主日礼拝 2025年4月6日
(午前10時15分~11時30分)
復活前 第2主日(受難節第5主日)
招き 前奏
招詞 詩編140編 9節
頌栄
主の祈り (交読文 表紙裏)
讃美歌 73
交読文 10 詩編29編
旧約聖書 イザヤ書 35章1節~12節
新約聖書 ヨハネによる福音書17章16節~26節
祈祷
讃美歌 361
説教 「彼らに自分自身を捧げます~主の真理の霊による聖別~」
磯部理一郎師
祈祷
讃美歌 501
日本基督教団信仰告白
聖餐式
献金
報告
讃詠 545
祝祷
後奏
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2024年7月21日「永遠の命に至る食べ物のために」
列王記上17章8節~16節
ヨハネによる福音書6章22節~27節
※今回はレコーダーの不具合により説教音声はありません。申し訳ありません。
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説教主題「荒れ狂う大嵐の中にあっても」―栄光の神の現臨―
聖書 イザヤ書35章1~10節 マタイによる福音書14章22~33節
2025.3.30 磯部理一郎
はじめに
本日は「教会とは何か」です。神キリストは遜り人間の身体に受肉して宿り、みことばを語り魂深くに突入し、聖礼典により十字架の死と復活の栄光のお身体を差し出して内住し、内から復活の身体を成熟させ完成します。キリストは天地を貫き栄光のお身体をもって現存し、選びにより時と場を用いて教会を栄光のキリストの身体となし、創造・贖い・完成の働きをこの地上で行い続ける。神キリストは礼拝するあなたの魂と肉体に現臨し働く。
1.教会のはじまり、教会建設の前提 マタイ14:22~23,マルコ6:45~47,ヨハネ6:15~17)
⑴「それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸へ先に行かせ」14:22 ☛教会の根本と本質
a「それからすぐ」☛「あなたがたが彼らに、弟子たちにお渡しに」(14:16,19) →神の国(支配)到来の時
b「強いて舟に乗せ」☛弟子の強制派遣→神の絶対意志と計画→教会建設開始→パンと魚に見た神の国到来
c「向こう岸へ先に行かせ」☛終末再臨準備→向こう岸/空間/地の果て→先に/完成を目指す/未だ前/既に先取
→「向こう岸」☛宣教→マルコ/ベトサイダ, ヨハネ/カファルナウム☛ マタイ削除/時空の果て/永遠全地
→宣教の本質の神学化→神の国?神キリスト到来?いつどこ?→根拠:今既にここにイエスに→信仰→教会
⑵「その間に群衆を解散させ、祈るためにひとり山にお登りになった」14:23 ☛新しい契約と律法の締結
→「主はシナイ山の頂に降り、モーセを山の頂に呼び寄せ」出19:20~24→新Exodus Israel 教会の始まり
⑶「夕方になっても、ただひとりそこに」14:23 ☛ 祈る(ヨハネ14:15~24)→終末完成の先取と教会本体
2.「使徒伝承」教会教理から聖書を読み解く―使徒ペトロと使徒継承にある地上教会の本質〇使徒性×人間P
⑴「ところが」14:24 ☛次元転換、永遠の神国⇔地上の破綻→現世志向「金の子牛」出32:1~6→嵐、波
⑵「陸から離れて」24 ☛対立分離の二次元、神の介入支配(舟=教会)⇔自然(現世)恐怖→神の支配
→地上での試練①→「陸」地上に束縛・依存→自然物理(有限の肉)喪失危惧→神の力:信仰の杖:イエス
→神の介入継続→山でひとり祈るキリスト23→「何スダディオンも離れて」24→神の不在(棄捨)→信頼
→地上の人類に神介入はないか? 陸/戦争/災害/不条理→孤立と絶望→不信→教務と偽善化→教会無力化
⑶「逆風のために波に悩まされて」24 ☛信仰の試練②→「逆風」次元対立→反キリスト・迫害の大嵐
→「悩まされ」24→試練と真理探究→逆風と葛藤→内部分裂分離→異端分派論争→教会史はいつも危機の中
3.解決と克服の根拠:神の現臨と教会教導―神はいつも共在内住しみことばにより教会と信仰を教導する
⑴「夜が明ける」14:25 ☛神は時空を貫き突入→教会の時(有限無限の二次元構造の貫通)→時空の利用
→日曜朝の礼拝=復活栄光の主礼拝→天地同時の生→教会の本質=時空貫通の自覚→未だ・既に今ここに
⑵「湖の上を歩いて」14:25 ☛物理的二次元対立の時と場→同時貫通するキリストの終末的現臨と介入
「弟子たちのところへ行かれた」25「ひとり山に登られた」22, cf.「天に昇り全能の父なる神の右に座し」
→遜り降って導き上る「受肉の神」の現臨と「聖霊」の降臨(para,klhtoj「傍らに同伴し助ける弁護者」)
「父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え」(ヨハネ14:26)
→父子霊一体の相互内在の神「地上突入」→神の現臨介入→教会に内在化/聖礼典→試行説明:化体/偏在/霊在
⑶「湖上を歩いて…を見て」14:26 ☛「見て」眼前に生起する神の事実は見て触り体験できる→理解不能?
4.教会の力ある本質を知る―教会は、神の自己証明(啓示)と神の実存を現わす神の身体ー
⑴「見て幽霊だ」14:26 ☛「幽霊」〇恐れ×喜び→見たのになぜ?→不信と恐怖の支配→贖罪の継続必要
⑵「イエスはすぐに話かけ」14:27 ☛説教の解き明かし「わたしだevgw,
eivmi」27, cf. ヨハネ6:27
Egw, eivmi
→「わたしはある」神である:神のIdentity→今ここに教会の直中に突入現臨する:神のExistence→教会
⑶「ペトロ…水の上を歩き」14:28 ☛水の上を歩く主と教会「一体性」→主の継承特権→地上の教会の権威
⑷「舟から降り」14:28 ☛「信仰の薄い…疑った」14:31→権威の徹底→〇神の主権, ×疑う人間ペトロ
⑸「本当にあなたは神の子」14:32 ☛信仰の核心に→教会の確信に→時空貫通の神の現存、今ここに!
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月報 3月号
説 教『その日には、夕暮れに光がある』
ゼカリヤ書 14章6節~7節 小河信一牧師
説教の構成――
序
Ⅰ その日には、夕暮れに光がある …ゼカリヤ書14:6-7〈預言〉
Ⅱ ヨセフは亜麻あま布ぬのを買った ……マルコ15:42-46〈成就1〉
Ⅲ 女たちは香料を買った ……マルコ15:57-16:1-2〈成就2〉
Ⅳ 神の栄光が都を照らしている
……ヨハネ黙示録21:23-24〈待望〉
序
本日は、「その日には、夕暮れに光がある」との主題を、神の大いなる救いの歴史における〈預言〉〈成就〉〈待望〉という広い視野から展望します。
わたしたちはやがて高齢になり、老いや病やまいに苦しむようになります。しかし幸いにも、主イエス・キリストによる十字架と復活の〈成就〉、そして、神の国の〈待望〉というわたしたちの信仰の中心に、「その日には、夕暮れに光がある」との慰めのメッセージが込められています。老いの日々の向こうに、わたしたちを歓喜させる「夕暮れ」が待っています。
Ⅰ その日には、夕暮れに光がある
ゼカリヤ書14:6-7〈預言〉――
6 その日には、光がなく
冷えて、凍いてつくばかりである。
7 しかし、ただひとつの日が来る。
その日は、主にのみ知られている。
そのときは昼もなければ、夜もなく
夕べになっても光がある。
ゼカリヤは12章から最終の14章にわたり、「主の日」についての思索を深めています。どのように「主の日」が到来するのか、を神の知恵によって説き明かしています。
さて、「主の日」とは、どんな日なのか、ゼカリヤ書の記述に従って見てみましょう。ここで注意すべきは、時間経過と共に、「主の日」の明暗が一転することです。だから、「気をつけて、目を覚ましていなさい」(マルコ13:33)。
「その日には、光がなく 冷えて、凍いてつくばかりである」……これは主イエスの言葉を借りれば、「これらは産みの苦しみの始まりである」(マルコ13:8)という終わりの時の徴しるし(同上13:4)を表しているように思います。「光がない」という闇や寒さの中で、人々は慌あわてて逃げたり、混乱したりする恐れがあります。偽にせメシアが現れて、不思議な業を行い、人々を惑まどわそうとします(マルコ13:7,15,22)。
これを信仰の面から言えば、真に主なる神に依り頼むかどうかが、終わりの時に、わたしたちは問われるということです。「銀を精錬せいれんするように精錬し 金を試ためすように試す」ごとく(ゼカリヤ書13:9)、人々の信仰は錬ねり清められます。わたしたちは最後まで、主なる神につき従わねばなりません。
「しかし、その日」に、激変が神の側から起こされます。それまで忍耐していた者は幸いです。
「そのときは昼もなければ、夜もなく」……「寒さも暑さも、夏も冬も 昼も夜も、やむことはない」(創世記8:22)という創造の秩序が更新され、「ただひとつの日が来る」ことになります。
「ただひとつの日」というのは、わたしたちの心に思い浮かびもしなかったもので(Ⅰコリント2:9)、「その日は、主にのみ知られている」ものであります。従って、楽観的にせよ悲観的にせよ、わたしたちが予断することは許されません。ですから、「その日には、夕暮れに光がある」(私訳)という出来事の内実も、ただ神のみがご存じです。
ゼカリヤは同僚のハガイなどと共に、神の喜ばれる道を暗中模索する中で、「ただひとつの日が来る」と、〈預言〉しました。そこで続いて、Ⅱ ヨセフは亜麻あま布ぬのを買った で、〈成就1〉を、そして、Ⅲ 女たちは香料を買った で〈成就2〉を説き明かしましょう。
主イエス・キリストの十字架と復活において、「その日には、夕暮れに光がある」とのメッセージを受け取るのが、聖書的であり、最も信頼できると思います。具体的に言えば、ゼカリヤ預言の「主の日」(その日)は、主イエス・キリストの十字架の死と復活の「三日間」において成就します。すなわち、準備の日、安息日、週の初めの日、その「三日間」になります。
Ⅱ ヨセフは亜麻あま布ぬのを買った
マルコ福音書15:42-46〈成就1〉――
42 既に夕方になった。その日は準備の日、すなわち安息日の前日であったので、43 アリマタヤ出身で身分の高い議員ヨセフが来て、勇気を出してピラトのところへ行き、イエスの遺体を渡してくれるようにと願い出た。この人も神の国を待ち望んでいたのである。44 ピラトは、イエスがもう死んでしまったのかと不思議に思い、百人隊長を呼び寄せて、既に死んだかどうかを尋ねた。45 そして、百人隊長に確かめたうえ、遺体をヨセフに下げ渡した。46 ヨセフは亜麻布を買い、イエスを十字架から降おろしてその布で巻き、岩を掘って作った墓の中に納め、墓の入り口には石を転がしておいた。
「準備の日」が終わろうとしている「夕方になった」と告げられています。丁寧に時間経過を記述しているマルコ福音書は、その「準備の日」、「昼の十二時になると、全地は暗くなり、それが三時まで続いた」(15:33)と述べています。これこそ、「その日には、光がなく 冷えて、凍いてつくばかりである」(ゼカリヤ書14:6)との〈預言〉の〈成就〉ではないでしょうか。
ここに、一人の男が主イエスの十字架のもとに引き寄せられて来ます。この男の登場と共に、神の御子が死んだ日という「主の日」の明暗が一転します。
午後三時までは、「全地は暗くなって」いました。それから、「夕方になり」ました。その時被造世界の秩序が回復しているならば、空には満月が輝いています。なぜなら、過越祭はニサンまたはアビブ(第一)の月の15日……厳密には14日の夕暮れ……から始められるからです(民数記9:1-3、歴代誌下35:1、出エジプト記23:15)。
「三時まで続いた」闇が去って、「アリマタヤのヨセフ」は動き始めました。彼には、「イエスの遺体」の引き取り許可を得て、「墓の中に納める」という急務が託されていました。彼は、「安息日に遺体を十字架の上に残しておかないために」(ヨハネ19:31、申命記21:23)、総督官邸からゴルゴタの丘へ、それから墓地へと駆け回りました。
それは困難な務めではありましたが、あたかも神が、敬虔けいけんなる者の「午後三時の祈り」(使徒3:1)を聞き届けられたかのように、順調に事が運びました。「アリマタヤのヨセフ」は「墓の入り口には石を転がして」、主イエスの葬りを終えました。そうして彼は、律法に即して夕暮れまでに準備を完了される神の御業に携たずさわることになりました。
無事、主イエス・キリストの埋葬が終えられたのは、「その日には、夕暮れに光がある」との〈預言〉が〈成就〉したことにほかなりません。そうして、主の復活を証拠づける「空からの墓」が用意されることになりました。言い換えれば、主イエスの全まったき死は、主イエスの復活の〈成就〉へとつながっていきます。
Ⅲ 女たちは香料を買った
マルコ15:57-16:1-2〈成就2〉――
47 マグダラのマリアとヨセの母マリアとは、イエスの遺体を納めた場所を見つめていた。
1 安息日が終わると、マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメは、イエスに油を塗りに行くために香料を買った。2 そして、週の初めの日の朝ごく早く、日が出るとすぐ墓に行った。
ここに、「マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメ」が、イエス・キリストの「主の日」の証人として呼び出されました。彼女たちについて注目すべきは、主イエスの①〈十字架の死〉②〈葬り〉③〈空の墓〉を見つめていた(マルコ15:40,47、16:4)ということです。
ところで、彼女たちは、週の初めの日が始まる「夕暮れ」を待っていました。売り買いが許されない安息日の間(ネヘミヤ記13:15-16、アモス書8:5)、はやる気持ちを押さえていたことでしょう。彼女たちは安息日明けの夜、「イエスに油を塗りに行くために香料を買」おうと待っていたのであります。
その時、「香料」を分けてもらうために外出する女たちの足もとを、満月が照らしていました。ここにも、「その日には、夕暮れに光がある」という幸いが見いだされます。
「そして、週の初めの日の朝ごく早く、日が出るとすぐ墓に行った」……墓を封ふうじている石のことが気がかりでしたが、早朝、女たちは主イエスの墓に駆けつけました。ところが、石は既に転がされており、墓の中に入ることができました。そして、白い衣ころもを着た若者から、「あの方は復活なさって、ここにはおられない」と告げられました(マルコ16:5-6)。
復活の夕べから復活の朝まで、「マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメ」は、“ 霊 ” 的に目覚めさせられた者として事の一部始終を見つめていました。
このようにして、「その日には、夕暮れに光がある」との〈預言〉が、主イエス・キリストの十字架と復活において〈成就〉しました。ゼカリヤの〈預言〉の〈成就〉を目撃させられたのは、安息日の前後に、亜麻あま布ぬのを買った男と香料を買った女たちでありました。
Ⅳ 神の栄光が都を照らしている
ヨハネ黙示録21:23-24〈待望〉――
23 この都には、それを照らす太陽も月も、必要でない。神の栄光が都を照らしており、小羊が都の明かりだからである。24 諸国の民は、都の光の中を歩き、地上の王たちは、自分たちの栄光を携たずさえて、都に来る。
その日には絶えず、「神の栄光」が輝いています。「しかし、ただひとつの日が来る」との〈預言〉の通りのことが起こります。都エルサレムに第二神殿を再建しようとしたゼカリヤやハガイの期待をはるかに超えて、新しい都は永遠に神の栄光に包まれています。その都の中心には、主なる神と「小羊」なるイエス・キリストがおられます。
わたしたちは、主イエス・キリストの十字架と復活の御業の〈成就〉に基づいて、このような将来を〈待望〉しています。
Ω
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説教主題「今こそ立ち上がる時」―罪の病からの解放―
聖書 詩編78編⒓~29節 ヨハネによる福音書5章1~18節
2025.3.23 磯部理一郎
はじめに
本日の主題は「立ち上がる」外化です。生ける三一の神は御子の受肉と聖霊の降臨を通して遜り(フィリピ2:6~8)、説教と聖礼典(礼拝)により時間と場所を用いてご自身を差し出し、聞かせ食べさせ飲ませ人格(心身)に内在内住し、内より無限の再創造と十字架の贖罪と復活の完成のわざを行い、人間本性を根源から新生させ、栄光の復活へと貫き人類を罪から救います。神の内在化(「内で泉となり永遠の命に至る水が湧き上がる」4:15)は内から外へと働き新し人格を新生させ新たな行動を発芽させます。命の泉は内から新しい人格を形成し外化して新しい行動変容起こし現れ、病んだ者が立ち上がり、死んでいた者が生き返り、新生の人格は動き始めます。
1.ベトザタ(Bethzatha, Bethesda)の池で神の出来事:38年の「絶望」が「あわれみ」に変わる「礼拝の場と時」
⑴「ベトザタ(オリーブの家)」5:2、ヘロデ大王→エルサレム北壁東「羊の門」(ネヘミヤ3:1,32,12:39)
巡礼者の沐浴(男女用南北二つの池40~60m)→異称「ベテスダ」Bethesda(神のあわれみの家)
→写本欠落5:4【口語】「主の御使がこの池に降りてきて、どんな病気にかかっていても、いやされた」
⑵「ヤコブの井戸」サマリア律法(4:6)礼拝の場、「生ける神と出会う」場、律法の根拠
「ベテスダの池」5:3癒しの場、病気=霊的穢れ/汚れ→外化(MK1:23,34, 3:11, 5:2, 6:7, 7:25, 9:18)
主の御使い→霊的清め→癒し、病の根本問題:肉体と精神→人間本性全体を支配する→絶望と依存
⑶「38年も病気で苦しんで」5:5→ニコデモ(水と霊による新生)サマリアの女(神の愛に直に触れ命の泉)
2.絶望の訴えと主のことば(啓示)☛神は絶望し尽くした魂の中に遜り降下しご自身を差し出して内住する!
⑴「良くなりたいか」5:6:啓示=愛ゆえ遜り苦悩の中に降下する「イエスは、見て、知り、言われた」5:6、
「わたしは民の苦しみをつぶさに見、叫び声を聞き、痛みを知った。降って行き、導き上る。」(出3:7,8)
⑵「入れてくれる人がいない」5:7 ☛ 依存:迷信と他者に依存と自立? 「絶対」依存→あなたが立ち上がる!
「良くなりたいか」→内なる意志を問う→病:人格の根本の病「意志と希望の再生」→人間本性の根本回復
⑶「起き上がりなさい」5:8、外から内を貫通する神の言葉、神の力と応答の意志、内面からの生きた出会い
⑷「すると、その人はすぐに」5:9、み言葉→内化の確かさ/種蒔きMK4:1~20, 26~34→意志と希望の発芽
→神の言葉のみわざ→受容と応答意志「床を担いで歩きだす」→内在から外化するみわざ×自律, 〇神律
3.安息日:矛盾→神の創造完成,万物世界の祝福と聖別→罪による破壊と堕落→万物の呻き(ローマ8:21~23)
⑴「今日は安息日、律法で許されていない」5:10、律法による義→罪による完全破壊→完成安息の実質喪失
安息日(創2:1~3):力ある神の創造完成、万物世界の祝福と聖別☛聖なる祝福と完成の喜びに溢れる日
☛神の栄光を全地は存在の全てを一致させて表し讃美する、故に「礼拝」成立根拠☛安息日の本質
⑵「『床を担いで歩きなさい』言われたのです、言ったのは誰か」(5:11,12)
律法の誤用:罪による奴隷化、権力支配→宗教の空洞化→教会の現世化と無力化→絶望,虚偽,幻想,偽善化
→承認欲求と権力保持のため真の神を抹殺するユダヤ宗教社会(5:16,18)→キリスト教会は?
⑶「罪を犯してはいけない」5:14、罪の本質:神を神としない意志、反キリスト >×汚れた霊や偶然の病傷
→「受肉の神」と直に向き合う勧め→真の神への回心と礼拝→信仰の招き→さもなければ滅びに至る!
4.安息日、神が万物を完成し祝福し聖別する日→罪の破壊→「絶望」から「憐れみ」に変える祝福と救済の日
⑴「安息日にこのようなことをして」5:16「安息日を破る」5:18、律法主義の「誤解」VS「真の神の安息」
⑵「父は今も働いて」5:17 ☛あなたの中で今も、神の創造は絶えず継続的に進行, 終末完成, 後期ユダヤ教
⑶「神を自分の父と呼んで」5:18「ご自身を神と等しい者と」5:18「わたしはある」8:58→神の自己啓示
5.結語:ヨハネとその教会の宣教(「わたしはある」)→「子」において「父」は働き「父」の栄光讃美はある!
☛父子聖霊の神は、愛の一致により、御子の受肉と十字架の死と復活をもって罪を永遠に贖い永遠の命を与え、説教と聖礼典により、栄光の身体を魂の内に与え心身の交わりをもって栄光の身体に新生させ養い育てる。
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説教主題「今こそ、真の礼拝の時」―神のメシアとの出会い―
聖書 申命記6章4~9節 ヨハネによる福音書4章1~26節
2025. 3.16 磯部理一郎
はじめに
本日の主題は「霊と真理による礼拝」です。礼拝は生ける三一の神が魂を外から内にそして永遠の命へと貫く内在超越の神の行為です。絶対超越の神は天地を貫き受肉し、聖霊と真理の言葉(説教と聖礼典)により世の時と場を用いご自身から遜り降って罪人に宿り、外側から魂の奥深くに内在内住し、溢れる贖罪と復活の源泉となり、人間本性をキリストの栄光の身体に新生させ、根源から潤して養い育て、永遠の天の命にわれわれを完成させます。「わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」(4:14)「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。」(6:56)
1.ヤコブの井戸、民族の真の「神礼拝」を求める対話の開始(エルサレム神殿とサマリア神殿)
⑴ ヤコブの井戸:サマリアの歴史:B.C.722北の滅亡→雑婚混住 マナセ→分離政策:サマリア神殿祭儀
⑵ 主イエスの旅路:シケム(アルカル)ゲリジム絶壁下、ヨルダン渓谷の酷暑と難路→伝承「枠」の突破
⑶ サマリアの女の痛み(愛喪失:夫不在の病んだ愛)とニコデモの苦悩(神喪失:偽善的律法社会)
⑷ 水を乞う主「水を飲ませてください」(7)立場の逆転 捨て遜る:啓示→神から愛ゆえの呼びかけ☛選び
2.女の深刻な誤解と対立の中で
⑴「ユダヤ人がサマリア人のわたしに、どうして頼むのか」(9):神の救いの水を乞う☛種族と神人の立場逆転
女の誤解1:ユダヤ人とサマリア人の対立☛種族と宗教の相違☛「神のメシア(預言者)申18:15」喪失?
⑵「神の賜物を知り、だれであるか知って」(10)☛メシア:天から降り受肉し罪を贖う神=主イエスに出会う
女の欠如2:救われるべき罪人(罪の自覚)☛愛と選びにより救いを与えるメシア?☛求道心と信仰心?
神が罪人になる:愛ゆえに遜って降り受肉して十字架の死 ☛ケノーシス(フィリピ2:6~8)☛聖霊降臨
⑶「汲むものをお持ちでない、井戸は深い」(11)閉ざされた救いの道、律法処理の限界と罪による絶望の深さ
⑷「ヤコブよりも偉い、その子供や家畜もこの井戸から水を飲んだ」(⒓)地上の権威と全能の創造神の権威
女の限界3:イエス?→預言者?魔法の祈祷師?→完全信仰?☛限界の自覚☛主の身体と聖霊による養育
「楽」になる水?→現世的欲求に終止→現世の障壁突破?→罪の解決と永遠の命?☛信仰の現世的誤解?
3.主イエスの啓示(啓示=神が神でない者のための愛ゆえにご自身を開いて遜り地上に降り受肉し罪を贖う)
⑴「わたしが与える水を飲む者は」十字架と復活の身体☛聖霊の降臨(7:37~39)→内在内住し教導する神
「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。」
⑵「その水をください」(15)→女の限界と誤解→現世次元の枠内、回心と主の恵みの信仰よる超越突破は?
⑶「あなたの夫をここに呼んで来なさい」(16)回心を求める説教→罪を告白する礼拝(Ⅰコリ14:24, 25)
4.霊と真理をもって父を礼拝する
⑴「礼拝すべき場所」(20)真の礼拝?→突破口☛神があなたを選びご自身を与え復活させるわざに与る☛飲む
⑵「わたしを信じなさい」(21)☛主は霊とことばで心身の内にご自身を与えて現存し,神を礼拝する場を創る
⑶「父を礼拝する」(22)☛主イエス「わたしはある」(8:58)ホモウシオス「霊と真理をもって父を礼拝する」(23)
⑷「神は霊である」(24)「水と霊とによって生まれ」(3:5)☛人間「本性」の根源的新生☛主の身体に与る
相互内在化☛神+人「弁護者が来れば…わたしに栄光を与え…わたしのものを受けて…告げる」(16:8~16)
「わたしが父の内に(神)、あなたがたがわたしの内に、わたしもあなたがたの内に(神と人)」(14:20)
聖霊は子を,子は父を証しする☛父⇄子⇄霊の相互に内在する[神]☛人「神はあなたがたのうちにおられ」 聖霊が宿る☛父子聖霊の相互内在の神を宿す☛内からの再創造/永遠の贖罪/命の完成「湧き溢れる泉」4:14
⑸「あなたと話をしているこのわたしである(エゴー・エイミ「わたしはある」出3:14)。」(4:26,8:58)
5.結語:聖霊の働きに助けられて、真理である神のことば(主の語る説教・主の制定された聖礼典)を告げ、
栄光のキリスト(罪の赦しと永遠の命の救い)を心のうちに宿す(神はあなたがたの内におられます)
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説教主題「この岩の上に教会を」―真の教会を求めて―
聖書 詩編42編1~12節 マタイによる福音書16章13~20節
2025.3.9 磯部理一郎
はじめに
本日の主題は地上の教会設立とその役割、勿論「人類救済」です。神「わたしはある」は民の痛みを知り降り救うとモーセに約束。神はついに「受肉の神」主イエスとなり地上に降臨し、人間の心と肉体の中に突入介入し、愛により罪を贖い罪と死に勝利し永遠の命に復活し昇天。福音の内実はこの「栄光の身体」に与り受領することです。主の栄光の身体において身体的に交わり生きて働く真の神を知り、永遠に贖罪と新生の命に養われます。主が「取りて食せよ、これはわたしの身体である」と聖餐を制定しわれらを招き、栄光の身体に与り心身の内に宿します。ここに受肉の神の身体としての地上の教会の本体が見えて来ます。力ある教会の本体は主の身体の現存にあり、聖霊が派遣されて、地上での「栄光の身体」である教会はいよいよ完成に向かって展開してゆきます。
1.無力化(?)したキリスト教の現代的課題:聖書と教会における神喪失と人間主義化の過ち
⑴ 聖書の無力化:神のことば(信仰規範)聖書学→文献学、信仰→神喪失の人間学、情念欲求→人間の言葉
近代神学の根本問題→聖書原典→文献学/歴史学→神?→ヒューマニズム K. Barth「神のことば」の神学
⑵ 教会の無力化(栄光の身体の喪失)の根本原因:「栄光の身体」なき「ことば」、福音の本体・実体の喪失
「空洞」信仰→信仰「根源」はどこ? 神の体験と内在化の可能性(終末論の課題:否定と肯定の原理)
⑶ ミュステリオン(秘跡/隠れた神→受肉の神(十字架と復活の身体)→地上にキリストと聖霊が現存する場
⑷ 教会の力ある根源「栄光のキリストと聖霊」→三位一体の神の突入と介入のリアリティー=キリスト教!
2.神の教会の建設から展開へ:栄光のキリストの身体に与り受領する地上の場「取りて食せよ、わたしの身体」
⑴ メシア(子)告白(マタイ16:13~16、マルコ8:27~30、ルカ9:18~21)救いと福音の本体
⑵ 神の啓示「天の父」(マタイ16:17、ヨハネ6:65)☞ 16:17「幸い」→23「サタン」→24「十字架」
「聖霊を受けよ」(ヨハネ20:22)父⇄子⇄聖霊 ☛ エクレシア「啓示⇄選び・聖霊伝授⇄派遣」
⑶ キリストの身体という教会を立てる(マタイ16:18)歴史を貫く栄光の身体「与える」「与る」「受領する」
「この岩の上に」:<父子霊一体の啓示→人間ペトロ←信仰の応答>☛ 不可分離 終末課題:矛盾と葛藤
⑷ 「天国の鍵」の教会展開(16:19)栄光の神と一体の身体となる場 矛盾24「自分の十字架を背負って」
「汚れた霊に対する権能」「杖」(マルコ6:7,8)弟子の派遣、宣教命令(マタイ28:18~20)
「あなたが地上でつなぐことは天上でも」(ヨハネ15:5, 20:22,23)聖霊と十字架の媒介する委託と権威
3.ヨハネの教会の展開:栄光のキリストとの一躰結合→「キリストの身体となる」→内在化(ヨハネ4:14)
⑴ 大前提:キリストの内住の約束と宣言(ヨハネ14:16~24)主の受肉と聖霊降臨による相互内在の一体性
⑵ 受肉の神の現存と教導「羊の門」「羊飼い」の教会(ヨハネ10:1~5,7~18)み言葉による羊飼いの現臨
⑶ 教会員の根源「声を聞き分ける」(ヨハネ10:3,4)☛「連れ出す」選ばれた羊、主が連れ出し導かれる
⑷ 「栄光の身体」永遠の贖罪と復活の養い ☛過越の小羊と命のパン(ヨハネ1:29, 36, 6:32~41,46~58)
4.地上の教会の使命と役割 神の選びと派遣の場→「栄光の身体」の働き、人類を罪から救い復活に与る場
神の啓示:「わたしはある」(モーセ)→御子の受肉(十字架の死・復活・昇天)→栄光の身体と聖霊派遣
地上の教会☛主の栄光の身体の現存(説教/洗礼/聖餐/弟子の選び)→栄光の身体→聖霊降臨→地上の教会の神
(出3:7, 14、ヨハネ1:1~4, 14,8:58,10:1~4, 9, 14~17,14:15~24,17:21~26,20:22, 23、
Ⅰコリ14:24~25、ルカ22:7~23、ヨハネ6:1~15, 52~58、Ⅰコリ11:23~34、コロサイ3:1~4)
⑴ 御子の受肉と栄光の身体(十字架と復活)と聖霊の降臨(ヨハネ20:22, 23)☛人格心身への内在化!
⑵ 使徒たちの選びと派遣(マルコ5:7~13)×待つ→〇派遣:人類各人に、神の派遣の場に生きる自覚
⑶ キリストの現存と聖霊に導かれる「教会の宣教」(マタイ28:18~20)→完成に向かう養いとたたかい
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説教主題「取って食べなさい」―これはわたしのからだである―
聖書 ルカによる福音書22章14~23節 コリントの信徒への手紙一11章23~34節
2025. 3.2 磯部理一郎
はじめに:神喪失の教会史と聖餐における神の現臨(迫害と世界大戦という殺戮の人類史の中で)
本日はキリストの現臨(現在)と今ここに生きて働く栄光のキリストとの命の交わりをお伝えします。前回は唯一真の神(わたしはある)は、受肉した御子イエス・キリストにおいて到来し啓示され、霊と信仰によりキリストとの出会いの中で、罪ゆるされ新生し神の国に入れられることをお話しました。主は十字架の死により罪を贖い、復活において人類の永遠の命を確証し、天に昇られた。わたくしどもはこの地上にあっても「栄光の主」といつも豊かに出会い、愛され罪赦され、永遠の命の交わりを実現する喜びを分かち合います。それが聖餐です。
1.地上の人類の根本にある原罪の根深い悲惨:信仰や教会をたてる難しさとその限界のただ中にあって
⑴ 律法主義ファリサイ派ニコデモの苦悩:<罪>は律法処理や教義(ある程度)解決不能→虚偽と偽善化
⑵ 人類の根源的「原罪」は? 洗礼:罪の告白/赦し、神の子の神聖、(では、受洗「後」に犯す罪は?)
⑶ キリストの十字架による贖罪の完了、そして復活し昇天し、神の右に座する栄光のキリスト
2.地上(時間)における永遠
⑴ 永遠は地上の中に突入し介入している:啓示(覆いを取除き隠された神と神の働きを現わす)神の受肉
⑵ 啓示の頂点:神の御子の受肉(聖霊によりて宿り処女マリアより生まれ)世と肉の中に突入し一体となる
⑶ 受肉のキリストにおける地上での神の永遠の招き(洗礼)・十字架による贖罪(十字架)と復活そして昇天
3.十字架の死と復活の前に、主イエスはなぜ「主の晩餐」を制定したのか? 継続的現存の約束
⑴ 洗礼:神の招きと加入天国への入会儀礼、古き罪人の死滅、新しき「神から生まれた神の子の誕生」
したがって受洗者は、根源的に罪に支配されない「神の子」として新生した(「告解」の是非)
(コロサイ2:11~15,3:1~4,9、10)
⑵ 時と肉の中で、未完成の神の子:受洗後に繰り返す新しい罪は? どうすればよいか?
⑶ キリストの十字架の死による贖罪の意義:一度限りの、しかし「永遠の贖罪」としての十字架の設定
4.聖霊の永遠の発出と地上への派遣の意義そして聖餐の制定の意義は? 「教会」的現存と「典礼」的現存
⑴ 父と子の内住の約束(「父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む」ヨハネ14:23)
⑵ 永遠の贖罪、神の子の完成:子のために寝食を共に暮らし、永遠の命を養い、成人させる「地上の場」
⑶ 聖霊の永遠なる発出と地上への派遣
聖霊の地上への派遣の意義 ヨハネ15:5,6、16:12~15、11:19~24
5.聖霊派遣に先立つ聖餐の制定:モーセの神「わたしはある」(民の痛み)→「受肉の神」(十字架と復活の神)
⑴ ミュステリオン(サクラメント/秘跡「隠れた神」)はなぜ制定? ×教会, 制定と執行の主: 〇神キリストご自身
洗礼と聖餐、堅信(信仰告白式)、告解(罪の告白と赦しの宣言)結婚・終油(葬儀)・叙階(按手礼)
⑵ 受洗「後」の罪:キリストの歴史的一回限りの十字架の死の犠牲贖罪→「永遠の贖罪」となる場の設定
⑶ 十字架に先行する聖餐の制定(「行って過越の食事ができるように準備しなさい」ルカ22:8)
「過越の小羊を屠る」(死の審判を過ぎ越す儀礼:出エジプト⒓:3~13)永遠に贖罪する犠牲の小羊
⑷ 聖餐執行の主体:招き行うお方は天地を貫き地上にも現存する栄光のキリスト(ルカ22:8,11~13)
「これはわたしのからだである」「わたしの記念」「これを行いなさい」「わたしの血による新しい契約」
6.結語:問題はキリストがここにおられること、聖餐制定により贖罪と復活を地上で永遠に進行させ導く主
⑴ ミュステリオン(聖礼典/秘跡/パン)と神キリスト「現存と内住」をどう説明するか?理性の限界
⑵ 聖餐論:化体説(ローマ)・共在偏在説(ルター)・霊在説(カルヴァン)、×ツヴィングリは実体なし
⑶ ☞ 天地を貫通して栄光のキリストは、地上に現存しわれわれに内住して永遠の命に養い続ける!
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説教主題「ニコデモの苦悶」―聖霊による新生―
聖書 イザヤ書40章1~11節 ヨハネによる福音書3章1~15節
2025.2.23.
隠退教師 磯部理一郎
はじめに
2023年6月18日御教会の礼拝で、神が初めて直接モーセに啓示した神の名「わたしはある(エゴー・エイミ)」(出エジプト3:14)を主題に説教しました。本日の説教も引き続き「わたしはある」神を基軸にして、ユダヤ教師で議員のニコデモの苦悶を通して、開示される主イエスにおける神の真相をお話します。
1.闇夜の中の訪問者ニコデモ
⑴ 苦悶苦悩するニコデモ(ヨハネ3:1~2a,10)
ファリサイ派(律法処理)、議員(サンヘドリン)、教師(神の知者)としての苦悶と問い
宗教権威の闇の実態(ヨハネ11:38~44,45~57)、宗教権威は神を抹殺する(ヨハネ11:53)
⑵ 神の探究者ニコデモ(ヨハネ3:2b、10)
神から、神と共に、神の教師:唯一真の神はどこにおられ、どうすれば出会うことができるのか
⑶ ニコデモの限界点(ヨハネ3:4,9)
母親の胎内にか(現世内に閉鎖、消滅、絶望)、霊から生まれるのか(神を根源として永遠を生きる)
無からの世界創造、人は命の息(創世記2:7)、全ては神の奇跡の中に
2.新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない
⑴ 神の国を見る、神の国に入る(ヨハネ3:4,5)
神の支配と神の完全統治、神の絶対審判にたえて通過する(過越の犠牲)
⑵ あらたに生まれる、水と霊とによって生まれる、(ヨハネ3:3,5)
上から、浸水:罪人の死滅(×律法処罰、神の絶対審判)、霊:聖霊によりキリストを着る一体化
⑶ 霊から生まれた者(ヨハネ3:9)
完全に審判を通過してキリストと共に神の国に生きる
3.天から降り天に上った者
⑴ 天から降って来た者、すなわち人の子(ヨハネ3:13)
神の子の受肉、わたしはある、今その時
⑵ 天に上った者(ヨハネ3:13)
復活と昇天、そして聖霊降臨における相互内在と一体性(ヨハネ14:15~24)
⑶ 神のロゴス(ヨハネ1:1~5,10~12,14)
4.わたしたちの証(ヨハネの信仰共同体)
⑴ わたしたち(ヨハネ3:11)ヨハネの教会、キリストの身体と一躰化された教会
⑵ わたし(ヨハネ3:12)教会の首としてのキリスト
⑶ 人の子(ヨハネ3:10,13~15)天から地上に降り天に上ったキリスト
5.結語 天地を貫通する受肉の神
⑴ 「わたしはある」の受肉
⑵ 受肉における真の神の現臨
⑶ 受肉・十字架・復活・昇天の神キリスト
⑷ 現臨する聖霊と三一体の神
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月報2月号
説教 『 主の御名は力の塔 』
箴言 18章1節~10節 小河信一 牧師
説教の構成――
序
Ⅰ 愚か者は自分の心をさらけ出すことを喜ぶ ……箴言18:1-3
結
序
本日のテキストは、旧約聖書・箴言の「ソロモンの格言集」(10:1-22:16)から選びました。そこには特に、言葉に関わる諺が連続して出てきます。確かに、言葉は時に人を慰め、時に人を傷つけます。人が語るとき、言葉遣いや発言の内容はもちろんのこと、その人自身の生き方が問われています。
以前に、主イエスのガリラヤ地方の伝道について説教したときに、次のような諺をご紹介しました。それは、故郷のナザレで迫害に遭い、湖畔のカファルナウムに戻って宣教に取り組まれている主イエスの様子(ルカ4:16-30,31-37)を、現代の諺で言うと、という事でありました。
“ Never confuse a single defeat with a final defeat. ”
〔和訳〕単なる一つの失敗を、最終的な失敗だと思い込んでならない。
これは、アメリカの小説家、スコット・フィッツジェラルドが残した名言です。フィッツジェラルドの代表作には、『グレート・ギャツビー』(映画名『華麗なるギャツビー』)があります。
わたしたちの間にはしばしば、たった一つの失敗のために、自分を蔑んで引きこもり、隣人との距離を置くということが起こります。しかし、それは人生全体から見れば、一つの失敗に過ぎず、時間が経てば冷静になって考え直すことができます。だから、それは決して、「最終的な失敗」ではありません。先の挫折は次への肥やしとなり、最終的な成功への手がかりとなります。
このフィッツジェラルドの名言は、第一次世界大戦後の困難な時代にあって、人々に希望を与えるものとなりました。それでは、イスラエル王国第三代目の王であり稀代の知者であるソロモンにちなんだ格言集を読んでいきましょう。
Ⅰ 愚か者は自分の心をさらけ出すことを喜ぶ
箴言18:1-3――
著者は初めに、「愚か者」を反面教師として、そして次に「神に従う人」を見倣うべき手本として、対照的に描き出しています(Ⅰ⇒Ⅱ、Ⅲ⇒Ⅳ)。「愚か者」の姿の方がより詳しく報じられているのは、それがこの世の実情であり、だからこそ警告しているのだ、という意図が鮮明になっています。
「離反する者は自分の欲望のみ追求する者」……ここで、「離反する者」とは「自分を人から分離している者」とういう意味で、何事もひとりよがりに行う人を指しています。大概は、そのような人は自分はりっぱな事をしていると考えているので、他の人の持つ「英知」によって教えられようとはしません。
そのような「愚か者」は孤立しているにもかかわらず、「自分の欲望を追求している」ので、しばしばたわい無いことを「裁判ざた」にしてしまいます(Ⅰコリント6:7)。多くの場合、良好な人間関係があれば、少しの行き違いが「裁判ざた」になることはないのですが……。しかも、「教会では疎んじられている人たちを裁判官の席に着かせて」いるので(同上6:4)、更なるねたみや争いを巻き起こしてしまいます。
「離反する者」が驕り高ぶっていることは、「自分の心をさらけ出すことを喜ぶ」に現れています。その人は自分が「裸の王様」になっていることに無頓着です。隣人の「英知」に耳を傾けられれば、「事は、どんなに巧みにやってもすぐ知れる」ことの愚かさに気づけるのですが……。自分の評判が落ちても意に介そうとはしません。周囲の人々はもはや、そのような露悪的な権力者から距離を置こうとしています。
「神に逆らうことには侮りが伴い 軽蔑と共に恥辱が来る」……これは、ちょっとユーモラスな、なおかつ皮肉のこもった表現になっています。翻訳し直すと、「神への反逆は侮りと共にやって来る。そして、軽蔑は恥辱と共にやって来る」となります。それが、「離反する愚か者」の末路です。その人はもはや「自分の心」で何事も制御することができずに、「侮り」や「恥辱」などの悪感情の虜になっています。
箴言の著者は次節で、見倣うべき手本として「神に従う人」を提示します。いったんここで、悪い知恵の巡りを断ち切ります。もし、あなたが「愚か者」の口車に乗って罪を犯し敗北を喫したとしても、それで終わり ‘ a final defeat ’ ではありません。神はあなたのために、言葉の力によって立ち直る道を備えていてくださいます。
Ⅱ 人の口の言葉は深い水
箴言18:4――
著者はまさに悪い流れを断ち切り、自然の描写をもって、「人の口の言葉」の源泉を指し示しています。「離反する愚か者」はこの「知恵の源」を見ることも、そこから「英知」を汲み出すこともできません。
「深い水」には、見えない部分があります。そこには、「神秘としての神の知恵」が隠されています(Ⅰコリント2:7)。ただ “ 霊 ” に依り頼む者だけが、そこから「神の知恵」が湧き上がって来るのを知っています。
神のもとから信仰者に与えられる「知恵」に満ちた「人の口の言葉」というものがあります。それは、天地創造の初めから終わりに来る神の国に至るまで、「深い水」となり「大河のように」流れ続けています。そこには、主イエスがサマリアの女に差し出された「永遠の命の水」が湧き出ていました(ヨハネ4:14)。
主イエスは彼女との “ 霊 ” 的な対話を通して、砂を噛むような、飢え渇いた人生を送っている独りの女に、まことの希望を与えられました。旧新約聖書はわたしたちもまた、サマリアの女に倣って、「深い水」の在処、「大河の流れ」を知るようにと忍耐強く招いています。
創世記2:10 天地創造の時――
エデンから一つの川が流れ出ていた。園を潤し、そこで分かれて、四つの川となっていた。
エゼキエル書47:1,8 旧約聖書の時代――
1 彼(主の使い)はわたしを神殿の入り口に連れ戻した。すると見よ、水が神殿の敷居の下から湧き上がって、東の方へ流れていた。神殿の正面は東に向いていた。水は祭壇の南側から出て神殿の南壁の下を流れていた。8 彼はわたしに言った。「これらの水は東の地域へ流れ、アラバに下り、海、すなわち汚れた海に入って行く。すると、その水はきれいになる。」
1 天使はまた、神と小羊の玉座から流れ出て、水晶のように輝く命の水の川をわたしに見せた。2 川は、都の大通りの中央を流れ、その両岸には命の木があって、年に十二回実を結び、毎月実をみのらせる。そして、その木の葉は諸国の民の病を治す。
わたしたち・信仰者はこのような「川」の流れのほとりに暮らしています。主なる神は、このような「川」の幻を通して、「わたしこそが、生ける水の源」(エレミヤ書2:13)であることを教えられています。そこから、神の義と愛を映し出す「人の口の言葉」が湧き出て来ます。神の知恵に基づく教えをないがしろにして、自分で、「水をためることのできない こわれた水溜めを掘って」はなりません(同上2:13)。
幸いなる「流れのほとりに植えられた木」(詩編1:3)であっても、水が日照りで枯渇することもあります。あるいは、濁流によって根こそぎ、押し流されることもあります。更なる知恵を格言集から学び取りましょう。
Ⅲ 愚か者の唇は争いをもたらす
箴言18:5-9――
唇は罠を自分の魂にもたらす。
再び、Ⅲ.反面教師としての「愚か者」⇒ Ⅳ.見倣うべき手本としての「神に従う人」についての叙述が繰り返されます。
「神に従う人を裁きの座で押しのけ 神に逆らう人をひいきするのは良くない」……ここでも、「自分の欲望のみ追求する者」の「裁判ざた」が席巻し、この世や教会を混乱させる様子が捉えられています。「神に従う人を裁きの座で押しのける」との一つの箴言が、十字架前の主イエスの裁判において成就する(ヨハネ18:38-40)のは、恐ろしいことです。この世の知恵に依り頼むピラトは、「えこひいき」によって「裁判」をゆがめてしまいました。
「~をひいきする」というのは、「~の顔を立てる」というのが原意で、「裁判」について偏り見ていることを示しています。
レビ記19:15――
あなたたちは不正な裁判をしてはならない。あなたは弱い者を偏ってかばったり、力ある者におもねってはならない。同胞を正しく裁きなさい。
裁き人は、「神に逆らう人」や「力ある者」のみならず、「弱い者をも偏ってかばったりしてはならない」というのが、旧約律法の教えです。人の思いによらず、神の御前での善悪、罪過の有無が追及されるべきなのです。
序.で、人が語るとき、言葉遣いや発言の内容はもちろんのこと、その人自身の生き方が問われていると述べました。これを言い換えると、言葉の問題には、人間の身体に関わる、根深さがあるということです。例えば、人の頭や心で、「愚か者の口は破滅を 唇は罠を自分の魂にもたらす」ことを理解していたとしても、「口」や「唇」は制御不能になり得るということです(ヤコブ3:2,8)。それ故に、「愚か者の唇は争いをもたらし、口は殴打を招く」という悲惨な情況がこの世から絶えません。
「陰口は食べ物のように呑み込まれ 腹の隅々に下って行く」……この諺は、「人の口の言葉」が身心全般に関わることを見抜いています。その意味は、次のようになります。すなわち、「陰口」は語る人と聞く人の「腹の隅々に」まで染み通る、それは、美味しい「食べ物のよう」なので、食べた人はその「陰口」に魅了されてしまう、ということです。
そうなると、その「陰口」の真偽のほどを、自分の頭や心で判別できなくなります。「陰口」の悪影響の大きさが、「仕事に手抜きする者は それを破壊する者の兄弟だ」との諺によって裏づけられています。何かの建築にたずさわる兄のちょっとの「手抜き」が、弟による「破壊」をもたらす、ということです。その点では、次節に出てくる「力の塔」は堅固であり、悪意ある人の「手抜き」や「破壊」が忍び込む余地はありません。
Ⅳ 主の御名は力の塔
先述の通り、箴言18:4では、著者は「離反する愚か者」による悪い流れを断ち切ろうとして、「人の口の言葉」の源泉を昭示しました。しかし、「深い水」、「大河」、「泉」(源)、「流れ出る」というように自然描写が前面に出て、やや迂遠なところがありました。
ところが、この節では暗示的な表現が一掃されています。すなわち、ここでは「主」なる神と「神に従う人」との緊密な関係が示されています。「神に従う人」は「主の御名こそが力の塔」と信じています。それ故に、その人は「力の塔に走り寄り」、「主の御名」によって「高く上げられ」ます。
いずれにしても、理解の鍵は、どのように「そこに走り寄り、高く上げられる」との文句を解釈するかに掛かっています。それこそ、わたしたちは、「深い水」、または、「大河のように流れ出る知識の源」に対面するように、“ 霊 ” 的な導きを得なければなりません。
そこで、“ 霊 ” 的な導きにあずかれますように、ということで、主イエスが教えられた祈りの一節を読んでみましょう。そうすれば、「神に従う人は力の塔に走り寄り」、「主の御名」によって「高く上げられる」との内容に光が当てられることでしょう。
Ⅴ 御名が崇められますように
マタイ福音書6:9――
「天におられるわたしたちの父よ、
このように主の祈りに、「御名が崇められますように」との句が出てきます。従って、「御名を崇める」との信仰心から、箴言の著者は「主の御名は力の塔」とほめたたえているのでしょう。
元来、「御名が崇められますように」とは、「あなたの名が聖とされますように」との意味です。つまり、わたし・人間が聖別されることを第一としてはいません。どうか、「主の御名」のきよさを保ってください、聖なる「御名」の「力の塔」としての「力」を発揮してください、という神御自身についての祈りなのです。
そこではじめて、「神に従う人は力の塔に走り寄り」、「主の御名」によって「高く上げられる」というつながりが浮かび上がってきます。すなわち、わたしは「愚か者」の「破滅」や「罠」に巻き込まれそうになっています。もはやわたしは「愚か者」の「侮り」や「軽蔑」によって「腹の隅々」まで腐りきっています。だから、わたしは「力の塔に走り寄り」、そこに逃げ込みます、ということなのです。
このように、聖なる「御名」によりすがる人は、「御名」の「力」によって「打ち砕かれ悔いる心」(詩編51:19)が与えられました。それ故に、その人は、神の御前にへりくだり、ひれ伏しています。
今や「神に従う人」にとっての「大河のように流れ出る知識の源」は、聖なる「主の御名」にほかなりません。そうして、神の御前に低められた人は、「高く上げられ」ます。それは、主イエスの母マリアが、「身分の低い、この主のはしためにも 目を留めてくださったからです。…… 主は権力ある者をその座から引き降ろし、身分の低い者を高く上げられます」(ルカ1:48,52)と歌っている通りです。もはや、世にある「自分の欲望」に縛りつけられてはいません。
そして、「神に従う人はそこに走っていく〔原意〕」というの初めの原体験になります。ここで大切なのは、キリスト者として人生の先達パウロの教えに従うことです。
コリントの信徒への手紙 一 9:24――
あなたがたは知らないのですか。競技場で走る者は皆走るけれども、賞を受けるのは一人だけです。あなたがたも賞を得るように走りなさい。
わたしたちは、「キリスト・イエスによって上へ召されて」います(フィリピ3:14)。主イエス・キリストに再会するというゴールを目指して、全力を出し切ろうとしています。
わたしたちは、この世においては「いわば旅人であり、仮住まいの身なのです」(Ⅰペトロ2:11)。箴言という「深い水」から神の知恵とわたしたちの言葉を汲み出しながら歩んで行きましょう。「走っていく」先にあるゴールが、わたしたちの最大の希望です。
結
「主の御名は力の塔。神に従う人はそこに走り寄り、高く上げられる」との箴言の内に、「主」なる神と「神に従う人」との緊密な関係が示されていました。
その緊密な関係の中心は、わたしたちが神によって救われていることにあります。「イエス」という名(原意:主なる神は救い)こそが、それを表しています。わたしたちが「そこに走り寄り、高く上げられる」のは、すべて主イエス・キリストによって救われているからです。
それ故に、「イエス・キリストという御名は力の塔」と言い換えられるでしょう。そこに逃げ込み、高く上げられるという恵みを受ける……パウロの言葉では「賞を受ける」……には、どうすればよいのでしょう。
それは、十字架につけられ三日後によみがえられた主イエス・キリストを心から信じることです。主イエスはわたしたちの前に道を備えられています。というのも、主イエスはこの地上の生涯を走りきり、天国に凱旋されているからです。
W
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〈説教の要約〉
2025年2月16日
(2024年 7月21日 日本キリスト教団
茅ヶ崎南湖教会 講壇交換)
小河信一牧師
説教の構成――
序
Ⅰ わたしは優れた言葉や知恵を用いなかった ……Ⅰコリント2:1
Ⅳ しかし、わたしは力と主の霊 正義と勇気に満ちている ……ミカ書3:8
Ⅴ 神の力によって信じるようになるため ……Ⅰコリント2:4-5
序
コリントの開拓伝道から、およそ二、三年が経過しました。パウロは、コリント教会のその後について強い関心を抱いています。彼の仲間である巡回伝道者からの話や手紙によって、ある程度、コリント教会の現況を把握していたようです。そうした中で、今しばらくはコリント再訪の機会がない(Ⅰコリント4:18)ということもあって、パウロは手紙を書くことにしたのです。
Ⅰ わたしは優れた言葉や知恵を用いなかった
兄弟たち、わたしもそちらに行ったとき、神の秘められた計画を宣べ伝えるのに優れた言葉や知恵を用いませんでした。
「そしてわたしは、兄弟たちよ、あなたがたのところに訪問しました」(直訳)とのキャッチーな(人受けの良い)導入で始まっています。この一句によって、「兄弟たち」の脳裏には、二、三年前にパウロが滞在していた時のことが呼び覚まされます。こうして、時空間の隔たりを超えて、「あなたがた」の注意が「わたし」の方に寄せられます。
そこでパウロが伝えたのが、「(わたしは)神の秘められた計画を宣べ伝えるのに優れた言葉や知恵を用いませんでした」という内容になります。
①「(わたしが)神の秘められた計画を宣べ伝えるために」……福音として宣べ伝えること
②「(わたしは)優れた言葉や知恵を用いませんでした」……パウロの宣べ伝え方
①「(わたしが)神の秘められた計画を宣べ伝えるために」……福音として宣べ伝えること――
「神の秘められた計画」という用語には、隠されていたものが、時満ちて明らかに示されるというニュアンスが含まれています。そこで、伝道者はその「計画」を、“ 霊 ” の働きにより宣べ伝えます。 “ 霊 ” をもって求道する者に語りかけられるようにと祈ります。忍耐をもって相手の心と目が開かれるのを待ちます。
そのために大切なのは、宣べ伝える者自身が、主イエス・キリストの十字架と復活によって救われているということです。主イエス・キリストの「言葉」を、“ 霊 ” によって正しく聞き、神の大いなる救いを感謝し賛美するのです。
②「(わたしは)優れた言葉や知恵を用いませんでした」……パウロの宣べ伝え方――
しかし、いくら福音の内容が明るみに出されていることを知っていたとしても、宣べ伝え方が間違っていては、どうしようもありません。それではたとい、それを聞いた人が洗礼を受けたとしても、信仰の成熟していない「乳飲み子」(Ⅰコリント3:1-3)の状態から抜け出せなくなる可能性があります。
パウロが用いなかったという「優れた言葉や知恵」は、肉の人が固執している、この世の知恵だと見抜かれます(Ⅰコリント1:20、3:1)。それは、「この世の滅びゆく支配者たち」(同上2:6)が喧伝するものであり、すぐに役立つように思われます。その結果、人間的に見て知恵のある者(同上1:26)が教会の中ですら幅を利かせることになります。
しかし、この世の知恵は、人々の間にねたみや争いを巻き起こし、なかなか実りを結ぶに至りません。世の知恵において優れていると考える人は結局、自分自身を誇ってしまい(Ⅰコリント1:29,31)、主に仕える者の謙虚さから遠ざかります。
Ⅱ 十字架につけられたキリスト以外は
コリントの信徒への手紙 一 2:2――
なぜなら、わたしはあなたがたの間で、イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めていたからです。
「わたしは優れた言葉や知恵を用いなかった」という理由が簡明に述べられます。この節も、要点を二分しましょう。
「わたしは心に決めていた」との表現は、人間臭くも聞こえますが、原意「裁いた」に沿って、“ 霊 ” の判断に従って「良い方を選んだ」と解釈しましょう。その点、「しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ」(ルカ10:42)とおっしゃられた主イエスのおほめに、パウロもあずかれるのではないでしょうか。
パウロは「何も知るまい」決めたことに、主にあって後悔していません。パウロは、人間的に見て知恵のある者から「愚か者」扱いされる(Ⅰコリント3:18、4:10)ことに覚悟ができています。
②「イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外は」――
“ 霊 ” の判断に従って「良い方を選ぶ」と、「十字架につけられたキリスト」を宣べ伝えることになる、ということです。それが、伝道において「優れた言葉や知恵」が不要な理由です。
なぜ、主イエス・キリストの「十字架の死」に焦点が合わせられているのでしょうか?
コリントの信徒への手紙 一 1:18――
十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。
「高ぶっている人たち」(Ⅰコリント4:5)は、「滅んでいく者にとっては愚かなものです」とのパウロの強烈なパンチによっても、容易には目覚めさせられません。なぜなら、自分を誇っている人々には、「宣教という愚かな手段」(同上1:21)が受け入れられないからです。
「キリストはへりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」(フィリピ2:8)という「十字架の言葉」が、彼らの信仰と生活において、実際に「神の力」となっていなかったのです。パウロは、「あなたがた」が高ぶりを捨て従順になって、「わたしたち救われる者」のもとに帰って来るようにと、祈っています。その篤い祈りは、次節の文面にも滲み出ています。
Ⅲ わたしは恐れおののいていた
コリントの信徒への手紙 一 2:3――
(わたしが)そちら(あなたがたのところ)に行ったとき、わたしは衰弱していて、恐れに取りつかれ、ひどく不安でした。
自分を「あなたがた」にぶつけています。自分をさらけ出しています。これぞ、「キリスト・イエスの僕」(ローマ1:1)、へりくだりの真骨頂でありましょう。
パウロの「衰弱・恐れ・ひどい不安(おののき)」に驚いた人が多かったでしょうか。しかし、これはある意味、真の「キリスト・イエスの僕」には避けられない体験でありました。
「わたしは十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めていた」というパウロの信仰とそこから出発した伝道において、パウロは「衰弱・恐れ・ひどい不安(おののき)」という極度の「弱さ」にさらされました。こうして、パウロは自らの体験と黙想をもって、次のように証ししています……「すると主は、『わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ』と言われました」(Ⅱコリント12:9)。
Ⅳ しかし、わたしは力と主の霊 正義と勇気に満ちている
ミカ書3:8――
正義と勇気に満ち
イスラエルに罪を告げる。
ミカは紀元前8世紀に活動した預言者です。南ユダ王国モレシェトの出身です。エルサレムのみならず北イスラエル王国のサマリア〈完全アウェーの地〉に向けても預言を発信しました(ミカ書1:6-7、3:12、)。主から御言葉がミカに臨み、そして、主が彼に幻を見させられました(ミカ書1:1、2:7)。
「しかし、わたしは力と主の霊 正義と勇気に満ちている」……わが民を迷わす偽預言者が罪と不正をもって暴走しているのに対し、「しかし」、主なる神に召された自分は、ということです。集団で活動しているわけではありませんので、ミカの命を保証するものは何もありません。それでも、ミカが動揺することはありません。なぜなら、「力と主の霊 正義と勇気に満ちている」からです。
ミカは自分を虚しくして、ただ「主の霊」の導きによって、「正義」を語ります。ミカはまさにパウロのごとく、主の前に「愚か者」になりきりました(Ⅰコリント3:18)。それは、自分が通り良き管となって、神の「力」を憐れむべき民に注ぎ入れるためでありました。
これもまた、ミカは使徒パウロに先行する形で、「わたしは〈主の霊に満たされて〉心に決めていました」。何を決めていたのかと言えば、「ヤコブに咎を イスラエルに罪を告げる」ということでありました。
頑なな民の猛反発が予想されます。いらだった大群衆からの迫害に遭うかも知れません。だからこそ、神はミカに、「力と主の霊 正義と勇気」という四重の恵みを備えられたのです。
Ⅴ 神の力によって信じるようになるため
コリントの信徒への手紙 一 2:4-5――
4 わたしの言葉もわたしの宣教も、知恵にあふれた言葉によらず、“霊”と力の証明によるものでした。5 それは、あなたがたが人の知恵によってではなく、神の力によって信じるようになるためでした。
コリント教会の会堂に、「優れた言葉や知恵」によって高ぶらない信仰者、または、「“霊”と力の証明」によって十字架につけられたイエス・キリストを信じる人が溢れることを、パウロは願っていました。
「わたしの言葉もわたしの宣教も“霊”と力の証明による」というのは、パウロから数えておよそ700年前の預言者ミカと軌を一にしています。「しかし、わたしは力と主の霊 正義と勇気に満ちている」(ミカ書3:8)というように、自分の外側からのもの、つまり、神の賜うものが、パウロの信仰と伝道を支えていました。
これも、この手紙に後から出てくる一文ですが、パウロは「神の国は言葉ではなく力にある」(Ⅰコリント4:20)と言い切っています。「神の言葉」の説教を聞くことも重要であるが、「神の国は力にある」という信仰を持っているか、そして、「神の国の力」が今、あなたがたの間に実現しているか、とパウロは問いかけています。
「神の言葉」によって救われるということは、「神の力によって信じる」ことにほかなりません。「神の力」によって、わたしたちの生活はひっくり返されているでしょうか。「神の力」の反響が、わたしたちの生活のどこにも見出せないということはあり得ません。
「神の言葉」と「神の力」を分断してはなりません。「神の言葉」から「神の力」へ……“ 霊 ” の働きに押し出されて、わたしたちは善い業に励むようになります(コロサイ1:10)。
このようにして、コリント教会を建てたパウロから、現にその教会を建てついでいる人々に、「神の力」に満ちたのメッセージが書き送られました。 W
〈説教の原稿〉
2025年 2月2日 日本キリスト教団 茅ヶ崎香川教会
旧約聖書 マラキ書 2章14節~16節(P.1499)
新約聖書 コリントの信徒への手紙 一 7章8節~16節(P.307)
説 教「聖なる者とされている」 小河信一牧師
説教の構成――
序
Ⅱ 離縁してはいけない
Ⅳ 信者である妻・夫のゆえに聖なる者とされている
……Ⅰコリント7:12-14
……Ⅰコリント7:15-16
序
今、パウロは結婚または離婚にまつわる問題について論じています(Ⅰコリント7:1-40)。これに関して、主イエス・キリストを信じるコリント教会の人々からの問い合わせがあったようです(同上7:1)。パウロの対応はとても誠実です。正しい倫理観を押しつければ、済むというものではありません。
性的に「みだらな行い」(Ⅰコリント5:1)があると言うが、それはどのような考えや慣習に根ざしているのか、あるいはまた、それがどのような影響を周りの人たちに及ぼしているのか、現場からの報告に耳を傾ける必要があります。
パウロは、広大な地中海世界のただ中で、諸教会の伝道者と連係しながら、キリスト教倫理を構築することを志していました(使徒15:1-21、ガラテヤ2:11-14)。地域ごとに異なる歴史や文化の背景を受け止めつつ、神に喜ばれる信仰者の倫理観を探究する水先案内人でありました。何よりもパウロは、主イエス・キリストと再会する終わりの日を待望して、忍耐強く議論しています。
神の賜物といえるそのようなパウロの資質と知見は、今回のテキスト内にも存分に表れています。その中でも、際立っているのが、バランスの良さ、関わりあるすべての人々への心配りです。具体的には、夫と妻、独身者と既婚者、キリスト者と異教徒についてその両面から物事を捉えています。さらには、初婚か再婚か、また、子供がいるかどうか、など細かな点も念頭に置かれています。まさに、パウロは神の家族なるコリント教会に対し、「建築家」の理性と「父親」の愛情を兼ね備えていました(Ⅰコリント3:10、4:15)。
Ⅰ 皆わたしのように独りでいるのがよい
8 未婚者とやもめに言いますが、皆わたしのように独りでいるのがよいでしょう。9 しかし、自分を抑制できなければ結婚しなさい。情欲に身を焦がすよりは、結婚した方がましだからです。
「皆わたしのように独りでいるのがよいでしょう」……コリント教会の人が結婚や離婚にまつわる相談をしているのに、回答者が独身への勧めから始めるのは、いかがなものか、と誰しも思われることでしょう。しかし、ここには、弁論術に長けたパウロなりの作戦があったと見られます。
それは、シンプル イズ ベスト、最初の10秒で、人々の心を鷲づかみにするということです。まさに、パウロはありのままの自分をさらけ出して、聴き手の関心を呼び起こしています。
テキストの後段、離婚者や異教徒に関わる部分では、人生の闇や苦悩が呼び覚まされて、聴き手の気持ちも複雑になります。だからこそ最初に、この勧めが受け入れられるのは一部の人だけかも知れませんが、シンプルな回答を昭示したのです。
コリントの信徒への手紙 一 4:16――
上のメッセージが、「わたしのように独りでいる」(のに倣え)と言い換えられて、助言者の立場が開示されました。
これ以前に、パウロは結婚したことがあったかどうか、は不明です。しかし、キリスト者となって伝道しているとき、彼は「独り」身になっていました。
なおかつ、パウロは「自分を抑制できる」、すなわち、「情欲に身を焦がす」ことのない賜物が、神から与えられているのを証ししました。そこから、節制により「独り」である生活を整え、伝道のために身心全体を献げて励んでいたことが分かります。「独りでいるのがよい」との文句の原意は、「(わたしのように)彼らがとどまる」ということです。パウロのように波瀾万丈の人生を送りながらも、そこに「とどまっていた」点については、神の大いなる恵みと支えを思わずにはいられません。
さて説明が後回しになりましたが、コリント教会の信徒全員を見渡しつつ、パウロは、三つのグループに分けて勧めを提示しています。その最初が「未婚者とやもめ」とに向けて、になります。
「未婚者」との用語がやや分かりにくいのですが、「やもめ」(女性・複数形)との脈絡から、ここでパウロは「男やもめたちと女やもめたち」に話しかけていると見られます。彼らは結婚経験者ですが、死別か離別により「独り」になり、再婚しないでいる人々なのです。
ですから、「わたしのように独りでいるのがよい」との勧めは、若い「未婚者」よりも、むしろ、「男やもめたちと女やもめたち」に向けられたものなのです。そこで、次の疑問が浮かんで来ることでしょう。
すなわち、パウロ個人が神から授けられた「自分を抑制できる」という賜物をもって「独りにとどまる」道を行くのは分かるが、なにゆえに、「男やもめと女やもめの皆さん、わたしのように独りでいるのがよい」と推奨するのか、という疑問です。しかしもちろん、これはパウロからの厳命でも、教会の新しい規則でもありません。
「しかし、自分を抑制できなければ結婚しなさい。情欲に身を焦がすよりは、結婚した方がましだからです」……今、パウロは、この世的に正しい結婚観を論じているのではありません。だから、「自分を抑制できなければ」とか、「情欲に身を焦がすよりは」とか、そんなことは、男と女が「結ばれ、二人は一体となる」(創世記2:24)という秘義なる結婚とは関係ないでしょう、と気色ばむのは止めましょう。
パウロの論点の中心はあくまでも、神の召命とも言える「独りでいる」生活についてであります。パウロの勧めは、独身の形で神の恵みに「とどまる」生涯を選んでみませんか、と言い換えられます。神の恵みにあずかり、神からの賜物を十分に発揮することを、「わたしに倣って」始めましょう、ということです。終わりの日が差し迫っているとの信仰からも、それは願わしいことなのです。
心の開放されているパウロは、「結婚している」ことの恵みについて、日々に感動する経験を持ち合わせていました。実際、「命がけでわたしの命を守ってくれた」プリスカとアキラ(ローマ16:3-4)はじめ、夫妻でパウロの伝道に協力する人々がおりました。
パウロは日頃から、同労者である夫婦、夫とも妻とも、よく話をしていたに違いありません。だからこそ、サタンの誘惑を退け、神に喜ばれる夫婦生活を営み続ける秘訣についても、関心を寄せていました……「ただ、納得しあったうえで、専ら祈りに時を過ごすためにしばらく別れ、また一緒になるというなら話は別です」(Ⅰコリント7:5)。
Ⅱ 離縁してはいけない
コリントの信徒への手紙 一 7:10-11――
10 更に、既婚者に命じます。妻は夫と別れてはいけない。こう命じるのは、わたしではなく、主です。11 ――既に別れてしまったのなら、再婚せずにいるか、夫のもとに帰りなさい。――また、夫は妻を離縁してはいけない。
次に、シンプルな問答からオーソドックスな問答へと転じます。オーソドックスな、つまり、「正統的」結婚論に基づいて、ということで、「主の命令」が掲げられています。まことに安定した議論の運びになっています。
ここでわたしたちは、「妻は夫と別れてはいけない」または「夫は妻を離縁してはいけない」と、口酸っぱくいさめられている背景を見てみることにしましょう。そこには、常識では想像し難い問題が潜んでいたようです。
それは、当時のコリント教会には、「みだらな行い」(Ⅰコリント5:1、6:18)について寛大なグループとは正反対のグループが存在していたということです。それが、性的に放埒な異教徒の言動が教会内に入り込まないように、厳格な立場をとる禁欲主義者でありました。
「情欲に身を焦がすよりは、結婚した方がましだから」とのパウロの穏健な言葉を引くならば、禁欲主義者の主張は次のように言い換えられるでしょう。すなわち、「情欲に身を焦がすのは信仰が足りない証しだ。だから、結婚している者は、夫や妻と離婚した方がましだ。そうして、独りになって自分を抑制しよう」と言うのです。
聖書にまれなことではありますが、ナジル人として育てられた人の話が出てきます(士師記13:4,14 サムソン、マタイ3:4、ルカ1:15 洗礼者ヨハネ)。従って、キリスト教倫理の中に、どのように断食や禁欲などの節制を位置づけていくか、は大きな課題でありました。
豈図らんや、突如「禁欲主義」の嵐がコリント教会を襲いました。コリントに現住していない、リモートからでは、さすがのパウロもそれに歯止めがかけようがありませんでした。
想像すれば、そのスローガンは例えば、「既婚者たちよ、夫や妻と離縁しよう。皆で、神の御心に添った禁欲生活に入ろう」ということでしょうか。過激と言えば過激です。現状を自分たちの力で変えようとしています。
そこで、パウロが「妻は夫と別れてはいけない。こう命じるのは、わたしではなく、主です」と証言している主イエス・キリストのお考えがどのようなものであったのか、確かめてみましょう。
マルコ福音書10:2-11――
2 ファリサイ派の人々が近寄って、「夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか」と尋ねた。イエスを試そうとしたのである。3 イエスは、「モーセはあなたたちに何と命じたか」と問い返された。4 彼らは、「モーセは、離縁状を書いて離縁することを許しました(申命記24:1-4)」と言った。5 イエスは言われた。「あなたたちの心が頑固なので、このような掟をモーセは書いたのだ。6 しかし、天地創造の初めから、神は人を男と女とにお造りになった。7 それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、8 二人は一体となる(創世記2:24)。だから二人はもはや別々ではなく、一体である。9 従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない。」 10 家に戻ってから、弟子たちがまたこのことについて尋ねた。11 イエスは言われた。「妻を離縁して他の女を妻にする者は、妻に対して姦通の罪を犯す(出エジプト記20:14)ことになる。12 夫を離縁して他の男を夫にする者も、姦通の罪を犯すことになる。」
まず第一に、旧約の典拠を( )に付記した通り、律法を遵守する「ファリサイ派の人々」以上に、主イエスは神の「掟」に従って「離縁」の問題について答えておられます。
次に、下線の箇所において、主イエスは神の「掟」に反する人間の罪深さを捉えておられます。神の御前に「頑固さ」を悔い改めるのが、先決です。それから、夫婦が話し合い、「離縁」が神の御心なのか、互いにとって最善なのか、慎重に考えなさいということです。「情欲に身を焦がす」ような自分本位によって、「妻を離縁して他の女を妻にする」ことも、また、「夫を離縁して他の男を夫にする」ことも許されません。
「離縁状」の発行・認可云々のモーセ律法から思考を開始する「ファリサイ派の人々」はこの世離れをしています。それは机上の空論です。「独りでいる」パウロの方がよほど、夫婦の結婚生活に寄り添っています。
結論的に言えば、主イエスとパウロとの結婚または離婚に対する考え方は、軌を一にしています。双方共に、「あなたたちの心が頑固なので」または「情欲に身を焦がすよりは」という点で、人間の罪や弱さに向き合っています。そしていずれにせよ、主イエスとパウロにおいては、極端な「禁欲主義」によって、男と女の愛の関係を規制するのはあり得ないことです。
ただし、一方、主イエスはユダヤ人家庭を前提にし、他方、パウロは多民族の共生する国際都市コリントを念頭に置いていたという点は異なります。もう一度、パウロの助言を引いてみましょう。
「既に別れてしまったのなら、再婚せずにいるか、夫のもとに帰りなさい」……「再婚せずにいる」は〈今の状態にとどまる〉こと、そして、「夫のもとに帰りなさい」は〈かつての状態にとどまる〉ことが勧められています。これらの言葉には、終末が近いがゆえに、独りの者も結婚している者も、患難の時代に備えるとのパウロの基本的信仰が表明されています。そこには、自分を抑制しつつ独りで生きるという神の賜物を授かっているかどうかを、神に問い尋ねようとする熟慮が秘められています。
ユダヤ人同士であれば、「再婚する」ことは許されています(申命記25:5-6)から、主イエスならば、別の人と「再婚しなさい」と背中を押してくださることがあるかも知れません。
結婚・離婚は古くて新しい問題です。そこで、紀元前5世紀頃に活躍したマラキの言葉に耳を傾けることにしましょう。
Ⅲ あなたの若いときの妻を裏切ってはならない
マラキ書2:14-16――
14 あなたたちは、なぜかと問うている。それは、主があなたとあなたの若いときの妻との証人となられたのに、あなたが妻を裏切ったからだ。彼女こそ、あなたの伴侶、あなたと契約をした妻である。15 主は、霊と肉を持つひとつのものを造られたではないか。そのひとつのものが求めるのは、神の民の子孫ではないか。あなたたちは、自分の霊に気をつけるがよい。あなたの若いときの妻を裏切ってはならない。
離婚する人は、不法でその上着を覆っていると
万軍の主は言われる。
あなたたちは自分の霊に気をつけるがよい。
あなたたちは裏切ってはならない。
マラキは、その名の意味が「わが使い」というように、神がイスラエルの民の間に遣わした預言者でありました。ペルシア帝国の支配下あって、神殿が再建され、人々は礼拝共同体の復興に取りかかっていました。
しかし実際には、礼拝は堕落し、倫理・道徳もないがしろにされていました。というのも。「呪術を行う者」や「高慢な者」など(マラキ書3:5,15)が神を「疲れさせて」いたからです(同上2:17)。その様子は、「裁きの神はどこにおられるのか」(同上2:17)または「あなたたちは、なぜかと問うている」との言葉に表れています。つまり、イスラエルの民の一部は、“ 霊 ” 的な神信仰から遠ざかる、一方で、献げ物に対する主からの見返りなどに不満を抱いていました。
性的に放埒な男が「異教の神を信じる娘と結婚する」(マラキ2:11)という事件を起こしていました。異宗教間の人の結婚について杓子定規に、正論(例えば、もっと寛容になれとか)を訴えても、ここでは意味がありません。テキストの文脈に従って、マラキの主張を汲み取りましょう。
まず、「異教の神を信じる娘と結婚する」というのは意訳すれば、男が「異教の神を信じる娘をめとって」自分の支配欲を充足させる、となります。その横暴な行為は、「若いときの妻(つまり初婚で今結婚生活をしている女性)を裏切った」(マラキ書2:14,15)ことに端を発しています。
結婚においてパートナーを「裏切る」ならば、心底相手を打ちのめしてしまいます。それによって、神との契約のもとに、「こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となった」(創世記2:24)……パウロの言葉では 主は、霊と肉を持つひとつのものを造られたではないか……という真実が葬り去られました。「若いときの妻」を裏切った男は、「離縁状を書いて彼女の手に渡し、家を去らせる」(申命記24:1)という再婚に向けての手続きも一顧だにしなかったのでしょう。自分本位のやり方、一直線でありました。
「わたしは離婚を憎む……離婚する人は、不法でその上着を覆っている」……このように、「イスラエルの神、主」は、「裏切り」を重ねている人に告げられました。もはや「離婚する人」には「上着を覆っている不法」を洗い清める力はありません。
Ⅳ 信者である妻・夫のゆえに聖なる者とされている
コリントの信徒への手紙 一 7:12-14――
12 その他の人たちに対しては、主ではなくわたしが言うのですが、ある信者に信者でない妻がいて、その妻が一緒に生活を続けたいと思っている場合、彼女を離縁してはいけない。13 また、ある女に信者でない夫がいて、その夫が一緒に生活を続けたいと思っている場合、彼を離縁してはいけない。14 なぜなら、信者でない夫は、信者である妻のゆえに聖なる者とされ、信者でない妻は、信者である夫のゆえに聖なる者とされているからです。そうでなければ、あなたがたの子供たちは汚れていることになりますが、実際には聖なる者です。
当時、コリント教会は、「異教の神を信じる」人々(マラキ書2:11)との交際や婚姻が避けられない情況に置かれていました。「主が慈しんでおられる聖なるものを汚されない」(同上2:11)ように、祈り求めるのが、喫緊の課題になりました。「わたしは離婚を憎む」(同上2:16)と言う神の御前で、「離縁」すべきなのかどうか、難しい選択を迫られることもありました。
理性を持つ、初代のコリント教会「建築家」としてパウロは、結婚ならびに離婚の問題を、三つのグループに分けて考えました。それによって、結婚や離婚という出来事の背後にある人間の罪深さや弱さをつまびらかにしようと試みました。パウロは個別の問題が解決されると共に、神の聖なる神殿、すなわち、キリストの体なる教会が建て直されるよう、助言を送り続けています。
すでに一番目「男やもめと女やもめ」(キリスト者)、二番目「既婚者」(キリスト者同士)が取り上げられて、そして三番目「その他の人たち」(キリスト者と異教の者)が登場しました。
パウロの議論が一貫した信仰と倫理に基づいています。すなわち、「独りでいるのがよい」(Ⅰコリント)の原意である「(わたしのように)彼らがとどまる」との指針が、「その他の人たち」の事案にも適用されています。ここでわたしたちは、「とどまる」との真意が、結婚・離婚の人間関係を超えて、神との善い関係に「とどまる」ということにある、と教えられます。逆に言えば、その関係から「離れる」のは、人間の罪深さや弱さによって敗北させられることを意味しています。
その観点からも、極端な禁欲主義や性的な放埒な振る舞いは、人間中心の考え方を教会の中に呼び入れてしまうというが明白です。そして、そのように教会内が混乱していれば、「その他の人たち」の中に含まれる異教の人々の人生までも、不幸にさせてしまいます。
パウロは「主ではなくわたしが言うのですが」と、誠実に断ったうえで、キリスト者の夫や妻と「一緒に生活を続けたいと思っている」、異教の妻や夫に向けて、温かい言葉を投げかけています。
「彼女または彼を離縁してはいけない。信者である夫または妻のゆえに聖なる者とされているから」……パウロ自身が神の恵みに寄りかかっていることを証する、希望に満ちた励ましです。「わたしは独りにとどまります。あなたがたは夫婦関係にとどまりなさい」というのは、なんと寛大なメッセージなのでしょう。神はそれぞれの人に、と同時に、それぞれの夫婦に、賜物と使命を与えられている、だから、皆が力を合わせて、神のために働こう(Ⅰコリント3:9)、とパウロは呼びかけています。
コリントの信徒への手紙 一 6:11――
あなたがたの中にはそのような者もいました。①原文しかし、主イエス・キリストの名とわたしたちの神の霊によって洗われ、②原文しかし、聖なる者とされ、③原文しかし、義とされています。
異教徒との結婚にとまどいが生じている「そのような者」、彼らこそ、「主イエス・キリストの名とわたしたちの神の霊」による三重の恵みにあずかっています。神の清めの力は、わたしたちの教会と日常生活の隅々に行きわたっています。
Ⅴ 相手が離れていくなら、去るにまかせなさい
コリントの信徒への手紙 一 7:15-16――
15 しかし、信者でない相手が離れていくなら、去るにまかせなさい。こうした場合に信者は、夫であろうと妻であろうと、結婚に縛られてはいません。平和な生活を送るようにと、神はあなたがたを召されたのです。16 妻よ、あなたは夫を救えるかどうか、どうして分かるのか。夫よ、あなたは妻を救えるかどうか、どうして分かるのか。
「信者でない相手が……」または「信者は、夫であろうと妻であろうと……」というように、なおも、
三番目の「その他の人たち」(キリスト者と異教の者)への言及が続いています。そして、「主ではなくわたしが言うのですが」と明記されているように、主イエスの命令ではなく、“ 霊 ” の導きによるパウロの一つの見解が述べられています。
このような助言の仕方からも、パウロは性的な「情欲」のみならず、伝道・牧会のあらゆる面で、「自分を抑制する」賜物を持っていると知らされます。主イエスの教えの基づく確信と個人的な意見とを混在させてはなりません。祈りと聖書、そして “ 霊 ” の導きによって、自分の思いが信仰的確信に至るか、独り退いて待てる人は幸いです。なおその上で、「その他の人たち」との対話を心がける、パウロはそのような人でありました。
さて、パウロは「しかし、信者でない相手が離れていくなら、去るにまかせなさい」と、自分の勧めを方向転換させています。なぜなら、「独りでいるのがよい」(Ⅰコリント)、すなわち、「(わたしのように)彼らがとどまる」というのが、パウロの現下の基本信条だからです。ただ単にこの場では、「結婚に縛られてはいません」と諭して、独身者を増やそうとしているだけなのでしょうか。
どうしてパウロは、「信者である夫や妻」に対し、「信者でない相手が離れていかないように」、祈り説得しなさいと、勧告しなかったのでしょうか? そこには、以前のパウロの言説とも合致する理性的な理由があります。
コリントの信徒への手紙 一 5:12-13――
12 外部の人々を裁くことは、わたしの務めでしょうか。内部の人々をこそ、あなたがたは裁くべきではありませんか。13 外部の人々は神がお裁きになります。
パウロは、「外部の人々」または「信者でない(夫や妻の)相手」を冷たくあしらうような非情な人ではありません。そうではなく、彼らが信仰者から「離れて」・「裁かれる」のか、それとも、「救われる」のかどうかを、神にまかせよう、とパウロは考えているのです。それが、使徒の一貫した姿勢でありました。神が「信者である夫や妻」と通して、「信者でない相手」を救うことのできるお方です。パウロは、その一点に希望をかけています。
最後に、パウロは、結婚または離婚の問題を抱えているコリント教会の当事者ならびに信徒全体に、的確なメッセージを送ります。
「平和な生活を送るようにと、神はあなたがたを召されたのです」……それは、「神の平和」を見上げながらも、しっかりと地に足をつけているパウロからの励ましです。
わたしは或る日突然、「あらゆる人知を超える神の平和がキリスト・イエスによって」、わたしたちの間に啓示される(フィリピ4:7)、と信じます。と同時にそれは、「神が召された(呼ばれた)」、日ごとのわたしの「平和な生活」において現されています。
「二つの思いが一日を枠づけます。
朝、わたしたちは『愛』という言葉に思いをひそめます。
意思に方向を与え、想像力をはばたかせ、行為を準備する愛に。
晩になれば、『平和』という言葉がわたしたちを待っています。
不快や失望、疲労感や過度の興奮を受けとめてくれる平和が」(イェルク・ツィンク)
パウロは日々に、コリントの信徒への手紙をしたためつつ、初代教会において、キリスト教倫理を確立しようと祈り励んでいました。結婚解消すら標榜する禁欲主義者と性的行為に放縦な人々という両極端な考え方への怒りと憎しみによって、疲れ果てさせられた夕べを迎えたこともあったでしょう。
しかしパウロには、「夕べがあり、朝があった」(創世記1:5)という一日の巡りがありました。それこそが、パウロが主にあって「平和な生活を送る」と同時に、難題を抱えた各地のキリスト者に善き助言を与える命の泉でありました。
W
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〈説教の原稿〉
2025年 1月26日
降誕節 第5主日
旧約聖書 箴言 18章1節~10節(P.1014)
説 教「主の御名は力の塔」 小河信一牧師
説教の構成――
序
Ⅰ 愚か者は自分の心をさらけ出すことを喜ぶ ……箴言18:1-3
結
序
本日のテキストは、旧約聖書・箴言の「ソロモンの格言集」(10:1-22:16)から選びました。そこには特に、言葉に関わる諺が連続して出てきます。確かに、言葉は時に人を慰め、時に人を傷つけます。人が語るとき、言葉遣いや発言の内容はもちろんのこと、その人自身の生き方が問われています。
以前に、主イエスのガリラヤ地方の伝道について説教したときに、次のような諺をご紹介しました。それは、故郷のナザレで迫害に遭い、湖畔のカファルナウムに戻って宣教に取り組まれている主イエスの様子(ルカ4:16-30,31-37)を、現代の諺で言うと、という事でありました。
“ Never confuse a single defeat with a final defeat. ”
〔和訳〕単なる一つの失敗を、最終的な失敗だと思い込んでならない。
これは、アメリカの小説家、スコット・フィッツジェラルドが残した名言です。フィッツジェラルドの代表作には、『グレート・ギャツビー』(映画名『華麗なるギャツビー』)があります。
わたしたちの間にはしばしば、たった一つの失敗のために、自分を蔑んで引きこもり、隣人との距離を置くということが起こります。しかし、それは人生全体から見れば、一つの失敗に過ぎず、時間が経てば冷静になって考え直すことができます。だから、それは決して、「最終的な失敗」ではありません。先の挫折は次への肥やしとなり、最終的な成功への手がかりとなります。
このフィッツジェラルドの名言は、第一次世界大戦後の困難な時代にあって、人々に希望を与えるものとなりました。それでは、イスラエル王国第三代目の王であり稀代の知者であるソロモンにちなんだ格言集を読んでいきましょう。
Ⅰ 愚か者は自分の心をさらけ出すことを喜ぶ
箴言18:1-3――
著者は初めに、「愚か者」を反面教師として、そして次に「神に従う人」を見倣うべき手本として、対照的に描き出しています(Ⅰ⇒Ⅱ、Ⅲ⇒Ⅳ)。「愚か者」の姿の方がより詳しく報じられているのは、それがこの世の実情であり、だからこそ警告しているのだ、という意図が鮮明になっています。
「離反する者は自分の欲望のみ追求する者」……ここで、「離反する者」とは「自分を人から分離している者」とういう意味で、何事もひとりよがりに行う人を指しています。大概は、そのような人は自分はりっぱな事をしていると考えているので、他の人の持つ「英知」によって教えられようとはしません。
そのような「愚か者」は孤立しているにもかかわらず、「自分の欲望を追求している」ので、しばしばたわい無いことを「裁判ざた」にしてしまいます(Ⅰコリント6:7)。多くの場合、良好な人間関係があれば、少しの行き違いが「裁判ざた」になることはないのですが……。しかも、「教会では疎んじられている人たちを裁判官の席に着かせて」いるので(同上6:4)、更なるねたみや争いを巻き起こしてしまいます。
「離反する者」が驕り高ぶっていることは、「自分の心をさらけ出すことを喜ぶ」に現れています。その人は自分が「裸の王様」になっていることに無頓着です。隣人の「英知」に耳を傾けられれば、「事は、どんなに巧みにやってもすぐ知れる」ことの愚かさに気づけるのですが……。自分の評判が落ちても意に介そうとはしません。周囲の人々はもはや、そのような露悪的な権力者から距離を置こうとしています。
「神に逆らうことには侮りが伴い 軽蔑と共に恥辱が来る」……これは、ちょっとユーモラスな、なおかつ皮肉のこもった表現になっています。翻訳し直すと、「神への反逆は侮りと共にやって来る。そして、軽蔑は恥辱と共にやって来る」となります。それが、「離反する愚か者」の末路です。その人はもはや「自分の心」で何事も制御することができずに、「侮り」や「恥辱」などの悪感情の虜になっています。
箴言の著者は次節で、見倣うべき手本として「神に従う人」を提示します。いったんここで、悪い知恵の巡りを断ち切ります。もし、あなたが「愚か者」の口車に乗って罪を犯し敗北を喫したとしても、それで終わり ‘ a final defeat ’ ではありません。神はあなたのために、言葉の力によって立ち直る道を備えていてくださいます。
Ⅱ 人の口の言葉は深い水
箴言18:4――
著者はまさに悪い流れを断ち切り、自然の描写をもって、「人の口の言葉」の源泉を指し示しています。「離反する愚か者」はこの「知恵の源」を見ることも、そこから「英知」を汲み出すこともできません。
「深い水」には、見えない部分があります。そこには、「神秘としての神の知恵」が隠されています(Ⅰコリント2:7)。ただ “ 霊 ” に依り頼む者だけが、そこから「神の知恵」が湧き上がって来るのを知っています。
神のもとから信仰者に与えられる「知恵」に満ちた「人の口の言葉」というものがあります。それは、天地創造の初めから終わりに来る神の国に至るまで、「深い水」となり「大河のように」流れ続けています。そこには、主イエスがサマリアの女に差し出された「永遠の命の水」が湧き出ていました(ヨハネ4:14)。
主イエスは彼女との “ 霊 ” 的な対話を通して、砂を噛むような、飢え渇いた人生を送っている独りの女に、まことの希望を与えられました。旧新約聖書はわたしたちもまた、サマリアの女に倣って、「深い水」の在処、「大河の流れ」を知るようにと忍耐強く招いています。
創世記2:10 天地創造の時――
エデンから一つの川が流れ出ていた。園を潤し、そこで分かれて、四つの川となっていた。
エゼキエル書47:1,8 旧約聖書の時代――
1 彼(主の使い)はわたしを神殿の入り口に連れ戻した。すると見よ、水が神殿の敷居の下から湧き上がって、東の方へ流れていた。神殿の正面は東に向いていた。水は祭壇の南側から出て神殿の南壁の下を流れていた。8 彼はわたしに言った。「これらの水は東の地域へ流れ、アラバに下り、海、すなわち汚れた海に入って行く。すると、その水はきれいになる。」
1 天使はまた、神と小羊の玉座から流れ出て、水晶のように輝く命の水の川をわたしに見せた。2 川は、都の大通りの中央を流れ、その両岸には命の木があって、年に十二回実を結び、毎月実をみのらせる。そして、その木の葉は諸国の民の病を治す。
わたしたち・信仰者はこのような「川」の流れのほとりに暮らしています。主なる神は、このような「川」の幻を通して、「わたしこそが、生ける水の源」(エレミヤ書2:13)であることを教えられています。そこから、神の義と愛を映し出す「人の口の言葉」が湧き出て来ます。神の知恵に基づく教えをないがしろにして、自分で、「水をためることのできない こわれた水溜めを掘って」はなりません(同上2:13)。
幸いなる「流れのほとりに植えられた木」(詩編1:3)であっても、水が日照りで枯渇することもあります。あるいは、濁流によって根こそぎ、押し流されることもあります。更なる知恵を格言集から学び取りましょう。
Ⅲ 愚か者の唇は争いをもたらす
箴言18:5-9――
唇は罠を自分の魂にもたらす。
再び、Ⅲ.反面教師としての「愚か者」⇒ Ⅳ.見倣うべき手本としての「神に従う人」についての叙述が繰り返されます。
「神に従う人を裁きの座で押しのけ 神に逆らう人をひいきするのは良くない」……ここでも、「自分の欲望のみ追求する者」の「裁判ざた」が席巻し、この世や教会を混乱させる様子が捉えられています。「神に従う人を裁きの座で押しのける」との一つの箴言が、十字架前の主イエスの裁判において成就する(ヨハネ18:38-40)のは、恐ろしいことです。この世の知恵に依り頼むピラトは、「えこひいき」によって「裁判」をゆがめてしまいました。
「~をひいきする」というのは、「~の顔を立てる」というのが原意で、「裁判」について偏り見ていることを示しています。
レビ記19:15――
あなたたちは不正な裁判をしてはならない。あなたは弱い者を偏ってかばったり、力ある者におもねってはならない。同胞を正しく裁きなさい。
裁き人は、「神に逆らう人」や「力ある者」のみならず、「弱い者をも偏ってかばったりしてはならない」というのが、旧約律法の教えです。人の思いによらず、神の御前での善悪、罪過の有無が追及されるべきなのです。
序.で、人が語るとき、言葉遣いや発言の内容はもちろんのこと、その人自身の生き方が問われていると述べました。これを言い換えると、言葉の問題には、人間の身体に関わる、根深さがあるということです。例えば、人の頭や心で、「愚か者の口は破滅を 唇は罠を自分の魂にもたらす」ことを理解していたとしても、「口」や「唇」は制御不能になり得るということです(ヤコブ3:2,8)。それ故に、「愚か者の唇は争いをもたらし、口は殴打を招く」という悲惨な情況がこの世から絶えません。
「陰口は食べ物のように呑み込まれ 腹の隅々に下って行く」……この諺は、「人の口の言葉」が身心全般に関わることを見抜いています。その意味は、次のようになります。すなわち、「陰口」は語る人と聞く人の「腹の隅々に」まで染み通る、それは、美味しい「食べ物のよう」なので、食べた人はその「陰口」に魅了されてしまう、ということです。
そうなると、その「陰口」の真偽のほどを、自分の頭や心で判別できなくなります。「陰口」の悪影響の大きさが、「仕事に手抜きする者は それを破壊する者の兄弟だ」との諺によって裏づけられています。何かの建築にたずさわる兄のちょっとの「手抜き」が、弟による「破壊」をもたらす、ということです。その点では、次節に出てくる「力の塔」は堅固であり、悪意ある人の「手抜き」や「破壊」が忍び込む余地はありません。
Ⅳ 主の御名は力の塔
先述の通り、箴言18:4では、著者は「離反する愚か者」による悪い流れを断ち切ろうとして、「人の口の言葉」の源泉を昭示しました。しかし、「深い水」、「大河」、「泉」(源)、「流れ出る」というように自然描写が前面に出て、やや迂遠なところがありました。
ところが、この節では暗示的な表現が一掃されています。すなわち、ここでは「主」なる神と「神に従う人」との緊密な関係が示されています。「神に従う人」は「主の御名こそが力の塔」と信じています。それ故に、その人は「力の塔に走り寄り」、「主の御名」によって「高く上げられ」ます。
いずれにしても、理解の鍵は、どのように「そこに走り寄り、高く上げられる」との文句を解釈するかに掛かっています。それこそ、わたしたちは、「深い水」、または、「大河のように流れ出る知識の源」に対面するように、“ 霊 ” 的な導きを得なければなりません。
そこで、“ 霊 ” 的な導きにあずかれますように、ということで、主イエスが教えられた祈りの一節を読んでみましょう。そうすれば、「神に従う人は力の塔に走り寄り」、「主の御名」によって「高く上げられる」との内容に光が当てられることでしょう。
Ⅴ 御名が崇められますように
マタイ福音書6:9――
「天におられるわたしたちの父よ、
このように主の祈りに、「御名が崇められますように」との句が出てきます。従って、「御名を崇める」との信仰心から、箴言の著者は「主の御名は力の塔」とほめたたえているのでしょう。
元来、「御名が崇められますように」とは、「あなたの名が聖とされますように」との意味です。つまり、わたし・人間が聖別されることを第一としてはいません。どうか、「主の御名」のきよさを保ってください、聖なる「御名」の「力の塔」としての「力」を発揮してください、という神御自身についての祈りなのです。
そこではじめて、「神に従う人は力の塔に走り寄り」、「主の御名」によって「高く上げられる」というつながりが浮かび上がってきます。すなわち、わたしは「愚か者」の「破滅」や「罠」に巻き込まれそうになっています。もはやわたしは「愚か者」の「侮り」や「軽蔑」によって「腹の隅々」まで腐りきっています。だから、わたしは「力の塔に走り寄り」、そこに逃げ込みます、ということなのです。
このように、聖なる「御名」によりすがる人は、「御名」の「力」によって「打ち砕かれ悔いる心」(詩編51:19)が与えられました。それ故に、その人は、神の御前にへりくだり、ひれ伏しています。
今や「神に従う人」にとっての「大河のように流れ出る知識の源」は、聖なる「主の御名」にほかなりません。そうして、神の御前に低められた人は、「高く上げられ」ます。それは、主イエスの母マリアが、「身分の低い、この主のはしためにも 目を留めてくださったからです。…… 主は権力ある者をその座から引き降ろし、身分の低い者を高く上げられます」(ルカ1:48,52)と歌っている通りです。もはや、世にある「自分の欲望」に縛りつけられてはいません。
そして、「神に従う人はそこに走っていく〔原意〕」というの初めの原体験になります。ここで大切なのは、キリスト者として人生の先達パウロの教えに従うことです。
コリントの信徒への手紙 一 9:24――
あなたがたは知らないのですか。競技場で走る者は皆走るけれども、賞を受けるのは一人だけです。あなたがたも賞を得るように走りなさい。
わたしたちは、「キリスト・イエスによって上へ召されて」います(フィリピ3:14)。主イエス・キリストに再会するというゴールを目指して、全力を出し切ろうとしています。
わたしたちは、この世においては「いわば旅人であり、仮住まいの身なのです」(Ⅰペトロ2:11)。箴言という「深い水」から神の知恵とわたしたちの言葉を汲み出しながら歩んで行きましょう。「走っていく」先にあるゴールが、わたしたちの最大の希望です。
結
「主の御名は力の塔。神に従う人はそこに走り寄り、高く上げられる」との箴言の内に、「主」なる神と「神に従う人」との緊密な関係が示されていました。
その緊密な関係の中心は、わたしたちが神によって救われていることにあります。「イエス」という名(原意:主なる神は救い)こそが、それを表しています。わたしたちが「そこに走り寄り、高く上げられる」のは、すべて主イエス・キリストによって救われているからです。
それ故に、「イエス・キリストという御名は力の塔」と言い換えられるでしょう。そこに逃げ込み、高く上げられるという恵みを受ける……パウロの言葉では「賞を受ける」……には、どうすればよいのでしょう。
それは、十字架につけられ三日後によみがえられた主イエス・キリストを心から信じることです。主イエスはわたしたちの前に道を備えられています。というのも、主イエスはこの地上の生涯を走りきり、天国に凱旋されているからです。
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〈説教の原稿〉
2025年 1月19日
降誕節 第4主日
旧約聖書 ゼカリヤ書 10章2節(P.1490)
新約聖書 マルコによる福音書 6章30節~44節(P.72)
説 教「パンと魚を弟子たちに渡して配らせた」 小河信一牧師
説教の構成――
序
Ⅰ 人々は羊のようにさまよい 羊飼いがいないので苦しむ ……ゼカリヤ書10:2
Ⅱ 主イエスは飼い主のいない羊のような有様を深く憐れんだ ……マルコ6:30-34
Ⅲ あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい ……マルコ6:35-37前半
Ⅳ パンは幾つあるのか。見て来なさい ……マルコ6:37後半-38
序
「さあ、いよいよ」と思わず声かけしたくなるような主イエス・キリストによる奇跡が行われます。ここで、ガリラヤ伝道(マルコ1:16-8:26)は一つの山場を迎えると言ってよいでしょう。
弟子たちの派遣と帰還が完了したばかりのことです。弟子たちは、悔い改めのための宣教、悪霊祓い、そして、病気の癒やしという実践の訓練を受けました(マルコ6:12-13)。弟子たちが主のもとを離れている、その幕間には、真の弟子と言える洗礼者ヨハネのことが回想されました。
ヨハネは人間の逆恨みや無関心の罪に巻き込まれて、ヘロデ王の誕生日の宴会中に虐殺されました。この出来事は、主イエス・キリストの十字架と復活についての予告として心に刻んでおくべきものでありました。こうしてヨハネは、主イエスに対する先駆者の役割を果たすことになりました。
さてここに、四つの福音書すべてに記されている唯一の奇跡が繰り広げられます。しかも、主イエスと弟子たちとの会話や場面の移り変わりが四福音書の中でマルコには、最も詳しく描き出されています。また、弟子たちの背後には、主イエスめがけて押し迫って来る群衆がいます。彼らもまた、主イエスの御言葉によって教えられ、奇しき御業を経験することを望んでいます。
弟子たちが主イエスのもとに再結集して、「良い機会が訪れ」ました(マルコ6:21)。神の大いなる救いの計画が大勢の群衆の前で実行されます。夕暮れ時、「青草」の生い茂る広い土地……舞台は整いました(同上6:35,39)。この出来事はわたしたちを、弟子たちの伝道による一時的な成果やヨハネの悲劇的な殉教などの先に連れて行きます。
それは、わたしたちの信仰の中心に置くべきものです。というのも、そこに、祝福してパンと魚を分かち与えてくださった主イエス・キリストの憐れみ深さが現されているからです。それこそ、わたしたちが週一で再結集する主の日に、新しい気持ちで思い起こすべきものであります。
Ⅰ 人々は羊のようにさまよい 羊飼いがいないので苦しむ
ゼカリヤ書10:2――
テラフィムは空虚なことを語り
占い師は偽りを幻に見、虚偽の夢を語る。
その慰めは空しい。
羊飼いがいないので苦しむ。
本日の新約テキストに、「イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた」(マルコ6:34)と書かれています。そこで、「その民を羊のように養われる」神なる主(ゼカリヤ書9:16)と民との関係を調べてみることにしましょう。
ゼカリヤ書10章は、紀元前4世紀頃に書かれた文書です。バビロン捕囚から解放された後、ユダヤの地で人々がどのような希望を抱いて生きていたかが、克明に報告されています。
「主はわたしの羊飼い」(詩編23:1)との信仰を堅持しようとしながらも、迷ったり悩んだりするのが、多くの民の現実でありました。そのような状況にあって預言者ゼカリヤは、民が不信仰に傾き、将来への希望を打ち捨ててしまう根本原因を見抜いていました。
「テラフィムは空虚なことを語り 占い師は偽りを幻に見、虚偽の夢を語る」……ここには、人間が何故に洗脳されてしまうのかが如実に表されています。「テラフィム」というのは、本来、家の守り神で、「占い」を行い、「夢」に現れる偶像的な存在を指しています(創世記31:19、士師記17:5、列王記下23:24)。
問題は、「テラフィム」、「占い師」、そして「虚偽の夢」(三つ共に名詞の複数形)が束になって人々に「語りかけている」ということにありました。それが、民が「わたしの羊飼い」なる神から離れ去ってしまう根本原因だったのです。物心両面で飢え渇いていた民の心には、「空虚なこと」や「偽り」が常駐するものとなりました。
「それゆえ、人々は羊のようにさまよい 羊飼いがいないので苦しむ」……哀れな人々ではありますが、当然の報いと言えましょう。「偽り」なる者が四六時中「語りかけている」状況では、自力では逃げ出すことも立ち直ることもできません。
ところで、「主はわたしの羊飼い」との信仰の基本を知る預言者ゼカリヤが、民に向かって、「羊飼いがいない」と断言しているのは、どういう意味なのでしょうか?
この箇所の「羊飼い」は、宗教的指導者、預言者、そして祭司を指していると思われます(D.L. ペーターセン)。それは次節に、「羊飼いたちに対して、わたし(神)の怒りは燃える」(ゼカリヤ書10:3)との神の叱責が加えられていることからも分かります。彼らは元来、神殿での礼拝を取り仕切り、民の信仰生活を導く立場にある人たちです。
主なる神は人生の荒れ野を歩んでいるイスラエルの民に、「娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る」(ゼカリヤ書9:9)と呼びかけておられます。多くの人々が、自力では罪の闇から脱出できる可能性がほとんどないような状態に置かれています。
しかし、神は真の「羊飼い」の先駆けとしてゼカリヤを遣わされました。ゼカリヤは苦悩のどん底にある民に寄り添い、次のように神の託宣を告げました。
ゼカリヤ書9:17――
それはなんと美しいことか
なんと輝かしいことか。
穀物は若者を
新しいぶどう酒はおとめを栄えさせる。
ゼカリヤ書14:7――
その日には、夕暮れに光がある。(私訳)
この神の託宣は、先駆者ゼカリヤから「良い羊飼い」(ヨハネ10:11,14)なる主イエス・キリストに引き継がれました。
Ⅱ 主イエスは飼い主のいない羊のような有様を深く憐れんだ
マルコ福音書6:30-34――
30 さて、使徒たちはイエスのところに集まって来て、自分たちが行ったことや教えたことを残らず報告した。31 イエスは、「さあ、あなたがただけで人里離れた所へ行って、しばらく休むがよい」と言われた。出入りする人が多くて、食事をする暇もなかったからである。32 そこで、一同は舟に乗って、自分たちだけで人里離れた所へ行った。33 ところが、多くの人々は彼らが出かけて行くのを見て、それと気づき、すべての町からそこへ一斉に駆けつけ、彼らより先に着いた。34 イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた。
「さて、使徒たちはイエスのところに集まって来て、自分たちが行ったことや教えたことを残らず報告した」……ここで、〈今〉弟子たちの派遣(マルコ6:7-13)⇒〈回想〉ヨハネの虐殺(マルコ6:14-29)⇒〈今〉弟子たちの帰還(マルコ6:31)というサンドウィッチ形式で物語られた段落が終わります。そうして、次のステージ(舞台)に立つ態勢が整えられました。
「イエスは、『さあ、あなたがただけで人里離れた所へ行って、しばらく休むがよい』と言われた。出入りする人が多くて、食事をする暇もなかったからである」……「初めに言があった」(ヨハネ1:1)という通り、すべては主イエスの言葉かけから始まります。「しばらく休むがよい」との一句に、弟子たちはどれほど慰められたことでしょう。十二弟子の中で、派遣中の自分の失敗や民からの反発によって動揺している者もいたかも知れません。しかし、そのような者をもねぎらう主イエスの思いが伝わってきます。まさに、「だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である」(マタイ6:34)との御言葉の通りです。
そのような弟子たちに寄り添う主イエスの思いを読み取ったうえで、わたしたちはさらにこの一節に含まれている「神秘としての神の知恵」(Ⅰコリント2:7)を汲み取らなければなりません。そのためには、「“霊”は一切のことを、神の深みさえも究めます」(同上2:10)という “ 霊 ” の導きにあずかることが必須になります。なにしろ、わたしたちはガリラヤ伝道中の主イエスによる最大級の奇跡に立ち合おうとしているのですから。
主イエスは五千人に対する給食の主催者です。今、人の思いをはるかに超えた、神の大いなる救いの計画を実行に移されます。ガリラヤの大地に、“ 霊 ” が充満し、春(青草の頃)の夕べに、「良い機会が訪れ」ました。
場所は、ガリラヤ湖畔……おそらく伝道拠点のカファルナウム……から、「人里離れた所」へと移されます。そして、弟子たちが「しばらく休む」ことから「食事をする」ことへと誘導されます。さらに、「出入りする人が多く」という「大勢の群衆」も「すべての町からそこへ一斉に駆けつけ」ます。あれよあれよという間の出来事ですが、「神秘としての神の知恵」によってすべてが支配されています。舟の便あり、徒歩の先回りあり、ガリラヤの自然を舞台に、主イエスに従う人々、皆が動かされています。
なおその上に、「人里離れた所」は、「朝早くまだ暗いうちに、イエスは起きて、人里離れた所へ出て行き、そこで祈っておられた」(マルコ1:35)という場所ですから……仮に今回と同一の所でないとしても……、“ 霊 ” が豊かに宿っている土地に違いありません。そこには、エルサレムのゲツセマネの園のように、父なる神の御心が行われるように(マタイ26:36-46)、との主イエスの祈りがありました。
このようにわたしたちが、“ 霊 ” に導かれて、この場面の主イエスの言葉と行いを一つひとつ追っていくことが大切です。それによって、「神秘としての神の知恵」がわたしたちに啓示されることになります。
「イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊(複数形)のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた」……主イエス・キリストがやって来られました。人知れずに、神の支配のもとに、招かれる人々や食事の場が整えられました。そうして、主イエスがステージ(舞台)に立たれたのです。
主イエスは、「それゆえ、人々は羊のようにさまよい 羊飼いがいないので苦しむ」との預言者ゼカリヤの声に耳を傾けられました。およそ400年前の、哀れな人々の様子に思いを寄せられました。
「飼い主のいない羊のような有様を深く憐れんだ」と表現されている通り、主イエスは羊飼い不在の「羊たち」のために「はらわたを痛め」られました。当初、わたしたちの目には、主イエスが帰って来た弟子たちを食事をもってねぎらうことしか、映っていなかったかも知れません。しかし、主イエスは初めから、「すべての町からそこへ一斉に駆けつけて来る大勢の群衆」を、御言葉と食事とをもってもてなすことを企図されていたのであります。
「いろいろと教え始められた」……主イエスは、ガリラヤ湖畔の巡回伝道において、①〈初めに〉罪の赦しを教える(マルコ2:5、3:28)⇒②〈次に〉病気のいやしなどの奇跡を起こす (マルコ2:11-12、3:5)という宣教をくり返されました。「人里離れた所」でも、主イエスはその順に従って宣教されました。
ここまでは、主イエス・キリストの主導のもとに、事が運ばれました。ところが、「大勢の群衆」への給食の奇跡が行われる段になって、主イエスは弟子たちに代表される肉なる人間……自然の人・肉の人(Ⅰコリント2:14、3:1)……と対峙されることになります。というのも、主イエスの目的は、罪への誘惑や欲望のこびりついた人間を、神の御心のもとに立ち帰らせることにあるからです。「神秘としての神の知恵」を知ることを妨げるような弟子たちの常識は打ち砕かれます。それが、いくら賢そうに見える反論であっても、です!
Ⅲ あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい
マルコ福音書6:35-37前半――
35 そのうち、時もだいぶたったので、弟子たちがイエスのそばに来て言った。「ここは人里離れた所で、時間もだいぶたちました。36 人々を解散させてください。そうすれば、自分で周りの里や村へ、何か食べる物を買いに行くでしょう。」 37 これに対してイエスは、「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」とお答えになった。
このⅢ.と次のⅣ.では、〈当惑している弟子たちの問いかけ→主イエスの毅然たる答え〉が反復されています。それによって、「肉の人」なる弟子たちの思いはひっくり返されます。従って、このような会話による主イエスの導きと教えは、わたしたちの信仰が形づくられる基となります。
なぜなら、わたしたちの信仰というのは、「肉の人」の高慢・貪欲・絶望などを捨て去って、神に立ち帰ることだからです。まさにこの場面のように、主イエスは自力では何も為し得ないわたしたちを悔い改めさせ、神の恵みにあずかるよう導かれます。火花の散るような弟子たちとの対話の内に、「飼い主のいない羊のような有様を深く憐れむ」ことが表されています。主イエスはまことに「良い羊飼い」であるに違いありません。
「そのうち、時もだいぶたったので、弟子たちがイエスのそばに来て言った」……「時もだいぶたった(おそくなった)」とは「夕方になった」という意味です。これまでにも、主イエスは「夕方になって日が沈むと」、大勢の人たちを癒やしたり、舟に乗り向こう岸に渡って伝道されました(マルコ1:32、4:35)。こうして、「青草」(マルコ6:39)の萌え出でる春の夕暮れ時、「人里離れた所」という舞台が整いました。
「ここは人里離れた所で、時間もだいぶたちました。人々を解散させてください。そうすれば、自分で周りの里や村へ、何か食べる物を買いに行くでしょう」……或る意味では、ここで弟子たちは良識的な判断をしています。しかし、彼らは主イエスから許可を取ろうとするばかりで、主イエスに助けていただこうとはしていません。買い出しのためとはいえ、「人々を解散させて」しまうならば、「羊たち」は散り散りばらばらになってしまいます(列王記上22:17、エレミヤ書23:1)。何も「食べる物」を買えない「羊」や迷って再び戻って来ない「羊」も出てくることでしょう。それに、せっかく、祈りの “ 霊 ” に満ちた「人里離れた所」に集まって来たことが無駄になってしまいます。
「夕べがあり、朝があった」(創世記1:5)という一日の始まりに主イエスが立っておられます。夜の帳が下りる前、「夕方」こそ、主イエスによって新しいことが行われるチャンス、「良い機会」なのです。弟子たちよ、「主よ、助けてください」(マタイ8:25、14:30)と、主イエスに向かって叫ぶ時ではないのですか。このように見てくると、「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」との主イエスの毅然たる命令の真意が浮かび上がります。
すなわち、主イエスは弟子たちに無理難題を押しつけているわけではありません。そうではなく、「彼らに食べ物を与える」ように、わたしが「あなたがた」を遣わす、だから、派遣するわたしの愛と力を信じなさい、と言っておられるのです。ともかくも弟子たちは、群衆の間に今ある「食べ物」を探し出して、主イエスのもとに携えて来ればよいのです。
弟子たちは主イエスに見守られて、派遣から帰還へという実地訓練を受けたばかりなのに、残念なことです。まずは、毎週、主日礼拝を中心に、派遣と帰還を繰り返している我が身を顧みなければなりません。
派遣するわたしの愛と力を信じなさい……それは決して難しいことはありません。「イエスは大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた」という主イエス・キリストを見て、知って、そして “ 霊 ” により信じればよいのです。
Ⅳ パンは幾つあるのか。見て来なさい
マルコ福音書6:37後半-38――
37 弟子たちは、「わたしたちが二百デナリオンものパンを買って来て、みんなに食べさせるのですか」と言った。38 イエスは言われた。「パンは幾つあるのか。見て来なさい。」弟子たちは確かめて来て、言った。「五つあります。それに魚が二匹です。」
こうして、〈当惑している弟子たちの問いかけ→主イエスの毅然たる答え〉の第二段を迎えます。主イエスの忍耐強さがしのばれます。
ここでまた、一般論的には、弟子たちの問いかけは、良識的判断に基づいていると評価されることでしょう。その上、「わたしたちが……買って来て……食べさせるのですか」というところには、奉仕の精神が垣間見られます。
しかし、それ以上に、はるかに大切なのは以下のことです。弟子たちは結局、「神秘としての神の知恵」ではなく、「この世の知恵」にしがみついています(Ⅰコリント2:6-7)。「この世の知恵」によって、皆にパンを供給するには、「二百デナリオン」が必要であると即座に計算されました。問題は、その時、弟子たちの主イエスへの信頼が不十分であったということです。
Ⅲ.の繰り返しになりますが、「彼らに食べ物を与える」ように、わたしが「あなたがた」を遣わす、だから、派遣するわたしの愛と力を信じなさい、と命じられているのに気づかねばなりません。「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」と宣告された主イエス・キリストが、どのようにわたしたちを助けてくださるのか、と考えてみる、そこに立ちどまることが分かれ目になります。自分で困った状況を打開するのではなく、主イエスが何を為されるのか、一瞬でも待ってみることです。
「パンは幾つあるのか。見て来なさい」→「五つあります。それに魚が二匹です」……主イエスは大勢の群衆の中に入って、「見て来なさい」と命じられて、弟子たちが “ 霊 ” の導きを思い返す暇をつくられました。弟子たちは「見て来て」、再び主イエスのもとに戻ります。見事にも、主イエスは派遣から帰還へという再訓練を弟子たちに行われました。果たして、弟子たちは人々を「深く憐れもう」されている主イエスを信じることができるしょうか。
「五つあります。それに魚が二匹です」……これは単に弟子たちからの現状報告に過ぎません。しかし、主イエス・キリストに向かって、大いなる困窮が差し出されたところに、意義があります。「主よ、助けてください」と叫ぶ、へりくだりと信頼に一歩近づきました。
〈当惑している弟子たちの問いかけ〉と〈主イエスの毅然たる答え〉とのつばぜり合いはいかがだったでしょうか。会話によるやり取りなので、弟子たちと主イエス、双方の思いがリアルに伝わって来たでしょう。「肉の人」なる弟子たちの思いはひっくり返されたのでしょうか。まず、わたしたち自身が「アーメン」と唱えて、人の心に思い浮かびもしなかった主イエスの指示を受け入れたいと願います。
「神秘としての神の知恵」か、それとも、「この世の知恵」か、どちらに傾くか分からないつばぜり合いの中で、主イエス・キリストの御業が前面に打ち出されます。これこそが、曖昧でどっちつかずになりがちなわたしたちへの神の招きであります。
Ⅴ すべての人が食べて満腹した
マルコ福音書6:39-44――
39 そこで、イエスは弟子たちに、皆を組に分けて、青草の上に座らせるようにお命じになった。40 人々は、百人、五十人ずつまとまって腰を下ろした。41 イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて、弟子たちに渡しては配らせ、二匹の魚も皆に分配された。42 すべての人が食べて満腹した。43 そして、パンの屑と魚の残りを集めると、十二の籠にいっぱいになった。44 パンを食べた人は男が五千人であった。
この最後の場面では、どのようにして、主イエス・キリストが「飼い主のいない羊のような有様を深く憐れんだ」のか、が描き出されています。また、主イエスがどのように「弟子たち」を奉仕させたのか、も活写されています。今や弟子たちは主イエスの命令に従い、主イエスを注視しつつ行動しています。
初めに主イエスは、「人々は羊のようにさまよった」(ゼカリヤ書10:2)という大勢の群衆を整列させました。そうして、主イエスが審判預言を受けた罪人たちの救済者であることが示されました。もはや、「わたし(神)の牧場の羊の群れを滅ぼし散らす牧者たち」(エレミヤ書23:1)は「羊たち」を置き去りにして逃げ去りました。もはや、「空虚なこと」や「偽り」を「語りかけている」サタンが割り込む余地はありません。
というのも、見張り人なる「弟子たち」が、「皆を組に分けて」、そして、「百人、五十人ずつまとまって」、組ごとに整然と座らせているからです。後の「十二の籠」(マルコ6:43)との語句から判別すれば、イスラエルの十二部族を象徴するかのように、十二のグループに分かれていたのかも知れません。いずれにせよ、「組に分けて」ならびに「~ずつまとまって」との慣用表現から、列を作って並ばせられているのが想像されます。
しかも、群衆が腰を下ろしたのは、「青草の上」であります。「わたしを苦しめる者を前にしても あなた(神)はわたしに食卓を整えてくださる」(詩編23:5)とは、まさにこの出来事を指しているのでしょう。「青草」が萌え出でているとすれば、春の可能性が高くなります。夏(乾期)が始まるとすぐに、草木が枯れ果ててしまうからです。
「イエスは①五つのパンと二匹の魚を取り、②天を仰いで③賛美の祈りを唱え、④パンを裂いて、弟子たちに⑤渡しては⑥配らせ、二匹の魚も皆に分配された」……民が「人里離れた所」に集まって一つとなり、静まったときに、主イエス・キリストの御業が行われました。まさしく聖餐式が行われている礼拝を思い起こさせます。
・イエスは③賛美の祈りを唱える……イエスは「祝福して」と言い換えられます。ユダヤ人の食事は「祝福」をもって始められます。
・イエスは弟子たちに⑤渡しては⑥配らせる……使徒パウロは「だから、あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです」(Ⅰコリント11:26)というように、「渡しては配らせる」中で、いつも想うべきことを教えています。
・弟子たちに渡しては⑥配らせる……「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」との主イエスの命令が弟子たちによって実践されています。
まとめとして二つのことに限って、お話ししましょう。
一つ目は、五千人の給食の奇跡は、主イエス・キリストの十字架と復活の御業により、罪人に対する大いなる救いとして成就したということ――
十字架上で、主イエス・キリストの体が裂かれて、血が流れ出てきます(ヨハネ19:34)。聖餐式では、この「主の死」を記念してパンと杯とがわたしたちに、罪を贖うしるしとして配られています。神の前に悔い改める者は、十字架の死と復活によって、無償で救われました。そうしてわたしたち・罪人は赦され、永遠の命を与えられています。
二つ目は、この奇跡は、神の国の祝宴に対する先駆けまたは前夜祭になっているということ――
「夕べ」の「人里離れた所」での食事は、まことの光の照りわたる「朝」の神の国の祝宴を指し示しています。「夕べがあり、朝があった」(創世記1:5)という創造主の御業は、神の国の到来において成就します。初めの日に現れた「光」(同上1:3)は、神の栄光と共に、永遠の「光」となります(ヨハネ黙示録21:23)。
「すべての人が食べて満腹した。そして、パンの屑と魚の残りを集めると、十二の籠にいっぱいになった。パンを食べた人は男が五千人であった」……主イエス・キリストは、迷える羊すべての「羊飼い」であります。大勢の群衆を、はらはたが痛むというほどに、「深く憐れまれ」ました。
主イエスは寂しく薄暗い中で、神の大いなる救いの計画を実行されました。あり余るほど大きな恵みがわたしたちに与えられています。「この世の知恵」に頼ってつかの間の輝きを楽しむのではなく、五千人の給食によって現された「神秘としての神の知恵」に依り頼む道を、一足一足歩んで行きましょう。
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〈説教の要約〉
2025年 1月12日 日本キリスト教団 茅ヶ崎香川教会
降誕節 第3主日
旧約聖書 レビ記 18章16節(P.190)
新約聖書 マルコによる福音書 6章14節~29節(P.71)
説 教「イエスの名が知れ渡ったので」 小河信一牧師
説教の構成――
序
Ⅱ ヘロデとヘロディアの結婚に反対したヨハネ
Ⅲ ヘロデの誕生日に悪事を企んだヘロディア
結
序
ここには、民話的な味わいを持つ洗礼者ヨハネの死の物語(マルコ6:14-29)が収められています。前後関係に注目すると、このヨハネの出来事は、十二弟子の派遣(同上6:7-13)と帰還(同上6:30)を中断する形で挿入されていることが分かります。
なぜ、そのようなサンドウィッチ形式になっているのでしょうか? 直前には、ヤイロの娘と主イエスの服に触れる女のいやしの物語が、同様の形式で構成されていました(マルコ5:21-43)。明らかに「正しい聖なる人」ヨハネ(マルコ6:20)の殉教は、主イエスと弟子たちの伝道に影を落としています。
先駆者ヨハネの身に降りかかった罪深い者たちの反抗と陰謀はまさに、福音宣教についての先駆的出来事、予兆でありました。このヨハネこそが、主イエスに弟子として仕える模範となったのです。本日は、パン生地にはさまれたサンドウィッチの具材をしっかりと味わいましょう。
王の誕生日の祝宴において、ヨハネの虐殺が敢行されます。その祝宴で多用される「盆」の一つが持ち運んで来たものとは……?
Ⅰ イエスの名が知れ渡ったので
マルコ福音書6:14-16――
14 イエスの名が知れ渡ったので、ヘロデ王の耳にも入った。人々は言っていた。「洗礼者ヨハネが死者の中から生き返ったのだ。だから、奇跡を行う力が彼に働いている。」 15 そのほかにも、「彼はエリヤだ」と言う人もいれば、「昔の預言者のような預言者だ」と言う人もいた。
16 ところが、ヘロデはこれを聞いて、「わたしが首をはねたあのヨハネが、生き返ったのだ」と言った。
最初に、ヨハネの虐殺を伝えるテキスト内の構成についてお話しします。それは、マルコ6:14-16(Ⅰ)だけが〈今〉のことで、あと(Ⅱ・Ⅲ・Ⅳ)は、〈回想〉になっているということです。すなわち、ヨハネがどういう訳で、どのように殺されたのかが、〈回想〉の形で伝達されています。
ヨハネの虐殺は、まるで昨日の出来事のようにリアルに描き出されています。しかし、血を見るような内容が内容だけに、読み手にショックを与え過ぎるということもあるでしょう。その点で、〈回想〉による語りは一種の緩衝装置の役割を果たしています。〈今〉から見れば、もう過ぎ去った事なのですよ、ということです。
ただし、多少ショックがやわらげられたとしても、わたしたちは罪過に染まった人間模様とその陰謀の結末とを見届けなければなりません。まずは、〈回想〉への導入を成す〈今〉の前置きを読んで、心の準備をしましょう。
そこで〈今〉、弟子たち、ならびに、わたしたちがわきまえ知るべきことの要点を示しましょう。それは、ひと言でいえば、「イエスの名が知れ渡ったので」、つき従う者はますます増えると共に、敵意を抱く者たちが画策し始める、ということです。
信仰者が〈今〉、そのような事の成り行きをしっかり受け止めるならば、〈これから〉の光と闇との戦いに向き合えます。その上、〈回想〉して思い起こす過去は、信仰者自身の経験として蓄えられます。誘惑を退ける知恵となり、患難を忍耐する力となることでしょう。
というのも、わたしたちの先達の信仰者は、「望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認して」、約束は必ず成就するという信仰に生きていたからです(ヘブライ11:1,13)。まさに〈回想〉によって、彼らの信仰を受け継ぐことが求められています。
「イエスの名が知れ渡ったので、ヘロデ王の耳にも入った」……主イエスがたとえで語られたように、御言葉の種は、良い土地のみならず、道端、石地、茨の生い茂る地にも蒔かれます(マルコ4:1-9)。忍耐して収穫の時を待ち望みつつ、「蛇のように賢く」(マタイ10:16)、害敵の妨害を退けねばなりません。
ヘロデ王は主イエスのまつわる情報に耳をそばだてました。何しろ、王は自分の地位を守るのに必死でしたから、世間で人気を集めている人の動きには敏感でありました。結局のところ、ヘロデは単純にイエスを恐れていたのです(マルコ6:20)。びくびくしている人物が主イエスを正しく評価できるわけがありません。
そして、「だから、奇跡を行う力が彼(イエス)に働いている」との情報は、「十二人は出かけて行って……多くの悪霊を追い出し、油を塗って多くの病人をいやした」(マルコ6:12-13)との別方面からの情報とも符合するものでした。すなわち、弟子たちの持つ「奇跡を行う力」は、彼らを派遣したイエス・キリストに由来していたということです。
このようなサンドウィッチのパン生地からの証言は、中身の具材においても通用することが示唆されています。具体的に言えば、洗礼者ヨハネは生前に「奇跡を行う力」を現しつつ、その神の「力」によって「死者の中から生き返る」イエス・キリストについて証ししていたということです。言い換えれば、そのような神に仕える者を殺した、人の罪深さを嘆け、ということです。
〈今〉のことを伝える前書きを総括しましょう。それは要するに、「イエスの名が知れ渡った」との福音宣教の前進の観点から、ヨハネの虐殺を振り返る〈回想〉に向き合いなさい、ということです。そこには、〈これから〉、まことの光なるイエス・キリストにつき従いなさい、暗闇の中で悪事に走ったり絶望したりすることのないように、との教えが込められています。
「イエスの名が知れ渡った」……この言葉が掲げられているのは、ヨハネ惨殺の出来事への痛烈なアイロニー(皮肉)になっています。というのも、「イエス」というのは、「罪からの救い」を意味しているからです。
ヘロデ王、妻のヘロディア、その娘(伝承ではサロメという)、その場にいた高官や将校、そしてヨハネの首をはねた衛兵、彼らにも「罪からの救い」はあるのでしょうか。それとも、彼らはあくまでも、「イエスの名」を信じて救われることのなかった人の代表ということなのでしょうか。
神の御子は、この地上で「イエス」との「名」によって呼ばれました。「イエスの名」を信じるとは言い換えれば、そのお方が「インマヌエル」(神は我々と共におられる マタイ1:23)の神であり、この神によって自分が救われたと信じるということです。
わたしたちが罪に誘惑され、自分の弱さを嘆くとき、主イエスはわたしたちに寄り添い、共に苦しんでくださいます。そこからわたしたちが、神の御前に出で、悔い改めて立ち直る力を与えてくださいます。
Ⅱ ヘロデとヘロディアの結婚に反対したヨハネ
マルコ福音書6:17-20――
17 実は、ヘロデは、自分の兄弟フィリポの妻ヘロディアと結婚しており、そのことで人をやってヨハネを捕らえさせ、牢につないでいた。18 ヨハネが、「自分の兄弟の妻と結婚することは、律法で許されていない」とヘロデに言ったからである。19 そこで、ヘロディアはヨハネを恨み、彼を殺そうと思っていたが、できないでいた。20 なぜなら、ヘロデが、ヨハネは正しい聖なる人であることを知って、彼を恐れ、保護し、また、その教えを聞いて非常に当惑しながらも、なお喜んで耳を傾けていたからである。
兄弟の妻を犯してはならない。兄弟を辱めることになるからである。
マルコ6:17は意訳すれば、「実は過去にヘロデは~したことがあった」となります。そして、ヘロデが「ヨハネを恐れていた」理由が開示されて、〈回想〉シーンに入っていきます。別言すれば、話題が主イエスのうわさからヨハネの虐殺に移行します。
しかし話題が転換しつつも、ヨハネの死を主イエスの十字架の死に重ね合わさせるという文学的技巧が施されています。ヨハネと主イエス、両者の公生涯が連動していることは、すでにマルコ福音書の冒頭に示されています……「ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行った」(1:14)。
ヘロデがヨハネを「牢につないでいた」ということで、両者の敵対関係が暗示されています。読み手に、これからどうなるのだろうというサスペンス(緊張と興奮)を呼び覚まします。その効果を高めるために、〈回想〉にもかかわらず、あたかも〈今〉起こっているかのような語りになっています。
「ヘロデは、自分の兄弟フィリポの妻ヘロディアと結婚しており」……この一文をより深く理解するには、当時の王族の結婚事情についての知識が必要です。要は、外交などの政略や性的な欲情によって恣意的な結婚や離縁が繰り返されていたということです。
「ヘロデ」(ヘロデ・アンティパス)と「ヘロディア」とは、元々姻戚関係がありました。というのも、「ヘロデ・アンティパス」と「フィリポ」とは、共通の父「ヘロデ大王」(マタイ2:1,16)を持つ、腹違い(異母)の「兄弟」だったからです。
ありていに言えば、「ヘロディア」は夫「フィリポ」を見捨てて、「ヘロデ」と再婚することになりました。「ヘロディア」の思惑というよりも、「ヘロデ」からの求愛が強かったのかも知れません。いずれにしても、元夫が存命している中での、その「兄弟」との結婚は許されませんでした。
そういうわけで、「ヨハネが、『自分の兄弟の妻と結婚することは、律法で許されていない』とヘロデに言った」のです。
「兄弟の妻を犯してはならない。兄弟を辱めることになるからである」(レビ記18:16)……この旧約律法が洗礼者ヨハネからヘロデに伝達されました。
当時、「ヘロデ」(ヘロデ・アンティパス)は、ガリラヤとぺレア(ヨルダン川の東)の分封領主でありました(在位:前4-後39年)。領主と言ったのは、パレスチナ全体がローマ帝国の支配下に置かれていたからです。「ヘロデ王」(マルコ6:14)というのは彼の尊大さを表す僭称に過ぎません。ヘロデの居住地は、ガリラヤ湖西岸のテベリヤ(ティベリアス)でしたから、ヨハネの直言は確かにヘロデの耳に入ったのでありましょう。
ついでに言えば、レビ記18:16の直訳は、「あなたの兄弟の妻の恥部を曝させるようなことをあなたはしてはならない。彼女はあなたの兄弟の恥部である」(M.ノート)となります。
「恥部を曝させる」または「裸の覆いを取る」との言い回しが、厭うべき性的関係が規定されているレビ記18章には反復されています(18:6,7,11,15,17,18,19)。律法において、「恥ずべき行為」(18:17)を確認しつつ、血縁の有無にかかわらず大家族の中での健全な交わりが模索されています。
ユダヤ人の信仰を顧みず、ローマ帝国寄りだったヘロデはどのように、ヨハネからの直言を受け止めたのでしょうか? 「ヨハネを恐れ、保護し、また、その教えを聞いて非常に当惑しながらも、なお喜んで耳を傾けていた」とある通り、ヘロデは矛盾に満ちた心境に追い込まれました。「ヨハネを捕らえて、牢につないだ」ヘロデではありましたが、がんじがらめになったのはむしろ、ヘロデの方でありました。
夫の心に矛盾が渦巻いて弱気になっているときに、つけ込もうとしたのが、サタンならぬ妻のヘロディアでありました。部外者が自分の結婚について、取り沙汰するのは何事か、と彼女は激昂しました……「そこで、ヘロディアはヨハネを恨み、彼を殺そうと思っていたが、できないでいた」。ヘロディアの憤りと憎しみの行き着く果てや如何に……。
Ⅲ ヘロデの誕生日に悪事を企んだヘロディア
マルコ福音書6:21-25――
21 ところが、良い機会が訪れた。ヘロデが、自分の誕生日の祝いに高官や将校、ガリラヤの有力者などを招いて宴会を催すと、22 ヘロディアの娘が入って来て踊りをおどり、ヘロデとその客を喜ばせた。そこで、王は少女に、「欲しいものがあれば何でも言いなさい。お前にやろう」と言い、23 更に、「お前が願うなら、この国の半分でもやろう」と固く誓ったのである。24 少女が座を外して、母親に、「何を願いましょうか」と言うと、母親は、「洗礼者ヨハネの首を」と言った。25 早速、少女は大急ぎで王のところに行き、「今すぐに洗礼者ヨハネの首を盆に載せて、いただきとうございます」と願った。
この場面の、優柔不断なヘロデと速戦即決のヘロディアの様子から、主イエスの尋問・裁判を思い起こされる方も多いことでしょう。すなわち、一方では、主イエスから聴き取りしながらも右往左往するピラト(ルカ23:4,14)、他方では、神冒瀆の罪によって裁こうとはやる大祭司や群衆たち(同上22:71、23:21)という対照的な姿のうちに、人間の罪深さと残忍さが活写されています。
ヘロディアは夫の「誕生日の祝い」の「宴会」という「良い機会」を見逃しませんでした。この時既に、自分の娘を仲間に引き入れる目算を立てていたのかも知れません。サタンの入った母ヘロディアにとって、娘はまるで操り人形でありました。夫の「誕生日の祝い」を台無しにする冷酷さ、ほろ酔い気分の「高官や将校、ガリラヤの有力者など」を証人(参照:マルコ6:26 客の手前)として利用する悪賢さなど、「宴会」を支配していたのは、ヘロディアでありました。
「そこで、王は少女に、『欲しいものがあれば何でも言いなさい。お前にやろう……お前が願うなら、この国の半分でもやろう』と固く誓った」……民話のような味わいが、王の気前の良い言葉ににじみ出ています(参照:ロシアの昔話「魔法の本」)。「少女」はヘロディアの娘であり、ヘロデからすれば妻の連れ子でありました。王女なる「少女」が恥じらいを打ち捨てて、宴席で「踊りをおどり、ヘロデとその客を喜ばせた」ごほうびにということです。彼女への愛情もあることでしょうから、ヘロデはもう後に引けなくなりました。
母親の目算どおり、娘が「何を願いましょうか」と尋ねると、母親は言下に「洗礼者ヨハネの首を」と答えました。娘は王であり父親であるヘロデのもとに行き、「今すぐに洗礼者ヨハネの首を盆に載せて、いただきとうございます」と言いました。
ここで頭がくらっと来るのは、わたし一人ではありますまい! 「盆に載せて」って、さっきまでご馳走を運んでいた「盆」でしょう。あたかもこれが「本日のメインディッシュ」であるかの如くに……。まことにおぞましいことです。飲食したものが逆流して来そうです。
Ⅳ 非常に心を痛めたヘロデ
マルコ6:26-29――
26 王は非常に心を痛めたが、誓ったことではあるし、また客の手前、少女の願いを退けたくなかった。27 そこで、王は衛兵を遣わし、ヨハネの首を持って来るようにと命じた。衛兵は出て行き、牢の中でヨハネの首をはね、28 盆に載せて持って来て少女に渡し、少女はそれを母親に渡した。29 ヨハネの弟子たちはこのことを聞き、やって来て、遺体を引き取り、墓に納めた。
皮肉にも、王妃によって王手がかけられました。後は、事の成り行きを見守るだけです。
ヘロデは「非常に心を痛めた」自分の意思ではなく、「客の手前、少女の願い」によって誘導されます。もはやヘロディアとの結婚は律法違犯だと言って、自分を責め立てる者はいなくなります。
しかし、ヨハネの「教えに喜んで耳を傾ける」機会(マルコ6:20)がヘロデにはなくなります。たとえ一時期であれ、王はじめ支配者の一族やその仲間たちは、「悔い改めさせるための宣教」(同上6:12)から遠ざかります。これが、「暗闇に光を理解しなかった」(ヨハネ1:5)という現実でありましょう。
今、中断されている十二弟子の派遣から帰還への物語に関して、メッセージが残されているとすれば、このことではないでしょうか。すなわち、伝道者が闇に葬り去られ、御言葉に耳を傾けない人々が増えていくように見えても、恐れるな、宣教の旅を続けなさい、ということです。
「ヨハネの弟子たちはこのことを聞き、やって来て、遺体を引き取り、墓に納めた」……ヘロデの「誕生日」が「逝去日」、すなわち、ヨハネを埋葬する日に取って替わられました。
漆黒の闇を縫うようにして、「ヨハネの弟子たち」が現れました。彼らは勇気をもって、師への信従の姿勢を見せました。彼らが、「わたしの後から来られる方は、わたしより優れている」(ヨハネ1:15)とのヨハネの教えを信じているならば、彼らは希望を失わないことでしょう。主イエスとヨハネを遣わした神(ヨハネ1:6、4:34)から、師の衝撃的な死を耐え忍ぶ力が、「ヨハネの弟子たち」に注ぎ込まれています。
そうだとすれば、懇ろにヨハネを葬る弟子たちの姿は、「イエスの弟子たち」、十二人へのメッセージになっています。それこそが、まさに弟子訓練の肝心要です。実際、都エルサレムで「イエスの弟子たち」もまた、テベリヤ(ティベリアス)での「ヨハネの弟子たち」の経験を〈回想〉せねばならない時が来ます。カルバリ(髑髏の意)の丘で、彼らは逃げ隠れしたりしないでしょうか。そして、主イエスの遺体を墓に納めることができるでしょうか。
結
マルコ福音書の展開を中断するかのように、洗礼者ヨハネの死が〈回想〉されました。彼は「正しい聖なる人」であり、殉教者として死を遂げました。これは、主イエス・キリストにあって〈これから〉起こる出来事を予告しています。
もちろん、主イエス・キリストの十字架による死は、罪人を贖い出すためのもので、一度限りの救いの御業であります。ただ、わたしたちの大部分はすぐに、真の「イエスの弟子」になれるわけではありません。主イエス・キリストの死の苦しみを見続けたのは、わずかの女性たちだけでありました。
ですからわたしたちには、洗礼者ヨハネの言葉と行い、そして、ヨハネとその弟子たちの関係から学び取ることが少なからずあります。その上、「ともし火」(ヨハネ5:35)なるヨハネは短い生涯を終える中で、罪深い人々の姿を内面に至るまで照らし出しました。罪からの救いを伝える働きは、ヨハネとその弟子を経て、わたしたちに託されています。
Y
* サンドウィッチ形式 *
具 材 ヨハネの虐殺 〈回想〉 マルコ6:14-29
・王の誕生日の祝宴で「提供」されます!
パンの生地 弟子たちの帰還 〈今〉 マルコ6:31
*生地と具材、合わせ読んで、全体を味わいましょう。
真の弟子として神に仕えること、
ヨハネならびに主イエスの死によって福音宣教が拡大していくこと、
そして、イエス・キリストの十字架の死を、自分の救いとして受け止めること、
が教えられます。
W
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2025年 1月5日
新約聖書 コリントの信徒への手紙 一 7章1節~7節(P.306)
説 教「一人ひとり神からの賜物を持っている」
小河信一牧師
説教の構成――
序
Ⅰ 男は女に触れない方がよい
Ⅲ 女たちは女たちだけで嘆く
……ゼカリヤ書12:12-14
Ⅳ 自分を抑制する力がないのに乗じられないように
……Ⅰコリント7:5-6
Ⅴ 人はそれぞれ神から賜物をいただいている
……Ⅰコリント7:7
序
コリントの信徒への手紙 一 6章まで、パウロは “ 霊 ” に導かれ、神の知恵をもって、福音をコリント教会の人々に指し示してきました。そして、7章から新しい単元(7:1-11:1)に移ります。そこでは、結婚と性生活、偶像の供え物、そして使徒の権利など個別の問題が取り上げられます。
パウロが誠実で忍耐強い人であることは、相手の意見によく耳を傾けている点に現れています。なにしろ、主イエスの死後、およそ20年後の初代教会とその信仰者たちの話ですから、前例も何もありません。パウロはじめ自分たちで神学し、自分たちで福音の土台固めをしなければならない時代のことです。アレクサンドリアのクレメンスやオリゲネスなど教父たちが登場し活躍するのも、およそ150年後のことでした。
こんなことまで教会内で問題になっていたのか、と思われるかも知れませんが、当時のキリスト者にとっては、信仰の基盤に関わる大事な問題でありました。幸いだったのは、個別の問題を聴き取り、それに霊的な説明を加え、正しい方向に導く伝道者・パウロがいたということです。その上、パウロは悩み苦しんでいる人々の魂への配慮を心がける牧会者でありました。
これまでにパウロが傾聴してきたコリント教会の一部の人々の主張を、以下に挙げましょう。
「わたしには、すべてのことが許されている。」⇒「しかし」 Ⅰコリント6:12
「食物は腹のため、腹は食物のためにある。」⇒「しかし」 Ⅰコリント6:13
「人が犯す罪はすべて体の外にある。」⇒「しかし」 Ⅰコリント6:18
そして、本日のテキストで出てくるのが……
「男は女に触れない方がよい。」⇒「しかし」 Ⅰコリント7:1
以上、四つの例文すべての後に、「しかし」(ギリシア語:デ)が接続しています。つまり、「コリントびとよ、あなたは……とおっしゃるが、しかし、……」というように、パウロは持論を展開しています。相手の言い分を引用した上で、霊的な説明をもって応じているというのは、信頼できる姿勢に違いありません。
海図を持たない航海のようなおぼつかなさを感じられるかも知れません。だからこそ、キリスト教倫理を構築している最中の水先案内人パウロに従っていくことにしましょう。パウロは、歴史、文化、そして慣習の異なるキリスト者の考え方を受け容れる心の広い人です。神に喜ばれる信仰者の倫理観とはどのようなものか、読み取りましょう。
Ⅰ 男は女に触れない方がよい
コリントの信徒への手紙 一 7:1-2――
そちらから書いてよこしたことについて言えば、男は女に触れない方がよい。
心をざわつかせるような言葉がいきなり出てきました。序.で解説したように、「男は女に触れない方がよい」というのは、元々はコリント教会の一部の人々の見解です。では、パウロはこの見解について、どのように考えているのか、知りたいことでしょう。
詳しくは、Ⅳ.で説き明かしますが、パウロは例外として「男は女に触れない方がよい」と勧めることがあると言います。しかし、コリントの一部の人のように、これを律法として絶対視するとは考えていません。その人たちから見れば、パウロは中途半端だと感じたかも知れませんが……。
「そちらから書いてよこしたことについて言えば」……パウロは今、結婚と性生活「について」助言しようとしています。そこで、それを「書いてよこしたそちら」の事情を知ることから始めねばなりません。頭から、「男は女に触れない方がよい」との断言は間違っていると決めてかかってはなりません。
ただ残念ながら、コリントの信徒への手紙の本文に、その事情が打ち明けられているわけではありません。従って、当時コリントの町ならびに教会を取り巻いていた状況から、推論してみましょう。
一つは、「男は女に触れない方がよい」との主張の背景に、禁欲主義があるということです。「みだらな行いを避ける」(Ⅰコリント7:2)ことを金科玉条としている人々がいました。そこからさらに、性的な欲望を抑えるために独身を貫こうとする人々が現れました。
その背景には、ケンクレアイという外港(ローマ16:1)を持つコリントの繁栄により物欲に走り自由を謳歌していた多数の人々の存在があります。そして、町全体の風紀が乱れていたことへの反動として、禁欲主義や独身主義を是とする人々が生まれました。
また、信仰的に見逃せないこととして、終わりの日が近いという終末論の広まりが考えられます。これに従えば、終わりの日を迎えるのにふさわしく、身を清め、節度ある生活を保つのを第一とする考え方になります。極力今の状態のままで、終末の到来に、つまり、再臨のイエス・キリストをお迎えすることに集中するということです。独身者はそのまま結婚しないこと、また、既婚者は性生活を抑制することが推奨されることになります。
禁欲や独身などの主義主張、また、終末論の影響が大波のようにコリント教会に流入しています。まさに混沌とした状態です。その上、「わたしはパウロにつく」「わたしはアポロに」「わたしはケファに」「わたしはキリストに」などと言い合っていれば(Ⅰコリント1:12)、収拾がつかなくなります。
パウロは「頭ごなしに、あなたがたの主張を切り捨てたりしませんよ」との寛容な姿勢を言い表しました。それから、「しかし」との逆接の詞と共に、「男は女に触れない方がよい」と主張する人々への回答が示されます。
Ⅱ 夫は妻に、その務めを果たしなさい
コリントの信徒への手紙 一 7:3-4――
2 しかし、みだらな行いを避けるために、男はめいめい自分の妻を持ち、また、女はめいめい自分の夫を持ちなさい。3 夫は妻に、その務めを果たし、同様に妻も夫にその務めを果たしなさい。
パウロは、「男は女に触れない方がよい」との一つに意見に対し、広い見地から回答しています。すなわち、「男と女」に対し、結婚の幸いとその義務について説いています。
確かに、「男は女に触れない方がよい」かどうかは、男性のみならず女性の思いにも配慮すべき事柄です。いわば男女の関係性が問われています。男女いずれにせよ、一方的な力による支配は許されません。
「みだらな行いを避けるために」結婚しましょう、と言うことに違和感を覚えるという人がいるでしょうか? 神の祝福のもとに、「こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる」(創世記2:24)という結婚が成し遂げられます。従って、神の恵みによる出来事を越えて、「~するため」という人間の目的を第一にすべきではありません。
幸いな時も災いの時も、神の祝福にあずかるとの信仰を尊ぶ中で、「しかし」、夫と妻が「~するため」という目的を設定し力を合わせる、ということをパウロは述べたいのでしょう。
さらにパウロは、「男は女に触れない方がよい」との主張の背景を見通していました。それは、性について放縦な者たち(Ⅰコリント5:1)への反動として、禁欲や独身に関わる主義主張が蔓延していたということです。
それら両者はいずれも、「キリスト者の自由」を勘違いしていました。すなわち、一方は、より緩やかな方へ、他方は、より厳しい方へ、と両極端な態度をとっていました。自分たちの判断で、奔放と厳格、その一方向のみに舵を切っていたのです。
その結果として、神から自由が与えられていると同時に、神から「務め」が託されていることを顧みなくなりました。パウロが、「夫は妻に、その務めを果たし、同様に妻も夫にその務めを果たしなさい」と諭しているのは、そのためです。ここで言う「務め」とは、「義務」あるいは「支払うべき善意」(F.F. ブルース)と言い替えられるほど、強いニュアンスを含んでいます。
結婚生活において、夫婦互いに「自由」があるとすれば、当然果たすべき「義務」もあるはずです。いずれにせよ、キリスト者の結婚は神の祝福のもとに置かれています。神は、わたしたちが「自由」を享受し、感謝して「義務」を果たす、その全体を見守っておられます。
パウロは、夫婦間における「自由」と「義務」との子細には触れずに、それぞれに「その務めを果たしなさい」との原則を示しています。そうして、夫婦が協働して、神の栄光を現すならば、自ずから「みだらな行いを避けられる」ことでしょう。
ここで旧約聖書から、男たちと女たちが信仰的に「自由」と「義務」を体現している或る出来事を取り上げましょう。
Ⅲ 女たちは女たちだけで嘆く
12 大地は嘆く。各氏族は各氏族だけで、ダビデの家の氏族はその氏族だけで、その女たちは女たちだけで、ナタンの家の氏族はその氏族だけで、その女たちは女たちだけで、13 レビの家の氏族はその氏族だけで、その女たちは女たちだけで、シムイの氏族はその氏族だけで、その女たちは女たちだけで、14 その他の氏族はそれぞれの氏族だけで、その女たちは女たちだけで嘆く。
ゼカリヤ書12章は、紀元前4世紀頃に書かれた文書です。バビロン捕囚から解放された後、ユダヤの地で人々がどのような信仰をもって生きていたのかを知ることができます。
主イエス・キリストのエルサレム入城を預言している言葉、「娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者 高ぶることなく、ろばに乗って来る 雌ろばの子であるろばに乗って」(9:9)が、この文書の中にあります。
またゼカリヤ書には、主イエス・キリストの十字架の死を預言する言葉、「わたしはダビデの家とエルサレムの住民に、憐れみと祈りの霊を注ぐ。彼らは、彼ら自らが刺し貫いた者であるわたしを見つめ、独り子を失ったように嘆き、初子の死を悲しむように悲しむ」(12:10)もあります。
すなわち、初代教会の人々は、カルバリの十字架の丘で、ゼカリヤの預言が神の計画通りに成就した、と信じた(ヨハネ19:37)ということです。主イエス・キリストが「十字架につけられ、死にて葬られた」(使徒信条)のを「目撃した」(同上19:35)というのは、わたしたちの信仰の礎となりました。
さて、「独り子を失ったように嘆く」というエルサレムの住民の様子が、上記のゼカリヤ書12:12-14に描かれています。一人ひとり、その大いなる悲しみに連なるかが問われている厳粛な場面になります。これこそ、どのように男たちと女たちとが信仰的に「自由」と「義務」を体現しているのか、注目に価するものになっています。
「その日」(ゼカリヤ書12:9,11)というは、終わりの日を指し示しています。いわば聖なる祭日です。福音書には、主イエスが十字架の死を遂げられた「その日」に、主イエスとその状況を「見つめていた」女性たちが登場します(マルコ15:40,47)。彼女たちの真剣な目は、主イエスの死と葬りに対する畏れ、神の大いなる御業に対する畏れを現しています。
「大地は嘆く …… 氏族はそれぞれの氏族だけで、その女たちは女たちだけで嘆く。」……ここに、「マグダラのマリア、小ヤコブとヨセの母マリア、そしてサロメ」の先駆者とも言うべき、「女たち」がおりました。
「女たち」は男たちとは別に喪の作業を行いました。「氏族はそれぞれの氏族だけで」との言い回しから、強制されたのではないことがうかがわれます。王や祭司からの命令に従ったのではありません。「女たち」は「ダビデの家の氏族」はじめ嘆く者たち全体に連帯しつつも、個別に嘆き悲しみました。
そこで、都エルサレムの「女たち」は「彼ら自らが刺し貫いた者を見つめ、独り子を失ったように嘆き、初子の死を悲しむように悲しみ」ました。都中が喪に服す中で、「シオンの娘」(ゼカリヤ書9:9)の存在は、さぞや際立っていたことでしょう。
こうして、「女たち」はやがて来たる救い主を待ち望むようになりました。男性たちとは別に、一人ひとりが、「独り子」の証言者として生きる者となりました。彼女たちは神の与えてくださる「自由」を受け止め、感謝して「義務」(務め)を果たす先駆けとなったのです。「マグダラのマリア」たちに受け継がれました。
Ⅳ 自分を抑制する力がないのに乗じられないように
コリントの信徒への手紙 一 7:5-6――
5 互いに相手を拒んではいけません。ただ、納得しあったうえで、専ら祈りに時を過ごすためにしばらく別れ、また一緒になるというなら話は別です。あなたがたが自分を抑制する力がないのに乗じて、サタンが誘惑しないともかぎらないからです。6 もっとも、わたしは、そうしても差し支えないと言うのであって、そうしなさい、と命じるつもりはありません。
冒頭の「男は女に触れない方がよい」との主張に対し、熟慮の上でのパウロの回答が示されます。「互いに相手を拒んではいけません」というのは、必ずしも「男は女に触れない方がよい」とは言えないということです。つまりは、当事者の「男と女」の同意なしに、禁欲主義を持ち込むなということです。神の祝福によって解き放たれた結婚生活は、原理原則または固定観念とは相容れないものです。
それでは、元より夫婦が協働し家庭を造り上げていく、その成長を、外から阻んでしまうことになります。「ただ、納得しあったうえで」と言うパウロのように、実情を見据えて助言することが求められます。しかも、その夫婦には、キリストの土台の上に家を建てる(Ⅰコリント3:10)という「務め」があります。
「ただ、納得しあったうえで、専ら祈りに時を過ごすためにしばらく別れ、また一緒になるというなら話は別です」……先に、「必ずしも『男は女に触れない方がよい』とは言えない」と述べましたが、ここでは、「男は女に触れない方がよい」ことが当てはまる例外が示されています。
この点に限って言えば、パウロはコリント教会の一部の人々の禁欲主義を認めています。というのも、パウロの目的は、考えの異なる人々を論破することではなく、多くのキリスト者から承認される倫理を確立することにあるからです。
元々、「専ら祈りに時を過ごすためにしばらく別れ……」というのは、例外的な出来事ではありません。というのも、主イエスご自身がしばしばひとりで祈っておられたからです(マタイ14:1、ヨハネ6:15)。そのようなひとりで行う密室の祈りは、夫婦生活の中でも推奨すべきものであります。
「あなたがたが自分を抑制する力がないのに乗じて、サタンが誘惑しないともかぎらないからです」……確かに、「男は女に触れない方がよい」との主張は極端であり、禁欲主義はキリスト教倫理と相容れないところがあります。なぜなら、キリスト者の自由のもとにある男女の関係を束縛することになるからです。
しかし同時に、パウロは、「自分を抑制する力がない」人間の弱さをしっかりと把握しています。「サタンの誘惑」に乗せられるならば、「男が女に触れる」という性行動が制御できなくなることを、彼は懸念しています。
性欲にせよ、食欲にせよ、自分が自分を律するというのでは立ち行かなくなる(箴言6:29,32、創世記25:33-34)のは、自明です。だからこそ、夫婦共々に、ひとりで「専ら祈りに時を過ごす」ことが大切なのです。それは、神の喜ばれる節制であって、いわゆる禁欲主義ではありません。
ここで皆さんは、このように助言するパウロは結婚した経験があるのか、と問われるでしょうか? 少なくとも、パウロは現在、独身です(Ⅰコリント7:8,9)。ただし、キリスト教に回心する以前に、パウロが結婚していたかどうかについて、何も情報がありません。結婚の経験の有無で、わたしはパウロの助言を評価するつもりはありません。むしろ、パウロは夫婦が喜びも悲しみも分かち合って暮らしている、その実情に寄り添っている、ということを指摘したいのです。それが、パウロの繊細な言葉遣いに表れています。
「もっとも、わたしは、そうしても差し支えないと言うのであって、そうしなさい、と命じるつもりはありません」……5節の「ただ、納得しあったうえで」、そして6節の「そうしても差し支えない」との言い回しによって、波風の立つことが無いとは言えない結婚生活へのパウロの洞察が表されています。すなわち、「納得する」ならびに「差し支えない」(譲歩・容認する)というギリシア語には、「シン」(シンクロナイズ〔同調・同時化〕のシン)がさりげなく使われています。パウロはデリケートな夫婦の生活を知悉しています。
このような言葉遣いの内に、「共に(シン)生きる」夫婦の結婚生活が表明されています。実際、場面場面で夫婦が互いに……場合によっては時間をかけて……「納得したり譲歩したり」する中で、結婚は成り立つものではないでしょうか。
「命じるつもりはありません」という、やや謙虚なパウロの姿勢には、段落の結びを際立たせる効果があります。コリント教会の「父」(設立者 Ⅰコリント4:15)と自認するパウロ以上に、その信徒一人ひとりを守り支えているのは……。
Ⅴ 人はそれぞれ神から賜物をいただいている
コリントの信徒への手紙 一 7:7――
わたしとしては、皆がわたしのように独りでいてほしい。しかし、人はそれぞれ神から賜物をいただいているのですから、人によって生き方が違います。
序.で、コリント教会の一部の人々の主張を引用した上で、「しかし」(デ)と切り返すパウロの論法を紹介しました。ここでは、より強い反意を示す「しかし」(アッラ)が使われています。
すなわち、自分自身の願いを、「しかし」(アッラ)によって切り返して、神の御業を指し示しています。
「わたしとしては、皆がわたしのように独りでいてほしい」……パウロは「神からの賜物」として、独身で伝道する生活を受け取っています。「わたしのように……してほしい」と言って、自分の願いが神に由来していることをほのめかしています。もちろん、皆に「そうしなさい、と命じるつもり」で言っているのではありません。
図らずもパウロは独身者として、神の喜ばれる節制を選び取っています。それは決して禁欲主義ではありません。そのことはパウロの姿勢が、「共に(シン)生きる」夫婦たちの結婚生活、その喜びや悲しみと「共に・一緒に」あることからも分かります。
「人はそれぞれ神から賜物をいただいているのですから、人によって生き方が違います」……パウロは、一つの生き方に縛られるような人ではありません。「人によって生き方が違う」ことを認めていました。というのも、キリスト者一人ひとりが「それぞれの神からの賜物」を携えて、人の思いをはるかに超えた終わりの日を迎えることが第一だったからです。
再臨の主イエス・キリストにお会いすることをめざして、パウロは “ 霊 ” の導きによって自分の生活を整えようとしていました。それ故に彼には、「いついかなる場合にも対処する秘訣を授けられて」いました(フィリピ4:12)。だからパウロは、当代屈指の人生相談の名回答者でありました。
結
パウロは、コリントの信徒への手紙 一 7章の新しい単元の冒頭で、結婚と性生活の問題を取り上げました。彼はキリスト教倫理の確立に取りかかっています。7節の短い段落ながら、そこには、倫理の全体像が見通せるような、霊的な説明が展開されていました。このようなパウロ書簡を参照されるならば、きっと善い倫理・集成がつくられるに違いありません。そうすれば、各教会において、「それぞれの神からの賜物」が十分に活用されることでしょう。
何より、パウロは「天の国のために結婚しない者」(マタイ19:12)でありました。彼は、神からの祝福と恵みを豊かに受けていました。だからこそ、彼自身は独身の「賜物」にあずかりながら、彼とは異なる生き方をしているさまざまなキリスト者を思いやり助言することができました。
夫婦が難題を抱えているときにも、時間をかけて「納得したり譲歩したり」しながら、神の栄光を現すように、パウロは見守っています。
パウロは、「自分を抑制する力がないのに乗じて、サタンが誘惑する」という人間の負の側面を把握しています。そこで、すでに誘惑されてしまった人、みだらな行いを犯した人(Ⅰコリント5:1)を見捨てたりしません。なぜなら、パウロは忍耐と希望をもって、終わりの時の到来を待ち望んでいるからです。
主イエスが見失われた羊を捜し回っておられます(ルカ15:5)。日夜、神の救いの御手が小暗き世に差し伸べられています(ローマ10:21)。その間にも、わたしたちにはこの世で、さまざまな人間関係の中で、隣人への「果たすべき務め」があります(Ⅰコリント7:3)。
現代にふさわしいキリスト教倫理を建て上げること、その大事な「務め」がパウロからわたしたちに譲り渡されています。
Y
* 要 点 *
パウロは性に関する諸問題について、率直に意見を述べています。
注目すべきは、その内容以上に、パウロの回答の出し方です。
パウロは結婚している人、独身の人、放縦な人、そして禁欲主義的な人などの考え方や背景を把握しようと努めています。「納得する」や「譲歩する」など、人の気持ちの側面も見逃していません。夫婦の関係が「祈り」によって成長するのを見守っています。
パウロは “ 霊 ” の導きを通して、性に関する問い尋ねに答えています。個別の問題を検討するとき、パウロは終わりの日を待ち望み、今は「神からの賜物」あふれる教会の建設と伝道に励んでいます。
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〈説教の要約〉
2024年 12月29日 日本キリスト教団 茅ヶ崎香川教会
降誕節 第1主日
旧約聖書 創世記 2章24節(P.3)
新約聖書 コリントの信徒への手紙 一 6章15節~20節(P.306)
説 教「あなたがたの体は聖霊が宿ってくださる神殿である」 小河信一牧師
説教の構成――
序
Ⅰ 自分の体はキリストの体の一部である ……Ⅰコリント6:15
Ⅱ 主に結び付く者は主と一つの霊となる
……Ⅰコリント6:16-17 + 創世記2:24
Ⅲ 自分の体に対して罪を犯している
……Ⅰコリント6:18-19
Ⅳ 自分の体で神の栄光を現しなさい
……Ⅰコリント6:20
序
使徒パウロは今、地中海世界の諸教会を巡回伝道しています。さまざまな民族や文化・慣習に出合う中で、キリスト教倫理を確立しようとしています。その際、旧約聖書に記載されているユダヤ人の律法や倫理観も一助となりました。そこには、およそ一千年にわたる選民イスラエルの生活規範と知恵が収められています。
さて、キリスト教倫理を確立していくときに、最も丁寧に考察しなければならないのは、一体何でしょうか? それこそ、コリントの信徒への手紙 一 1:10-6:20の内容や展開が参考になります。
それは、神の御前にあって、主イエス・キリストとの関係において、人間とはどのような者なのか、ということです。パウロはコリント教会の人々と向き合う議論の端々で、その点について言及しています。
後で、本日のテキストに従ってその要諦を提示しましょう。ただし、キリスト教の観点から人間とはどのような者なのかを知ること、つまり、この世にある信仰者の実体をつまびらかにしていくことには、痛みが伴います。悔い改めるべき問題が暴き出されます。すでにパウロは、ねたみ、争い、裁判ざた、高慢、偶像崇拝、姦淫、貪欲、窃盗、泥酔、陰口(Ⅰコリント3:3、6:7-10)などの罪咎を列挙しています。
しかも当然、どんな罪を悔い改めるのか、は人によって異なります。ということは、キリスト者同士でも、自分と他の人との比較や批判が生じかねないということです。自分と他の人の間で、ねたみや争いがわき起こって、罪咎がいや増すことほど、神を悲しませることはありません。ましてや、無垢で無実な人の献身的な行為が、中傷され罪ありとされるならば……。
パウロは決して規則作りを急いではいません。旧約律法に勝る、主イエス・キリストの掟を差し出して、コリントの人々を論破しようとはしていません。そうではなく、まず、神によって救われた信仰者とは、一体どのような人なのか、という中心命題を掘り下げています。
わたしたち・信仰者は「キリストの体の一部」(Ⅰコリント6:17)と言われるほどに、主イエス・キリストの恵みにあずかっています。わたしたちがその「一部」(肢体・肢)であるとは、「体」を持つ人格的存在であるということです。
言い換えれば、わたしたちは神のかたちに似せて造られ、キリストの兄弟とされている(創世記1:27、マルコ3:24、ヘブライ2:11-12)ということです。そのように、神は人間を造り、守り、支えてくださっています。それ故に、わたしたち・キリスト者の最も大きな目的は、「神の栄光を現す」ということです。
わたしたちは皆、「キリストの体」全体の「一部」であります。その一人ひとりが、神から賜物が与えられ、独立した意志をもって生きています。そうして、「神の栄光」を映し出しながら、キリスト者としての個性を輝かせています。
そのようなキリスト者がこの世で生きていくとき、大切な課題は何でありましょうか?
パウロによれば、それは、罪を避けることとキリスト者の自由(Ⅰコリント6:12-14)を享受することです。そこに、人生における闇と光との闘いがあります。だからこそ、パウロは時に、厳しく禁止の命令を出し、時に、「すでに自由にされた」(ローマ6:18)人生の豊かさを教えようとしています。
Ⅰ 自分の体はキリストの体の一部である
コリントの信徒への手紙 一 6:15――
あなたがたは、自分の体がキリストの体の一部だとは知らないのか。キリストの体の一部を娼婦の体の一部としてもよいのか。決してそうではない。
パウロは、どのように「みだらな行い」(Ⅰコリント5:1,9-10、6:9,18)に対処するのか、という課題に切り込んでいます。これは現代人にもよく分かることですが、男女の性に関わる振る舞いというのは、人間の自由と罪の回避とがせめぎ合っているデリケートな問題です。
具体的に言えば、「わたしには、すべてのことが許されている」(わたしは何をするのも自由である Ⅰコリント6:12)とのコリント教会の一部の人々の主張によれば、自ずから性道徳の規範は緩やかになります。近親相姦のような「みだらな行い」は律法に照らして違犯している(レビ記18:8、申命記23:1)と諫めても、「あなたは古い」、「個人の自由を侵害するな」と反論されかねない状況にありました。
パウロは性道徳の向上を見据えながら、ここで、神によって救われた信仰者とは、一体どのような人なのか、との中心命題を明示しています。
「あなたがたは、自分の体がキリストの体の一部だとは知らないのか」……「体」(ギリシア語:ソーマ)というのは、この段落の鍵語であります(Ⅰコリント6:15,16,18,18,19,20)。この用語によってパウロは、心や魂と「体」とを区分しているのではありません。
そうではなく、「体」というのは、身体的・人格的存在としての人間を指し示しています。つまり、人間の生きていること全体、人の人格全体に関わる観点から、キリスト者とは何かを捉えようとしています。言い換えれば、「体」という実体……性欲や食欲などを含む……に則して、キリスト教倫理を掘り下げようとしているのです。それはまことに理に適っているに違いありません。
わたしたち・信仰者は、「キリストの体」なる教会に属しています。一人ひとりは、その「一部」であります。そのことを、主イエスは「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である」(ヨハネ15:5)とのやさしい譬えで教えてくださいました。確かに、「枝」と呼ばれた方が、「一部」と言うより実感できるでしょう。
冒頭で聖なる「キリストの体」を持ち出して、次節以下で、その「一部」であるキリスト者の「体」を取り上げるという運びになっています。心憎いまでの巧みさです。裏を返せば、「みだらな行い」に浸っている者を、「娼婦の体の一部」の状態から、聖別された「キリストの体の一部」へと回復するのは難しいということなのです。
原文に即すると、「キリストの体の一部を取り去って、娼婦の体の一部と成す」という強意的表現になっています。「取り去って……成す」という過程には、サタンの誘惑と人間の堕落が内在しています。「決してそうではない」(断じてそうあってはならない)とのパウロの叱責以上に、父・子・聖霊の御力による奪還・救出を祈り求めねばなりません。
パウロは旧約聖書を援用しつつ、慎重に議論を進めていきます。
Ⅱ 主に結び付く者は主と一つの霊となる
コリントの信徒への手紙 一 6:16-17――
16 娼婦と交わる者はその女と一つの体となる、ということを知らないのですか。「二人は一体(=一つの肉)となる」と言われています。17 しかし、主に結び付く者は主と一つの霊となるのです。
創世記2:24――
こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる。
パウロはここで、アダムとエバという最も原初的な人間関係、すなわち、男女の結婚、夫婦の結びつきから、「みだらな行い」に伴う人間関係の問題を解きほぐそうとしています。
およそ一千年にわたる選民イスラエルの生活規範を視野に入れていることからも、より良いキリスト教倫理を確立しようとしているパウロの意気込みが伝わって来ます。カインとアベル(兄弟)、サラとハガル(女性)、ヤコブとヨセフ(親子)などの創世記の物語に表されている確執と和解とは、今日のわたしたちの交わりの鑑となっています。
確かに、「娼婦と交わる者」と「娼婦」との戯れの交わりは、「男」と「女」との結婚と同列に論じられるものではありません。一方では、神の災いが下り、他方では、神の幸いが与えられます。個別の問題としては、「みだらな行い」と結婚とでは、語るべき戒めや教えの内容も異なります。
しかしそれならば、パウロは旧約聖書まで引用して、何を訴えようとしているのでしょうか?
17節の「しかし」の前後に分けて、二つ指摘しましょう。
一つ目は、「娼婦と交わる者はその女と一つの体となる」という関係の根深さが、「二人は一体となる」との結婚による絆に類比されうるということです。もちろん、前者は一刻も早く解消すべき関係であり、後者は神の永久の祝福のもとにある関係である、という違いがあります。しかし、「娼婦と交わる者」と「娼婦」の交わりは「体」を「一つ」にするという点は、「男」と「女」との結婚も同様です。
そのような論理飛躍のやや大きい内容において、パウロの強調点は、「みだらな行い」を為す「二人は一体となる」、すなわち、「二人は一つの肉となる」〔直訳〕という点に置かれています。
「体」という用語がさらに、生々しい「肉」(ヘブライ語 バサル;ギリシア語 サルクス)という言葉に言い替えられています。パウロの真意は、「しかし、わたしは肉の人であり、罪に売り渡されています」(ローマ7:14)との一句を引用すれば、氷解することでしょう。「肉の人」は「霊の人」または「信仰に成熟した人」と対極にあります(Ⅰコリント2:6,15)。「肉の人」は「この世の滅びゆく支配者たち」(同上2:6)と一体化するような、抜き差しならぬ「肉」の関係を結んでいます。
要するに、「娼婦と交わる者とその女」は「一つの肉」となって、「罪に売り渡される」というのが、パウロの訴えたかった点です。「一つの体」ならぬ「一つの肉」が密着した状態から、「キリストの体の一部」に回復される道筋を、パウロは「しかし」以下で示しています。
二つ目の主張は、「しかし、主に結び付く者は主と一つの霊となる」との一文に明快です。
「一つの肉」から「一つの霊」へ……筆の運びが冴えわたっています。片や、腐りかけている「一つの肉」、片や、新鮮な息吹の吹きめぐる「一つの霊」、どちらを選び取るべきか、が明瞭になっています。
「しかし」以下の文に、「娼婦と交わる者とその女」や「男と女」という関係が直接的に出てこないのは、なぜ、というのは良い質問です。それは、わたしたち・信仰者は、一つの「体」として「キリストの体の一部」とされている、そこにわたしたちの存在の根拠があるからです。
分かりやすく言えば、「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である」との信仰告白が第一で、その後に、「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」(ヨハネ13:34)との善い行いが続きます。信仰告白と愛の実践が一つとなっているところに、キリスト者の存在の根拠が在ります。
Ⅲ 自分の体に対して罪を犯している
コリントの信徒への手紙 一 6:18-19――
18 みだらな行いを避けなさい。人が犯す罪はすべて体の外にあります。しかし、みだらな行いをする者は、自分の体に対して罪を犯しているのです。19 知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。
パウロは健全にも、キリスト教の中心命題を軸として、各論に立ち寄りつつ、新しい倫理を打ち建てようとしています。18節-19節の文脈では、「みだらな行い」の罪についての説き明かしから、一体「あなたがたの体」はどのようなものか、との命題へと転じています。
まず、「みだらな行い」の罪についての説き明かしの箇所を読んでみましょう。ここでパウロは、「みだらな行い」の罪を深く認識するために、「自分の体の外で犯す罪」と「自分の体の中に向かって犯す罪」との類別を試みています。或る事柄を理解するために、対象になっているものを細分化するというのは、意義あることです。
旧約聖書において例えば、敵意を抱き憎しみを込めて人に危害を加えた場合と、故意にではなく思わず激昂して人に危害を与えた場合とを峻別したうえで、刑罰の重さが決められています(民数記35:20-22、申命記19:4-6)。それが、犯行への予防効果になることもあるでしょう。いずれにしても、パウロによる罪の類別は、わたしたちが罪を深く悔い改めるきっかけとなります。
「自分の体の外で犯す罪」と「自分の体の中に向かって犯す罪」……一体どういうことなのだろうと思われることでしょう。論拠となる文を読み返してみましょう。
「人が犯す罪はすべて体の外にあります。しかし、みだらな行いをする者は、自分の体に対して罪を犯しているのです」……「人が犯す罪はすべて」というのは言い過ぎのようにも思われますが、パウロの意図は、「みだらな行い」の罪を特徴づけることにあります。それほど、「みだらな行い」はこれ以外「すべての罪」と比べて、深刻な問題を孕んでいると、パウロは見ています。
ガラテヤの信徒への手紙5:19-21で、15の罪のカタログが列挙されている、その冒頭には、「姦淫、わいせつ、好色」の三つが置かれています。「みだらな行いをする者は、自分の体に対して罪を犯している」とのパウロの憂慮が背景にあるのは間違いないでしょう。「仲間争い」や「泥酔」も、「自分の体の中に向かって犯す罪」で、罪人の身心を疲弊させる(参照:H.-D.ヴェントラント)のでは、という反論はさておくことにしましょう。というのも、喫緊の課題は、「みだらな行い」という罪の本性を見極めることにあるからです。
パウロの生きていた時代に勝って、「みだらな行い」が「自分の体の中に向かって」、どれほど大きな悪影響を及ぼすのかについて、今日わたしたちは痛感させられています。性暴力の被害によって、パウロが「体」と称している、身体的・人格的存在としての人間がどれほど傷つけられるのかについて、強い関心が寄せられています。
この点では、ギリシアの町コリントの教会における「みだらな行い」の問題を取り上げ、キリスト教的観点からその罪性を訴えたパウロには、先見の明があったと言えましょう。
「罪人の頭」(Ⅰテモテ1:15)なるパウロによって、「みだらな行い」というのは、いわば筆頭格なる罪であることが喝破されました。それは、「体」を汚し、その共犯者または被害者をも「肉」の一体化によって巻き添えにしてしまいます。そうして、「キリストの体」なるコリント教会の「一部」(枝・肢体)の闇を白日のもとにさらけ出しました。
それは、コリント教会の大部分の人々にとって、知りたくもない事実だったかも知れません。しかし、一体「あなたがたの体」はどのようなものか、との中心命題を論じるためには、必要なことでありました。それによって、“ 霊 ” に導かれ畏れをもって、神の言葉を聴き取る姿勢が整えられました。
「あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです」……肯定文と否定文による対照によって、主旨が明瞭にされています。主文とその但し書きという構成になっています。
重要なのは、「あなたがたの体」は「聖霊」の住まう「神殿」であるということです。すでに述べたとおり、「あなたがたの体」とは、信仰者の身体的・人格的な存在を指しています。
いちばんの注目点は、「神の神殿は聖なるものだからです。あなたがたはその神殿なのです」(Ⅰコリント3:17)との教会論を基盤として、個々人のキリスト者が「神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿」と言われている点です。
コリントの信徒への手紙 一 3章では、パウロは彼が土台を据えた神の建物なる家、すなわち、教会について論じていました。その中で、パウロは「あなたがた」が集って礼拝している所が「聖なる神殿」であると宣言しました。ところが6章の最後に、パウロは教会が「神殿」であると共に、信仰者一人ひとりが「神殿」であると告知しました。
一方、教会が「神殿」であるのは、「イエス・キリストという土台が既に据えられている」(3:11)からです。他方、信仰者が「神殿」であるのは、「神からいただいた聖霊が宿ってくださる」からです。双方合わせれば、教会とその「体」である信仰者には、「イエス・キリスト」・「神」・「聖霊」によって、聖性が保たれているということになります。それによって、俗なる汚れと罪から切り離されているのです。
そのように、三位一体の神の御力によって罪人が聖別されているわけですから、「あなたがたはもはや自分自身のものではない」というのは当然の帰結になります。
キリスト讃歌の中に、洗礼者ヨハネについて、「彼は光ではない」(ヨハネ1:7)との但し書きが出てきます。ここで大切なのは、わたしたち・信仰者は、イエス・キリストの光に照らし出されて、自分は何者なのか、理解するということです。この種の自己否定は、いわゆる自己肯定感を低めることにはなりません。むしろ、主イエスに自分が愛されているという信仰により、「キリストの体の一部」として確固たる自己が築かれます。
Ⅳ 自分の体で神の栄光を現しなさい
コリントの信徒への手紙 一 6:20――
あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい。
前節を受けて、なぜ「あなたがたはもはや自分自身のものではない」のか、の理由が昭示されます。
「あなたがたは、代価を払って買い取られたのです」が、その答えになります。
「代価を払って」というのは、端的にはイエス・キリストの十字架と復活の御業を指し示しています。より正確には、主イエスが罪を犯し続けている人間を救うために、十字架上で血を流し犠牲になられたということです。罪の奴隷だった者(ローマ6:17)が、十字架の血という身代金によって、「買い取られ」、新しい主人に結びつけられました。
その点で、わたしたちが「キリストの体の一部」(Ⅰコリント6:15)とされているのは、神の無償の恵みによるものです。今や、一羽の雀ほど(ルカ12:6)に小さき「一部」(枝・肢体)は「神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿」とされています。
そこで、「あなたがたは」何を為すべきなのか、ということで、パウロは次のように結びました。
「だから、自分の体で神の栄光を現しなさい」……文脈に即せば、「自分の体」というのは、ひと度、娼婦の「体」と交わって、「一つの肉」となってしまったものです。罪と死の縄目にがんじがらめになったものです。汚れが染みついて、見るも無惨な状態になってしまいました。
しかし、神はこの世に、イエス・キリストを遣わし、そのような罪人を「代価を払って買い取られ」ました。救われた罪人の「体」は、「神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿」に変えられました。今や「まこと光」(ヨハネ1:9)なるイエス・キリストが、ヨハネのように、わたしたちを「ともし火」あるいは「世の光」として用いてくださいます(ヨハネ5:35、マタイ5:14、Ⅱペトロ1:19)。
さあ、「自分の体で神の栄光を現そう」ではありませんか!
結
「自分の体で神の栄光を現しなさい」……これが、わたしたちのキリスト教倫理において掲げるべき目的です。そこに、キリスト者のほんとうの自由があるのではないでしょうか。というのも、わたしたちは「一つの肉」の塊状態……罪咎の連鎖……から、個性を持つ「一つの体」として解放されたのですから。
この「神の栄光」のもとで、隣人を心から愛することを第一とするキリスト教倫理が確立されることでしょう。暗がりと不条理に満ちた、この世を生きるしるべとして、わたしたちの新しい倫理・道徳が示されますように!
〈説教の要約〉
2024年 12月22日 日本キリスト教団 茅ヶ崎香川教会
待降節 第4主日(降誕前第1主日) クリスマス礼拝
新約聖書 ヨハネによる福音書 1章29節~34節(P.164)
説 教「この方こそ神の子である」 小河信一牧師
説教の構成――
序
……ヨハネ1:29
……ヨハネ1:32-33
Ⅳ 四人目の者は神の子のような姿をしている
……ダニエル書3:25
Ⅴ この方こそ神の子である
……ヨハネ1:34
結
序
今年は、待降節、そしてこの降誕日の礼拝を通じて、ヨハネ福音書1章を読んできました。
一方、マタイ福音書とルカ福音書では、占星術の学者や羊飼いたちが、赤ちゃん・乳飲み子としてお生まれになった主イエスに出会い、御子を拝むという形で、その降誕が祝われています。他方、ヨハネ福音書では初めに、キリスト讃歌(1:1-16)がうたわれる中で、主イエスの受肉と栄光(1:14)とが闇の世に映し出されています。人物として登場するのは、イエス・キリスト、ヨハネ、そしてモーセ(律法制定者 1:17)の三者のみです。
ヨハネの教会は、1章の神学的または歴史的プロローグ(序文)によって、初めに、イエス・キリストがどんなお方であるか、見て知って信じたのであります。彼らはこのプロローグを通して、信仰を再確認しました。
その点でヨハネ福音書・冒頭の言葉は、新しい時代を開く「初めての子」(ルカ2:6)を囲んで読むにふさわしいものであります。その賛歌によって、御子から人々に恵みが分かち与えられます。
では、本日のクリスマス礼拝において、その歴史的プロローグ(ヨハネ1:19-51)から一つの段落を取り上げましょう。
Ⅰ 見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ
ヨハネ福音書1:29――
その翌日、ヨハネは、自分の方へイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。
「その翌日」とは具体的には、ヨルダン川の向こう側・ベタニヤで、ヨハネが祭司とレビ人から尋問された(ヨハネ1:19-28)、次の日ということです。その「日」がケ(日常)だとすれば、「その翌日」はハレ、すなわち、ヨハネが神によって慰められた特別な「日」でありました。
「その翌日」は、ヨハネにとってはクリスマスに相当する「日」でありました。というのも、この世に誕生された主イエスを初めて「見た」からです。これ以前に、主なる神からイエス・キリストについて告げ知らされていた(ヨハネ1:15,30)かも知れませんが、現実にヨハネが主イエスに出会ったのは、この場面が最初になります。
野宿していた羊飼いたちが天使に呼び出されて、主イエスを「見た」(ルカ2:17)ように、ヨハネもまた、荒れ野から引き出されて、御子を目撃することになりました。しかも、「自分の方へイエスが来られた」、すなわち、主イエスの側からヨハネに近づいていったということです。この「日」に、先駆者と来たるべきお方との人生が交わったのです。「まことの光」(ヨハネ1:9)なる主イエスがヨハネと共におられることによって、ヨハネは「光の中を歩む」者となりました(Ⅰヨハネ1:7)。
「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」……ヨハネはそのような霊的な交わりのもとに、「言」なる主イエスについて証ししました。この重厚な言葉には、主イエスがどのようなお方であるのか、また、福音とは何か、との問いへの答えが含まれています。
そこで、主イエスについてと信仰者についてとの二つの視点から説き明かしましょう。
① 主イエスについて――
「神の小羊」(ヨハネ1:29,36)……ユダヤ人の過越祭で用いられる「小羊は、傷のない一歳の雄でなければならない」(出エジプト記12:5)と定められています。従って、「神の小羊」との呼称をもって、主イエスが無垢であり無実のお方であることが宣言されています。主イエスは「罪を犯されなかった」(ヘブライ4:15)にもかかわらず、罪状書きの掲げられた十字架につけられました(マタイ27:35-37)。
しかしなぜ、無実の主イエスが、十字架刑に処せられたのでしょうか? 苦難の僕の詩に、「彼が刺し貫かれたのは わたしたちの背きのためであり 彼が打ち砕かれたのは わたしたちの咎のためであった」(イザヤ書53:5)というように、その答えが明示されています。
つまり、主イエスは僕の詩の預言の通りに、「わたしたちの罪」のために、嘲りと傷を被り、命を断たれたのであります(イザヤ書53:6,8)。このように、主イエス自らがすべての人の「罪を負った」(イザヤ書53:6,11)のは、人々を罪から助け出すためでありました。主イエスは神の御心により人間に寄り添われました。
「神の小羊」との称号には、そのような深いメッセージが込められていました。それは、ヨハネが「見よ」と呼びかけるに価する、神からの啓示でありました。では、「人の心に思い浮かびもしなかった」(Ⅰコリント2:9)ような啓示を受けて、わたしたちはどのように応答すればよいのでしょうか。
② 信仰者について――
「世の罪を取り除く」……ここで、「世」という言葉を聞き逃してはなりません。すなわち、わたしたちは神に背いて、隣人を裏切り、そうして罪を積み重ねるようになりました。
こうして、多くの人々は “ 霊 ” 的な神の知識に見向きもしなくなり、「この世の滅びゆく支配者たちの知恵」(Ⅰコリント2:6)に洗脳されるようになります。自分は罪を犯すまいと決心しても、この世に生きている以上、罪への誘惑は大波のように自分に押し寄せて来ます。
「世の罪を取り除く」……これは単に、人々の眼前から「世の罪」が消え去るという意味ではありません。「恵みの上に、更に恵みを」(ヨハネ1:16)というように、「取り除く」イエス・キリストは大いなる救いの御業を現されます。これはまさに、わたしたちにとっての福音、喜びの知らせです。
主イエスはわたしたちに代わって、罪の重荷を担われます。このようにして、罪の染みついたわたしたちの汚れが清められます。というのも、過越祭において「小羊」が犠牲として屠られたように、十字架につけられて殺されたイエス・キリストがわたしたちの罪すべてを贖ってくださったからです。御子が御自身の命をもって、わたしたちの罪の代価を支払われたのです(Ⅱコリント6:20)。
主イエスは、「世の罪を取り除く」ために、十字架の死を遂げられ、三日後によみがえらされました。それをわたしたちの側から見るならば、自分の罪が無償で赦されたということになります。まことの救い主によって、わたしたちは救い出されました。そのような罪の贖いと赦しが、わたしたちに「恵み」として与えられています。それが福音です。神の御前にひれ伏し悔い改めをもって、喜んで受け取りましょう。
このように、ヨハネが宣教の最初に神より啓示された御言葉は、イエス・キリストの最後を予告するものとなりました。十字架の苦難を超えて三日後に復活されたイエス・キリストは、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」と呼ぶにふさわしいお方であります。
Ⅱ わたしはこの方を知らなかった
ヨハネ福音書1:30-31 洗礼者ヨハネの言葉――
30「『わたしの後から一人の人が来られる。その方はわたしにまさる。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。31 わたしはこの方を知らなかった。しかし、この方がイスラエルに現れるために、わたしは、水で洗礼を授けに来た。」
キリスト讃歌中のヨハネの証言(1:15)と重ねて、現実に何が起ころうとしているのか、が浮き彫りにされています。特に、ヨハネ自身とイエス・キリストとの関係が、ヨハネのへりくだりのうちに述べられています。
「わたしの後から一人の人が来られる」……わたしたちすべて、天地万物が造られる「よりも先におられた」お方が今、この世に突入して来られました。すなわち、「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」(ヨハネ1:14)という「受肉」の出来事をもって、イエス・キリストがわたしたちの前に現れました。
それは、主イエスがわたしたちとまったく同じ人間として生まれ、わたしたちの重荷である罪と病と死を担われたということを意味しています。「わたしたちの間に天幕を張った〔原意〕」というほどに、わたしたちの日常生活、喜怒哀楽のただ中に入って来られました。人類の歴史の中に誕生の日が刻まれたことによって、わたしたちは毎年クリスマスを迎えられ、深い慰めと大きな喜びを与えられるようになりました。
「わたしはこの方を知らなかった」……不思議にもこの句が3回も、ヨハネの証しの中に繰り返されています(1:26,31,33)。ここには明らかに、ヨハネの特別な意図が隠されています。しかしなぜ、「知らなかった」というような否定的な言辞を弄する必要があったのでしょうか。
これは、「彼(ヨハネ)は光ではなく」(ヨハネ1:8)との否定による宣言で確認したとおりに、自分の分を越えて過大評価してはならないという戒めです。実際に「知らない」以上、「知っている」と言うのは、欺瞞です。真の証言者の言うことではありません。
それに加えて、ヨハネが3回「この方を知らなかった」と強調しているより大きな理由があります。それが、人間にとって全く未知の方、「新しいお方」が来たことを訴えるためです(松永希久夫)。これによって、「太陽の下、新しいものは何ひとつない」(コヘレトの言葉1:9)との嘆息は、「見よ、これは新しいものだ」との歓喜に変えられました。
それ故に、誰しも「この方を知らなかった」ことを恥じることはありません。むしろ、イエス・キリストに出会って、「知る」機会に恵まれたことを感謝すべきなのです。その「新しいお方」によって、わたしたち一人ひとりに新しい人生が切り開かれます。「インマヌエル」と呼ばれる神の御子が、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタイ28:20)と約束してくださいました。この約束によって、わたしたちは人生の最後まで、安んじて主イエスにゆだねることができます。
「この方がイスラエルに現れるために、わたしは、水で洗礼を授けに来た」……ヨハネの証しはイエス・キリストの到来と共に、現実のものとなっていきます。そして、ヨハネが「水で洗礼を授ける」ヨハネは、「聖霊によって洗礼を授ける」イエスの露払いとなっています。イエス・キリストの “ 霊 ” 性が際立たされています。
「わたしは、水で洗礼を授けに来た」⇒「この方がイスラエルに現れる」との流れ、すなわち、歴史的展開が確認されているのが、最も重要なことです。ヨハネの奉仕全体が、イエス・キリストのために捧げられています。ヨハネ自身が主イエスの到来を待望しています。だから、彼は「主の道を整える」先駆者と呼ばれているのです(マルコ1:3)。
Ⅲ その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である
ヨハネ福音書1:32-33――
32 そしてヨハネは証しした。「わたしは、“霊”が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを見た。33 わたしはこの方を知らなかった。しかし、水で洗礼を授けるためにわたしをお遣わしになった方が、『“霊”が降って、ある人にとどまるのを見たら、その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である』とわたしに言われた。」
ヨハネが主イエスの洗礼について証ししています。文章上やや分かりにくくなっているのは、①主イエスの受けた洗礼と②主イエスの授ける洗礼のことが混ざっているからです。整理してみましょう。
「ヨハネは証しした」という内容においては、①主イエスが洗礼者ヨハネから洗礼を受けた時のことが物語られています。そして、「わたしは、“霊”が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを見た」と証言しています。
ここで皆さんは、①主イエスの受けた洗礼に何の意味があるか、と思われることでしょう。まさにその意義を、ヨハネが伝えてくれています。
その中心点は、「鳩のように天から降って、この方の上にとどまった“霊”」とイエス・キリストとのつながりにあります。それは、主イエスの公生涯全体を見渡せば、分かります。“霊”、すなわち、聖霊がとどまる中で、神から遣わされたイエス・キリストは、十字架と復活の御業を成し遂げられました。
ここで、“霊”が宿らずとも、人を罪から救い出す御業は、神と御子によって遂行されたであろうと、反問されるでしょうか。
しかし、つぶさに見れば、主イエスの公生涯、つまり、降誕から十字架の死に至るまで(ルカ1:47、4:1、23:46)は、“霊”に導かれていることは自明です。その上、キリスト者もまた、“霊”が「天から降って(自分に!)とどまれば」こそ、イエス・キリストの奇しき御業を見て知って信じることができるのです。さらに、わたしたちがいつも主イエスの言葉と行いを思い起こせるように、わたしたちの助け主なる聖霊が教えてくださいます(ヨハネ14:26)。
従って、わたしたちが聖霊信仰の原点に立ち返ろうとするときには、「わたしは、“霊”が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを見た」とのヨハネの証言に戻ればよいのです。それは、“霊”とイエス・キリストとの強固なつながりに倣うということです。
次に、②主イエスの授ける洗礼について理解を深めましょう。
「その人(イエス・キリスト)が、聖霊によって洗礼を授ける人である」……ヨハネはこの言葉を「わたしをお遣わしになった方」、すなわち、「神」! から聞かされました。ということは、「イエス・キリスト」が「聖霊によって洗礼を授ける」ことの背景に、「神」がおられるということです。
まさにここに、「洗礼は父・子・聖霊なる三位一体の神が執り行われる聖礼典である」、と規定される根拠があります。洗礼者ヨハネは、「神」・「イエス・キリスト」・「聖霊」による聖礼典を信じる人として召し出されました。こうしてヨハネは、「この方を知らなかった」との三重の縛りから解放されました。人から①洗礼を受けるほどの主イエスの謙遜を学んで、ヨハネはへりくだり、「燃えて輝くともし火」(ヨハネ5:35)としての務めを全うしました。
Ⅳ 四人目の者は神の子のような姿をしている
ダニエル書3:25――
王は言った。「だが、わたしには四人の者が火の中を自由に歩いているのが見える。そして何の害も受けていない。それに四人目の者は神の子のような姿をしている。」
待降節から降誕日に至ることを覚えつつ、ヨハネの証しの締めくくり(Ⅴ)の前に、関連する旧約聖書を読むことにしましょう。
紀元前6世紀、バビロン捕囚時代のことです。新バビロニア帝国の王ネブカドネツァル(在位:前604-562年)は、ユダヤ人の若者たちを召し入れ、行政を任せていました。というのも、彼らは神から知識と才能に恵まれ、夢を解く能力を持っていたからです(ダニエル書1:17)。
しかし彼らは、王の側近たちのねたみを買い、王に中傷されてしまいました。そして、だまされた王は激昂して、ユダヤの若者三人、「シャドラク、メシャク、アベド・ネゴ」を縛り上げ、燃え盛る炉に投げ込むように命じました(ダニエル書3:8,13,20)。
ところが、炉をのぞき込んだネブカドネツァル王は驚いて言いました……「だが、わたしには四人の者が火の中を自由に歩いているのが見える」と。王は、三人が「何の害も受けず」に無事だったうえに、四人目の人物が見えると証言しています。
この「神の子のような姿をしている」者とは、いったい誰だったのでしょうか? 場面状況から言えることは、この人物がユダヤの若者たちに寄り添い、彼らを救出する役割を果たしたということです。信仰深い者たちが危難から脱出できたのは、神が「神の子のような姿をしている」者を遣わしたからです。
こうして、苦しみ悩んでいる時にも「神の子」を待望する信仰が、ユダヤ人共同体の中で受け継がれていきました。およそ600年後に、真の救い主を待ち望んでいる人として、洗礼者ヨハネが荒れ野に現れました。
Ⅴ この方こそ神の子である
ヨハネ福音書1:34 洗礼者ヨハネの言葉――
「わたしはそれを見た。だから、この方こそ神の子であると証ししたのである。」
ここに、わたしたちの間に受肉されたお方が、「神の子である」と証言されています。まことの神でありまことの人であるということが、「神の子」との言葉の内に凝縮されています。神の大いなる救いの歴史において、イエス・キリストが降誕されました。そうして現実に、歴史が「まことの光」に照らされて動き始めました。
Ⅰ.で「その翌日」というのは、洗礼者ヨハネにとってのクリスマスであると述べました。それは、「神の子」の預言が成就した「日」であり、光の降誕祭としてキリスト者によって引き継がれました。
その「日」に、ヨハネは、「世の罪を取り除く神の小羊」であり「神の子」である目撃しました。「見よ」や「わたしは見た」(ヨハネ1:29,32,34)との句には、神によって見せられたのと意味合いが込められています。
言い換えれば、ヨハネは先駆者として、主イエスの受肉から十字架の死、そして復活までを見せられたのであります。神はヨハネに、クリスマスからイースターに至るまで全体を啓示されたのです。というのも、イエス・キリストは「神の子」としてお生まれになり、「神の子」として十字架の死を遂げられたからです。
マタイ福音書27:54――
百人隊長や一緒にイエスの見張りをしていた人たちは、地震やいろいろの出来事を見て、非常に恐れ、「本当に、この人は神の子だった」と言った。
「見た」という証言者は、ヨハネから「百人隊長や一緒にイエスの見張りをしていた人たち」に引き継がれました。民族の垣根を越えて、証言者の輪が拡げられました。このように、イエス・キリストは「神の子」として、ヨハネの整えた道を、全生涯を歩まれました。
神の遣わされた御子イエス・キリストが「聖霊によって洗礼を授ける」と、ヨハネは神から告げられました。ということは、この時すでに聖礼典を執り行う教会の基礎が据えられたのであります。その後、イエス・キリストは弟子たちを招いて主の晩餐を催し、パンと杯を分かち与えられました(マタイ26:26-29、Ⅰコリント11:23-26)。ここにまた、もう一つの聖礼典である聖餐の式が「神の子」によって定められました。
洗礼と聖餐とは、終わりの時が来るまで、教会が守り行うべきものであります。何よりもそれらを執り行ってくださるのは、「神の子」、イエス・キリストであるとの信仰が大切です。ヨハネはそのような信仰を持った、最初の人であります。
結
「まことの光」(ヨハネ1:9)のもとに、一人ひとりが「ともし火」(同上5:35)として集められる……それはなんと美しいクリスマスでありましょう。静けさの内に幕開けし、「ともし火」の一つひとつによって、御子降誕の喜びが証しされ物語られます。そうして、「まことの光」が照り輝き、そのもとで皆が賛美のうちに一つにされるのは、何と幸いなことでしょう。
メリー・クリスマス、皆さんに、神の祝福がありますように!
W
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〈説教の要約〉
2024年 12月15日
旧約聖書 出エジプト記 33章20節(P.150)
新約聖書 ヨハネによる福音書 1章14節~18節(P.163)
説 教「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」 小河信一牧師
説教の構成――
序
Ⅰ 言は肉となって、わたしたちの間に宿られた
……ヨハネ1:14
Ⅲ わたしの後から来られる方は、わたしより優れている
……ヨハネ1:15
Ⅳ わたしたちは皆、恵みの上に、更に恵みを受けた
……ヨハネ1:16
Ⅴ 父のふところにいる独り子である神
……ヨハネ1:17-18
序
アドベント・待降節の第3主日を迎えました。来たる主日には、クリスマス礼拝が行われます。
本日は、ヨハネ福音書の神学的プロローグ(序文)の最終部分を読みます。一つの讃美として、イエス・キリストの誕生・受肉の意味が書き表されています。キリストの誕生について知れば知るほど、自分の信じているキリストがどういうお方なのか、がしっかりと捉えられます。
改めて言うまでもありませんが、受洗すると、人はキリスト者と呼ばれるようになります。それほどまでに、主イエス・キリストとわたしたちの関係には深いものがあります。
受洗の日からキリストに倣う生活が始まります(ローマ15:5)。キリストの言葉と行いにふさわしく生きてゆこうとの思いが、キリスト者の生活を造り上げます。キリストがいつもその生活の根底を支えてくださいます。
キリスト者は独りではありません。というのも、イエス・キリストという土台の据えられた教会(Ⅰコリント3:11)で、礼拝を行うと同時に信徒の交わりが深められるからです。そうして、わたしたちは皆、ますますキリストに似せられた者となります。
Ⅰ 言は肉となって、わたしたちの間に宿られた
ヨハネ福音書1:14――
言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。
この一節には、主イエス・キリストの降誕のメッセージが集約されています。
主の降誕を、「誕生」と言えば、人間の出生と何ら変わらないものとなります。しかし、主の降誕は、単なる「誕生」ではなく、「受肉」として受け止めるべきものであります。
その「受肉」のことが、「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」と書き表されています。ここで、「言」は「イエス・キリスト」(ヨハネ1:17)を指しており、「言は神であった」(同上1:1)と明示されています。
すなわち、まことの神が、「肉となって」まことの人として誕生したことを、信仰上忘れてはならないこととして、「受肉」と呼んでいるのです。主イエスはわたしたちとまったく同じ人間になられ、わたしたちの重荷である罪と病と死を担う者としてお生まれになりました。
それがいかに特別なことであるか、あるいは、それがいかに神の救いの計画にふさわしいものであるか、「わたしたちの間に宿られた」以下の文章に表されています。
「わたしたちの間に宿られた」……御子イエス・キリストが天の栄光の座からこの地へと降って来られたということが、独特な言葉で表されています。すなわち、イスラエルの民の荒れ野放浪をしのばせるかのように、「言はわたしたちの間に天幕を張った〔原意〕」と告げられています。
旧約聖書によれば、40年間の荒れ野放浪というのは、民が不平をつぶやくことが多く、罪と汚れに満ちていました(出エジプト記16:35、民数記14:33)。モーセが繰り返し、乳と蜜の流れる地に導かれるという主の託宣を取り次ぎましたが(出エジプト記3:8、申命記31:20)、民の大多数はその希望に依り頼むことはありませんでした。偶像崇拝に傾いて、ただ生き延びることしか考えなくなりました。
従って、「言はわたしたちの間に天幕を張った」というのは、荒れ野放浪における民の罪科や背信を打ち破るような新たな告知でありました。主イエス・キリストが「わたしたちの間に天幕を張った」ことによって、かつての天幕生活の失態が払拭され、ここに新しい時代が始まりました。「それゆえ」(イザヤ書7:14)、主キリストが先手を打って、民の頑なさと背きを打開されたということです。
もともと、この「天幕」または「幕屋」(ヨハネ黙示録7:15)は移動生活の中で使われるものです。主イエス・キリストがこの地上に「天幕を張った」と言うことによって、主イエスがわたしたちの人生の旅路に同伴してくださることが内示されています。まことに主イエスはいつも「わたしたちの間に」におられます(マタイ28:20)。
「わたしたちはその栄光を見た」……これぞまさに、クリスマスの出来事そのものです。本来、天の父なる神のものである「栄光」が「わたしたち」の眼前に現れ出てきました。御子イエス・キリストの「受肉」によって、「主の栄光」が「わたしたち」の周りを照らしました(ルカ2:9)。
ルカ福音書には、羊飼いたちが、ベツレヘムに生まれた乳飲み子を「見た」ということが、以下のように強調されています。
ルカ福音書2:12,15,16,20――
12 あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。…… 15 天使たちが離れて天に去ったとき、羊飼いたちは、「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」と話し合った。…… 16 そして急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた。20 羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。
羊飼いたちは、「主の栄光」の輝いている幼子を目撃しました。主イエスの降誕を「見た」ことによって、羊飼いたちは証言者となり、それがまた、彼らの信仰への導きとなりました。
「それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた」……これはまさに、主イエスの「受肉」に伴って歌われた讃美であります。「父の独り子」としてこの世に遣わされたお方が、わたしたちに「恵みと真理」を与えてくださいます。
この「真理」こそが、わたしたちを偽善や偏見から解放します(ヨハネ8:32)。こうしてわたしたちは、「主の栄光」に照らされ、この「真理」を杖として自分の足でしっかりと立つことができるようになります。
なお、「恵み」については、後の節で重ねて出て来ますので、Ⅳ.で説き明かします。
ここで、「わたしたちはその栄光を見た」との文に関連して、果たして神を見ることができるのか否かという問いと答えを確認しておきましょう。
Ⅱ あなたは神の顔を見ることはできない
出エジプト記33:20――
また(主はモーセに)言われた。「あなたはわたしの顔を見ることはできない。人はわたしを見て、なお生きていることはできないからである。」
これはあくまでも、主なる神とモーセとが言葉を交わしているこの場面での話ということになりますが、モーセは「神を見ることはできません」。“ 霊 ” に導かれた「神の人」モーセ(申命記33:1)において、「神を見る」ことが許されないならば、当然イスラエルの民もまた、「神を見ることはできない」と類推されます。
しかし、「あなたはわたしの顔を見ることはできない」との厳格な託宣が置かれている文脈を見誤ってはなりません。確かに、神は、「わが栄光が通り過ぎるとき、わたしはあなたをその岩の裂け目に入れ、わたしが通り過ぎるまで、わたしの手であなたを覆う」(出エジプト記33:22)との具体的な説明と共に、「神を見ることはできない」と告げられています。
しかし、「神を見ることはできない」が、モーセはじめイスラエルの民が神の臨在に触れることができるように、つまり、神のいますことを信じられるように、神は執り成してくださっています。
一つは、神がモーセに「臨在の幕屋」を造るように指示されたことです。これは、宿営の外に張られた一つの天幕であります。モーセがこの幕屋に入ると、雲の柱が降りて来て、主はモーセと語られました(出エジプト記33:7-11)。
もう一つは、「わたしはあなたの前にすべてのわたしの善い賜物を通らせ、あなたの前に主という名を宣言する。わたしは恵もうとする者を恵み、憐れもうとする者を憐れむ」(出エジプト記33:19)との御言葉によって、「主の栄光」を現す(同上33:18 他に同上24:16、40:34)ことを約束されたことです。
「金の子牛」を造って偶像崇拝に浸ったばかりの民(出エジプト記32:1-6)、悔い改めの不十分な民、あるいは、神を畏れることを知らない民にとっては、神からのあり余る「恵みと憐れみ」ではないでしょうか。「神を見ることはできません」が、「臨在の幕屋」と御言葉を通して、罪深い民は神の臨在に触れることが許されました。
この場面では、民の指導者モーセに、「あなたはわたしの顔を見ることはできない」との裁きの言葉が下りました。しかし、モーセが民の罪に絶望しそうになる中で、主イエス・キリストの降誕に係わる預言が示されました。すなわち、「臨在の幕屋」を造れとの指示が預言として、「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」との成就につながっていくということです。そこで、神と人間と親しい交わりが築かれます。
主なる神は、神のいますことを告げたモーセの後継者として、洗礼者ヨハネを遣わされました(ヨハネ1:6)。
Ⅲ わたしの後から来られる方は、わたしより優れている
ヨハネ福音書1:15――
ヨハネは、この方について証しをし、声を張り上げて言った。「『わたしの後から来られる方は、わたしより優れている。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。」
神学的プロローグ、キリスト讃歌の中に、二度にわたり洗礼者ヨハネについて言及されています。ヨハネは、人々を悔い改めに導くために(マルコ1:4)、人間の心の闇へと分け入っていきました。主イエスはヨハネの働きを、「燃えて輝くともし火であった」(ヨハネ5:35)と証言されました。
世の人の中には、ヨハネのことを「風にそよぐ葦か」(マタイ11:7)と見下した人がいたかも知れません。「風にそよぐ葦」とは、荒れ野で風に揺さぶられているような、定見のない不安定なものという意味です。また、世の人が「その光のもとで喜び楽しもうと」(ヨハネ5:35)、ちやほやしても、ヨハネは自分を無にして、イエス・キリストを指し続けました。
それから、大勢の人々が自分から洗礼を受けたいとやって来ても(ヨハネ3:23-30)、ヨハネが高ぶることはありませんでした。断食を重んじて(マタイ11:18)、へりくだり、主イエスへと至る道を整えました(ヨハネ3:3)。なぜなら、ヨハネは一つの「ともし火」であり、主イエスは世全体を照らす「まことの光」(ヨハネ1:9)だったからです。
「わたしよりも先におられたからである」……実はヨハネの出生は、主イエスよりも半年ほど先んじています。というのも、マリアが身ごもった時、ヨハネの母エリサベトは懐妊からすでに六か月経っていたからです(ルカ1:36)。ですから、主イエスの方が「先におられた」とは、この世的な出生順、いわゆる歳の差を指しているのではないと分かります。
そこで、わたしたちはこのヨハネの証言もまた、キリスト讃歌の一節として読むべきであると教えられます。すなわち、「わたしよりも先におられた」とは、わたしたち・人間を含め、すべてのものが造られるよりも、もっと前から、イエス・キリストはおられた、ということです。
言い換えればそれは、永遠の昔より、御父と共に、御子イエス・キリストは被造物の礎になっておられたということです。このような万物の創造と救済という壮大な観点から、「わたしの後から来られる方は、わたしより優れている」と、ヨハネは「声を張り上げて証しをして」います。
ヨハネは自分が衰えゆく「ともし火」だと自覚しているからこそ、「まことの光」による救いを待ち望んでいました。ヨハネの宣べ伝えた罪の悔い改め(マルコ1:4、ルカ3:3)こそが、救いにあずかる第一歩なのです。それによって、創造の時の「神のかたち」(創世記1:26-27)が回復されます。そのために、「わたしよりも先におられた」イエス・キリストが罪人に寄り添い、愛をもって罪の赦しへと導いてくださいます。
Ⅳ わたしたちは皆、恵みの上に、更に恵みを受けた
ヨハネ福音書1:16――
わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。
キリスト讃歌がますます盛り上がっていきます。
ここで、「臨在の幕屋」の建築に伴って、主がモーセに語られた「わたしは恵もうとする者を恵むであろう」(出エジプト記33:19)との預言の成就が表明されます。
すなわち、「わたしたちの間に天幕を張った」イエス・キリストが、「わたしたち皆に、恵みの上に、更に恵み」を与えるということです。では、「恵み」(ギリシア語:カリス)とは、一体何でしょうか?
「恵み」は、「この方の満ちあふれる豊かさの中」にあるものですから、神秘に満ちており、わたしたちの想像をはるかに超えるものであります。それが第一義的なことを認めたうえで、「恵み」に対する対義語を挙げましょう。そうすれば、「恵み」の何たるか、についてヒントが得られることでしょう。
「主イエス・キリストの恵み」(Ⅱコリント13:13)に対置されるのは、「人の善い行い」です。「主イエス・キリストの恵み」は価なしに、無償でわたしたちに与えられるものです。しかし、「人の善い行い」には時に、見返りが要求されます。それは金銭であったり、協力あるいは隷属であったり、さまざまです。
一方、「主イエス・キリストの恵み」は、主を信じ従う者に、とこしえに「この方の満ちあふれる豊かさの中から」与え続けられます。他方、「人の善い行い」は永続するものではありません。時に、「善い行い」を実行している人が傲り高ぶって他人を見下すようになります。そうすると、「善い行い」から、ねたみや分裂が生じてしまうという結果に至ります。それは、わたしたちを「平和」への誘う「主イエス・キリストの恵み」(Ⅱテモテ1:2)とは正反対です。
愛の大波のように、主イエス・キリストの十字架と復活の御業を通して、「わたしたち皆に、恵みの上に、更に恵み」が注ぎ入れられます。この止めどない「恵み」の源泉について、「この方の満ちあふれる豊かさの中から」であると明示されています。
「この方」とは、ヨハネが証ししている「イエス・キリスト」を指しています。「この方」は、不毛な人生にあえぎ苦しんでいた女に、次のように語りかけられました。
ヨハネ福音書4:14 主イエスはサマリアの女に答えて言われた――
「しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」
「この方の満ちあふれる豊かさの中から」、一人の女の内に「水」が注ぎ入れられます。すると、彼女の身心は潤わされて、「永遠の命」を得るという希望に生きる者に変えられます。それによって、昼下がりに、ヤコブの井戸から水がめで水を汲むという日常生活(ヨハネ4:6,28)がもはや、砂を噛むような味気ないものではなくなります。
サマリアの町で孤独だった女が、自分自身の「泉」から「冷たい水一杯」(マタイ10:42)を汲んで、隣人に飲ませるようになりました(ヨハネ4:28-30)。もはや、ヤコブの井戸の共同使用のために、住民たちとの間で気苦労することはなくなりました。なぜなら、その女は「この方の満ちあふれる豊かさ」に支えられて、信仰を持ち、日常の生活を営んでいるからです。
異邦人の女は、「わたしたちは皆」(ヨハネ1:16)の中の一人です。彼女もまた主の招きにより、イエス・キリストを証しする人々の群れに加えられました。
Ⅴ 父のふところにいる独り子である神
ヨハネ福音書1:17-18――
17 律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである。18 いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。
蘊蓄話ではありませんが、創世記1:1「初めに、神は天地を創造された」のように、「初めに」が冒頭に置かれているのは、新約聖書・27文書中、どの文書か、分かりますか? これを、ヨハネ福音書の説教中に聞くのも、わざとらしいのですが……。ハイ、「初めに言があった」という書き出しのヨハネ福音書(のみ)です!
厳密に原語のレベルでも、創世記、ヨハネ福音書、それぞれの文書冒頭に、「ベレシート」(ヘブライ語)、「エン アルケー」(ギリシア語)というように、「初めに」… ‘ In the Beginning ’ …が確認されます。
ヨハネ福音書記者は、「初めに」との鍵語によって、天地創造の「初めに」からヨハネの教会の「初めに」へと架け渡そうとしています。つまり、新約の一文書であるヨハネ福音書は、イエス・キリストの降誕の時点から「初めに」を振り返っているということです。その点では、イエス・キリストは天地創造(初め)の前からおられた「まことの神」ですから、そのお方なる「まことの人」の「受肉」(ヨハネ福音書の初め)によって、二つの「初めに」はつなげられています。これぞ、プロローグが荘重である所以です。
ここでは、旧約聖書を代弁するものとして、「モーセの律法」が挙げられています。ヨハネの教会にとって、「モーセの律法」はまさに「初めに」神が啓示したものにほかなりません。では、そのような理解のもとに、どんなことを訴えようとしているのでしょうか。
「律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである」……言い換えれば、これは、「律法はモーセを通して与えられた。そのような準備の上に、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである」となります(熊澤義宣;参照 ローマ3:21)。
「モーセの律法」は「やがて来る良いことの影」であったが(ヘブライ10:1)、それが今や、「10:1」現実のものとなっているということです。「やがて来る良いこと」こそが、「恵みと真理」でありました。
わたしたちは、主イエスによって、律法遵守の軛から解放されました(ローマ6:14、ガラテヤ4:5)。というのも、わたしたちの最も重要な務めは、「この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受ける」ことだからです。
これに加えてわたしたちには、「この方」、イエス・キリストから、その時々に守るべき「律法」が示されます(マタイ22:37-40)。これに伴って主イエスは、神の教えに従おうとするわたしたちに寄り添ってくださいます。
「初めに言があった」との文で始められた神学的プロローグは、「イエス・キリスト」に焦点を合わせて閉じられます。
「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである」……ここで、「神を見ることはできない」というモーセの時代から、「この方が神を示される」という新しい時代に移されます。
ただし、モーセはじめイスラエルの民が神の臨在に触れることができるように、つまり、神のいますことを信じられるように、導かれた神の執り成しが無駄だったというわけではありません。「そのような準備の上に」、神からイエス・キリストがこの世に遣わされたということです。「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」ことによって、わたしたちは神の栄光を「見る」信仰者となりました。
「父のふところにいる独り子である神」……御父と御子イエス・キリストとの親しき交わりが描き出されています。ここに、わたしたちの信仰の核心があります。というのも、御父と御子が一つになっておられる(ヨハネ17:22)ことが、わたしたちの信仰と日常の礎となっているからです。そこでわたしたちは、神を信じ讃える礼拝において、一つとされるのです。
「ふところ」というのは、御父と御子とが「いちばん近いところ」におられることを昭示しています。その親しき交わりの中に、愛と「満ちあふれる豊かさ」があります。そこから、わたしたちは、「恵みの上に、更に恵みを受ける」ことになります。それは、汲めども尽きることのない、永遠の「恵み」であります。
結
本日はご一緒に、ヨハネ福音書の神学的プロローグの終わりの部分を読みました。洗礼者ヨハネは、罪と病と死を恐れている人々のただ中で、「わたしの後から来る方」について証言しました。そして、人々に「まことの光」を待つという忍耐と希望を示しました。主キリストの前に、ヨハネの身心は衰えていきましたが、キリスト讃歌の中に、彼の不滅の証しが残されました。
このキリスト讃歌を通じて、クリスマスにお迎えする御子がどのようなお方であるか、見て、知って、そして、そのお方こそが救い主であると信じることができますようお祈りいたします。
W
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2024年 12月8日
新約聖書 ヨハネによる福音書 1章6節~8節(P.163)
説 教「ここに、光について証しする人、現れり」 小河信一牧師
説教の構成――
序
……イザヤ書48:16
……ヨハネ1:8
結
序
待降節・アドベントの第二週に入りました。本主日からクリスマス礼拝まで、3週連続でヨハネ福音書1章から御言葉を取りつぎます。
冬至(12月21日頃)が近づいて来ました。その日から夜より昼の時間が長くなっていきます。少しずつ朝の光がまぶしさを増していきます。心の闇を振り払って、「まことの光」(ヨハネ1:9)として世に来られる主イエス・キリストにお会いする準備をしましょう。主イエス・キリストを知ることによって、神への信仰が強められます。
Ⅰ 神から遣わされた一人の人がいた
ヨハネ福音書1:1-18は、神学的プロローグ(序文)で、主イエス・キリストの啓示を表しています。すぐれた讃美になっています。その流れを破るかのように、洗礼者ヨハネが登場します(1:6-8,15)。
この洗礼者「ヨハネ」は、ヨハネ福音書の著者ヨハネとは違います。彼は神から特別な使命を授けられて、民のもとに遣わされました。ヨハネはユダの荒れ野に現れて、御言葉を宣べ伝えました(マルコ1:3-4)。それによって、多くの人々が、主イエス・キリストの啓示を現実のものとして受け止めました。つまり、神の大いなる歴史がこの世で、主イエス・キリストの言葉と行いによって押し進められました。
「時は満ち、神の国は近づいた」(マルコ1:15)というそのちょうどその時に、ヨハネは主イエス・キリストについて証ししました。それが、神がヨハネに与えた使命でありました。道備えをする先駆者としての役割が「一人の人」、「その名はヨハネ」に託されました。
これまでユダヤの歴史上、大勢の預言者が殺されたように、ヨハネは、罪深い権力者の手によって殺されてしまいました(マルコ6:27-29)。彼は、主イエス・キリストを証しすることに徹して、殉教したのであります。「だから、わたしは喜びで満たされている。あの方は栄え、わたしは衰えねばならない」(ヨハネ3:29-30)とのヨハネの言葉は、信仰者の間で今も輝いています。
そのようにして、神に遣わされ、悔い改めの洗礼を宣べ伝え、最後に罪人に惨殺されたヨハネはその全生涯をもって、主イエス・キリストについて証ししました。それほどまでに、神の大いなる救いの計画を証しする “ 霊 ” 的務めに徹し得たのは、ヨハネがイスラエルの聖なる預言者たちの系譜に連なっているからです。
わたし〈主〉は初めから、ひそかに語ったことはない。
その霊を与えてくださった。
第二イザヤが主の託宣を広めようとしたのは、紀元前6世紀中葉、バビロン捕囚の時代でありました。異国での生活が30年、40年と長引いて、神礼拝が衰退し、民の間から希望が消え失せてゆきました。
そのように混沌とした世の中にもかかわらず、神の大いなる救いの計画が中止されることはありませんでした。なぜなら、「事の起こるとき、わたし〈主〉は常にそこにいる」を現すために、「今、主なる神は御自身の霊をもってわたしを遣わした」からです。言い換えれば、「わたし〈主〉は常にそこにいる」という「わたし」の代理こそが、「わたし」なる第二イザヤなのです。
主の託宣を聞いてすぐに、「わたし」の問題、「わたし」の使命と受け止めたところに、預言者の従順さがうかがわれます。まさに召命の基本は、「誰を遣わすべきか。誰が我々に代わって行くだろうか」との主の御声を聞いて、「わたしがここにおります。わたしを遣わしてください」と答えることです(イザヤ書6:8)。
洗礼者ヨハネの活動との並行で興味深いのは、第二イザヤ自身が「世の光」(ヨハネ8:12)とはなっていないということです。聖書には、第二イザヤもヨハネも、「神が遣わした」人物と明言されています(イザヤ書48:16∥ヨハネ1:6)。しかし、両者共に、あくまでも御言葉の宣教が中心で、ひたすら「世の光」として来たる解放者を指し示しました。
自分が前に出るのでは決してない、周りから抑圧や攻撃があっても、忍耐し、神の僕として使命を全うするのは、並大抵のことではありません。だからこそ、「今、主である神はわたしに 御自身の霊を与えてくださった」のです。その「御自身の霊」がいつも、第二イザヤに寄り添い、彼を慰め励まします。
さて、第二イザヤの伝えている主の託宣の内容を確かめましょう。
第二イザヤが預言した、来たるべき解放者とは、ペルシア王「キュロス」を指しています。イザヤには、なぜ神は異邦人を用いられるのか、という戸惑いまたは不信はありませんでした。
そのことが、次の御言葉にも表されています。
イザヤ書48:14――
皆、集まって聞くがよい。
彼らのうちに、これを告げた者があろうか。
「主の愛される者」または「主の御腕となる人」との呼称をもって、キュロスが示唆されています。主なる神が異邦人の王に油を注いで召し出す(イザヤ書44:28、45:1)というのは、驚きです。そうして、キュロスはユダヤの民を捕囚にしている「カルデア人」の国・「バビロン」に立ち向かいます。
キュロスはペルシア帝国(前547年-前330年)の創設者(在位:前559年-529年)です。大多数のユダヤ人には、キュロスが「主の御旨」を実行して自分たちを解放すると言っても、にわかに信じられなかったことでしょう。
それ故に、神「御自身の霊」による支えの中で、第二イザヤがたゆむことなく、「キュロス」について証しするかどうか、が問われています。問題は山積しています。祖国への帰還の長い旅、都エルサレムの復興、そして都に残った者たちとの再結集など、人々からつぶやきが聞こえてきそうです。
そうした時に、前539年、キュロスによって「カルデア人」の国・「バビロン」は征服されました。バビロンと異なり、キュロスは被征服民に対し寛容であり、各民族の宗教や慣習を尊重しました。
第二イザヤは、ユダヤの民に、「わたし〈主〉のもとに近づいて、聞くがよい」と呼びかけました。というのも、キュロスについての証しが真実であり、それによって、神の言葉の力が発揮されたからです。
ヨハネ福音書では、「わたしは荒れ野で叫ぶ声である。『主の道をまっすぐにせよ』」(1:23)との洗礼者ヨハネの宣教の第一声が昭示されています。「主の道をまっすぐにせよ」との命令はイザヤ書40:3からの引用です。ヨハネはまさに、「今、主なる神は御自身の霊をもってわたしを遣わした」という第二イザヤの系譜に連なる者として、世に現れました。
ヨハネ福音書1:7――
彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。
ヨハネが神から派遣されたということに続いて、彼の使命が明示されます。その使命とは、ヨハネ自身は黒子に徹して、その証しをもって「光」なる主イエス・キリストを照らし出すということです。
その点ではヨハネは、一年で夜が最も長い時季に、その暗がりの中で、光の降誕祭が近づいているのを知らせるのに、最もふさわしい人物です。ヨハネは「声を張り上げて」(ヨハネ1:15)、主イエスについて証ししています。
ヨハネは主イエスに係わる出来事を目撃し(ヨハネ1:29,34)、それを人々に伝達することに集中していました。実はヨハネ福音書では、ヨハネは一度も「洗礼者」との称号をもって呼ばれてはいません(比較:マタイ3:1、マルコ1:4、ルカ7:20)。
確かにヨハネは民衆に洗礼を授けていましたが、それは「ヨルダン川の向こう側」だったと限定されています(ヨハネ1:28 他に3:23)。「その人はわたしの後から来られる方で、わたしはその履物のひもを解く資格もない」(ヨハネ1:27)とのヨハネの主イエスに対する言葉にも、謙遜さがにじみ出ています。
「彼が光について証しをするために」……この点に関しては、神学的プロローグ自体(ヨハネ1:1-18)がその方向性を指し示しています。つまり、序文において、主イエス・キリストが「光」(同上1:4,5,7,8,9,14)としてこの世に遣わされたことが基調になっているからです。これに呼応して主イエスは後に、「わたしは世の光である」(同上8:12)と宣言されました。
その新しい啓示のただ中で、ヨハネは、主イエス・キリストの「光」を身にまとっています。そこで、ヨハネは「光について証しをして」、喜びに満たされています。それが、彼の活動の源になっています。
「また、すべての人が彼によって信じるようになるためである」……これがヨハネに託された最大の使命でありました。罪と闇と死の陰に住んでいる「すべての人」が「光」によって照らされます。そうして、人々は「言」なる主イエス・キリストを「信じるようになる」のです。ヨハネの証しは間違いなく、人々に信仰が与えられる、その土台となります。
Ⅳ 彼は光ではなかった
ヨハネ福音書1:8――
「彼は光ではなく」……ここでヨハネは、明確に留保を付けています(K.バルト)。自分の分を越えて過大評価してはならないということです。これは、自らへの戒めである以上に、「あなたは、どなたですか」(ヨハネ1:19)との問いに先んじて答えたものと言えましょう。
「彼は光ではなく」、「ヨハネは、燃えて輝くともし火であった。あなたたちは、しばらくの間その光のもとで喜び楽しもうとした」(ヨハネ5:35) と、主イエスが証言されている通りです。「燃えて輝くともし火」なるヨハネは先駆者であり、彼の後に、「まことの光」(同上1:9)なる主イエス・キリストを遣わすというのが、神の大いなる救いの計画でありました。
わたしたちが暗闇から光の世界に招き入れられるとき、つかの間の「喜び楽しみ」に惑わされてはなりません。それでは、光の降誕祭にたどり着く前に、道をさ迷うことになります。ヨハネの証しこそが、その旅路を照らす「ともし火」となります。
結
今回の結びとして、二度語られている「彼は光について証しをする」との言葉(ヨハネ1:7,8)について、少し深めてみましょう。
問題点は、どうして、「世の罪を取り除く神の小羊」(ヨハネ1:29)と「光」という二つのキリストについての証言が結びつくのか、ということです。すなわち、十字架にはりつけになったお方をどうして「光」と呼べるのか、ということです。
そこで、わたしたちの信仰の面からその問題を考えてみましょう。実際、「すべての人が彼(=ヨハネの証し)によって信じるようになるため」との言葉の通り、それは最重要なことです。
まず前提となるのは、わたしたち・信仰者は、主イエス・キリストが「まことの光」であり、「世の罪を取り除く神の小羊」であると「信じている」ということです。その信仰について、次のように書かれています。
ヨハネの手紙 一 5:4-5――
4 神から生まれた人は皆、世に打ち勝つからです。世に打ち勝つ勝利、それはわたしたちの信仰です。5 だれが世に打ち勝つか。イエスが神の子であると信じる者ではありませんか。
ということは、十字架につけられて殺された主イエス・キリストを「信じる者」には、「世に打ち勝つ勝利」が与えられるということになります。
洗礼者ヨハネが神から「世」に遣わされたとき、「世」はサタンによってかき乱され、人々は罪と病と死におののいて暮らしていました。そこで、ヨハネは「光は暗闇の中で輝いている」(ヨハネ1:5)ことを証言しました。彼は人々の高ぶりや頑なさに屈することなく、証しし続けました。
そして、ヨハネによって道備えがなされた後に、御子イエス・キリストが「世」に遣わされました。最後に、「世」の権力者や偽善者は、主イエスを十字架刑にするとの審判を下しました。
そこで奇しくも、神の大いなる救いの計画が成し遂げられました。主イエス・キリストは十字架に死して復活されました。それによって、すべての人間の罪科を滅ぼされ、「世に打ち勝たれました」。主イエスを信じる者に永遠の命が与えられることになりました(ヨハネ3:15、17:2)。
以上が、十字架にはりつけになったお方をどうして「光」と呼べるのか、という問いへの答えです。それが、十字架上の主イエスを見て、「まことの光」・「世の光」と呼ぶ(ヨハネ1:9、8:12)ことのできる理由です。
加えて、御父と御子が一つであるように、御子と一つとされている教会もまた(ヨハネ17:21-23)、「世に打ち勝つ勝利」にあずかっています。それはまさに、主イエス・キリストの恵みによることです。
ヨハネは、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」(ヨハネ1:29)と叫んで、主イエスが過越祭の準備の日(同上19:31)に十字架に上げられることを予告しました。十字架の死と復活を見通していたという点において、ヨハネの「光についての証し」(同上1:7,8)は信頼に価するものでありました。だからこそ、「あの方は栄え、わたしは衰えねばならない」(同上3:30)という苦難の道を歩み切ることができたのでしょう。
ヨハネの生涯を象徴する「ともし火」は、燭台の上に置かれています(マルコ4:21)。「まことの光」がその「ともし火」を皓々と照らしています。アドベント・クランツのろうそくは、そのような「ともし火」を現しています。来たるクリスマスには、会堂いっぱいに、そして世の隅々にまで、「まことの光」が照り輝きますように!
W
〈説教の要約〉
2024年 12月1日 日本キリスト教団 茅ヶ崎香川教会
待降節 第1主日(降誕前第4主日)
旧約聖書 イザヤ書 7章10節~14節(P.1071)
新約聖書 マタイによる福音書 1章22節~25節(P.2)
説 教「見よ、おとめが身ごもって、男の子を産む」 小河信一牧師
説教の構成――
序
Ⅰ 主なるあなたの神に、しるしを求めよ ……イザヤ書7:10-11
Ⅲ わたしの神にも、もどかしい思いをさせるのか
……イザヤ書7:13
Ⅳ 見よ、おとめが身ごもって、男の子を産む
……イザヤ書7:14
Ⅴ その名はインマヌエルと呼ばれる
……マタイ1:22-25
序
12月に入り、教会の暦ではアドベント・待降節を迎えました。待降節とは、主イエス・キリストの降誕を待ち望む期間です。
そこで本日は、主イエスの降誕からおよそ700年あまりさかのぼる預言者の言葉に耳を傾けることにしましょう。というのも、預言者イザヤはその当時の王とその民に、救い主の誕生を預言しているからです。
言い換えれば、ユダヤの民は700年の歳月を経て、預言どおりに救い主に出会うことになりました。その救い主こそ、神がこの世にお遣わしなった御子、イエス・キリストでありました。ユダヤ人のただ中で待望されたそのお方は、ユダヤ人の垣根を越えて、全世界の人々に喜びを告げ知らされました。
実際、主イエスは異邦人の間でも、病気の癒やしや悪霊祓いなど、救いの御業を行われました(マルコ3:7-12、5:1-20、7:24-30)。それらは正しく、「時は満ち、神の国は近づいた」(マルコ1:15)ということのしるしでありました。そのように主イエス・キリストは、暗闇を照らす世の光として到来されました(ヨハネ8:12)。
わたしたちは、突然光が暗闇に射し込んだというはじめの歓喜を自分のものとしなければなりません。それは、待降節を過ごす意義を回復するためであります。そのために、「インマヌエル」預言の語られた暗黒の時代に立ち戻りましょう。それは、主イエスの降誕からおよそ700年前、現代からおよそ2700年以上前、南ユダ王国で起こった出来事です。どんな人物がその預言を聞いたのか、そしてどのような反応を示したのか、とても興味深いことでしょう。
Ⅰ 主なるあなたの神に、しるしを求めよ
イザヤ書7:10-11――
10 主は更にアハズに向かって言われた。11 「主なるあなたの神に、しるしを求めよ。深く陰府の方に、あるいは高く天の方に。」
時と場合にもよりますが、王というものは概して神の声を聞こうとしません。なぜなら、自分の声こそが神の声だと思うほどに、自分を誇り傲慢になっているからです。
それが、動乱の世の中で、外国から圧力を受けているならば、なおさらです。どうにかして自分の身と財産を守りたい、あるいは、侵略を企てる列強の為政者をなだめすかして撤退させたいなどと案じて、おちおち夜も眠れません。ですから、王は神の言葉を伝える預言者に対し、しばしば横柄な態度をとってしまいます。
紀元前8世紀後半、南ユダ王国のアハズ(在位 前744-729年)は、まさにそれにぴったり当てはまる人物でありました。「アハズは二十歳で王となり、十六年間エルサレムで王位にあり」ました(列王記下16:2)。
当時の最強国は、メソポタミアのアッシリア帝国でありました。近隣諸国は、アッシリアと和睦して朝貢するか、それとも、反旗を翻すか、いずれかの道を選ばざるを得ませんでした。
そうこうするうちに前733年、北イスラエル王国(エフライム)とダマスコ(アラム)が南ユダ王国を、反アッシリア同盟に組み入れようとして攻め込んで来ました。これに応じて前732年、アハズ王はアッシリアに助けを求めて贈り物を送りました(列王記下16:7-8)。これによって、難を免れたものの、南ユダ王国はアッシリアの属国として扱われることになりました。
隣国に攻囲された時の、ユダヤ国内の様子がリアルに描かれています。
イザヤ書7:2――
しかし、アラムがエフライムと同盟したという知らせは、ダビデの家に伝えられ、王の心も民の心も、森の木々が風に揺れ動くように動揺した。
こんなに心が弱くなっているのでは、とても一介の預言者の声に耳を傾けるはずなどない、と想像されることでしょう。イザヤがそんなアハズ王を捕まえて対話したのは、「布さらしの野に至る大通りに沿う、上貯水池からの水路の外れ」でありました(イザヤ書7:3)。というのも、王宮で預言者から聴聞するなど、そんな余裕はアハズには無かったからです。
神礼拝、時代情勢、いずれの点でも、暗黒の中にありました。そんな折も折、「インマヌエル」預言が、一見ふさわしい聞き手とは思われない人物に向けて発せられました。このこともまた、御子イエスの降誕に不思議な形でつながっているのは、驚きです。
ルカ福音書2:8-9――
8 その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。9 すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。
アハズ王とは違う人格を持つ人々ですが、「羊飼いたち」が夜の闇から呼び出されました。「主の栄光が周りを照ら」されて、乳飲み子を探し当てようと、町へと向かいました。
アハズ王にしても、また、「羊飼いたち」にしても本来ならば、聖なる「インマヌエル」預言から遠い所に置かれているような人々です。しかし、神はその預言のはじめの傾聴者として、アハズを召し、そして、預言の成就の目撃者また伝達者として「羊飼いたち」を呼び出されました。
およそ700年の歳月を越えて、人間の頑なさを打ち砕いて、「神が我らと共におられる」とのメッセージを伝えるという神の御旨が貫かれています。現代においても、神は無知で無垢な人、自分本位な人、そして頑なな人をクリスマスに招いておられるのではないでしょうか。
「主は更にアハズに向かって言われた」……先述通りの情勢で、アハズ王にとっては都エルサレムの防備が喫緊の課題でありました。北イスラエル王国とダマスコの攻撃によって破損した所がないか、調査したことでありましょう。案の定、アハズは「貯水池」や「水路」の見回りをしていました。
そこで、主から遣わされたイザヤは、アハズに主の言葉を取りつぎました。「主は更に言われた」(別訳:主は語り続けられた)というところに、神礼拝をおろそかにし、預言を聞き入れない者への忍耐強さが表れています。
「主なるあなたの神に、しるしを求めよ。深く陰府の方に、あるいは高く天の方に」……今アハズが知らなければならないのは、神と人との親密な関係、すなわち、「見よ、あなた(神)はそこに(ここに)います」(詩編139:8ということです。それは、アハズやイザヤの全存在が神の中に置かれているということです。
「天に登ろうとも、あなたはそこにいまし 陰府に身を横たえようとも 見よ、あなたはそこにいます」(詩編139:8)という以上、「深く陰府の方」にも、あるいは、「高く天の方」にも、神の「しるし」が満ち満ちているのです。
たとえば、人が死の床について、死んで、そして人の側から見て、神との交わりが切れたように思われようとも、神御自身が「陰府に身を横たえて」、その人に御力を発揮してくださいます(Ⅰペトロ3:19)。そのようにして、神は「天」でも「陰府」でも、人の心に思い浮かびもしなかったような奇跡を行われます。
主なる神は、アハズに「インマヌエル」預言を伝達する前に、アハズから頑なさを取り除こうとされました。たとえ、この地上で八方塞がりになっても、人の心が開かれていれば、御言葉が下って来ます。
Ⅱ 主を試すようなことはしない
イザヤ書7:12――
しかし、アハズは言った。
主を試すようなことはしない。」
さてここで、アハズの頑なさをつまびらかにしましょう。主に背く人間の本性が見出されます。
まず指摘できるのは、アハズが憐れみ深い助言に全く耳を傾けていないということです。預言者イザヤの口を通して伝えられる主の命令に対し、悪知恵を働かして却下しようとしています。アハズ王の斜に構えた態度には憤りを感じます。
・王の返答「わたしは求めない。主を試すようなことはしない。」
このように比較すれば、すれ違いが明確になります。
アハズは鍵語となる「しるし」という言葉を、わざと抜いています。「あなたの話は聞きません」との心理が見透かされます。直後に、前代未聞の「しるし」として「インマヌエル」預言が提示されるのですが、賢しらなアハズは巧みに話を逸らそうとしています。イザヤの懇切な助言に対し、「ゼロ回答」でけりを付けたい、そして、思うがままに我が道を突っ走りたいということです。
もう一つ、姑息なのは、「しるしを求める」を「主を試す」にすり替えていることです。ここでアハズは、聖書を重んじる敬虔な王を演出しようとしています。後に、悪魔が主イエスを誘惑する(ルカ4:9-12)ために、部分的に聖句(詩編91:11-12)を引用しますが、アハズのずる賢さは悪魔と同等です。
アハズが援用したのは、「あなたたちがマサにいたときにしたように、あなたたちの神、主を試してはならない」(申命記6:16)との律法です。これは、神の御心を問うことなく、一方的に神に自分の要求を押しつけるような不信仰を戒めているものです。しかし、先に比較したとおり、そもそも「主を試しなさい」などとは命じられていません。
イザヤは、「主なるあなたの神に、しるしを求めよ」と言ったまでで、それがどのような「しるし」であるかは、「主なるあなたの神に」ゆだねなさい、という主旨なのです。そこには、「神の子なら、神殿の屋根の端から飛び降りたら……」(ルカ4:9)というような命じる側からの押しつけはありません。
「主なるあなたの神に、しるしを求めよ」(イザヤ書7:10)……アハズが「しるし」、すなわち、神の大いなる奇跡を待ち望むように命じられています。国の内外の情勢が不穏な空気が漂っている中で、アハズは神に信頼を置くことができるのでしょうか。
「ゼロ回答」に逃げ込もうとするような人物に、権力と名誉においてこの世の中心に立つ人物に、神の御計画が明らかにされたのは、紛れもない真実であります。
Ⅲ わたしの神にも、もどかしい思いをさせるのか
イザヤ書7:13――
イザヤは言った。
もどかしい思いをさせるだけでは足りず
これは、いよいよ「インマヌエル」預言が啓示される、その直前のイザヤの言葉になります。イザヤは「わたしの神」の思いを汲み取り、真剣に人々の態度を改めさせようとしています。
実はすでに、この言葉の内に「インマヌエル」の真意の一端がほのめかされています。すなわち、それは、アハズへの語りかけ(イザヤ書7:4,10)が「ダビデの家」への呼びかけに替わっている点にあります。ついでに言えば、アハズ王は「父祖ダビデ」の家系に属する者です(列王記下15:38)。
それでは、なぜ、「ダビデの家よ聞け」と言われているのでしょうか? それは単に、その当時の「ダビデの家」の皆さん、話を聞いてくださいね、というのではありません。そうではなく、これから啓示される預言において、「ダビデの家」が重要な役割を果たすということが示唆されているのです。
「ダビデ」はユダ族に属します。その支配地域には、エルサレムやベツレヘムが含まれます(士師記17:7)。ここまで言えば、もう気づかれることでしょう、「インマヌエル」預言、すなわち、主イエスの降誕を聴き取る際に、「ダビデの家」についての知識は必須である、と。実際、新約聖書・冒頭には、「アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図」(マタイ1:1)と書かれています(「系図」の原意は「誕生・生成」です)。これはまことに、「ダビデの家」が傾聴すべき預言であり、その成就なのです。
「あなたたち(ダビデの家)は人間に もどかしい思いをさせるだけでは足りず わたしの神にも、もどかしい思いをさせるのか」……イザヤはアハズの不信仰を見抜いたうえで、この世の出来事から神の思いを類推させようとしています。
アハズ王の時代において、ソロモンの建てた神殿に集う「ダビデの家」の人々は本来ならば、“ 霊 ” 的に清められていなければなりません。しかし実際は、ユダヤの民に「もどかしい思いをさせ」(=煩わせ)ていました。それは、原文に則せば「小さな・わずかな」過失であるが、「あなたたちがわたしの神をも、もどかしい思いをさせている」のは、大罪なのではないか、ということです。
「人間」のみならず、「わたしの神」をも困惑させたことが、列王記下(16:2-4)には次のように、総括されています……「2 アハズは父祖ダビデと異なり、自分の神、主の目にかなう正しいことを行わなかった。3 彼はイスラエルの王たちの道を歩み、主がイスラエルの人々の前から追い払われた諸国の民の忌むべき慣習に倣って、自分の子に火の中を通らせることさえした。4 彼は聖なる高台、丘の上、すべての茂った木の下でいけにえをささげ、香をたいた」。
イザヤは、神と人とを煩わせるような罪深い者に神の言葉を取りついでいます。突き放すだけでなく、寄り添う思いがなければ、全うできない重い責務であります。「神がわたしの味方だとわたしは悟る」(詩編56:10)からこそ、耐えうるのでありましょう。
Ⅳ 見よ、おとめが身ごもって、男の子を産む
イザヤ書7:14――
あなたたちにしるしを与えられる。
イザヤは「ダビデの子孫」であるアハズに向けて、肉によれば「ダビデの子孫」から生まれる「インマヌエル」の預言を告げました(ローマ1:3、ヨハネ7:42)。それは、「主は救い」という名のイザヤから「主は捕らえた」という名のアハズに伝達されました。ここに、罪深い者に、救い主の誕生を告げ知らせるという神の憐れみが認められます。
およそ700年前の、聖別された人と罪深い人との出会いにおいて、「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た」(ヨハネ1:14)という将来が見通されていたのです。「インマヌエル」と呼ばれる神の御子は、アハズに代表される人間の破った関係を修復するために、この世に降って来てくださったのです。
それでは、「インマヌエル」預言そのものの注目点を説き明かしましょう。
イザヤが「主なるあなたの神に、しるしを求めよ」と前置きしたうえで、ここで昭示したのは、「見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み その名をインマヌエルと呼ぶ」という「しるし」でありました。寸前に「求めよ」と命じておきながら、「それゆえ、わたしの主が御自ら あなたたちにしるしを与えるであろう」と確約されています。これぞ、神の一方的な憐れみにほかなりません。
「それゆえ」(ヘブライ語:ラヘン)は切れ味鋭い句なので、聞き逃さないようにしましょう。この導入句によって、全世界に向けて「インマヌエル」預言が告げ知らされています。
つまり、アハズ王と「ダビデの家」において、聖書を歪曲して援用し、弱く貧しい隣人を虐げ、神と人とをうんざりさせているのを見た、「それゆえ、わたしの主が御自ら……」ということなのです!
「それゆえ」によって、イザヤの口を通じて神の断固たる決意が表されました。もはやイザヤは、“ 霊 ” を注がれて「わたしの神」と叫び、神と一つになっています。
内容的には、「見よ」(ヘブライ語:ヒネー)以下に、注目すべし、となっています。
「おとめが身ごもって(女性形の動詞①)、男の子を産み(同上②)その名をインマヌエルと呼ぶ(同上③)」……神は、「おとめ」すなわち「若い女」に目を留められています。出産という人間的・日常的な営みの内に、「インマヌエル」(神は我々と共におられる)との啓示が宿されています。
このような「インマヌエル」預言が、「主のはしため」・マリア(ルカ1:48)を通して成就するのを確かめましょう。
Ⅴ その名はインマヌエルと呼ばれる
マタイ1:22-25――
22 このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。
23 「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。
その名はインマヌエルと呼ばれる。」
この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。24 ヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じたとおり、妻を迎え入れ、25 男の子が生まれるまでマリアと関係することはなかった。そして、その子をイエスと名付けた。
およそ700年の隔たりを経て、「ダビデの家系」に沿って、アハズ王からマリアの夫ヨセフへと「インマヌエル」預言が受け継がれました。それが、神を畏れる「正しい人」(マタイ1:19)に伝達されたのは、預言の成就が間近であるという兆しでありました。
ヨセフは「主の天使が命じたとおり、妻を迎え入れて」、その預言の成就を待ちました。それと軌を一にして、天使ガブリエルがマリアに、「あなた(=おとめ)が身ごもって(女性形の動詞①)、男の子を産む(同上②)」(ルカ1:31=イザヤ書7:14)との御告げを受けました。若い夫婦の熱愛を言祝ぐかのように、「その名をインマヌエルと呼ぶ(同上③)」ことは、父親となるヨセフに伝達されました(マタイ1:23)。
ヨセフとマリア、これぞまさに、神の召し出された、「インマヌエル」預言の受領者であります。こうして、「彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた」(ルカ2:6-7)ということで、預言は成し遂げられました。
結
最後に、「神は我々と共におられる」とのメッセージが今、どんなことをわたしたち・キリスト者に教えているのか、捉えることにしましょう。
確かに、「インマヌエル」預言は、主イエス・キリストが受肉され遣わされることによって成就しました。しかし、この預言の全容を知るためには、主イエス・キリストが十字架につけられて死に、三日後によみがえらされるのを待たねばなりませんでした(R.H. フラー)。
マタイ28:16,20――
16 さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った。……
20 (イエスは、近寄って来て言われた。)「あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」
これは、復活された主イエスが祝福をもって弟子たちを派遣する場面です。弟子たちは神の御計画のもとに、人間は罪と死に打ち勝てるものではないということを悟らされました。主イエスは、そのように打ち砕かれてしまった弟子たちに、「神は我々と共におられる」との信仰を堅く抱き続けるように導いておられます。
主イエス・キリストの十字架によって人間の罪の汚れは清められました。そして、主イエス・キリストの復活によって、人間の死のとげは滅ぼされました。このようにして、ひと度、主イエスに背を向け、ばらばらになっていた弟子たちが一つにされました。
特筆すべきは、彼らの信仰の土台に、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」との主イエス・キリストの宣言が据えられたことです。弟子たちは、勝利者・イエス・キリストによって、「インマヌエル」預言の恵み豊かさを教えられました。
「世の終わりまで、いつも」との言葉は、イザヤやアハズの知り得なかったもので、新しい啓示であります。主イエスは御父のもとに帰られても、すぐにわたしたちの慰め主として聖霊なる神を送ってくださいます。そのようにして、「神は我々と共におられる」との御言葉はさらに力強いものとされました。
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〈説教の要約〉
2024年 11月24日
旧約聖書 箴言 16章1節~9節(P.1011)
新約聖書 使徒言行録 16章10節(P.245)
説 教「主は人の歩みを堅くされる」 小河信一牧師
説教の構成――
序
Ⅱ 主がいとわれるのはあらゆる高慢さである ……箴言16:4-7
Ⅲ 正義に適う僅かなものの方が善い ……箴言16:8
Ⅴ わたしたちはすぐにマケドニアへ向けて出発することにした ……使徒言行録16:10
序
キリスト者は、自分の人生が主の御心によって変えられ整えられていくのを願っています。しかししばしば、人の思う計画と、その人に神の用意しておられる計画との間に葛藤が起こります。
たとえば、自分の願いが強過ぎて、神の御旨に思いが及ばないこと、あるいは、人生に挫折して、神の計画に信頼が置けなくなることが、神と人との間に溝を造り出します。
人生には山もあれば谷もあります。そこで大事なのは、人間の歩む道が神の計画に従って固められてゆくことです。逆に言えば、主の御心に背いて迷い出ないことです(マタイ18:12)。人生上の分岐点で、どちらに行けばよいのか、迷うこともあるでしょう。また、確信が持てるまで、その場に留まっていようとするかも知れません。
一つの失敗は決して最終的な失敗ではありません。今つまずいているからと言って、「神の国」を目指す旅路を見失わないことです。「御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働く」(ローマ8:28)という御言葉があります。神からの「御計画」を受け容れられるように、自分の心を拡げ柔らかくしておきましょう。
Ⅰ 主は人間の精神を測られる
箴言16:1-3――
箴言のこの箇所では特に、“ 霊 ” 的に深い人間観察がなされています。その理由の一つは、箴言16:1-9に連続して、「主」(ヤハウェ)が登場している(ただし:8には無い)ということにあります。すなわち、人の思いを超えたところにある神の計画や御旨に立脚して、信仰者が人生上、学ぶべきことが並べられています。
このように大所高所の視点から、自分の人生を捉えられれば、日々の一歩一歩も揺るぎないものとなるでしょう。そこで、三つの節で何が説かれているのか、見てみましょう。
まず気づくのは、「人間は心構えをする」、しかし、「人間の道は自分の目に清く見える」ことに危うさがあると、人間が洞察されていることです。
言い換えれば、人間はさまざまな企てをする、しかし、人間の持つ罪性、高ぶり・ねたみ・争い等によって、「人間の道」はいわば「白く塗った墓」になっているということです。つまり、「外側は美しく見えるが、内側は死者の骨やあらゆる汚れで満ちている」(マタイ23:27)のです。
本来、人間の「心構え」は、罪を繰り返さないこと、そして、神に立ち帰ることに向けるべきものです。しかし、その「心構え」や企ては、自らの名誉心や幸福欲を満たすことを優先しています。それが、「自分の目に清く見える」以上、欲望の充足に歯止めがかけられません。自分では良いことをしていると思い込んでいるのですから。
それ故に、信仰的に大所高所から語られているのは、「主が舌に答えるべきことを与えてくださる」または「主はその精神を調べられる」ということです。
冒頭で強調されているのは、「主」(ヤハウェ)と「人間」(アダム)との関係において、「主」から「人間」へを基軸にしなさい、ということです。その強固な主従関係を差し置いて、「人間」が自分の計画を見栄え良くして、人からの賛同を得ようとするのは、本末転倒です。
神の目には隠れているからと言い逃れようとする人に、「主はその精神を調べられる」と警告されています。仮に、今神が見過ごされているように思われても、終わりの日には、「人間の精神」の中身、その善と悪とが精算されます。神の正しい秤によって、この世で為した罪咎すべてが量られます。
では、どうすればよいのでしょうか? 「あなたの業を主にゆだねれば 計らうことは固く立つ」というのが、その答えです。
あなたが “ 霊 ” の導きにより「心構えをし」、そして「あなたの業」に取りかかるとき、そのこと全体を「主にゆだねなさい」と言うのです。詩編詩人も、「あなたの重荷を主にゆだねよ 主はあなたを支えてくださる」(55:23)と告げています。
それが、「主」から「人間」へを基軸とするということです。「あなたの重荷」を「主」にあずけましょう。もしも、「人間」関係に紛糾して打つ手が無くなるようなときにも、「主が舌に答えるべきことを与えてくださいます」。
忍耐して待たねばならない時もあります。しかし、「計らうことは固く立つ」のですから、動揺することはありません。
Ⅱ 主がいとわれるのはあらゆる高慢さである
箴言16:4-7――
ここでは、「主はその精神を調べられる」との観点から、信仰生活を妨げる諸問題がえぐり出されています。「逆らう者をも災いの日のために」から始まって、「高慢な心」、「罪」、「悪」、「敵」へと巡っていきます。わたしたちに求められているのは、「人間が心構えをする」ときに、これらの「災い」への「心構え」を怠るなということです。
人間が “ 霊 ” の導きによって計画や企てを造り上げるのに、時間がかかることもあります。先を急いではなりません。なぜなら、主が、「計らうこと(=あなたの計画・考え)は固く立つであろう」(箴言16:3)と約束してくださっているのですから。
ただしそれは、「人の道」(箴言16:7)が自分の思い通りになるということではありません。たとえば、「逆らう者」が道を塞いで、あなたの人生を「災いの日」の暗雲で覆うことがあります。しかしここで忘れてはならないのは、主なる神が「逆らう者をも災いの日のために造られる」ということです。苦難を見た哀歌詩人が「災いも、幸いも いと高き神の命令によるものではないか」(3:38)と述べています。
人生に波風が立つことを踏まえつつ、「主」から「人間」へという基軸がますます明らかにされます。それが、主なる神が「慈しみとまことをもって(自分の)罪を贖う」こと、そして、「主は敵(なる自分)と和解させてくださる」ことです。自分こそが「高慢な心」を持ち、「逆らう者」であると告白して、「主」の御前に出ることです。
Ⅲ 正義に適う僅かなものの方が善い
箴言16:8――
この詩行は例外的に、「主」(ヤハウェ)が出てきません。しかしこの箴言には、「主」から「人間」へという基軸が日常生活に浸透するように、との願いが込められています。
日常において実践されるのが求められている、この文の骨格は、「多くの~よりも、僅かな…の方が幸い」となっています。この逆転の発想こそが、神の知恵なのです。
一般に正しく思える前提と理論に反する言説を、パラドックス(逆説)と言います。たとえば、「心の貧しい人々は、幸いである」(マタイ5:3)との山上の説教の一節は、主イエスの語られた一種のパラドックスだと言えます。このように信仰の世界では、何が「幸い」なのかを物語る、人知を超えたパラドックスに注目することです。
詩編84:11――
主に逆らう者の天幕で長らえるよりは
前半を直訳すると、「千日よりも、あなたの庭で過ごす一日の方が幸いである」となります。その意味は、無為に千日を送っている人よりも、「あなたの庭で過ごす一日」を持っている人の方が良いということです。なぜなら、この「一日」の中に人生全体の「幸い」が凝縮しているからです。その「一日の幸い」によって試練を耐え忍ぶ人は、永遠の命に導かれる(ヤコブ1:12)という点でも、「千日」の長さを超越しています。
この「あなたの庭で過ごす一日」には、「わたしの神の家の門口に立っている」とのヒントが与えられています。ただし具体的に、ユダヤ人にとっての三大祭(過越祭・七週祭・仮庵祭)のような日なのか、巡礼者が都にたどり着いた日なのか、それとも、神の臨在に触れた日なのか、は不明です。いずれにしても、これまでの人生が真っ暗闇だったという人々もまた、この「一日の方が幸い」という大逆転に招かれているのです。
この世の論理や慣習を打ち破って、「多くの~よりも、僅かな…の方が幸い」というパラドックスを成り立たせているのが、「主」(ヤハウェ)なる神であります。「正義に反する」ことなく、「恵みの業をする」人は、生涯の中でこの「一日」、唯一無二の日を獲得するに違いありません。というのも、「主」がその人を顧みて、神の栄光を仰ぐ日を造られるからです。
Ⅳ 主は人の歩みを堅くされる
この段落の掉尾を飾るにふさわしい箴言です。「人間」(アダム)と「主」(ヤハウェ)とが登場して、「主」から「人間」へという基軸が再現されています。同時に、「人の道」(箴言16:2,7,9)との鍵語によって、人生のガイドラインが示されています。
では、「人間(アダム)は自らの道について何を理解していようか」(箴言20:24)との問いかけをもって始めましょう。
「人の道」は言うまでもなく、無くてはならず大切なものです。それは、「人間(アダム)」が見極めよう・理解しようとして、「自分の道を計画する」ところに現れています。
それならば、「自分の道を計画する人」は「主に喜ばれる道を歩む人」(箴言16:7)と同一視されるのでしょうか? この箴言は単に、「自分の道を計画する」ことを奨励しているのでしょうか?
断じてそうではありません。それだと、「主」から「人間」へということにはなりません。「人の道」において最重要なのは、「主が(人の)一歩一歩を備えてくださる」ということです。その「主」への信頼に基づいて、「自分の道を計画する」ことに取りかかるのです。
この箴言において、「あなたの業を主にゆだねれば あなたの計らうこと(計画)は固く立つであろう」(16:3)との神の約束がなされました。あなたは、「主が一歩一歩を備え、固く立てられる」という道を行きますか、問われています。それは確かに、ただ一つの道であります。
或る人は、「自分の道」でつまずき倒れて、主の備えられた道にたどり着きます。また、他の人は、脇目も振らずに「自分の道」を突っ走ろうとしています。全く対照的な人の生涯です。
「主」なる神は、そのような人々の入り交じるただ中に、御子、イエス・キリストを遣わされました。主イエスは、「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」(ヨハネ14:6)と言われました。
こうして人々は、ただ一つの道を見出せるようになりました。詩編詩人は、「あなたの道を主にまかせよ」(37:5)、あなたはその道をごろごろと転がっていきなさい、と勧めました。
今や、「あなたの道」・「人の道」は、「わたしは道である」という主イエス・キリストと交わりました。主イエスが愛と正義をもって、「(人の)一歩一歩を備えてくださいます」。
最後にそのようにして、広く地中海圏に足跡を残したパウロの人生の一場面を見てみることにしましょう。
Ⅴ わたしたちはすぐにマケドニアへ向けて出発することにした
使徒言行録16:10――
パウロがこの幻を見たとき、わたしたちはすぐにマケドニアへ向けて出発することにした。
マケドニア人に福音を告げ知らせるために、神がわたしたちを召されているのだと、確信するに至ったからである。
結論的に言えば、パウロの第二回目の伝道旅行中、この場面で箴言16:9の預言が鮮やかに成就します。すなわち、パウロは身をもって、「人間の心は自分の道を計画するが、しかし、主が人の一歩一歩を備えてくださるであろう」(直訳)との御言葉を体験することになりました。この「しかし」の一句に象徴される神の御心の偉大さと神秘とを知らしめられたのです。
パウロは今、小アジア西端の港町トロアスに下って来たところでありました。しばらくぶりに地中海の海原を見て、パウロは何を想っていたのでしょうか。
この直前にパウロは、アジア州やミシア地方で御言葉を語ることが、聖霊またはイエスの霊によって阻まれるという経験をしています(使徒16:6-7)。傷心のパウロにとって、眼前の大海は障壁を意味していたのでありましょうか。ここで撤退してイスラエルに帰るというのも、一案だったでしょう。伝道はまさに瀬戸際にありました。
使徒言行録16:9――
(そして)その夜、パウロは幻を見た。その中で一人のマケドニア人が立って、「マケドニア州に渡って来て、わたしたちを助けてください」と言ってパウロに願った。
「そしてその夜、幻がパウロに現れた」(直訳)ということです。神の御旨が「幻」により、「一人のマケドニア人」の口を通じて開示されました。小アジアで行き詰まった伝道に対し、「そして」と共に、次への転回が起こされました。問題は、この出来事を上からの啓示として、パウロが “ 霊 ” 的に受け止められるかどうかです。
この第二回目の伝道旅行は、「一方、パウロはシラスを選び、兄弟たちから主の恵みにゆだねられて、出発した」(使徒15:40)との証言をもって始められました。パウロは「主の恵みにゆだねられて」との言葉の重さを知る人でありました。その下地には、「あなたの業を主にゆだねれば 計らうこと(あなたの計画)は固く立つであろう」(箴言16:3)との御言葉を、教師ガマリエルから学んでいた(使徒22:3)ということがあったかも知れません。
パウロは「主の恵み」のうちに、「すぐにマケドニアへ向けて出発することにしました」。まことに、「人の道」はさまざまですが、パウロたち一行は海上の道を進むことなりました。それは単なる海路ではなく、キリスト教が初めてヨーロッパで宣べ伝えられる、その出立の道でありました。何よりも、「神がわたしたちを召されているのだと、確信するに至った」ということが原動力でありました。
この箇所が初出となる「わたしたちは」(一人称複数・主格)の中に、パウロの喜びが表されています。瀬戸際に追い込まれた一行はここで、「わたしたち」として一つになりました。というのも、「神の召し」において、パウロたちは神に結び合わされ、互いに「兄弟」と呼びようになったからです(Ⅱコリント1:1、2:13)。その点で、トロアス港を出航した船内に、小さいながらも一つの教会ができていたのであります。
結
2024年も残り一ヵ月ばかりとなりました。皆さんにとって、この一年の歩みはどのようなものだったでしょうか。自分が企てて進んで来た道は、神の計画に従って固められたでしょうか。新しい年の「わたしたちの道」が主によって「一歩一歩を備えられる」ようお祈りしましょう。
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〈説教の要約〉
2024年 11月17日
旧約聖書 ダニエル書 7章15節~22節(P.1393)
新約聖書 コリントの信徒への手紙 一 6章1節~8節(P.305)
説 教「兄弟を仲裁できるような知恵のある者はいないのか」 小河信一牧師
説教の構成――
序
Ⅰ なぜ、聖なる者たちに訴え出ないのですか
Ⅱ 聖なる者たちが世を裁くのです
……Ⅰコリント6:2-4
……Ⅰコリント6:5-6
Ⅳ なぜ、むしろ不義を甘んじて受けないのです
……Ⅰコリント6:7-8
Ⅴ 日の老いたる者の裁きといと高き者の聖者らの勝利
……ダニエル書7:15-22
序
今、パウロは新しく誕生した諸教会においてキリスト教倫理を打ち建てようとしています。その “ 霊 ” 的な作業は、観念的・思弁的に立案するというよりも、具体的な事例を検証しながら慎重に進められました。
例えば、コリント教会に「みだらな行い」が生じた時にも、パウロはすぐに介入し助言を送りました。そして、教会内に、間違った性的自由が忍び込まないよう戒めました(Ⅰコリント5:2-3,12)。
パウロは、個別の事例をつまびらかにし、罪を犯した人に寄り添っています。同時に、「みだらな行い」への対応に示されている通り、パウロは広い観点に立ち、過越祭(=主日礼拝)、最後の審判、そして神の国など(Ⅰコリント5:5,8、6:9)、キリスト教の基本をしっかりと踏まえています。その上で、ひとりの人が犯した罪について問題解決を試みています。
それは、倫理または道徳を説く者の姿勢として極めて健全であります。というのも、悪事を為した人を裁こうとして感情的になったり、また、自分が「教えてあげる」というように高慢になることがあるからです。そうではなくわたしたちには、神の国に向かって歩んでいるキリスト者として、つまずき倒れている人々の隣人となることが求められています。
それ故に、信仰の成熟した牧会者パウロが、どのようにキリスト教倫理を築き上げていったのか、が注目されます。そのような中に、パウロが「ささいな事件」(Ⅰコリント6:2)と呼んでいる争いが起こります。それは実際に災いなのですが、そこに、キリスト教倫理がより綿密化されるという幸いがもたらされます。
その案件は、「日常の生活にかかわる争い」(Ⅰコリント6:4)とも呼ばれています。皆さんはおそらく、どうして深刻かつ複雑でない出来事のために大騒ぎするのか、と思われることでしょう。しかし自分の周りを見わたせばすぐに分かるように、しばしば「ささいな事件」がこじれ、多くの人が巻き込まれて解決不能になることがあります。
ここで「ささいな事件」が紛糾してしまった一因は、その事件を「裁いた」人にある、とパウロは主張しています。確かに、「教会では疎んじられている人たちを裁判官の席に着かせた」(Ⅰコリント6:4)のであれば、「火に油を注ぐ」ようなものです。そうではなく当然、「兄弟を仲裁できるような知恵のある者」(同上6:5)が裁きの席につくべきであります。
パウロはこの手紙で、「仲裁できる」人として的確な忠告をしています。これは単に、「教会内の疎んじられている人たち」や「信仰のない人々」(Ⅰコリント6:6)を訓誡したり排除したりして済むものではありません。
むしろ、「聖なる者たち」(Ⅰコリント6:1,2)と称呼されている、コリント教会に属するすべての人が真剣に係わらなければなりません。「ささいな事件」を見て見ぬふりをせずに、皆が「裁く」(ギリシア語:クリノー 同上6:1,2,2,3,6)ことに関心を寄せるように、パウロは訴えています。
「裁く」との用語が繰り返され、この段落の鍵語になっています。どのような文脈で「裁く」が出てくるのか、調べてみましょう。その前に、付け加えれば、キリスト者が「裁く」場合、それは、正しく「量る」・「判断する」こととほぼ同意だということです。
主イエスは弟子たちに、「何を聞いているかに注意しなさい。あなたがたは自分の量る秤で量り与えられ、更にたくさん与えられる」(マルコ4:24)とのたとえを語られました。ここには明確に、信仰者は「自分の量る秤」を持っていることが示されています。その「秤」をもって正しく、神と、自分と、兄弟姉妹とのことを「判断する」のです。その判断のもとに、愛の交わりが確立されるのでありましょう。
絵画的描写になりますが、「自分の量る秤」は、主イエス・キリストなる「ともし火」によって皓々と照らされています(マルコ4:21)。その上、「自分の量る秤」には元来、注意深く「聞く耳」が付いています(同上4:31)。
以上、「裁く」と「量る」・「判断する」との関連が密接であることを確認しました。では、わたしたち各々、「自分の量る秤」を持って、コリント教会の「日常の生活にかかわる争い」に向き合うことにしましょう。
Ⅰ なぜ、聖なる者たちに訴え出ないのですか
コリントの信徒への手紙 一 6:1――
あなたがたの間で、一人が仲間の者と争いを起こしたとき、聖なる者たちに訴え出ないで、正しくない人々に訴え出るようなことを、なぜするのです。
新共同訳から読み取りにくいのですが、「(争いを起こし)訴え出る」の部分に「裁く」が使われています。要するに、「一人が仲間の者と争って」、「裁き」(裁判)を行う場合に、どうして、それを「聖なる者たち」ではなく、「正しくない人々」にゆだねるのか、ということです。
多分、少なからぬ人に、言語明瞭、意味不明の状態でしょうか。そこで初めに、「あなたがたの間で」(Ⅰコリント5:1、6:1)、「聖なる者たち」、そして「正しくない人々」という人物について説明します。
「あなたがたの間で」という「あなたがた」は、コリント教会の兄弟姉妹全員を指しています。パウロは「あなたがたの間」の情報を、手紙のやり取りや巡回伝道者の口を通して得ています。パウロがやや筆を慎重に進めているのは、そのためです。今遠隔地にいるパウロは、事件の当事者と直接話をしたわけではありません。
また、「わたしたち」と「あなたがた」には、実際の相互関係が暗示されています。すなわち、コリント教会の土台を据え、それを建てついだ「わたしたち」(パウロやアポロ)は、「あなたがた」、コリント教会の人々が「キリストの体」なる神の聖なる神殿を建てていくのを見守っているということです。そのことを背景に、ここでは、「わたしたち」が「あなたがた」を叱責しているという意味合いが込められています。
次に、急に飛び出してきたような「聖なる者たち」について説き明かします。これは、キリスト教倫理を構築していく上での重要な用語です。
この段落は、間違った裁判沙汰によって教会がかき乱されないように、といういわば緊急事態に置かれています。従ってここでは、主イエス・キリストの十字架と復活という福音的なメッセージは詳述されていません。しかし、この「聖なる者たち」は、主イエス・キリストの救いの御業と固く結び合わされています。
パウロは、この段落で「教会の中で、争いが起きたときに、どうすればよいか」との問題を取り上げた直後に、結びとして次のように述べています。
コリントの信徒への手紙 一 6:11――
あなたがたの中にはそのような者もいました。しかし、主イエス・キリストの名とわたしたちの神の霊によって洗われ、聖なる者とされ、義とされています。
「(あなたがたは)聖なる者とされた」と「聖なる者たち」とは同じ語源から派生した言葉です。
キリスト者とは一体、どのような人かと言えば、「洗われ、聖なる者とされ、義とされた」人との定義をもって答えられます。言い換えれば、主イエスに救われて、悔い改め、その生活の上に大転換が起こった、そのような信仰者であるということです。そのように「あなたがた」がひっくり返されたのは、「主イエス・キリストの名とわたしたちの神の霊によって」であると、パウロは明示しています。
このように、「聖なる者たち」について福音的な理解がなされるならば、「正しくない人々」の正体があぶり出されます。
「正しくない人々」はまず、コリント教会を取り巻いていた世間の一部の人々を指すと言えるでしょう。パウロは、「この世のみだらな者とか強欲な者、また、人の物を奪う者や偶像を礼拝する者たち」(Ⅰコリント5:10)から信仰者が受ける悪影響を心配しています。
しかし、この文脈では、「正しくない人々」というのは、「兄弟と呼ばれる人」、つまり、教会の「内部の人々」(Ⅰコリント5:10,12)を昭示しています。そのことは、「それなのに、あなたがたは、日常の生活にかかわる争いが起きると、教会では疎んじられている人たちを裁判官の席に着かせるのですか」(同上6:4)との一文から明らかです。彼らはきっと「王様になって」(Ⅰコリント4:8)、裁きの座についていたのでありましょう。
パウロの豊富な語彙において、「正しくない人々」については、さまざまな形で言及されました。思い起こしてみましょう。「自然の人」、「肉の人」、信仰の未熟な「乳飲み子」、「木、草、わらで家を建てる」人など、まことに辛辣な言葉が並んでいます(Ⅰコリント2:14、3:1,2,12)。
「正しくない人々」のいちばんの問題は、ひと度洗礼を受けながら、罪を犯しても悔い改めないということでありました。その結果、彼らは「何でも許されている」(Ⅰコリント6:12)と錯覚し、キリスト者の自由を履き違えて、「みだらな行い」や「裁判ざた」を起こして、コリント教会を混乱させました。
残念ながら、救われたという確信のない「正しくない人々」が教会内で、どんな振る舞いをするか、十全には予測できません。実にコリント教会では、「ささいな事件」を裁く「裁判官の席」(Ⅰコリント6:2,4)が彼らの一人に乗っ取られてしまいました。
このように見てくるならば、「聖なる者たち」との一語に込められた重みが、ご理解いただけるでしょう。コリント教会の人々よ、「あなたがた」の大部分は「聖なる者たち」なのではないですか、「あなたがた」が立ち上がるのに、遅いということはありません、とのパウロの肉声が聞こえてきそうです。
冒頭に続いて次節でも、パウロは「聖なる者たち」との用語を前面に押し立てています。
Ⅱ 聖なる者たちが世を裁くのです
コリントの信徒への手紙 一 6:2-4――
2 ①あなたがたは知らないのですか。聖なる者たちが世を裁くのです。世があなたがたによって裁かれるはずなのに、②あなたがたにはささいな事件すら裁く力がないのですか。3 ③わたしたちが天使たちさえ裁く者だということを、知らないのですか。まして、日常の生活にかかわる事は言うまでもありません。4 それなのに、あなたがたは、日常の生活にかかわる争いが起きると、④教会では疎んじられている人たちを裁判官の席に着かせるのですか。
パウロは修辞疑問文(①~④)によって、自分の言いたいことを強調しようとしています。目下、「日常の生活にかかわる争いが起こっている」状況ですから、毅然たる態度のうちに柔和さをもって語りかけています。
①「あなたがたは知らないのですか」(他にⅠコリント3:16)……パウロは、「あなたがたは~を知らないのですか」と問いかけています。「はい、わたしたちは既に〈“霊”に教えられて〉知っています」との答えが期待されています。まさに、信仰の未熟な「乳飲み子」を諭すような丁寧な言い方です。パウロは信徒の「知っている」ことから議論を展開しようとしています。
そしてただちに、「聖なる者たちが世を裁くのです」と中心の論点が提示されます。これを聞いて、パウロはキリスト者の「裁き」(裁判)を当然のこととしているのか、と誤解してはなりません。
パウロは、「そもそも、あなたがたの間に裁判ざたがあること自体、既にあなたがたの負けです」(Ⅰコリント6:7)という箇所で、「裁き」(裁判)に抑制をかける主旨の発言をしています。しかしわたしは、「聖なる者たちが世を裁くのです」というのは真理であり、キリスト教倫理を支えるものだと考えます。
その理由は先に述べた通り、「裁く」との用語が「量る」・「判断する」との意味を包括しているからです。わたしたちが「自分の量る秤」を活用してはじめて、「地の塩、世の光」(マタイ5:13-14)として自分を証しすることができるのではないでしょうか。
要するに、「ささいな事件」や「日常の生活にかかわる争い」がこじれてしまったときに、「聖なる者たち」が当事者(罪を犯した人)に寄り添い、証人を喚んで、「裁き」の座を設ければよいのです。
論点の中心・「聖なる者たちが世を裁くのです」に戻りましょう。
キリスト教倫理の確立された「教会」(Ⅰコリント6:7)は世のともし火となって暗闇を照らしています。そこで、この世の中には、「聖なる者たち」の清い暮らしぶりを見て、自らを省みる者が現れることでしょう。あるいは、「自分が裁かれている」ような恐れを抱く人もいるかも知れません。
③「わたしたちが天使たちさえ裁く者だということを、知らないのですか」……この一文から、パウロが広い観点に立って、つまり、終わりの時を見据えて議論していることが分かります。
「ささいな事件」の「裁き」となると、人間は目先の利益に捕らわれることがあります。感情的になって過激な発言をすることもあります。
しかし、パウロは「ささいな事件」の「裁き」を、将来開廷される最後の審判と並行させて考えようとしています。根底になっているのは、あなたがた・「聖なる者たち」は「天使たち」よりも上に置かれているという思想です(R.B. ヘイズ)。この考え方は聖書に類例が見られませんが、「一切はあなたがたのもの、あなたがたはキリストのもの、キリストは神のものなのです」(Ⅰコリント3:22-23)との頌栄が理解のヒントになるはずです。
この頌栄では最後に、「キリスト」と「神」とが登場しています。つまり、「あなたがた」は創造主であり支配者である「神」につながれています。「死も、命も、天使も、支配するものも …… 他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです」(ローマ8:38-39)というのが、「キリスト」・「神」と「あなたがた」との愛の交わりの基本です。
主イエスに救われている今、それほどに固い絆によって、「キリスト」・「神」と「あなたがた」は結ばれています。なお、その上に聖霊による励ましがあります。従って、「あなたがた」が最後の審判で裁かれた後に、「裁き」の座についている……天使たちさえ裁く者だ……とのパウロの見通しは “ 霊 ” 的な判断であるに違いありません。
相手を打ち負かそうと、邪悪な思いで、「ささいな事件」の「裁き」を行ってはなりません。それでは、最後の審判において与えられている陪審の栄誉が汚されてしまいます。「日常の生活にかかわる争い」だからこそ、神の大いなる救いの計画を仰ぎ、困難に陥っている兄弟姉妹の行く末を見守りましょう。最後の最後まであきらめることはありません。「あなたがた」には「聖なる者たち」としての永遠の栄誉と責務があります。
Ⅲ 兄弟が兄弟を訴えるのですか
コリントの信徒への手紙 一 6:5-6――
5 あなたがたを恥じ入らせるために、わたしは言っています。あなたがたの中には、兄弟を仲裁できるような知恵のある者が、一人もいないのですか。6 兄弟が兄弟を訴えるのですか。しかも信仰のない人々の前で。
「ささいな事件」に係わる論議の終結に向けて、パウロは「兄弟」という用語を多用しています(Ⅰコリント6:5,6,6,8)。親愛の情をもって「兄弟たちよ」(同上1:10、4:6)と、コリント教会の兄弟姉妹に呼びかけています。
パウロ自身の中で、「日常の生活にかかわる争い」を解決する信仰基盤が次第に鮮明になってゆくにつれて、兄弟姉妹が集うコリント教会全体が見わたせるようになりました。その上でパウロは、「あなたがたの中には、兄弟を仲裁できるような知恵のある者が、一人もいないのですか」と厳しく問いかけています。
「知恵のある者」もまた、パウロ特愛の鍵語です。パウロは「わたしは、神からいただいた恵みによって、熟練した(=知恵のある)建築家のように土台を据えました」(Ⅰコリント3:10)と自己紹介しています。パウロの言う「知恵のある者」はへりくだり、一心に「十字架の言葉」に依り頼んでいます(同上1:18)。
パウロは、この世の知恵を収集することではなく、“ 霊 ” によって教えられることを重んじています(Ⅰコリント2:13)。そのような「知恵のある者」が「霊によって判断する」(同上2:14)からこそ、「ささいな事件」の「裁き」は信頼できるものとなるのです。
コリント教会内に、「兄弟が兄弟を訴える」ことが起こっています。これでは、「信仰のない人々」への証しになりません。「信仰のない人々」への福音宣教が滞ってしまいます。
Ⅳ なぜ、むしろ不義を甘んじて受けないのです
コリントの信徒への手紙 一 6:7-8――
7 そもそも、あなたがたの間に裁判ざたがあること自体、既にあなたがたの負けです。なぜ、むしろ不義を甘んじて受けないのです。なぜ、むしろ奪われるままでいないのです。8 それどころか、あなたがたは不義を行い、奪い取っています。しかも、兄弟たちに対してそういうことをしている。
前のⅢ.では、パウロは兄弟姉妹の集うコリント教会全体を見わたしながら問いかけていると指摘しました。このⅣ.では、パウロは主イエス・キリストの行いと言葉に思いを寄せながら語っています。「一切はあなたがたのもの、あなたがたはキリストのもの、キリストは神のものなのです」(Ⅰコリント3:22-23)との頌栄に即するかのように、論を展開しています。
「ささいな事件」の「裁き」で注意しなければならないのは、「教会では疎んじられている人たち」からの横槍または妨害です。彼らは、自分たちが事の白黒をつける、と自信満々です。「わたしの正しい意見を聞かせてあげよう」と高ぶっています。
彼らの「量る秤」は人の知恵と誇りによって狂わされ、壊れかけています。ですから、主イエス・キリストなる「ともし火」によって照らされ、注意深く「聞く耳」の付いている「自分の量る秤」の登場が待たれます。「兄弟を仲裁できるような知恵のある者」には、健全でへりくだった「自分の量る秤」があります。その人は、天上の「キリスト」と「神」による「裁き」(最後の審判)に照らして、「日常の生活にかかわる争い」の「裁き」に取り組みます。
パウロは、「そもそも、あなたがたの間に裁判ざたがあること自体、既にあなたがたの負けです」との名言を唱えた後に、次のような形で、「裁く」人の姿勢を検証するように訴えています。
①「なぜ、(あなたがたは)むしろ不義を甘んじて受け〈受動態〉ないのです。」
②「なぜ、(あなたがたは)むしろ奪われるまま〈受動態〉でいないのです。」
同じ内容が繰り返されています。この繰り返しの主張の拠り所は、主イエス・キリストの忍従にあります。主イエスは、「しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」(マタイ5:39)と教えられました。パウロは「ささいな事件」の「裁き」においても、主イエスに倣う者になりなさい、と語りかけています。
わたしたちは、「不義を甘んじて受け」、「奪われるまま」では、「裁く」人として不適格ではないか、と思うかも知れません。果たしてそうでしょうか? 「むしろ」そのようにして、主イエスのごとく打ち砕かれている自分の内に、神の知恵と愛が降って来るのではないでしょうか。
主イエス・キリストへの信仰にこそ、神の力と権威が現れます。義しい「裁き」が行われるか否かは、神の支配のもとに置かれているかどうか、に掛かっています。
自分が「不義を甘んじて受け」させられ、「奪われるまま」だったから、今度は相手に、「不義を行い、奪い取る」ということでは、「裁判ざた」は止みません。ただただ、「不義を甘んじて受け」、「奪われるまま」という主イエスの忍従に徹することです。
Ⅴ 日の老いたる者の裁きといと高き者の聖者らの勝利
ダニエル書7:15-22――
15 わたしダニエルは大いに憂い、頭に浮かんだこの幻に悩まされた。16 そこに立っている人の一人に近づいてこれらのことの意味を尋ねると、彼はそれを説明し、解釈してくれた。
17 「これら四頭の大きな獣は、地上に起ころうとする四人の王である。18 しかし、いと高き者の聖者らが王権を受け、王国をとこしえに治めるであろう。」 19 更にわたしは、第四の獣について知りたいと思った。これは他の獣と異なって、非常に恐ろしく、鉄の歯と青銅のつめをもち、食らい、かみ砕き、残りを足で踏みにじったものである。20 その頭には十本の角があり、更に一本の角が生え出たので、十本の角のうち三本が抜け落ちた。その角には目があり、また、口もあって尊大なことを語った。これは、他の角よりも大きく見えた。21 見ていると、この角は聖者らと闘って勝ったが、22 やがて、「日の老いたる者」が進み出て裁きを行い、いと高き者の聖者らが勝ち、時が来て王権を受けたのである。
紀元前6世紀、バビロン捕囚時代のことです。
ダニエルは、眠っているとき頭に幻が浮かび、一つの夢を見ました。彼はその夢を記録し、さらにその解釈を付け加えました。上に引用したのは、夢の解釈の部分に当たります。「大いに憂い、幻に悩まされた」ダニエルに代わって、「そこに立っている人の一人」(天使)が、その夢を「説明し、解釈してくれた」ということです。
その「夢」というのは、ひと言で言えば、終末における神と「四頭の獣」との対決です。ラスボスならぬ「第四の獣」(ダニエル書7:7)が巨大で屈強でしたが、他の三頭ともども、神によって退けられてしまいました。
そこで注目したいのが、終わりの時、神が勝利するという預言の一節です。
やがて、「日の老いたる者」が進み出て裁きを行い、いと高き者の聖者らが勝ち、時が来て王権を受けたのである……「日の老いたる者」というのは、ダニエル書独特のもので、神を指しています(ダニエル書7:9,13,22)。この類いの別称は、ユダヤ人たちが異邦人の迫害のもとで、ひそかに神信仰を守り抜いた痕跡とも言えましょう。
「第四の獣」は殺されて、燃え盛る火に投げ込まれました(ダニエル書7:11)。他の獣は権力を奪われました。そこで神の上に栄光が輝くのですが、その勝利について、次のように記されています。
①日の老いたる者が進み出て、席につき、裁きを行う。ダニエル書7:10,22,26
②いと高き者の聖者らが勝ち、時が来て王権を受ける。同上7:18,22,27
①と②の出来事が、ダニエルの夢とその解釈の中に、再三描き出されています。ですから、それが重大事だと分かります。
パウロにとって、そしてわたしたちにとって大切なのは、コリント教会の「ささいな事件」の「裁き」の先に、「日の老いたる者」による「裁き」があるということです。パウロは、神が裁きの座について裁きを行う将来を切に待望しています。だからこそ、今、教会内に「裁判ざたがあること自体、既に負け」なのです。
パウロの「聖なる者たちが世を裁くのです」(Ⅰコリント6:2)との発言について、少し専横・出しゃばりではないかと思われた方がいるでしょうか。
①と②に言い表されている通り、「聖なる者たち」は、最後の審判において陪審の栄誉にあずかります。「日の老いたる者が席につき、裁きを行う」のを目撃し、その証人になっている、その理由は彼らが「世を裁く」よう訓練されていたからでありましょう。神の栄光のもとに、信仰者それぞれの「自分の量る秤」は輝いています。
裁判の陪席と言うと、固い話のように聞こえますが、神の恵みによって、「いと高き者の聖者らが勝ち、時が来て王権を受ける」ということです。“ 霊 ” の導きによって、「日常の生活にかかわる争い」に真摯に向き合う教会とその兄弟姉妹は、そのような恵みにあずかることが約束されています。
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〈説教の要約〉
2024年 11月10日 降誕前 第7主日
旧約聖書 エレミヤ書 11章21節~23節(P.1198)
新約聖書 マルコによる福音書 6章1節~6節a(P.71)
説 教「預言者は故郷では敬われない」 小河信一牧師
説教の構成――
序
Ⅰ 安息日にイエスは会堂で教え始められた
……マルコ6:2b-3
……エレミヤ書11:21-23 + マルコ6:4
Ⅳ イエスは人々の不信仰に驚かれた
……マルコ6:5-6a
結
序
主イエスは、今のイスラエル北部、ガリラヤ湖畔を巡り歩いて伝道しておられました。主イエスは弟子たちはじめ民衆に向かって、①〈初めに〉罪の赦しを教える(マルコ2:5、3:28)⇒②〈次に〉病気をいやし奇跡を起こす (マルコ2:11-12、3:5)という宣教をくり返されました。それは取りも直さず、主イエスがどのようなお方であるか、を示すためでありました。
本日のテキスト箇所でその問いは、「この人は、このようなこと(知恵や奇跡)をどこから得たのだろう」と言い直されています。端的にその答えを言えば、「神から」となります。しかし、マルコ福音書記者自身も、人々が信仰をもって、「イエスは知恵や奇跡を神から得た」と告白するよう導いています。だからこそ、福音書記者は冒頭から、イエスは「神の子」である(1:1)と証言しています。
弟子たちを含め、群衆の中から一人でも多く、「あなたは神の子だ」(マルコ3:11)と告白する信仰者が生まれることが待望されます。しかし人々の関心が、イエス・キリストが何者なのか、に集中していくにつれて、サタンはじめこの世の権力者たちからの妨害が強まっていきます。
本日のテキスト箇所では、主イエスに対する反感や拒絶が露わになります。主イエスにつき従う者は、石だらけの不毛な土地や茨の生い茂る土地(マルコ4:4-7)を巡り回らなければなりません。「どのようにてイエスを殺そうか」(同上3:1)との陰謀を耳にして、逃げ出したりしてはなりません。というのも、そうした困難や脅威を乗り越えるうちに,忍耐とまことの喜びが育まれるのですから。
死と復活を予告され、十字架の道に向かって進まれる主イエスが、目の前におられます。“ 霊 ” の導きのもとに、主イエスの行いと言葉によって教えられる者となりましょう。
Ⅰ 安息日にイエスは会堂で教え始められた
マルコ福音書6:1-2a――
1 イエスはそこを去って故郷にお帰りになったが、弟子たちも従った。2 安息日になったので、イエスは会堂で教え始められた。
この段落の結びの意外さがまったく予期できないような、平穏な始まりになっています。
主イエスは、伝道の拠点カファルナウムのあるガリラヤ湖畔を「去って故郷にお帰りになりました」(ガリラヤ湖と故郷のナザレとは約20㎞ 離れています)。主イエスの傍らには、今や「わたしの兄弟」(マルコ3:34)となった「弟子たち」がいました。
主イエスは通りがかりに、人に「わたしに従いなさい」と声をかけられました(マルコ2:14)。「弟子たちも従った」というように、弟子たちも湖畔でその呼び声を聞きました(同上1:17,20)。さらには、「徴税人や罪人」(同上2:15)はじめおびただしい群衆が主イエスに「従いました」(同上3:7)。
そのようにして、主イエスは野外で、あるいは、会堂や人の家で神の国の福音を宣べ伝えられました。主イエスに御業を伝え聞いた人々が、「ガリラヤ、ユダヤ、エルサレム、イドマヤ(エドム)、ヨルダン川の向こう側、ティルスやシドンの辺り」からやって来ました(マルコ3:7-8)。すなわち、ユダヤ民族の垣根を飛び越えて、異邦人世界からも、人々が集まって来ました。
主イエスは「従う」人々の中から、あたかも「弟子たち」を選抜するかのように、彼ら十二人を故郷に伴われました。故郷への帰還は実際、十二人を呼び寄せ、権威を授けて派遣する(マルコ6:7-13)直前のことでありました。「弟子たち」は黙々とではありますが、彼らは「神の子」イエスに寄り添われる中で、数々の「神から授けられたイエスの知恵や奇跡」を経験することになりました。
ナザレ伝道の成果が、すでにそこにありました。それに考えてみれば、初代エルサレム教会を築いた人物、弟子・ペトロとイエスの弟・ヤコブとの初めて出会いも、その時のことでありました(使徒1:17、ガラテヤ1:18-19)。主イエスの復活後、そこで知り合った二人、ペトロとヤコブは協働し、迫害の嵐の中で教会を建てました。そしてまさにその二人に、パウロがつなげられて(使徒9:28、21:18)、キリスト教の伝道は大きく展開されていきました。
「安息日になったので、イエスは会堂で教え始められた」……これまでに主イエスは、カファルナウムで「安息日に会堂で教えられた」ことがありました(マルコ1:21、3:1-2)。この伝道の基本姿勢は、郷里でも変わりがありません。「安息日」に、幼児のイエスを知る人々がいたに違いない「会堂」に入って行かれました。
ルカ福音書によれば、主イエスは聖書朗読をもって、「貧しい人に福音を告げ知らせる」との御言葉を語られました(4:16-20)。それによって、ナザレの人々は初めて、主イエスの御言葉を聞くことになりました。果たして、彼らの心が解放されて、主イエスに「従う」ようになったのでしょうか。
Ⅱ この人は、このようなことをどこから得たのだろう
マルコ福音書6:2b-3――
2 多くの人々はそれを聞いて、驚いて言った。「この人は、このようなことをどこから得たのだろう。この人が授かった知恵と、その手で行われるこのような奇跡はいったい何か。3 この人は、大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか。」このように、人々はイエスにつまずいた。
上の文章を丁寧に読み解くと、二通りの問いに分けられます。
一つの問いは先述したように、「イエスは、知恵や奇跡をどこから得たのか」ということです。これ自体は、立てるに価する問いであります。人が “ 霊 ” の導きによって答えを得ようとするならば、「神から」と教えられることでしょう。
しかし、この良い「信仰問答」は、もう一つの問い、言い換えれば、厄介な疑惑によって妨げられます。
もう一つの問いというのは、「我々の良く知っているイエスが、御言葉を教え、奇跡を行っているのは、どういうことか」ということです。この第二の問いは、いわば「我々の良く知っているイエス」と「知恵を語り奇跡を行っている主イエス」との落差に起因するものです。その落差が解消されない限り、問いは問いのままで終わります。
つまりそれは、問いを発する以前に、その人の、主イエスとの向き合い方に問題があるということです。その人に偏見や独断がある限り、 “ 霊 ” 的な思考を期待することはできません。
「あなたがたは自分の量る秤で量り与えられ、更にたくさん与えられる」(マルコ4:24)との主イエスの御言葉を借りるならば、その人の持つ「量る秤」は全く故障しています。その「自分の量る秤」は、主イエス・キリストなる「ともし火」によって皓々と照らされることなく、また、注意深く「聞く耳」も付いていません(同上4:21,31)。
ナザレの人々はおそらく、イエスは我々の間で育った「大工」の子だという考え方に捕らわれています。自分自身を中心にしか、主イエスにまつわる日常性を受け止めていません。端的に言えば、「近所の子ども」だと思い込んでいては、このお方において「神の子」を見出すことはできません。それに輪をかけるように、「あの男(イエス)は気が変になっている」(マルコ3:21)とのうわさが広まっていました。
こういう状況下では、ナザレの人々は主イエスの平易なたとえも誤解してしまうことでしょう。というのも、ナザレでお育ちになった主イエスが、日常においては隠されている「神の国の秘密」(マルコ4:11)が物語っておられるからです。「種蒔き」の話なら「近所の子ども」(少年イエス)より、農夫の自分の方が熟知していると言い出しそうです。いずれにせよ、主イエスの日常性に「つまずいている」ようでは、たとえ話が指し示す「神の国」は見えてこないことでしょう。
主イエスが自分たちにとってあまりにも身近なために、ナザレの人々は「主イエスがどのようなお方であるか」との問いを真剣に考えることができなくなっています。どうして、故郷の人々は主イエスを歓迎しないのか、との問題に関し、旧約聖書からエレミヤとアナトトの人々の事例をひもといてみましょう。
Ⅲ 預言者は自分の故郷では敬われない
21 それゆえ、主はこう言われる。
「主の名によって預言するな
我々の手にかかって死にたくなければ」と言う。
22 それゆえ、万軍の主はこう言われる。
若者らは剣の餌食となり
息子、娘らは飢えて死ぬ。
それは報復の年だ。」
マルコ福音書6:4――
イエスは、「預言者が敬われないのは、自分の故郷、親戚や家族の間だけである」と言われた。
上のエレミヤ書からの引用は、エレミヤの「告白録」の一部に当たります。ここで「告白録」というのは、エレミヤが預言活動を行う際に、彼が個人的な思いを赤裸々に言い表したのを採録したものです。その中には、自分自身の心情のほか、神への訴え、神からの答え、そして、敵対者への裁きなど含まれます。
わたしたちはこの「告白録」を通じて、預言者エレミヤの深い苦悩を知ることができます。エレミヤは孤独になり、敵対者からの迫害に遭いました(エレミヤ書16:1-8、28:1-17)。エレミヤは八方塞がりの苦境に置かれていましたが、「深い淵の底から、主よ」(詩編130:1)と叫び、自らの悩みと願いとを訴えました。
そうしたエレミヤに対する神からの答えが、エレミヤ書11:21-23に載せられています。エレミヤと神との問答の背景になっているのが、エレミヤと彼の郷里「アナトト」の人々との対立です。
「アナトト」は、エルサレムの北東約5㎞に位置する祭司の町です(ヨシュア記21:18)。ここは、ベニヤミン族の領地に当たります。ちなみに、王サウルや使徒パウロはこのベニヤミン族に属します(サムエル記上9:21、ローマ11:1)。
「アナトトの人々はあなたの命をねらっている」……エレミヤを震撼させる告知が主から下りました。エレミヤ自身、うすうす故郷の人々の反感や拒絶に気づいていたでありましょう。「あなたの命をねらっている」との言葉を聞いて、エレミヤは覚悟を決めねばなりませんでした。親族や知人を含む「アナトトの人々」との対決は、もはや避けられないと……。
同郷人同士とは言え、なぜ、エレミヤと「アナトトの人々」との関係がそれほどまでに険悪なものとなったのか、については諸説あります。その説明の中の一つをご紹介しましょう。
それは、風雲急を告げる外交関係において、エレミヤはユダの民が総じて反対する立場にあったということです。当時、南ユダ王国は、大国エジプトとバビロンの覇権争いによって翻弄されていました(エレミヤ書26:21-22、44:30)。どっちにつくのか、あるいは、鎖国状態にして独自路線を行くのか、ということです。王や祭司たちが神からの託宣を仰げばよいのですが、神礼拝は衰退の一途をたどっていました。というのも、偶像崇拝に入る者たちが続出していたからです。
さてそれでは、預言者エレミヤはどういう立場をとったのか、ということですが、エレミヤは神からの使信に依り頼みました。
エレミヤ書21:7 ――
(バビロン軍がエルサレムの城壁内を攻撃した)その後、と主は言われる。わたしはユダの王ゼデキヤとその家臣、その民のうち、疫病、戦争、飢饉を生き延びてこの都に残った者を、バビロンの王ネブカドレツァルの手、敵の手、命を奪おうとする者の手に渡す。バビロンの王は彼らを剣をもって撃つ。ためらわず、惜しまず、憐れまない。
「わたし」なる神がバビロンを用いて、南ユダ王国に災いを下すと宣告されています。従って、エレミヤの立場は、祖国の滅亡と捕囚のうちに、神の御手の働きを信じるということでありました。民族の大惨事のうちにも、神の御心がある、とエレミヤは確信させられたのです。
神からの災いの中にも幸い、つまり、将来への希望がありました。エレミヤは、「この都を出て包囲しているカルデア人(バビロン)に、降伏する者は生き残り、命だけは助かる」(エレミヤ書21:9)と預言しました。
以上が、紀元前7世紀末頃、エレミヤが主の託宣に従ってとった立場でありました。「売国奴!」との非難がエレミヤに向けられたことは、容易に察せられます。身の危険を感じても、エレミヤは都エルサレムのみならず、彼の郷里「アナトト」においても、「バビロンに降伏せよ」と告げたに違いありません。
アナトトの人々はあなたの命をねらい 「主の名によって預言するな 我々の手にかかって死にたくなければ」と言う……当時の事情がよく分からないとしても、なぜ、「自分の故郷で預言者が敬われなかった」のか、を問うのは意義深いことです。
同郷の者からあれこれ言われたくない、身内・親族の中で安泰に過ごしたい、出身地の誇りを汚さないでほしいなど、エレミヤが「アナトトの人々」から迫害を受けた理由は、このほかにもさまざま考えられます。
ただし、エレミヤと主イエスとの故郷での出来事を重ね合わせてみると、神の奇しき計画、つまり、神の厳しさと慈しみが見えてきます。①と②、二つの共通点を指摘します。
①故郷において、エレミヤと主イエスは最も激しい迫害を受けた――
すでに述べた通り、エレミヤは同郷人によって、命をねらわれ、殺されそうになりました。同様に、主イエスも、「人々は皆憤慨し、総立ちになって、イエスを町の外へ追い出し、町が建っている山の崖まで連れて行き、突き落とそうとした」(ルカ4:28-29)ということです。
裏を返せば、故郷での伝道中、最も激しい迫害に遭ったことによって、エレミヤならびに主イエスが自分の命をかけて御言葉を宣べ伝えているのが明らかになりました。
ただし、主イエスの場合には、伝道の最後の場面、十字架の丘で、その迫害は頂点に達しました。
②神はご自身が派遣された預言者エレミヤならびに救い主キリストを守られた――
エレミヤの場合には、「見よ、わたしは彼らに罰を下す……わたしはアナトトの人々に災いをくだす。それは報復の年だ」との審判が主なる神より告げられました。「屠り場に引かれて行く小羊」(エレミヤ書11:19)のような窮地に追い込まれましたが、神の介入によって、「アナトトの人々」の間から助け出されました。こうして、エレミヤは同郷人の陰謀から守られました。
主イエスもまた、「しかし、イエスは人々の間を通り抜けて立ち去られた」(ルカ4:30)ということで難を逃れられました。神の御手の力が遣わされた者の上に、思いがけない迫害と絶体絶命の状況において発揮されました。
Ⅳ イエスは人々の不信仰に驚かれた
マルコ福音書6:5-6a――
5 そこでは、ごくわずかの病人に手を置いていやされただけで、そのほかは何も奇跡を行うことがおできにならなかった。6 そして、人々の不信仰に驚かれた。
先述したように、故郷ナザレで主イエスは最も激しい迫害を受けられました。町の大勢の人々が「親戚や家族」に加わっていたことでしょう。そして主イエスとの対立は、愛憎入り交じる感情から泥沼化していたのではないでしょうか。このような確執は、エレミヤの先例に見られるように、故郷独特のものであります。
ナザレ伝道の結びの言葉を確認しましょう。
「(イエスは)何も奇跡を行うことがおできにならなかった」……これは、驚くべき報告であります。ナザレこそまさに、「種蒔く人のたとえ」に例示された、石だらけの不毛な土地または茨の生い茂る土地だったのでしょうか(マルコ4:4-7)。わたしたちは「神の子」イエスの全知全能をもってしても、どうにもならなかったのか、と落胆させられるだけなのでしょうか。
「(イエスは)ごくわずかの病人に手を置いていやされた」……主イエスは「夜も昼も」(マルコ4:27、5:5)も働き続けておられました。御言葉の種を蒔いて、成長させることに励まれました。
殊に、病人のいやしは、「夕方になって……イエスは、いろいろな病気にかかっている大勢の人たちをいやした」(マルコ1:32-33)との御業が、ナザレでも行われたという証しになっています。夕方から一日が始まるというユダヤの生活の中で、主イエスは病に苦しんでいる人や悪霊に憑かれた人に、希望の光をともしておられたのです。
「そして、(イエスは)人々の不信仰に驚かれた」……これをもって、故郷ナザレでの伝道が終わります。これまでのガリラヤ湖畔での宣教において、「信仰」を持った人々(マルコ2:5、5:34)が現れなかったわけではありません。しかしナザレでは、どうしてこんなにも悲惨な結果になったのでしょうか。
わたしたちがこの難題を考えるとき、大切なのは、主イエスの公生涯全体を見渡した上で、一場面一場面の出来事を捉えるということです。そのことは、もう少し短い期間のガリラヤ伝道(1:16-8:26)においても当てはまります。
そうして、ガリラヤ伝道を眺めてみたとき、ナザレでの結末は、ガリラヤ湖畔での事件(マルコ3:1-6)と関わりがあることが判明します。双方いずれも、安息日の会堂が舞台の中心になっています。
マルコ福音書3:6――
ファリサイ派の人々は出て行き、早速、ヘロデ派の人々と一緒に、どのようにしてイエスを殺そうかと相談し始めた。
記載されていませんが、「ファリサイ派の人々」や「ヘロデ派の人々」が「不信仰」であったことは論を俟たないでしょう。逆に言うと、「不信仰」はとどのつまり、「どのようにしてイエスを殺そうかと相談し始める」に至るということです。実際、エレミヤ同様に主イエスも故郷の人々から「命をねらわれる」(エレミヤ書11:21)はめになりました。
そのようにして、「かくて十字架が、ここで初めて視界に現れることになった」(E. シュヴァイツァー)ということです。ガリラヤ湖畔で初めて、その後、ナザレで再びということです。
伝道には、それにふさわしい時と場所があります。パウロは、「だから、わたしとしては、やみくもに走ったりしないし、空を打つような拳闘もしません」(Ⅰコリント9:26)と述べています。忍耐して待たねばならない時もあります。大切なのは、目標を見据えて、的を射ることです。
「やみくもに」、「空を打つ」ことのないように、主イエスによるガリラヤ伝道全体を見渡しましょう。主イエスは、①〈初めに〉罪の赦しを教える(マルコ2:5、3:28)⇒②〈次に〉病気をいやし奇跡を起こす (マルコ2:11-12、3:5、6:6)という宣教を続けておられます。時には、主イエスがナザレで崖っぷちに追い込まれたように(ルカ4:29)、「死の陰の谷」(詩編23:4)を行く時もあります。
結
一方、「信仰」とは、人間が主イエス・キリストからの「力」を受け止めることです。他方、「不信仰」とは、その「力」を拒むことです。
主イエス・キリストの「力」(ギリシア語 デュナミス)というのは、「奇跡」とも訳されます。本日のテキストにも2回出ていました。
「この人が授かった知恵と、その手で行われるこのような奇跡はいったい何か」(マルコ6:2)「(イエスは)何も奇跡を行うことがおできにならなかった」(同上6:5)
その「信仰」を通して、主イエス・キリストの「力」は、罪と病と死に苦悩している人間に注ぎ入れられます。
マルコ福音書5:30――
(そして)イエスは(すぐに)、自分の内から力(デュナミス)が出て行ったことに気づいて、群衆の中で振り返り、「わたしの服に触れたのはだれか」と言われた。
事の始まりは、「イエスが舟に乗って再び向こう岸に渡られると、大勢の群衆がそばに集まって来た」(マルコ5:21)ということでありました。主イエスの方から迷える羊を捜しにやって来られました。
そこに、一人の女が「大勢の群衆」をかき分けて、主イエスに近づいて来ました(マルコ5:27)。彼女は群衆から叱責や侮辱を浴びることを恐れませんでした。主イエスの「服にでも触れればいやしていただける」(同上5:28)との一心でありました。
そこに、主イエスと長血を患う女との出会いが生まれました。「(群衆が押し迫る中)しかし、イエスは、触れた者を見つけようと、辺りを見回しておられた」(マルコ5:32)というように、主イエス自らが出会いの時と場所を造り出されました。
実に、この出来事は「奇跡」(デュナミス)でありました。なぜなら、主イエスの「内から力(デュナミス)が出て行った」からです。そうして、神からの「力」(デュナミス)が女の全身に行き巡りました。彼女は「キリストとその復活の力(デュナミス)」(フィリピ3:10)を受け容れて、立ち上がりました。
このような出会いと交わりに基づいて、主イエスは「娘よ、あなたの信仰があなたを救った」(マルコ5:34)と宣言されました。
それと対照的に、「(イエスは)人々の不信仰に驚かれた」というナザレでは、「何も奇跡を行うことができません」でした。主イエスは「足の裏の埃を払い落として」、次の村へと進んで行かれました(マルコ6:6b,11)。
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〈説教の要約〉
2024年 11月3日 降誕前 第8主日 召天者記念礼拝
旧約聖書 出エジプト記 16章12節~15節(P.120)
新約聖書 コリントの信徒への手紙 一 6章12節~14節(P.306)
説 教「その力によってわたしたちをも復活させてくださいます」 小河信一牧師
説教の構成――
序
Ⅱ 神はそのいずれをも滅ぼされます ……Ⅰコリント6:13前半
Ⅲ これこそ、主があなたたちに食物として与えられたパンである ……出エジプト記16:12-15
Ⅳ その力によってわたしたちをも復活させてくださいます ……Ⅰコリント6:13後半-14
結
序
本日は、先に召された方々のことを思い起こしながら、礼拝を守っています。わたしたちが、お一人お一人の名を呼ぶ「召天者の記念」を執り行ううちに、主にあって慰められますようにとお祈りいたします。
ところで、「キリスト者の自由」という考え方があります。本日のテキストの中で、パウロがこれについて言及しています。ただし、これには誤解を受けやすい面があります。というのも、元々、主イエス・キリストの教えている「自由」から離れて、自分勝手に理解する傾向があるからです。
確かに、その人の聖書理解のみならず、時代や環境によっても、キリスト教的に「自由な」生活には、さまざまな型があることでしょう。食生活はわたしたち人間にとっての基本ですが、パウロは「何を食べてもよいと信じている人もいますが、弱い人は野菜だけを食べているのです」(ローマ14:2)と述べています。つまり、菜食主義を採るかどうか、キリスト者には「自由」が与えられているということです。誰も、自分と違う立場の人を軽蔑したり裁いたりしてはなりません(同上14:3)。
何だか、「キリスト者の自由」って、難しそうだなぁ、と身構えてしまうでしょうか。ここで、それを平易に理解するために、一つの聖句を掲げましょう。
あなたがたは罪から解放され、あなたがたは義に仕えるようになりました。
この文中の「解放され」は、「すでに自由にされた」と訳し直せます。「主イエス・キリストの名とわたしたちの神の霊によって、あなたがたはすでに①洗われ、②聖なる者とされ、③義とされた」(Ⅰコリント6:11)という三重の恵みにあずかっている人が、「すでに④自由にされた」(①~④すべて受動態)という「自由」を得ているのです。
ここで、「キリスト者の自由」を理解するために、最重要な点が明らかになります。それは、神が主イエス・キリストを通して、わたしたちを「自由にされた」ということです。一方的な恵みをもって、神がわたしたちを「罪の奴隷」(ローマ6:17)の状態から解き放ってくださいました。
従って、キリスト教的に「自由な」生活には、神に対する感謝と忠実が満ちあふれています。ここに、「キリスト者の自由」の原点があります。わたしたちは真の「自由」を神より賜りました。まことに尊ぶべき「自由」であります。それ故に、神とわたしたちとの関係性を踏まえて、「自由」を用いなければなりません。
さて、パウロの目の前(実際にはリモートですが)には、自分は「すでに自由にされた」と言い張って、「みだらな行い」や「裁判ざた」を起こしている人々がいました(Ⅰコリント5:1、6:7)。彼らはどうやら、キリスト教倫理にヘレニズム的な考え方(ギリシアの文化・思想)を加味するのも「自由」と思っていたようです。それどころか、教会の交わりの中に、自分たちの賢い知恵や慣習を取り入れるべきだというように、高ぶっていました。
以上、パウロ書簡の一文から、或る意味では深遠なる「キリスト者の自由」を理解するコツをご紹介しました。これから、コリントの信徒への手紙 一 のわずか三節を説き明かします。「キリスト者の自由」が論じられる出発点ともなったテキストです。パウロが “ 霊 ” に導かれ、神の知恵に満たされて、どのようなことを、わがまま勝手に「自由」を振り回している……裏返せば、過った考えに束縛されている……人々に向けて語ったのか、読んでみることにしましょう。
反論や批判が予想されますが、「基本的なキリスト教の信仰告白」(R.B. ヘイズ)に基づいて論証するパウロは、動じるところがありません。
Ⅰ わたしには、すべてのことが許されている
コリントの信徒への手紙 一 6:12――
「わたしには、すべてのことが許されている。」しかし、すべてのことが益になるわけではない。「わたしには、すべてのことが許されている。」しかし、わたしは何事にも支配されはしない。
パウロは相手の思っていることを汲み取る達人です。頭ごなしに持論を繰り広げてはいません。むしろ、相手の考えているところの「キリスト者の自由」を見据えた上で、議論を組み立てようとしています。パウロの言葉に説得力があるのは、そのためです。
「わたしには、すべてのことが許されている」との文言が、真の「キリスト者の自由」を議論する起点に置かれています。少し言葉を補うと、「わたしには、すべてのことができるように許されている」となります。「わたしには何でも許されている」というのは、神の律法から見て正当であるとの意味です。
コリント教会の一部の人々はまさに、「わたしたちには、すべてのことが許されている」との文言に拠りつつ、教会の内外で、「みだらな行い」や「裁判ざた」を繰り返しているのです。
さて、この「わたしには、すべてのことが許されている」との起点から、パウロがどのように自分の側にたぐり寄せていくか、が見どころです。図式化しましょう。
パウロの慎重かつ論理的な導き方が、一目瞭然です。パウロは粘り強く、キリスト教倫理を築き上げようとしています。
二度の「わたしには、すべてのことが許されている」との文言によって誘導しつつ、「しかし」以下で、パウロは福音理解に基づいて考えを表しています。
ここで、パウロは「益になる」か否かの観点に立っています。何かの損得が、「キリスト者の自由」と関わりがあるということなのか、との疑問を抱かれるでしょうか。それでも、「益になる」か否か、実際、大多数の人の関心を引きつけるに違いありません。だからここで、キリスト者にとって、一体「益になる」とはどういうことか、または、「益」にあずかるキリスト者の人生とはどのようなものか、問うのは一考に価します。
ここで、パウロは簡にして要を得ている議論を心がけています。それ故に、正しい理解のために、「わたしには」という「わたし」を取り囲んでいる〈神〉と〈兄弟姉妹〉に登場していただきましょう。
今、〈神〉は、「忠実で賢い僕」(マタイ24:45)なる〈兄弟姉妹〉がキリストの体なる教会を造り上げるのを見守っておられます。その際、「忠実で賢い僕」は「神の慈しみと厳しさ」(ローマ11:22)によって訓練されています。
パウロの言わんとしていることが見えてきたでしょうか。「わたしには、すべてのことが許されている」というほどに、キリスト者は罪から解放され、自由を得ています(ローマ6:18)。しかし、その自由を行使するとき、それが〈神〉と隣人なる〈兄弟姉妹〉にとって、「益になる」のかどうか、熟慮しなければなりません。
「しかし、すべてのことが益になるわけではない」のが真実ですから、「わたし」が自分の「益」を抑制しなければならないこともあります。言い換えれば、自由の占有を差し控えるということです。というのも、愛をもって、〈神〉と隣人なる〈兄弟姉妹〉に仕えられた主イエスに倣うのが、わたしたちの歩むべき道だからです。
脇目も振らず勝手放題にするならば、「罪の奴隷」に舞い戻ってしまいます(ヨハネ8:34)。
パウロは重ねて、「わたしには、すべてのことが許されている」と言うところで、ぐっと議論を深めています。つまり、「みだらな行い」や「裁判ざた」などによるコリント教会の混乱に歯止めをかけようとしています。「すべてのことが許されている」との過信から、そのような振る舞いをしている人々を説得しようとしています。
「支配」という鍵語から、「永遠の王」なる支配者と「この世の滅びゆく支配者たち」(Ⅰコリント2:6)とを思い起こしましょう。「永遠の王」とは、唯一の神を指しています(Ⅰテモテ1:17)。
そこで、まず分かるのは、「しかし、わたしは何事にも支配されはしない」と言うとき、「永遠の王」なる唯一の神以外の「支配」は受けない、ということです。しかし、その「何事にも」というものの代表例として、「この世の滅びゆく支配者たち」の思いのままになっている人はいないか、とパウロは問いかけています。すなわち、彼らに「支配され」、隷属状態に置かれてはいないか、ということです。
もしそうだとすれば、「わたしは何事にも支配されはしない」とは言い切れません。そのために、真の「キリスト者の自由」が侵害されている恐れが多分にあります。
具体的に、「みだらな行い」を含む人間の性的な関係や「裁判ざた」が、「この世の滅びゆく支配者たち」の思い通りにされたら、どうなるでしょうか? キリスト者の心に平安はなくなります。
多くの人々が欲望と激情に駆られて、教会の内にまで、「みだらな行い」と「裁判ざた」などを持ち込むことでしょう。その上、「この世の滅びゆく支配者たち」は、「つまずきとなるものや妨げとなるものを、兄弟姉妹の前に置いて」(ローマ14:13)、世の中を混乱させます。善悪の基準をないがしろにする彼らは、人々が「互いに裁き合う」(同上)のを傍観・放置していることでしょう。
パウロ自身は、神から賜った恵みとして「わたしには、すべてのことが許されている」と述べています。「しかし、わたしは何事にも支配されはしない」……「永遠の王」なる神以外の「支配」は受けないということです。なぜなら、主なる神の遣わされた主イエス・キリストによって、わたしたちは欲望と激情による隷属状態から解放されたからです。
続いて、「この世の滅びゆく支配者たち」の思い通りにならないように、との警告が、平易なたとえによって説かれます。
Ⅱ 神はそのいずれをも滅ぼされます
食物は腹のため、腹は食物のためにあるが、神はそのいずれをも滅ぼされます。
少し角度を変えて、「しかし、わたしは何事にも支配されはしない」との議論が続いています。というのも、「この世の滅びゆく支配者たち」が執拗にも、「みだらな行い」と「裁判ざた」などによって、人を罪へと誘導しているからです。
「食物は腹のため、腹は食物のため」とのありふれた句が、人間の食欲に関わるのは自明です。同時に、この日常的な事柄は、「キリスト者の自由」を考える上で、試金石となります。というのも、神または主イエスは、「食物」について、福音に基づく生活の重要課題と言えるほどに、御言葉を与えられているからです。
序.で例示したように、パウロも「食物」について「キリスト者の自由」の観点から、「何を食べてもよいと信じている人もいますが、弱い人は野菜だけを食べているのです」(ローマ14:2)と述べています。パウロのように、神の大いなる救いの歴史の中に置かれている、一人ひとりが「キリスト者の自由」を享受している幸いをあらわしていきたいものです。目先のことで、やれ自由だ、やれ束縛だと叫んでいる人は、「永遠の王」なる神の御心を問い尋ねてはいません。そのような人は、偽りの自由を振り回して、隣人を束縛しています。
実際パウロは、「食べる人は主のために食べる。神に感謝しているからです。また、食べない人も、主のために食べない。そして、神に感謝しているのです」(ローマ14:6)と語っています。わたしたちの食卓の中心に、主イエスがおられるというのが、わたしたちの信仰です。
では、自由と係わりのある、パウロの「食物」についての言葉を読んでみましょう。
「食物は腹のため、腹は食物のためにあるが、神はそのいずれをも滅ぼされます」……パウロは明らかに、「この世の滅びゆく支配者たち」による「食物」への支配を警戒しています。
彼らの「食物」への不当介入……効果が実証されなかったり当事者の意志が尊重されなかったりする……と言えば、○×ダイエット法やがんを撃退する△△食事療法などを挙げれば十分でしょう。このように世を支配しようとする人々は、「食物は腹のため、腹は食物のため」とのスローガンを掲げ、自己流の「食物」摂取の方法を喧伝しています。
彼らは具体的には、自分が「金持ち」か「王様」かのように(Ⅰコリント4:8)、食生活を愉しんでいます。そして時に、過剰な食欲や節制に振り回されています。そこでの問題は、不健康という以上に、愛による〈神〉と弱く貧しい〈兄弟姉妹〉への奉仕と長期にわたる見通しが顧みられていないことです。
パウロは、「神はそのいずれをも滅ぼされます」と告知しています。過度の食欲によって「食物」と「体」を粗雑に扱ってはならない理由は、13節後半以下で昭示されます。
誰しも、自分にとってこの世で必要な「食物」が「滅ぼされる」時、すなわち、不要になる時がやがて来ます。だからこそ、わたしたちは、「わたしたちに必要な糧を今日与えてください」と祈ります(マタイ6:11)。加えて、「だから、明日のことまで思い悩むな」(同上6:34)と戒められています。まさに、神への祈りこそが、「食物」に関わる、キリスト者の自由な生活を支えています。
先に神は、福音に基づく生活の重要課題と言えるほどに、「食物」について豊かな御言葉を与えてくださっていると述べました。一箇所、旧約聖書を読んでみましょう。「食物」に係わる信仰的な確信は、「キリスト者の自由」を享受するのに、大いに役立つことでしょう。
Ⅲ これこそ、主があなたたちに食物として与えられたパンである
出エジプト記16:12-15 主なる神→モーセ――
12 「わたしは、イスラエルの人々の不平を聞いた。彼らに伝えるがよい。『あなたたちは夕暮れには肉を食べ、朝にはパンを食べて満腹する。あなたたちはこうして、わたしがあなたたちの神、主であることを知るようになる』と。」
13 夕方になると、うずらが飛んで来て、宿営を覆い、朝には宿営の周りに露が降りた。
14 この降りた露が蒸発すると、見よ、荒れ野の地表を覆って薄くて壊れやすいものが大地の霜のように薄く残っていた。15 イスラエルの人々はそれを見て、これは一体何だろうと、口々に言った。彼らはそれが何であるか知らなかったからである。モーセは彼らに言った。「これこそ、主があなたたちに食物として与えられたパンである。」
ここには、イスラエルの民の飢え渇き(出エジプト記16:3)を顧みて、神が天からパンを降らせる様子が描かれています。「民は出て行って、毎日必要な分だけ集める」(同上16:4)ということですから、「わたしたちに必要な糧を今日与えてください」と祈りをささげる訓練になります。
荒れ野放浪の中で、「食物」に係わる信仰的な確信が培われました。イスラエルの民の「毎日」は、「夕方になると、うずらが飛んで来て、宿営を覆い、朝には宿営の周りに露が降りた」というくり返しでありました。そうして、「夕べがあり、朝があった」(創世記1:5)という一日ごとのリズムが刻まれました。
六日目になると、二倍の量のパンが与えられました(出エジプト記16:22)。それは、「明日は休息の日、主の聖なる安息日である」(同上16:23)からです。そうして、一週ごとのリズムが刻まれました。
神から「食物」を賜るということを中心にして、荒れ野でのイスラエルの民の生活は整えられていきました。
「イスラエルの人々はそれを見て、これは一体何だろうと、口々に言った」というのは、イスラエルの民が、神より賜った「食物」に対する疑問です。「これは一体何だろう」(ヘブライ語:マン フー)に因んで、天から降って来たパンは「マナ」と名付けられました(出エジプト記16:31)。「こうして、わたしがあなたたちの神、主であることを知るようになる」との御言葉が、民の心に刻まれました。
マナが神より賜ったものであるように、「キリスト者の自由」もまた、神より無償で授けられたものです。なおかつ、その自由は、主イエス・キリストの十字架と復活の御業によって、わたしたちが「罪から解放された」(すでに自由にされた ローマ6:18)ことに基礎づけられています。従って、わたしたちは、神と隣人とを愛する中で、「キリスト者の自由」の在り方・用い方を考えてゆかねばなりません。
Ⅳ その力によってわたしたちをも復活させてくださいます
コリントの信徒への手紙 一 6:13後半-14――
13 体はみだらな行いのためではなく、主のためにあり、主は体のためにおられるのです。
14 神は、主を復活させ、また、その力によってわたしたちをも復活させてくださいます。
初めに、語彙について説明します。パウロはここで、「体」(ギリシア語:ソーマ)を「腹」、「胃」、「腸」などの内臓を指す言葉として用いてはいません。パウロは、「体」(ソーマ)との用語により、信仰者の人格的な実存、つまり、個々の諸器官を超える全体、キリスト者の全人格を指し示しています(H.W. ホーランダル)。
従って、「体」を汚すという場合には、「神」に対して罪を犯して反逆することが、より大きな問題になります。
上の結びの文の力点は以下の通りです。
「主」イエス・キリストは……、「神」は……という言い回しによって、パウロは「基本的なキリスト教の信仰告白」を表しています。つまり、わたしたちは「主」に「支配」されるべき者であり、また、わたしたちの「益」は最終的に、「神」に帰されるべきものです。
先にパウロは、「異邦人の間にもないほどのみだらな行い」(Ⅰコリント5:1)がコリント教会内に生じたとき、以下のように対応しました。
すなわち、「みだらな行い」をした或る人と相手の父の母(継母)を召喚し「裁判ざた」を起こして事を済ませるというのではなく、「ですから、わたしたちは純粋で真実のパンで過越祭を祝おうではありませんか」(Ⅰコリント5:8)と、コリント教会全体に呼びかけました。
ここには、「過越祭」、つまり、復活祭をはじめとする主日の礼拝において、「みだらな行い」をした或る人が罪告白と悔い改めに導かれるように、とのパウロの祈りがありました。実際、わたしたちは、「体はみだらな行いのためではなく、主イエス・キリストのためにあり、主イエス・キリストは体のためにおられる」ことを見て、知って、そして信じるために、礼拝をささげています。
「罪人の頭」(Ⅰテモテ1:15)である点において、兄弟姉妹は皆、変わりありません。皆が神の御前に、主の赦しの愛にあずかれるように、「打ち砕かれ悔いる心」(詩編51:19)をもって進み出ます。そこで、受洗している人は、「すでに聖なる者とされた」ことを想起します(Ⅰコリント6:11)。その時、「主の日に彼(みだらな行いをした人)の霊が救われる」(同上5:5)ように、との希望が会衆の間に共有されることでしょう。
「主は体のためにおられる」……この「体」とは、「神はそのいずれをも滅ぼされる」という「食物」や「腹」とは異なります。「主は体のためにおられる」との言い方自体に、わたしたちの「体」の永続性が示されています。
より精確に言うと、「自然の命の体が蒔かれて、霊の体が復活するのです。自然の命の体があるのですから、霊の体もあるわけです」(Ⅰコリント15:44)との言葉通りに、わたしたちの「体」は、「自然の命の体」から「霊の体」へと造り変えられます。
なぜなら、「神は、主を復活させ、また、その力によってわたしたちをも復活させてくださる」からです。この地上で「キリストの体」なる教会の肢として仕え働いた信仰者の「体」はそれほど貴いものなのです。死者の中から復活したキリストの力を十全に受け止めるために、「みだらな行い」によって自分の「体」を汚してはなりません。
そのように、「キリスト者の自由」という考え方においては、「自然の命の体」から「霊の体」へ、現在から将来へという見通しが重要です。神の大いなる救いの歴史のもとでこそ、信仰者の持つ「自由」は、その伸びやかと柔らかさが存分に活用されることでしょう。
わたしたち・信仰者は、「四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされません」(Ⅱコリント4:8-9)。なぜなら、わたしたちの罪と病と死の向こう側にも、「キリスト者の自由」が拡がっているからです。
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2024年 10月27日
降誕前 第9主日 宗教改革記念日礼拝
旧約聖書 イザヤ書 4章2節~6節
新約聖書 コリントの信徒への手紙 一 6章9節~11節
「主イエス・キリストの名とわたしたちの神の霊」
小河信一牧師
説教の構成――
序
Ⅰ 思い違いをしてはいけない
Ⅱ 決して神の国を受け継ぐことはできない
……Ⅰコリント6:9後半-10
Ⅲ 主はシオンの娘たちの汚れを洗う
……イザヤ書4:2-6
Ⅳ あなたがたは洗われ、聖なる者とされ、義とされた
……Ⅰコリント6:11
結
序
1517年10月31日に、マルティン・ルターはヴィテンベルク城教会の門に、95箇条の提題を掲げました。この出来事を契機として、宗教改革が始まりました。
当時、ルターはアウグスチノ修道会の修道士であり神学博士でありました。95箇条の提題・第1条には、次のように記されています。
我々の主であり教師であるイエス・キリストが悔い改めよ、と言われたとき、
このように、ルターは日々、悔い改めるように勧告しました。いくら大きな善行や献げものをしたからと言って、次の日に、悔い改めが免除されるわけではありません。悔い改めとは、罪なる生活から、イエス・キリスト中心の生活にひっくり返されることです。これまでに自分が為してきたり蓄えたりしているものを、ひと度手放して、「我々の主であり教師であるイエス・キリスト」に立ち返るのです。
聖書に即し、“ 霊 ” の導きによって、わたしたちの礼拝の中で悔い改めるということが基本になります。そこから週日の生活が始まります。その悔い改めを促すのに、格好のテキスト、本日の旧新約聖書を読んでみましょう。
Ⅰ 思い違いをしてはいけない
コリントの信徒への手紙 一 6:9前半――
正しくない者が神の国を受け継げないことを、知らないのですか。思い違いをしてはいけない。
パウロは今、「キリスト者の自由」について議論しています。具体的には、教会内の問題を軽々に「裁判ざた」にする人々を非難しています(Ⅰコリント6:7)。というのも、コリント教会の一部の人々が、この世の知恵によって善悪を判断しようとしているからです。
それに対し、パウロはキリスト教倫理を確立しようとしています。旧約聖書にさかのぼって神の御心を尋ねたり(Ⅰコリント1:19、3:20)、また、他の指導者(例えばエルサレム教会の人々)の意見を求めたりしている最中です。そのキリスト教倫理を土台として初めて、一人ひとりが「キリスト者の自由」を享受することができます。
「キリスト者の自由」を履き違える人々が多かったのは、特に「みだらな行い」(Ⅰコリント5:1)に関することでありました。コリント教会の一部の人々は、キリストの教えよりも、世俗の慣習によって振る舞うことがありました。
彼らは性的な問題について、教会の「聖なる者たち」に助言を求めようとはしませんでした(Ⅰコリント6:2)。かえって、「教会では疎んじられている人たちを裁判官の席に着かせて」(同上6:4)、問題を処理しようとしていました。それでは、「みだらな行い」をした人を義しく裁くことはできません。
その結果、コリント教会の一部の人々は、「姦淫してはならない」(出エジプト記20:14)との十戒のみならず、「しかし、わたしは言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである」(マタイ5:28)との主イエスの教えをもないがしろにしていました。「みだらな行い」(Ⅰコリント5:1)は、自分の体を汚してしまうのみならず(同上6:18)、「聖なる者とされた」(同上6:11)人の心を侵してしまいます。その上、自分が模範として、若い世代の人々に教え諭すべき事柄であります。
今日の時代状況において、キリスト教倫理を確立するには、問題が山積しています。LGBTQ(性的マイノリティの方を表す総称)など新たな課題に向き合わねばなりません。呆然と立ちつくしてしまいそうです。
そこで、本日のパウロの言葉に耳を傾けましょう。信仰が日常生活の営みやささいな事件の裁きなどに結びつくようにと、総括的なメッセージが記されています。
「正しくない者が神の国を受け継げないことを、知らないのですか」……誰が「知らない」のかと言えば、先の述べた、コリント教会の一部の人々を指しています。彼らは、キリスト教倫理に基づかず、自分勝手な道徳を盾にして、教会内にいたずらに「裁判ざた」を持ち込んでいます。「互いの間にねたみや争いが絶えない」情況を造りだしています(Ⅰコリント3:3)。そういう点で、彼らは「正しくない者」にほかなりません。カルヴァンによれば、「正しくない者」というのは、「兄弟をはずかしめる者、他人をだまし、あざむく者、要するに、他人を害して自分の益をはかる者」を指しています。
では、「正しい者が神の国を受け継ぐ」とは、一体どういうことでしょうか?
それを知るためには初めに、「正しい者」について正しく理解していなければなりません。
「正しい者」は、神の義しさを映し出しています。言い換えればそれは、自分が罪人であると告白し悔い改めた人です。その人は、主イエス・キリストを信じて、「義とされました」(Ⅰコリント6:11)。
「正しい者」はキリストに倣って(Ⅰコリント11:1)、「侮辱されては(わたしたちは)祝福し、迫害されては(わたしたちは)耐え忍び、ののしられては(わたしたちは)優しい言葉を返しています」(同上4:12-13)。元々は罪人でありながらも、今やキリストが模範となってくださっているので、その人は神の義をあらわすことができます。
次に、「神の国を受け継ぐ」とは、どのような意味なのでしょうか。これを正しく理解するには、〈預言〉―〈成就〉―〈待望〉の観点に立つことが求められます。
神はその〈預言〉を、「正しい者」(創世記18:23)、アブラハムに示されました。
創世記15:7――
主は(アブラハムに)言われた。「わたしはあなたをカルデアのウルから導き出した主である。わたしはあなたにこの土地を与え、それを継がせる。」
アブラハムは試練のただ中にありました。いまだに子どもに恵まれず、放浪の旅を続けていました(創世記13:1、16:1)。そのような時、「主の言葉が幻の中でアブラムに臨んだ」(同上15:1)というのが、上に引用した「この土地」の授与の約束です。それは、「あなたの受ける報いは非常に大きいであろう」(同上15:1)との主の言葉の通り、恵み豊かなものであります。
その上に、「正しい者」なるアブラハムへの土地授与の宣言は、新約の「正しい者が神の国を受け継ぐ」との言葉につながっています。というのも、神が御子イエス・キリストをこの地上に遣わされることによって、信仰の父アブラハムへの〈預言〉が〈成就〉したからです。
この主イエス・キリストが「実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ」(ルカ17:21)と宣べ伝えられました。わたしたちは、この救い主なるお方を信じ、この言葉に「アーメン」と唱えるのであります。
そして、信仰者でありながらも、疑い深いわたしたち(創世記15:2,8、ヨハネ20:25)は、“ 霊 ” の導きやパウロの執り成しによって支えられています。共々に、「神の国を受け継ぐ」者になるようにと……。
主イエス・キリストは罪人や病の人を救われました。そして、悔い改めた人々の間に「神の国があるのだ」と告げられました。そうだとすれば、この世における救われた者の生活は一新させられます。ねたみや争いを退け、キリスト教倫理に従って生きようと、自分の心身を聖霊にゆだねる者となります。ひと言でいえば、「正しい者が神の国を受け継ぐ」との〈待望〉をもって、「神の国」を目指して行きます。
以上のことを反面から証ししているのが、「正しくない者が神の国を受け継げないことを、知らないのですか」との叱責です。彼らは「神の国」について、〈預言〉―〈成就〉―〈待望〉の観点に立つことなく、恵み豊かな御言葉に耳を傾けていません。
そこでパウロは、彼らを一喝します……「思い違いをしてはいけない」。「正しくない者」は高ぶっており、まるで「王様」か「大金持ち」であるかのように振る舞っていました(Ⅰコリント4:8,18)。「神の国の力」(同上4:20)が彼らの日常生活の中に浸透してはいませんでした。そうした彼らに今、「愛と柔和な心」(同上4:21)をもって接するのは、無駄でありました。だからこそ、パウロは「神の慈しみ」でななく「神の厳しさ」を表したのです(ローマ11:22)……「すでに神の国の入場券を持っているなどと、自分の都合の良いように考えるな」と。
Ⅱ 決して神の国を受け継ぐことはできない
コリントの信徒への手紙 一 6:9後半-10――
9 みだらな者、偶像を礼拝する者、姦通する者、男娼、男色をする者、10 泥棒、強欲な者、酒におぼれる者、人を悪く言う者、人の物を奪う者は、決して神の国を受け継ぐことができません。
ここに、10項目が列挙される形で「罪のカタログ」が明示されています。ここには、「ある人が父の妻をわがものとしている」という「みだらな行い」(Ⅰコリント5:1)に関わる知見も加味されています。このようにして、隣人愛や善行のみならず、悪徳に関わる側面からも、キリスト教倫理が確立されていきました。
①みだらな者、②偶像を礼拝する者、③姦通する者、④男娼、⑤男色をする者
⑥泥棒、⑦強欲な者、⑧酒におぼれる者、⑨人を悪く言う者、⑩人の物を奪う者
前半①~⑤には主に、性的な罪、そして後半⑥~⑩には主に、貪欲の罪が掲げられています。パウロはこの手紙の後の方で、「肉と血は神の国を受け継ぐことはできず、朽ちるものが朽ちないものを受け継ぐことはできません」(Ⅰコリント15:50)と言い換えています。
罪の罠にはまっている「正しくない者」とは、「肉と血」によって生きようとする者であります。それによって彼らは、キリスト者の全人格を表す「体」(Ⅰコリント6:13)を汚しています。「肉と血」との欲望に毒されている者には、主の恵み深さなど味わえません(詩編34:9)。
「決して神の国を受け継ぐことができません」……これは重い言葉です。コリント教会の一部の人々は心して聴かねばなりません。しかし、この宣告は最後通牒ではない、とわたしは考えます。というのも、例の「みだらな行い」の一件に関してパウロは、「このような者を、その肉が滅ぼされるようにサタンに引き渡したのです。それは主の日に彼の霊が救われるためです」(Ⅰコリント5:5 他に3:15)と述べているからです。パウロは常に、神の為される最終の審判について、自分の判断を抑制しています。
実際、次の11節で、「しかし」によって、神の企てられる罪人の救いという大逆転が昭示されています。「正しくない者」、すなわち、「罪のカタログ」によって裁かれるような罪人こそが、この「しかし」によって目覚めさせられます。なぜなら彼らは、ひと度はキリストの福音を聞いて悔い改めた人々なのですから。
鮮やかな逆転シーンを観たいというはやる気持ちを押さえて、旧約の御言葉を読んでみましょう。そこには、汚れに染まった「シオンの娘たち」が花嫁のごとく洗い清められる様子が描かれています。
Ⅲ 主はシオンの娘たちの汚れを洗う
2 その日には、イスラエルの生き残った者にとって主の若枝は麗しさとなり、栄光となる。この地の結んだ実は誇りとなり、輝きとなる。3 そしてシオンの残りの者、エルサレムの残された者は、聖なる者と呼ばれる。彼らはすべて、エルサレムで命を得る者として書き記されている。4 主は必ず、裁きの霊と焼き尽くす霊をもってシオンの娘たちの汚れを洗い、エルサレムの血をその中からすすぎ清めてくださる。5 主は、昼のためには雲、夜のためには煙と燃えて輝く火を造って、シオンの山の全域とそこで行われる集会を覆われる。それはそのすべてを覆う栄光に満ちた天蓋となる。6 昼の暑さを防ぐ陰、嵐と雨を避ける隠れ場として、仮庵が建てられる。
先に、次のⅣ.で取り上げるⅠコリント6:11との驚くべき類似点について見てみましょう。
イザヤ書4:4
「裁きの霊と焼き尽くす霊をもってシオンの娘たちの汚れを洗う」
Ⅰコリント6:11
「主イエス・キリストの名とわたしたちの神の霊によって(あなたがたは)洗われた」
この場合、旧約と新約の言葉とは、まさしく〈預言〉と〈成就〉の関係になっています。
人々は罪の汚れにもがき苦しんでいます。自力でそれを清めようとしても、この世の知恵に惑わされて、「罪のカタログ」が増し加わるばかりです。
「エルサレムの血」は、敵国によって「シオンの娘たち」が犯された時に流されたものです(前587年、バビロニアにより都エルサレムは破壊されました)。同時に、その「血」は、エルサレムの民が神に背き、隣人を裏切る中で注ぎ出されたものです。「エルサレムの血」は、兄に殺害されたアベルの「血」のように、いまだに土の中から叫びを上げています(創世記4:10)。
ところが、「その日」すなわち「主の日」(イザヤ書2:12)に、「主は、昼のためには雲、夜のためには煙と燃えて輝く火を造って、シオンの山の全域とそこで行われる集会を覆われます」。呪われていた都とその「血」が、「裁きの霊と焼き尽くす霊をもって」すすぎ清められます。
エルサレムの住民は、そびえ立つ「シオンの山」を見つめています。そこには、平和の象徴であるかのように、「隠れ場」と「仮庵」が建てられています。今や「シオンの娘たち」は、「誇る者は主を誇れ」(Ⅰコリント1:31)というように、主にあって「麗しさ」と「栄光」を回復しました。
主イエス・キリストは「イスラエルの生き残った者」の末裔として、この地に宿られました。主イエスは「ダビデの子」(マタイ1:1)として、「シオンの娘たち」の汚れと悩みをご存じです。
実際、主イエスは一人の娘に癒やしを行い、信仰を授けられました。主は彼女の手を取り、「タリタ、クム」、すなわち、「少女よ、わたしはあなたに言う。起きなさい」(マルコ5:41)と呼びかけられました。主はうずくまっていた者を立ち上がらせました(詩編146:8)。
イザヤの預言によれば、罪の重荷に苦しんでいた者が、「裁きの霊と焼き尽くす霊をもって」助け出されます。神は、弱く貧しい「シオンの娘たち」に寄り添われます。パウロは、主イエス・キリストの十字架と復活による救いを信じる者として、「裁きの霊と焼き尽くす霊をもって」ということを語り直します。そこでパウロは、神からの無償の恵みに依り頼むということを徹底化しています。
コリントの信徒への手紙 一 6:11――
あなたがたの中にはそのような者もいました。しかし、主イエス・キリストの名とわたしたちの神の霊によって洗われ、聖なる者とされ、義とされています。
パウロは、「あなたがたの中にはそのような者もいました」と前置きしています。これは、「しかし」で転換される前の過去に言及していることなので、とても重要です。
つまり、「あなたがたの中には」、「正しくない者」、すなわち、ひと度洗礼を受けながら、罪を犯しても悔い改めない者がいた、ということを述べています。「そのような者」はキリスト者の自由を履き違えて、「みだらな行い」や「裁判ざた」によってコリント教会を混乱させました。
パウロはこの結びにおいて、過去について、「あなたがたの中にはそのような者もいました」と簡略に述べました。「あなたがた」なるコリント教会全体が、一部の「そのような者」の問題を共有し、「神の聖なる神殿」(Ⅰコリント3:17)として再建されるように、祈り求めるべきであります。
さて、「しかし」以下の文に入ります。原文・ギリシア語では、3回、「しかし」(アッラ)が繰り返されています。その強調点を図示すると、以下のようになります。
①「あなたがたの中にはそのような者もいた。しかし、あなたがたは洗われた」
②「あなたがたの中にはそのような者もいた。しかし、あなたがたは聖なる者とされた」
③「あなたがたの中にはそのような者もいた。しかし、あなたがたは義とされた」
主イエス・キリストを信じた者があずかることになる、①洗礼、②聖化、そして③義認の恵みが描き出されています。パウロは「そのような者」に、あなたは「しかし」によって、ひっくり返されている、そのことをよくよく考えなさい、と訴えています。3連続で信仰上の転換が明示されています。「古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた」(Ⅱコリント5:17)のであります。「見よ、その日を、あなたが洗礼を受けた日を」とのパウロの願いが通じるでしょうか。
あなたは以前には、“ 霊 ” の導きを軽んじたが、「しかし」今、“ 霊 ” の人として、「あなたは洗われ、聖なる者とされ、義とされた」ことを信じなさい、とパウロは勧めています。そのようにあなたがひっくり返されたのは、「主イエス・キリストの名とわたしたちの神の霊によって」であると、明示しています。
かつて、「シオンの娘たち」に、「裁きの霊と焼き尽くす霊をもって」、神へと立ち帰るように勧められました。
そして今、「そのような者」に、「主イエス・キリストの名とわたしたちの神の霊によって」、神の御前で悔い改めるように勧められました。「主イエス・キリスト」の言葉と行いがわたしたちの罪過を照らし出しますので、わたしたちはより深く悔い改めることができます。
ルターいわく、「イエス・キリストは信じる者に全生涯が悔い改めであることを欲したのである」。
罪過への向き合い方が真剣になれば、その人の「全生涯」は、キリストの赦しの愛によって覆われます。
結
信仰者は、「正しい者が神の国を受け継ぐ」ことを待望して生きています。「神の国は言葉ではなく力にある」(Ⅰコリント4:20)という、その「力」が新しい「パン種」のように(同上5:7-8)、わたしたちの教会と日常生活の隅々に行きわたっているでしょうか。「あなたがたは聖なる者とされた」ことを土台として、より善いキリスト教倫理が築かれます。神の恵みによって、「みだらな行い」や「裁判ざた」が遠ざけられます。
信仰の先達・アブラハムを見上げて(ルカ16:22-24)、「神の国を受け継ぐ」との希望をもって歩んで行きましょう。
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〈説教の要約〉
2024年 10月20日 日本キリスト教団 茅ヶ崎香川教会
聖霊降臨節 第23主日
旧約聖書 詩編146編 1節~10節(P.986)
新約聖書 ペトロの手紙 一 4章6節(P.433)
説教の構成――
序
Ⅰ ハレルヤ。わたしの魂よ、主を賛美せよ ……詩編146:1-2
Ⅱ 君侯に依り頼んではならない ……詩編146:3-4
Ⅲ 主はうずくまっている人を起こされる ……詩編146:5-10
Ⅳ 霊において神によって生きる ……Ⅰペトロ4:6
序
詩編146-150編には、「ハレルヤ」で始まり「ハレルヤ」で終わる詩が五つ、配置されています。「ハレルヤ」、すなわち、「あなたがたは主を賛美せよ」との呼びかけが、旧約聖書・詩編の最終部分にはくり返されています。
詩編146編において、「わたし」は神の御前で力の限りに賛美しています。歌う中で、神と隣人を愛することを教えられています。詩編全体から美しく信仰的な詩句が集められているアンソロジー(詞華集)になっています。天から「ハレルヤ」との誘いが響いてくる中で、一体どんなことが物語られているのでしょうか?
その内容に入る前に、「ハレルヤ」入門として、一つのことをお話しします。賛美に圧倒されないように、心づもりをしてください。
それは、どうして、この詩編は “ 霊 ” 的で、生気と歓喜に満ちているのか、ということです。その源泉は、詩の一言一句に貫かれている信仰的な考え方に由来しています。
詩人は人生の達人です。加えて、イスラエルの族長や預言者の知恵と経験を受け継いでいます。その信仰的な考え方とは、ひと言でいえば、「力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」(Ⅱコリント12:9)ということです。そこには、挫折してもあきらめない「力」、へりくだって誰にでも寄り添う「力」、そして、さまざまな礼拝者たちを一つにする「力」が溢れだしています。
その「力」は決して、わたしたちの手の届かない所にあるものではありません。実際、あなたが “ 霊 ” によって「ハレルヤ」詩編に引き寄せられ、賛美の世界に入って来るならば、あなたは自分の弱さや罪に向き合い、そこから立ち上がる「力」がわき出てくることでしょう。
主イエスは乾ききった人生を送っていたサマリアの女に、「わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」(ヨハネ福音書4:14)と語りかけられました。この慰め深い言葉は、賛美にも当てはまります。賛美は世々限りないものです(ヨハネ黙示録7:12)。
水と賛美との共通点といえば、人のからだ全体に浸透する点が見逃せません。そしてそれは、わたしたちの内側からわき上がって来ます。そうして、わたしたちは手を挙げ口をもって魂の底から、主をほめ歌います(哀歌3:41)。
Ⅰ ハレルヤ。わたしの魂よ、主を賛美せよ
詩編146:1-2――
詩人は、「ハレルヤ、主を賛美せよ」と、そこから始めています。何よりも「主」(ヤハウェ;ハレルヤのヤも神名)に依り頼むことが大切です。「主」をほめ歌うことは、パウロのように牢獄でも、どんな所でも可能です(使徒16:25)。
たとい心が闇に閉ざされていても、詩人は「主を賛美せよ」と、「わたしの魂」を鼓舞しています。誰しも、ねたみや争いなどの悪感情に捕らわれてしまうことがあります。そのためにも、「ハレルヤ」をからだに染み込ませておきましょう。力強く美しい詩は、魂に刻まれ続けます。もちろん、メロディーに乗せて、賛美するのは善いことです。
「命のある限り、わたしは主を賛美し 長らえる限り わたしの神にほめ歌をうたおう」……ここで詩人は自分の「命」または「生涯」に目を向けています。言い換えれば、それは「ハレルヤ、主を賛美せよ」との呼びかけを「生涯」の課題とするということであります。
それは自分の努力によって、というよりも、神が「わたしの命」を授けてくださったことへの感謝によって、果たすことができるものでしょう。この点は、他の人が励まし得ても、「わたし」に代わることはできません。
詩人は、「わたしの魂」を傾けて、「生涯」にわたり、「わたしの神にほめ歌をうたおう」と心を定めています。ありあまる恵みをいただいている神への感謝が、その思いを支えています。
「ハレルヤ、主を賛美せよ」との呼びかけの次に、何が来るのか、ここでわたしたちの信仰は一挙に深められます。すでにそのような信仰を持っている人は、幸いです。
次に来るのは、ひと言でいえば、悔い改めです。自らの欲望や高ぶりなどの罪をざんげします。なんだか、格調高い詩編が盛り下がりそうと言うのは、浅はかです。
パウロは、「律法が入り込んで来たのは、罪が増し加わるためでありました。しかし、罪が増したところには、恵みはなおいっそう満ちあふれました」(ローマ5:20)と述べました。わたしたちは「罪が増したところ」をよく知り、受け止めねばなりません。この世や自分の内に、あふれるほどの悪があることを認めるのです。そこで、自分が罪悪と戦おうとしたり、あるいは、いたずらに他の人々を批判したりしてはなりません。それこそ、サタンの思う壺となります。
そうではなく、「恵みはなおいっそう満ちあふれました」との信仰に立つことこそ、罪の増殖に打ち勝つ唯一の手立てなのです。主イエス・キリストが十字架と復活の御業を成し遂げられたことを信じることです。なぜなら、「わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた」(ヨハネ1:16)ということなのですから。
その神からの「恵み」については、Ⅲ.で、どのように詩編の中で展開されているのか、見ることにします。その前に、この世に生きる詩人の赤裸々な罪の告発を経由することにしましょう。「打ち砕かれ悔いる心」(詩編51:19)を持つ人こそ、賛美の達人なのです。
Ⅱ 君侯に依り頼んではならない
詩編146:3-4――
以上のように、詩人はわたしたちを悔い改めに導くために警告しました。絶妙なのは、罪深い「人間」の代表として「君侯」を例示していることです。というのも、社会的地位の高い「君侯」はしばしば、欲望や高ぶりの罪を犯し、周囲の「人間」に悪影響を及ぼすからです。
彼らは他の人々が自分に「依り頼んで」くるように振る舞います。欲に駆られた人々は、彼らが偽善者であることを見抜けません。そのようにして、「君侯」は神信仰をないがしろにし、民を偶像崇拝に走らせます。主への讃美よりも、自画自賛によって栄華を築き上げようとします。
それに対して、詩人はどんな「人間」にも「救う力はない」と宣言しています。主なる神が現される「救う力」とは、どのようなものであるかは、この詩編の後段で歌い上げられます。
ここでは、諺風に、「霊が人間を去れば 人間は自分の属する土に帰る」と述べるにとどめています。この句を簡潔に説明すると、こうなります。
主なる神は、「人間」(アダム :3)の鼻に命の息を吹き入れられました。こうして、人は生きる者となりました。しかし、「人間」が息を引き取って死ぬと、「自分の属する土(アダマ :4)に帰り」ます。「人間」(アダム)が「土」(アダマ)に属するというのは、もともと主なる神が土の塵で人を形づくられたからです(創世記2:7)。
人間に「依り頼んではならない」のは、人にはそのようなはかなさがあるからです。それに加えて、詩人は「その日、彼の思いも滅びる」と告知しています。
「彼の思い」には、踏み越え得ない限界があるということです。悪しき「思い」が「滅びる」のはもちろんのこと、人の善い「思い」も死によって永遠に中断されます。
詩人は、神によって救われるべき者として御前に立っています。「君侯」の欲望や高ぶりなどを、我が事として、人生の日々を顧みています。「塵にすぎないお前は塵に返る」(創世記3:19)というはかなさを見つめて、ひたすら神に「依り頼もう」としています。
詩人は人並み外れた忍耐や賢さを持っているわけではありません。日々、罪を悔い改め、へりくだって神を礼拝するのは、決して容易なことではありません。「命のある限り」の、その隙間に、慢心や自信過剰が忍び入って来ます。
そのような詩人にとって、賛美のアンソロジー(詞華集)は大きな支えとなります。区切らないで、最後まで一挙に掲げましょう。それによって、わたしの「命」や「生涯」(:2)が、主の永遠に支配されている「代から代へ」(:10)に架け渡されているのが眺められるでしょう。
Ⅲ 主はうずくまっている人を起こされる
詩編146:5-10――
主なるその神を待ち望む人
海とその中にあるすべてのものを造られた神を。
とこしえにまことを守られる主は
7 虐げられている人のために裁きをし
飢えている人にパンをお与えになる。
主は捕われ人を解き放ち
8 主は見えない人の目を開き
主はうずくまっている人を起こされる。
主は従う人を愛し
みなしごとやもめを励まされる。
ハレルヤ。
ここで詩人は「幸いなるかな」の門をくぐりました(詩編1:1、2:12)。後は、まっしぐらに「この道」(使徒9:2)を行くのみです。ここには、「幸いな」のは、どんな人か、言い表されています。
「ヤコブの神を助けと頼み 主なるその神を待ち望む人」……人生の分かれ道で、「神を助けと頼む」ことを選び取った人が「幸いな」のです。神はあなたが「幸いな」道を進むように招いておられます。
そのようにして、「幸いなるかな」の門をくぐり抜けて人の耳に、賛美のアンソロジー(詞華集)が聞こえてきます。それは、「主なるその神を待ち望む人」に贈られるにふさわしいものです。順に賛美を読んでいきましょう。
「天地を造り 海とその中にあるすべてのものを造られた神を。とこしえにまことを守られる主は」……詩人はまず、創造主なる神をほめたたえています。「天地を造られた」神が「とこしえにまことを守られる」ということで、広大無辺な時空間を造られた神とその御業を指し示しています。
「すべてのものを造られた神」だからこそ、安んじて「わたしの命」(:2)を託すことができます。パウロは、「満腹していても、空腹であっても、物が有り余っていても不足していても、いついかなる場合にも対処する秘訣を授かっています」(フィリピ4:12)と述べています。ここには、詩人と同様に、「わたしの命」を造り、救い、そして保ってくださる神への信仰が告白されています。
ところで、賛美のアンソロジー(詞華集)とご紹介した通り、この6節から9節までにわたって、詩人は神をほめ歌っています。詩の文体も整然と、動詞の分詞形や形容詞の複数形が並べられて、暗誦しやすくなっています。要するに、
主なる神は、 ① 天地を造り、② まことを守り、③ 虐げられている人のために裁きをし、
④ 飢えている人にパンを与え、⑤ 捕らわれ人を解き放ち、⑥ 目の見えない人の目を開き、
⑦ うずくまっている人を起こされ、⑧ 従う人を愛し、⑨ 寄留の民を守る
というように、連続しています。
このように基本的に、主なる神の憐れみ深さが、数々の御業を通して描かれています。これらの中から一つ、⑦の「主はうずくまっている人を起こされる」に焦点を当てましょう。
人はしばしば、つまずいたり、倒れたりします。自分の不注意で、怪我したりもします。一般的には様々なケースが想定されますが、詩人が注視しているのは、罪の重荷に耐えきれずに「うずくまっている人」だと思われます。
その上で、ここでは、「主はうずくまっている人を起こされる」との預言が主イエス・キリストにおいて成就したとの観点から読み解きましょう。
ヨハネ福音書8:6-8――
6 イエスを試して、訴える口実を得るために、こう言ったのである。イエスはかがみ込み、指で地面に何か書き始められた。7 しかし、彼らがしつこく問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」 8 そしてまた、身をかがめて地面に書き続けられた。
「姦通の現場で捕らえられた女」(ヨハネ8:3)はまさに罪の重荷に耐えかねる情況にありました。彼女は死刑に処せられる大罪を犯してしまいました(レビ記20:10)。
そこは、神殿の境内で、律法学者たちやファリサイ派の人々が見守っていました。その時、「イエスはかがみ込み……そしてまた、身をかがめ」られました。そのようにして主イエスは徹底して、罪の重圧に苦しんでいる人に寄り添われました。
それから、人間の罪すべてを背負われる主イエスが「身を起こして」、立ち上がられました(ヨハネ8:10)。罪を赦す愛の御業によって、女は解放されました。ここに、「主はうずくまっている人を起こされる」との預言が成就しました。
さて、数々の御業を通して、主なる神の憐れみ深さを訴える詩の最後の部分を確かめておきましょう。
「しかし主は、逆らう者の道をくつがえされる」……皆さんもお気づきのように、「逆らう者」は「ヤコブの神を助けと頼み 主なるその神を待ち望む人」とは対照的な行く末が待ち構えています。「逆らう者」のようになってはならないと、釘が刺されています。何と行き届いた賛美なのでしょうか。
そして、賛美は流麗に変奏されつつ、初めに回帰します。
「主はとこしえに王。シオンよ、あなたの神は代々に王。ハレルヤ」……変奏と言ったのは、「わたし」は背景に退いて、「ハレルヤ、主を賛美せよ」が前面に出ているからです。
そして、被造物全体を代表する「シオン」(都エルサレム)が、「王」として天地を「とこしえに」支配される神をほめたたえるよう呼びかけています。
この詩編146編・最終節の預言も、主イエス・キリストにおいて成し遂げられました。
マタイ福音書21:5 主イエスのエルサレム入城――
「シオンの娘に告げよ。
『見よ、お前の王がお前のところにおいでになる、
柔和な方で、ろばに乗り、
荷を負うろばの子、子ろばに乗って。』」
主イエスは「王」としてこの地上に遣わされました。そして、「うずくまっていた」シオンの娘、哀れなる女が「起こされ」ました。この出来事は信仰者たちに、「ハレルヤ」から「ハレルヤ」へ、歌う力を注ぎ入れるに違いありません。賛美している信仰者たちの中心には、主イエス・キリストがおられます。
ここで、本日取り上げた新約のテキスト・Ⅰペトロ4:6と詩編146編とのつながりをお話しします。
詩編146編では、「ヤコブの神を助けと頼み 主なるその神を待ち望む人」と「君侯」・「人間」(アダム)・「逆らう者」とが対照的に描かれていました。両者の相違は、「霊」において生きるのか、それとも、「肉」において生きるのか、にあると言えます。
一方、「霊」の人はキリストの「霊」の支配にあずかっています(ローマ8:9)。その中心点は、とりもなおさず、主イエス・キリストの十字架と復活、神の愛・正義・希望を信じているということにあります。他方、「肉」の人は罪に売り渡されています(同上7:14)。彼らの欲求や誇りは決して充足されません。とどのつまり、彼らは現状に対する不安や死への恐怖によってがんじがらめになっています。
驚くべきことに、福音によれば、この世の生涯において、「霊」において生きた人のみならず、「肉」において生きた人も、主イエス・キリストの宣教の対象であるとされています。
「肉」において生き死んだ人がなお、主イエス・キリストの救いにあずかり得るとは、どういうことなのでしょうか。もしそうだとすれば、とこしえに至るまで賛美される主の御業は、まことにわたしたちには測り知り得ないものであります。
Ⅳ 霊において神によって生きる
死んだ者にも福音が告げ知らされたのは、彼らが、人間の見方からすれば、肉において裁かれて死んだようでも、神との関係で、霊において生きるようになるためなのです。
少し内容が理解しづらいと思います。これと並行する聖句を挙げましょう。
ペトロの手紙 一 3:19――
そして、霊においてキリストは、捕らわれていた霊たちのところへ行って宣教されました。
すなわち、「肉において裁かれて死んだ」人=「捕らわれていた霊たち」であると分かります。キリストは、「肉において裁かれて死んだ」人のところ、つまり、陰府にまで下って、今も福音を宣べ伝えておられます。キリストの「霊」の支配は、そこにまで及んでいるのです。畏れ多いことです。
これもまた、「力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」……補って言えば、「キリストの力は十字架の弱さの中で発揮されたように、あなたがたの弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」……(Ⅱコリント12:9)ということを立証しています。
「捕らわれていた霊たち」とは、この世にいる間に救われなかった人間を指しています。彼らは、キリストを知らずして「死んだ」人、あるいは、数々の罪を犯して「肉において裁かれて死んだ」人に属しています。
ということは、詩編146編における「神を助けと頼む人」と「君侯」・「人間」(アダム)・「逆らう者」との区分が、主イエス・キリストの宣教によって打ち破られたということです。しかし、キリストの「霊」の支配または聖霊の導きに依り頼む人が、「霊の人」(Ⅰコリント2:15)が「幸いな」のは変わりありません。
なぜなら、「ハレルヤ、主を賛美せよ」との呼びかけに答えて、生涯を全うしたキリスト者こそ、「幸い」だからです。人生、山あり谷あり、「ハレルヤ」がこだまするように、歓喜と感謝をもって歩んで行きましょう。
W
〈説教の要約〉
主日礼拝 日本キリスト教団 茅ヶ崎香川教会
マタイによる福音書14:22~33
神奈川教区・巡回教師 貴田寛仁
「ペトロの信仰」要約
ここに登場するペトロは私にとってはペテロと云う方が馴染み深い名前です。イエス様は神様と同様の存在ですから、聖書の登場人物の中で、最も好きな人物です。この聖句では、弟子たちは、イエス様と別れて、弟子たちだけで、舟に乗り、湖の向こう岸に向かっている途上の出来事です。弟子たちは、一晩中風と波とに翻弄されて、岸辺から1キロメートル位の所にいます。夜明けごろ、弟子たちは、湖の上を歩いて来られたイエス様と出会います。私がペトロを好きな理由の一つですが、イエス様と出会えた安心からか、ペトロは舟から少し離れたところにおられるイエス様に、湖の上を歩いて、イエス様の下に行かせて欲しいと頼みます。そして、イエス様はそれをお許し為さいます。しかし、ペトロらしいのは、強い風に気が付いて、溺れそうになります。私がペトロの信仰が素晴らしいと思うのは、「主よ、助けてください」と叫べる事です。その時、イエス様はしっかりと、ペトロを掴んでお助け為さいます。1枚の絵画が有ります。私はその絵葉書を手作りの額縁に、入れた物を、母教会の牧師から頂きました。額縁に貼り付けて有るので、その絵画の題も、作者も、分かりません。この場面を描いたものですが、イエス様が腰まで沈んだペトロの腕をしっかりと掴んで居られます。ペトロは何も掴んで居ません。イエス様が私たちを支え、助けて下さる時も同様だと思います。私たちも、ペトロの様に、全てをイエス様に委ねれば、良いのです。私たちがそうした時、イエス様が私たちをしっかりと掴んで下さいます。しばしば、この小舟は、強風と荒波の中に有る教会に譬えられます。今、日本基督教団の教会は高齢化が進み、教会で、若者を見る事が少なくなりました。今がイエス様に全てをお委ねして、ペトロの様に、「主よ、助けてください。」と叫ぶ時です。
〈説教の要約〉
2024年 10月6日 日本キリスト教団 茅ヶ崎香川教会
聖霊降臨節 第21主日
旧約聖書 エレミヤ書 15章18節(P.1206)
新約聖書 マルコによる福音書 5章21節~34節(P.70)
説 教「娘よ、あなたの信仰があなたを救った」 小河信一牧師
説教の構成――
序
……マルコ5:21-24
Ⅱ ここに十二年間も出血の止まらない女がいた
……マルコ5:25-26
Ⅲ 何故にわたしの痛みは絶え間なく続くのか
……エレミヤ書15:18
……マルコ5:27-29
Ⅴ イエスは自分の内から力が出て行ったことに気づいた
……マルコ5:30-31
Ⅵ 娘よ、あなたの信仰があなたを救った
序
主イエスは、今のイスラエル北部、ガリラヤ湖畔を巡り歩いて伝道しておられました。安息日に会堂に入ったり(マルコ1:21、3:1-2)、人家に招かれたりして(同上2:1、3:20)、神の教えを説いておられました。その上、今読んでいるテキスト(マルコ4:35-5:43)に出てくるように、風や湖を従わせる奇跡、悪霊の追放、そして病気のいやしを行われました。
主イエスは弟子たちはじめ民衆に向かって、①〈初めに〉罪の赦しを教える(マルコ2:5、3:28)⇒②〈次に〉病気をいやし奇跡を起こす (マルコ2:11-12、3:5)という宣教をくり返されました。それは取りも直さず、主イエスがどのようなお方であるか、を示すためでありました。
或る日、主イエスは湖のほとりで、会堂長ヤイロに呼び止められました。「幼い娘が死にそうです」(マルコ5:23)ということで、主イエスはヤイロと一緒に、彼の家に向かわれました。ところが図らずも、その途上で、主イエスは重い病気の女性と出会われました。
確かに、大勢の群衆が主イエスの周りに押し寄せて来ている中で(マルコ5:24)、誰を最優先するのか、判断するのは困難です。ヤイロは、主イエスがその女性と出合い会話されるのを、やきもきして見守っていたに違いありません。主イエスは、12歳の少女のいやしと12年間出血を患っている女のいやしとに向き合われています。一体、主イエスはどのように、緊急事態中の緊急事態に対応されるのでしょうか?
わたしたちの関心は、危篤状態の人(マルコ5:23)が助けられるか否か、に向いてしまいがちです。しかし、くり返しますが、主イエスがどのようなお方であるかを、“ 霊 ” によって見て、知って、信じることが大切なのです。
Ⅰ イエスが舟に乗って再び向こう岸に渡られると
マルコ福音書5:21-24――
21 イエスが舟に乗って再び向こう岸に渡られると、大勢の群衆がそばに集まって来た。イエスは湖のほとりにおられた。22 会堂長の一人でヤイロという名の人が来て、イエスを見ると足もとにひれ伏して、23 しきりに願った。「わたしの幼い娘が死にそうです。どうか、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、娘は助かり、生きるでしょう。」 24 そこで、イエスはヤイロと一緒に出かけて行かれた。大勢の群衆も、イエスに従い、押し迫って来た。
時系列をたどると、「その日の夕方になって、イエスは、『向こう岸に渡ろう』と弟子たちに言われた」(マルコ4:35)というゲラサ地方の伝道を終えて再び、ということになります。
ですから、ここで「イエスが舟に乗って再び向こう岸に渡られると」というのも、「夕方」のことかも知れません。いずれにしても、「一日が夕方から始まる」(創世記1:5)という時に、主イエスは驚くべき御業を成し遂げられます。そうして、湖畔の闇のただ中に、神の栄光が灯されます。
「大勢の群衆がそばに集まって来た」という雑踏を掻き分けて、「会堂長の一人でヤイロという名の人」が主イエスのもとにたどり着きます。そして、主イエスを見て、言いました……「わたしの幼い娘が死にそうです。どうか、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、娘は助かり、生きるでしょう」。
ヤイロは苦悩のどん底に置かれています。闇の中に、ひと筋の希望を見出そうとしています。「足もとにひれ伏して、しきりに願った」という主イエスへの信頼が、今のヤイロを支えていました。
湖畔の道端からヤイロの家へ……一刻の猶予も許されません。主イエスは、12歳の「娘が死にそう」な緊急事態を受け止められ、「ヤイロと一緒に出かけて行かれ」ました。「大勢の群衆も、イエスに従い」つつ、その後を追いました。
そのようにして、緊張がますます高まっていく中、マルコ福音書はもう一人の、病を負った女の存在を告げます。何もこんな時に出て来なくてもと、邪魔者扱いされそうですが、その女の事情が丁寧に描き出されます。
Ⅱ ここに十二年間も出血の止まらない女がいた
マルコ福音書5:25-26――
25 さて、ここに十二年間も出血の止まらない女がいた。26 多くの医者にかかって、ひどく苦しめられ、全財産を使い果たしても何の役にも立たず、ますます悪くなるだけであった。
この女は病を負い、傷つき苦しんでいました。また、孤独であったに違いありません。というのも、モーセの律法に「男女の漏出による汚れと清め」との規定があったからです。すなわち、「25 もし、生理期間中でないときに、何日も出血があるか、あるいはその期間を過ぎても出血がやまないならば、その期間中は汚れており、生理期間中と同じように汚れる。26 この期間中に彼女が使った寝床は、生理期間中使用した寝床と同様に汚れる。また、彼女が使った腰掛けも月経による汚れと同様汚れる。27 また、これらの物に触れた人はすべて汚れる。その人は衣服を水洗いし、身を洗う。その人は夕方まで汚れている」(レビ記15:25-27)と指示されていました。
ということは、「十二年間も出血の止まらない」というその期間、彼女は町や村の共同体から遠ざけられる存在であったということです。独りで苦しみに耐えるしかありませんでした。人前に出ることさえ憚られました。
しかし、果敢にも彼女は病と闘いました。「直りたい」との気持ちを捨てなかったのです。それにもかかわらず、「多くの医者にかかって……全財産を使い果たしても……」、病はいやされませんでした。モーセの律法が、病身の彼女にのし掛かっていました。「その期間中は汚れている」以上、祭司はじめ衆人環視のもとに置かれていました。
そんな女のもとに、①〈初めに〉罪の赦しを教える(マルコ2:5、3:28)⇒②〈次に〉病気をいやし奇跡を起こす (マルコ2:11-12、3:5)という宣教をされているお方のうわさが入って来ました。聞けば、舟に乗って湖畔の群衆にたとえを話したり、また、通りがかりに様々な人々に語りかけている(マルコ1:16,19、2:14、4:1-2)ということです。ガリラヤの自然のように、心の広いお方であると、彼女は思ったかも知れません。
「十二年間も出血の止まらない女」がどんな行動に出たかを見る前に、哀しみを知る人エレミヤの苦悩について説き明かしましょう。なぜ、エレミヤは「負わされた傷は膿んで悪臭を放ちます」(詩編38:6)というほどに、苦汁をなめなければならなかったのでしょうか。神はエレミヤを見捨てられたのでしょうか。
Ⅲ 何故にわたしの痛みは絶え間なく続くのか
エレミヤ書15:18――
これは、「エレミヤの訴え」と呼ばれているテキストの一節です。エレミヤは「あなた」なる神に対峙しています。実際、直後の19~21節には、エレミヤへの主の返答が記されています。
最大の問題は、神に「諸国民の預言者」として立てられ聖別されたエレミヤ(1:5)がどうして苦悩のどん底に落ち込んでいるのか、ということです。神に遣わされているならば、「わたし(預言者)は力と主の霊 正義と勇気に満ちている」(ミカ書3:8)はずなのに、何とエレミヤは情けないことかと、あなたは思われるでしょうか。
預言者の苦悩……それは、安楽椅子に座っている学者の理論では知り得ないものがあります。旧新約聖書が描き出す預言者や伝道者の姿はリアリティそのものです。そこには、神と民衆との間に立っている葛藤、あるいは、人間の不信仰や絶望を垣間見ている恐れと憂いなどによって、彼らはしばしば憔悴・衰弱することがあります。
預言者が群衆に、神の愛と義を唱えれば、一部の者から罵声を浴びせられます。彼らは自己中心であり、自分の生活を変えられたくないからです。
コリントの信徒への手紙 一 2:3――
(わたしが)そちら(あなたがたのところ)に行ったとき、わたしは衰弱していて、恐れに取りつかれ、ひどく不安でした。
パウロは自分を「あなたがた」にぶつけています。自分をさらけ出しています。パウロはコリント教会の、少なくとも一部の人々が知っている事実を元に訴えています。というのも、(この手紙を書くおよそ2年前)パウロは1年半ほどコリントにとどまって伝道していたからです(使徒18:11)。
しかし、パウロの打ち明けた「衰弱・恐れ・ひどい不安(おののき)」に驚いた人が多かったでしょうか。これはある意味、真の「キリスト・イエスの僕」には避けられない体験でありました。それほどまでに、パウロはコリントで、神の言葉を教え、身を粉にして働いたのです。
さて、エレミヤに、ひいては、「十二年間も出血の止まらない女」に話を戻しましょう。
エレミヤは、「わたしの痛み」と「わたしの傷」を、「わたしを裏切り 当てにならない流れのようになった」かに見える神に訴えました。ここで、注解者のC.ヴェスターマンは、「エレミヤは徹底的に神に抵抗した。このように止めようのない痛みの中から、エレミヤは鋭い言葉で神を告発する。大切なことは、たとえ神に対する告発であったとしても、その言葉が神に向けて語られた言葉であった、という点である」と述べています。
従って、「十二年間も出血の止まらない女」が救われるかどうかは、彼女が主イエスの御前に自分を包み隠すことなく、主に依り頼むかどうか、に掛かっています。「やむことない痛み」と「重くて、いえない傷」に屈することなく、慈しみに満ちた神からの答えを待ったエレミヤは、間違いなく彼女の先駆者たる人物です。果たして、人を隔離に追いやるモーセの律法を乗り越えて、彼女は主イエスと対面することができるのでしょうか?
マルコ福音書5:27-29――
27(彼女は)イエスのことを聞いて、群衆の中に紛れ込み、後ろからイエスの服に触れた。
28 「この方の服にでも触れればいやしていただける」と思ったからである。29 すると、すぐ出血が全く止まって病気がいやされたことを体に感じた。
「イエスのことを聞いて」との一句によって、主イエスに対する彼女の期待が分かります。願わくば、仮に彼女の期待通りに行かなくても(参照:たといそうでなくても / but if not ダニエル書3:18)、主イエスに従い続けることです。そうすれば、やがて彼女の期待は、主イエスへの信仰に変えられます。
「群衆の中に紛れ込み」……幸いにも、主イエスに押し迫るほどの群衆が、彼女の隠れ蓑となりました。そして、彼女は「後ろからイエスの服に触れ」ました。
実は、イスラエル人の男子の衣服には「四隅に房が縫い付けられて」いました(民数記15:38)。主イエスの服に「房」が付いていたかどうかは不明ですが、聖なる「房」に触れるようにして、女は主イエスの御力にあずかりました。本来、律法には、「あなたたちが房を見るとき、主のすべての命令を思い起こして守り、あなたたちが自分の心と目の欲に従って、みだらな行いをしないためである」(同上15:39)と規定されています。
女はおそらく、「服の房をただ見ているだけ」という律法を知らなかったのでありましょう。しかし、「イエスのことを聞いて」、それが動機となって彼女は主イエスとの交わりを乞い願いました。群衆の誰かに、正体が気づかれれば、外に引きずり出されてしまいます。「去れ、汚れた者よ」、「去れ、去れ、何にも触れるな」(哀歌4:12)と。
彼女は一縷の望みを「後ろからイエスの服に触れる」ことに託しました。というのも、「この方の服にでも触れればいやしていただける」と思ったからです。雑踏の中、彼女は決死の覚悟で、主イエスに近づきました。そうして、「イエスの服に触れる」ことができました。
「すると、すぐ出血が全く止まって病気がいやされたことを体に感じた」……彼女の「いやしていただく」との願いは「すぐに」聞かれました。それはあたかも、「十二年間も出血の止まらない女」が祈る先から、神が彼女の願いを聞き届けておられたかのようです(マタイ6:8、イザヤ書65:24)。「すぐに」いやされた女から、「すぐに」気づかれた主イエスへと、焦点が切り替えられます。それによって、主イエスと女の出会いは揺るぎないものとなります。
Ⅴ イエスは自分の内から力が出て行ったことに気づいた
マルコ福音書5:30-31――
30 (そして)イエスは(すぐに)、自分の内から力が出て行ったことに気づいて、群衆の中で振り返り、「わたしの服に触れたのはだれか」と言われた。31 そこで、弟子たちは言った。「群衆があなたに押し迫っているのがお分かりでしょう。それなのに、『だれがわたしに触れたのか』とおっしゃるのですか。」
主イエスは、御自身の服に触れ、「すぐに」いやされた女に、「すぐに」気づかれました。なぜなら、「自分の内から力が出て行った」からです。わたしたちの信仰において、神ならびに主イエスの「力」を受けるというのは、とても大切です。
コリントの信徒への手紙 一 2:5――
それは、あなたがたが人の知恵によってではなく、神の力によって信じるようになるためでした。
ルカ福音書6:19――
(ユダヤ全土とエルサレムから、また、ティルスやシドンの海岸地方からやって来た)群衆は皆、何とかしてイエスに触れようとした。イエスから力が出て、すべての人の病気をいやしていたからである。
「神の力」が主イエスを通じて、人々に分かち与えられます(Ⅱコリント12:9)。「イエスから力が出て」、現実に病気のいやしや悪霊祓いが成し遂げられます。その御業にあずかった者は、「体に感じた」と証言しています(マルコ5:29)。何よりも、「イエスから出た力」は、神ならびに主イエスと信じる者との交わりを強めます。
使徒パウロが述べている「神の力によって信じるようになる」との言葉は、それを実証しています。すなわち、「神の力」によって、わたしたちの生活はひっくり返されます。「神の力」の影響が、わたしたちの生活の隅々にまで及びます。“霊”と力 の働きに押し出されて、わたしたちは善い業に励むようになります(Ⅰコリント2:4、コロサイ1:10)。
ところで、主イエスの弟子たちは、「後ろから」忍び寄って来た女の存在に気づいていません。それは、主イエスの問いへの答え、「それなのに、『だれがわたし(イエス)に触れたのか』とおっしゃるのですか」から分かります。彼らの視界には、病を負って苦しんでいた孤独な女が入っていません。
その時の情況を踏まえて、その理由を二つ挙げましょう。
①「幼い娘が死にそうな」ヤイロの家に急いでいたから。
②「群衆があなた(イエス)に押し迫っている」ので、必死に主イエスを護衛していたから。
このように弟子たちの内心を探ってみると、主イエスの態度との違いが明らかです。
主イエスは、助けを求めてきた一人に心を配られました。そして、緊急事態においても、〈中断する〉のを厭われませんでした。つまり、遮二無二に前へ前へ、というのではなく、とどまる必要がある時には、休止されました(マルコ1:35、3:9)。主イエスは神の栄光を現すために、〈中断する〉勇気を持っておられたということです。
そこで主イエスは、〈途上〉の緊急事態に立ち向かわれました。この場面でいえば、大群衆の中に、「わたしの服に触れたのはだれか」、探し出そうとされました。
Ⅵ 娘よ、あなたの信仰があなたを救った
マルコ福音書5:32-34――
32 しかし、イエスは、触れた者を見つけようと、辺りを見回しておられた。33 女は自分の身に起こったことを知って恐ろしくなり、震えながら進み出てひれ伏し、すべてをありのまま話した。34 イエスは言われた。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい。」
「イエスは、触れた者を見つけようと、辺りを見回しておられた」……この主イエスの様子は、「見失った羊のたとえ」の一節を思い起こさせます。
ルカ福音書15:4――
「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。」
わたしたちが真に主イエス・キリストに出会うためには、羊飼いなる主によって「見つけ出され」ねばなりません。なぜなら、主イエス・キリストによって、自分が「救われる」ことが出会いの原点だからです。
そうして自分が「救われる」ならば、「羊のために命を捨てる」、慈しみ深いお方(ヨハネ10:11)につながれます。逃げ出したり、隠れたりしてはなりません。
「出血が止まって病気がいやされた女」の場合は、どうだったでしょうか。
「女は自分の身に起こったことを知って恐ろしくなり、震えながら進み出てひれ伏し、すべてをありのまま話した」……驚き、恐れ、恥じらいなど、いろいろな感情が入り交じっているように思われます。注目すべきは、「進み出てひれ伏し」と「すべてをありのまま話した」との二点であります。
悪霊に取りつかれていたゲラサの男も、「イエスを遠くから見ると、走り寄ってひれ伏し」ました(マルコ5:6)。「ひれ伏す」というのは、礼拝において神の御前にひざまずいている姿勢です。その人の謙遜さのうちに、神に近づくという大胆さが現されています。大切なのは、そこにイエス・キリストが〈主〉、そして、自分が〈従〉という主従関係が結ばれたことです。
これは、主イエスの招きに対する、「救われた」者の感謝をもっての応答です。「すべてをありのまま話す」という姿勢が保持されていれば、きっとこの人は、神に何でも打ち明ける祈りの生活に入っていくことでしょう。
自分の「ありのまま」というのは、神によってひっくり返されることと矛盾するのではないか、と問われるでしょうか。それは善い質問です。その答えを導き出すには、「ありのまま」の原意は「真実」(アレーセイア)であることを知らねばなりません。
つまり、神の「真実」がわたしたちの体験し生活している「ありのまま」を支配しているということです。従って、神の「真実」が、自分の固執している「ありのまま」、あるいは、ねたみと争うに満ちた「ありのまま」を変えることがあります。そうであってもまずは、この女性のように、「すべてをありのまま話す」ことが大切です。
最後に、序.で確認した、主イエスの宣教の基本線に立ち返りましょう。すなわち、主イエスは弟子たちはじめ民衆に向かって、①〈初めに〉罪の赦しを教える(マルコ2:5、3:28)⇒②〈次に〉病気をいやし奇跡を起こす (マルコ2:11-12、3:5)との宣教をくり返していたということです。
「十二年間も出血の止まらない女をいやす」というのは、緊急事態中の緊急事態、〈途上〉で惹き起こされた出来事です。急ぎがちになるような〈途上〉においても、主イエスはいつもと変わらない伝道の姿勢を貫かれたのでしょうか?
イエスは言われた。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい。」……というように、病気のいやしの物語は結ばれています。
結論的にいえば、主イエスはいつもと変わらない伝道の姿勢を貫かれたのか、に対する答えは、「はい、その通り。基本線が明確に確認できます!」ということです。
そこで、「①娘よ、あなたの信仰があなたを救った⇒②安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい」との主イエスの言葉の配列に着目してください。
初めに、①あなたは主イエス・キリストを信じる、そして次に、②あなたは主にあって平安と健康を享受する、という流れになっています。
確かに、時系列上は、「すると、すぐ出血が全く止まって病気がいやされた」(②の治癒 マルコ5:29)が先行しているように見えます。しかし、さかのぼるべき出発点は、「(彼女は)イエスのことを聞いて」(同上5:27)という事実にあります。つまり、彼女は人づてであれ、主イエスによって伝道されていたのであります。彼女がすでに、「たとえの連続公開講座」(マルコ4:1-32)の興味深い話、あるいは、人の罪を赦すという福音(同上2:10、3:28)を「聞いて」いたとしても不思議ではありません。
そのような一人の女性が、「振り返られた」主イエスのまなざしの中に置かれています(マルコ5:30)。そして彼女は、主イエスの御前に「ひれ伏して」います。主は親しみを込めて、その女に「娘よ」と呼びかけられました。ふたりの関係は、「あなたの信仰」によって堅く結ばれています。
この女性はこれから将来にわたり、健康はじめ、すべてのものが神から与えられる(Ⅰコリント4:7)という幸いな人生を送ることになります。
ローマの信徒への手紙11:36――
すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです。栄光が神に永遠にありますように、アーメン。
W
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月報9月号
説教 『 風はやみ、すっかり凪になった 』
マルコによる福音書 4章35節~41節
小河信一 牧師
説教の構成――
序
Ⅰ 向こう岸に渡ろう ……マルコ4:35-36
Ⅱ わたしたちがおぼれ死んでもいいのですか
……マルコ4:37-38
Ⅲ あなたは荒れ狂う海を静められる ……詩編89:10
Ⅳ すると、風はやみ、すっかり凪になった ……マルコ4:39
Ⅴ あなたがたにはいまだに信仰がないのか ……マルコ4:40-41
序
主イエスはこれまでに、病気のいやしや悪霊の追放などの奇跡(マルコ1:21-45、2:1-12、3:1-6,
10-11,22-23)を行われました。次の大きなまとまり(同上4:35-5:43)には、より大きな奇跡が連続して出てきます。
それに伴って、伝道の範囲が徐々に広がっていきます。主イエスはガリラヤ湖畔・カファルナウムを拠点としつつ、ガリラヤ周辺(マルコ5:1、6:1)を巡回されます。そうして、ユダヤ人のみならず各地の異邦人が群れをなして、主イエスにつき従うようになりました(同上3:7-8、5:20)。
ここで、主イエスがガリラヤ湖畔やその周辺で宣教することに、どんな意味があるのでしょうか、という質問が出てくるかも知れません。一つひとつのたとえ話や奇跡物語からメッセージを汲み取るのが大切なのは分かりますが、一体何のために伝道が行われているのか、総括してくれませんか、ということです。
確かに、本の「あとがき」や「解説」から読む人は多いでしょうし、そこで著者や作者の意図や背景を知った方が本文の内容がより深く理解できることでしょう。そこで、どんなことを目指して、主イエス・キリストが ①〈初めに〉罪の赦しを教える⇒②〈次に〉病気をいやし奇跡を起こす という御業(マルコ2:1-12、3:28)が繰り返されているのか、端的にお教えしましょう。
マルコ福音書の著者はまさに “ 霊 ” によって、読み手をここに導くという企図を持っていました。それが、「ペトロ、信仰を言い表す」と「主イエス、死と復活を予告する」(マルコ8:27-30と8:31-9:1)という出来事になります。つまり、ペトロに代表される人間が、主イエス・キリストの十字架と復活を信じるということこそ、ガリラヤ伝道の最高潮なのです。ここに、「いったい、この方はどなたなのだろう」(マルコ4:41)との問いへの答えも示されています。
それでは、どこを目指しているか、明確にされたところで、一つの奇跡物語を読み味わいましょう。
Ⅰ 向こう岸に渡ろう
マルコ福音書4:35-36――
35 その日の夕方になって、イエスは、「向こう岸に渡ろう」と弟子たちに言われた。
36 そこで、弟子たちは群衆を後に残し、イエスを舟に乗せたまま漕ぎ出した。ほかの舟も
一緒であった。
「その日の夕方になって」と時間が表示されています。実は四つの福音書の中で最も古いと言われているマルコ福音書には、ヘブライ的時間観念が色濃く残存しています。すなわち、この福音書全体にわたり、一日が夕方から始まる時間観念(創世記1:5)が採用され、ストーリー展開の節目になっているということです(マルコ1:32、6:47、14:17など)。
重要なのは、「夕方になって」、一日が始まるとき、主イエスの新しい御業が現れ出るということです。そこでわたしたちは、突然、夜の闇の中に輝く神の救いの業に対峙させられます。そこで、
わたしたちの不安や失望がぬぐい去られます。「夕方になって」起こされた奇跡は、これに続く三つのいやしの奇跡の幕開けともなっています(マルコ4:35-5:43)。
「夕方になって」、一日が始まり、その日の終わりまでに、主イエスの御前で、自分の罪と弱さを言い表し信仰告白する……それこそ、神がわたしたちのために創られる一日であり主の日であり、
わたしたちの一生涯の日々なのです。
そのような夕暮れ時に、主イエスは弟子たちに、「向こう岸に渡ろう」と呼びかけられました。弟子たちは何の用意もしていなかったことでしょう。それで良いのです。主イエスにすべてゆだねることです。
ガリラヤ湖畔にこだました主イエスの御声は、威厳に満ちたものでありました。そこには、途中の障壁を乗り越えていくという勇敢さと忍耐が込められていました。そのように察せられるのは、その呼びかけが、神の民イスラエルの歴史において、父祖たちのかけた号令と響き合っているからです。
出エジプト記14:13,15-16 葦の海の岸辺で――
13 モーセは民に答えた。「恐れてはならない。落ち着いて、今日、あなたたちのために行われる主の救いを見なさい。」 …… 15 主はモーセに言われた。「なぜ、わたしに向かって叫ぶのか。イスラエルの人々に命じて出発させなさい。16 杖を高く上げ、手を海に向かって差し伸べて、海を二つに分けなさい。そうすれば、イスラエルの民は海の中の乾いた所を通ることができる。
ヨシュア記3:6 ヨルダン川を渡るとき――
ヨシュアが祭司たちに、「契約の箱を担ぎ、民の先に立って、川を渡れ」と命じると、彼らは契約の箱を担ぎ、民の先に立って進んだ。
神は闇雲に「向こう岸に渡ろう」と命じて、民に冒険させているわけではありません。そうではなく、神の約束の地へ旅立とう、不安を払拭して、神を信じ、行動を起こしなさい、との意図なのです。神の力があなたがたの弱さの中に発揮されること(Ⅱコリント12:9)を教えようとされています。
主イエスは単なる思いつきではなく、モーセやヨシュアの示した父なる神への従順を思い起こしながら、「向こう岸に渡ろう」と呼びかけられたのではないでしょうか。
「弟子たちがイエスを舟に乗せたまま漕ぎ出した」だけでなく、「ほかの舟も一緒であった」ということです。主イエスの御声を聞いて、弟子たちはじめ主に従う者たちが前進し始めました。この
光景にこそ、約束の地、神の国をめざす信仰者の原型が現されています。「イエスを舟に乗せたまま行く」こと、言い換えれば、「神は我々と共におられる」(マタイ1:23)ことが頼みの綱です。自分は元漁師で、舟を操るプロであるという過信は即刻打ち砕かれます。
Ⅱ わたしたちがおぼれ死んでもいいのですか
マルコ福音書4:37-38――
37 激しい突風が起こり、舟は波をかぶって、水浸しになるほどであった。38 しかし、イエスは艫の方で枕をして眠っておられた。弟子たちはイエスを起こして、「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と言った。
「向こう岸」に漕いでいく途中で、障壁が立ちはだかりました。自分が実際、何を頼みの綱としているのか、が暴き出されます。
「激しい突風」をより原意に即して言うと、「巨大な嵐の突風」となります。この表現から、恐怖に取りつかれた人間(マルコ4:40)の心象風景が汲み取られることでしょう。「突風」、「波」、「水浸し」……自分たちの常識を超えたものの前に、心が押しつぶされそうになっています。不安が募るばかりです。これでは、弟子たち同士のチームワークも機能しません。このような時の一番の問題は、本当に見るべきものが見えなくなる、その平常心が失われる、ということではないでしょうか。
しかしその時、漆黒の世界に、「艫の方で枕をして眠っておられたイエス」の姿が浮かび上がりました。弟子たちはいまだに、主イエスを頼みの綱としてはいません。「神は我々と共におられる」というメッセージをもって、自分たちの間に臨在しておられる主イエス・キリストを信じてはいません。
幸いなことは、「眠っておられたイエス」の目の前で、自分たちの正体が露わにされたということです。主イエス・キリストが ①〈初めに〉罪の赦しを教える⇒②〈次に〉病気をいやし奇跡を起こす という御業(マルコ2:1-12、3:28)を繰り返されているにもかかわらず、弟子たちはいまだにイエスが救い主であると信じていません。
そのことが、「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」との弟子たちの言葉から分かります。ここで、「おぼれる」というのは、「滅びる」が原意で、「おぼれ死ぬ」と意訳できます。全文を訳し直すと、「先生、あなたはわたしたちのおぼれ死ぬことに気を留められないのですか」となります。
これは、主イエスに対し失礼極まりないというよりも、弟子たちの不信仰の告白と断じざるを得ません。自分の命が惜しいのは、切迫した状況からもよく分かります。しかしこれは、「わたしたち」が神の御子なる「あなた」に投げかける言葉ではありません。「先生」という言い方もかえって、しらじらしく聞こえます(マルコ5:35、14:45)。
では、添削すると、「主よ、あなたはいつも、わたしたちが滅びないように心にかけてくださっています。どうか、助けてください」となるでしょうか。元より、主イエス・キリストへの信仰を表すということなので、これが正解というわけではありません。
わたしたちが祈り求める以前から、主イエスは、罪と病と死の縄目から解放してくださるお方として、わたしたちに寄り添っておられます。「突風」、「波」、「水浸し」という悪循環の中でも、「イエスは艫の方で枕をして眠っておられた」という幸いと平安に依り頼みたいと願います。
ところで、旧約聖書には、自然界を支配されている神の権能が繰り返し描き出されています。「激しい突風が起こり、舟は波をかぶって、水浸しになるほど」の危難に遭った信仰者は、そのような神に救いを求めて祈りました。本日は、そのことを証しする旧約の一節を読んでみましょう。
Ⅲ あなたは荒れ狂う海を静められる
詩編89:10――
波が高く起これば、(あなたは)それを静められます。
「わたし」なる詩人が、神の慈愛や威光を讃美しています。そしてこの節では、「あなた」なる神が「おごり高ぶった海」と「大きくうねる波」とに対峙しています。悪霊のごとく「海」や「波」は猛威を振るい、被造世界を混沌に陥れようとしています。
詩人は身を潜めてその様子をうかがっています。その人は、神が「海」を創られたこと(創世記1:9-10)を知る信仰者です。そうして詩人は「あなたは誇り高い海を支配し 波が高く起これば、あなたはそれを静められます」と、口ずさみました。
詩人は単に神による自然奇跡を讃美したのではなく、「天はあなたのもの、地もあなたのもの。御自ら世界とそこに満ちるものの基を置かれた」(詩編89:12)というように、創造神への
信仰を告白したのです。
この詩人と同じ信仰に立つ預言者エレミヤは次のように、主なる神の言葉を取りつぎました……「主は言われる。わたしは砂浜を海の境とした。これは永遠の定め それを越えることはできない。波が荒れ狂っても、それを侵しえず とどろいても、それを越えることはできない」(5:22)。
エレミヤは、悪霊が被造世界の中で荒れ狂い、人間に取りつき苦しめることがあっても、神の支配は侵しえないと信じています。なぜなら、神が信仰者と悪霊との間に、「越えることはできない境」を造ってくださるからです。大切なのは、危難の時にも、「わたし」が「あなた」なる神を信じ、安んじていることです。
Ⅳ すると、風はやみ、すっかり凪になった
マルコ福音書4:39――
イエスは起き上がって、風を叱り、湖に、「黙れ。静まれ」と言われた。すると、風はやみ、すっかり凪になった。
主なる神がこの世に遣わされた主イエスは、自然を創造し保持されている権能を持っておられます。「風」や「湖」と相対する前に、主イエスは眠りから目覚め、「起き上が」られました。これは
まさに、死からのよみがえり(起き上がり)を予告する出来事です。
このようにして、主イエスはまことの神として自己啓示された後に、「風を叱り、湖に、『黙れ。静まれ』と言われ」ました。弟子たちもこの言葉を聞き届けたに違いありません。自然奇跡の中で、主イエスが言葉をもって神の力を現された出来事は、きっと彼らの信仰への導きとなることでしょう。
「巨大な嵐の突風」(マルコ4:37)が「巨大な凪」に変えられました。そうして、湖に静けさが回復されました。「神の国」に起こる救いの御業は、わたしたちの思いをはるかに超えています。
弟子たちは、「向こう岸に渡ろう」とされた主イエスの旅の中で、“ 霊 ” によって目覚めさせ
られる機会が与えられました。彼らにとって、主イエスはどのようなお方なのでしょうか。
Ⅴ あなたがたにはいまだに信仰がないのか
マルコ福音書4:40-41――
40 イエスは言われた。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」 41 弟子たちは非常に恐れて、「いったい、この方はどなたなのだろう。風や湖さえも従うではないか」と互いに言った。
主イエスは信仰を授けようと、その伝道の対象にしている弟子たちに向き合われます。
まず主イエスは、「突風」、「波」、「水浸し」によって恐怖に取りつかれた彼らに寄り添われます。「なぜあなたがたは怖がるのか」と語りかけられました。主イエスは人間の臆病と孤独とをご存じです。それから、この場面で最も重要な問いを出されました。
「まだ信じないのか」は原意を踏まえて、「あなたがたはいまだに信仰を持っていないのか」と訳しましょう。
「いまだに」を「すでに」と反転すれば、「すでに」信じられるように、あなたがたを導いたはずだが、との意味だと分かります。確かに弟子たちは、主イエス・キリストによって、 ①〈初めに〉罪の赦しを教える⇒②〈次に〉病気をいやし奇跡を起こす という御業が繰り返されたのを、見て・聞いて・知っていました。そのようにして、彼らには、神の国の秘密が打ち明けられました(マルコ4:11)。
弟子たちに一体何が足りない(あるいは無い)のでしょうか?
主イエスは問いかけの内に、足りないのは「信仰」だと明示されました。
主イエスに、弟子たちへのいらだちなど無かったことでしょう。というのも、主イエスははるかにガリラヤ伝道の最高潮を望み見て、ガリラヤ周辺を巡回しておられたからです。この度の湖上の事件が、「ペトロ、信仰を言い表す」と「主イエス、死と復活を予告する」(マルコ8:27-30と8:31-9:1)という奇しき出来事につながっているのをご存じありました。
いまだに信仰が育っていない弟子たちにとって大切なのは、「いったい、この方はどなたなのだろう」と問い続けることでありました。その点では、十二弟子は、おびただしい群衆にとっての模範でありました。そのために主イエスは、神の栄光を現すイエス・キリストにつき従おう、そして、イエス・キリストと共に、ユダヤ人と異邦人に伝道しようという姿勢を、弟子たちに培われました。
主イエスは弟子たちの前に座って、「ほかの種は良い土地に落ち、芽生え、育って実を結び、あるものは三十倍、あるものは六十倍、あるものは百倍にもなった」(マルコ4:8)と語られました。収穫の時が来るのを待っておられました。だからこそ、主は、弟子たちが、“ 霊 ” によってイエス・キリストを信じるよう導き、執り成し、祈っておられたのです。
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〈説教の要約〉
2024年 9月29日
聖霊降臨節 第20主日
旧約聖書 イザヤ書 55章1節~5節(P.1152)
新約聖書 ヨハネによる福音書 4章13節~14節(P.169)
説教の構成――
序
Ⅱ わたしはあなたたちととこしえの契約を結ぶ
……イザヤ書55:3後半-4
Ⅲ 見よ、あなたは知らなかった民に呼びかける
……イザヤ書55:5
Ⅳ わたしが与える水を飲む者は決して渇かない
……ヨハネ4:13-14
序
主イエス・キリストの十字架と復活の力によって、わたしたちの人生や考え方はひっくり返されます。そして、ひっくり返されると、どうなるかと言えば、神の祝福が大河のように押し寄せてきます。
天からの祝福の流入を、「遠慮」や「独占」によって堰き止めるのは止めましょう。自分の飢え渇きをもって祝福にあずかりましょう。「貯めておこうか」と思うときには、隣の人に分かち与えましょう。
このような姿勢を取るのは、意外に難しいことかも知れません。では、あるがまま、で良いでしょうか、と問われるでしょうか? ハイと言いたいところですが、あるがままだと、大概、自分に、つまり自分の欲望や誇りに力が入ってしまうことでしょう。そこで、パウロはあるべき信仰者の姿を、心を開いて「霊で賛美の祈りを唱えている」(Ⅰコリント14:16)というように提示しました。祈りをもって天を仰いでいる、賛美して喜んでいる……すでに多くの方が知っておられた通りのことです。
ここで、このような前置きを書いている理由を要約しましょう。すでに触れていることなのですが……。
それは、神の祝福が圧倒的な勢いで、主イエス・キリストを信じ、聖霊によって導かれているわたしたちの生活の隅々にまで流れ込んでくることを、心に刻んでおくということです。そしてそのことを、実体験するために、第二イザヤが描出している神の祝福の奔流に身心を浸してみましょう、ということなのです。
そこで、アラムの軍司令官ナアマンの轍を踏まないようにしましょう。神の人エリシャは、使いの者を通して、ナアマンに「ヨルダン川に行って七度身を洗いなさい。そうすれば、あなたの体は元に戻り、清くなります」(列王記下5:10)と命じました。しかし、大の大人がだだをこねて、家臣に、「イスラエルのどの流れの水よりもダマスコの川アバナやパルパルの方が良いではないか。これらの川で洗って清くなれないというのか」(同上5:12)と言い返しました。そのように憤慨したナアマンは、身を翻して立ち去りました。
神の癒やしにあずかるのも、神から祝福をいただくのも、同じことです。自分の欲望や誇りには、力が入りやすいので警戒しましょう。幸い、ナアマンの周りには、率直に助言してくれる家来たちと、重い皮膚病を患った人を憐れんでいる神の人エリシャとがおりました。ナアマンは彼らによって、神の御前にへりくだるように導かれました(列王記下5:14)。
それでは、さあ、「霊で賛美の祈りを唱えている」との心備えをもって、第二イザヤの最終章を読みましょう。イザヤ書55:1-5は基本的に、主なる神がイザヤを通して、イスラエルの民にメッセージを告げるという形になっています。
Ⅰ ああ、渇いている者は皆、来なさい
1 (ああ)渇きを覚えている者は皆、水のところに来るがよい。
聞き従って、魂に命を得よ。
新共同訳では訳出されていませんが、冒頭の「ああ」との嘆きを聞き逃さないようにしましょう(他にイザヤ書45:9,10)。というのも、その一句の内に、悲惨な民のただ中に身を沈められる神が表されているからです。主なる神は、災いから立ち直れない民と共におられます。神は時に厳しく、時に優しく、一人ひとりに寄り添っておられます。
主なる神は、民が立ち直るために必要なものを差し出されています。飢え渇いている者に、「水」、「穀物」、「ぶどう酒」、そして「乳」が無償で与えられます。「銀を持たない者も」、「銀を払うことなく」、そして「価を払うことなく」というように、3回もそれらがただであると強調されています。
悲惨のうちにあるイスラエルの民が悟るべきは、神の恵みの豊かさであります。わたしたちは、「水」や「穀物」が安定供給される様を見て、永遠に神の恵みが満たされるということを知らねばなりません。「水」、「穀物」、「ぶどう酒」、そして「乳」が不足しそうだと不安になるときにも、「ああ」と嘆いて、民に寄り添う神を信頼することです。
無償の恵みを受け取りなさいとの招きに続いて、神は民に忠告を与えています……「なぜ、糧にならぬもののために銀を量って払い 飢えを満たさぬもののために労するのか」。いくら神が助けの御手を差し伸べても、民が過ちを認め、立ち直ろうとしなければ、先に進みません。
ここで、「糧にならぬもの」と「飢えを満たさぬもの」というは、一体何を指しているのでしょうか?
イザヤの預言からは、「剣」(=戦争の象徴 イザヤ書51:19)、「よろめかす杯」(=暴飲 同上51:22)、無用な「搾取」(=弱者を苦しめる貧困 同上52:4)などが挙げられるでしょう。また現代社会においても、「糧にならぬもの」ために、一部の人々はお金を浪費し自ら堕落する一方で、その隣人は飢餓により死線をさ迷っているということが起こっています。
この世の生活の中で、「水」や「穀物」のことが気にかかるのは分かります。実際、イスラエルの民は荒野放浪を始めた途端に、「あのときは肉のたくさん入った鍋の前に座り、パンを腹いっぱい食べられたのに」と不平を鳴らしました(出エジプト記16:3)。この愚痴を小耳に挟まれた神(同上16:4、マルコ5:36)は、「見よ、わたしはあなたたちのために、天からパンを降らせる」と告知されました。神は速やかに、人間の「ああ」(イザヤ書24:16、29:15)との嘆きに対処されました。
わたしたち・信仰者には、神と隣人を愛し、被造世界を保持していく務めが与えられています。その中で「銀を量って払い、労する」という生活が営まれます。誘惑の多いこの世で、一体何のために、「銀を量って払い、労する」のか、真剣に祈り求めることが大切です。
主なる神は、飢え渇いている者への語りかけを、招きから忠告へ、それから勧めへと展開していきます。
勧めの中心点は一目瞭然です……「わたしに聞き従えば」、「耳を傾けて聞きなさい」、そして、「聞き従いなさい」。「聞く」べき内容は、イザヤの口を通して宣べ伝えられています。
3回も「聞く」ように勧められているのには、訳があります。それは、民が御言葉を耳にしながらも、「真に聞いていない」、つまり、「聞き従っていない」ことが生じているということです。
それ故に、民の頑なさを見抜いておられる神は、民が「聞き従う」ように厳しく命じられたのです。義しい姿勢は、御言葉を「聞いて」心に納め、行うべきことを行って「従う」ということです。それならば当然、大河のように流れ下って来る神の祝福を堰き止めるようなことはないでしょう。
Ⅱ わたしはあなたたちととこしえの契約を結ぶ
イザヤ書55:3後半-4――
初めに、「渇きを覚えている者は皆、来なさい」と呼びかけられた、神の〈本気度〉がひしひしと伝わって来ます。神とイスラエルの民との「契約」の特徴が克明に描き出されています。さらに、その「契約」に関して、「わたしは彼を立てた」ことと、その対象の拡大、つまり、「あなたたち」(イスラエルの民)が「諸国民」に拡げられたこととが告知されています。
順に見ていきましょう。まず、「契約」の特徴を二つに分けて……。
神は「ああ」と叫んで、民の困難や堕落に介入されます。神は忍耐強く、預言者を遣わして、民に悔い改めるよう呼びかけられます。人間の側がどんなに「契約」にふさわしくない態度を取っても、神は見放されません。それが、「とこしえの契約」と言われる所以なのです。
ここに、神は “ 霊 ” なる御力をこの世に宿らせ、いつもわたしたちと共におられることが実証されています。神は、具体的・歴史的人物を通して、「とこしえの契約」を結ばれました。「ダビデ」は、争いと妬みに巻き込まれることが頻繁で、罪深い人です。けれども、神は「ダビデ」に油を注いで、イスラエルの国を建て直されました。「ダビデ」のさまざまな働きを、神は陰で支えておられました。
ところで、主イエスは「ダビデの子」と呼ばれています(マタイ1:1、21:9)。主イエスは人の子として、「ダビデ」の家系にお生まれになりました(ルカ2:4)。それはつまり、「(神が)ダビデに約束した真実の慈しみ」が主イエスによって引き継がれ、拡大されたことを示しています。
神がイスラエルの民と結ばれた「契約」は、「ダビデ」⇒「イエス・キリスト」というつながりによって「とこしえ」なるものとなりました。
次に、「かつてわたしは彼を立てて諸国民への証人とした」との真意をつかみ取りましょう。
第二イザヤは、神が「彼を立てた」が故に、「契約」が確固たるものとなった、と述べています。それでは、一体「彼」とは誰なのでしょうか?
それは、第二イザヤが42章から53章にわたり預言してきた「わたしの僕」(イザヤ書52:13)、すなわち、苦難の僕であります。挫折と回復が交錯するような時代に、四つの僕の詩は歌い上げられました。そして、それらは、イスラエルの民が、ユダ王国崩壊とバビロン捕囚という大災難から、茨の道を経て、立ち上がっていくときの、信仰の原動力となりました。
そうしたことを踏まえて、第二イザヤは最終章で、「かつてわたしは彼〈苦難の僕〉を立てて諸国民への証人とした」と総括したのです。もはや、神の「真実の慈しみ」、祝福の奔流は現実のものとなります。その顕著な現れこそが、「わたしの僕」が人々の「罪すべて負い」(イザヤ書53:6,11)、その罪と過ちから救い出すということです。「諸国民」がその喜びの知らせにあずかるというのは、なんと幸いなことでしょう。それは、神が人々に「見よ!」(ヘブライ語:)と呼びかけるほどに、画期的なことであります。
神は、今なお「背いている者たち」を見捨てられません。「(主の僕は)背いた者のために執り成しをした(原文:執り成しをするであろう)」(イザヤ書53:12)との言葉は文字通り、神の約束です。なぜなら、その約束は主イエス・キリストによって成し遂げられるからです。
Ⅲ 見よ、あなたは知らなかった民に呼びかける
イザヤ書55:5――
あなたを知らなかった国は あなたのもとに馳せ参じるであろう。
あなたに輝きを与えられる イスラエルの聖なる神のゆえに。
前詩行と並行して、導入句「見よ!」(ヘブライ語:ヘン)が置かれています。「あなた」、すなわち、神の民は皆、じっくりとご覧なさい、ということです。そこには、「神の国」を予兆するような、出来事が繰り広げられています。
神の民として結集した「あなた」には、人の思いをはるかに超える形で、神の恵みが与えられています。これまでに挙げられた神の恵みには、圧倒されます。初めから整理して並べると……。
「水」・「穀物」・「ぶどう酒」・「乳」、そして、「善良」と「豊潤」(イザヤ書55:2)、あなたたちの「魂」と「命」、さらには、「とこしえの契約」と「指導者」なる「彼」(わたしの僕)がイスラエルの民と諸国民に与えられました。そして今、それらものは、わたしたち、「キリストに結ばれている者」(ローマ16:22)に、無償で授けられると約束されています。
このような神の恵みによって充足された「あなた」に、次なる展開が起こります。立ち直った「あなた」が今度は、「兄弟姉妹を力づけてやりなさい」(ルカ22:32)ということです。
親しい「兄弟姉妹」の範囲が、「あなたの知らなかった国」まで拡げられました。「渇きを覚えている者は皆、来なさい」(イザヤ書55:1)との神の招きがすでに、はるか彼方まで届いているかのように、「諸国民」は速やかに応答します。船に乗って海を渡り、あるいは、らくだに乗って砂漠を越えて、彼らは「あなたのもとに馳せ参じて」きます。このようにして、「あなたたちの魂はその豊かさを楽しむであろう」(同上55:2)との預言が成就します。
第二イザヤの最終章・前半は、次の神の預言で閉じられます。ここでは、「神の国」の予兆にふさわしく神の栄光が現されます。
「諸国民」が、「あなた」と呼ばれるイスラエルの民のもとに結集します。その時、「あなたの神である主」は、「あなたに輝きを与えられ」ます。神を信じる者にとって、これ以上の栄誉はありません。わたしたちが神の栄光を帯びるというのは、「土の器のかけらにすぎない」人間(イザヤ書45:9)と神が一つになるためであります(ヨハネ17:22)。
ただし、それは生半可なことではありません。“ 霊 ” によって、一人ひとりが決断しなければなりません。復活された主イエスは、悔い改めたペトロに、「あなたはその死に方で、神の栄光を現すようになる」(ヨハネ21:19)と告げられました。まことに畏れ多いことです。同時に、自分が死ぬ時にも、「神の栄光」が現されるということに、どれほど慰められることでしょうか。
第二イザヤの預言は、主イエス・キリストの行いと言葉によって成し遂げられます。そうしてまさに、神とイスラエルの民との「契約」が、(イザヤの預言上の)「ダビデ」⇒「イエス・キリスト」というつながりによって「とこしえの契約」となることが実証されます。
Ⅳ わたしが与える水を飲む者は決して渇かない
ヨハネ福音書4:13-14――
13 イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでもまた渇く。14 しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」
これは、「水」をめぐる主イエスとサマリアの女の会話からの引用です。一読して、イザヤ書55:1-3前半の神の招きと、大差はないと思われるかも知れません。確かに概ね、「渇きを覚えている者は皆、来なさい」(イザヤ書55:1)との呼びかけと符合しています。しかし、先行するイザヤ預言があるからこそ、わたしたちは主イエスにおいて際立っている点を汲み取ることができます。
一方、第二イザヤは「あなたたち」、イスラエルの民に向かって叫びました。他方、主イエスは孤独なサマリアの女に語りかけています。主イエスによってすでに、ユダヤ人と異邦人との垣根は取り払われています。主イエスは「知らなかった国」(イザヤ書55:5)の女性に呼びかけています。
従ってここでは、主イエスがどのように、神を知らず、負い目を持つ人(ヨハネ4:18)の心を開くのか、が必見となります。「水に価を払うことはありませんよ」(イザヤ書55:1)と言えば、かえって警戒されそうです。
ヨハネ福音書4:7――
サマリアの女が水をくみに来た。イエスは、「水を飲ませてください」と言われた。
昼下がり、主イエスは旅に疲れて、井戸のそばに座っておられました(ヨハネ4:6)。「水を飲ませてください」との言葉には、何ら不自然なところはありません。つまり、相手に不信感を与えていません。
ただし、ユダヤ人がサマリア人に声をかけること、そして、孤独と悲哀のうちに沈んでいたその女に助けが求められることは、極めてまれなことでありました。
主イエスは「渇きを覚えている者」となり、女が久しく忘れていたであろう善行を促されました。それが、困っている人を助けるように、「冷たい水一杯を飲ませる」(マタイ10:42)ことでありました。こうして、主イエスはサマリアの女に立ち直るきっかけを与えられました。主イエスに対する、この小さな愛の業は、「受けるよりは与える方が幸いである」(使徒20:35)という信仰を植え付ける土台となることでしょう。
さらに、主イエスは「わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」と、驚くべき発言をされました。もちろん、このことは第二イザヤには書かれていません(比較:第三イザヤの58:11)。「水」や「穀物」の安定供給は、ひとえに神の恵みに掛かっていると示唆されましたが……。
ところが、今主イエスは、「わたしが与える」かぎり、その「水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」と言明されました。主イエスを信じる者たちへの、何と大いなる祝福でありましょうか。
同時にこれは、主イエスにつき従う者たちに、大いなる使命が与えられたということであります。すなわち、「その人の内の泉」から「永遠の命に至る水」を汲んで、罪人や病人に差し出すことです。そして、「永遠の命に至る水がわき出る」かぎり、小さな者たちへの小さな愛の業をくり返されます。
自分自身の世界に閉じこもっていた、一人の異邦人が主イエスによって解き放たれました。神と隣人を愛する人に変えられました。
結
主イエスは、第二イザヤの「渇きを覚えている者は皆、来なさい」との告知をしっかりと受け止められました。そして主イエスは、「水を飲ませてください」と言って、外国人女性に助けを求めるほどにへりくだり、わたしたちの弱さや疲れの中に入って来られました。
実は、主イエスは極限状況の中で、「渇き」を体験したお方でありました。それは、主イエスがサマリアを旅しておられた時、ヤコブの井戸のそばで覚えられた「渇き」をはるかにしのぐものでありました。
ヨハネ福音書19:28――
この後、イエスは、すべてのことが今や成し遂げられたのを知り、「わたしは渇く」と言われた。こうして、聖書の言葉が実現した。
「聖書の言葉(=詩編22:16)が実現した」という通り、主イエスは十字架上で、神の御心に添って、焼き付くような口の「渇き」に苦しまれました。その点で、主イエスは心底から、人の「渇き」を体験されました。だからこそ、「渇いている人」を助け出すことがお出来になるのです。
主イエスは十字架上で、「わたしは渇く」と叫ばれた後に、死を遂げ、そして三日後によみがえられました。それによって、「わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」との約束が成し遂げられました。
というのは、復活の主が、きのうも今日も、また永遠に(ヘブライ13:8)、「わたしが与える」という務めを果たし続けておられるからです。ですから、「わたしが与える水」は、「永遠の命に至る水」にほかなりません。
わたしたち・信仰者の前途には、飢え渇きが潜んでいます。しかし、試練の時にも、主イエスは、「永遠の命に至る水」を注いで、わたしたちの魂を潤わせてくださいます。
そして、わたしたちは自分の内の「泉」の「永遠の命に至る水」をもって、自分と隣人の「渇き」を癒やします。そうして神の国にたどり着いた者に、主なる神は、「永遠の命」を得させてくださいます(ヨハネ3:16)。
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2024年 9月22日 聖霊降臨節 第19主日
説 教「現代に通じる共感の教え」 三浦久光役員
新約聖書 マタイによる福音書 7章7節~12節(P.11)
求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば開かれる。このあまりに有名な聖句を今まで何度聞いたでしょうか?クリスチャンのみならずノンクリスチャンの人でさえ知っている言葉です。これは主イエスが山上の説教で述べられたあまりに有名な句で黄金律とも呼ばれていますから今更説明するまでもないとは思いますが、果たしてどれだけの方が理解されているでしょうか?自分勝手な解釈にとらわれ思い違いに悩みまた、信仰から遠ざかってしまうのも、まさにこの聖句の解釈による問題なのではないかと感じております。ミッション系の学生ならば毎月毎週聖句の話を聞いていることでしょうから、本来は皆しかるべき時に洗礼を受けクリスチャンになるはずと考えますが実際はほぼ100%に近い学生が洗礼を受けずに卒業している現状です。なぜでしょうか?皆さんも覚えがあるでしょうが、人は本来「ああしなさい。こうしなさい。」言われれば言われるほど反発を覚えるものです。まして親や先生など近しい人であったりすればなおさらです。「こうするべき。こうあるべき。」いわゆる「べき論」を押しつけられるのは受け入れられないのです。学生時代毎週毎月先生型からああしなさい。こうしなさい。君は出来るはずだ。なんで努力を惜しむのか?などありとあらゆる機会に言われ続ければ聖書はおろか教師の話を聞くことすら苦痛になり結果として信仰どころか聖書を読み続ける古都からもとうのいてしまのではないかと私は考えてしまいます。聖書は実に不可思議な書物で世界一のベストセラーであり誰もが知る書物ですが、人によっては感心したり反発したりと。まさに様々な反応を示す書物でもあります。私も聖書を最初に一読しさらに4度通読しましたが、読み終える毎に違う感想や考えが浮かんできます。聖書にはわざわざ「信じられない」「納得しかない」と思われる出来事ばかりを記していて、読み手には反発されることを承知で「○○しなさい。」と押しつけがまし表現を使っている箇所が随所に見られます。聖書はそうしたやり方で私たちの常識や偏見を揺さぶりながら様々なことを問いかけてくるのです。そうして聖書と我々の対話を引き出してくるのです。山上の説教5章39節には「誰かがあなたの右の頬を打つなら,左の頬をもむけなさい」とあります。実際見ず知らずの人に、いきなり殴られてもう一回どうぞなどという人を見たことがありますか?残念ながら私を含め友人知人の中には一人もいませんでした。そんな馬鹿みたいな人はいないだろう?言い方は良くないかもしれませんが、そんな間抜けやでくのぼうみたいな人間がいるわけないだろう?それこそが世間一般の常識です。人に殴られたらさらに殴られ衣服をとられたらさらに与える。そんな間抜けが社会にでたらすぐに人生の終焉を迎えるかもしれません。人が人に対して寛容な世界なんかあるかいな・といわれてしまいそうです。しかし、仮に最も大きな悲劇である戦争を考えてみてください。やられたらやり返す。人質を一人殺されたから、こちらは2人を殺し返す。さらに倍またその倍と復習の連鎖がおさまりません。まさにイスラエルとパレスチナの戦争は復習による復習の連鎖で終わることがありません。主イエスは2000年以上前に人間の弱さ愚かさを十二分にご承知でした。それを踏まえた上での山上の説教だったのです。こうした理解をしているクリスチャンが今どれほどいるのでしょうか?私にはわかりませが。7章8節には「誰でも求める者は受け探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。」とあります。この聖句についても「そんなことあるわけない。」「現実は甘くない。」と考えるかもしれません。しかし、ここで不満をいう人たちは自分だけの狭い世界でしか考えていないのではないかと見受けられます。「だれでも」というときに「わたし」しかいない、確かに自分自身の人生をふりかえってみても求めても与えられず、探しても見つからず、門をたたいても開かれずということの方がはるかに多かった事でしょう。自分自身のそうです。聖書のいう「だれでも」は「わたし」を含めた世界を含む世界を映し出す鏡として読んだときに初めて共通の認識としてなされるのではないでしょうか? 主イエスが語られた言葉はわれわれに、ただ我慢を敷いていただけではありません。7章1節にあるように「求めなさい」と言われております。求めていいのです。何でもいいのでしょうか? 復讐による連鎖さえ起こさなければ何でもいいのか?というわけではなさそうです。9節にはパンをほしがる子どもに石を与えるだろか?10節に魚をほしがるのに、根火を与えるだろか?とあるように悪い者である私たちでさえ自分の子どもには良いものを与えることも知っている。とありますから、何もかもご存じである天の父が求める者つまり我々には良いものを与えてくださるに違いない。だからこそ、我々も人にしてもらいたいこと思うことは何でも人にするのです。社会派を気取るつもりは毛頭ありませんが日本における在日米軍基地の問題、まさに沖縄一極集中、平和維持のため必要なのだ。出あれば47都道府県全てに5~6%おいたらいいだけではないかと思いませんか?東日本大震災時に瓦礫の処理を東京都で石原都知事が引き受けるときに自分の街には受け入れたくないと多くに人が叫んだいましたが。石原さんは国に先駆け受け入れましたけど。自分にシテほしくないことを人には平気で押しつける。このような状態で平和な時代が保たれるのでしょうか?聖書で語られた主イエスの言葉は私たちが日々生活していく上でも大きな意義をもっているのです。クリスチャンなのであれば少なくとも聖書に書かれた主イエスの言葉のもつ意味や意義を共通の理解としてもつことの重要性が問われているのではないでしょうか?これからは私自身の私見として話しますが、主イエスが語られたのは信仰すら持てない当時の疲弊したユダヤ人に向けて主を仰ぐ信仰をもとめなさい。そうすれば信仰が与えられる。主イエスが語られる場所を探しなさい。そうすれば会うことも出来る。門が閉ざされていたならば叩きなさい。そうすれば開けられ主イエスにお会いできる。こう言いたかったのではないかと個人的には考えます。当時のユダヤはローマの支配下ですから太陽神や牛を捧げ子孫繁栄を願う宗教儀礼にまみえたいましたし、主イエスがご降誕前にはウル王朝から続くヒッタイトやアッシリアの神々の信仰など、ユダヤの民が主を契約された信仰がことごとく打ち砕かれようとする社会的な愛敬がありましたから、ユダヤの民の信仰する自由にローマから赦されていたわけではない状況下にありました。こうした中で人々に希望や神への自由な信仰を説く主イエスはまさに統治する側から見れば異端そのものであったはずです。そんな中でユダヤの人々はおろか異邦人にさえ神の救いをとく主イエスの存在がいかほどの喜びであったかを今一度想起する必要があるのではないでしょうか?
祈ります
御在天なる、あわれみ深い父なる神さま。過ぐる一週の間私たちはイエス様にたいしさらに罪を重ねる日常であったかもしれません。しかしながら、イエス様は、われわれに多くに希望や信仰に至る息吹を与えてくださいました。私たちの日々の生活を見越しながら如何に豊かに賢く平和に生きるかの教えすら与えてくださいました。教会員一人一人に聖書の知恵の中に大きな喜びを見いだせますように。今日この場に様々な事情で集えなかった兄弟姉妹方も同じ恵みが与えられますように。また教会学校に集う子供たちが将来あなたこそ主であると告白する日が来ますようにと願います。今日尾から始まる一週間の歩みも健やかでありますように、この言い尽くし得ぬ感謝と願いイエス・キリストの御名により祈ります。アーメン
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〈説教の要約〉
2024年 9月15日
新約聖書 コリントの信徒への手紙 二 12章1節~10節(P.339)
説 教「大いに喜びて我が弱きを誇らん」 小河信一牧師
説教の構成――
序
Ⅱ わたしの身に一つのとげが与えられた
Ⅲ 突き刺す茨や痛みを与えるとげが臨むことはない
……エゼキエル書28:24
Ⅳ 力は弱さの中でこそ十分に発揮される
……Ⅱコリント12:8-9
……Ⅱコリント12:10
本日は、2024年度の教会標語「力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」(Ⅱコリント12:18)を含む聖書箇所を取り上げます。毎年、9月が年度のほぼ中間に当たるということで、その年度の標語がどのようなメッセージを持っているのかを、礼拝で説教してお伝えするようにしています。
そこでまず、使徒パウロとコリント教会の人々とは今、どんなことを論争しているのか、あるいは、何が焦眉の課題なのか、テキストの前後関係から押さえておきましょう。
なるべく具体的にお話ししましょう。
コリント教会の一部の人々との対立点は、パウロ、アポロ(Ⅰコリント16:12)、そしてテモテ(Ⅱコリント12:18)などの使徒・指導者がどのような使命を持っており、また、どのような立場にあるか、にあります。彼らを非難する立場の人たちは、パウロやアポロにはつかないで、「他の指導者につく」と主張しています(Ⅰコリント1:12)。
他方、コリント教会内には、「福音を通し、キリスト・イエスにおいてパウロがわたしたちをもうけたのです」と言って、パウロを「父親」のように慕っている人々がいます(Ⅰコリント4:15)。容易に察せられるように、これではコリント教会は分裂状態に陥り、「神の聖なる神殿」(同上3:17)は崩壊してしまいます。
そこで、問題解決にあたるパウロは、コリント教会の一部の人々が「人間を誇っている」(Ⅰコリント3:21、Ⅱコリント11:18)という点に提示します。
人の知恵に頼り、「高ぶっている」かぎり(Ⅰコリント4:18)、神の力である十字架の言葉を軽んじてしまいます(同上1:18)。なぜなら、「神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになった」(同上1:21)ということが分からないからです。伝道者パウロが「神の秘められた計画」(同上4:1)を説き明かそうとしているにもかかわらず、彼らの高慢さと頑なさとが厚い壁を造っています。
パウロは、地中海の「エウラキロン」並の逆風(使徒27:14)にさらされています。そうした中、パウロはいわばリモート(遠隔)の形での、伝道牧会を忍耐強く続けます。パウロは信仰上、「わたしたちには、神が“霊”によってそのことを明らかに示してくださいました」(Ⅰコリント2:10)との点でぶれることがありませんでした。裏を返せば、批判者の問題点を、「自然の人は神の霊に属する事柄を受け入れません」(同上2:14)というように見抜いていたということです。
問題の本質を捉えていたパウロは、まさに「父親」のごとく、「自然の人」、「肉の人」、そして「キリストにある幼子」を見守っていました(Ⅰコリント3:1)。だからこそ時には、彼らを厳しく教え諭したのです(同上3:2-3、4:8,21)。「鞭」すらもちらつかせながら……。
そういう状況において、パウロはコリント教会の人々の前に、或る神秘的体験を持ち出します。その体験の内容によりけりですが、選ばれた人だけがそのような体験を持てるとの見方が今日でもあります。そうした人たちの中には、 霊的的パワーを誇示し、人々を幻惑することがあります。
パウロはいたずらに神秘的体験をキリスト者に推奨しているわけではありません。それを誇る気もさらさらありません。その種のことが誤解されやすいことに留意しつつ、パウロは幻を見、そして啓示を受けたことを語りはじめます。
Ⅰ その人は十四年前、第三の天にまで引き上げられた
コリントの信徒への手紙 二 12:1-4――
1 わたしは誇らずにいられません。誇っても無益ですが、主が見せてくださった事と啓示してくださった事について語りましょう。2 わたしは、キリストに結ばれていた一人の人を知っていますが、その人は十四年前、第三の天にまで引き上げられたのです。体のままか、体を離れてかは知りません。神がご存じです。3 わたしはそのような人を知っています。体のままか、体を離れてかは知りません。神がご存じです。4 彼は楽園にまで引き上げられ、人が口にするのを許されない、言い表しえない言葉を耳にしたのです。
パウロの誇大広告しない控え目さによるのでしょうか、何か曖昧な感じがします。この体験に基づいてパウロが宣べ伝えようとしている要点は、Ⅱ.ならびにⅣ.で説き明かしますので、それまでお待ちください。そこで、パウロはこの神秘的体験に、どんな意味づけをしているか、が分かります。
今は、二つの点を押さえておきましょう。
①人が口にするのを許されない、言い表しえない言葉を耳にした。
②第三の天または楽園にまで引き上げられた。
付け加えるとこれは、「十四年前」、「キリストに結ばれていた一人の人」に起きた出来事です。その「キリストにある人」ならびに「彼」・「このような人」というのは、パウロを指しています。神の知恵を物語ることが目的ですから、極力「自分」(わたし・一人称)を消そうとしています。「わたし」が高ぶってはいないことを証しするために、他人事のように三人称「彼」を使っています。
まず、①人が口にするのを許されない、言い表しえない言葉を耳にした について説明します。
これを言い換えると、パウロは明瞭に、神の声を聞いたり、神の姿を見たりしたのではない、と述べています。というのも、「口にするのを許されない、言い表しえない」ものだからです。
しかし、パウロは「十四年前」の体験を鮮やかに記憶しています。自分の苦難と労苦に満ちた伝道者生活(Ⅱコリント11:23-29)において、それがどのような意味を持つのか、“ 霊 ” の導きによって考え続けてきました。
大切なのは、「だから、異言を語る者は、それを解釈できるように祈りなさい」(Ⅰコリント14:13)というように、神秘的体験を「解釈する」ことです。人は恍惚状態で、異言を語り、神秘的体験をしています。その時、我を忘れるような喜びに浸っていることもあるでしょう。
しかし、それらは独り善がりに陥りやすいものです。自分だけ夢中になって、周りの人が見えなくなります。そこで、パウロは異言が「解釈できるように祈りなさい」と勧めました。その過程を経てはじめて、天上の聖なる「言い表しえない言葉」が、わたしたちの理性においても読み解けるようになります。「十四年」の歳月のうちに、「人の心に思い浮かばなかったこと」(Ⅰコリント2:9)が現れ出で、宣教の言葉とさえなります。
片や、この箇所の神秘的体験の叙述がおぼろげで、片や、パウロのメッセージが鮮明なのは、そのためです。
「霊で祈り、理性でも祈った」(Ⅰコリント14:15)上で、その体験の持つ意味を汲み取っています。そのことをパウロは、わたしたちの信仰に益するように、と語ってくれています。
次に、②第三の天または楽園にまで引き上げられた を取り上げましょう。
ここでは、「その人は十四年前、第三の天にまで引き上げられた」、「彼は楽園にまで引き上げられた」というように、「パウロは神によって引き上げられた」(受動態)、すなわち、「神はパウロを引き上げた」ことが二回繰り返されています。もちろん、パウロがこの世に生きている時の話です。
瞬間的にせよ、天の父なる神ならびに御子イエス・キリストとパウロとの特別な交わりが示唆されています。「楽園」(パラダイス)という言葉から、十字架上の主イエスが犯罪人の一人に言った「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」(ルカ23:43)との約束を思い起こされる方も多いことでしょう。
その犯罪人は、十字架の木に「引き上げられ」ました。しかしその後、主イエス・キリストの憐れみによって、「楽園に引き上げられる」と告げられました。「今日」、そしてこれからずっと、「あなたはわたしと一緒にいる」と約束されました。
パウロの伝道は、まことに苦難と労苦に満ちたものでありました。その中で、「第三の天」または「楽園」を見上げることが、障壁を越えて前進する力の源となったのでありましょう。それでは、パウロによる神秘的体験の「解釈」に分け入っていきましょう。
Ⅱ わたしの身に一つのとげが与えられた
コリントの信徒への手紙 二 12:5-7――
5 このような人のことをわたしは誇りましょう。しかし、自分自身については、弱さ以外には誇るつもりはありません。6 仮にわたしが誇る気になったとしても、真実を語るのだから、愚か者にはならないでしょう。だが、誇るまい。わたしのことを見たり、わたしから話を聞いたりする以上に、わたしを過大評価する人がいるかもしれないし、7 また、あの啓示された事があまりにもすばらしいからです。それで、そのために思い上がることのないようにと、わたしの身に一つのとげが与えられました。それは、思い上がらないように、わたしを痛めつけるために、サタンから送られた使いです。
パウロは、神秘的体験の「解釈」、意味づけについて、どんな観点から述べているのでしょうか?
「自分自身については、弱さ以外には誇るつもりはありません」、だから、「誇る者は主を誇れ」(Ⅰコリント1:31)ということを基調としています。端的に言えば、自分はへりくだり、「思い上がらない」ということです。
誇りや高ぶりへの、やや間怠っこい言及は、「わたしの身に一つのとげが与えられました」とのパウロの告白に収斂しています。そして、その「とげ」は、「わたしを痛めつけ」、「思い上がらないように」させた、と述べています。
「一つのとげ」を「思い上がらないように」させる、持続的な刺激物として受け止めたというのが、パウロの “ 霊 ” 的な「解釈」です。
序.で述べたとおり、ややもすれば或る種の神秘的体験は人を高ぶらせます。自分は選ばれた者だからこそ、幻を見、霊感を受けたのであると、周りの人々を見下します。そうして、自分は品性を高められ、名誉と富を得たのだ、と誇ります。
その点では、パウロが神秘的体験によって受けたもの、言い換えれば、「主が見せてくださった事と啓示してくださった事」は真逆です。なぜなら、それは「わたしの弱さにかかわる事柄」(Ⅱコリント11:30)だからです。一般論としては、「わたしを痛めつけるとげ」は生活の質(クオリティ オブ ライフ Quality of Life = QOL)を下げる元となります。周りの人々は、そのような人物を避けようとするかも知れません。
しかし、パウロはその「とげ」によって、自分が弱くされたことを受け入れています。「とげ」を含む「あの啓示された事があまりにもすばらしい」と証言しています。ここに、「そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを」(ローマ5:3-4)という信仰の基があるのでしょうか。
「とげ」についての、パウロのさらなる「解釈」、意味づけを読み取る前に、いつものように、旧約の関連聖句を見てみましょう。
Ⅲ 突き刺す茨や痛みを与えるとげが臨むことはない
エゼキエル書28:24――
イスラエルの家には二度と、彼らを侮辱する周囲のすべての人々の突き刺す茨や、痛みを与えるとげが臨むことはない。そのとき、彼らはわたしが主なる神であることを知るようになる。
パウロは、「わたしを痛めつけるとげ」と表現していましたが、「彼らを侮辱する周囲のすべての人々の突き刺す茨や、痛みを与えるとげ」はその数倍も痛そうです。しかも、「イスラエルの家には二度と……臨むことはない」との言い回しからは、次のことが分かります。
すなわち、「イスラエルの家」は持続的または断続的に「茨」や「とげ」の痛みを被っていたということです。イスラエルが偶像崇拝に走ったり、また、弱く貧しい人や寄留者を抑圧したりしていたために、神の裁きが下りました。そしてそれは、神が憐れみをもって、「イスラエルの家には二度と茨やとげが臨むことはない」と告知されるまで続きました。
それでは、「周囲のすべての人々」からイスラエルが「侮辱」されたのは、一体何のためだったのでしょうか?
それは、「彼らはわたしが主なる神であることを知るようになる」ためでありました。「静まって、わたしこそ神であることを知れ」(詩編46:11 口語訳)ということです。
『ジュネーヴ教会信仰問答』(カルヴァン著)の冒頭に、問一「人生の主な目的は何ですか」、その答「神を知ることであります」と掲げられています。
その理由として、「神はわれわれの中に崇められるためにわれわれを創り、世に住まわせられたのでありますから」とあります。キリスト者は、「わたしが主なる神である」ことを、“ 霊 ” の導きによって知らねばなりません。神に自分が創られて、今この世に暮らしていることを感謝し賛美したいものです。
それは、わたしたちがひたすら、“ 霊 ” による上からの啓示にあずかるかどうかに掛かっています。しかし、しばしばその “ 霊 ” の働きを、わたしたちの高ぶりや欲望によって拒んでしまいます。
それで、どうなったのかは、「イスラエルの家」やパウロの神秘的体験が実証している通りです。「突き刺す茨や痛みを与えるとげが臨んだ」ということです。
パウロにおいては、「主が見せてくださった事と啓示してくださった事」の中で、「わたしを痛めつけるとげ」に焦点が合わせられました。その「とげ」は、パウロの、いわば信仰の質(クオリティ オブ フェイス Quality of Faith = QOF)に、どのような作用をもたらしたのでしょうか。
わたしたちは、パウロ自身の体験的ガイドに沿って、悪性の痛みを伴う緊急事態に立ち向かうことにしましょう。パウロのメッセージは、「とげ」で負傷している人をやさしく包み込むような、癒やしと慰めに満ちています。
Ⅳ 力は弱さの中でこそ十分に発揮される
コリントの信徒への手紙 二 12:8-9――
8 この使いについて、離れ去らせてくださるように、わたしは三度主に願いました。9 すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。
パウロは神に、「わたしを痛めつける一つのとげ」から解放してくださるように、と切に祈りました。「三度」というのは、「ひたすらに」・「しばしば」という意味です。
その祈りは同時に、「とげ」の与えられた神秘的体験が「解釈できるように祈った」(参照:Ⅰコリント14:13)ということでもありました。実際、「とげ」の痛みは治癒されませんでしたが、パウロは神の御心を読み取ることができました。
これは、神が信仰者の願い求めを超えて、より大きな賜物を与えられたという祈りの実例です。自分の祈りにこだわり過ぎている人は、このテキストの パウロの熱心な祈り⇒神の恵み深い応答 を手本とすべきでありましょう。どんな回答を投げ返されようとも、パウロに恐れはありません。神を心から信頼しているからです。
主は、「わたしの恵みはあなたに十分である」と言われました……これはまさしく、罪人や病人への福音、喜びの知らせです。主イエス・キリストが、弱く貧しいように見える人々の人生の中に、「恵み」をもって介入されます。
「主は言われました」と、パウロは厳かに書き記しました。それは、この言葉が主イエス・キリストによって成し遂げられることが約束され保証されているという意味です。わたしたちに求められているのは、悔い改めをもって「キリストに結ばれている人」に造り変えられて生きることです。
力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ……補って言えば、「キリストの力は十字架の弱さの中で発揮されたように、あなたがたの弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」ということです。
このメッセージこそが、「わたしを痛めつけるとげ」に悩まされ続けられたパウロに、癒やしと慰めをもたらしました。こうして、彼の信仰の質(クオリティ オブ フェイス)は飛躍的に向上させられました。同時に、パウロは主イエスに倣いつつ、「自分自身も弱さを身にまとっているので、無知な人、迷っている人を思いやることができる」ようになりました(ヘブライ4:15)。“ 霊 ” の力によって旧約の出来事を知り抜いているパウロは、「突き刺す茨や痛みを与えるとげ」に苦しんでいる人々にも同情を寄せたに違いありません。
パウロにとって、「十四年前」の神秘的体験を通して、「だから、キリストの力がわたしの内に宿るように」とのメッセージを受け取りました。人生を暗くする否定的なものの象徴であるパウロの小さな「とげ」にも「キリストの力」が宿っています。だから、「むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇る」と言い切っているのです。
最後の節でさらに、「だから、キリストの力がわたしの内に宿るように」との中心メッセージが深められます。
Ⅴ わたしは弱いときにこそ強い
コリントの信徒への手紙 二 12:10――
それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。
ここで、パウロはこれまでの自分の小さな「とげ」に特化してきた議論を切り替えています。「わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても」と、視野を拡大しています。
その意図が、自分の苦難と労苦に満ちた伝道者生活を覆い尽くしている「キリストの力」の大きさを物語るためであるのは明瞭です。
これまでパウロは、神秘的体験を引きながら、「わたし(キリスト)の恵みはあなた(パウロ)に十分である」ことを証ししました。しかし今や、「あの方(キリスト)は栄え、わたしは衰えねばならない」(ヨハネ3:30)と言った洗礼ヨハネのごとく、パウロは背景に退いています。「わたしはキリストのために満足しています」というように、キリストに依り頼んでいます。
なにゆえに、それほどまでにキリスト中心になるのか、教えられるために、D.ボンヘッファーの説教の一部を読んでみましょう。
「神(主イエス・キリスト)は十字架上で苦しまれた(詩編22:2,7、ヘブライ2:9)。そのゆえに、あらゆる人間の苦しみと弱さは、この世における神御自身(主イエス・キリスト)の苦しみと弱さにあずかっているのである。
わたしたちは苦しんでいる! 神(主イエス・キリスト)は、もっともっと、苦しんでおられる。わたしたちの神は苦しむ神である。
苦しみは、人間を神の像に形造る(創世記1:27、Ⅱコリント4:4)。苦しむ人間は、神の似姿を持っている。」
主イエス・キリストは、弱さの極みである十字架上で、神の栄光を現されました。パウロが「わたしは弱いときにこそ強い」と結んでいるとき、彼は一心に、十字架上のキリストを見つめています。
「この(とげをもたらしたサタンの)使いについて、離れ去らせてくださるように、わたしは三度主に願いました」との祈りは聞き届けられました。なぜなら、その祈りは、十字架と復活の主、イエス・キリストの御名によって祈られたものだからです。
なおも「とげ」が刺さり、痛みがうずいているにもかかわらず、パウロは祈りへの神の応答に満足しているに違いありません。このキリストの証人の姿は、どんなに、苦悩・衰弱・絶望などの中から、神に叫びを上げる人々への励ましとなっていることでしょう。
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〈説教の要約〉
2024年 9月8日
旧約聖書 イザヤ書 52章2節(P.1148)
新約聖書 マルコによる福音書 5章35節~43節(P.70)
説教の構成――
序
Ⅱ なぜ、あなたがたは泣き騒ぐのか ……マルコ5:37-39
Ⅲ 少女よ、さあ、起きなさい ……マルコ5:40-41
Ⅴ 少女はすぐに起き上がって、歩きだした ……マルコ5:42-43
序
主イエスは、今のイスラエル北部、ガリラヤ湖畔を巡り歩いて伝道しておられました。主イエスは安息日、礼拝をする時には、会堂に入って聖書朗読や説教をされました(マルコ1:21、3:1)。また主イエスは、人の家に招かれて、神の教えを説いたり、病人を癒やしたりされました(同上1:29-31、2:1-12)。時には、食事でもてなされることもありました。
その上、主イエスは路上でも多くの人々と出会われました。土地の人々はしばしば、町から村へ、山辺から海辺へ、忙しそうに歩いている主イエスの姿を見かけるようになりました。時には、大勢の群衆が主イエスに押し寄せて、遠巻きに眺めるしかないこともありました。
或る日、主イエスは湖のほとりで、会堂長ヤイロに呼び止められました。「幼い娘が死にそうです」(マルコ5:23)ということで、主イエスはヤイロと一緒に、彼の家に向かわれました。
ところが図らずも、その途上で、主イエスは重い病気の女性と出会われました。そこで、彼女の病気を癒やすと共に、信仰を授けられました。それは、神によって救われたと、一生涯信じ、平穏に暮らすということでありました。
確かに、大勢の群衆が主イエスの周りに押し寄せて来ている中で(マルコ5:24)、誰を最優先するのか、判断するのは困難です。ヤイロは、主イエスがその女性と会話されるのを、やきもきして見守っていたに違いありません。
中断はしばしば、わたしたちの人生の方向を変えることがあります。一方それが、良い休養となって、新しいアイデアが浮かんで来ることがあります。他方、突如中断されて、緊張の糸が切れ、あきらめや絶望に心が支配されることもあるでしょう。
ここで主イエスは、ヤイロが遅延にいらつき、希望を捨てないように、彼に寄り添っておられました。考えようによっては、主イエスにおいて、12年間の病のどん底から人間を立ち上がらせる神の力が実証されたのは、順番待ちの人々によっても幸いでした。というのも、忍耐強く、待ってみようという余裕が湧いて来るからです。
なおも、出血が止まり癒やされた女性との会話が続いている時に……
Ⅰ ただ信じなさい
マルコ福音書5:35-36――
35 イエスがまだ話しておられるときに、会堂長の家から人々が来て言った。「お嬢さんは亡くなりました。もう、先生を煩わすには及ばないでしょう。」 36 イエスはその話をそばで聞いて、「恐れることはない。ただ信じなさい」と会堂長に言われた。
「お嬢さんは亡くなりました」との訃報に接して、父親のヤイロは青ざめたことでしょう。そして、彼の家の者は追い打ちをかけるように、「もう、先生を煩わすには及ばないでしょう」と告げました。このひと言は、ヤイロを打ちのめしました。というのも、ヤイロは、「足もとにひれ伏して」懇願するほどに(マルコ5:22)、主イエスに依り頼んでいたからです。
ヤイロは、瀕死の娘(マルコ5:23)のいっさいを主イエスに託するという覚悟であったはずです。それが、「もうお世話にならなくていい」と人から言われてしまったのです。
「もう、先生を煩わすには及ばないでしょう」……主イエスにひれ伏す思いを持っている人と主イエスとの関係が切れそうになっています。娘の夭折によって、一時的にせよ、その関係が揺らいでしまうのは、誰しも非難できないことでしょう。
しかし、結論的に言えば、主イエスを大いに「煩わせて」善いのです。主イエスは、わたしたちが罪と病と死の淵から、助けを呼び求めるのを待っておられます。それが、忘れられない、神との出会いになるように、主イエスは導かれます。そうして、「わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです」(ローマ14:8)との信仰告白に至るのです。
イエスはその話をそばで聞いて、「恐れることはない。ただ信じなさい」と会堂長に言われた……即座に主イエスは、ヤイロが「その話」を真に受けないように、介入されました。「その話」が偽りだと言うのではなく、「その話」はまだ経過途中であるということです。
「恐れることはない。ただ信じなさい」……救い主なるイエスから、適確な勧めが動揺しているヤイロに投げかけられました。
ヤイロは、「お嬢さんは亡くなりました」とのひと言が頭から離れません。闇の世界に突き落とされました。もはや、ヤイロの視界からは、主イエスも、重い病が癒やされた女も消え去っていたことでしょう。
そんな中、「恐れることはない」との主イエスの言葉が耳に入って来ました。ヤイロは主イエスに、心配や不安をあずけることにしました。それに、息絶えて様変わりしたのかどうか、その娘の姿を見て確かめたわけではないのですから。
「ただ信じなさい」……主イエスはヤイロを、「生きるのも、また、死ぬのも、主のために」という信仰に招き入れようとしておられます。ヤイロに求められているのは、「イエスを見ると足もとにひれ伏して、しきりに願った」(マルコ5:22-23)という姿勢に立ち返ることです。主イエスに向き合う、その姿勢が崩されないように、自分の外から注がれる “ 霊 ” に助けを求めることです。
ヤイロの家へ急ぐ途上での〈病気の癒やしと救いの宣言〉は完了しました。主イエスは、つかの間の遅延を乗り越えて、幼い娘の死という難題に立ち向かわれます。
Ⅱ なぜ、あなたがたは泣き騒ぐのか
マルコ福音書5:37-39――
37 そして、ペトロ、ヤコブ、またヤコブの兄弟ヨハネのほかは、だれもついて来ることをお許しにならなかった。38 一行は会堂長の家に着いた。イエスは人々が大声で泣きわめいて騒いでいるのを見て、39 家の中に入り、人々に言われた。「なぜ、泣き騒ぐのか。子供は死んだのではない。眠っているのだ。」
主イエスは、弟子の中から「ペトロ、ヤコブ、ヨハネ」を選び出して、態勢を整えられました。神の “ 霊 ” 的な御業は見せ物ではありません。主イエスと言えども、集中力高め、祈りをもって取りかかられます。
「会堂長の家から」の使者が「お嬢さんは亡くなりました」、と言った通りでありました。そこには、ガリラヤ地方の葬祭儀礼が繰り広げられていました。「イエスは人々が大声で泣きわめいて騒いでいるのを見て」との一文から、主イエスが喪に服している人々の悲しみを受け止められたことが分かります。主イエスは大きな嘆きに包まれた家のただ中で、“ 霊 ” 的な御業を現されます。
「なぜ、あなたがたは泣き騒ぐのか。子供は死んだのではない。眠っているのだ」……「眠っている」だけだから、安心しなさいという趣旨ではありません。「わたしは、泣き騒いているあなたがたのもとにやって来た。わたしがどんなことを眠っている娘に行うか、しかと見届けなさい」ということです。
主イエスはこれから、あたかも少女が夜昼、「眠り、そして起きる」ように、死から生へと彼女を立ち上がらせます。「夜も昼も」(マルコ4:27、5:5)、神の恵みはわたしたちに与えられています。眠っている少女が呼び起こされます。わたしたちにとって大切なのは、極めて日常的な出来事の中で、十字架につけられて死に、三日後によみがえられた主イエス・キリストが、悲嘆のどん底にいる人々に関わっておられるということです。
マルコ福音書5:40-41――
40 人々はイエスをあざ笑った。しかし、イエスは皆を外に出し、子供の両親と三人の弟子だけを連れて、子供のいる所へ入って行かれた。41 そして、子供の手を取って、「タリタ、クム」と言われた。これは、「少女よ、わたしはあなたに言う。起きなさい」という意味である。
「人々はイエスをあざ笑った」との描写は、他所者への拒絶を現しています。人々は葬祭の鎧を付けて、主イエスを跳ね返そうとしています。何事も常識で振る舞おうとしている人間ならば、退却するしかありません。衆人から嘲笑を浴びている場面から、一刻も早く逃げ出したいことでしょう。
主イエスは、「子供は死んだのではない。眠っているのだ」との言葉尻をとらえる人間にかかずらってはおられません。「しかし、イエスは皆を外に出し、子供の両親と三人の弟子だけを連れて、子供のいる所へ入って行かれた」。
主イエスはあたかも「悪霊を追い出す」かのように(マルコ1:34,39)、「皆を追い出し」ました。というのも、「悪霊」ならびに「悪霊に取りつかれた人」(同上5:16)には、神の力の働く聖なる御業を妨害しようと習癖があるからです。
「子供の両親と三人の弟子だけを連れて」との一句には、主イエスの優しい気遣いが表されています。ペトロをはじめ「供の者たち」は、後々までの証言者として招き入れられています。
もはや、「もう、先生を煩わすには及ばないでしょう」との、慇懃な断絶宣言は、遙か向こうに飛び去りました。主イエスの介入は頂点に達します。
そして、子供の手を取って、「タリタ、クム」と言われた……「タリタ、クム」という言葉(アラム語)は、少女はじめその場にいる人々にとって、生涯忘れられない言葉となりました。毎朝、「○○よ、さあ、起きなさい」との御声と共に、彼らは活動しはじめます。
主イエスは「子供の手を取って」というように、幼い娘の介助をされました。その接触により、主イエスの「内から力が出て行って」(マルコ5:30)、娘の身体全体に行きわたりました。その背後には、父親の祈りがありました……「どうか、おいでになって手を置いてやってください」(同上5:23)。彼が「イエスの足もとにひれ伏して」、切に願ったことが実現されました。
「子供のいる所」に、その部屋中に、キリストの行いと言葉による御力が充満しました。その結果へと進む前に、旧約において、主なる神がどのように「捕らわれの娘シオン」に寄り添われたのか、見てみましょう。
イザヤ書52:2――
紀元前六世紀後半の頃のことです。ユダヤの民は目下、国家滅亡とバビロン捕囚からの回復をめざしているところです。
一方、捕囚の民は異国での生活が長引き、あきらめムードに浸っています。エルサレム神殿の再建の話を聞いても乗り気になれません。何しろ、暑い砂漠を通る帰還の旅には、命がけの困難が伴います。ならば、このままバビロンの流れのほとりに、定住し続けようか、となります。
他方、エルサレムに残留した人々にはまた、それなりの心労がありました。それは現実に、破壊され荒れ果てた都エルサレムを目の当たりにしているということです。希望よりも絶望がより多く生み出されていました。神の罰を受けて破壊されたものを直視せよ(エレミヤ書36:31)との厳しい声と共に、実際、再建を妨害する周辺住民もいます(エズラ書4:1-5)。
そのように、国の内外でにっちもさっちもいかない状況に陥っていました。神はそこに第二イザヤを遣わされました。聞く耳を持たない民の心を打ち開く言葉が語られます。それは、神の知恵に満ちた、美しい詩になっています。
「立ち上がって塵を払え」……この「塵」には深い意味が込められています。この「塵」に、ユダの民の挫折と絶望がまとわり付いています。というのは、「塵」はまさに、瓦礫となった「エルサレム」または「シオン」を象徴するものだからです。
神殿はじめエルサレムの人家は、外敵によって略奪され、指導者たちは異国へ連行されました。多くの人々が喪に服するかのように、「嘆きの声をあげ、衣を裂き、天に向かって塵を振りまき、頭にかぶり」ました(ヨブ記2:12、哀歌4:5)。残留した人々は死んだも同然の苦悩を味わっていました(エレミヤ書8:3、ヨハネ黙示録9:6)。
詩の第一声、「塵を打ち払いなさい」……この命令が、挫折と絶望のまみれた「塵」を掃き清める力の無い者に下されました。言い換えれば、それは、主なる神が「エルサレム」から「塵を打ち払う」のを約束されたということです。なぜなら、今「エルサレム」は「捕らわれ」の状態にあって動き出せないからです。
付け加えれば、「エルサレム」や「シオン」との呼称は、擬人法で、都の住民を指しています。この呼称にさらに、「娘」または「おとめ」(哀歌2:10)が添えられているところに、神の憐れみが表されています。
それから次に、「立ち上がりなさい」との命令が下されました。つまり、「頭に塵をかぶり、灰の中で転げ回る」(エゼキエル書27:30)ほどに、悲しんでいる人々に、「起き上がるように」との告知が向けられたということです。当然、主なる神は彼らの「手を取って」、立ち上がる力を彼らに注ぎ入れられます。
第二イザヤの預言は、主イエスによって受け止められました。なぜなら、「塵を打ち払いなさい」ならびに「立ち上がりなさい」との命令かつ約束が、ガリラヤ湖畔の喪中の家で、主イエスによって成し遂げられました。預言に託された神の企図は、中断で揉み消されることもなく、また、遅延で切り捨てられることもなく、幼い娘を救出する際に実行に移されました。
主なる神は、異邦人を含めて(イザヤ書51:5、55:4)、ユダヤの民が一つのなることを望んでおられます。「娘」や「おとめ」が成長して自立できるように、「首の縄目を解かれ」ます。
Ⅴ 少女はすぐに起き上がって、歩きだした
マルコ福音書5:42-43――
42 少女はすぐに起き上がって、歩きだした。もう十二歳になっていたからである。それを見るや、人々は驚きのあまり我を忘れた。43 イエスはこのことをだれにも知らせないようにと厳しく命じ、また、食べ物を少女に与えるようにと言われた。
「少女はすぐに起き上がって」……この「すぐに」は、出血の止まらなかった娘が癒やされた時の様子と合致しています……「すると、彼女はすぐ出血が全く止まって病気がいやされたことを体に感じた」(マルコ5:29)。ここに、神の御業が主イエスにより、「娘」二人に現されました。今か今かと救いを待ち望んでいる人も、この「すぐ」に期待を寄せることができます。
ここに、ガリラヤ湖畔を巡回する伝道が確立されました。主イエスは路上でも多くの人々と出会ってくださいます。それならば、大勢の群衆が主イエスに従い、押し迫っている中でも、自分の時を待つことができます。主イエスの目には、一人ひとりが「捕らわれの娘シオン」のように、「価高く、貴い」存在なのです(イザヤ書43:4)。
「彼女は歩きだした。もう十二歳になっていたからである」……幼い娘の将来に、幸多かれ、という祈りが湧いて来ます。少女は現実に罪や病に突き当たり、そこで集積されていく経験や思索を通して、自らの考えを深めていくことでしょう。聖書に明記されてはいませんが、彼女はその後、どうなっていくのでしょうか?
結
「主イエスがあなたの救い主です」……少女は「十二歳」の時に、主イエスによって「立ち上がらされた」体験を繰り返し思い起こすに違いありません。両親(マルコ5:40)は娘に、目撃したこと、また、自分たちの悲嘆や歓喜について語り聞かせたことでしょう。そして、差し出された「食べ物」を元気よく食べたことも……。主イエスに「ただ信じなさい」(マルコ5:36)と命じられた父が見守る中で、彼女は成長していきました。
さらに、もう一人の「娘」、12年間重い病に苦しんでいた女と巡り会って、主イエスの御業を共有したかも知れません。それに、「それを見るや、人々は驚きのあまり我を忘れた」という或る一人が、その日、同時に起こった、出血を癒やされた女の出来事を彼女に教えてくれるということもあり得たでしょう。
いずれにしても、「十二歳」の少女にとって、主イエス・キリストによる救いが人生の基盤になりました。彼女は一家の危機を乗り越えた父母と、会堂に集う人々に囲まれて育っていきます。そこは、カファルナウムを伝道拠点とされている主イエスにとって重要な会堂です。
カファルナウムは、神の裁きを告知されるような伝道困難な町でありました(マタイ11:23)。しかしそこの会堂で、「十二歳」の少女を生徒とする教会学校が始まったと想像することも許されるでしょう。「娘」二人の回復の証人、ペトロ、ヤコブ、ヨハネはその教会学校のスッタフならば最高です。それならば、弟子たちがヤイロたちと共に、主イエスによる「救い」を宣べ伝えることになります。
「タリタ・クム」、「少女よ、さあ、起きなさい」との主イエスの御声は、いつまでもガリラヤ湖畔にこだましています。主イエスは、カファルナウムの町の人々の悲しみと喜びをご存じです。その力強い御声によって、小さく弱い存在の少女を救ってくださいました。
十字架につけられて死に、三日後によみがえられた主イエス・キリストが、わたしたちの町に来られた、そして、少女を救われた……その喜びの知らせは、ガリラヤの小さな町から世界中に広がっていきました。その知らせが今、あなたのもとに届いています。
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〈説教の要約〉
2024年 9月1日
旧約聖書 ヨブ記 21章14節(P.802)
新約聖書 マルコによる福音書 5章11節~20節(P.69)
説教の構成――
序
Ⅰ 汚れた霊どもは出て、豚の中に入った ……マルコ5:11-13
Ⅱ その人が服を着、正気になって座っている ……マルコ5:14-15
Ⅲ 人々はイエスにここから出て行ってもらいたいと言いだした ……マルコ5:16-17
Ⅴ 主イエスはあなたを憐れんだ ……マルコ5:18-20
結
序
主イエスは今、ガリラヤ湖畔とその周辺で、大いなる救いの御業を現されています。マルコ福音書の大きな段落(マルコ4:35-5:43)の中に次々と、海上の奇跡、悪霊祓い、そして病気のいやしが出てきます。
そして主イエスは今、「墓場を住まいとしてしている」人と向き合っておられます(マルコ5:3)。ゲラサ地方の人々はその男を遠ざけながらも、その狂暴性のゆえに彼を監視していました。夜も昼も、墓場から聞こえて来る雄叫び(同上5:5)に恐れおののいていたに違いありません。
主イエスはその人に深い同情を寄せられます。むやみに相手を叱りつけることはありません。むしろ、その人が被らなければならない神の怒り(イザヤ書65:3,5)を、自ら背負っておられます。というのも、主イエスは罪人を滅ぼすためではなく、罪と病と死の縄目から人を解き放つために、この世に来られたからです。
墓場に押しやられた人への深い同情は、現れるべくして現されたものであります。というのも、福音の中心的な出来事として、主イエスは、三日間、墓に閉じ込められたからです。十字架刑により死を遂げた後、墓の中に横たわらされました。
ガリラヤ伝道のさなかにも、主イエスは、エルサレムでの十字架の死と葬りを見据えておられたはずです。主イエスの将来には、「されこうべの場所」(マルコ15:22)で殺され、「墓場を住まいとさせられる」という悲惨さが待ち構えていました。その観点からすると、「墓場で」悪霊に取りつかれ、そして「墓場から」救い出された、その人はまさに、「イエスの兄弟」と呼ぶにふさわしい者でありました(ヘブライ2:11-12)。
「湖の向こう岸」に行かれた主イエスは、人の目を驚かすような悪霊祓いの御業を成し遂げられます。わたしたちもまた、「いったい、この方はどなたなのだろう」(マルコ4:41)との問いを携えて、弟子たちと共に同行することにしましょう。
そこでまず今回は、悪霊祓いの後半ということで、直前の流れを確かめておきましょう。
主イエスは、悪霊に憑かれた人に出会うやいなや、「汚れた霊、この人から出て行け」(マルコ5:7)との命令を発せられました。しかし、悪霊からの「かまわないでくれ」との懇願や、主イエスからの「名は何というのか」との問いが入って(同上5:7,9)、ひととき、時間が経ちました。
マルコ福音書5:11-13――
11 ところで、その辺りの山で豚の大群がえさをあさっていた。12 汚れた霊どもはイエスに、「豚の中に送り込み、乗り移らせてくれ」と願った。13 イエスがお許しになったので、汚れた霊どもは出て、豚の中に入った。すると、二千匹ほどの豚の群れが崖を下って湖になだれ込み、湖の中で次々とおぼれ死んだ。
「汚れた霊、この人から出て行け」(マルコ5:7)との告知のうちに、悪霊祓いは終息に向かいます。地鳴りが辺り一面に起こり、その後に、静寂が到来しました。
ここで、「二千匹の豚」がおぼれ死んだのは、あまりにも残酷ではないか、との疑念を抱く方がおられるでしょうか? 一人の人間の命を助け出すためとは言え、神は、犠牲になった「二千匹の豚」に心を痛められないのか、ということです。古来より、被造物にもたらされる災いや悪について、義と愛なる神は沈黙しておられるのか、との疑問が出されて来ました。
確かに、神の創造された被造物を巻き込んで、主イエスの御業が成し遂げられました。それは、人間と被造物がこの地に共に生きていることの証しであります。
主イエスの語りには、ユダヤ人の間では律法上、豚肉を食べることが禁じられている(レビ記11:7)という背景があります。ガリラヤ湖畔のユダヤ人にとって、「豚」は禁忌になっている動物でありました。「汚れたものであり」、「死骸に触れてはならない」(申命記14:8)ものでありました。だからと言って、「二千匹の豚」の溺死を見過ごしてください、ということではありません。
そうではなく、「すると、二千匹ほどの豚の群れが崖を下って湖になだれ込み、湖の中で次々とおぼれ死んだ」との惨事を含む主イエスの語りの中心は、どこにあるのか、ということです。これは、「豚の群れ」にまつわる教訓ではなく、「悪霊に取りつかれたゲラサの人」の救済に関わる記事である、というのが肝心です。
「豚飼いたち」(マルコ5:14)が暮らしているゲラサの地で、生業の動物が突然消え去る中で、いつまでも残るのは何でしょうか? それは、主イエス・キリストの行いと言葉、そして、それにあずかった人の証し、すなわち、宣教(マルコ5:20)であります。それに合わせて、聖書による規範・生活指針が提示されていきます。そのようにして主イエスによって、異邦の世界に種蒔きのための鍬が入れられたのであります。混乱が一切起こらないというのではなく、まさに「雨降って地固まる」ということが大切なのではないでしょうか。
Ⅱ その人が服を着、正気になって座っている
マルコ福音書5:14-15――
14 豚飼いたちは逃げ出し、町や村にこのことを知らせた。人々は何が起こったのかと見に来た。15 彼らはイエスのところに来ると、レギオンに取りつかれていた人が服を着、正気になって座っているのを見て、恐ろしくなった。
「汚れた霊、この人から出て行け」との主イエスの命令から始まった出来事の反響が続きます。悲惨な目に遭った「豚飼いたち」が、主イエス・キリストの行いと言葉を「知らせる」一役を担います。
「豚飼いたち」の話を、聞き捨てならぬこととして、近隣の「町や村」から人々が、「イエスのところ」に来ました。「人々は何が起こったのかと見に来た」のも、実は神の御計画ではないでしょうか。そうして、「何かを起こした」、主イエス・キリストを見て、知って、信じさせるというのが、彼らに対する神の導きでありました。
ここで際立たされているのは、「レギオンに取りつかれていた人」の変貌ぶりです。その人は今や、「レギオン」(=大勢・軍団)の抑圧から解放されました。以前には、「石で自分を打ちたたいたりしていた」(マルコ5:5)というのですから、裸同然であったかも知れません。
しかし、その人が「服を着、正気になって」います。「町や村」から駆けつけた人々は唖然としたのではないでしょうか。叫び狂って、人を威圧するような面影はありません。何より印象深かったのは、主イエスの御前に、悪霊に憑かれていた人が「座っている」姿でありました。人を人とも思わぬ猛者が、彼らの知らない来訪者に「ひれ伏して」従っています(マルコ5:6)。
「町や村」からやって来た人々は、何を思ったかは、ひと言、「彼らは恐ろしくなった」と証言されています。これは、真実な報告でありましょう。この「恐れ」は、「主イエス・キリストを見て、知って、信じる」こととは、大きな隔たりがあります。
「町や村」の人々はまだ、悪霊祓いの「成り行き」が把握できていません。彼らが「恐れている」だけなのは、当然とも言えるでしょう。異邦人の漠然とした「恐れ」が、主イエス・キリストへの「畏れ」に変えられる日を待ち望みましょう。今しばらくは、主イエスも弟子たちも、異邦世界に広げられる「神の国」の福音を拒み、頑なになる人々の様子を見守らなければなりません。
Ⅲ 人々はイエスにここから出て行ってもらいたいと言いだした
マルコ福音書5:16-17――
16 成り行きを見ていた人たちは、悪霊に取りつかれた人の身に起こったことと豚のことを人々に語った。17 そこで、人々はイエスにその地方から出て行ってもらいたいと言いだした。
主イエスは、開始されたばかりのガリラヤ伝道において、カファルナウムの町という拠点を造られました。しかし、故郷のナザレの人々から憤りを受けて追い出されたり(ルカ4:20-30、マルコ3:20-34)、また、ゲラサ地方の人々から「出て行ってもらいたい」と言い出されたり、困難に遭いました。内憂外患、身内からも、周辺の異邦人からも、遠ざけられました。
ではなぜ、ゲラサ人は主イエスに、「出て行ってもらいたいと言いだした」のでしょうか? 初めは一部のゲラサ人の拒絶だったかも知れませんが、うわさが広まると、それはゲラサ地方全体からの「村八分」、排斥運動もなり得ます。
「成り行きを見ていた人たちは、悪霊に取りつかれた人の身に起こったことと豚のことを人々に語った」と証言されているように、ゲラサ人の目撃者は、「豚のこと」を気にしていました。
ゲラサ人の中に、「豚飼いたち」(マルコ5:14)がいました。その生業が尊ばれていたか、あるいは、蔑まれていたか、は安易に判断できません。しかし明白なのは、ユダヤ人と異なり、「豚」の肉を食べていたゲラサ地方では、それが「基幹産業」の一つであったということです。つまり、養豚とその食肉は、豊饒なる地の象徴でありました。それは、「乳と蜜の流れる土地」(出エジプト記3:8)、ユダヤ人の約束の土地とはひと味ことなる特色でありました。
ここまで言えば、もうお分かりでしょう。「二千匹ほどの豚の群れ」と「悪霊に取りつかれた人の身」とを天秤にかければ、ゲラサ人は当然、前者を取ります。だから、「悪霊に取りつかれた人の身」を案じるイエスという旅人にはお引き取りいただこう、となるのが常識です。自分たちの生活や慣習を守りたいというのが、彼らの本心でしょうし、現代に生きるわたしたちも、多かれ少なかれ、同じ思いを持っています。
ここに、人間の本性に伴う典型的な伝道の困難さが現れていると言えます。そこで主イエスは、神の知恵をもって忍耐強く、その壁を打開されます。いきなり、ゲラサ人の日常をひっくり返すというのではなく、福音を浸透させていくというやり方を採られます。その地方の「流れのほとりに植えられた木」が、御言葉を滋養とすれば、「ときが来れば実を結び、繁栄をもたらす」(詩編1:3)ことでしょう。
その「神の知恵」については、最後のⅤ.で説き明かします。その前に、「そっとしておいてもらいたい」という人間の本性について深掘りしておきましょう。
Ⅳ ほうっておいてください
ヨブ記21:14――
これは、ヨブがナアマ人ツォファルに答えている言葉の一節です。内容的には、「彼ら」、すなわち、「神に逆らう者」(ヨブ記21:7)の暴言が活写されています。
ヨブの主張によれば、「神に逆らう者」はこの世の幸せを第一として、「財産を手にし」、「生き永らえ」ています(ヨブ記21:7,16)。彼らは「あなた(神)に従う道など知りたくもない」と言って、神信仰をあざ笑っています。
彼らの考え方はヨブからは遠いものであります(ヨブ記21:16)。ヨブは、「あなた(神)に従う道を知る」ことを重んじる「無垢な正しい人」(ヨブ記1:8)です。
「神に逆らう者」がこの世の春を謳歌しているのとは裏腹に、ヨブは「わたしは幸いを望んだのに、災いが来た。光を待っていたのに、闇が来た」(ヨブ記30:26)と嘆いています。しかし、友人たちは、そのような不条理に悩み苦しんでいるヨブを慰めようとも寄り添おうともしません。
ただおひとり、主なる神がヨブを見守っておられます。深い悩みの淵から、ヨブが立ち上がり、「災いも、幸いも いと高き神の命令によるものではないか」(哀歌3:38、ヨブ記2:10)と、再び告白するのを待っておられます。
周りの人々が「神に向かって」、「ほうっておいてください」と言っているのが、ヨブの耳から離れませんでした。自分もそう宣言すれば、神の束縛から解放されると思ったかも知れません。自分勝手にやれば、すべてが自己責任で済むというように……。
しかしヨブ自身は、「ほうっておいてください」との宣言を自重することができました。それ故に、神の神たるゆえに信じるという「無垢な」信仰が全うされました。ヨブは感謝と謙遜をもって、この世の「災いも、幸いも」受け取る人であり続けました。
さて主イエスはどのように、「イエスにその地方から出て行ってもらいたいと言いだした」、すなわち、「ほうっておいてください」と言い放った人々に向き合われたのでしょうか? 神に「そっとしておいてもらいたい」とは口が裂けても言わなかった、「無垢な正しい人」ヨブの物語を語るのも一つの方法かも知れませんが……。いずれにしても、主イエスは神から授けられた知恵によって伝道を進められます。
Ⅴ 主イエスはあなたを憐れんだ
マルコ福音書5:18-20――
18 イエスが舟に乗られると、悪霊に取りつかれていた人が、一緒に行きたいと願った。19 イエスはそれを許さないで、こう言われた。「自分の家に帰りなさい。そして身内の人に、主があなたを憐れみ、あなたにしてくださったことをことごとく知らせなさい。」 20 その人は立ち去り、イエスが自分にしてくださったことをことごとくデカポリス地方に言い広め始めた。人々は皆驚いた。
「レギオンに取りつかれていた人」は今や、新しい人生を歩みだしました。「一緒に行きたい」というのは、直訳すると、「彼(その人)が彼(イエス)と共にいる」ことを願っている、となります。すなわち、その人は、「レギオン」(=大勢・軍団)の支配から、「インマヌエル」の呼ばれるお方の愛と正義のもとに移されました(マタイ1:23)。「神は我々と共におられる」という名のイエス・キリストが、「共にいたい」との願いをかなえてくださいます。
これによって、信仰上、その人の人生全体がひっくり返されたということが確約されました。なぜなら、主イエスはこれからずっとその人を見守り、その人のために祈っていてくださるからです。
イエスはそれを許さないで、こう言われた。「自分の家に帰りなさい」……「それを許さないで」というのは、「彼(その人)が彼(イエス)と共にいる」を拒絶されたのではありません。そうではなく、主イエスに同伴するのではなく、主イエスから派遣されるという別の道を、「インマヌエルの神なるイエスがあなたに勧める」ということです。
それ故に、悪霊に憑かれていた人が「自分の家に帰る」中で、主イエスの臨在、つまり、「神は我々と共におられる」ことが現されます。
ゲラサ地方で最も軽蔑されたいた者のひとりが、罪人や病人へ福音を「言い広め(宣べ伝え)」ます。それこそが、「イエスにその地方から出て行ってもらいたいと言いだした」と住民の厚い壁を打開する伝道のやり方でありました。
悪霊に憑かれていた人が「墓場から自分の家に帰る」というのは、尋常なことではありません。わたしたちは、さまざまな偏見・差別によって隔離された人々の悲しい人生を伝え聞いています。大勢の人々が「自分の家に帰れない」ままに、「身内の人」との和解さえできずに、最期を迎えられました。
幸いにも、主イエスが「自分の家に」遣わしたその人は、「身内の人」と話ができます。願わくは、互いに赦し合い、再会を喜ぶことができるようにと祈ります。しかし、最も重要だったのは、「主があなたを憐れみ、あなたにしてくださったこと」が、その「家」の中で「ことごとく知らせる」ということでありました。「人々は皆驚いた」というほどの反響はきっと、伝道への後押しとなるに違いありません。
結
一方、「その人は立ち去り」、他方、「イエスは舟に乗って再び向こう岸(カファルナウム)に渡られます」(マルコ5:21)。悪霊に憑かれていた人が帰った「自分の家」に、主イエスが訪ねて来られたのではありません。しかし、主イエスは、「主があなたを憐れみ、あなたにしてくださったことをことごとく知らせなさい」と厳しく命じられました。
「主があなたを憐れんでくださった」……舞台は「墓場から家へ」と移されました。腸痛めるほどの、主イエスの深い同情(マルコ6:34)は、香りのようにその「家」に満ちあふれたことでしょう。なぜなら、“ 霊 ” の力によって、主イエスがそこに臨在されているからです。そのようにして、「主の憐れみ」は一人ひとりに宣べ伝えられていきます。
三日の間、「墓場」に閉じ込められた主イエス・キリストは、そこから立ち上がりました。もはや死の支配する墓に戻ることはありませんでした。わたしたち・信仰者にとって墓地は、主イエスが十字架の死からよみがえられたことを記念する場所にほかなりません。それ故に、悪霊に憑かれていた人はもはや、「墓場」の狂気の生活に脅えさせられることはありません。
生きていながらも、「墓場」におびき寄せられそうになる人、挫折を重ねて絶望している人、そして、人間関係において疎外されている人、そうした人々のもとに、主イエスはやって来られます。そのひとりのために、海での難破も恐れずに旅をして、出会いの時を造られます。そして主イエスは、罪人らの敵対心や無関心をその身に浴びながら、憐れみの業と言葉を現されます。その点では、主によって救われているわたしたちは皆、悪霊に憑かれていた人と変わりがありません。教会で、家で、そして外で、「主があなたを憐れんでくださった」ことを知らせましょう。
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月報8月号
説教 『 その言葉には力があった 』
ルカによる福音書 4章31節~37節
小河信一 牧師
説教の構成――
序
Ⅱ ああ、ナザレのイエス、かまわないでくれ
……ルカ4:33-34
……エレミヤ書7:8
Ⅴ 権威と力のある言葉によって命じる ……ルカ4:36-37
序
一体、主イエス・キリストはどのようなお方であるのか、その答えが本日のテキストに物語られています。荒れ野の中からガリラヤ地方を巡って行かれた主イエスは、安息日、会堂にその御姿を現されます。それぞれの出来事とそのつながりに留意しながら読みましょう。
せっかくの機会ですから、「そこで、敬愛するテオフィロさま、わたしもすべての事を初めから詳しく調べていますので、順序正しく書いてあなたに献呈する」(ルカ1:3)という著者ルカのテクニックをご紹介します。
ここでは、ガリラヤ伝道の初期を取り扱った文章の構成に着目してみます。ガリラヤ伝道全体には、ルカ4:14-9:50が該当します。その初期の様子を、ルカ4:14-41によってたどってみましょう。出来事を「順序正しく書いて」といっても、無味乾燥にではなく、非常に劇的に物語られています。
準備 荒れ野の誘惑 ルカ4:1-13
① 導入のための要約――“霊”の力に満ちた宣教 ルカ4:14-15
② 安息日、ナザレの会堂にて ルカ4:16-30 〈スタートでつまずく〉
故郷の人々に受け入れられなかったため、ガリラヤ湖畔へ
③ 安息日、カファルナウムの会堂にて ルカ4:31-37 〈つまずいても、すぐに立ち上がる〉
④ 悪霊の追放と病気のいやし ルカ4:33-35,38-41
ストーリー展開が、これほどまでに精巧に組み立てられていたのか、と驚かれるでしょうか。さすがに、ルカ福音書(24章)―使徒言行録(28章)もの長編に挑むだけのことはあります。読み手をわくわくさせながら、信仰の世界に導き入れていきます。「御言葉によって罪の赦しを教える⇒悪霊を追い出し、病気をいやす」(参照:マルコ2:1-12)という信仰の基本線も踏襲されています。
それでは、わたしたちに向けて、〈つまずかされそうになっても、すぐに立ち上がりなさい〉とのメッセージが示されている箇所(③と④)を見てみましょう。
Ⅰ その言葉には権威があった
ルカ福音書4:31-32――
31 イエスはガリラヤの町カファルナウムに下って、安息日には人々を教えておられた。
32 人々はその教えに非常に驚いた。その言葉には権威があったからである。
主イエスは“霊”によって引き回されて、荒れ野の誘惑を受けられました。そして今、“霊”の力に満たされて、「ガリラヤの町カファルナウムに下って」行かれました。
主イエスは「はっきり言っておく。預言者は、自分の故郷(ナザレ)では歓迎されないものだ」(ルカ4:24)と告知されているように、その滑り出しから伝道の困難に出遭われました。ところが、この世の闇を象徴するような迫害が起こった直後に、「ガリラヤの町カファルナウム」という伝道の拠点が与えられました。
ただし、主イエスはナザレと同様に、「安息日に会堂に入られました」(ルカ4:16,31-33)。これこそが、主イエスが「主日に茅ヶ崎香川教会の礼拝堂に」臨在される(マタイ18:20)ということの根拠になっています。“霊”の力によって、主イエス・キリストの言葉とその恵みがそこに再現されています。主イエスによるガリラヤ湖畔の開拓伝道以来、それは世界の隅々に至るまで拡大されています(ルカ4:37)。
「イエスは人々を(言葉により)教えておられた」⇒「人々はその(言葉の)教えに非常に驚いた」というように、御言葉による宣教に重点が置かれていました。というのも、まずはガリラヤの民衆に、主イエスの「言葉」が、世の知恵や「むなしい言葉」(エレミヤ書7:8)とは全く異なるものであることを「教え」ねばならないからです。
その「教え」についてはすでに、ナザレにおいて「安息日に会堂で」説き明かされました(ルカ4:16-27)。要約すると、「わたしは貧しい人に福音を告げ知らせる」との主イエスの宣告のうちに、聖書朗読(イザヤ書61:1-2)と説教が行われました。それは、「わたしはあなたたちの罪を背負う。もう一度、やり直しなさい。今日、出発しよう」との招きでありました。残念ながら、「これを聞いた(ナザレの)会堂内の人々は皆憤慨し、総立ちになって、イエスを町の外へ追い出しました」(ルカ4:28-29)。このような「憤慨」や「いらだち」(使徒4:2)は、福音を拒む態度の根源にあるものです。
それに対し、カファルナウムの会堂に集っていた人々の反応は、「人々はその(言葉の)教えに非常に驚いた」ということであります。「驚いた」ことが、御言葉の理解から信仰の芽生えへとつながっていくのかは、不明です。しかし、悪霊の追放と病気のいやしを目撃するのに先んじて、「(言葉の)教えに非常に驚いた」(ルカ4:32,36)のは、神の御心に適うものでありました。
「その言葉には権威があった」という「権威」とは、一体何でありましょうか?
主イエスが「言葉」によって現された「権威」は、「すべての支配、権威、勢力、主権、あらゆる名の上に置かれる」(エフェソ1:21)ものでありました。それは「権威」の語源の通り、主イエス・キリストの「内から出てくる」ものであります。だからこそ、主イエスのやさしい言葉にもたとえ話にも、「権威」が宿っているのです。
要するに、「神は、この力をキリストに働かせて、キリストを死者の中から復活させ、天において御自分の右の座に着かせた」(エフェソ1:20)というのが、「権威」ある福音です。わたしたちは、「言葉」をもって告げ知らされた、この福音(ルカ4:18)を正しく聞かねばなりません。ひたすらに“霊”の導きによって聞くことです。
次に、③主イエスの「言葉」による宣教から④悪霊の追放へと移っていきます。それによって、会衆の目の前に、主イエスの「権威」が具体的に示されます。
Ⅱ ああ、ナザレのイエス、かまわないでくれ
ルカ福音書4:33-34――
33 ところが会堂に、汚れた悪霊に取りつかれた男がいて、大声で叫んだ。34「ああ、ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ。」
ここで、ハプニングが起こりました。「安息日に会堂で」、聖書朗読と説教の最中に起こったハプニングにほかなりません。主イエス・キリストの「内から出てくる」ものという「権威」が、主の「言葉」のみならず「行い」・御業によって現されます。
「ああ、ナザレのイエス、かまわないでくれ」……主イエスと敵対する勢力からの、「ああ」との嘆きであると同時に、証言です。これによって、主イエスと「汚れた悪霊」との関係が明確にされます。「汚れた悪霊」という闇によって、主イエスの「正体」が照らし出されるのです。まずは、悪霊の「正体」から捉えることにしましょう。
「かまわないでくれ」の直訳は、「わたしとあなたの間にどのような関係がありますか」となります。裏を返せば、「わたし」(悪霊)は「すべての支配、権威、勢力、主権」の面で、「あなた」よりも優位に立っている、という関係を壊さないでくれ、ということになります。まことに虫のいい、もったいぶった言い方です。しかしもちろん、自分の思いどおりにやらせてくれ、との発言は看過できません。
ところで、旧新約聖書には、この「当惑した悪霊の叫び声」に類似した言葉が、少なからず見出されます。二つ例を挙げましょう。
列王記上17:18――
彼女(サレプタの女)はエリヤに言った。「神の人よ、あなたはわたしにどんなかかわりがあるのでしょうか。あなたはわたしに罪を思い起こさせ、息子を死なせるために来られたのですか。」
マルコ福音書5:35――
イエスがまだ話しておられるときに、会堂長(ヤイロ)の家から人々が来て言った。「お嬢さんは亡くなりました。もう、先生を煩わすには及ばないでしょう。」
この二つの出来事では、「神の人」の前で、愛する息子または娘が死んだ状態になっています。もはや、その母親や家の人々には手の施しようがありません。
このように、「かまわないでください」、「あなたに関係ないことです」、そして、「もう、煩わさないでください」との慇懃な拒絶を並べてみると、人間の内面が見えてきます。すなわち、その拒絶に背後には、諦め・絶望があるということです。それ故に、本来、恵みを与えてくれる「神の人」との関係を断とうとするのです。
そうして、拒絶や絶望に取りつかれると、何でも周りのものを恐れてしまうことになります。その恐れが、「我々を滅ぼしに来たのか」との問いに証言されています。「正体は分かっている。神の聖者だ」と言うのですから、そのお方に救いを求めればよいのですが……。
そこで、主イエスの側から、憐れむべき一人の男を助け出されます。
Ⅲ 悪霊は何の傷も負わせずに出て行った
ルカ福音書4:35――
イエスが、「黙れ。この人から出て行け」とお叱りになると、悪霊はその男を人々の中に投げ倒し、何の傷も負わせずに出て行った。
主イエスは、言葉巧みな悪霊の抵抗を見抜いておられました。「黙れ」と命じて、「神の聖なる神殿」(Ⅰコリント3:17)なる会堂から「汚れた悪霊」を追放されます。
「悪霊はその男を人々の中に投げ倒し、出て行った」というのは、ただの奇跡ではありません。そうではなく、「言葉」の「権威」による主イエス・キリストの支配のもとに、悪霊の追放や病気のいやしが行われるということの一貫(序に提示した③⇒④のつながり)なのです。そのようにして、「神の国」がわたしたちの間に実現しようとしているのです。
そして、悪霊から解放された男に関して、「何の傷も負わせずに」と証言されています。これで思い出すのは、「燃え盛る炉に投げ込まれた三人」の物語です(ダニエル書3章)。この三人は、神から知識と才能を賜った、ユダ族の若者たちでありました。
ユダ族の若者たちをねたんだ、バビロニアの侍従長や貴族は、信仰深い人々を抹殺する罠を仕掛けました。 それで、バビロニアの偶像を拝まないとの咎により王に訴えられて、三人の若者は罰を受けることになりました。
ダニエル書3:21,27――
21 彼らは上着、下着、帽子、その他の衣服を着けたまま縛られ、燃え盛る炉に投げ込まれた。
その後、三人が炉の中から出てきて……
27 総督、執政官、地方長官、王の側近たちは集まって三人を調べたが、火はその体を損なわず、髪の毛も焦げてはおらず、上着も元のままで火のにおいすらなかった。
奇しくも、「何の傷も負わせずに」と「火はその体を損なわず」とは同じです。「いつもの七倍も熱く燃やされた」炉の炎(ダニエル書3:19)というのは、まるで悪霊の軍団(ルカ8:30)を象徴しているかのようです。しかし、主イエスが男から悪霊を引き離して、元に戻されたように、「神は御使いを送ってこの僕たちを救われました」(同上3:28)。
王宮にいた若者たちも、会堂にいた男も、「わたしの霊はなえ果て 心は胸の中で挫ける」(詩編143:4)というような試練に巻き込まれました。しかし、そのような人間の弱さの中に、神の恵みと救いが現されました。
Ⅳ お前たちはこのむなしい言葉に依り頼んでいる
しかし見よ、お前たちはこのむなしい言葉に依り頼んでいるが、それは救う力を持たない。
主イエスの「言葉」に「権威と力」が宿っていることを知る前に、諸国民の預言者として召し出されたエレミヤの「言葉」を読んでみましょう。
初めに思い起こしておきたいのは、エレミヤが召命を受けた時のエピソードです。
エレミヤが「ああ、わが主なる神よ わたしは語る言葉を知りません。わたしは若者にすぎませんから」と言うと、主なる神はエレミヤに、「若者にすぎないと言ってはならない。わたしがあなたを、だれのところへ 遣わそうとも、行って わたしが命じることをすべて語れ」と答えられました(エレミヤ書1:6-7)。
幸いにも、ユダの民のもとへ遣わされる前に、エレミヤは自分の言葉ではなく、ひたすらに「主の言葉」を語り続けるという決心をさせられました。これによって、自分は、聖書に通じた「祭司の子」(エレミヤ書1:1)であるという誇りを捨て去ったに違いありません。
そうして、モーセ(出エジプト記4:10)のように元来は「口が重く、舌の重い」エレミヤが、「主の神殿の門に立ちました」。「主を礼拝するために、神殿の門を入って行くユダの人々」に、「言葉をもって呼びかける」ためです(エレミヤ書7:1-2)。
それでは、何故に、神殿で礼拝を行おうとしている人々が「むなしい言葉に依り頼んでいる」のでしょうか? エレミヤはその理由を見抜いています……「なぜなら、お前たちは勝手に自分の言葉を託宣とし、生ける神である我らの神、万軍の主の言葉を曲げたからだ」(エレミヤ書23:36)。彼らは、「主の託宣(言葉)」を「自分の言葉」にすり替えていたのです。それに対し、主なる神は、「わたしはお前たちを投げ捨てる」、また、「わたしはその人とその家を罰する」と警告されていました(同上23:33-34)。
人間の性というものは、どの時代、どの場所においても、そんなに変わらないものなのでしょうか。およそ600年後、ギリシアのコリントでも同様の「すり替え」(ヒューマン・エラー)が起こっていました。
パウロはこれまた礼拝者である、コリント教会の一部の人々に、「だれも自分を欺いてはなりません」(Ⅰコリント3:18)、すなわち、「だれも思い違いしてはなりません」と戒めました。というのも、罪に陥っている人間が、「神の知恵」を「世の知恵」に替えるという「思い違い」を起こしていたからです。
ではなぜ、そのような「思い違い」・「すり替え」が生じるのしょうか。要約すると、パウロは以下のようにその理由を明らかにしています。
すなわち、彼らが「肉の人」で、「神の霊に属する事柄を受け入れない」(Ⅰコリント2:14、3:1)、その上、彼らは一見、豪華絢爛な「この世の支配者たちの知恵」(同上2:6)に毒されてしまっている、結局、彼らは神の前においてすら、自分を誇っている(同上1:29)ということです。
このような人々に対し、エレミヤはただ神の審判を告げるだけだったのでしょうか。そうではありません……「それ(むなしい言葉)は救う力を持たない」。
否定的な文脈の中にも、エレミヤは神の救済計画を物語っています。「主は我らの救い」と呼ばれる神(エレミヤ書23:6)に立ち帰るように、と繰り返し告げています(同上3:7、18:11、31:21)。
今、神殿に上って来た人々にとって大切なのは、「わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す」(エレミヤ書31:33)という神の「言葉」に耳を傾けることです。“霊”の導きにより、神の「言葉」の「力」にあずかることです。
そうすれば、神との正しい関係が回復されます。自己中心に陥れていた「思い違い」が消え去ります。エレミヤが孤立し嘲笑される状況下で、大胆に神殿の門で説教しているのは、そのためです。
ルカ福音書4:36-37――
36 人々は皆驚いて、互いに言った。「この言葉はいったい何だろう。権威と力とをもって汚れた霊に命じると、出て行くとは。」 37 こうして、イエスのうわさは、辺り一帯に広まった。
「人々は皆驚いて」という衝撃のうちに、「悪霊の追放」ではなく、「権威と力のある言葉」に、会衆の関心が向けられました。しかも、その「権威と力」というように、「力」が付け加えられています(他にユダの手紙1:25、ヨハネ黙示録12:10)。
なぜ、主イエスの「言葉」に「力」が必要なのか、二つの点から答えましょう。
一つは、「権威」と同様に、「力」は主イエス・キリストの「内から出てくる」ものです。ですから、「力のある言葉」はおのずから実を結びます。すなわち、「神は言われた。『光あれ。』」こうして、光があった」(創世記1:3)というように、それは、現実化されます。
主イエスの「言葉」によって、神の創造力が発揮されます。時には、その「力」が悪霊の追放や病気のいやしのために用いられます。そのようにして、救われた人はしばしば「賛美」(ルカ5:25、13:13)という「言葉」・歌をもって人々に福音を伝えます。
もう一つは、今述べた「力」の現実化と関連するのですが、主イエスが世の終わりに向けての戦いを見据えておられるからです(ルカ21:9)。その時、キリスト者の苦悩は深まります。そうした艱難や迫害が起こる時、主イエスの「言葉」はまさに「力」ある砦(サムエル記下22:33)として依り頼むことができます。
主なる神は、「あなたを憎むすべての者」や「あらゆる重い病気」から守ってくださいます(申命記7:15)。悪霊や偶像に惹かれてはなりません。わたしたちが御言葉の宣教に励むとき、わたしたちは主イエスと同様に、“霊”の「力」に満たされます。神は主イエス・キリストによって、耐え忍んでいる人々に、「幸いあれ」と言って祝福しておられます(ルカ6:22-23)。
「こうして、イエスのうわさは、辺り一帯に広まった」……主イエスは故郷ナザレから追い出されましたが、ガリラヤ湖畔に伝道の拠点が造られました。心を挫くようなつまずきがただちに、“霊”の導きによって乗り越えられました。
ナザレとカファルナウムとで主イエスは、神中心の伝道と生活に何も変更など加えておられません。主イエスは「安息日に会堂に入る」のを基軸に、その地方を巡る旅を続けられました。
そうして、おびただしい群衆の前に、③言葉には権威と力があることが教える⇒④悪霊の追放と病気のいやしを行う、という主イエス・キリストの御姿が現されました。主イエスは終わりの時に向けて、世界の隅々に届けられるよう、「権威と力のある言葉」をもって教え、そして祈られました。
主イエスの巡り行かれたガリラヤの湖畔、山や丘、家々などは、主を信じる者の原風景であります。礼拝の中で想起すべき、時代と場所に違いありません。ガリラヤの地に蒔かれたからし種は、世界の果てにまで枝を張って大きくなりました(マルコ4:30-32)。
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〈説教の要約〉
2024年 8月25日
旧約聖書 イザヤ書 65章3節~5節(P.1167)
新約聖書 マルコによる福音書 5章1節~10節(P.69)
説 教「いと高き神の子イエスよ」 小河信一牧師
説教の構成――
序
Ⅰ 汚れた霊に取りつかれた人が墓場からやって来た
Ⅱ その人は昼も夜も墓場や山で叫んでいた
……マルコ5:3-5
Ⅲ この民は墓場に座り、隠れた所で夜を過ごしている
……イザヤ書65:3-5
Ⅳ いと高き神の子イエス、かまわないでくれ
……マルコ5:6-8
Ⅴ イエスは「名は何というのか」とお尋ねになった
……マルコ5:9-10
序
マルコ福音書の説教で前回より、主イエスの大いなる救いの御業を読んでいます。その御業によって、「いったい、この方はどなたなのだろう」(マルコ4:41)との問いへの答えが、さまざまな角度から示されます。
大きなまとまり(マルコ4:35-5:43)の中に、海上の奇跡、悪霊祓い、そして病気のいやしが集められています。時の経過と共に、伝道の範囲が広がっていきます。主イエスはガリラヤ湖畔・カファルナウムを拠点としつつ、ガリラヤ周辺(マルコ5:1、6:1)を巡回されます。そうして、ユダヤ人のみならず各地の異邦人が群れをなして、主イエスにつき従うようになりました(同上3:7-8、5:7,20)。
本日は、主イエスがガリラヤ湖の向こう岸に渡られた時、何が起こったのか、見てみましょう。わたしたちの日常的思考の面から、出来事の細部の一つひとつには納得のいかないこともあるかも知れません。しかし、マルコ福音書の著者は “ 霊 ” によって、読み手をここに導くという明確な企図を持っています。主イエスにつき従っているペトロはじめ弟子たちと共に、ガリラヤ伝道の最高潮を、すなわち、主イエス・キリストの十字架と復活への信仰告白(マルコ8:27-30)を目指していきましょう。
Ⅰ 汚れた霊に取りつかれた人が墓場からやって来た
マルコ福音書5:1-2――
1 一行は、湖の向こう岸にあるゲラサ人の地方に着いた。2 イエスが舟から上がられるとすぐに、汚れた霊に取りつかれた人が墓場からやって来た。
主イエスは神の御心に従って、「湖の向こう岸」に行かれました。というのも、ガリラヤ地方ならびにその周辺で、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(マルコ1:15)、と宣べ伝えることが、主イエスの使命に中心に置かれていたからです。
使徒パウロもまた、福音を告げ知らせるために、アジア州からギリシアへと渡って行きました(第二回・伝道旅行 使徒16:6-12)。それは決して破天荒な試みではありませんでした。伝道者生活のどん底にあったパウロに、聖霊の守りと共に、天より幻が現されました。
パウロは直ちに、「神がわたしたちを召されているのだ」と確信するに至りました(使徒16:10)。そうして、神の御力によってパウロたち一行は、「地中海の向こう岸に着いた」のです。
確かに人生の中で、いつが「向こう岸に渡る」時なのか、迷うことでしょう。パウロの事例からは次の点を学ぶことができるでしょう。
それは、自分の準備が十分できていなかった時に、あるいは、良いタイミングだとは思えなかった時に、彼は神の御心によって、背中を押されるように出発したということです。すると、「向こう岸」で、神が思いがけない出会いを用意しておられました(使徒16:13-15)。パウロの不安な心は奮い立たされたに違いありません。「向こう岸」にたどり着いたあなたにもきっと、迎え入れてくれる人が待っていることでしょう。
わたしたちの先駆者パウロの前にすでに、主イエスが「向こう岸に渡って」いかれました。新しい伝道地に入って行かれました。そこで、一人のひとと出会われました。
「イエスが舟から上がられるとすぐに、汚れた霊に取りつかれた人が墓場からやって来た」との記述から、この出会いが神の御心に添って行われたことが分かります。すなわち、先行する形で、「イエスが舟から上がられ」、それに呼応して、「汚れた霊に取りつかれた人が墓場からやって来た」のであります。まるで、主イエスの御声に呼び寄せられるかのように、その人は「すぐに・墓場から」出て来ました。
「墓場」がその人の「住まい」でありますから(マルコ5:3)、通常はその人が来訪者と出会うのは、稀なことでありましょう。しかし確かに、彼は遠来の旅人イエスを迎え入れています。
以前、主イエスは山に上って、十二人の使徒を任命されました(マルコ3:13-19)。そこで、新しいスタートが切られました。その際、主イエスは使徒派遣の目的は、「宣教させ、悪霊を追い出す権能を持たせる」ことにあると明言されました(同上3:14-15)。そこで率先垂範、「悪霊を追い出す権能」を現すチャンスが主イエスに巡って来ました。この場面で、使徒たちは沈黙していますが、その光景をしっかり眼に焼き付けておくべきでありましょう。
「ベルゼブル(家の主)論争」の中で、主イエスは「悪霊」を「強い人」になぞらえました(マルコ3:17)。すなわち、「強い人」または「暴君」は人の家に住み込んで、家人を「とりこ」にします(イザヤ書49:24)。それによって、「悪霊」に占拠された人の生活は激変します。その悲惨な情態は、Ⅱ.で確認する通りです。
そうした中で、主イエスは、悪霊に憑かれた人々の前に、「より強い方」・「わたしよりも力のあるかた」として登場されました。「わたしが、あなたと争う者と争うであろう」(イザヤ書49:25)と告げて介入し、その家に平和をもたらされます。
後に主イエスは、罪深い人間の裏切りと無関心によって、十字架につけられました。そして、自ら息を引き取られました(ヨハネ19:30)。そこで一瞬、「悪霊」サイドの人々は、イエスに対する、「墓場を住まいとさせる」(マルコ5:3)陰謀が成功した、と思ったかも知れません。万一、人が遺体を引き取りたい、と願い出ても、「されこうべ」(マルコ15:22)の丘から暗黒の世界へ、終の棲家が「墓場」(新しい墓 マタイ27:60)に替わるだけだと……。
しかし、「強い人」の軍団と闘われた主イエス・キリストは、「人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」(フィリピ2:14-15)という謙卑によって、彼らを一掃されました。主イエスは、「力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」(Ⅱコリント12:9)ということを、最も大いなる救いの御業である十字架と復活によって現されました。
それでは、悪霊によってがんじがらめの情態になっている人の様子を見てみましょう。悲惨な墓場の生活から人を解き放つ主イエスによって、その男の姿が暴き出されます。
Ⅱ その人は昼も夜も墓場や山で叫んでいた
マルコ福音書5:3-5――
3 この人は墓場を住まいとしており、もはやだれも、鎖を用いてさえつなぎとめておくことはできなかった。4 これまでにも度々足枷や鎖で縛られたが、鎖は引きちぎり足枷は砕いてしまい、だれも彼を縛っておくことはできなかったのである。5 彼は昼も夜も(原文:夜も昼も)墓場や山で叫んだり、石で自分を打ちたたいたりしていた。
「この人は墓場を住まいとしており」ながらも、「だれも彼を縛っておくことはできなかった」と言います。それでは、いつ「山」から村里に降りて来るか分からないので、怖くなります。「鎖は引きちぎり足枷は砕いてしまう」という強力や闇夜をつんざく「叫び」は、その地方一帯の人々を震え上がらせていたことでしょう。
そう考えると、「ゲラサ人の地方」に多くの人が住んでいる中で、なぜ、主イエスが真っ先にこの人に出会われたのか、その理由が判ります。「石で自分を打ちたたいたりしていた」というのですから、一刻も早く、救出しなければなりません。それに応じるかのように、悪霊に憑かれた人は、主の前に進み出ました。
ところで、四福音書中で最初に書き上げられたと言われるマルコ福音書の、時の表示には注意を払わねばなりません。というのも、その用語法の内に、ユダヤの信仰ならびに日常の慣習を写し出す、ヘブライ的時間観念が保持されているからです。
マルコ福音書1:32――
① 夕方になって日が沈むと、人々は、病人や悪霊に取りつかれた者を皆、イエスのもとに連れて来た。
マルコ福音書4:35――
② その日の夕方になって、イエスは、「向こう岸に渡ろう」と弟子たちに言われた。
①の引用例からは、「夕方になって」と「日が沈むと」というように類句が反復されて、病気のいやしと悪霊祓い(マルコ1:34)の開始として、「夕方」が起点になっていることが分かります(創世記1:2)。とすると、一日が「夕方」から始まる時間観念に沿って、「夜も昼も」(マルコ4:27、5:5)との句を読み取らねばなりません。言い換えれば、それは、「夜も昼も」に込められた、憐れみ深い神の御心を知るということです。
① 夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。
マルコ福音書5:5――
② 彼は昼も夜も(原文:夜も昼も)墓場や山で叫んだり、石で自分を打ちたたいたりしていた。
そこで皆さんと共に、神の創造と支配のもとに、一日が「夕方」から始められている中で、「夜も昼も」という時が、すなわち、「夜」⇒「昼」の繰り返しが、どんな意味を持っているか、を捉えることにしましょう。
①の引用例は、成長する種のたとえの一節です。種を土に蒔いた人は、「夜」眠り、「昼」働いています。「神の国」に入れられるように願い、祈っています。その「夜昼」の反復によって明らかになったのは、種蒔いた人が、「種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、知らない」ということでありました。
「種は芽を出して成長する」ことについて、人間は無知なので、謙虚になれ、という道徳的な話なのでしょうか。そうではありません。それは、あなたの「知らない」こと、すなわち、「神の国の秘密が打ち明けられる」(受動態! マルコ4:11)のに注意しなさいということです。要するに、あなたに「打ち明けられて」、信仰的に「ドキッ」とさせられるか否か、に掛かっています。
あなたは今、「(種は)増し加えられ実を結ぶ、三十倍に、六十倍に、百倍に」(マルコ4:8 私訳)という神の気前の良さ、大いなる恵みを受け取りますか? それは、あなたの思いをはるかに超える贈り物にほかなりません。
今まで、そんなことがあるとは「知らなかった」し、これからも、「知る自信はない」、と言われるでしょうか。それなら、そのままでよいのです。大切なのは、「神の国の秘密が打ち明けられる」のを期待すること、つまり、 “ 霊 ” の導きによって教えられることです。その時、「知らなかった」あなたは、「知る人」・「信じている人」に変えられます。
遠回りになりましたが、あなたは、「夜」眠り、「昼」働いています。神が、あなたのそのような日常生活を見守っておられます。「土はひとりでに実を結ばせる」(マルコ4:28)ものなので、成長は神におゆだねしましょう。神はあなたが、日照りや茨の地で苦闘しているのをご覧になっています。労苦は決して無駄ではありません。
そうして、大いなる収穫がやって来た時、神はあなたを、「夜」から「昼」へ、すなわち、闇から光へと導き入れられます。そこに、一日が「夕方」から始まることの深い意味があるのです。
「墓場を住まいとしている」者が主イエスの前に立ちはだかっています。実はかつて、偶像崇拝に熱心なイスラエルの民が同じような情況に陥っていました。預言者イザヤが、どのように彼らの罪を告発したのか、耳を傾けてみましょう。
Ⅲ この民は墓場に座り、隠れた所で夜を過ごしている
イザヤ書65:3-5――
わたし(神)に逆らう。
わたし(偶像崇拝する者)に近づくな
わたし(偶像崇拝する者)はお前(敬虔な信仰者)にとってあまりに清い」と言う。
絶えることなく火を燃え上がらせる。
紀元前6世紀後半、未だに荒れ果てているエルサレムにおいて、神殿完成の再建(完成:前515年)が急がれている時代でありました。主なる神の支配のもとに、礼拝共同体が確立されること、そして、敬虔な信仰をもって神の栄光を現すことが、最重要なことでありました。
上のテキストは、そのような信仰の立て直しが必ずしも順調に進まなかったことを証言しています。大災難(国家の滅亡と捕囚)からおよそ70年あまり経っていましたが、イスラエルの民の信仰は尚も揺らいでいました。その結果、神に背いて頑なになり、偶像崇拝に走る人々が途絶えなかったということです。
主なる神は、反逆の民に向けてイザヤを派遣し、審判の預言を伝えさせました。
「この民は墓場に座り、隠れた所で夜を過ごし 豚の肉を食べている」というように描写されています。まさにゲラサ地方の悪霊に憑かれた人の有様を思い起こさせます。
もともと、彼らは神礼拝を守る人々から遠ざけられていました。祭司はじめ人々は「汚れた者に近寄らない」ようにしていました(レビ記13:45-46、哀歌4:15)。ところが、ここでは偶像崇拝者が、「遠ざかっているがよい、わたしに近づくな わたしはお前(敬虔な信仰者)にとってあまりに清い」と叫んでいます。立場を逆転させ、仕返しするかのように、自分たちの方が「清い」と言い放ちました。
イザヤは、偶像崇拝者が敬虔な信仰者に「近づくな」と言っていることを皮肉っています。同時に、あきれ果てています。自分たちが「清い」、神聖であると思い込んでいる限り、彼らには救いがありません。
ちなみに、「豚(またはいのしし)の肉を食べる」ことは、ユダヤ人には禁忌とされていました(レビ記11:7、申命記14:8)。「園」、「屋根の上」、「墓場」、そして「隠れた所」、あらゆる場所が、異教の神々を崇める温床になっていました。
イスラエルの民はようやく神殿を再建し、礼拝共同体を確立する時を迎えました。しかし、町や村のそこかしこに、偶像崇拝者たちがたむろしています。イザヤはそこに、「これらの者は、わたし(神)に怒りの煙を吐かせ 絶えることなく火を燃え上がらせる」という「怒る神」の臨在を見ました。
主なる神を信じている人々が誘惑されそうになっています。神の都・エルサレムに、偶像崇拝者や異邦人が押し寄せています。果たして神は、どのように救いの御手を差し伸べられるのでしょうか? 隠れた人の罪悪をも見過ごしにされない神は、「怒りの煙を吐いて」いるということですが(エレミヤ書7:18、11:17)……。
ガリラヤ湖畔で、「墓場を住まいとしている」者が主イエスの前に立ちはだかっています。主イエスは、神の国の福音を告げ知らせようと、自ら異邦人の領域、「ゲラサ人の地方」に足を踏み入れられました。主イエスもまた、その人に向かって「怒りの煙」を上げられるのでしょうか?
Ⅳ いと高き神の子イエス、かまわないでくれ
マルコ福音書5:6-8――
6 イエスを遠くから見ると、走り寄ってひれ伏し、7 大声で叫んだ。「いと高き神の子イエス、かまわないでくれ。後生だから、苦しめないでほしい。」 8 イエスが、「汚れた霊、この人から出て行け」と言われたからである。
神の御心に添って、「〈先行〉イエスが舟から上がられるとすぐに、〈後続〉汚れた霊に取りつかれた人が墓場からやって来た」(マルコ5:2)という出会いが起こりました。
「イエスを遠くから見ると、走り寄ってひれ伏し、大声で叫んだ」……イザヤの時代に、「遠ざかっているがよい、わたしに近づくな」(イザヤ書65:5)と叫んだ反逆の民とは異なります。悪霊に憑かれた人は、主イエスとの「遠さ」(距離)を、「走り寄って」縮めました。「鎖を引きちぎり足枷を砕く」ような荒々しさは影を潜めています。
それは、その人が主イエスの御前に、「ひれ伏す」ためでありました。「汚れた霊」の支配下にある者が、聖なるお方の前に進み出ました。
「ひれ伏す」というのは、礼拝において神の御前にひざまずいている姿勢です。その人の謙遜さのうちに、神に近づくという大胆さが現されています。大切なのは、そこにイエス・キリストが〈主〉、そして、自分が〈従〉という主従関係が結ばれたことです。突如、「死の陰の地に住む者に光が射し込みました」(イザヤ書9:1∥マタイ4:16)。「汚れた霊」との格闘にも、逃れの道が見えてきました。
それから、主イエスとその人は、言葉を交わしました。
↓ ↓
ひれ伏した人「いと高き神の子イエス、かまわないでくれ。後生だから、苦しめないでほしい」
直接表現されてはいないものの、「神の怒り」(イザヤ書65:3,5)のもとに、「出て行け」と命令が下されました。そして、その人は下から「いと高き神の子イエス」を見上げました。イエス・キリストが〈主〉、そして、自分が〈従〉という立ち位置から、「神の子」の御姿が現れました。
しばらく前、対岸のカファルナウムの会堂でも、悪霊に憑かれた人が主イエスに向かって、「神の聖者」と叫びました(マルコ1:24)。このような「汚れた霊ども」の言葉は、「信仰の告白ではなく、恐れの告白である」(L. ウィリアムソン)と考えられます。というのは、悪霊は、イエスの「正体」を、具体的には「我々を滅ぼしに来た」ことを見抜いているからです(同上1:24)。
悪霊は人間の口を借りながら、「後生だから、苦しめないでほしい」と憐れみを乞うています。しかし、聞き捨てならないのは、直前の「かまわないでくれ」との強気な発言です。
「かまわないでくれ」……原文を直訳すると、悪霊のしたたかさが見えています。皆さんは、〔直訳〕「わたしとあなたに何の関係がありますか」との言葉から、それが読み取れますか。考えるよりも唱えてみれば分かります。
すなわち、「わたしとあなたに何の関係がありますか」⇒「関係ないだろ!」⇒「ほっといてくれ。とっとと帰れ!」ということです。それは、決してイエスとは主従関係を結ばないという宣言です。このように相手との関係性を、自分でコントロールしようとする「強い人」(マルコ3:17、Ⅰコリント4:10)に、神の祝福はありません。
誇り高く「強い人」人は、「神の恵みと義の賜物とを豊かに受けている人」(ローマ5:17)の対極にあります。なぜなら、「力は弱さの中でこそ十分に発揮される」からです(Ⅱコリント12:9)。「汚れた霊」の策略を見通しておられる主イエスは、あくまでも関係性の観点から、相手を窮地に追い込みます。「名は体を表す」との普遍の真理を覚えつつ、次へと進みましょう。
Ⅴ イエスは「名は何というのか」とお尋ねになった
マルコ福音書5:9-10――
9 そこで、イエスが、「名は何というのか」とお尋ねになると、「名はレギオン。大勢だから」と言った。10 そして、自分たちをこの地方から追い出さないようにと、イエスにしきりに願った。
この場合、「レギオン」とは、悪霊の名というよりも、悪霊に憑かれている人の実体を表しています。「レギオン」という語は本来、ローマの「軍団」を指すもので、それは約六千人の兵士から編成されています。いずれにせよ、「レギオン」に支配されている人間は巨大な力により圧迫されています。
その人は「レギオン」の力によって衝き動かされていました。「鎖は引きちぎり足枷は砕いてしまい、だれも彼を縛っておくことはできなかった」(マルコ5:4)というのは、その爆発的現象にほかなりません。
主イエスが初めに発せられた命令、「汚れた霊、この人から出て行け」こそが重要です。なぜなら、この人は病んでいるというよりも、その身心が悪霊に乗っ取られているからです。
悪霊に憑かれた人は、主イエスの前に「ひれ伏した」時に、立ち直る道が示されました。なぜなら、主イエスは、何がこの人の問題なのか、ご存じだからです。安易な解決法はかえって、その人の身心を蝕みます。
いくら悪霊が、「わたしとあなたに何の関係があるのか」と抗弁したり、「自分たちをこの地方から追い出さないように」と懇願しても、その人は速やかに悪霊から解放されねばなりません。
結
Ⅰ.と Ⅳ.の終わりに、使徒パウロの、「力は弱さの中でこそ十分に発揮される」(Ⅱコリント12:9)との証しを引用しました。「証し」と言ったのは、この句がさまざまな試練を乗り越えた、彼の経験に基づくものだからです。今、ゲラサの地の「墓場」に住む人が、この御言葉の力にあずかろうとしています。
悪霊祓い自体(マルコ5:11-17)は、見るに堪えない、まことにおぞましい出来事です。しかし、自分の常識や善悪の判断をもって、ただ眺めるだけというのは止めましょう。なぜなら、その出来事の中に、神の御心が現されているからです。主イエス・キリストは、異邦人伝道の最初の御業において、わたしたちに救いと愛を示されました。
わたしたちが、見て、知って、信じるに価するのは、次のことです。
御前にひれ伏す人の弱さの中でこそ十分に発揮される」
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〈説教の要約〉
2024年 8月18日
説教の構成――
Ⅱ 兄弟と呼ばれる人で、みだらな者とは つき合うな ……Ⅰコリント5:11
Ⅲ 内部の人々をこそ、あなたがたは裁くべきではありませんか ……Ⅰコリント5:12
Ⅳ あなたがたの中から悪い者を除き去りなさい
……Ⅰコリント5:13 + 申命記13:6
序
前回から、コリントの信徒への手紙 一 の新しいまとまり(同上5:1-6:20)を読み始めています。そこでまず、コリント教会内の「みだらな行い」が取り上げられます(同上5:1)。これは、教会が置かれているコリントの町全体の問題でもありました。
教会は神の聖なる神殿である(Ⅰコリント3:17)と同時に、誰もが入って来られるよう、この世に向けて開かれています。コリントの町は、ギリシア人が多数を占めていました。そして、地中海世界の交易拠点として、イタリア、小アジア、アフリカのエジプトやリビア、そしてパレスチナから多数の異邦人が押し寄せてきていました。ユダヤ人もコリントに会堂を建て、信仰を守っていました(使徒18:7)。
そのような環境の中で、パウロが教会の土台を据え、アポロをはじめする人々が建てついでいきました。自ずから、歴代の指導者たちがどれほど、教会の聖さを保つために腐心していたかが、しのばれます。当時、偶像崇拝に熱心な異邦人の家で働いていたキリスト者もいたことでしょう。富裕なギリシア人に負債があり、言いなりにならざるを得ない教会員もいたかも知れません。いずれにせよ、信仰の揺らぎやすい彼らへの牧会は重要でありました。
パウロのコリント伝道を支えたのは、主なる神の御声でありました……「恐れるな。語り続けよ。…… あなたを襲って危害を加える者はない。この町には、わたしの民が大勢いるからだ」(使徒18:9-10)。
大胆に異教の世界に出て行くこと……そこから、コリントの伝道が始まります。その上で、外の世界との接触により疲れた魂がいやされるよう配慮しなければなりません。教会内に、間違った性的自由が忍び込んでいれば、原因を見極め、「神の慈愛と峻厳」(ローマ11:22 口語訳)をもって正さねばなりません。
ちなみに、今扱っている聖書箇所・「不道徳な人々との交際」(Ⅰコリント5:1-13)は二分割されますが、各段落はパウロによる勧告で締めくくられています。
〈連帯〉「純粋で真実のパンで過越祭を祝おうではありませんか。」Ⅰコリント5:8
〈除名〉「あなたがたの中から悪い者を除き去りなさい。」同上5:13
「みだらな行い」という微妙な問題に突きあたりながらも、パウロの論理は乱れていません。むしろ、“ 霊 ” の導きによって、二つの勧告が、「神の慈愛」〈連帯〉から「神の峻厳」〈除名〉へと行き巡っています。
パウロは初めに、キリストの体なるコリント教会に愛を語り、次に、「みだらな者」(Ⅰコリント5:9)に対し正義を告げています。そこには、神の知恵が豊かに宿っており、“ 霊 ” 的な説明が提示されています。パウロ自身は、「キリスト・イエスによって聖なる者とされた人」(同上1:2)ですが、教会内の「みだらな行い」に真剣に係わろうとしています。
それでは、本日のテキスト、「あなたがたの中から悪い者を除き去りなさい」が結びとなっている箇所を読むことにしましょう。
Ⅰ あなたがたは世の中から出て行かねばならないのか
コリントの信徒への手紙 一 5:9-10――
9 わたしは以前手紙で、みだらな者と交際してはいけないと書きましたが、10 その意味は、この世のみだらな者とか強欲な者、また、人の物を奪う者や偶像を礼拝する者たちと一切つきあってはならない、ということではありません。もし、そうだとしたら、あなたがたは世の中から出て行かねばならないでしょう。
パウロは、「みだらな行い」という微妙な問題を解決していくにあたり、「以前の手紙」によって生じている誤解を解こうとしています。互いの間に共通認識を築いてから、議論を進めるというやり方は言うまでもなく、賢明です。パウロの冷静さがうかがえます。
ところで、パウロがコリント教会宛に書き送ったと見られる「以前の手紙」は、詳細不明です。というのも、新約聖書・パウロ書簡内に、「以前の手紙」が見当たらないからです。しかしながら、「今の手紙」(コリントの信徒への手紙・本文)に照らせば、「以前の手紙」から、どのように誤解が生じたのか、推察できます。
「以前の手紙」の本文 …… みだらな者と交際してはいけない。
誤解の元 …… どのように「みだらな者」という言葉を認識したのか。
・パウロの真意
「あなたがたの間で、ある人が父の妻をわがものとしている」(Ⅰコリント5:1)との言説の通り、
「みだらな者」は、教会内の人物、すなわち、キリスト者を指している。
・コリント教会側の理解
すなわち、教会の内外にかかわらず、「みだらな者と一切つきあってはならない」という厳しすぎる命令だと受け止めた。
結果として、教会内から「みだらな者」または「みだらな行い」を取り除くことをしなかった。
「みだらな行い」という個別の問題としてではなく、パウロとコリント教会とのすれ違いを大局的に眺めてみましょう。
そこで見えてくるのは、パウロがキリスト教倫理を確立する、その途上にあったということです。パウロは十戒など旧約の律法に精通している人ですから、キリスト者としての「新しい生き方」、倫理・道徳をとりまとめていく適任者であります。
しかし、パウロが細目まで決めて、起草して終わりというものではありません。エルサレム教会のペトロたちの意見も聞かなければならないでしょう。それなら、皆が従えるような、キリスト教倫理を確立するには、時間がかかるでしょう。加えて、その倫理は、それぞれの教会が置かれた地域、文化、政治等にも関わりがあります。
そのような難題を抱えていますが、わたしの見るところ、パウロにおいて、キリスト教倫理が確立される途上でありました。
パウロや同労者アポロやテモテは、“ 霊 ” の導きのうちに、自分がどのような使命を持っており、また、どのような立場にあるか、真剣に考えていました。その中でキリスト者として、どのように、自分が振る舞うべきか、あるいは、隣人の困窮に応じ助けるか、が明確になってきました。
ただし、パウロが「以前の手紙」を書いた時点では、「(教会)内部の人々のみだらな行い」と「外部の人々のみだらな行い」との区別が曖昧でありました。その点では、誤解が生じたのも、止むを得ないことでありました。
もちろん、「みだらな行い」という罪過に、二通りの「評価・判断」があるわけではありません。しかし、教会員が「キリスト教倫理」を実践するときに、「内部の人々」と「外部の人々」との間で、交際の仕方に違いが出て来るのは当然です。「みだらな行い」は微妙な問題だからこそ、まずは教会内でその罪過への対応を定めるべきでありましょう。
この世の道徳はルーズだ(たるんでいる)とかこつ前に、例えば、「姦淫してはならない。隣人の妻、男女の奴隷、牛、ろばなど隣人のものを一切欲してはならない」(出エジプト記20:14,17)との戒めによって、神の御前に立つことです。この世の腐敗を嘆く前に、「みだらな行いを避けなさい」(Ⅰコリント6:18)との言葉を自分の心に刻まねばなりません。
「もし、そうだとしたら、あなたがたは世の中から出て行かねばならないでしょう」……パウロは皮肉を込めて、やんわりと問いかけています。にもかかわらず、「世の中」ある教会だからこそ、早いうちにキリスト教倫理を確立したいとのパウロの熱意が、一部の人にしか伝わっていないようです。
コリントの町には、「みだらな者、強欲な者、人の物を奪う者、偶像を礼拝する者」に溢れていました。そこでパウロは、教会で礼拝を守り、「世の中」で生活するキリスト者に簡潔な命令を送っています。
Ⅱ 兄弟と呼ばれる人で、みだらな者とは つき合うな
コリントの信徒への手紙 一 5:11――
わたしが書いたのは、兄弟と呼ばれる人で、みだらな者、強欲な者、偶像を礼拝する者、人を悪く言う者、酒におぼれる者、人の物を奪う者がいれば、つきあうな、そのような人とは一緒に食事もするな、ということだったのです。
パウロは、「わたしが書いたのは」と書き出して、「以前の手紙」で曲解された事柄について真意を伝えようとしています。Ⅰ.でも述べましたが、このような信仰者同士のやり取りを通じて、キリスト教倫理が確立されてきました。つかの間の誤解を解きほぐすことから、「兄弟と呼ばれる人」、すなわち、キリスト者の生活が秩序づけられていきます。
ここでは、「みだらな者、強欲な者、偶像を礼拝する者、人を悪く言う者、酒におぼれる者、人の物を奪う者」というように、六つの悪徳が数え上げられています。「兄弟と呼ばれる人で」と前置きされた上で、このような罪深い行いをする者とは「つきあうな」と、彼らとの交際が禁じられています。
そしてパウロは具体的に、「そのような人とは一緒に食事もするな」と指示を出しています。コリントの町では、キリスト者が異教徒と「食事をする」機会が頻繁にあったと思われます。異教徒は、隣の家にも、仕事場にも、さらには家庭の中にも存在していたはずです。
従って、いくらひもじい思いをしていても、「偶像を礼拝する」形での食事の催しには警戒しなければなりません。飲食によって羽目を外し、邪な教えに毒されるというのは、人間の性とも言える悪弊です。その罠にはまらないためにも、「そのような人とは、つきあうな」との教えを通じて境界線を引いておくことです。
ここで、「食事をする」というのは、教会内の愛餐会や家庭集会での飲食などに関わる問題ですので、少し補足します。
「そのような人とは一緒に食事もするな」とは逆の面で、果たして、キリスト者が律法主義的に「食事をする」ことに制限を付けるのは、如何なものかということです。パウロのここでの議論では「食事」を(聖礼典としての)「聖餐」に特定しているわけではありません。それで今お話ししているのは、ふだんキリスト者同士が、あるいは、キリスト教を求道する者が、「一緒に食事をする」際の指針について、になります。
それで思い起こすのは、主イエスの公生涯や初代教会の時代において、(誰とかは後で説明します)「一緒に食事をしてはならない」と禁じることで、宣教が妨げられることが、しばしばあったということです。
二つの事例を挙げましょう。
マルコ福音書2:16-17 レビを弟子にする――
16 ファリサイ派の律法学者は、イエスが罪人や徴税人と一緒に食事をされるのを見て、弟子たちに、「どうして彼は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言った。17 イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」
ガラテヤの信徒への手紙2:11-12 パウロ、ペトロを非難する――
11 さて、ケファ(=ペトロ)がアンティオキアに来たとき、非難すべきところがあったので、わたしは面と向かって反対しました。12 なぜなら、ケファは、ヤコブのもとからある人々が来るまでは、異邦人と一緒に食事をしていたのに、彼らがやって来ると、割礼を受けている者たちを恐れてしり込みし、身を引こうとしだしたからです。
これらの「食事」の事例から分かるのは、「イエス」、また、「ケファ」(同席しているパウロも)、すなわち、新約の時代を代表する人物が、「罪人」、「徴税人」、そして「異邦人」と「一緒に食事をしていた」という事実であります。
出自や人種の垣根を越えて「兄弟と呼ばれる人」(=キリスト者)とは会食をするのが、慣わしでありました。「割礼を受けている者」でキリスト教に改宗したユダヤ人も、「割礼を受けていない」異邦人のキリスト者も、等しく招かれました。その「食事」の席において、主イエスの御言葉が語られ、「兄弟姉妹」の交わりが深められました。
わたしたちは概ね、「兄弟と呼ばれる人とは一緒に食事をする」という基本姿勢を保持しています。そうした中で、「みだらな者とは一緒に食事をするな」との禁令が発せられたことに留意しなければなりません。
食生活というのは、キリスト者のみならず人間すべての基盤であります。どんな物を食べてよいとするのか、あるいは、どのような作法をもって食卓につくのか等、多少の違いがあります(レビ記11章、マルコ7:3-4、使徒10:9-16)。
今日でも、キリスト者が「一緒に食事をする」際には、「食べ物について兄弟が心を痛めるないように」配慮しなければなりません(ローマ14:15)。日和見主義の「ケファ」のように、会食のメンバーを見渡して、出欠を決めるのも慎まなければなりません。大切なのは、主イエスの臨在を祈り、愛をもって食卓を囲むということです。
パウロはコリントでもエフェソでも、日毎の食卓において、主イエス・キリストにより「神の慈愛と峻厳」(ローマ11:22 口語訳)が現されることを願っていました。その意味では、自分の宣教の困難を覚えつつ、「神の峻厳」により「みだらな者とは一緒に食事もするな」と勧告したのではないでしょうか。牧会上の試練に襲われる中でも、パウロは「キリストに仕える者であり忠実な管理者」(Ⅰコリント4:1-2)として、自分を抑制することを知っていました。
Ⅲ 内部の人々をこそ、あなたがたは裁くべきではありませんか
コリントの信徒への手紙 一 5:12――
外部の人々を裁くことは、わたしの務めでしょうか。内部の人々をこそ、あなたがたは裁くべきではありませんか。
パウロは「今の手紙」で、誤解を解きほぐすべき、明瞭な言葉遣いをしています。一方、「外部の人々」とは、教会の「外」の人々を指しています。他方、「内部の人々」は教会の兄弟姉妹を表しています。
初めに、キリスト者は①「外部の人々を裁くべきではない」こと、次に、キリスト者は②「内部の人々を裁くべきである」ことについて説き明かしましょう。
これは、「外部の人々」、この世の人々に関心を持ってはならないということではありません。そもそも、「世の中から出て行く」ならば、自ら伝道の芽を摘んでしまうことになります。信仰者は「いわば旅人であり、仮住まいの身」(Ⅰペトロ2:11)として、「この世」で力の限りに生活しています。主イエスは神の民に、「地の塩」であり「世の光」であるように、と使命を託されました(マタイ5:13-14)。
だからこそ信仰者は、「この世の悪い者」や「みだらな者」から「守ってくださる」ように、と主に願い祈っています(ヨハネ17:11)。このように、神に依り頼むことにおいて、「外部の人々を裁く」のを差し控えるのです。それによって、「ですから、主が来られるまでは、先走って何も裁いてはいけません」(Ⅰコリント4:5)との教えに従えるようになります。
②「内部の人々を裁くべきである」――
わたしたちは、「裁く」という言葉からすぐに裁判を想起します。がしかし、「裁く」との原意は「二つに分ける」で、善し悪しを「判断する」(評価したり批判したりする)ということです。ですから、教会内でお互いに「裁く」、すなわち、「判断する」のは日常的なことと言えます。
付け加えれば、「量る」という言葉も同列です。主イエスは弟子たちに、「何を聞いているかに注意しなさい。あなたがたは自分の量る秤で量り与えられ、更にたくさん与えられる」(マルコ4:24)とのたとえを語られました。ここには明確に、信仰者は「自分の量る秤」を持っていることが示されています。その「秤」をもって正しく、神と、自分と、兄弟姉妹とのことを「判断する」のです。その判断のもとに、愛の交わりが確立されるのでありましょう。
絵画的描写になりますが、「自分の量る秤」は、主イエス・キリストなる「ともし火」によって皓々と照らされています(マルコ4:21)。その上、「自分の量る秤」には元来、注意深く「聞く耳」が付いています(同上4:31)。
「あなたがたは自分の量る秤で量り与えられ、更にたくさん与えられる」というのですから、主イエスはこの「自分の量る秤」が活用されることを望んでおられます。台所の戸棚に隠しておいてはなりません。
Ⅰ.で、パウロはキリスト教倫理を確立する、その途上にあったと述べました。それは言い換えると、「自分の量る秤」で、信仰者のガイドブックとなる「善し悪しの判断」の集成が出来つつあったということになります。“ 霊 ” の息吹のかかった「秤」を重用したパウロは確かに、「持っている人は更に与えられるであろう」人(マルコ4:25)の先駆者でありました。
そのパウロの、「内部の人々をこそ、あなたがたは裁くべきではありませんか」との勧めに耳を傾けましょう。そうすれば、聖書の規範のもとに、教会内で、「人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をする」(Ⅱテモテ3:16)ことが実践されるでしょう。
Ⅳ あなたがたの中から悪い者を除き去りなさい
コリントの信徒への手紙 一 5:13――
外部の人々は神がお裁きになります。「あなたがたの中から悪い者を除き去りなさい。」
その預言者や夢占いをする者は処刑されねばならない。彼らは、あなたたちをエジプトの国から導き出し、奴隷の家から救い出してくださったあなたたちの神、主に背くように勧め、あなたの神、主が歩むようにと命じられる道から迷わせようとするからである。あなたはこうして、あなたの中から悪を取り除かねばならない。
段落の結びに旧約を引用する傾向のあるパウロは(Ⅰコリント1:31、2:16)、「不道徳な人々との交際」(同上5:1-13)のまとまりの最後に、申命記の勧告を置いています。そこに、「書かれているもの以上に出ない」(同上4:6)という彼の節度と賢明さが表されています。
引用元の申命記13:6について、短く補足します。これは、偽預言者たちがしるし、奇跡、そして夢占いなどを使って、主なる神を信じる者たちを誘惑しているという状況下に物語られたものです。主の言葉を取りつぐモーセは、「あなたたちをエジプトの国から導き出し、奴隷の家から救い出してくださった」という神の大いなる御業を思い起こすように、と告げています。憐れみと義なる神の権威によって、「あなたの中から悪を取り除け」と命じられています。
「あなたがたの中から悪い者を除き去りなさい」……ここでは、コリント宛の「以前の手紙」で誤解が生じたことを踏まえて、簡明に「みだらな者」に対する裁きを指示しています。「あなたがたの中から」との一句の内に、「あなたがた」に戒規上の手続きがゆだねられていることが分かります。
現実に、コリント教会は、「あなたがたの間にみだらな行いがあり、しかもそれは、異邦人の間にもないほどのみだらな行いで、ある人が父の妻をわがものとしている」(Ⅰコリント5:1)という由々しき事態に直面しています。
結
教会における裁きは、神の御前において、「自分たちの量る秤」によって「判断される」ものであります。従って、「判断する」側の人々が、主イエス・キリストなる「ともし火」に照らされて、十字架と復活の御言葉を「聞いている」かどうか問われています。慎重に祈りをもって進めねばなりません。
言い換えれば、それは、その兄弟が罪のどん底から、神のもとへ立ち帰るかどうか、慎重に待つということです。「あなたがたの間に」、「そういう人を柔和な心で正しい道に立ち帰らせる」(ガラテヤ6:1)よう執り成す人が現れるかも知れません。
何よりも、主イエス・キリストが「あなたがたの間に」立っておられます。主イエスはかつて、二、三人の証人の立てられた教会での裁きに関して、次のように述べられました。
マタイ福音書18:15――
「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい。言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる。」
「あなたはあなたの兄弟を得たことになる」の英訳は、‘ you have won your brother back ’(TEV)です。 ‘ win … back ’ という熟語が絶妙です! 単に人が奪還されて良かったという話ではありません。これをヒントにわたしは、次のように意訳してみました。
「あなたは“霊”に導かれて、いったん迷い出たあなたの兄弟を取り戻し、主の勝利を輝かすことになる。」
この度の「みだらな者」の裁きは、除名という結果に終わるのでしょうか。神の祝福が、コリント教会の信徒の「量る秤」の上に、正当な判断の上に、ありますように、とパウロは祈っていたことでしょう。
たといその兄弟を ‘ win … back ’ できなかったとしても、何事においても、神の栄光を映し出すことを第一とするコリント教会の働きを、神はいつも見守っておられます。神はわたしたちを祝福し、命の息を吹き入れるお方です。そのお方に結びつけられてこそ、わたしたちは「清さを保ち続ける」ことができます。
パウロに倣って、自分の清さに気を配るだけでなく、「みだらな者」が神の栄光のもとに奪い返されるよう、執り成し、祈りましょう。聖なる者とされた人には、キリストの体を造り上げてゆく使命が託されています(エフェソ4:12)。
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〈説教の要約〉
2024年 8月11日 旧約聖書 哀歌 2章14節
新約聖書 ルカによる福音書 22章31節~34節
説教の構成――
序
Ⅰ あなたがたを小麦のようにふるいにかける ……ルカ22:31
Ⅱ 兄弟たちを力づける ……ルカ22:32
Ⅲ 死んでもよいと覚悟する ……ルカ22:33
Ⅴ あなたを立ち直らせる ……哀歌2:14
結
序
主イエスは十字架につけられて、死を遂げ、三日後によみがえられました。それは、わたしたちの弱さと罪を担い、わたしたちを新しく生まれ変わらせるためでありました。それが、神のお遣わしになった主イエスによって救われるということでありました。
神は、わたしたちが救われて、希望をもって将来に向けて歩み出すことを心から願っておられます。というのも、元々人間は、「見よ、それは極めて良かった」(創世記1:31)との神の言葉のもとに創られたものだからです。神は創造主として、人間を見守っておられます。主イエスがこの世に遣わされたのも、神がわたしたちに寄り添っていることを示すためでありました。
そのような神の力と愛に応えるために、わたしたちが何をすればよいのでしょうか?
大きく分けると、二つあります。一つは、神を信じ、神にあらゆることをゆだねることです。それを実践するために、キリスト者は主の日に礼拝を守り、日々祈っています。
もう一つは、わたしたちが神への感謝を現すことです。神を礼拝し祈ることはじめ、自分で聖書を読むこと、隣人のために善い行いをすることなどがあります。
わたしたちが忍耐強くそれらを続けていくとき、わたしたちが神の国をめざし、希望をもって歩んでいることは大きな力となります。と同時に大切なのは、自分の個性や賜物などを、その弱さを含めてしっかりと見つめることです。
なぜなら、自分には思い悩みがあり、また、この世にはさまざまな誘惑や苦難があるからです。それ故に、隣人を助けるための自分の善い行いが本当に正しいことなのか、分からなくなることがあります。また、その善い行いを途中で放り出してしまうような挫折に遭うこともあります。だからと言って、自分の弱さや罪を包み隠してしまうことは、神の御心ではありません。
主イエスはたとえをもって、「あなたがたは自分の量る秤で量り与えられ、(あなたがたに)更にたくさん与えられる」(マルコ福音書4:24)、と人々に教えられました。主イエスの御言葉を「聞く耳」を持っている人は、「自分の量る秤」を使い得る人です。その人は、主イエスの「ともし火」によって、自分の信仰や善行が皓々と照らされます。ごまかすことも、なまけることもできません。
だから、その人は善い行いの是非を「量る」つまり「判断する」ことができます。挫折や困難に遭っても、正しく「評価する」・「批判する」・「考える」ことができます。ブレーズ・パスカルが「人間は考える葦である」と言ったのは、まさにこのことです。
少し前置きが長くなりましたが、主イエスが十字架刑直前の晩餐で、その最後の最後に語られたのは、今お話ししたことと深い関係があります。残念ながら、ペトロはじめ使徒たちは、自分の弱さや罪におぼろげにしか気づいていません。主イエスはどんなことを、そのようなペトロに告げておられるのでしょうか?
Ⅰ あなたがたを小麦のようにふるいにかける
ルカ福音書22:31 主イエスの言葉――
「シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。」
「シモン、シモン」との連呼には、切迫した雰囲気の内に、弟子・ペトロに対する主イエスの熱い思いが表れています。良くも悪くも、失敗があったとしても、ペトロは弟子たちのリーダーなのですから。
「サタンは……を神に願って聞き入れられた」との表現は微妙です。なぜなら、「あなたがたを、小麦のようにふるいにかけること」が、神の計画なのか、それとも、サタンの仕業なのか、曖昧になっているからです。しかし、根本的にはそこに神の御心が働いていたと見て、良いでしょう。次の出来事において、それが例証されています。
それは、主イエスが悪魔によって受けた、荒れ野の試みです(ルカ4:1-12)。「荒れ野の中を“霊”によって引き回された」、その出来事において、主イエスは苦難を背負いながらも、わたしたち・信仰者に重要なことを教えられました。すなわち、「わたしたちを誘惑に遭わせないでください」(ルカ11:4)と祈ることを教えられました。わたしたちは自分の人生で、どんな「誘惑」が襲って来るのか、分かりません。それ故に大切なのは、祈りの中で、弱い自分を認め、神に助けを願い求めることです。「誘惑」への勝利は、主イエスに任せばよいのです。
主イエスが「四十日間、悪魔から誘惑を受けられた」のは、何よりもガリラヤ伝道において、「誘惑」に打ち勝つ神の御子が登場するという備えであり幕開けでありました。と同時にそれは、「誘惑」の嵐の中でひたすら祈るよう信仰者を導くという教えでありました。
「サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかける」……「ふるいにかける」ことによって、本物と偽物とが分けられます。本物を装っていたとしても、この「ふるいわけ」によって、偽物は「ふるい」落とされます。
では、サタンによる最強クラスの「ふるいわけ」に耐えて残った「本物」とは、一体何を指しているのでしょうか。そこで、この試みの遂行が「神に願って聞き入れられた」との句がヒントになります。
主なる神は今、御子イエス・キリストを世に遣わして、罪人を助け出そうとされています。とりわけこれは、主イエスの十字架と復活の出来事の直前の、「サタン」と「神」とのやりとりです。
サタンの巻き起こす激しい「ふるいわけ」を用いてまでも、神が企図されたのは、御子の前に「本物」を残すということでありました。従って、「本物」とは、主イエス・キリストを信じ、主によって救われる人を指しています。主イエスの死と復活の予告(マルコ8:31)を聞いて、その救いの御業に自分もあずからせてください、と御子の前に進み出る人が、「本物」の信仰者なのです。
付け加えれば、すぐに吹き飛ばされる偽物と違って、最後まで残る「本物」は最強度の「ふるいわけ」を長時間こうむることになります。ペトロやパウロが迫害はじめ数々の試練に遭っているのは、そのためです。
繰り返しになりますが、主イエス・キリストの救いの御業に、自分があずかっているか、それを頼みの綱としているか、そうでないか、が分かれ目です。どんな試練の時にも、自分で克服するのではなく、そこから逃れられるように、主イエスに祈ることが第一に肝要です。
Ⅱ 兄弟たちを力づける
「しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」
「しかし」で、次の驚くべき展開が示されています。すなわち、神の監視下でのサタンの「ふるわけ」作業には必ず終わりの時が来ます。主イエスが「信仰」が守られるように、「あなたのために祈って」くださいます。「だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」というように、あなたの出番がやって来ます。
その時、主イエスの御言葉を「聞くあなたの耳」は研ぎ澄まされます。この世の善悪を見極める「あなたの量る秤」は重用されます。「あなたは立ち直った」という強みを持っています。「あなた」はつまずきそうな人の傍らに立つことができます。苦難を体験した「あなた」は、同じような苦しみをこうむっている人を「力づけ」られます。
主の晩餐の直後、大祭司の屋敷内で、ペトロは三度もイエスを否みます(ルカ22:54-62)。「だから、あなたは立ち直ったら」って、本当なのかしら、と思うことでしょう。
ルカ福音書23:34 十字架上で――
そのとき、イエスは言われた。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」
しかし、ペトロは立ち上がって墓へ走り、身をかがめて中をのぞくと、亜麻布しかなかったので、この出来事に驚きながら家に帰った。
ルカ福音書24:33-34――
33 そして、時を移さず(二人の弟子がエマオから)出発して、エルサレムに戻ってみると、十一人とその仲間が集まって、34 本当に主は復活して、シモンに現れたと言っていた。
十字架上で主イエスは、罪人たちを見渡しながら「父よ、彼らをお赦しください」と言われました。「信仰が無くならないように」、逃亡しているペトロを覚えて祈っておられました。
そのことは、復活の主イエス・キリストによって、ペトロの「信仰」が呼び覚まされたことから分かります。空の墓にまつわる婦人たちの言葉を聞いて、ペトロはすぐに墓に向かって駆け出しました。それから、その夕べには仲間たちの間で、ペトロは「本当に主は復活して、自分に現れた」と証ししました。
これぞまさに、わたしたちの思いをはるかに超えた出来事、人生の大逆転です。ペトロは、死から起き上がられた主イエスによって、「立ち直らされ」ました。
そうして、ペトロは、エマオから戻って来た二人の弟子はじめ、その仲間たちを「力づける」者となりました。ただし今や、「本物」の信仰者であるペトロは、「小麦のようにふるいにかける」ような試練によって打ちのめされた、弱く罪深く人間であることをも、大胆に証言したに違いありません。
聖霊降臨の後に、ペトロはエルサレム神殿の境内で、民衆にこう語りかけました……「だから、自分の罪が消し去られるように、悔い改めて立ち帰りなさい」(使徒3:19)。この言葉は、ペトロを取り巻く群衆のみならず自分自身に向けられたものなのではないでしょうか……三度もイエスを否んだ大罪が赦されるように、と。ペトロが演説している所から、ゴルゴタの丘はさほど遠くありません。そこに、大胆に御言葉を語るペトロの力の源がありました。
Ⅲ 死んでもよいと覚悟する
ルカ福音書22:33――
するとシモンは、「主よ、御一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております」と言った。
十字架刑の前夜に、話は戻ります。つまり、ペトロが「悔い改めて立ち帰る」以前のことです。
まるで天の邪鬼のように、ペトロは片意地を通しています。主イエスの「信仰が無くならないように」あるいは「だから、あなたは立ち直ったら」(ルカ22:32)という慈しみ深い語りかけは、ペトロには他人事です。魂への配慮である御言葉を受けつけていません。
「信仰が有る」から大丈夫、つまずかないから「立ち直る」必要はないと、ペトロは思い込んでいます。そうして、先を見通す主イエスに逆らっています。
一見、「牢に入っても死んでもよいと覚悟している」とのペトロの言葉には、非の打ち所がないように思われます。しかし、「主よ、御一緒になら」と言いつつも、慈しみ深い主の言葉を拒んでいるのは、どういう訳でしょうか。主イエスが傍らにおられると言うならば、主に対し、とことんへりくだるべきでありましょう。ここで、ペトロの盟友、パウロの事例を引きましょう。
第三回・伝道旅行の折、パウロはエフェソの長老たちに、次のように述べました。パウロは幾度も、「牢に入っても死んでもよい」というほどの苦境を経験した人でありました(使徒14:5、16:22-24)。
使徒言行録20:23――
「ただ、投獄と苦難とがわたしを待ち受けているということだけは、聖霊がどこの町でもはっきり告げてくださっています。」
「聖霊がはっきり告げる」が故に、自分は「わたしを待ち受けている投獄と苦難」に対し心構えができているということです。「待ち受けている」との言い方から、自分が勇んで体当たりし撃沈しようというのではない、と分かります。
自分の「覚悟」ではなく、「聖霊」の教えに従って、苦難の道を進んで行くと、パウロは証言しています。その点で、十字架の出来事以前の、片意地を張ったペトロとは大きく異なっています。ペトロは自ら危険を冒してヒーローになろうとしています。
ペトロは、うわべだけで「主よ、御一緒になら」と言っているに過ぎません。「聖霊」によって為すべきことを教えられるという霊性と熟慮が欠けています。そこで、主イエスがペトロを一喝されます。
Ⅳ 三度わたしを知らないと言う
イエスは言われた。「ペトロ、言っておくが、あなたは今日、鶏が鳴くまでに、三度わたしを知らないと言うだろう。」
「三度わたしを知らないと言う」……ペトロは冷や水を浴びせられたような気分になったでしょうか。「牢に入っても死んでもよい」というペトロの「覚悟」は打ち砕かれました。主イエスは、ペトロの行いではなく、御自身と一人の弟子との関係を問われました。「あなた」は「わたし」を信じているか、が中心テーマでありました。その信仰から、善い行いが生み出されます(Ⅱコリント8:7)。
「父よ、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください」(ルカ22:42)と祈られたお方の予告です。ですから、「三度わたしを知らないと言うだろう」というのは重い言葉です。この夕べの食事が終わってから、朝「鶏が鳴くまでに」、予告通りのことが起こります。
その夜、主イエスは祭司長や長老たちによって逮捕され、大祭司の家に連れて行かれます(ルカ22:54)。「主よ、御一緒になら、死んでもよい」と言っていたペトロは主を追って、その屋敷に忍び入りました(同上22:55)。そこで、主の晩餐の席(同上22:14-23)と異なり、ペトロは完全アウェーの状況に投げ込まれます。独りきりで、反イエスの人々がたむろしている、閉じられた空間に置かれました。そこでは、自分の知識や経験、また「覚悟」は役立ちません。
ペトロは、主イエスの注意喚起された「ふるいわけ」に遭遇することになります。「イエスを知っている」か、それとも、「イエスを知らない」かの二択です。そうして、本物と偽物とが見分けられます。
「サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかける」のですから、その「ふるいわけ」は容赦ありません。眼光鋭く、記憶力抜群の告発者がペトロを尋問します(ルカ22:54-62)。
結果は、火を見るよりも明らかです。「イエスを知らない」の三連発で、決死の「覚悟」のペトロは自滅しました。「そして外に出て、激しく泣いた」(ルカ22:62)……いとも鮮やかな撃沈です。ペトロの片意地も熱い思いも打ち砕かれました。
その時にこそ、「だから、あなたは立ち直ったら……」との主イエスの言葉を思い起こしたいものです。まだ半日も経っていないのですから、思い出すのは容易です。主イエスは「打ち砕かれ悔いる心」(詩編51:19)の人を見過ごしにされません。「川のように涙を流す、休むことなくその瞳から涙を流す」(哀歌2:18)の人の傍らに立っておられます。
ここで一応、本日のテキスト「ペトロの離反を予告する」についての説き明かしを終えることにします。ただし、補足の形になりますが、「だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」との慈しみ深い主イエスの言葉について、旧約聖書を通して掘り下げてみましょう。
Ⅴ あなたを立ち直らせる
哀歌2:14――
一度、罪をあばくべきなのに
むなしく、迷わすことを
あなたに向かって告げるばかりであった。
ユダ王国がこうむった大惨事(前587年)の際に、その情況を実況中継するかのごとく、哀歌2章が編まれました。ここで、「あなた」と呼ばれているのは、「娘エルサレム」(哀歌2:13)のことで、ユダの残りの民を表しています。詩人は、「娘エルサレム」に寄り添いつつ、その悲しみを歌い上げています。
一方、バビロニア軍の攻撃によって虐殺された人との別れがあり、他方、バビロンの地に連行されていく人との別れがあります。弔いと見送りの中で、主なる神への信仰を守り続けるのは、並大抵のことではありません。
この時、「娘エルサレム」は、「サタンがあなたがたを、小麦のようにふるいにかける」というような試みに遭っていたのでしょうか。確かに、王国、神殿、そして多くの宗教指導者が失われていく中で、選民・イスラエルの、信仰の真価が問われたことが、哀歌の内容からも伝わっています。
思いがけない「ふるいわけ」によって、偽物は飛び散りました。その正体が暴かれました。「むなしい、偽りの言葉ばかり」の「託宣」であった、と告発されています。
しかし、信仰においての本物、すなわち、「苦難の時の砦の塔」(詩編9:10)なる主に依り頼んでいた人々が数多く残っていたわけではありません。だからこそ、哀歌に中心テーマとして、「あなたを立ち直らせる」ことが取り上げられたのです。
ここで、「あなたを立ち直らせるには 一度、罪をあばくべきなのに」という詩人の言葉に沿って、「娘エルサレム」が神礼拝を再開し、善い行いをするようになる道筋を捉えましょう。
最初に、「だから、あなたは立ち直ったら」(ルカ22:32 ギリシア語)と「あなたを立ち直らせるには」(哀歌2:14 ヘブライ語)とを並べて考察しましょう。すると双方とも、「立ち直り」の原意は「立ち帰り」であり、それは、主なる神への「立ち帰り」を表している、と判明します。
次に、真に神に「立ち帰る」ために、自分の「罪をあばく」こと、すなわち、自分の「罪」を告白し、「悔い改める」ことが起こります。「鶏が鳴いたとき」にペトロが「激しく泣いた」(ルカ22:60-62)というのは、彼の悔いる心を示唆しています。
最後に、わたしたちが神に「立ち帰り」、「立ち直る」ならば、「兄弟たちを力づける」という愛の業が始められます。神の愛がわたしたちに注がれます。そして、わたしたちが通りよき管として用いられ、その愛が隣人に分かち与えられます。
結
突発的な「ふるいわけ」、あるいは、大災難という試みに遭った、使徒ペトロや「娘エルサレム」の人生から、次のことが分かります。
それは、最初から最後まで一貫しているのは、主イエス……その先駆者としての哀歌詩人……の祈りであるということです。父なる神への立ち帰り、罪人の悔い改め、そして隣人への愛という大きな輪の中心に、主イエス・キリストがおられます。「わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った」というのですから、危難が激しいほど、主イエスは信仰者のために、いよいよ切に祈ってくださいます。祈られる主イエスが、わたしたちと共に戦ってくださいます。
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〈説教の要約〉
2024年 8月4日 日本キリスト教団 茅ヶ崎香川教会
聖霊降臨節 第12主日
旧約聖書 詩編89編 10節(P.926)
新約聖書 マルコによる福音書 4章35節~41節(P.68)
説 教「風はやみ、すっかり凪になった」 小河信一牧師
説教の構成――
序
Ⅰ 向こう岸に渡ろう
……マルコ4:35-36
Ⅱ わたしたちがおぼれ死んでもいいのですか
……マルコ4:37-38
Ⅲ あなたは荒れ狂う海を静められる ……詩編89:10
Ⅳ すると、風はやみ、すっかり凪になった ……マルコ4:39
Ⅴ あなたがたにはいまだに信仰がないのか
……マルコ4:40-41
序
主イエスはこれまでに、病気のいやしや悪霊の追放などの奇跡(マルコ1:21-45、2:1-12、3:1-6,10-11,22-23)を行われました。次の大きなまとまり(同上4:35-5:43)には、より大きな奇跡が連続して出てきます。
それに伴って、伝道の範囲が徐々に広がっていきます。主イエスはガリラヤ湖畔・カファルナウムを拠点としつつ、ガリラヤ周辺(マルコ5:1、6:1)を巡回されます。そうして、ユダヤ人のみならず各地の異邦人が群れをなして、主イエスにつき従うようになりました(同上3:7-8、5:20)。
ここで、主イエスがガリラヤ湖畔やその周辺で宣教することに、どんな意味があるのでしょうか、という質問が出てくるかも知れません。一つひとつのたとえ話や奇跡物語からメッセージを汲み取るのが大切なのは分かりますが、一体何のために伝道が行われているのか、総括してくれませんか、ということです。
確かに、本の「あとがき」や「解説」から読む人は多いでしょうし、そこで著者や作者の意図や背景を知った方が本文の内容がより深く理解できることでしょう。そこで、どんなことを目指して、主イエス・キリストが ①〈初めに〉罪の赦しを教える⇒②〈次に〉病気をいやし奇跡を起こす という御業(マルコ2:1-12、3:28)が繰り返されているのか、端的にお教えしましょう。
マルコ福音書の著者はまさに “ 霊 ” によって、読み手をここに導くという企図を持っていました。それが、「ペトロ、信仰を言い表す」と「主イエス、死と復活を予告する」(マルコ8:27-30と8:31-9:1)という出来事になります。つまり、ペトロに代表される人間が、主イエス・キリストの十字架と復活を信じるということこそ、ガリラヤ伝道の最高潮なのです。ここに、「いったい、この方はどなたなのだろう」(マルコ4:41)との問いへの答えも示されています。
それでは、どこを目指しているか、明確にされたところで、一つの奇跡物語を読み味わいましょう。
Ⅰ 向こう岸に渡ろう
マルコ福音書4:35-36――
35 その日の夕方になって、イエスは、「向こう岸に渡ろう」と弟子たちに言われた。36 そこで、弟子たちは群衆を後に残し、イエスを舟に乗せたまま漕ぎ出した。ほかの舟も一緒であった。
「その日の夕方になって」と時間が表示されています。実は四つの福音書の中で最も古いと言われているマルコ福音書には、ヘブライ的時間観念が色濃く残存しています。すなわち、この福音書全体にわたり、一日が夕方から始まる時間観念(創世記1:5)が採用され、ストーリー展開の節目になっているということです(マルコ1:32、6:47、14:17など)。
重要なのは、「夕方になって」、一日が始まるとき、主イエスの新しい御業が現れ出るということです。そこでわたしたちは、突然、夜の闇の中に輝く神の救いの業に対峙させられます。そこで、わたしたちの不安や失望がぬぐい去られます。「夕方になって」起こされた奇跡は、これに続く三つのいやしの奇跡の幕開けともなっています(マルコ4:35-5:43)。
「夕方になって」、一日が始まり、その日の終わりまでに、主イエスの御前で、自分の罪と弱さを言い表し信仰告白する……それこそ、神がわたしたちのために創られる一日であり主の日であり、わたしたちの一生涯の日々なのです。
そのような夕暮れ時に、主イエスは弟子たちに、「向こう岸に渡ろう」と呼びかけられました。弟子たちは何の用意もしていなかったことでしょう。それで良いのです。主イエスにすべてゆだねることです。
ガリラヤ湖畔にこだました主イエスの御声は、威厳に満ちたものでありました。そこには、途中の障壁を乗り越えていくという勇敢さと忍耐が込められていました。そのように察せられるのは、その呼びかけが、神の民イスラエルの歴史において、父祖たちのかけた号令と響き合っているからです。
出エジプト記14:13,15-16 葦の海の岸辺で――
13 モーセは民に答えた。「恐れてはならない。落ち着いて、今日、あなたたちのために行われる主の救いを見なさい。」 …… 15 主はモーセに言われた。「なぜ、わたしに向かって叫ぶのか。イスラエルの人々に命じて出発させなさい。16 杖を高く上げ、手を海に向かって差し伸べて、海を二つに分けなさい。そうすれば、イスラエルの民は海の中の乾いた所を通ることができる。
ヨシュア記3:6 ヨルダン川を渡るとき――
ヨシュアが祭司たちに、「契約の箱を担ぎ、民の先に立って、川を渡れ」と命じると、彼らは契約の箱を担ぎ、民の先に立って進んだ。
神は闇雲に「向こう岸に渡ろう」と命じて、民に冒険させているわけではありません。そうではなく、神の約束の地へ旅立とう、不安を払拭して、神を信じ、行動を起こしなさい、との意図なのです。神の力があなたがたの弱さの中に発揮されること(Ⅱコリント12:9)を教えようとされています。
主イエスは単なる思いつきではなく、モーセやヨシュアの示した父なる神への従順を思い起こしながら、「向こう岸に渡ろう」と呼びかけられたのではないでしょうか。
「弟子たちがイエスを舟に乗せたまま漕ぎ出した」だけでなく、「ほかの舟も一緒であった」ということです。主イエスの御声を聞いて、弟子たちはじめ主に従う者たちが前進し始めました。この光景にこそ、約束の地、神の国をめざす信仰者の原型が現されています。「イエスを舟に乗せたまま行く」こと、言い換えれば、「神は我々と共におられる」(マタイ1:23)ことが頼みの綱です。自分は元漁師で、舟を操るプロであるという過信は即刻打ち砕かれます。
Ⅱ わたしたちがおぼれ死んでもいいのですか
マルコ福音書4:37-38――
37 激しい突風が起こり、舟は波をかぶって、水浸しになるほどであった。38 しかし、イエスは艫の方で枕をして眠っておられた。弟子たちはイエスを起こして、「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と言った。
「向こう岸」に漕いでいく途中で、障壁が立ちはだかりました。自分が実際、何を頼みの綱としているのか、が暴き出されます。
「激しい突風」をより原意に即して言うと、「巨大な嵐の突風」となります。この表現から、恐怖に取りつかれた人間(マルコ4:40)の心象風景が汲み取られることでしょう。「突風」、「波」、「水浸し」……自分たちの常識を超えたものの前に、心が押しつぶされそうになっています。不安が募るばかりです。これでは、弟子たち同士のチームワークも機能しません。このような時の一番の問題は、本当に見るべきものが見えなくなる、その平常心が失われる、ということではないでしょうか。
しかしその時、漆黒の世界に、「艫の方で枕をして眠っておられたイエス」の姿が浮かび上がりました。弟子たちはいまだに、主イエスを頼みの綱としてはいません。「神は我々と共におられる」というメッセージをもって、自分たちの間に臨在しておられる主イエス・キリストを信じてはいません。
幸いなことは、「眠っておられたイエス」の目の前で、自分たちの正体が露わにされたということです。主イエス・キリストが ①〈初めに〉罪の赦しを教える⇒②〈次に〉病気をいやし奇跡を起こす という御業(マルコ2:1-12、3:28)を繰り返されているにもかかわらず、弟子たちはいまだにイエスが救い主であると信じていません。
そのことが、「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」との弟子たちの言葉から分かります。ここで、「おぼれる」というのは、「滅びる」が原意で、「おぼれ死ぬ」と意訳できます。全文を訳し直すと、「先生、あなたはわたしたちのおぼれ死ぬことに気を留められないのですか」となります。
これは、主イエスに対し失礼極まりないというよりも、弟子たちの不信仰の告白と断じざるを得ません。自分の命が惜しいのは、切迫した状況からもよく分かります。しかしこれは、「わたしたち」が神の御子なる「あなた」に投げかける言葉ではありません。「先生」という言い方もかえって、しらじらしく聞こえます(マルコ5:35、14:45)。
では、添削すると、「主よ、あなたはいつも、わたしたちが滅びないように心にかけてくださっています。どうか、助けてください」となるでしょうか。元より、主イエス・キリストへの信仰を表すということなので、これが正解というわけではありません。
わたしたちが祈り求める以前から、主イエスは、罪と病と死の縄目から解放してくださるお方として、わたしたちに寄り添っておられます。「突風」、「波」、「水浸し」という悪循環の中でも、「イエスは艫の方で枕をして眠っておられた」という幸いと平安に依り頼みたいと願います。
ところで、旧約聖書には、自然界を支配されている神の権能が繰り返し描き出されています。「激しい突風が起こり、舟は波をかぶって、水浸しになるほど」の危難に遭った信仰者は、そのような神に救いを求めて祈りました。本日は、そのことを証しする旧約の一節を読んでみましょう。
Ⅲ あなたは荒れ狂う海を静められる
詩編89:10――
波が高く起これば、(あなたは)それを静められます。
「わたし」なる詩人が、神の慈愛や威光を讃美しています。そしてこの節では、「あなた」なる神が「おごり高ぶった海」と「大きくうねる波」とに対峙しています。悪霊のごとく「海」や「波」は猛威を振るい、被造世界を混沌に陥れようとしています。
詩人は身を潜めてその様子をうかがっています。その人は、神が「海」を創られたこと(創世記1:9-10)を知る信仰者です。そうして詩人は「あなたは誇り高い海を支配し 波が高く起これば、あなたはそれを静められます」と、口ずさみました。
詩人は単に神による自然奇跡を讃美したのではなく、「天はあなたのもの、地もあなたのもの。御自ら世界とそこに満ちるものの基を置かれた」(詩編89:12)というように、創造神への信仰を告白したのです。
この詩人と同じ信仰に立つ預言者エレミヤは次のように、主なる神の言葉を取りつぎました……「主は言われる。わたしは砂浜を海の境とした。これは永遠の定め それを越えることはできない。波が荒れ狂っても、それを侵しえず とどろいても、それを越えることはできない」(5:22)。
エレミヤは、悪霊が被造世界の中で荒れ狂い、人間に取りつき苦しめることがあっても、神の支配は侵しえないと信じています。なぜなら、神が信仰者と悪霊との間に、「越えることはできない境」を造ってくださるからです。大切なのは、危難の時にも、「わたし」が「あなた」なる神を信じ、安んじていることです。
Ⅳ すると、風はやみ、すっかり凪になった
マルコ福音書4:39――
イエスは起き上がって、風を叱り、湖に、「黙れ。静まれ」と言われた。すると、風はやみ、すっかり凪になった。
主なる神がこの世に遣わされた主イエスは、自然を創造し保持されている権能を持っておられます。「風」や「湖」と相対する前に、主イエスは眠りから目覚め、「起き上が」られました。これはまさに、死からのよみがえり(起き上がり)を予告する出来事です。
このようにして、主イエスはまことの神として自己啓示された後に、「風を叱り、湖に、『黙れ。静まれ』と言われ」ました。弟子たちもこの言葉を聞き届けたに違いありません。自然奇跡の中で、主イエスが言葉をもって神の力を現された出来事は、きっと彼らの信仰への導きとなることでしょう。
「巨大な嵐の突風」(マルコ4:37)が「巨大な凪」に変えられました。そうして、湖に静けさが回復されました。「神の国」に起こる救いの御業は、わたしたちの思いをはるかに超えています。
弟子たちは、「向こう岸に渡ろう」とされた主イエスの旅の中で、“ 霊 ” によって目覚めさせられる機会が与えられました。彼らにとって、主イエスはどのようなお方なのでしょうか。
Ⅴ あなたがたにはいまだに信仰がないのか
マルコ福音書4:40-41――
40 イエスは言われた。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」 41 弟子たちは非常に恐れて、「いったい、この方はどなたなのだろう。風や湖さえも従うではないか」と互いに言った。
主イエスは信仰を授けようと、その伝道の対象にしている弟子たちに向き合われます。
まず主イエスは、「突風」、「波」、「水浸し」によって恐怖に取りつかれた彼らに寄り添われます。「なぜあなたがたは怖がるのか」と語りかけられました。主イエスは人間の臆病と孤独とをご存じです。それから、この場面で最も重要な問いを出されました。
「まだ信じないのか」は原意を踏まえて、「あなたがたはいまだに信仰を持っていないのか」と訳しましょう。
「いまだに」を「すでに」と反転すれば、「すでに」信じられるように、あなたがたを導いたはずだが、との意味だと分かります。確かに弟子たちは、主イエス・キリストによって、 ①〈初めに〉罪の赦しを教える⇒②〈次に〉病気をいやし奇跡を起こす という御業が繰り返されたのを、見て・聞いて・知っていました。そのようにして、彼らには、神の国の秘密が打ち明けられました(マルコ4:11)。
弟子たちに一体何が足りない(あるいは無い)のでしょうか?
主イエスは問いかけの内に、足りないのは「信仰」だと明示されました。
主イエスに、弟子たちへのいらだちなど無かったことでしょう。というのも、主イエスははるかにガリラヤ伝道の最高潮を望み見て、ガリラヤ周辺を巡回しておられたからです。この度の湖上の事件が、「ペトロ、信仰を言い表す」と「主イエス、死と復活を予告する」(マルコ8:27-30と8:31-9:1)という奇しき出来事につながっているのをご存じありました。
いまだに信仰が育っていない弟子たちにとって大切なのは、「いったい、この方はどなたなのだろう」と問い続けることでありました。その点では、十二弟子は、おびただしい群衆にとっての模範でありました。そのために主イエスは、神の栄光を現すイエス・キリストにつき従おう、そして、イエス・キリストと共に、ユダヤ人と異邦人に伝道しようという姿勢を、弟子たちに培われました。
主イエスは弟子たちの前に座って、「ほかの種は良い土地に落ち、芽生え、育って実を結び、あるものは三十倍、あるものは六十倍、あるものは百倍にもなった」(マルコ4:8)と語られました。収穫の時が来るのを待っておられました。だからこそ、主は、弟子たちが、“ 霊 ” によってイエス・キリストを信じるよう導き、執り成し、祈っておられたのです。
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〈説教の要約〉
2024年 7月28日
聖霊降臨節 第11主日
新約聖書 コリントの信徒への手紙 一 5章1節~8節(P.304)
説 教「純粋で真実なパンで祭りを祝おう」 小河信一牧師
説教の構成――
序
Ⅰ あなたがたは高ぶっているのか
……Ⅰコリント5:3-5
Ⅲ 古いパン種をきれいに取り除きなさい
……出エジプト記13:3-7
Ⅴ 純粋で真実のパンで過越祭を祝おう
……Ⅰコリント5:7後半-8
序
この手紙の初めの大きなまとまり(Ⅰコリント1:10-4:21)が終わり、次の大きなまとまり(同上5:1-6:20)へと移ります。取り上げられる話題は、分派争いから、不品行、教会内の「裁判ざた」(同上6:7)、キリスト者の自由へと替わります。そのようにして、パウロは忍耐強く、コリント教会の人々との間に生じた誤解を解いていきます。
パウロは、主イエス・キリストの十字架と復活によって救われた者として語り続けています。その根底には、福音の正しい理解が据えられています。すなわち、神の聖なる神殿としての教会を建てる、そして、力を合わせ働く者が一つになって神の栄光を現すということです。
またこれまでに、キリスト教倫理の面から、パウロやアポロなどの使徒・指導者がどのような使命を持っており、また、どのような立場にあるかということが示されました。それを通して、コリント教会の人々に、キリスト者としての礼拝と日常生活の基本姿勢が教えられました。
パウロは今、小アジアのエフェソからギリシアのコリントへ、いわばリモート(遠隔)の形で伝道牧会しています。しかし、コリント教会には既にパウロに替わる指導者がおり、互いの間に疑念が生じやすい状況に置かれています。そうした中で、パウロは “ 霊 ” の導きにより、あたかもコリント人々が目の前にいるかのごとく、親しく語りかけました。
Ⅰ あなたがたは高ぶっているのか
コリントの信徒への手紙 一 5:1-2――
1 現に聞くところによると、あなたがたの間にみだらな行いがあり、しかもそれは、異邦人の間にもないほどのみだらな行いで、ある人が父の妻をわがものとしているとのことです。2 それにもかかわらず、あなたがたは高ぶっているのか。むしろ悲しんで、こんなことをする者を自分たちの間から除外すべきではなかったのですか。
やや低姿勢に、「現に聞くところによると」と、パウロは語り出しています。憂慮すべき事件について、熟慮の上でのパウロの見解が述べられます。
「あなたがたの間にみだらな行いがあり、しかもそれは、異邦人の間にもないほどのみだらな行いで、ある人が父の妻をわがものとしている」……パウロの落胆が伝わってきます。「みだらな行い」は許されないことだと、戒めるのが足りなかったのか、と。
「ある人が父の妻をわがものとしている」というのは、ある息子が父親の後妻、すなわち、息子から見て義母と「関係を持っている」ということです。これは、旧約聖書の、「父の妻を犯してはならない。父を辱めることだからである」(レビ記18:8)という倫理規定に違反しています。「ある人」はコリント教会の信徒、また、「父の妻」はその教会に属さない異教徒と見られます。
おそらく、設立されたばかりのコリント教会において、「いとうべき性関係」に関わる規則(レビ記18章)が浸透していなかったのでありましょう。というのも、ユダヤ人以外、ギリシア人などの異邦人が多数を占めていたと考えられるからです。
加えて、主キリストに救われて、生まれ変わったときに、どのように「この道」(=キリスト教 使徒24:14)を歩んでいけばよいのか、がよく分からなかったということがあります。この点を察知していたパウロはすぐ後で、キリスト者の自由(Ⅰコリント6:9-20)について説き明かしています。「律法」に基礎づけられた倫理規定を明示するよう急がねばならないと、自省したに違いありません。
自分の「体」をどのように用いるかは自分が決めるのではありません。「聖霊の住まいである体」(Ⅰコリント6:19)との観点から、自分も教会の一つの肢であるが故に、それにふさわしい清さを保たねばなりません。自分の「体」は、主イエス・キリストの復活の力にあずかって、よみがえらされる、尊いものなのです。
ここで、こうした新たに確立されつつあるキリスト教の倫理規定について学ぶということ以上に大切なことがあります。それは、「ある人」が違反を起こしたときに、どのように「あなたがた」が対処すべきか、教えているパウロの語り方とその内容です。「ある人」の性的不品行の罪を定め、処罰して、ハイ終わりというものではありません。むしろ、「あなたがたの間に」起こった事件を通して、一人ひとりが自らを省みる機会となるように、とパウロは願っています。
「それにもかかわらず、あなたがたは高ぶっているのか。むしろ(あなたがたは)悲しんで……」というように、パウロはしっかりとコリント教会の人々の内面を見つめています。ここに、「ある人」への怒りは言及されていません。というのもパウロは、怒りが教会中に蔓延する先に、コリント教会に明るい将来が来ないのを知っているからです。
「あなたがた」が悔い改めるべきは、「高ぶり」です。主を誇るよりも、自分自身を、自分の知恵や力を誇っているところに、パウロは罪の巣窟を見ています。
パウロは懇切にも、どのような心持ちで、「異邦人の間にもないほどのみだらな行い」に向き合えばよいかを教えています。それが、「(あなたがたは)悲しんで」ということです。ここに、嘆き悲しむ時を持つことが推奨されています。怒っただけでは、その「みだらな行い」はすぐに忘れられかねません。
そうではなく、「みだらな行い」という罪過を、他人事ではなく、自らのものとして受け止めるのです。そうして、「聖霊の住まいである体」、コリント教会全体が「悲しんで」、一人の兄弟が立ち直るのを待ちます。嘆き悲しみの中にこそ、罪を犯した、キリストにある兄弟に寄り添う想いが現されます。
最後にパウロは、「こんなことをする者を自分たちの間から除外すべきではなかったのですか」と問いかけています。「神の慈愛と峻厳とを見よ」(ローマ11:22)との命令のもとに、「あなたがた」はどのように「ある人」を「除外すべき」なのか、見ていくことにしましょう。
「高ぶる」ことを戒める文脈において、パウロは次のように語りました……「こんなことを書くのは、あなたがたに恥をかかせるためではなく、愛する自分の子供として諭すためなのです」(Ⅰコリント4:14)。この度「みだらな行い」を犯した人も、パウロにとって「愛する自分の子供」の一人です。だからこそ、「神の峻厳のみならず慈愛」がキリストの体全体に現されるよう、パウロは祈っています。
Ⅱ その肉が滅ぼされるようにサタンに引き渡した
コリントの信徒への手紙 一 5:3-5――
3 わたしは体では離れていても霊ではそこにいて、現に居合わせた者のように、そんなことをした者を既に裁いてしまっています。4 つまり、わたしたちの主イエスの名により、わたしたちの主イエスの力をもって、あなたがたとわたしの霊が集まり、5 このような者を、その肉が滅ぼされるようにサタンに引き渡したのです。それは主の日に彼の霊が救われるためです。
パウロは決して傍観者ではありません。「みだらな行い」を犯した兄弟に寄り添っています。
「現に聞くところによると」、と謙遜に抑制しつつも、「現に居合わせた者のように」、率直に発言しています。「そこ(コリント教会)にいて」というパウロの「霊」において文字通り、彼は「霊的なものによる霊的な説明」に依り頼んでいます(Ⅰコリント2:13)。
従って、「(わたしは)そんなことをした者を既に裁いてしまっています」との判断は、聖霊の導きに従って下されたものと言えます。そこに、一寸の曖昧さもありません。なおかつ、パウロはそのような裁きが、「主イエスの名」のもとに(リモートながら)集まった「あなたがたとわたしの霊」の判断であると宣言しています。そのようにしてパウロは、コリント教会の土台を据えたキリスト者としての責務を果たしています。
「主イエスの名」によって、密接に「あなたがたとわたしの霊」が結び合わされました。そのようにして召集された人々の内には、存分に「主イエスの力」が働いています。「こんなことをする者を自分たちの間から除外すべきではなかったのですか」(Ⅰコリント5:2)との難問に対する回答を、二つに分けて読んでみましょう。それによって、「そんなことをした者を既に裁いた」(同上5:3)というパウロの真意も明らかになります。①と②を対比して並べると……
このような者を、その肉が滅ぼされるようにサタンに引き渡したのです。
それは主の日に彼の霊が救われるためです。
①の〈裁き〉は、「サタンに引き渡した」というように、既に遂行されています。「わたしは体では離れていても」との表現と異なり、ここでは、「その肉」という用語が使われています。すなわち、「滅び」に瀕しているのは、人間の「体」や「霊」ではなく、「その肉」です。
罪に染まっている人間の状態を表すのが、「肉」という言葉です。それは、パウロによる「肉」の用法を見れば、すぐに確認できます……「肉と血は神の国を受け継ぐことはできず、朽ちるものが朽ちないものを受け継ぐことはできません」(Ⅰコリント15:50)、または、「つまり、罪を取り除くために御子を罪深い肉と同じ姿でこの世に送り、その肉において罪を罪として処断されたのです」(ローマ8:3)。
終わりの時に向けて、「サタン」は人間の「高ぶり」や欲望につけ入り、この世にねたみや争いを巻き起こそうとします。そのような「サタン」の誘惑に陥って、つまずいてしまった人は、罪に染まった「肉」を身にまとうことになります。
そこで、「異邦人の間にもないほどのみだらな行いで、ある人が父の妻をわがものとしている」という罪が確証された、その人に、「その肉が滅ぼされるようにサタンに引き渡した」という罰が執行されたのです。ということは、「自分たちの間から除外」した、すなわち、コリント教会から除名することが決議されたのです。
「はい、除外します」が問いへの回答でありますが、これにはその先がありました。
②〈裁き〉から〈救い〉へ――
ところが、「主イエスの名」によって「あなたがたとわたしの霊」が召集されたときに、「主の日に彼の霊が救われるであろう」との希望を一同共有した、と述べられています。皆さんは、「その肉が滅ぼされるようにサタンに引き渡した」というような人物に、立ち直るチャンスが与えられているのに、驚かれるでしょうか。だったら、除外・除名などわざわざしなくても、と戸惑われるでしょうか。
そこで、パウロが「それは主の日に彼の霊が救われるためです」と書き表した理由を、二つに絞って掲げましょう。
一つは、主イエス・キリストの十字架と復活による救いが、人の思いをはるかに超えているということです。十字架の血潮は、罪に染まっている人間を洗い清めます。主イエスは愛と正義をもって、罪を繰り返している者が帰って来るのを待っておられます。「サタン」の闇に呑み込まれる寸前、ようやく悔い改める者にも、罪の赦しを与えられます(ルカ24:47)。
もう一つは、最初のことの言い換えともなりますが、わたしたち一人ひとりのために準備されている「神の秘められた計画」(Ⅰコリント2:7)への畏れであります。この畏れによって、大罪を犯した人間の将来が「神の秘められた計画」の下にゆだねられたのです。この点において、先走って裁くことが差し控えられました(同上4:5)。現在のところの除外・除名が、「あなたがたとわたしの霊」が提示し得る、いわば境界線で、その先・その将来には踏み入らなかったのでしょう。
パウロの「神の慈愛と峻厳とを見よ」(ローマ11:22)との名言・誕生の内には、コリント教会の伝道牧会の体験がひそんでいるのではないでしょうか。真の喜びと悲しみを知る人が、神と出会い、その御姿を映しだしたのです。
付け加えれば、主イエス・キリストの救いと「主の日」への畏れとが、パウロの信仰の基盤になっているのは、これまでにも証言されていました。
コリントの信徒への手紙 一 3:13-15――
13 おのおのの仕事は明るみに出されます。かの日にそれは明らかにされるのです。…… 14 だれかがその土台の上に建てた仕事が残れば、その人は報いを受けますが、15 燃え尽きてしまえば、損害を受けます。ただ、その人は、火の中をくぐり抜けて来た者のように、救われます。
この箇所では、「かの日」と暗示されていますが、概ね、「主の日」、すなわち、キリストの再臨の日を指していると見られます。「火の中をくぐり抜けて来た者のように、救われます」という「その人」は、コリント教会の「未熟な建築家」(比較:Ⅰコリント3:10)のことです。コリント教会を建てつぐ「その人」が、「木、草、わら」(火の中で完全に燃えてしまう資材)を混ぜ込むのには、パウロもほとほと困ったことでしょう。「その人」は早く建て上げよう、と焦っていたのでしょうか。それでは、たとえ「土台」自体が頑丈であっても、風雨や洪水に遭い、「倒れて、その倒れ方がひどかった」という結末に至ります(マタイ7:24-27)。
しかし、パウロはこう言い切っています。「その人」は、「損害を受ける」、すなわち、神の裁きによって罰を受ける、がしかし、「火の中をくぐり抜けて来た者のように、救われるでしょう」。「その人」には「火の中」の試練を耐え抜く力が残されていました。これこそ、「神の慈愛」、主イエス・キリストによる赦しと言う以外にありません。
Ⅲ 古いパン種をきれいに取り除きなさい
コリントの信徒への手紙 一 5:6-7前半――
6 あなたがたが誇っているのは、よくない。わずかなパン種が練り粉全体を膨らませることを、知らないのですか。7 いつも新しい練り粉のままでいられるように、古いパン種をきれいに取り除きなさい。
パウロが、「みだらな行い」を犯した人の問題を、広い視野に立って論じてきました。コリント教会全体が見渡される中で、「あなたがた」の「高ぶり」が叱責され、「あなたがたとわたしの霊」との霊的集会の判断(除外・除籍)が提示されました。
このように、コリント教会全体の問題として、一個人の不品行を掌握することには、理由があります。それが、「わずかなパン種が練り粉全体を膨らませる」との諺に示されています。
パウロは、「みだらな行い」を犯した人の問題に関して、「サタンへのその肉の引き渡し」、ならびに、主が来られるという「主の日における救い」の御業を昭示しました。そこで残された課題は、コリント教会の牧会者として、どのように悲しみ嘆き、傷を負っている(実際には高ぶってのほほんとしているような)信徒たちを励まし導くか、ということでありました。
さて、パウロは全体を透視する観点から、「わずかなパン種が練り粉全体を膨らませる」との諺を引き合いに出しました。これは良い意味にも悪い意味にも取れそうですが、前後関係から、「わずかなパン種」は一人の「みだらな行い」を指していると同時に、取り除くべき「古いパン種」を意味している、と分かります。
つまり、ここでの意味合いから、同類の諺として、「一桃腐りて百桃損ず」または「腐ったリンゴは傍らのリンゴを腐らせる」が挙げられます(参照:ホセア書7:8前半)。「みだらな行い」はじめ、高ぶり・ねたみ・争いなどは、人から人へ、またたく間に伝染していきます。「あなたがたが高ぶっている」ならびに「あなたがたが誇っている」ことへの非難が「全体を膨らませる」との一句に込められています。
むしろ、キリスト者に望まれるのは、主イエス・キリストに倣って、へりくだることです。教会の指導者も信徒一人ひとりも、主に忠実に仕えることが、礼拝と日常生活の原点です。互いに助け合う人々の間に、「誇り」がはびこるはずはありません。
そこでパウロは、「いつも新しい練り粉のままでいられるように、古いパン種をきれいに取り除きなさい」と勧めています。「古い」と「新しい」との対句にご注意ください。
一方、「古い」というのは、罪に染まっている人間の状態を、他方、「新しい」というのは、主キリストの贖いによって潔められた状態を指しています。だから、「みだらな行い」はじめ、あらゆる罪過は「きれいに取り除かねば」なりません。
今パウロはコリント教会の人々にもなじみある、「わずかなパン種が練り粉全体を膨らませる」との諺を掲げました。そうしてパウロは、一個人の不品行からコリント教会全体〈新しい練り粉〉の集中すべきことへと主題を転じようとしています。その帰結が、「純粋で真実のパンで過越祭を祝おう」とのメッセージになります。そこでまず、「過越祭」とはどんなものか、旧約聖書をひもといてみましょう。
Ⅳ 七日の間、酵母を入れないパンを食べねばならない
出エジプト記13:3-7――
3 モーセは民に言った。「あなたたちは、奴隷の家、エジプトから出たこの日を記念しなさい。主が力強い御手をもって、あなたたちをそこから導き出されたからである。酵母入りのパンを食べてはならない。4 あなたたちはアビブの月のこの日に出発する。5 主が、あなたに与えると先祖に誓われた乳と蜜の流れる土地、カナン人、ヘト人、アモリ人、ヒビ人、エブス人の土地にあなたを導き入れられるとき、あなたはこの月にこの儀式を行わねばならない。6 七日の間、酵母を入れないパンを食べねばならない。七日目には主のための祭りをする。7 酵母を入れないパンを七日の間食べる。あなたのもとに酵母入りのパンがあってはならないし、あなたの領土のどこにも酵母があってはならない。
「七日の間、酵母を入れないパンを食べねばならない」
「過越祭」というのは、「七週祭」(出エジプト記34:22)、「仮庵祭」(レビ記23:34)と並んで、イスラエルの三大祭に数えられます。「アビブの月」(西暦の3月-4月)の「十四日の夕方からその月の二十一日の夕方まで」(同上12:18)が「過越祭」の期間となります。「過越祭」は「除酵祭」(同上12:17)とも呼ばれています。
一つは、「十四日の夕方」に、「イスラエルの共同体の会衆が傷のない一歳の雄の小羊を屠る」ことです。そして、「その血を取って、小羊を食べる家の入り口の二本の柱と鴨居に塗り」ます(出エジプト記12:6-7)。
もう一つは、「十四日の夕方から二十一日の夕方まで、酵母を入れないパンを食べる」(出エジプト記12:18)ことです。「酵母を入れないパンを七日の間食べる」のを徹底するために、「あなたのもとに酵母入りのパンがあってはならないし、あなたの領土のどこにも酵母があってはならない」と定められています。
現代のイスラエルにおいても、「古いパン種が」、すなわち、「酵母がきれいに取り除かれる」ように、「パン種除き」は慣習化されています。
「毎年、この祭日に先立ってペサハ(過越祭)用の特別な洗剤が売り出され、家の中ではスプーンから鍋まであらゆる食器が大釜の煮えたぎる湯の中に入れられて、煮沸消毒されます。日本の梅雨明けを思い浮かべるまでもなく、湿潤な冬を終えるにあたり、カビ臭くなった家中のものを洗い浄めるのは、まことに気候に順応した習慣といえるでしょう。」 小河信一著『聖書の時を生きる』、教文館、157頁
このようにして、人々は労苦して家の中から「パン種」を取り除きます。そして、七日の間、味気ない「酵母を入れないパン」を食べます。
一個人の不品行からコリント教会全体の問題へ、円滑に展開するために、祝い方において二つの特徴を持つ「過越祭」が援用されました。やや論理的な飛躍を感じられる向きもあるかも知れませんが、新しく正しい教会論を打ち建てるためにも、それは的確なことでありました。教会指導者の少なからずがスルーしたくなるような近親相姦事件から、このような帰結を導き出すパウロのしたたかさには感服させられます。というよりも、「異邦人の間にもないほどのみだらな行い」を現に聞かされて、「霊的なものによる霊的な説明」を施すと、こうなりますという実例なのでしょうか。
Ⅴ 純粋で真実のパンで過越祭を祝おう
コリントの信徒への手紙 一 5:7後半-8――
7 現に、あなたがたはパン種の入っていない者なのです。キリストが、わたしたちの過越の小羊として屠られたからです。8 だから、古いパン種や悪意と邪悪のパン種を用いないで、パン種の入っていない、純粋で真実のパンで過越祭を祝おうではありませんか。
さすがにパウロは旧約聖書に通じたユダヤ人です。「過越祭」の祝い方の大きな特徴二つを踏まえて論理展開しています。言わずもがなではありますが、旧約聖書に基づいているということは、“ 霊 ” 的に説得力が十分あるということです。
「現に、あなたがたはパン種の入っていない者なのです」……この一文をもって、一体キリスト者とは、どんな人物なのかが、規定されています。すなわち、その人の「霊」と「体」からは、「悪意と邪悪」を含有する「古いパン種」が取り除かれているということです。神の恵みによって、その人の罪の汚れは洗い清められました。
そしてパウロはその神の恵みについて、主イエス・キリストの十字架と復活の御業を示唆する形で、「キリストが、わたしたちの過越の小羊として屠られたからです」と述べました。すでに、神がわたしたち・罪人に先行して、無償で大いなる救いを成し遂げられました。
キリスト者が祝う新しい「過越祭」、すなわち、復活祭において、「パン種の入っていない、純粋で真実のパン」は、どのように用意されるのでしょうか?
ユダヤ教の「過越祭」においては、「酵母入りのパン」を片づけるのに手間はかかりますが、「酵母を入れないパン」を作るのは容易です。ここで、パウロのいう「パン種の入っていない、純粋で真実のパン」に関しては、復活祭はじめ主日礼拝で執り行う聖餐式の「パン」との類比で考えるのが適切です。
そこでまず、「現に、あなたがたはパン種の入っていない者なのです」という状態を維持するためには、どうすればいいか、考えてみましょう。キリスト者の「霊」と「体」が潔められるには、主イエス・キリストから「パン」を食べさせていただかねばなりません。主イエスがわたしたちに差し出してくださるのは、「純粋で真実のパン」に違いありません。その時、わたしたちは「古いパン種や悪意と邪悪のパン種を用いない」との決心を新たにします。
それで、主イエスが分かち与える、その「純粋で真実のパン」とは……。十字架上で血を流され、裂かれた主イエス・キリストの「体」であります。聖餐式で、司式者が「パン」を掲げて、「これは、あなたがたのための主イエス・キリストの体です」(Ⅰコリント11:24)と告知している通りです。それは、「信仰をもってこのパンを味わいなさい」(参照:詩編34:9)との招きの言葉でもあります。
従って、「パン種の入っていない、純粋で真実のパンで過越祭を祝おうではありませんか」とのパウロからコリント教会への勧めは、この祭りのために、その身を献げられた主イエス・キリストの呼びかけにほかなりません。
「キリストが過越の小羊として屠られた」というように、主イエス・キリストの十字架と復活の御業によって、新しい「過越祭」が設立されました。
自力で取り除くのではなく、神の愛と “ 霊 ” の力によって、「悪意と邪悪のパン種」が消え去ります。そうして、わたしたちはキリストを身にまとい、清くされます。「高ぶり」や「誇り」によって、教会「全体を膨らませて」、破滅させることはありません。
わたしたち・信仰者が為すべきは、この新しい「過越祭」、すなわち、復活祭をはじめとする主日礼拝を、キリストの支配される「祭り」として祝い続けることです。これこそ、子供たちに、次の世代に語り伝え、継承していかなければならない「祭り」です。 W
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月報7月号
『 御言葉を聞いて受け入れる人たち 』
マルコによる福音書 4章10節~20節 小河信一 牧師
説教の構成――
序
Ⅱ この民の心をかたくなにし 耳を鈍く、目を暗くせよ
……マルコ4:12 + イザヤ書6:9-10
Ⅲ 迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう
……マルコ4:13-19
序
主イエスは「舟に乗って腰を下ろし」、湖畔に集う群衆に向かって、一つのたとえ話を語られました(マルコ4:1)。その「種蒔き」の話は、人々が野外で耳を傾けるにふさわしい内容であり、また、広い観点からは、「神の国」のたとえ話に属するものでありました(マルコ1:15、4:11)。
さて、主イエスは、「種蒔き」の「たとえ」について解説されます(Ⅲ・Ⅳでは、それをマルコの教会の説教として取り扱います)。初めに、「たとえ」に関する総論が提示され、次に、「種蒔き」のたとえが説明されます。主イエスがたとえを物語られた(マルコ4:3-8)後に、説明を加えられるのは、稀なことです。他には、「毒麦のたとえ」が挙げられます(たとえ マタイ13:24-30 → 説明 13:36-43)。
「たとえ」の本文を聞いたとしも、分からないことや質問したいことも出てくることでしょう。その点で、主イエスご自身が解説してくださるのは、大いに助かります。「聞く耳のある者は聞きなさい」(マルコ4:9)との警告を胸に、「“霊”による霊的な説明」(Ⅰコリント2:13)に耳を傾けましょう。
Ⅰ あなたがたには神の国の秘密が打ち明けられている
マルコ福音書4:10-11――
1 イエスがひとりになられたとき、十二人と一緒にイエスの周りにいた人たちとがたとえにつ いて尋ねた。2 そこで、イエスは言われた。「あなたがたには神の国の秘密が打ち明けられているが、外の人々には、すべてがたとえで示される。」
さあ、注目の、主イエスによる「たとえの集中講義」が始まります。「十二人と一緒にイエスの周りにいた人たち」が招き入れられました。やがて、「おびただしい群衆」(マルコ4:1)にも、その要旨が伝えられることでしょう。
「十二人」弟子は今、任命されたばかりです(マルコ3:13-19)。主イエスのそばに置かれた途端に、騒動が起こりました。突然、主イエスの身内やエルサレムから下って来た律法学者たちに取り巻かれました。そこで、内輪もめ(同上3:26)を惹き起こすという陰謀が仕掛けられました(参照:ベルゼブル〔悪霊の頭〕問答 同上3:20-30)。それは、発足したばかりの弟子集団に向けられた、悪魔の誘惑でありました。弟子の中には、一瞬つまずきそうになった人もいたかも知れません。「自分の身内が自分を取り返しにやって来たら……」などと。
危うい道を行く弟子たちにとって、主イエスの「言葉」(マルコ4:14,20)こそが、彼らの「歩みを照らす灯」(詩編119:105)でありました。そこで、主イエスはまず、「たとえ」そのものについての問いに答えられます。
「あなたがたには神の国の秘密が打ち明けられているが、外の人々には、すべてがたとえで示される」……この文章の趣旨を言い換えましょう。すなわち、「たとえ」には「神の国の秘密」が隠されている、従って、「外の人々」は「神の国の秘密」の真意を汲み取らなければならない、ということです。
同時に、わたしたちが自らの事として問い尋ねたいのは、次のことです。すなわち、「あなたがたには神の国の秘密が打ち明けられている」と言われている弟子たちは、「神の国の秘密」を“霊”の導きによって理解しているのか、ということです。つまり、主イエスの言葉を先取りすれば、弟子たちが「御言葉を聞いて受け入れる人たち」(マルコ4:20)になっているかどうか、が問われています。もし、その答えが「いいえ」だとすれば、彼らもまた、「外の人々」、信仰の不十分な者ということになります。
その点を踏まえれば、たとえの「説明」は、「外の人々」のみならず、弟子たちにも向けられているのであります。その説明を聞く前に、「外の人々には、すべてがたとえで示される」ことにまつわる旧約からの引用を読み取りましょう。
イザヤ書6:9-10――
9 主は言われた。
「行け、この民に言うがよい
よく聞け、しかし理解するな
よく見よ、しかし悟るな、と。
10 この民の①心をかたくなにし
②耳を鈍く、③目を暗くせよ。
悔い改めていやされることのないために。」
それは、
『彼らが❸見るには見るが、認めず、
❷聞くには聞くが、理解できず、
ようになるためである。」
このような旧約から新約への引用によって、主イエスが何を言おうとしているのか、整理してみましょう。
まず、今の主題が、「神の国の秘密」であることを念頭に置きましょう。「人々を恐れてはならない。覆われているもので現されないものはなく」(マタイ10:13)との主イエスの警告は、この「神の国の秘密」にも適用されます。すなわち、その「秘密」はすでに「打ち明けられて」います。というのも、「時は満ち、神の国は近づいた」(マルコ1:15)と宣べ伝える主イエスご自身が、ガリラヤの群衆の間に臨在されているからです。
主イエスは御業と御言葉をもって、つき従う者たちに、「神の国の秘密を打ち明け」ます。とりわけ、「神の言葉」(マルコ4:14、フィリピ1:14)の宣教を重んじられています。「種蒔き」のたとえが最初に語られ、説明が加えられているのも、そのためです。
そこで、「神の国の秘密」との主題と共に確認すべき、必須の事柄があります。それが、たとえを「聞く」者の態度であります。そのためには、入念な吟味が欠かせません。預言者イザヤは、❶心で理解する、❷耳で聞く、❸目で見るとの告知をもって、当時の頑なな民に悔い改めを迫っています。
御言葉の宣教からすれば、「❷耳で聞く」だけでも良さそうですが、さすがにイザヤは、神に聖別された預言者です。「❶心」と「❸目」を合わせて、全身全霊を集中して「聞くのに早い」態勢(ヤコブ1:19)ができているか、を点検しています。
そうした、主題「神の国の秘密」と「聞く」者の態度を、前提として、「それは……ようになるためである」(マルコ4:12)の要点を押さえましょう。
主イエスは「たとえでいろいろと教えられ」ようとしておられます(マルコ4:2)。そこで、「❸目で見ることなく、❷耳で聞くことなく、その❶心で理解することなく」という民の頑なさが露わになります。
そのことはまさに、「種蒔き」のたとえ自体に暗示されています……「ある種は道端に落ち……、ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち……、ほかの種は茨の中に落ちた」(マルコ4:4-7)。原因はいろいろですが、実を結ばないのは結局、土地が良い状態に保たれていないからです。そこには、害鳥、日照り、雑草などに対処する力がありません。
「聞く耳のある者は聞きなさい」(マルコ4:1)という「聞く耳」が良い状態に保たれるというのも、それと同じことです。そのためにまず、自分が元来、心の頑なな者を認めることです。そして、「“霊”による霊的な説明」が受け入れられるように、主に「立ち帰って赦される」ことです。そうすれば、わたしたちの信仰は、「たとえでいろいろと教えられ」、「神の福音が宣べ伝えられて」(マルコ1:14)、驚くほどに成長していきます。
そうすれば、「秘密」として「覆われていたものが現される」ようになります。そのことがまさに、「神の富」(ローマ11:33)を宿している、「信仰に成熟した人」(Ⅰコリント2:6)の内に起こり続けているのでありましょう。
主イエスは人間の頑なさを直視して、「種蒔き」のたとえを説き明かされます。たとえ本文の「ある種は道端に落ち……、ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち……、ほかの種は茨の中に落ちた」(マルコ4:4-7)に相当する部分を読んでみましょう。
Ⅲ 迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう
マルコ福音書4:13-19――
13 また、イエスは言われた。「このたとえが分からないのか。では、どうしてほかのたとえが理解できるだろうか。14 種を蒔く人は、神の言葉を蒔くのである。15 道端のものとは、こういう人たちである。そこに御言葉が蒔かれ、それを聞いても、すぐにサタンが来て、彼らに蒔かれた御言葉を奪い去る。16 石だらけの所に蒔かれるものとは、こういう人たちである。御言葉を聞くとすぐ喜んで受け入れるが、17 自分には根がないので、しばらくは続いても、後で御言葉のために艱難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう。18 また、ほかの人たちは茨の中に蒔かれるものである。この人たちは御言葉を聞くが、19 この世の思い煩いや富の誘惑、その他いろいろな欲望が心に入り込み、御言葉を覆いふさいで実らない。」
この「説明」には、主イエスの死からおよそ40年後の時代状況が反映されていると言われます。すなわち、マルコがこの福音書を書いた時(紀元後60年代後半 場所はシリアか)、教会はどのように伝道していたか、あるいは、どのような迫害に遭っていたか、ということが暗に物語られています。
言い換えれば、マルコが、主イエスの語った「種蒔き」のたとえを、「説明」・説教していることになります。現代に生きるわたしたちの教会にとってもそうですが、主イエスの「言葉」(マルコ4:14)を、今の生活の中で説き明かすことは、とても重要です。たとえの本文と引き比べながら、「説明」の要点をつかみ取りましょう。本文が引き延ばされている箇所に注目すれば良いので、ご一緒にじっくり見ていきましょう。
まず、たとえの冒頭に着目しましょう。「種を蒔く人が種蒔きに出て行った」(マルコ4:3)が「種を蒔く人は、神の言葉を蒔くのである」に変わっています。これは見逃せない「説明」です。
「種を蒔く人」は固定されていますが、「種蒔き」が「神の言葉を蒔く」と言明されています。そこから、「蒔かれたもの」=「神の言葉」、そして、それが「蒔かれた土地」=「人間」という理解の仕方が見えてきます。そこからまた、わたしたちは、主イエスから「神の福音を宣べ伝え」られた群衆(マルコ1:14)が、「神の言葉」を聞き、それを実践する教会になっていったことを知らされます。
「神の言葉」を聞くとの観点に立って、「蒔かれた土地」=「人間」との設定を掘り下げると、こうなります。すなわち、「蒔かれた土地」が良い状態に保たれているのと並行して、「聞く耳」が良い状態に保たれているとは、どういうことかが、マルコの“霊”的な洞察によって示されるということです。
④に当たる「御言葉を聞いて受け入れる人たち」(マルコ4:20)の前に、①道端のもの⇒②石だらけの所に蒔かれるもの⇒③茨の中に蒔かれるもの……というように、「肉の人」・「ただの人」(普通の人間 アンスローポス Ⅰコリント3:3)の悪例が列挙されています。たとえの原典に即した、巧みな説教です!
初めに、たとえの本文が改変されている重要な点について、言及しましょう。
「蒔いている間に、ある種は道端に落ち……」(本文 マルコ4:4)
「種を蒔く人は、神の言葉を蒔くのである」(説明 マルコ4:14)
一方、たとえの本文では、「種は落ちた」(マルコ4:4,5,7,8)というように、「種を蒔く人」の意図とはかけ離れて、生育上好ましくない土地に、種が落下したように描かれています。他方、たとえの説明では、「種を蒔く人」が生育の願いを込めて慎重に「種を蒔いた」(マルコ4:15,16,18,20)ように描かれています。
「種を蒔く人は、神の言葉を蒔く」という仕方(言い換えれば伝道)は、①「道端」、②「石だらけの所」、③「茨の中」、④「良い土地」、どんな土地においても一貫しています。それによって、「種を蒔く人」の忍耐強さとスケールの大きさ(マルコ4:20,24-25)が昭示されています。
マルコの教会は、そのような「説明」の工夫を通して会衆に、「種を蒔く人」なる主イエス・キリストがどのようなお方であるのか、を伝達しようとしています。その会衆は、教会が設立されたばかりということもあって、苦難に遭っているという難題を抱えています。
それ故に、たとえの「説明」では、①「道端」に、②「石だらけの所」に、そして③「茨の中」に「蒔かれたもの」に対し、その苦難を受け止めつつ、いかに励ますか、ということが課題になります。そで、宣教が行き詰まっている、その根本原因に光が当てられます。
①「すぐにサタンが来て、彼らに蒔かれた御言葉を奪い去る」(マルコ4:15)
②「自分には根がないので、しばらくは続いても、後で御言葉のために艱難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう」(マルコ4:17)
③「この世の思い煩いや富の誘惑、その他いろいろな欲望が心に入り込み、御言葉を覆いふさいで実らない」(マルコ4:19)
明らかに視点が、種が落ちた土地から、神の言葉が蒔かれた人間へと、移行しています。わたしたち・キリスト者が置かれている状況がそうであるように、「神の言葉」なる種が芽生えなかったり、枯死したりするのは、人間の内面的な罪性とそれを取り巻く「艱難や迫害」、双方に起因しています。
「神の言葉」を蒔かれたもの、すなわち、求道者や信仰者は、「種を蒔く人」なる主イエス・キリストの支配のもとにありながらも、自分の「思い煩いや欲望」を省み、「艱難や迫害」を乗り越えてゆかねばなりません。そこで、「神の言葉」によって、④「良い土地に……」が説き明かされます。
Ⅳ 御言葉を聞いて受け入れる人たち
「良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて受け入れる人たちであり、ある者は三十倍、ある者は六十倍、ある者は百倍の実を結ぶのである。」
確かに、マルコの教会の人々は、「聞く耳のある者は聞きなさい」(マルコ4:9)との主イエスの勧めを心に納めていたことでしょう。しかし、マルコはじめ教会の伝道者は、「聞くには聞くが、理解できず」(同上4:12)との人間の頑なさに直面していました。それが、一筋縄では行かない課題であると知らされていました。ですから、たとえの「説明」では、細心の注意を払って、人間の内面性と外敵とが巡視されました。
「種を蒔く人は、神の言葉を蒔くのである」……主イエス・キリストなる「種を蒔く人」が、人間の心の包皮(頑なさの象徴)を取り払って(エレミヤ書4:4)、「神の言葉」を植え付けられます。主イエスが主体的に、愛と力をもって、わたしたちのために働いてくださいます。へりくだって、罪人や貧しい者に仕えてくださいます。これは、まさに、神の恵みの出来事です。
人間に求められているのは、ひらすらに「御言葉を聞いて受け入れる」ことです。良く「聞いて受け入れる」のは、わたしたちの実力ではなく、神からの賜物です。
結びの「ある者は三十倍、ある者は六十倍、ある者は百倍の実を結ぶのである」とは、一体どういうことなのでしょうか。それは、「御言葉を聞いて受け入れる人たちの内で、神の言葉が三十倍、六十倍、百倍と、増し加えられて実を結ぶ」ということだと考えられます。聖霊の導きによって、福音の核心〈主イエス・キリストの十字架と復活〉が押さえられつつ、それが、日頃の自分たちの言動の指針となっていくということです。
では、「神の言葉が増し加えられて、豊かに実を結んで」、一体、何のためになるというのでしょうか。それこそ、主イエス・キリストを信じる者によって、「神の栄光」が現されるということです。
「神の栄光」を現す信仰者は、御言葉を「更にたくさん与えられて」(マルコ4:24)、いよいよ深くキリストと隣人を愛するようになるでしょう。
W
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〈説教原稿〉
2024年 7月21日
聖書 新約・ヨハネによる福音書6:22~27、旧約・列王記上17:8~16
説教 「永遠の命に至る食べ物のために」田村博(茅ヶ崎教会)
説教要旨
1)イエスを捜し求めて
五千人以上もの人々がパンと魚を食べて満腹した(6:1~13)。すべての共観福音書もその事実をしっかりと伝えているが、ヨハネ福音書は、その事実に続けて、人々の反応、そして主イエスの御言葉をかなり詳しく伝えている(6:22~71)。そこで際立っているのが、人々が真剣に主イエスを追いかける様である。しかも主イエスの噂を聞き及んでであろうか、小舟に乗って到来した新たな人々までもが捜索の輪に加わろうとしている。わたしたちが暮らす現代社会でも、SNSを用いた宣伝によって、全くの無名であった人物が、短時間で何十万という「フォロワー」を生み出すという現象がある。主イエスは「人々が来て、自分を王にするために連れて行こうとしているのを知り、ひとりでまた山に退かれた。」(6:15) 主イエスには、一点のブレも一切の妥協もない。
2)しるしを見るとは
群衆の目は、五千人以上もの人々を満腹させた主イエスに注がれていた。主イエスが弟子たちと共に舟に乗らなかったことも見逃さなかったゆえ、どのようにして湖の向こう岸にたどりついたのか大いに不思議に思った。主イエスは、その彼らに対して、本当に見るべきところを見ていないと「はっきり言っておく」という言葉と共に指摘された。主イエスの「感謝」(6:11、23)は、主なる神としっかりと結びついていて離れることはない。五千人以上もの人々の満腹という出来事は、主なる神の御心と深く深く結びついている。すなわち「永遠の命」(6:27、40)である。ここからはずれているならば、どんなに目を皿のようにして主イエスを見つめ、追いかけていたとしても一切が無駄となってしまいかねない。
3)イエスが与える食べ物
主イエスが「あなたがたに与える食べ物」(6:27)がある。主イエスは、より具体的に、その「食べ物」について話された(6:28~59)。主イエスの「血」、主イエスの「肉」を食することは、イスラエルの民にとってありえないことだった(創9:4、レビ17:10~12)。主イエスは、律法を破るようにと勧めているわけではない。神の独り子の「死」というありえないことによって、そのままでは「朽ちる」ほかない「命」が、「永遠の命」とつながる。それは、父なる神によってはっきりと「認証」(6:27)された事実である(27節の塚本訳「神なる父上が、(これ〈=永遠の命〉を与える)全権を人の子に授かられたのだから。」)。わたしたちはここに目を注ぎ続ける。
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〈説教の要約〉
2024年 7月14日
聖霊降臨節 第9主日
旧約聖書 エレミヤ書 7章8節(P.1188)
新約聖書 ルカによる福音書 4章31節~37節(P.108)
説 教「その言葉には力があった」 小河信一牧師
説教の構成――
序
Ⅱ ああ、ナザレのイエス、かまわないでくれ
……ルカ4:33-34
……エレミヤ書7:8
序
一体、主イエス・キリストはどのようなお方であるのか、その答えが本日のテキストに物語られています。荒れ野の中からガリラヤ地方を巡って行かれた主イエスは、安息日、会堂にその御姿を現されます。それぞれの出来事とそのつながりに留意しながら読みましょう。
せっかくの機会ですから、「そこで、敬愛するテオフィロさま、わたしもすべての事を初めから詳しく調べていますので、順序正しく書いてあなたに献呈する」(ルカ1:3)という著者ルカのテクニックをご紹介します。
ここでは、ガリラヤ伝道の初期を取り扱った文章の構成に着目してみます。ガリラヤ伝道全体には、ルカ4:14-9:50が該当します。その初期の様子を、ルカ4:14-41によってたどってみましょう。出来事を「順序正しく書いて」といっても、無味乾燥にではなく、非常に劇的に物語られています。
準備 荒れ野の誘惑 ルカ4:1-13
① 導入のための要約――“霊”の力に満ちた宣教 ルカ4:14-15
② 安息日、ナザレの会堂にて ルカ4:16-30 〈スタートでつまずく〉
故郷の人々に受け入れられなかったため、ガリラヤ湖畔へ
③ 安息日、カファルナウムの会堂にて ルカ4:31-37 〈つまずいても、すぐに立ち上がる〉
④ 悪霊の追放と病気のいやし ルカ4:33-35,38-41
ストーリー展開が、これほどまでに精巧に組み立てられていたのか、と驚かれるでしょうか。さすがに、ルカ福音書(24章)―使徒言行録(28章)もの長編に挑むだけのことはあります。読み手をわくわくさせながら、信仰の世界に導き入れていきます。「御言葉によって罪の赦しを教える⇒悪霊を追い出し、病気をいやす」(参照:マルコ2:1-12)という信仰の基本線も踏襲されています。
それでは、わたしたちに向けて、〈つまずかされそうになっても、すぐに立ち上がりなさい〉とのメッセージが示されている箇所(③と④)を見てみましょう。
Ⅰ その言葉には権威があった
ルカ福音書4:31-32――
31 イエスはガリラヤの町カファルナウムに下って、安息日には人々を教えておられた。
32 人々はその教えに非常に驚いた。その言葉には権威があったからである。
主イエスは“霊”によって引き回されて、荒れ野の誘惑を受けられました。そして今、“霊”の力に満たされて、「ガリラヤの町カファルナウムに下って」行かれました。
主イエスは「はっきり言っておく。預言者は、自分の故郷(ナザレ)では歓迎されないものだ」(ルカ4:24)と告知されているように、その滑り出しから伝道の困難に出遭われました。ところが、この世の闇を象徴するような迫害が起こった直後に、「ガリラヤの町カファルナウム」という伝道の拠点が与えられました。
ただし、主イエスはナザレと同様に、「安息日に会堂に入られました」(ルカ4:16,31-33)。これこそが、主イエスが「主日に茅ヶ崎香川教会の礼拝堂に」臨在される(マタイ18:20)ということの根拠になっています。“霊”の力によって、主イエス・キリストの言葉とその恵みがそこに再現されています。主イエスによるガリラヤ湖畔の開拓伝道以来、それは世界の隅々に至るまで拡大されています(ルカ4:37)。
「イエスは人々を(言葉により)教えておられた」⇒「人々はその(言葉の)教えに非常に驚いた」というように、御言葉による宣教に重点が置かれていました。というのも、まずはガリラヤの民衆に、主イエスの「言葉」が、世の知恵や「むなしい言葉」(エレミヤ書7:8)とは全く異なるものであることを「教え」ねばならないからです。
その「教え」についてはすでに、ナザレにおいて「安息日に会堂で」説き明かされました(ルカ4:16-27)。要約すると、「わたしは貧しい人に福音を告げ知らせる」との主イエスの宣告のうちに、聖書朗読(イザヤ書61:1-2)と説教が行われました。それは、「わたしはあなたたちの罪を背負う。もう一度、やり直しなさい。今日、出発しよう」との招きでありました。残念ながら、「これを聞いた(ナザレの)会堂内の人々は皆憤慨し、総立ちになって、イエスを町の外へ追い出しました」(ルカ4:28-29)。このような「憤慨」や「いらだち」(使徒4:2)は、福音を拒む態度の根源にあるものです。
それに対し、カファルナウムの会堂に集っていた人々の反応は、「人々はその(言葉の)教えに非常に驚いた」ということであります。「驚いた」ことが、御言葉の理解から信仰の芽生えへとつながっていくのかは、不明です。しかし、悪霊の追放と病気のいやしを目撃するのに先んじて、「(言葉の)教えに非常に驚いた」(ルカ4:32,36)のは、神の御心に適うものでありました。
「その言葉には権威があった」という「権威」とは、一体何でありましょうか?
主イエスが「言葉」によって現された「権威」は、「すべての支配、権威、勢力、主権、あらゆる名の上に置かれる」(エフェソ1:21)ものでありました。それは「権威」の語源の通り、主イエス・キリストの「内から出てくる」ものであります。だからこそ、主イエスのやさしい言葉にもたとえ話にも、「権威」が宿っているのです。
要するに、「神は、この力をキリストに働かせて、キリストを死者の中から復活させ、天において御自分の右の座に着かせた」(エフェソ1:20)というのが、「権威」ある福音です。わたしたちは、「言葉」をもって告げ知らされた、この福音(ルカ4:18)を正しく聞かねばなりません。ひたすらに“霊”の導きによって聞くことです。
次に、③主イエスの「言葉」による宣教から④悪霊の追放へと移っていきます。それによって、会衆の目の前に、主イエスの「権威」が具体的に示されます。
Ⅱ ああ、ナザレのイエス、かまわないでくれ
ルカ福音書4:33-34――
33 ところが会堂に、汚れた悪霊に取りつかれた男がいて、大声で叫んだ。34「ああ、ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ。」
ここで、ハプニングが起こりました。「安息日に会堂で」、聖書朗読と説教の最中に起こったハプニングにほかなりません。主イエス・キリストの「内から出てくる」ものという「権威」が、主の「言葉」のみならず「行い」・御業によって現されます。
「ああ、ナザレのイエス、かまわないでくれ」……主イエスと敵対する勢力からの、「ああ」との嘆きであると同時に、証言です。これによって、主イエスと「汚れた悪霊」との関係が明確にされます。「汚れた悪霊」という闇によって、主イエスの「正体」が照らし出されるのです。まずは、悪霊の「正体」から捉えることにしましょう。
「かまわないでくれ」の直訳は、「わたしとあなたの間にどのような関係がありますか」となります。裏を返せば、「わたし」(悪霊)は「すべての支配、権威、勢力、主権」の面で、「あなた」よりも優位に立っている、という関係を壊さないでくれ、ということになります。まことに虫のいい、もったいぶった言い方です。しかしもちろん、自分の思いどおりにやらせてくれ、との発言は看過できません。
ところで、旧新約聖書には、この「当惑した悪霊の叫び声」に類似した言葉が、少なからず見出されます。二つ例を挙げましょう。
列王記上17:18――
彼女(サレプタの女)はエリヤに言った。「神の人よ、あなたはわたしにどんなかかわりがあるのでしょうか。あなたはわたしに罪を思い起こさせ、息子を死なせるために来られたのですか。」
マルコ福音書5:35――
イエスがまだ話しておられるときに、会堂長(ヤイロ)の家から人々が来て言った。「お嬢さんは亡くなりました。もう、先生を煩わすには及ばないでしょう。」
この二つの出来事では、「神の人」の前で、愛する息子または娘が死んだ状態になっています。もはや、その母親や家の人々には手の施しようがありません。
このように、「かまわないでください」、「あなたに関係ないことです」、そして、「もう、煩わさないでください」との慇懃な拒絶を並べてみると、人間の内面が見えてきます。すなわち、その拒絶に背後には、諦め・絶望があるということです。それ故に、本来、恵みを与えてくれる「神の人」との関係を断とうとするのです。
そうして、拒絶や絶望に取りつかれると、何でも周りのものを恐れてしまうことになります。その恐れが、「我々を滅ぼしに来たのか」との問いに証言されています。「正体は分かっている。神の聖者だ」と言うのですから、そのお方に救いを求めればよいのですが……。
そこで、主イエスの側から、憐れむべき一人の男を助け出されます。
Ⅲ 悪霊は何の傷も負わせずに出て行った
ルカ福音書4:35――
イエスが、「黙れ。この人から出て行け」とお叱りになると、悪霊はその男を人々の中に投げ倒し、何の傷も負わせずに出て行った。
主イエスは、言葉巧みな悪霊の抵抗を見抜いておられました。「黙れ」と命じて、「神の聖なる神殿」(Ⅰコリント3:17)なる会堂から「汚れた悪霊」を追放されます。
「悪霊はその男を人々の中に投げ倒し、出て行った」というのは、ただの奇跡ではありません。そうではなく、「言葉」の「権威」による主イエス・キリストの支配のもとに、悪霊の追放や病気のいやしが行われるということの一貫(序に提示した③⇒④のつながり)なのです。そのようにして、「神の国」がわたしたちの間に実現しようとしているのです。
そして、悪霊から解放された男に関して、「何の傷も負わせずに」と証言されています。これで思い出すのは、「燃え盛る炉に投げ込まれた三人」の物語です(ダニエル書3章)。この三人は、神から知識と才能を賜った、ユダ族の若者たちでありました。
ユダ族の若者たちをねたんだ、バビロニアの侍従長や貴族は、信仰深い人々を抹殺する罠を仕掛けました。 それで、バビロニアの偶像を拝まないとの咎により王に訴えられて、三人の若者は罰を受けることになりました。
ダニエル書3:21,27――
21 彼らは上着、下着、帽子、その他の衣服を着けたまま縛られ、燃え盛る炉に投げ込まれた。
その後、三人が炉の中から出てきて……
27 総督、執政官、地方長官、王の側近たちは集まって三人を調べたが、火はその体を損なわず、髪の毛も焦げてはおらず、上着も元のままで火のにおいすらなかった。
奇しくも、「何の傷も負わせずに」と「火はその体を損なわず」とは同じです。「いつもの七倍も熱く燃やされた」炉の炎(ダニエル書3:19)というのは、まるで悪霊の軍団(ルカ8:30)を象徴しているかのようです。しかし、主イエスが男から悪霊を引き離して、元に戻されたように、「神は御使いを送ってこの僕たちを救われました」(同上3:28)。
王宮にいた若者たちも、会堂にいた男も、「わたしの霊はなえ果て 心は胸の中で挫ける」(詩編143:4)というような試練に巻き込まれました。しかし、そのような人間の弱さの中に、神の恵みと救いが現されました。
Ⅳ お前たちはこのむなしい言葉に依り頼んでいる
しかし見よ、お前たちはこのむなしい言葉に依り頼んでいるが、それは救う力を持たない。
主イエスの「言葉」に「権威と力」が宿っていることを知る前に、諸国民の預言者として召し出されたエレミヤの「言葉」を読んでみましょう。
初めに思い起こしておきたいのは、エレミヤが召命を受けた時のエピソードです。
エレミヤが「ああ、わが主なる神よ わたしは語る言葉を知りません。わたしは若者にすぎませんから」と言うと、主なる神はエレミヤに、「若者にすぎないと言ってはならない。わたしがあなたを、だれのところへ 遣わそうとも、行って わたしが命じることをすべて語れ」と答えられました(エレミヤ書1:6-7)。
幸いにも、ユダの民のもとへ遣わされる前に、エレミヤは自分の言葉ではなく、ひたすらに「主の言葉」を語り続けるという決心をさせられました。これによって、自分は、聖書に通じた「祭司の子」(エレミヤ書1:1)であるという誇りを捨て去ったに違いありません。
そうして、モーセ(出エジプト記4:10)のように元来は「口が重く、舌の重い」エレミヤが、「主の神殿の門に立ちました」。「主を礼拝するために、神殿の門を入って行くユダの人々」に、「言葉をもって呼びかける」ためです(エレミヤ書7:1-2)。
それでは、何故に、神殿で礼拝を行おうとしている人々が「むなしい言葉に依り頼んでいる」のでしょうか? エレミヤはその理由を見抜いています……「なぜなら、お前たちは勝手に自分の言葉を託宣とし、生ける神である我らの神、万軍の主の言葉を曲げたからだ」(エレミヤ書23:36)。彼らは、「主の託宣(言葉)」を「自分の言葉」にすり替えていたのです。それに対し、主なる神は、「わたしはお前たちを投げ捨てる」、また、「わたしはその人とその家を罰する」と警告されていました(同上23:33-34)。
人間の性というものは、どの時代、どの場所においても、そんなに変わらないものなのでしょうか。およそ600年後、ギリシアのコリントでも同様の「すり替え」(ヒューマン・エラー)が起こっていました。
パウロはこれまた礼拝者である、コリント教会の一部の人々に、「だれも自分を欺いてはなりません」(Ⅰコリント3:18)、すなわち、「だれも思い違いしてはなりません」と戒めました。というのも、罪に陥っている人間が、「神の知恵」を「世の知恵」に替えるという「思い違い」を起こしていたからです。
ではなぜ、そのような「思い違い」・「すり替え」が生じるのしょうか。要約すると、パウロは以下のようにその理由を明らかにしています。
すなわち、彼らが「肉の人」で、「神の霊に属する事柄を受け入れない」(Ⅰコリント2:14、3:1)、その上、彼らは一見、豪華絢爛な「この世の支配者たちの知恵」(同上2:6)に毒されてしまっている、結局、彼らは神の前においてすら、自分を誇っている(同上1:29)ということです。
このような人々に対し、エレミヤはただ神の審判を告げるだけだったのでしょうか。そうではありません……「それ(むなしい言葉)は救う力を持たない」。
否定的な文脈の中にも、エレミヤは神の救済計画を物語っています。「主は我らの救い」と呼ばれる神(エレミヤ書23:6)に立ち帰るように、と繰り返し告げています(同上3:7、18:11、31:21)。
今、神殿に上って来た人々にとって大切なのは、「わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す」(エレミヤ書31:33)という神の「言葉」に耳を傾けることです。“霊”の導きにより、神の「言葉」の「力」にあずかることです。
そうすれば、神との正しい関係が回復されます。自己中心に陥れていた「思い違い」が消え去ります。エレミヤが孤立し嘲笑される状況下で、大胆に神殿の門で説教しているのは、そのためです。
ルカ福音書4:36-37――
36 人々は皆驚いて、互いに言った。「この言葉はいったい何だろう。権威と力とをもって汚れた霊に命じると、出て行くとは。」 37 こうして、イエスのうわさは、辺り一帯に広まった。
「人々は皆驚いて」という衝撃のうちに、「悪霊の追放」ではなく、「権威と力のある言葉」に、会衆の関心が向けられました。しかも、その「権威と力」というように、「力」が付け加えられています(他にユダの手紙1:25、ヨハネ黙示録12:10)。
なぜ、主イエスの「言葉」に「力」が必要なのか、二つの点から答えましょう。
一つは、「権威」と同様に、「力」は主イエス・キリストの「内から出てくる」ものです。ですから、「力のある言葉」はおのずから実を結びます。すなわち、「神は言われた。『光あれ。』」こうして、光があった」(創世記1:3)というように、それは、現実化されます。
主イエスの「言葉」によって、神の創造力が発揮されます。時には、その「力」が悪霊の追放や病気のいやしのために用いられます。そのようにして、救われた人はしばしば「賛美」(ルカ5:25、13:13)という「言葉」・歌をもって人々に福音を伝えます。
もう一つは、今述べた「力」の現実化と関連するのですが、主イエスが世の終わりに向けての戦いを見据えておられるからです(ルカ21:9)。その時、キリスト者の苦悩は深まります。そうした艱難や迫害が起こる時、主イエスの「言葉」はまさに「力」ある砦(サムエル記下22:33)として依り頼むことができます。
主なる神は、「あなたを憎むすべての者」や「あらゆる重い病気」から守ってくださいます(申命記7:15)。悪霊や偶像に惹かれてはなりません。わたしたちが御言葉の宣教に励むとき、わたしたちは主イエスと同様に、“霊”の「力」に満たされます。神は主イエス・キリストによって、耐え忍んでいる人々に、「幸いあれ」と言って祝福しておられます(ルカ6:22-23)。
「こうして、イエスのうわさは、辺り一帯に広まった」……主イエスは故郷ナザレから追い出されましたが、ガリラヤ湖畔に伝道の拠点が造られました。心を挫くようなつまずきがただちに、“霊”の導きによって乗り越えられました。
ナザレとカファルナウムとで主イエスは、神中心の伝道と生活に何も変更など加えておられません。主イエスは「安息日に会堂に入る」のを基軸に、その地方を巡る旅を続けられました。
そうして、おびただしい群衆の前に、③言葉には権威と力があることが教える⇒④悪霊の追放と病気のいやしを行う、という主イエス・キリストの御姿が現されました。主イエスは終わりの時に向けて、世界の隅々に届けられるよう、「権威と力のある言葉」をもって教え、そして祈られました。
主イエスの巡り行かれたガリラヤの湖畔、山や丘、家々などは、主を信じる者の原風景であります。礼拝の中で想起すべき、時代と場所に違いありません。ガリラヤの地に蒔かれたからし種は、世界の果てにまで枝を張って大きくなりました(マルコ4:30-32)。
W
〈説教の要約〉
2024年 7月7日 日本キリスト教団 茅ヶ崎香川教会
聖霊降臨節 第8主日
旧約聖書 ダニエル書 4章7節~9節(P.1386)
新約聖書 マルコによる福音書 4章26節~34節(P.68)
説 教「葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど成長する」 小河信一牧師
説教の構成――
序
Ⅰ 土はひとりでに実を結ばせる
Ⅱ 弟子たちはできなかった
……ダニエル書4:7-9
Ⅲ 葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張る
……マルコ4:30-32
Ⅳ 弟子たちにはひそかにすべてを説明された
……マルコ4:33-34
序
主イエスはガリラヤの湖や丘を背景にして、おびただしい群衆に向かって語りかけておられます。その中には、主イエスのそばに呼び集められた、十二人の弟子もいます。
主イエスは「たとえでいろいろと教えられました」(マルコ4:2)。これほど集中的にたとえを語られたのは、これ以後にはありませんでした(比較参照:マルコ7:15、12:1-11)。きっとそれらのたとえは、主イエスの周りにいた人々の間で語り継がれたことでしょう。そして、たとえとその説明は地域や民族の垣根を越えて伝え広められたに違いありません。
そこで本日は、「たとえ話の集会」で語られた、最後のたとえ、二つを読んでみることにします。一方、たとえの題材は、ガリラヤの民衆の生活の中から採られています。他方、その主題は、自然や大地に根差しつつも、神の国を指し示しています。つまり、主イエスは、人々に寄り添いながら、神の愛と義の支配する中に生きる者として造り変えられるよう導いておられるのです。
見よ、あなたがたの目の前に、主イエス・キリストがおられます! その行いと言葉によって、神の国が来ています。あなたの目に、主イエスはどのようなお方として写りますか。
大切なのは、これまで自分に隠されていたものが、主イエス・キリストによって明らかにされるということです。ですからそれは、これまで罪と病と死の「闇に閉ざされた国」(詩編143:3)で悩み苦しんでいた人々への福音です。
その暗黒の世界から脱出するには、どうすればよいのか……そのこともまた、主イエスが人々を招いて、教えられます。たとえをたくさん聞いて、「聞く力」(マルコ4:33)を鍛えなさい! 今はこの一点に集中しましょう。それでは、「成長する種」のたとえ、そして、「からし種」のたとえを順に取り上げます。
Ⅰ 土はひとりでに実を結ばせる
26 また、イエスは言われた。「神の国は次のようなものである。人が土に種を蒔いて、27 夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。28 土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる。29 実が熟すと、早速、鎌を入れる。収穫の時が来たからである。」
初めに以下のことを確認します。
「成長する種」と「からし種」とのたとえは共に、「神の国」のたとえであると明記されています(マルコ4:26,30)。この二つのたとえは、「種が土(地)に蒔かれる」という状況設定は同じなのですが、メッセージの内容は異なります。
しかし、「成長する種」と「からし種」のたとえが並置されていることからも分かるように、それぞれのメッセージを合わせて汲み取ると、「神の国」がどのようなものか、より明瞭になります。ですから、メッセージの上で、「成長する種」と「からし種」のたとえ、それぞれどこに力点が置かれているのか、しっかりと見極めましょう。
では、「成長する種」のたとえを読み取りましょう。そこでまず気になるのが、「ともし火」と「秤」のたとえの前に語られていた「種を蒔く人」のたとえ(マルコ4:1-9)との関係です。
今、「種を蒔く人」のたとえの詳細は振り返りませんが、一点だけ、「成長する種」のたとえとの違いを確認しておきましょう。
一方、「種を蒔く人」のたとえでは、「種を蒔く人」は主イエス・キリストであると示唆されていました。なぜなら、「神の国の秘密が打ち明けられる」(受動態! マルコ4:11)というたとえの結びから、「種を蒔く人」は主イエス・キリストであると「教えられる」(同上4:2)のが自然だからです。挫折に屈しない様子(同上4:4-7)も、主イエスを写し出していると言えます。
他方、「成長する種」のたとえでは、「人が土に種を蒔いて、夜昼、寝起きしている」、また、「どうしてそうなるのか、その人は知らない」と描写されています。その「人」(アンスローポス 人間)の知らなさ・無理解が際立たされています。ということは、その「人」は主イエスではなく、普通の人間であると言えるでしょう。
このように、たとえごとに、「種を蒔く人」が誰を指すのか、切り替えていくところにも、神の知恵が現れています。わたしたちも、その知恵を存分に享受したいものです。
そうすると、人間なる「種を蒔く人」が「どうしてそうなる(成長する)のか、知らない」という設定によって、たとえの中心点を浮き彫りにしようとしているのが分かります。すなわち、「土はひとりでに実を結ばせる」というのが、ここで主イエスが告げようとしておられる「神の国」についての重要なメッセージだということです。
ここでわたしたちは、農業に関わるこの世の知恵を振り回そうとすると、意味不明になります。いや、種を育てる人間は大概、草取りや施肥をしているし、長年の経験により「芽を出して成長する」ことに無知とは言えない、と反論したいでしょうが……。
しかし、先にお話ししたように、主イエスは、一方、ガリラヤの民衆の生活に立脚しながらも、他方、その民衆が神の愛と義の支配下に置かれるよう御言葉を宣べ伝えておられます。主イエスがたとえの教えによって目指していることは明確です。
「どうしてそうなるのか、知らない」ままに民は、安穏と「夜昼、寝起きしています」。ここでわたしたちは、「夕べがあり、朝があった」(創世記1:5)との天地創造における神の御業に注目したいと思います。この聖書の記事は、現代のイスラエルにおいても、一日は「夕べ」から始まるいうほどに影響を及ぼしています。
つまり、「どうしてそうなるのか、知らず」に、「夜昼、寝起きしている」こと自体がすでに、神の平和を象徴しているということです。神の安息の中で、わたしたちは、「土はひとりでに実を結ばせる」ことの背後に、何があるのか、気づかねばなりません。それが、メッセージの中心点を理解することにつながります。
「ひとりでに」、すなわち、自動的という言うことか、「そりゃ、楽だわ」だけでは、主イエスによるたとえを「聞く」ことにはなりません。無味乾燥な報告文のように、「土はひとりでに実を結ばせる」との一句を聞いてはなりません。聖霊に導かれるならば、この「成長する種」のたとえに正しく耳を傾けられるのを実証した人がいます。それが、使徒パウロです。
コリントの信徒への手紙 一 3:7――
ですから、大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもなく、成長させてくださる神です。
パウロは自らのコリントでの開拓伝道に「当てはめて」、このような「霊的なものによって霊的なことを説明しました」(Ⅰコリント2:13、4:6)。それによって、「成長する種」のたとえの中心点が射貫かれました。
要するに、神がすべてをなされる、持続的に「種を蒔く人」や「水を注ぐ者」を見守っているのは、神しかおられないということです。人が眠っている間も、神が寝ずの番をしておられます(出エジプト記12:42)。預言者イザヤは、「美しいぶどう畑」について、「荒らされないように、主なるわたしが夜も昼も監視している」(イザヤ書27:3 私訳)と述べています。このように、主イエスによってその到来が告げられた「神の国」(マルコ1:15)は、ひとえに神の御力によって成長していくのであります。
それならば、「土はひとりでに実を結ばせる」ではなく、「神が実を結ばせる」とおっしゃれば、誤解も何もないでしょう、と言われますか。しかしそれでは、「たとえ話の集会」の一貫性が壊されてしまいます。それに、おびただしい群衆の中には、たとえを「聞く力」が養われつつあった人々が少なからずいたでしょうから。
最後に、想定される疑問に対する答えを付け加えます。
「土はひとりでに実を結ばせる」との一句が「神がすべてをなされる」とのメッセージであるのは分かったけれども、「植える者」(教会の土台を据える者)や「水を注ぐ者」(それを建つぐ者)の働き(Ⅰコリント3:10,12)も看過できないのでは、という疑問です。
ここでも、三つ前(故にその連関は明々白々です)の「種を蒔く人」のたとえ(マルコ4:3-9)を思い起こしましょう。その話の中では、「種を蒔く人」は主イエス・キリストであると示唆されていました。「種は芽生え、育って実を結び、あるものは三十倍、あるものは六十倍、あるものは百倍にもなった」(同上4:9)というのも、主イエスの豊かな恵みを現しています。それは、わたしたちの思いをはるかに超えるものです。
しかし、ある意味、それに対比される形で、「成長する種」のたとえには、人間なる「種を蒔く人」が登場しました。二つのたとえの対比によって示されたのは、「人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ」(マルコ10:27)ということです。これは、「それでは、だれが救われるのだろうか」(同上10:27)との弟子たちの問いに対する主イエスの回答です。
ご安心ください、「神の畑」には、すべての人が招かれています(Ⅰコリント3:9)。「植える者」、「水を注ぐ者」、そして安気に「夜昼、寝起きしている」人(霊的に目覚め、悔い改めるなら尚更)も大歓迎です。なぜなら、「わたしたちは神のために力を合わせて働く者である」からです(同上3:9)。
次の「からし種」のたとえに入る前に、たとえならぬ、人の夢を読み解いてみましょう。その夢の中に「大きな木」が出てくる点で、「からし種」のたとえを理解する、良き備えとなります。
Ⅱ 弟子たちはできなかった
ダニエル書4:7-9――
7 眠っていると、このような幻が頭に浮かんだのだ。
大地の真ん中に、一本の木が生えていた。
大きな木であった。
天に届くほどの高さになり
地の果てからも見えるまでになった。
9 葉は美しく茂り、実は豊かに実って
すべてを養うに足るほどであった。
その木陰に野の獣は宿り
その枝に空の鳥は巣を作り
生き物はみな、この木によって食べ物を得た。
賢者ダニエルの夢解きについて考える前に、まず、夢を見た人物や時代などに関して背景を説明しましょう。
この夢を見たのは、バビロニア帝国の王ネブカドネツァルです。彼は前587年、パレスチナに遠征し、南ユダ王国を滅ぼしました。そして、バビロンの地に、ユダヤの王はじめ指導者や民衆などを捕囚として連行しました(歴代誌下36:-20)。異教の地で、ユダヤの民は神礼拝をささげるのが、困難な状況に陥りました。
そうした中で、ユダ族出身の四人の少年たちが、神によって立てられました。神から知識と才能を恵まれた少年たちは、ネブカドネツァル王によって宮廷に召し出されました。
一夜、ネブカドネツァル王は眠りの中に恐ろしい光景を見て、悩まされました。大勢のバビロンの知者を召集しましたが、その夢を解釈することは、誰にもできませんでした。そこで最後に、王はダニエルを呼び出して、夢の話をし始めました。上に引用したのは、その夢の内容の一部になります。
ユダヤの民にとっては仇敵の王が、「わたしネブカドネツァルは……」(ダニエル書4:1)と言って、ダニエルに向かって話しています。ユダヤ人の最大の敵、異邦人の言葉が、「聖書」(の一文書であるダニエル書)になっています。ここら辺りが「聖書」の奥深さでありましょう。異邦の王は決して神への冒瀆をなしているのではありません。今、「わたし」として神の御前に立たされています。賢者ダニエルを通し、神の知恵にあずかろうと、へりくだっています。
王の夢のストーリーを追ってみましょう。
「その木は成長してたくましくなり 天に届くほどの高さになり 地の果てからも見えるまでになりました」。その後、「見張りの天使」の命令でその木は「切り倒されます」(ダニエル書4:10-11)。そして、「切り株と根が地中に残されます」。
王は、これを聞いて驚いている様子のダニエルに解釈するよう懇願します。やおらダニエルは「王様」と呼びかけて、その解釈を告げます。要点を引用すると……
「その木はあなた御自身です。あなたは成長してたくましくなり、あなたの威力は大きくなって天にも届くほどになり、あなたの支配は地の果てにまで及んでいます」。「天使はこう言いました。この木を切り倒して滅ぼせ。ただし、切り株と根を地中に残し、これに鉄と青銅の鎖をかけて野の草の中に置け」。「これはいと高き神の命令で、わたしの主君、王様に起こることです」(ダニエル書4:19-21)。
では、この夢の中心メッセージは、一体どんなことなのでしょうか?
それは端的に言えば、「わたしネブカドネツァル」に対し、主なる神こそが、その繁栄と没落の鍵を握っておられるということです。「神の秘められた計画」(Ⅰコリント2:1)は、異邦の世界にまで、神に敵対している権力者にまで及んでいることが、一夜の夢によって開示されました。
この場面でダニエルは、神が愛と義をもって全世界を支配していることを告げる宣教者として用いられました。人質に捕られている身のダニエルですが、臆するこくなく、バビロンの王にその末路を告げました。
ここに、「その木が成長して大きくなって豊かに実を結ぶ」(ダニエル書4:17-18)かどうかは、ひとえに主なる神の御心と御業に拠るものであるとの霊的な説明が示されました。これは確かに、主イエスによる「成長する種」と「からし種」のたとえにおいて、その底流に流れている見方です。
Ⅲ 葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張る
マルコ福音書4:30-32――
30 更に、イエスは言われた。「神の国を何にたとえようか。どのようなたとえで示そうか。
31 それは、からし種のようなものである。土に蒔くときには、地上のどんな種よりも小さいが、32 蒔くと、成長してどんな野菜よりも大きくなり、葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張る。」
ここには、「成長する種」のたとえに出てきたような「人」(アンスローポス 人間 マルコ4:26)は見当たりません。この点には注意が必要です。直訳すると、「土に(からし種が)蒔かれる(受動態)ときには」(マルコ4:31)という書き方になっています(これを神的受動態と取れば、蒔いたのは神となります 例:マルコ9:2、Ⅰコリント15:4)。次節 4:32の「蒔くと」も直訳は「蒔かれると」(受動態)です。
それでは、「からし種」のたとえで強調されているものは、一体何でしょうか? それは、「からし種」自体にほかなりません。そのことは用語を見れば分かります。
まず、「からし種」は「からし」(シナピ)+「種・粒」(コッコス)の組み合わせから成っています。次に、「どんな種よりも」には「種」(スペルマ)という別の語が使われています。マルコ福音書4章ではこの節で、満を持していたように、「種」(コッコス)と「種」(スペルマ)とが登場しました。これまでは「種を蒔く」(スペイロー 4:3,4他)という動詞、ならびに、その名詞形の「種」(スポロス 4:26,27)が活用されていました。また、マルコ福音書4章において、「からし」というように、「種」の種類が特定されているのは、この箇所のみになります。
以上、用語を注視すると、「からし種」のたとえにおいては、「からし」(シナピ)+「種・粒」(コッコス)に脚光が浴びせられていることが分かります。そのように、このたとえでは、この「種」を独特なものとして紹介した上で、「地上のどんな種よりも小さい」と明記しています。つまり、「からし種」の〈小ささ〉をよくよく脳裏に刻んでおきなさい、ということです。
そこで主イエスは、次のようにたとえを語り継がれました……「蒔く(蒔かれる)と、成長してどんな野菜よりも大きくなり、葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張る」。これを聞いたおびただしい群衆の中には、「その木は成長してたくましくなり 天に届くほどの高さになり……葉は美しく茂り、実は豊かに実って……その木陰に野の獣は宿り その枝に空の鳥は巣を作った」(ダニエル書4:8-9)というネブカドネツァルの夢を思い起こした人もいたかも知れません。このくだりを「聖書」からの再話・パロディーとして受け止められるのは、「聞く力」を持った人に違いありません(参照:讃美歌Ⅰ-234番)。
たとえに出てきた「からし」という植物の「種・粒」は、将来現れるような大きさを宿していることの比喩であります。「からし種」は取るに足りないように見えるが、その小ささの中に、「神の国」の大きさが隠されている、それがメッセージの中心点であります。まさにガリラヤで主イエス・キリストにおいて現し始められた「神の国」は、やがて世界の隅々にまで広がっていくことになります。
さて、Ⅰ.の冒頭で、並置されている「成長する種」と「からし種」のたとえからのメッセージを合わせ汲み取ると、「神の国」がどのようなものか、より明瞭になると述べました。そこで、この二つのたとえを見直してみましょう。
「成長する種」 土はひとりでに実を結ばせる 〈神の秘められた計画〉
↓
「からし種」 〈小ささ〉==============⇒〈大きさ〉
どんな種よりも小さい 大きな枝を張る
「からし種」のたとえには、人の思いをはるかに超えた、〈小ささ〉から〈大きさ〉へという成長が示されています。それは一見「ひとりでに」のように思われますが、実はその背後には、〈神の秘められた計画〉がありました。それが、「成長する種」と「からし種」とを重ね合わせると見えてくるメッセージです。
主なる神は、その計画を内示するたとえの語り手として、主イエス・キリストを用いられました。その神の御子が、「神の国」の到来を告げられました。そして主イエスは、すべての人を救い出す十字架と復活の御業によって、「神の国」の隅の親石になろうとされています(マルコ12:10)。
その観点から言うと、主イエスは命を賭けて、群衆に一つひとつたとえを宣べ伝えておられます。だからこそ、「聞く耳のある者は聞きなさい」(マルコ4:1)と勧告されるのです。
Ⅳ 弟子たちにはひそかにすべてを説明された
マルコ福音書4:33-34――
33 イエスは、人々の聞く力に応じて、このように多くのたとえで御言葉を語られた。34 たとえを用いずに語ることはなかったが、御自分の弟子たちにはひそかにすべてを説明された。
ガリラヤ湖畔、カファルナウム(マルコ1:21、2:1)近郊で催された「たとえ話の集会」は、これで終わります。これから、主イエスとその一行はカファルナウムを拠点としながら、対岸のゲラサ人の地方、ナザレ、ティルス地方などを行き巡られます(同上5:1、6:1、7:24)。
ここで、主イエスによる「たとえ話の集会」を振り返りが行われます。
「イエスは、人々の聞く力に応じて、このように多くのたとえで御言葉を語られた」……主イエスはおびただしい群衆に圧倒されることなく、一人ひとりをよくご覧になっておられました。
御言葉の飲み込みの早い人、じっくり考えて理解しようとする人、そして、日常生活の中で実践できるようにと思い巡らす人などがいたことでしょう。主イエスはそうした人々に寄り添いながら、彼らの心の内にある苦悩と疲労、世へと思い煩い、富への欲望など(マルコ4:17-19)を見逃すことはありませんでした。
だからこそ、主イエスは「人々の聞く力に応じて」、きめ細かく対応されました。いずれにしても、求めている人々に対し、「神の霊に属する事柄を受け入れる」(Ⅰコリント2:14)という信仰的な姿勢を培うことに腐心されました。というのも、“霊”に教えられてはじめて、たとえのメッセージの中心点が究められるからです。
「イエスは、御自分の弟子たちにはひそかにすべてを説明された」……これは、十二弟子と一緒に主イエスの周りにいた人々を区別するという趣旨を物語るものではありません。言い換えれば、主イエスにつき従う一部の人を特別視したということではありません。
そうではなく、「ひそかにすべてを説明する」ために、主イエスが十二弟子を呼び寄せた(マルコ9:35、10:32)ということが重要なのです。
マルコ福音書10:32-34――
32 イエスは再び十二人を呼び寄せて、自分の身に起ころうとしていることを話し始められた。
33 「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子は祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して異邦人に引き渡す。34 異邦人は人の子を侮辱し、唾をかけ、鞭打ったうえで殺す。そして、人の子は三日の後に復活する。」
主イエスは弟子たちに「ひそかに」、十字架と復活についての予告を三回されました(マルコ8:31、9:31、10:33-34)。このことが、説明すべき「すべて」のことの中で、「自分の身に起ころうとしていること」の中で、最も重要なことであるのは自明です(Ⅰコリント15:3-4)。
しかし、主イエスの呼び寄せられた弟子たちにとって、それは理解のむずかしいことでありました(マルコ9:32)。主イエスをわきへ連れ出して、いさめる弟子もいました(マルコ8:32)。要は、主イエスご自身が、「ひそかにすべてを説明しよう」と召し出された弟子たちの「聞く力」は、そんな程度であったということです。
それならば結局、弟子たちを召集したこと(マルコ3:13-19)、彼らに「ひそかにすべてを説明された」こと、とりわけ、十字架と復活について予告されたことは、無駄であったのでしょうか。人間の内面性や外敵・サタンの働きを見通すことにおいて、主イエスの側に何らかの落ち度があったのでしょうか。
結
その問題に対する正しい向き合い方は、すでに「種を蒔く人」のたとえ(マルコ4:3-9)に明らかにされています。そのたとえでは、「種を蒔く人」として主イエス・キリストが指し示されている!というのが、理解のヒントになります。
詳しく振り返ることはしませんが、あたかも天から降って来るような形で、「種」が四種類の地に「落ちました」(マルコ4:4,5,7,8)。そこで、「種を蒔く人」の①道端、②石地、③茨の中、④良い土地を巡る放浪の旅が始められます。
そのとき、「種を蒔く人」はその土地の人々の「思い煩いや欲望」や「艱難や迫害」に向き合います。①・②・③の地の人々を憐れみ励まされます。というのも、「種を蒔く人」なる主イエス・キリストは、すべての人が、神の平和のもと、④良い土地に暮らすことを願っているからです。彼らが神の豊かな恵みにあずかるようにと招いておられます。
主イエス・キリストは、弟子たちによる裏切りや否認などに屈することなく、神の大いなる救いを成し遂げられます。主イエスはその時が来るのを待ちながら、繰り返したとえを話して「説明され(原意:解き明かされ)ました」。
主イエスが弟子たちに予告された、十字架と復活の言葉は、根本的には、人に啓示されるものであります。それは、「隠されていた、神秘としての神の知恵であり」、「わたしたちには、神が“霊”によってそのことを明らかに示してくださいます」(Ⅰコリント2:7,10)。
それ故に、「人々の聞く力」は、ただただ“霊”の働きに掛かっています。わたしたちはその力を受け容れる器になっているでしょうか。
“霊”なる神、聖霊が「成長する種」と「からし種」のたとえを解き明かされます。主イエスの息遣いが伝えられます。忍耐強い神がくり返し語ってくださいます。わたしたちは今、教会でそれを「聞く」だけで良いのです。そうすれば、わたしたちは大きく成長し、「神の国」に向かって前進していくことができるでしょう。
W
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〈説教の要約〉
2024年 6月30日
聖霊降臨節 第7主日
旧約聖書 詩編143編 1節~12節(P.983)
新約聖書 ガラテヤの信徒への手紙 2章16節(P.344)
説 教「あなたの前に正しい者はいない」 小河信一牧師
説教の構成――
序
Ⅲ 行くべき道を教えてください
……詩編143:11-12
……ガラテヤ2:16
序
新約聖書には、主イエス・キリストの福音、十字架と復活の御業、その神学的な意味が、そのものズバリと書き表されている箇所があります。例えば、ヨハネ福音書3章16節やローマの信徒への手紙8章など。そこに書かれている御言葉によって、主イエス・キリストを信じる信仰が芽生えたり、強められたりします。しかし、福音の本質を説き明かされても、必ずしも信仰を持つようになるとは限りません。
福音に向き合わされているのですが、“霊”の働きが受け止められなかったり、あるいは、その人の心が頑なさや高ぶりに覆われていたりして、行き詰まることがあります。
では、福音に直接向き合ってない……それがズバリとは提示されていない……旧約聖書では更に行き詰まりやすいので、読む意味はないということになるのでしょうか?
わたしは必ずしもそうは言えないと思います。今、新約聖書の福音に密接につながっている詩編を読もうとしています。皆さんはこの礼拝の中で、詩編143編を主題とする説教を聞かれます。
従って、主イエス・キリストを信じる信仰が芽生えたり、強められたりするかどうかは、礼拝後(あるいはしばらくの後)に明白になります。説教者は重い使命を担わねばなりません。
それはともかくも、一般論として、福音そのものを提示していない旧約聖書を読む意義は、どんなことにあるのでしょうか?
それは古来より、キリスト教会が問い、答えてきた問題であります。今、詩編143編の説教の序.として、わたしは次のように答えます。旧約聖書を読む人の観点から……
そこでは、ある意味では新約以上に多彩な霊的な体験や黙想が引き起こされる。
②御言葉の力に自分が引きずり込まれる。
自分は聖別されているのか、罪に汚れているのか、あるいは、「わたしの魂」が健やかであるか、弱っているか(詩編143:8)、いずれにせよ、自分自身で御言葉を読み、自分で主イエス・キリストの福音とのつながりについて考える。
そうしないと、なかなか福音にたどり着けないという側面が、旧約聖書にはある。
ゆっくりと思い巡らしたい人や回り道をしたい人、大歓迎です。“霊”に導かれ、自分が造り変えられていく中で、自分で聖書を読むというのは、何と豊かな霊的体験なのでしょう。こういうタイプの、キリスト教の求道または伝道を望んでいる人も少なからずいることでしょう。
それではご一緒に、パウロが福音の土台とした聖句の含まれる詩編143編を読み味わいましょう。新約と合わせて旧約を読む意義をしっかりと捉えてください。
Ⅰ 御前に正しいと認められる者はいない
わたしに答えてください。
命あるものの中にはいません。
主なる神への祈りで始められています。自分の状況や願望については詳述されていません。それについては、詩編の後半(143:7-12)で具体的になります。しかし、鍵となる語句や表現が出ていますので、それらを基に、メッセージを読み解いてみましょう。
まず、ただひたすら「お聞きください」、「耳を傾けてください」と嘆願していることが注目されます。神が「わたしの祈り」や「わたしの嘆き祈る声」を聞かれているとの信仰をもって叫んでいます。
と言い得るのは、「主」なる神と「主よ」と呼びかけている「わたし」との関係が揺るぎないものだからです。さらに、「御前」(あなたの前)に、自分は「あなたの僕」(詩編143:2,12)であると告白しています。尊ぶべきは、この告白が新約の数少ない類例によって見出されるからです(使徒4:29、ローマ1:1)。
実はこの2節内には、詩人が神に仕える者として、へりくだっている以上に、深い自己洞察が暗示されています。以下に、その深い自己洞察について探究してみましょう。
次の二つの嘆願、「恵みの御業によって わたしに答えてください」と「あなたの僕を裁きにかけないでください」から、「わたし」が神の「義」に直面していることが分かります。前の文の「恵みの御業」は本来、「義」(ツェダカー)と訳すべき言葉です。また、後の文の「裁き」では、神が「義」をもって裁いてくださるのを願っています。
詩人の犯している罪咎は表面に出ていませんが、詩人は、「義」なる神が人間すべての善悪をご覧になっているのを確信しています。「愛」と共に「義」によって、神と詩人との堅い交わりがつくられています。だからこそ、わたしたちの手本となる祈りが湧き出てくるのでしょう。
そこから発せられたのが、「御前に正しいと認められる者は 命あるものの中にはいません」との詩人の信仰告白です。これは、新約の福音を射貫くような罪の表明です。主イエス・キリストの御前に、この言葉を携えて進み出なさい、と勧めるに価する言葉です。
この敬虔な詩人には、自分は「命あるものの中」の例外であるとの高ぶりは見られません。むしろ、自らが「罪人のかしら」(Ⅰテモテ1:15)であると認めたうえで、ユダヤの民と異邦人すべてが「罪の下にある」ことを告げています(参照:ローマ3:9)。
パウロがこのような霊的洞察と告白をもって、主イエスの御前に出たことについては、最終のⅤ.でじっくりと確かめましょう。
Ⅱ 敵はわたしの魂に追い迫る
あなたに向けます。
篤い祈りの基本が提示された詩編冒頭とは異なり、ここでは、詩人の心の揺れ動きが吐露されています。恐怖に取り憑かれた嘆息から過去の想起へ、そして、飢え渇きの中からの賛美へ、と転じていきます。詩人は「御前に正しいとは認められない」にもかかわらず、臆することなく、自分の姿や心情をさらけ出しています。内容的には支離滅裂とも……不信仰なのか信仰的なのか、どっちつかずとも……言えますが、それ故にこそ、詩人への近親感が呼び起こされます。
いずれにしても、泥沼状態からの嘆息や賛美こそ、自分が言葉に表したかったものではないでしょうか。“霊”に導かれて、自分の身心に染み込むほどに、詩人の言葉を噛みしめましょう。やがて、「渇いた大地」に下る夜露と共に、「朝」がやって来るでしょう(詩編143:8)。
詩編143:3――
②わたしの命を地に踏みにじり
③とこしえの死者と共に
闇に閉ざされた国に住まわせようとします。
恐怖に取り憑かれた嘆息が、3連続で吐き出されています。そうして、詩人は「死」と「闇」の底から神を呼び求めています。
詩人は「敵ども」(詩編143:3,12)や「苦しめる者ら」(同上143:12)に取り囲まれています。この「敵ども」は特定されていませんが、自分に襲い来る罪への誘惑や自分の犯す悪行とも見なされます。そこで、「義」なる神の御前で、自分が神に敵対していないか、自分が人を「苦しめて」いないか、省みたいものです。
その時、詩人は「わたしの霊はなえ果て (わたしの)心は(わたしの)胸の中で挫けます」と打ち明けています。「わたしの」率直な告白であり祈りです。人は誰しも、心の内に自分の弱さや貧しさを抱えています。独りでは背負えないほどの重荷に耐えています。
そうしたとき、神に依り頼むのか、それとも、この世の富や知恵にすがりつくのか、が問題になります。人生の土台として、「あなた」なる神と「わたし」との関係を選び取る人は幸いです。その「わたしの霊はなえ果てている」ときに、出来るのは「わたしはいにしえの日々を思い起こす」ということです。詩人はじっくりと自分の人生を振り返り、聖書に沿って神の大いなる救いの歴史を回想します。
すると、回復のきざしが「わたしの魂」に現れます。闇の中に、「あなたのなさったこと」や「御手の業」が走馬灯のように駆け巡ります。衰弱しながらも「わたし」は、親しく「あなた」に寄りかかっています。
そうすると、「あなたに向かって両手を広げ 渇いた大地のようなわたしの魂を あなたに向けます」。外からの力が「わたし」の内に溢れてきます。石清水のように、飢え渇きの中からの賛美が湧き上がります。息を吹き返した「わたしの霊」が、「あなたに向かって両手を広げる」という姿勢を造り出しました。ここに、驚くべき急転回、大逆転が見られます。
神の働き給う歴史の中では、「天にいます神に向かって 両手を上げ心も挙げて言おう」(哀歌3:41)ということが一再ならず起こります。そうした一人ひとりが呼び集められて、礼拝へと発展していきます。詩人にとって今、それは幻かも知れませんが……
Ⅲ 行くべき道を教えてください
詩編143:7-10――
あなたの慈しみについて。
あなたにわたしは依り頼みます。
あなたに、わたしの魂は憧れているのです。
詩人の心の揺れ動き、闇なる部分が完全に消え去ったわけではありませんが、神の“霊”の導きにより、祈りはますます強められていきます。
この詩の冒頭(143:1-2)と同様に、詩人は「主よ、早く答えてください」と嘆願しています。「早く」と言っても焦っているわけではありません。「朝にはどうか、聞かせてください」というように、「朝」が来るのを待っています。
「わたしの霊は絶え入りそうです」との訴えは、前出の「わたしの霊はなえ果て 心は胸の中で挫けます」(詩編143:4)と共に、信仰上の分岐点を示しています。というのも、「わたしの霊」が生気を失っている、すなわち、魂が打ち砕かれ弱くなっている時こそ、神に立ち帰るチャンスだからです。まさに、神の恵みの雨が「渇いた大地のようなわたしの魂」に降り注ぐのが待望されます。そうだとすれば、心の中が空にされたのも、ひと時「御顔をわたしに隠された」神のご計画であったと言えましょう。
人が「息絶えようとする」(なえ果ての別訳 参照:ヨナ書2:8、哀歌2:19)危難を体験したところで、詩人の前途が開かれました。「わたしはさながら墓穴に下る者です」と、主イエスさながらの謙卑をもって、詩人は自分を見つめました。そこで、「行くべき道を教えてください」というように、自らの道を主にゆだねます(詩編37:4,5)。
一つ前の詩編にも、衰弱した「わたしの霊」が、信仰上の分岐点に出合ったことが証しされています。
詩編142:4――
譬えて言うならば、詩人は労苦のうちに山頂に立ちました。霧が晴れました。そして、神がイスラエルの北の山々から南の荒れ野に至るまで、「洞穴」や「小道」すべて……一人ひとりの人生行路……をご存じなのだということを知りました。
だから、詩人は主に、「わたしが行くべき道」をまかせています。だから、心を開いて、「主よ、敵からわたしを助け出してください」、「御旨を行うすべを教えてください」、そして、「恵み深いあなたの霊によって 安らかな地に導いてください」と乞い願っています。
こうして、「あなたはわたしの神」という、「あなた」と「わたし」との交わりは、上からの力によって新たにされました。「安らかな地に導かれる」との確信をもって、現実に立ち向かいます。大切なのは、「わたしの霊」の弱さを受け入れることです。「御もとにわたしは隠れます」との信仰があれば、人の罪悪と誘惑とが吹き荒れるときにも、動揺しないでいることができます。
Ⅳ わたしはあなたの僕なのですから
詩編143:11-12――
11 主よ、御名のゆえに、わたしに命を得させ
恵みの御業によって
ことごとく滅ぼしてください。
「Ⅱ 敵はわたしの魂に追い迫る」(詩編143:3-6)でも確かめたとおり、「敵」は「わたしの魂を苦しめて」います。その攻撃は、「わたしの魂を災いから引き出してください」と切望するほど、激しくなっています。
ここで、「敵」や「苦しめる者」の実体を明らかにされていません。また、彼らへの憤りが高じて、自分自身を……「わたしの霊」や「わたしの魂」を……見失っているのでもありません。では、この詩編で明確になっているのは、何か、つまり、この詩編のすぐれた特徴は、一体何なのでしょうか?
こう答えるのは不親切かも知れませんが、最初の言葉「主よ、わたしの祈りをお聞きください」から、最後の言葉「わたしはあなたの僕なのですから」へ、がすべてであります。以下、説明しますので、ご安心ください。
この詩人は切々と、人生の遍歴を、その辛苦を物語っています。「闇に閉ざされた国」、「いにしえの日々」、「渇いた大地」、「墓穴」、「安らかな地」……これまで、「わたしが行くべき道」を問い尋ねながら歩んできました。
そこで、詩人が最重要であると知ったのが、「主よ」と祈ること、そして、「あなたの僕」としてへりくだることでありました。そのことが、詩編の最初と最後に歌われていました。
いみじくもその二つは、序.「旧約聖書を読む人の観点から」のポイント①と②に符合します。すなわち、①祈りの内に“霊”の執り成しを願う、そして②神の御前に自分が引きずり出される、ということです。それ故に、その観点からも、「主よ、わたしの祈りをお聞きください」との嘆願と、「わたしはあなたの僕なのですから」との告白の重みを読み取らねばなりません。
詩人はそのような言葉をもって、「あなた」なる神と「わたし」との堅いつながりを昭示しました。そして、霊性に満ちた詩人は、「御前に正しいと認められる者は 命あるものの中にはいません」(詩編143:2)と言い表しました。Ⅰ.で、これは「新約の福音を射貫くような罪の表明である」と、わたしは評しました。つまり、福音を信じるわたしたちの自己認識(アイデンティティー)にほかならないということです。
パウロの書簡を通して、どのようにこの洞察に満ちた告白が受け止められているか、読んでみることにしましょう。
Ⅴ イエス・キリストへの信仰によって義とされる
けれども、人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされると知って、わたしたちもキリスト・イエスを信じました。これは、律法の実行ではなく、キリストへの信仰によって義としていただくためでした。なぜなら、律法の実行によっては、だれ一人として義とされないからです。
では、どのように、「御前に正しいと認められる者は 命あるものの中にはいません」(詩編143:2)との言葉が、パウロの書簡……ガラテヤ2:16にローマ3:9,20を合わせて……に引用されているのか、吟味しましょう。
①「なぜなら、律法の実行によっては、だれ一人として義とされないからです。」ガラテヤ2:16
②「ユダヤ人もギリシア人も皆、罪の下にあるのです。」ローマ3:9
③「律法によっては、罪の自覚しか生じないのです」ローマ3:20
すぐに(①と③によって)気づくのは、「御前に正しいと認められる者は いません」との告知に抗うかのように、「義とされる」ために「律法の実行」が試みられたということです。その典型が、ファリサイ派の律法学者であります。律法の遵守をモットーとするファリサイ派でしたが、「律法の中で最も重要な正義、慈悲、誠実はないがしろにしている」(マタイ23:23)という有り様でした。
では、「律法を実行する」(ローマ3:20、ガラテヤ2:16)ことの、どこに問題があるのでしょうか? モーセの受け取った「律法」……例えば十戒(出エジプト記20:1-21)……には、神の御心が表されているのではないか、という反論も予想されますが……。
「人が律法の実行によっては義とされない」理由は、以下の通りです。
「神の恵みに対する信頼をもって行い、そして、神によって造られ生かされていることを喜んで行うというのではなく、いつの間にか、自分の力に対する確信をもって、自分の誇りをもって、行うということになってしまっている」からです(竹森満佐一)。要は、「律法を実行する」人が、神によって生かされていない、真に神によって救われていない、ということです。
その自分を頼りとする傲慢な姿は、「主よ、敵からわたしを助け出してください」(詩編143:9)と祈る謙遜な詩人とは対照的です。詩人は、神の「御手の業」(同上143:5)によって、罪咎を背負っている「あなたの僕」が助け出されるのを待っています。「打ち砕かれ悔いる心」(詩編51:19)をもって、嘆き祈り続けています。神が詩人を「御前に正しいと認められる」日は必ず訪れることでしょう。
時満ちて、キリストがわたしたちの間に宿られました(ヨハネ1:14)。そして実際に、「けれども、人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされると知って、わたしたちもキリスト・イエスを信じました」(ガラテヤ2:16)というキリストの群れが現れました。そのような信仰者によって、小アジアのガラテヤに、また、ローマに、教会が建てられました。
その人々は、詩編143:2の御言葉に沿って、自らを「御前に正しいと認められない罪人」と告白し悔い改めました。その人々の「信仰が義と認められて」(ローマ4:5)、救われたのは、ただただ神の恵みによるものです。
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