報になります。
「金、銀、宝石、木、草、わら」……パウロは、建てつぐ人々が用いている六つの資材を挙げています。そして、それらを二グループに分類しています(H.W. ホーランダル)。
「金、銀、宝石」……火によって損なわれないか、ほとんど損なわれない資材。
「木、草、わら」……火の中で完全に燃えてしまう資材、つまり、容易に燃える物。
「この土台の上に」積み上げていく資材が重要だ、というのはすぐに肯ける話です。主イエスも、「家と土台」の譬えの中で、「雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲う」ことがあると警告されています(マタイ7:24-27)。「砂の上に建てられた家」は、たとえ「土台」自体が頑丈であっても、「倒れて、その倒れ方がひどかった」という結末に至ります。
「神の建物」の建築に関わる、二グループの資材の比喩はよく分かります。しかし、「おのおの、どのように建てるかに注意すべきです」(Ⅰコリント3:10)との警告を、建てつぐ人々は教会の働き・奉仕として、「どのように」実践すればよいのでしょうか。礼拝、伝道、説教、聖書研究、交わり……
この点についてすでにⅠで、少し言及しました。
一つは、「わたし(パウロ)は、神からいただいた恵みによって」との冒頭の句が、建てつぐ人々の胸に刻まれること。
もう一つは、その時々の教会の実際問題をめぐっては、「どのように建てるか」の正解が見出しがたいこと。従って、「わたしたちは神のために力を合わせて働く者である」(Ⅰコリント3:9)との初心に立ち返って、協議すること。しばらく忍耐して待たねばならないこともあるでしょう。
「なぜなら、かの日(単数形)が火と共に現れ、その火はおのおのの仕事がどんなものであるかを吟味するからです」……「かの日」は概ね、「終わりの日」、すなわち、キリストの再臨の日を指していると見なされています。「神が(教会を)成長させてくださる」(Ⅰコリント3:6-7)ことに、終わりが告げられるその日と、より一般的に解することもできるでしょう。
大切なのは、「かの日に、おのおのの仕事は明るみに出される」が故に、畏れをもって「終わりの日」を見据えていることです。そうして、今の「仕事」に全身全霊をもってたずさわるのです。なぜなら、神が最終的に、吟味した上で、評価を下されるからです。その時、「それぞれが働きに応じて自分の報酬を受け取ることになります」(Ⅰコリント3:8)。
「神の建物」の支配者なる神と建てつぐ人「それぞれ」の関係が重要です。周りを見て、「主よ、この人はどうなるのでしょうか」(ヨハネ21:21)と、問うのは差し控えましょう。あくまで、神に仕える僕として、自分の「仕事」を全うすることです。
果たして、わたしは神の恵みを信じて救われるのかどうか、「かの日」まで裁きが据え置かれるとしたら……。答えを得ようと焦って悶々とするよりも、慰め深い旧約の詩人の言葉に耳を傾けてみましょう。
Ⅳ 神よ、あなたは我らを試みられた
豊かな所に置かれた。
「我らは火の中、水の中を通った」との詩行から、バビロン捕囚(紀元前6世紀初め)のような歴史的な苦難がこの詩の背景にあると分かります。「我らは」は、敵に侵略され、大災難の中でもがき苦しみました。
上の詩文で特徴的なのは、一つの詩行を除いて、「あなた(神)は 我らを~した」(合計6回)との言い回しが貫かれていることです。「あなた(神)」と「我ら」との関係に揺らぎは皆無です。「我ら」を造られた「あなた(神)」は、「我ら」を守り導いておられます。神は「火の中、水の中」、民と共に歩んでおられます。
内容的には、神がイスラエルの民を、苦難や危機を通して訓練される様子が描かれています。訓練とは、「銀を火で練る」試みのように、苛烈なものです。「我ら」の行った善いことも悪いことも、すべて露わにされます。それは、善悪を見分ける霊的感覚と経験を身につけるためです(ヘブライ5:14)。その上、その訓練が、いつまで続くのか、「我ら」に知らされていません。
そして神は、「我らの腰に枷をはめ」て御前に立たせ、我らの罪を裁かれます。誰も、その厳しい裁きから逃れられません。なぜなら、「かの日に、おのおのの仕事は明るみに出される」(Ⅰコリント3:13)という終わりの日が到来するからです。
みなさん、不安になられるでしょうか。思わず、周りの人の様子を覗きたくなるでしょうか。詩人のつづった最終詩行を読んでみましょう……「しかし、あなたは我らを導き出して 豊かな所に置かれた」。ここに、希望があります。
神の寛大さを証しする、別の事例についてお話ししましょう。
創世記26章に、イサクがペリシテ人によって妨害されながらも、井戸を掘り直したという挿話が出ています。イサクは飢饉のために、ペリシテ人の領土ゲラル(ガザの南方)に移住しました。そこに、イサクの父アブラハムの掘った井戸がありました。土で埋められていたので、修復しようとしたのです。それは、その土地に種を蒔いて収穫するためでありました(創世記26:12,15)。
その時、ペリシテ人はイサクをねたみ、彼と争い、彼に敵意を抱きました(創世記26:14,20,21 参照:エゼキエル書35:11)。そのために、イサクはゲラル周辺の谷に移住し、天幕を張って住みました。イサクは、荒れ地に井戸を掘った父アブラハムの労苦(同上21:25,30)を思い起こしたに違いありません。
そうして、新たな井戸が掘り当てられ、もはやペリシテ人との間に争いは起こらなくなりました。神がイサクを祝福されたのです。
創世記26:22――
イサクは、その井戸をレホボト(広い場所)と名付け、「今や、主は我々の繁栄のために広い場所をお与えになった」と言った。
詩編66:12の「豊かな所」は、「潤い」とも「自由」とも読み換えられます。「我ら」を縛り付ける「網」や「枷」から自由になっていることは、確かです。わたしたちが大いに慰め励まされるのは、この使信(試みからの救い)がキリストの福音につながっているということです。
Ⅴ 火の中をくぐり抜けて来た者のように救われる
コリントの信徒への手紙 一 3:14-15――
14 だれかがその土台の上に建てた仕事が残れば、その人は報いを受けますが、15 燃え尽きてしまえば、損害を受けます。ただ、その人は、火の中をくぐり抜けて来た者のように、救われます。
「かの日」の話の続きです。今の時代の、教会・設立の問題として語り直してみましょう。
建物に土台を据える人々がいます(複数人としておきます)。そして、建築を押し進めて、建てつぐ人々がいます(これも複数人として)。「植える者と水を注ぐ者とは一つですが、それぞれが働きに応じて自分の報酬を受け取ることになります」(Ⅰコリント3:8)との文意が今、深く理解できます。
すなわち、一人ひとりが、「報いを受ける」か、それとも、「損害を受ける」か、それぞれに、分かたれるということです。しかし、驚くべきは、その先です。
「ただ、その人は、火の中をくぐり抜けて来た者のように、救われます」……「その人」とは、「損害を受ける」人、神の裁きによって罰を受ける人です。「その人」は「熟練した建築家」ではありません。愚かにも、神の建物に、「木、草、わら」などの資材を持ち込んでしまいました。早く、建て上げようと急ぐあまりに、「かの日」という将来を望み見ることがありませんでした。
「その人」は「神の建物」、すなわち、教会を建てつぐ者として、「神からいただいた恵み」を十分に生かせなかったのです。彼らの中には案外、教会の兄弟姉妹の評判はよかった人もいるかも知れません。しかし、その仕事は「燃え尽きてしまいました」。永続するようなものではなかったのです。「かの日」に「その人」は罰せられました。
しかし、驚くべきことに、その先がありました……「ただ、その人は、火の中をくぐり抜けて来た者のように、救われます」。確かに、「我らは火の中、水の中を通った」(詩編66:12)というように、その人は「火の中」の試練を耐え抜きました。
その人は、「キリストにある幼子」(Ⅰコリント3:1)のような人とも言えるでしょう。「キリストにある」ということだけが、「救い」なのであります。
結
ここでは、「かの日に、おのおのの仕事は明るみに出される」(Ⅰコリント3:13)に関連して、重要なことを補足します。
コリントの信徒への手紙 二 になりますが、パウロは「あなたがたは神の建物なのです」(Ⅰコリント3:9)という教会論を発展させています。それは、わたしたちが主イエス・キリストと再会する、終わりの時・「かの日」を見据えたものになっています。
コリントの信徒への手紙 二 5:1――
わたしたちの地上の住みかである幕屋が滅びても、神によって建物が備えられていることを、わたしたちは知っています。人の手で造られたものではない天にある永遠の住みかです。
一瞬、唖然とするでしょうか。地上で、「神のために力を合わせて働く者たち」(Ⅰコリント3:9)が土台を据え、建てついだ「神の建物」・教会とは別の「建物が備えられている」とは……?!
いや、別のものと言うよりも、わたしたちの教会は、「天にあるものの写し」なのです(ヘブライ8:5)。だから、地上の「神の建物」を聖なる宮として、建て上げるようとしているわたしたちの「働き」(Ⅰコリント3:8)、その「労苦」は、決して無駄になりません。
主なる神は、終わりの時に、「天にあるものの写し」なる教会を精査され、群れの一人ひとりの「働き」を吟味されます。そうして、「火の中をくぐり抜けて来た者のように」救われた者たちは、「天にある永遠の住みか」に入れられます。格闘と呼べるほどの仕事に終わりが告げられます。まことの安らぎに包まれます。
これほどの、身に余る「報酬」(Ⅰコリント3:8)が約束されています。先走りの損得勘定は止めて、達し得たところに従って進んでいくことにしましょう(フィリピ3:16)。
Ω
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